キュリー夫人
宮本百合子一九一四年の夏は、ピエール・キュリー街にラジウム研究所キュリー館ができあがって、キュリー夫人はそこの最後の仕上げの用事と、ソルボンヌ大学の学年末の用事とで、なかなか
ところが思いがけないことがおこった。七月二十八日に、オーストリアの皇太子がサラエヴォで暗殺された。世界市場の
「愛するイレーヌ。愛するエーヴ。事態がますます悪化しそうです。私たちは、今か今かと動員令を待ち受けています。
しかし、戦争にならなければそちらへ行けるでしょうと約束した月曜には、独軍が宣戦の布告もせずに武力にうったえながらベルギーを通過してフランスに侵入した。
パリの母は、ふたたび娘たちに書いた。
「おたがいにしばらくは、通信もできないかもしれません。パリは平静です。出征する人たちの悲しみは見られますが、一般に好ましい印象を与えています。
彼女はおちついた文章のうちに情熱をこめて、小国ながら勇敢なベルギーは容易にドイツ軍の通過をゆるさないだろうとフランス人はみな希望を持ち、苦戦は覚悟のうえだけれど、きっとうまくゆくだろうと信じていること、そして「ポーランドはドイツ軍に占領されました。彼らが通過した後には何が残るでしょう。
キュリー夫人の不幸な故国ポーランド。しかし、愛と
八月二日にパリの動員がはじまると同時に、開設されたばかりであったラジウム研究所は、たちまちからっぽ同様になってしまった。男の人々はそれぞれ軍務についた。研究所に残っている者といえば、心臓が悪くて軍務に適さない機械係のルイと、リンゴを三つ重ねたくらいの大きさしかない
キュリー夫人は冷静に、パリの置かれている当時の事情を観察して、たといパリが包囲され、爆破されても、新しくできたばかりの研究所は自分の力で敵の手から守らなければならないと考えたからであった。研究所にある一グラムのラジウムを、人類と科学とのために侵略者の手から安全にしなければならないと決心したからであった。彼女の心には、直覚的にささやくものがあった。
八月の終わり、キュリー夫人は十七になっているイレーヌにあてこう書いた。
刻々、パリの危険がせまってきた。キュリー夫人は貴重な一グラムを、安全なボルドー市へ移すことにきめた。一グラムのラジウムとは、
パリからボルドーへと向かってきた旅行の間、彼女はまるで人目に立たずにすんだ。けれども今、重い責任をはたしてパリに帰ろうとする時になると、彼女のまわりには
たった一人の非戦闘員である彼女を乗せた軍用列車は、信じられないほどののろさで平野をよこぎりながら、進んだり止まったりしてパリに近づいた。昨日、研究所を出てから何一つ食べる
キュリー夫人が帰り着いたパリは、脅威を受けながらも
二人の娘たちはまだ、ブルターニュにいた。マリアは彼女たちに向かって、この新しい希望を語り、
パリに動員が始まったそのときから、キュリー夫人は彼女の第二の母国、
事態の
キュリー夫人は科学上の知識から、大規模の
けれどもX光線の設備に、なくてならない電気さえひかれていないような野戦病院へ
戦傷者であふれた野戦病院から、放射線治療班の救援を求める通知がキュリー夫人あてにとどく。マリアは大急ぎで自分の車の設備を調べる。兵士の運転手がガソリンをつめている間に、マリアはいつもながらの小さい白カラーのついた黒い服の上に
野戦病院へ
二十台の「小キュリー」のほかに、彼女の努力で治療室が二百作られ、二百二十班の治療班が組織された。彼女は交戦中フランス、ベルギーの三、四百の病院をたえずまわったほか、一九一八年には北イタリアまで活動をひろげた。そこで彼女は、放射能を持つ物質の資源を調査したのであった。専門の治療者も急速に養成されなければならない。ラジウム研究所でその仕事がはじめられ、三年の間に百五十人の治療看護婦が生まれた。
このとき二人の娘たちは、もうパリに帰っている。十七歳のイレーヌは放射学を勉強し、ソルボンヌの講義もかかさず聞きながら、まず、母親の装置の操作を受け持ったが、やがて救護班に加わった。ラジウム研究所の治療者養成のための講義では、若いイレーヌも母といっしょに先生として働いた。イレーヌは年こそ若いけれども、この困難と活動の期間に、キュリー夫人にとって二人とない助手、相談相手、友人として成長したのであった。
四年間のキュリー夫人の活動が、どんなに激しく広範であったかということは、小さい娘であったエーヴの書く手紙の
キュリー夫人は、特別よい待遇をあたえられたとしても
マリア・キュリーをこのような活動に立たせた力は何であったろう。日夜の過労のあいだに彼女の精神と肉体を支えている力は何であったろう。それは、決してせまい愛国心とか
ブロンドの背の高い、両肩のすこし曲がった
「私は、腹を立てるだけ強くないんです」と自分から言っていたピエールが、ドレフュス事件でドレフュス大尉がユダヤ人であるということのために
「人はいちおう疑って見ることができます。人間は自然の秘密を知って、はたして得をするであろうか。その秘密を利用できるほど人間は成熟しているであろうか。それとも、この知識は有害なのであろうかと。が、私は人間は新しい発見から悪よりも、むしろ、善を引き出すと考える者の一人であります。
マリアは、愛するピエールの最後のこの言葉を実現しなければならないと思ったろう。科学の力が、一方で最大限にその破壊の力をふるっている時には、ますます他の一方で創造の力、生きる力としての科学の力、それを動かす科学者としての情熱が必要と思われたにちがいない。
一九一八年十一月の休戦の合図を、マリアは研究所にいて聞いた。うれしさにじっとしていられなくなったマリアが、激しい活動で
フランスの勝利は、マリアにとって二重の勝利を意味した。彼女の愛するポーランドは、一世紀半の
「とうとう私たち(生まれながらに奴隷であり、ゆりかごの中からすでに
「私たちの国が、この幸福を得るために高い代価を
第二次大戦によってポーランドはふたたびナチスの侵略をうけ、南部ロシアのウクライナ地方とともに、もっとも
底本:
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:
1952(昭和27)年8月発行
初出:不詳
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
はるかな道
―宮本百合子
今、わたしの机の上に二冊の本が置かれている。一冊は最近、中央公論社から出版された、
もし、キュリー夫人が『くれない』を読み、その作者を知ったならば、彼女はきっと、そのけがれない女性の心で、この作者のひたむきな心と苦悩とを理解したであろうと。同じ暦の下に歴史が展開されていても、海のかなた、海のこなたでは、歴史の内包している生活の諸条件が、特に社会における女の現実の立場について、非常にちがっている。広い客観の見とおし、そして人間の発展と進歩への道に立って『くれない』を見れば、女主人公、明子の苦悩と努力とは、とりもなおさず、環境のおくれている多くの条件が重荷となって、合理的に、明るく輝かしく生きのびようとする意欲の
