宮本百合子 みやもと ゆりこ
1899-1951(明治32.2.13-昭和26.1.21)
小説家。旧姓、中条。東京生れ。日本女子大中退。顕治の妻。1927〜30年ソ連に滞在、帰国後プロレタリア作家同盟常任委員。32年から終戦までに3度検挙。戦後、民主主義文学運動の先頭に立つ。作「貧しき人々の群」「伸子」「二つの庭」「播州平野」「道標」など。

◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。


『くれない』 著、窪川稲子。中央公論社(1938)のち新潮文庫、角川文庫。
もくじ 
キュリー夫人(他) 宮本百合子


ミルクティー*現代表記版
キュリー夫人
はるかな道
キュリー夫人の命の焔

オリジナル版
キュリー夫人
はるかな道
キュリー夫人の命の焔

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難字、求めよ
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*凡例
〈 〉:割り注、もしくは小書き。
〔 〕:編者(しだ)注。

*底本
キュリー夫人
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
   1952(昭和27)年8月発行
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はるかな道
底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
   1952(昭和27)年10月発行
初出:「法政大学新聞」
   1938(昭和13)年11月20日号
http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card2798.html

キュリー夫人の命の焔
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「少女の友」
   1939(昭和14)年12月号
http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card3961.html
   
NDC 分類:289(伝記/個人伝記)
http://yozora.kazumi386.org/2/8/ndc289.html
NDC 分類:914(日本文学/評論.エッセイ.随筆)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc914.html




キュリー夫人

宮本百合子


 一九一四年の夏は、ピエール・キュリー街にラジウム研究所キュリー館ができあがって、キュリー夫人はそこの最後の仕上げの用事と、ソルボンヌ大学の学年末の用事とで、なかなかいそがしかった。フランスの北のブルターニュに夏休みのための質