この小説は、夫婦ともどもに一定の仕事をもって行く結婚生活・家庭生活について、また、それぞれ独立した社会的存在である夫妻が、仕事の上でたがいに影響しあう微妙な心理について、おびただしい問題を
作者は少なくともこの作品の内部では、それらの二様のものの性質を、現実に作用しあう因子として十分に意識し、その本質を追求し、発展の方向にとらえて観察しつくしているとは
それにもかかわらず、
〔一九三八年十一月〕
底本:
1980(昭和55)年1月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:
1952(昭和27)年10月発行
初出:
1938(昭和13)年11月20日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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キュリー夫人の命の焔
―宮本百合子
けれども、ひとくちに
キュリー夫人伝は、近ごろ非常にひろく多勢の若い人たちに読まれた本でした。おそらく、この雑誌の読者のかたも読んでいられるでしょう。そして、きっといろいろな感動をうけながら読み終えられたことだろうと思います。キュリー夫人は、疑いもなく世界の偉い婦人のうちの一人です。では、キュリー夫人の偉さ、美しさ、私たちの記憶にとどまって困難なときの私たちにとって
伝記を読んだ方々にはご承知のとおりに、マリアは、ポーランドの首府ワルソー〔ワルシャワの英語名。
マーニャは、ワルソーの市中をあちらからこちらへと家庭教師の出教授をして働く
姉のブローニャがパリへ行って勉強する費用を助けるために、自分は三年の間、ポーランドのある地方の貴族の家の住み込み家庭教師として
一八九七年、マリアは長女のイレーヌを生み、彼女の家庭生活と科学者としての生活はいっそう複雑に多忙になったけれども、健康なマリアは、すべての
成功の冠は、一九〇四年、ピエールが四十五歳、マリアが三十六歳の年、ラジウムを発見した業績によって、世界的に彼らの上にもたらされました。ノーベル賞をあたえられた彼らは、科学者として最高の名誉の席につかせられ、学界からおくられる称号・学位の数々は、まるでそういう名誉でキュリー夫妻をかざることを
成功し、
〔一九三九年十二月〕
底本:
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:
1939(昭和14)年12月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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キュリー夫人
宮本百合子-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)露帝《ツァー》
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一九一四年の夏は、ピエール・キュリー街にラジウム研究所キュリー館ができ上ってキュリー夫人はそこの最後の仕上げの用事と、ソルボンヌ大学の学年末の用事とで、なかなか忙がしかった。フランスの北のブルターニュに夏休みのための質素な別荘が借りてあったが、彼女はパリが離れられなくて、まず二人の娘イレーヌとエーヴとを一足先へそちらへやった。お母さんであるキュリー夫人は八月の三日になったならばそこで娘たちと落合って、多忙な一年の僅かな休みを楽しむ予定であった。
ところが思いがけないことが起った。七月二十八日に、オーストリアの皇太子がサラエヴォで暗殺された。世界市場の争奪のため、危機にあった欧州の空気はその硝煙の匂いと一緒に、急速に動揺しはじめた。キュリー夫人は土用真盛りの、がらんとしたアパートの部屋でブルターニュの娘たちへ手紙を書いた。
「愛するイレーヌ。愛するエーヴ。事態がますます悪化しそうです。私たちは今か今かと動員令を待ち受けています。」
しかし戦争にならなければそちらへ行けるでしょうと約束した月曜には、独軍が宣戦の布告もせずに武力に訴えながらベルギーを通過してフランスに侵入した。
パリの母は再び娘たちに書いた。
「お互いにしばらくは、通信もできないかも知れません。パリは平静です。出征する人たちの悲しみは見られますが、一般に好ましい印象を与えています。」
彼女は落着いた文章のうちに情熱をこめて、小国ながら勇敢なベルギーは容易にドイツ軍の通過を許さないだろうとフランス人はみな希望を持ち、苦戦は覚悟の上だけれどきっとうまくゆくだろうと信じていること、そして「ポーランドはドイツ軍に占領されました。彼らが通過した後には何が残るでしょう。伯母さんたちの消息も全く不明です」と伝えている。
キュリー夫人の不幸な故国ポーランド、しかし愛と誇とによって記念されているポーランド。伯母というのは彼女の愛する姉たちである。スクロドフスキー教授の末娘、小さい勝気なマリア・スクロドフスカとして、露帝《ツァー》がポーランド言葉で授業を受けることを禁じている小学校で政府の視学官の前に立たされ、意地悪い屈辱的な質問に一点もたじろがず答えはしたが、その視学官が去ってしまうと、今まではりつめていた気のゆるんだ教室でわっと泣き出した少女時代の思い出。また十七歳の若々しい家庭教師として貴族の家庭で不愉快な周囲に苦しみながらも勉強のためにいくらかずつの貯金をし、休みの時は近所の百姓の子に真の母国の言葉ポーランド語を教えてやったりしていた時代の思い出。ドイツに蹂躙されたときいたときそれはみな新しい思い出となってキュリー夫人の胸に甦って来たであろう。ドイツ軍に掃蕩されようとしているポーランドにはまだその外の思い出もつながれている。「マドモアゼル・マリア」が、その射すくめるようなしかも深い優しさのこもった灰色の目と、特徴のある表情的な口もとの様子などで、いかにも人目を引く才気煥発な教養高い十九歳の家庭教師となった時、そのZ家の長男カジミールとの間に結ばれた結婚の約束のその無邪気な若い二人の申し出はZ氏を烈火のように憤らせZ夫人を失心させるほど驚かした。カジミールは、さんざん嚇かされ、すかされてマリアとの結婚を思いあきらめたが、マリアは、その事で全く居心地の悪くなったZ家からも、契約の期間が終るまでは勝手に立ち去ることができなかった。それからワルソーで暮した月日。思いもかけず、パリにいる姉のブローニャから、彼女をパリへ呼び寄せる一通の手紙を受取った一八九〇年の早春のある日の心持。それらはその苦しさにおいても、ときめきにおいても、恐ろしい忍耐でさえもすべてはポーランドの土と結ばれているものである。そのポーランドに惨《むご》たらしい破壊が加えられている。ドイツの彼らが通過した後には何が残るでしょうというキュリー夫人の言葉は短い。けれども、そこには不幸なポーランドが、ヨーロッパにおけるその位置からいつも両面からの侵略をこうむりつづけてきていることに対する深い憤りと、決してそれに屈しきってはしまわないその運命についての彼女の意味深い回想がこめられているのであった。
八月二日にパリの動員がはじまると同時に、開設されたばかりであったラジウム研究所はたちまちからっぽ同様になってしまった。男の人々はそれぞれ軍務についた。研究所に残っている者といえば、心臓が悪くて軍務に適さない機械係のルイと林檎を三つ重ねたくらいの大きさしかない小使女きりであった。キュリー夫人は「万一の場合にはお母さんはこちらに踏み止まらなければなりません」といっていたその通り、パリに止まった。彼女は学者としての研究の仕事は、平和がかえるまで延期であることを知った。彼女がパリに、最後まで踏み止まる決心を固めたのは、生れながら困難に負けることの嫌いな彼女の気質で「逃げるという行為を好まなかった」ばかりではなかった。
キュリー夫人は冷静に、パリの置かれている当時の事情を観察して、たといパリが包囲され、爆破されても、新しくできたばかりの研究所は自分の力で敵の手から守らなければならないと考えたからであった。研究所にある一グラムのラジウムを、人類と科学とのために侵略者の手から安全にしなければならないと決心したからであった。彼女の心には直覚的にささやくものがあった。「もし私がその場にいたらドイツ軍もあえて研究所を荒そうとはしないだろう。けれどもし私がいなかったらみななくなってしまうに相違ない。」
八月の終りキュリー夫人は十七になっているイレーヌにあてこう書いた。「あなたのやさしい手紙を受取りました。どんなにあなたを抱きしめたく思ったことでしょう。危く泣き出すばかりでした。どうも成り行きが思わしくありません。私たちには大きな勇気が必要です。悪い天候の後には必ず晴れた日が来るという確信を固く持っていなければなりません。愛する娘たち、私はその希望を抱いてあなた方を固く抱きしめます。」
刻々パリの危険が迫ってきた。キュリー夫人は貴重な一グラムを、安全なボルドー市へ移すことにきめた。一グラムのラジウムとは、鉛の被蓋の中で細い管が幾つもたえず光っている一つの大変に重い箱である。黒いアルパカの外套を着て、古びて形のくずれた丸い柔い旅行帽をかぶったマリアは、単身その重い箱を持って満員の列車に乗りこんだ。客車の中は敗戦の悲観論にみち溢れている。鉄道沿線の国道には、西へ西へと避難してゆく自動車の列がどこまでも続いている。しかしキュリー夫人はあたりの動乱に断乎として耳をかさず、憂いと堅忍との輝いている独特な灰色の眼で、日光をあびたフランス平野の景色を眺めていた。ボルドーには避難して来た人々があふれていて、キュリー夫人では重くて運びきれない百万フランの価格を持っている一グラムのラジウム入の箱を足許に置いたまま、危く駅前の広場で夜明しをしそうな有様であった。偶然、一人の官吏が彼女を助けた。やっと夜をしのぐ一部屋が見つかり、ラジウムは安全になった。翌朝キュリー夫人はその重い宝を銀行の金庫へ預けた。
パリからボルドーへと向って来た旅行の間、彼女はまるで人目に立たずにすんだ。けれども今重い責任をはたしてパリに帰ろうとする時になると、彼女の廻りには人垣ができた。この婦人がパリへ帰ってゆく! 誰だろう? 何のために? パリが今にも包囲されるという噂が、人心を根からゆすっているのであった。マリアは固く口をつぐんで、自分の身を明さなかったが、それらの群衆に向って、パリは持ちこたえるだろうということ、市民は危険にさらされないだろうということを話して聞かせた。
たった一人の非戦闘員である彼女を乗せた軍用列車は、信じられないほどののろさで平野を横切りながら、進んだり止ったりしてパリに近づいた。昨日研究所を出てから何一つ食べる暇のなかったマリアに、一人の兵士が雑嚢から大きなパンを出して彼女にくれた。それは愛するフランスの香り高いパンである。
キュリー夫人が帰り着いたパリは、脅威を受けながらも物静かで、九月初めのうっとりするような光りをあびてきらめいている。そして喜ばしいニュースが巷に飛び交っていた。マルヌの戦闘が始まってドイツ軍の攻撃は阻止された。
二人の娘たちはまだブルターニュにいた。マリアは彼女たちに向って、この新しい希望を語り「小さいシャヴァンヌに物理学の勉強をさせなさい。あなたはもしフランスの現在のために働けないとしたらフランスの未来のために働かなければなりません。物理学と数学とをできるだけ勉強して下さい。」
パリに動員が始まったその時から、キュリー夫人は彼女の第二の母国、亡き夫ピエール・キュリーを彼女の生涯にもたらし、その科学の発見を完成させ、彼女を二人の娘の母にしたこのフランスの不幸を凌ぎやすいものにするために役立とうと考えていた。毎日毎日たくさんの女の人たちが篤志看護婦となって前線へ出て行く。彼女も研究所を閉鎖して早速同じ行動に移るべきであろうか。
事態の悲痛さをキュリー夫人は非常に現実的に洞察した。科学者としての独創性が彼女の精神に燃えたった。マリアはフランスの衛生施設の組織を調べて、一つの致命的と思われる欠陥を見出した。それは後方の病院にも戦線の病院にもX光線の設備をほとんど持っていないという事である。あわれに打ちくだかれた骨の正しい手当、また傷の中の小銃弾や大砲の弾丸の破片をX光線の透写によって発見する装置が、この恐ろしい近代戦になくてもよいのであろうか。
キュリー夫人は科学上の知識から、大規模の殺戮が何を必要としているかを見た。罪なく苦しめられている人々のために、彼女は彼女として、外の女では不可能な働き方をしなければならない。そこでキュリー夫人は活動を開始して先ず大学の幾つかの研究室にある幾つかのX光線装置に、自分の分をも加えた目録を作り、続いてその製造者たちのところを一巡して、X光線の材料で使えるだけのものをことごとく集め、パリ地方のそれぞれの病院に配布されるように計った。教授や技師や学者たちの間から篤志操作者が募集された。
けれどもX光線の設備に、なくてならない電気さえひかれていないような野戦病院へ殺到して来る負傷者たちをどうしたらいいだろう。キュリー夫人はある事を思いついた。フランス婦人協会の費用で光線治療車というものを作った。これはヨーロッパでもはじめての試みであった。普通の自動車にレントゲン装置と、モーターと結びついて動く発電機を取りつけたもので、この完全な移動X光線班は一九一四年八月から各病院を廻り始めた。フランスの運命を好転させた歴史的な戦いであるマルヌの戦闘で、故国のために傷ついた人々は、パリへ後送されてその移動班に助けられたのであった。この放射光線車は軍隊の間で「小キュリー」と親密な綽名で呼ばれた。キュリー夫人は戦争の長びくことが分るにつれ、あらゆる手段を講じて、官僚と衝突してそれを説得し、個人の援助も求めて自動車を手に入れ、それをつぎつぎに研究所で装置して送り出した。そのようにして集められた車は二十台あった。マリアはその一台を自分の専用にした。
戦傷者で溢れた野戦病院から、放射線治療班の救援を求める通知がキュリー夫人宛にとどく。マリアは大急ぎで自分の車の設備を調べる。兵士の運転手がガソリンをつめている間に、マリアはいつもながらの小さい白カラーのついた黒い服の上に外套をはおり、ボルドーへも彼女とともに旅をした例の丸帽子をかぶり、すり切れた黄色い革の鞄を持ち、運転手とならんでそのほろつきの自動車に乗った。運転台は吹きさらしである。こうして彼女はアミアンへ、恐怖の土地であったヴェルダンへと走り出す。
野戦病院へ着くや否や、放射線室として一つの部屋を選定する。あらゆる部分品を組立てる。隣室には現像液が用意される。運転手に合図してダイナモが動き始める。マリアが姿を現わして後三十分でこれらの事が運ばれた。それから暗い部屋に外科医と一緒に閉じこもるキュリー夫人の前に、うめく人を乗せた担架が一つ一つと運び込まれ、彼女の活動は幾時間も続くばかりか、時によれば数日費された。負傷者の来る限りマリアはその暗い部屋から出ずに働き続けた。
二十台の「小キュリー」の外に彼女の努力で治療室が二百作られ、二百二十班の治療班が組織された。彼女は交戦中フランス、ベルギーの三四百の病院をたえず廻った外、一九一八年には北イタリヤまで活動をひろげた。そこで彼女は放射能を持つ物質の資源を調査したのであった。専門の治療者も急速に養成されなければならない。ラジウム研究所でその仕事が始められ、三年の間に百五十人の治療看護婦が生れた。
この時二人の娘たちはもうパリに帰っている。十七歳のイレーヌは放射学を勉強し、ソルボンヌの講義もかかさず聞きながら、まず母親の装置の操作を受持ったが、やがて救護班に加わった。ラジウム研究所の治療者養成のための講義では、若いイレーヌも母と一緒に先生として働いた。イレーヌは年こそ若いけれども、この困難と活動の期間にキュリー夫人にとって二人とない助手、相談相手、友人として成長したのであった。
四年間のキュリー夫人の活動がどんなに激しく広汎であったかということは、小さい娘であったエーヴの書く手紙の宛名が、一通毎に母の移動先へと数限りなく動いて書かれていることでも語られている。古い服の袖に赤十字の腕章をピンで止めたきりの普通のなりで、その上へいつも研究所で着ている白いブルースを着けるだけで、キュリー夫人はどんな特別の服装もしなかった。食事のとれないなどということはざらであった。どんなところででも眠らなければならなかった。固いタコができてラジウムの火傷の痕のある手を持った小柄な五十がらみの一人の婦人が、着のみ着のままで野天のテントの中に眠っている。その蒼白い疲れた顔を見た人は、それが世界のキュリー夫人であり、ノーベル賞の外に六つの世界的な賞を持ち、七つの賞牌を授けられ、四十の学術的称号をあらゆる国々から捧げられているキュリー夫人であるということを信じるのはおそらく困難であったろう。十余年の昔、夫ピエールと二人で物理学校の中庭にある崩れかけた倉庫住居の四年間、ラジウムを取出すために瀝青ウラン鉱の山と取組合って屈しなかった彼女の不撓さ、さらに溯《さかのぼ》ってピエールに会う前後、パリの屋根裏部屋で火の気もなしに勉強していた女学生の熱誠が、髪の白くなりかかっている四十七歳のマリアの躯と心の中に燃え立っていたのであった。
キュリー夫人は特別よい待遇を与えられたとしても拒んだであろう。人々が彼女の「有名さ」を忘れるよりさきにマリアがそれを捨てていた。けれども軽薄な看護婦たちが、自分から名乗ろうとはしない粗末な身なりのマリアを時には不愉快にさせる事があった。そういう時、彼女の心を温める一人の兵士の俤《おもかげ》と一人の看護婦の思い出とがあった。それはベルギーのアルベール皇帝とエリザベート皇后とであった。この活動の間にマリアは多くの危険にさらされ、一九一五年の四月のある晩は、病院からの帰り、自動車が溝に落ちて顛覆して負傷したこともあった。が、娘たちがそのことを知ったのは再び彼女が出発した後、偶然化粧室で血のついた下着を見つけ、同時に新聞がそのことを報道したからであった。彼女は昔からそうであったように、自分の身について起るかも知れない危険とか激しい疲労とか、その躯におよぼしているラジウムのおそろしい影響とかについて一言も口に出さなかった。
マリア・キュリーをこの様な活動に立たせた力は何であったろう。日夜の過労の間に彼女の精神と肉体を支えている力は何であったろう。それは決して狭い愛国心とか敵愾心とかいうものではなかった。科学者としての自分の任務を、がらんとした研究所の机の前で自分に問うた時マリアの心に浮かんだものは、十年ばかり前のある日曜日の朝の光景ではなかったろうか。それはケレルマン通の家で、一通の開かれた手紙を間に置いて坐っているピエールとマリアの姿である。手紙はアメリカから来たものであった。瀝青ウラン鉱からラジウムを引き出すことに成功した彼らが、その特許を独占して商業的に巨万の富を作ってゆくか、それとも、あくまで科学者としての態度を守ってその精錬のやり方をも公表し、人類科学の為に開放するか、二つの中のどちらかに決定する種類のものであった。その時ピエールは永年の夢であった整備された研究室の実現も考え、また夫として父親としての家庭に対する愛情から、いくらかの特許独占の方法を思わないでもなかったらしかったが、結局は彼ら夫婦を結んでいるまじり気のない科学的精神に反するものとしてそのことを放棄した。わずか十五分の間にそうして決められた自分たちの一生の方向、それはピエールが不慮の死をとげて八年を経た今日、あれほどピエールが望んでいてその完成を見なかった研究所が落成されている今日、マリアの心を他の方向に導きようのない力となって作用したのであろう。
ブロンドの背の高い、両肩の少し曲った眼なざしに極度の優しみを湛えている卓抜な科学者ピエールは、その父親と違って不断は時事問題などに対して決して乗り出さなかった。
「私は腹を立てるだけ強くないんです」と自分からいっていたピエールが、ドレフュス事件でドレフュス大尉がユダヤ人であるということのために無辜《むこ》の苦しみに置かれていることを知って、正義のために示した情熱。ノーベル賞授与式の時の講演でピエールが行った演説も、マリアに新しい価値で思い起されたろう。彼はその時次のようにいった。
「人は一応疑って見ることができます。人間は自然の秘密を知ってはたして得をするであろうか。その秘密を利用出来るほど人間は成熟しているであろうか。それとも、この知識は有害なのであろうかと。が、私は人間は新しい発見から悪よりも、むしろ、善を引き出すと考える者の一人であります。」
マリアは愛するピエールの最後のこの言葉を実現しなければならないと思ったろう。科学の力が一方で最大限にその破壊の力を振るっている時には、ますます他の一方で創造の力、生きる力としての科学の力、それを動かす科学者としての情熱が必要と思われたに違いない。
一九一八年十一月の休戦の合図をマリアは研究所にいて聞いた。嬉しさにじっとしていられなくなったマリアが、激しい活動で傷のついている例の自分の車の「小キュリー」に乗ってパリ市中を行進した気持は察するに余りある。
フランスの勝利は、マリアにとって二重の勝利を意味した。彼女の愛するポーランドは一世紀半の奴隷状態から解かれて独立した。マリアは兄のスクロドフスキーに書いた。
「とうとう私たち(生れながらに奴隷であり、揺籃の中からすでに鎖でつながれていた)は、永年夢見ていた私たちの国の復活を見たのです。」しかしキュリー夫人は歴史の現実の複雑さに対してもやはり一個の洞察を持っていた。彼女はその喜びに酔わずに、さながら十九年後の今日を見透したように、続けていっている。
「私たちの国がこの幸福を得るために高い代価を支払ったこと、また今度も支払わなければならないことは確かです。」
第二次大戦によってポーランドは再びナチスの侵略をうけ、南部ロシアのウクライナ地方とともに、最も惨酷な目にあわされた。しかしポーランド人民は、ウクライナの農民が善戦したとおりに雄々しくたたかって、ナチスをうち破った。単に自分たちの土地の上からナチスを追いはらったばかりでなく、世界の歴史から、暴虐なナチズムの精神を追いはらったのである。ポーランド人民解放委員会の中に、ワンダ・ワシリェフスカヤという一人の優れた婦人作家が加わっていることをキュリー夫人が知ることができたらどんなによろこんだであろう。
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
1952(昭和27)年8月発行
初出:不詳
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
はるかな道
――「くれない」について――宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)健気《けなげ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九三八年十一月〕
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今わたしの机の上に二冊の本が置かれている。一冊は最近中央公論社から出版された窪川稲子の初めての長篇小説と云うべき「くれない」である。もう一冊は、これもごく近く白水社から出た「キュリー夫人伝」である。この二冊の本は、それぞれに違ったものである。左方は名の示すように、世界の科学に大なる貢献をした婦人科学者の伝記であるし、一方は日本の婦人作家によって書かれた一つの小説である。だが、この種類のちがう二冊の本は、その相違にもかかわらず、今日の生活の下に現れて何と強力に我々の心に呼びかけて来ることだろう。二十世紀の社会というものが、それぞれ国土の違った、環境と習俗と専門の違った、従って生涯の過程も異っている女性の生活記録にも猶貫く一すじの血脈を感じさせるのは、感動的な事実である。私たちには次のことが実にはっきりと感じられる。
若しキュリー夫人が「くれない」をよみ、その作者を知ったならば、彼女はきっと、その汚れない女性の心で、この作者のひたむきな心と苦悩とを理解したであろうと。同じ暦の下に歴史が展開されていても、海の彼方、海の此方では、歴史の内包している生活の諸条件が、特に社会における女の現実の立場について、非常にちがっている。広い客観の見とおし、そして人間の発展と進歩への道に立って「くれない」を見れば、女主人公、明子の苦悩と努力とは、とりも直さず、環境のおくれている多くの条件が重荷となって、合理的に、明るく輝しく生き伸びようとする意欲の桎梏となることから生じている。妻として母としてその上に更に作家として歴史の進歩に貢献して行こうと欲する現代の社会性ひろい、情感ゆたかに努力的な婦人が、日本の時代の空気の中で、周囲の重り、自身の内部に在る重り、愛する良人の内にある重りと、どのように交錯し合い、痛みつつ、まともに成長しようと健気《けなげ》にたたかっているか、その記録が「くれない」であると思う。
この小説は、夫婦ともどもに一定の仕事をもって行く結婚生活、家庭生活について、又、それぞれ独立した社会的存在である夫妻が、仕事の上で互に影響し合う微妙な心理について、夥しい問題を呈出している。これらの問題の中には読者にとって明かに普遍性をもった性質のものとしてうけとられ、真面目な考察に導かれるものもあり、率直に云えば、誰でも皆こういう場合こう感じ、表現し、行動するのが普通であろうかという極めて自然な疑問に逢着せざるを得ないような心理のモメントもあると思う。
作者は少くともこの作品の内部では、それらの二様のものの性質を、現実に作用し合う因子として十分に意識し、その本質を追求し、発展の方向に捕えて観察しつくしているとは云い得ないように思える。双方が縺れ絡んでいる、その渦中に身はおかれたままである。その結果として、作中に事件は推移するが、全篇を通っているいくつかの根本的な問題、小説の抑々発端をなした諸契機の特質にふれての解決の示唆は見えていないのである。
それにもかかわらず、「くれない」は、その真摯さと人間的な熱意の切なさとに於て、わたし達を揺ぶる作品である。この作品に描かれているような波瀾と苦悩の性質について、そこからの出道について深く考えさせる作品である。
「くれない」を読む人々は、おそらく「キュリー夫人伝」をも愛読する人々であろう。女性によって書かれたこの二種の本は、業績の相異とか資質の詮索とかを超えて結局は人類がその時代に潜められている様々の可能を実現し、花咲き実らすためには、どのような良心と、精励とが生活の全面に求められているかということについて、男性の生涯へも直接関係している一つながりの問題を示しているのである。[#地付き]〔一九三八年十一月〕
底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
1980(昭和55)年1月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
1952(昭和27)年10月発行
初出:「法政大学新聞」
1938(昭和13)年11月20日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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キュリー夫人の命の焔
――彼女を不死にするものは何か、宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)傍《かたわら》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九三九年十二月〕
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偉い女のひとというものは、歴史の上で何人かいますし、現在でも世界には幾人かの偉い婦人と呼ばれるにふさわしいひとがいるでしょう。
けれども、ひとくちに偉いと云っても、その内容はいろいろで、えらさの大きさにも亦様々のちがいがあると思われます。よく婦人雑誌の実話などのなかに、たとえば手内職から今日の富豪となる迄の努力生活の女主人公として女のひとの立志伝がのったりしますが、そういうひとの生涯でも、或る意味ではやはりえらいと云えるでしょう。普通の人間の忍べないと思うような辛苦をよく耐えたり、機智を働かして窮地を脱したり、その点では人並以上の生活の力を発揮しているわけですが、そういう立志伝を読むと、多くの場合私たちの心には、何か一筋のものたりない感情がのこされるのは何故でしょう。それはえらいには違いない、けれども、という心持が湧くのは何故でしょう。そこにこそ、人間の本当のえらさの微妙な意味がひそめられているのだろうと考えます。一人の人が自分のためだけに志を立て、自分の成功のためだけに努力し、富を殖《ふや》し、社会的に有名人となったというだけの話をきいても、私たちが真の人間としての偉さにうたれたり、心の高まるような歓びを見出したり出来ないのは自然でしょう。本当の偉さはそういうどちらかというと自分中心の成功に満足している姿のなかには見出せないものです。
キュリー夫人伝は近頃非常にひろく多勢の若い人たちに読まれた本でした。おそらく、この雑誌の読者のかたも読んでいられるでしょう。そして、きっといろいろな感動をうけながら読み終られたことだろうと思います。キュリー夫人は、疑いもなく世界の偉い婦人のうちの一人です。では、キュリー夫人の偉さ、美しさ、私たちの記憶にとどまって困難なときの私たちにとって励ましの魅力となる生気は、彼女の生きかたのどういうところから湧き出ているのでしょうか。
伝記を読んだ方々には御承知の通りに、マリヤは、ポーランドの首府ワルソーで中学校の物理の先生をする傍《かたわら》副視学官をつとめていたスクロドフスキーの四人娘の末っ子として生れました。西暦一八六七年十一月に生れたから、日本が明治元年を迎えた時です。聰明で教養も深い両親の御秘蔵っ子としてのマーニャは、いつも家庭のたっぷりした情愛につつまれて幼い時代を過したけれども、小学生になる頃からは、もうポーランドという国が蒙っていた昔の露帝《ツァー》の圧迫のわけまえをになって、教室で意地わるい視学の問いに、苦しい答えをしなければならないような経験の裡に成長しました。マーニャの家は、貧しいポーランドの貧しい小貴族の端くれで、経済的には決して楽でなかったことは、マーニャの生れた時分既に結核の徴候があらわれていて閉じこもり勝であった美しくて音楽ずきの母が、小さいマーニャのために自分で靴を縫ってやっているという家庭情景の描写のうちにも十分窺えます。マーニャが、ごく集注的な精神をもって生れていたということは、特別私たちの注意をひく点だと思います。毎日五時になって、お八つがすむと、スクロドフスキー家の食堂の大テーブルの上には石油の釣燭台に灯がついて、さて、子供達の勉強がはじまります。キュリー夫人の伝をかいたエーヴは、彼女の尊敬すべき母の子供時代にあってその勉強時間の有様を次のように描いています。「やがてどこからとなく単調な合唱がいつまでも聞えて来る。それはラテン語の詩句や、歴史の年代、或いは数学の与件を、大声で云って見ずにはいられない子供たちの声なのである」その騒々しいなかでも、一旦或ることに注意をあつめたら最後、マーニャの気を外へ散らすということは、どんないたずら巧者の姉たちの腕にも叶うことでありませんでした。大テーブルに向って、両肱をついて両手を額に当て、まわりのうるささをふせぐために拇指で耳をふさいで、マリヤが何かはじめたら、もう彼女の頭脳は吸いこむように働きはじめ、驚くばかりの記憶力のなかへそれをたたみ込むのでした。女学生時代の写真を見ると、マーニャは大変お父さん似です。小さめなきりっとした愛らしい口元も、真面目に正面を見ている力のこもった眼差も。ふっくりした朗かな顔だち、真摯な誠実さのあらわれている風貌などお父さんそっくりです。金メダルを賞に貰って、マリアは女学校を卒業しました。が、その頃から益々切りつまって来た一家の経済のため、スクロドフスキーの娘たちは夫々自活の道を立てなければならなくなって、十六歳半の若いマーニャも苦しい家庭教師として働きだしました。その頃は一時間半ルーブルという謝礼さえ、若い女の家庭教師に対しては高すぎる報酬と思われていた時代です。ところで、生れつき勤勉で物わかりのいい若いマーニャは、家庭教師としての自分の生活をどんな風に導いていたでしょう。マーニャが世間によくある若い女のように自分の境遇にまけて、一軒でもお顧客《とくい》をふやそうとあくせくしたり、相手の御機嫌を損じまいと気色をうかがったりする卑屈さを、ちっとも持たなかったということは面白いところです。生活の必要から家庭教師をしているけれども、マーニャの心はもっと広い大きい未来のことを考えていました。十七歳の彼女の心の中の考えはまだはっきりした形をとってこそいなかったが、人間の発達を阻むようないろいろの条件には決して屈伏しないで、一人でも多くの人々が充分の文化の光に浴さねばならないこと、そうして社会進歩はもたらされなければならないという事です。
マーニャは、ワルソーの市中をあちらからこちらへと家庭教師の出教授をして働く合間に、好学の若い男女によって組織されていた「移動大学」に出席して、解剖学、自然科学、社会学などの勉強をしました。そして、そこで学んだ知識をもって、工場に働いている人たちに有益な講義をきかせて、彼等の進歩を扶けようとしました。マーニャが、天性の勤勉さ、緻密で、敏活な頭脳を、こうしてごく若いころから自分の功名のためだけに使おうなどとは思いもしなかった気質こそ、後年キュリー夫人として科学者、人間としての彼女の真価をきめるものとなったと思います。
姉のブローニャが巴里へ行って勉強する費用をすけるために、自分は三年の間、ポーランドの或る地方の貴族の家の住込家庭教師として辛抱したマリヤ。やっと自分が巴里へ行ける番になって、ソルボンヌ大学の理科の貧しい学生となってからのマリヤが、エレヴェータアなどありっこない七階のてっぺんのひどい屋根裏部屋で、時には疲労と空腹とから卒倒するような経験をしながら、物理学と数学との学士号をとる迄がんばり通した四年間。マリヤがそういう生活に耐えて、二十六歳のころ物理は一番で、数学は二番という成績で学士号を得たのが、決してただの負けじ魂や女の勝気や名誉心からではなかったことを、私たちは深く心にとめて味わわなければならないと思います。マリヤは、しんから科学の学問がすきで、そこに尽きることのない研究心と愛着とを誘われ、そういう人間の知慧のよろこびにひかれて、その勉強のためには、雄々しく辛苦を凌ぐ粘りと勇気がもてたのでした。このことは、彼女が同じソルボンヌ大学で既に数々の重要な物理学上の発見をしていたピエール・キュリーと知り合い、互に愛して結婚してから後の全生涯の努力とも最後まで一貫しているマリヤの命の焔です。もしも彼女が、上成績で学位をとったことを、これから安楽な奥さん生活を営むためにより有利な条件として利用しようとでもする俗っぽい性根であったなら、決してピエール・キュリーのような天才的な、創意にみちた科学者の人柄と学問の立派さを理解することは出来なかったでしょう。何故なら、保守的な学界のなかで、当時三十五歳だったピエールの学者としての真価は決してまだ十分には認められていなかったのですから。貧しいマリヤに比べても彼は決して富裕と云うどころの生活ではなかったのですから。物理化学学校の実験室での、八時間。その一日の仕事の帰り途、市場へまわって夫婦は一緒に夕飯のための材料を買いました。家事の雑用を最も手まわしよくやって三時間。それからマリヤの夜の時間は家計簿の記入と中等教員選抜試験準備のためにつかわれて、朝の二時三時まで二つしか椅子のないキュリー夫婦の書斎での活動はつづきます。
一八九七年、マリヤは長女のイレーヌを生み、彼女の家庭生活と科学者としての生活は一層複雑に多忙になったけれども、健康なマリヤは、すべての卓抜な女性が希うとおりそれらの生活の全面を愛して生きようとしました。「妻としての愛情も、母としての役目も、それから科学も、等しく同列においてそのいずれからも手を抜くまいと覚悟していた。そうして熱情と意志をもって、彼女はそのことに成功したのである」
成功の冠は、一九〇四年、ピエールが四十五歳、マリヤが三十六歳の年、ラジウムを発見した業績によって、世界的に彼等の上にもたらされました。ノーベル賞を与えられた彼等は科学者として最高の名誉の席につかせられ、学界からおくられる称号、学位の数々は、まるでそういう名誉でキュリー夫妻を飾ることを怠れば、その国々の恥辱となるとでも云いそうな勢でした。もしキュリー夫妻の艱難と堅忍と努力と成功の物語がここまでで終っていたとしたら、この人々の生涯は、成程立派でもあり業蹟もあがっているが、謂わば平凡な一つの立志伝にすぎなかったと思われます。
成功し業蹟をたてた人の真の価値は寧《むしろ》世間にその価値が認められてから後、その人がどんな態度で周囲から与えられる尊敬や名誉やそれに伴う世間的な利益に処して行くかというところにこそ、人間としての評価の眼が向けられるべきではないでしょうか。キュリー夫妻の生涯の価値、科学者としての真のえらさは、一九〇四年の春のある日曜日の朝の会話にその精髄をあらわしていると思います。アメリカから来た一通の手紙が二人の間のテーブルの上におかれています。手紙は、アメリカの技術家からラジウム調製の方法を教えて呉れるようにと云って来ているものです。この手紙の内容は、誰にでもすぐ考えられるとおり、キュリー夫妻が世間の人たちが誰でもやっているとおり自分の発見に特許をとって、ラジウム応用のあらゆる事業から莫大な富を独占するか、それとも、そんなことは一切せず、科学上の発見を人類の進歩のためにひろく開放するか、二つに一つの態度をきめさせる性質のものでした。特許をとれば、明かにラジウムは巨万の富をキュリー夫妻へもたらすでしょう。学生時代から貧乏のしどおしである日々の生活が安らかになるばかりでなく、科学者としてキュリー夫妻が永年の間憧れている設備のいい実験室さえ何の苦もなく持つことが出来るでしょう。それらのことは、彼等のこれまでの辛苦に対して当然のむくいではないのでしょうか。マリヤは静に金儲けのことや物質上の報酬のことを考えた揚句、こう云いました。「私たちの発見に商業的な未来があるとしてもそれは一つの偶然で、それを私たちが利用するという法はありません。」ラジウムが病人を治す役に立つからと云って、そこから儲けることなどマリヤには思いも及ばないことであったのです。ピエールとマリヤは科学者としての彼等の後半生の方向をきめたこの重大な相談に、僅十五分を費したきりでした。夫妻がノーベル賞を授与された祝賀会の講演で次のようにのべたピエールの言葉こそ、キュリー夫妻を不滅にした科学の栄光であると思います。「私は人間が新しい発見から悪よりも寧ろ善をひき出すと考える者の一人であります」と。
[#地付き]〔一九三九年十二月〕
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「少女の友」
1939(昭和14)年12月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名
(地名を冠した自然現象などを含む)[フランス]
ピエール・キュリー街
ラジウム研究所キュリー館
ソルボンヌ大学 パリ大学か。
ソルボンヌ la Sorbonne もとフランス中世の神学生の寮。1808年パリ大学に吸収。現在は、パリ大学に属する文学部・理学部・古文書学校などの通称。創立者ソルボン(Robert de Sorbon1201〜1274)の名に因む。
ブルターニュ Bretagne (ブリタニアの転訛)フランス北西部、ブルターニュ半島を中心とする地方。住民はブルトン人(Bretons)と呼ばれ、古くからの習俗・言語など、特異なケルト文化を伝える。
ボルドー市 Bordeaux フランス南西部、ガロンヌ川に沿う港市。葡萄(ぶどう)酒の集散地。また、砂糖・ブランデー・綿織物などを産出する。人口21万5千(1999)。
フランス平野
マルヌ Marne フランス北部の川。セーヌ川の支流。長さ525キロメートル。水運にとって重要。マルヌ‐ライン運河によりライン川と結ばれている。
アミアン Amiens フランス北西部の都市。ソンム川に沿い、繊維工業が発達。13世紀建設のフランス最大の大聖堂は世界遺産。1802年英仏休戦条約締結の地。人口13万5千(1999)。
ヴェルダン
物理学校
ケレルマン通り
サラエヴォ Sarajevo 新・旧ボスニア‐ヘルツェゴヴィナの首都。ヨーロッパで最もイスラム的な都市といわれる。1914年6月末、オーストリア‐ハンガリー帝国皇太子およびその妃が、ここでセルビア青年に暗殺され、第一次大戦の導火線となった。人口52万9千(1991)。
[ベルギー] Belgique ヨーロッパ北西部の立憲王国。北海に面し、北部は低地、南部は丘陵地帯。近世初頭オランダに合邦、1830年独立。面積3万平方キロメートル。人口1042万1千(2004)。住民の多くはカトリックで、フラマン系(言語はオランダ語方言)とワロン系(言語はフランス語方言)とに分かれ、オランダ語・フランス語・ドイツ語を公用語とする。首都ブリュッセル。
[ポーランド] Poland 中部ヨーロッパの共和国。9世紀には王国を成し、中世後期には勢威を振るったが、近世初期から衰え、3次にわたってロシア・オーストリア・ドイツ3国に分割され、1815年ロシア領に編入、1918年独立。39年第二次大戦の当初ドイツ軍が侵入、ソ連軍も分割占領した。45年ソ連軍によって解放され、独立を回復。ポーランド統一労働者党が指導権を掌握し、52年人民共和国となる。89年の東欧民主化のなかで、非共産勢力による政権が発足。2004年EU加盟。工業・農業・畜産業が盛んで、石炭を始めとする鉱物資源も豊富。面積32万3000平方キロメートル。人口3818万(2004)。そのほとんどは西スラヴ系ポーランド人で、カトリック教徒が圧倒的に多い。首都ワルシャワ。
ワルソー Warsaw ワルシャワの英語名。
ワルシャワ Warszawa ポーランド共和国の首都。ヴィスワ川沿岸に位置し、商工業や交通の中心地。第一次・第二次大戦中はドイツ軍が占領し、戦争のたびに市街が破壊されたが、旧市街は復旧。人口169万1千(2004)。英語名ワルソー。
[ウクライナ] Ukraina 東ヨーロッパ平原の南西部を占める共和国。東はロシア、北西はポーランド、南西はルーマニア、南は黒海・アゾフ海に接する。肥沃なステップ地帯で、小麦の大産地。住民の4分の3はウクライナ人。1991年ソ連解体で独立。面積60万3000平方キロメートル。人口4727万1千(2004)。首都キエフ。小ロシア。
◇参照:Wikipedia、
*年表
一八六七年一一月 マリア・キュリー、ポーランド、ワルシャワにて生まれる。
一八九〇年早春 パリにいる姉のブローニャから、マリアをパリへ呼び寄せる手紙を受け取る。
一八九七 長女のイレーヌ、生まれる。
一九〇四 ピエール四五歳、マリア三六歳の年、ラジウムを発見した業績によってノーベル賞をあたえられる。
一九一四年夏 ピエール・キュリー街にラジウム研究所キュリー館ができあがる。
一九一四年七月二八日 オーストリアの皇太子がサラエヴォで暗殺。
一九一四 独軍が宣戦の布告もせずに武力にうったえながらベルギーを通過してフランスに侵入。
一九一四年八月二日 パリ動員。開設されたばかりであったラジウム研究所は、たちまちからっぽ同様になる。
一九一四年八月終わり キュリー夫人、十七になっているイレーヌにあて手紙を書く。
一九一四年八月 移動X光線班、各病院をまわりはじめる。
一九一五年四月 マリア、病院からの帰りに自動車が溝に落ちて顛覆、負傷。
一九一八 治療班、北イタリアまで活動をひろげる。
一九一八年一一月 休戦。
一九三四年五月 マリア、体調不良で療養所に入院。
一九三四年七月四日 マリア、研究の影響による白血病で死去。
一九三八(昭和一三)一一月二〇日号 宮本百合子「はるかな道」『法政大学新聞』。
一九三九(昭和一四)一二月号 宮本百合子「キュリー夫人の命の焔」『少女の友』。
◇参照:Wikipedia、
*人物一覧
(人名、および組織・団体名・神名)宮本百合子 みやもと ゆりこ 1899-1951 小説家。旧姓、中条。東京生れ。日本女子大中退。顕治の妻。1927〜30年ソ連に滞在、帰国後プロレタリア作家同盟常任委員。32年から終戦までに3度検挙。戦後、民主主義文学運動の先頭に立つ。作「貧しき人々の群」「伸子」「二つの庭」「播州平野」「道標」など。
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キュリー夫人
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キュリー夫人 Marie Curie 1867-1934 フランスの物理学者・化学者。ポーランド生れ。夫はピエール。夫の死後、ラジウムの分離に成功。1903年、夫とともにノーベル物理学賞、11年化学賞。
ピエール・キュリー Pierre Curie 1859-1906 フランスの物理学者。妻マリーとともにラジウム、またポロニウムを発見。また、磁性に関するキュリーの法則を発見。
イレーヌ → イレーヌ・ジョリオ=キュリー
イレーヌ・ジョリオ=キュリー Ire'ne Joliot-Curie 1897-1956 父はピエール・キュリー、母はマリ・キュリー。パリ生まれのフランスの原子物理学者。
ジョリオ‐キュリー Joliot-Curie 1900-1958 フランスの物理学者・平和活動家。キュリー夫妻の長女イレーヌの夫。夫妻協力して人工放射能の研究に寄与、夫妻でノーベル賞を受ける。第二次大戦後、フランス原子力庁長官となったが、職を追われ、1951年世界平和評議会議長。
エーヴ・キュリー E've Denise Curie Labouisse 1904-2007 フランスの芸術家、作家(英語式にイヴ・キュリーとも)。物理学者ピエール・キュリーと、物理学者・化学者マリ・キュリーの次女。1937年に書いた母の伝記で知られている。
スクロドフスキー教授
マリア・スクロドフスカ スクロドフスキー教授の末娘。
露帝 ツァー
カジミール
ブローニャ マリ・キュリーの姉。
シャヴァンヌ
アルベール皇帝 → アルベール1世
アルベール1世 Albert Ier 1875-1934 第3代ベルギー国王。1900年にバイエルン公女エリザベートと結婚し、レオポルド3世、フランドル伯シャルル、マリー=ジョゼ(イタリア王ウンベルト2世妃)の2男1女をもうけた。
エリザベート皇后 → エリザベート・ガブリエル・ヴァレリー・マリー
エリザベート・ガブリエル・ヴァレリー・マリー E'lisabeth Gabriele Vale'rie Marie 1876-1965 バイエルン生まれ。ベルギー国王アルベール1世の王妃、レオポルド3世の母。父はバイエルン公カール・テオドール、母はポルトガル国王ミゲル1世の娘マリア・ジョゼ。
スクロドフスキー マリア・キュリーの兄。
ワンダ・ワシリェフスカヤ → ワシレフスカヤ
ワシレフスカヤ Vanda L'vovna Vasilevskaya 1905-1964 ソ連邦の女流作家。ポーランドの革命運動を指導していたが、1939年ドイツ軍がワルシャワに迫ったため、ソ連に帰化し、ポーランド語で作品を書く。著『祖国』『いましめられた大地』『水の上の歌』『虹』ほか。(『世界大百科事典』平凡社)
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はるかな道
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窪川稲子 くぼかわ いねこ 1904-1998 本名、佐多イネ。小説家。長崎市生まれ。最初の結婚に失敗したあと、東京本郷のカフェーにつとめ、雑誌『驢馬』の同人たちの、中野重治・堀辰雄たちと知り合い、創作活動をはじめる。その中で、やはり『驢馬』同人であった窪川鶴次郎と結婚する。
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キュリー夫人の命の焔
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◇参照:Wikipedia、
*書籍
(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)-----------------------------------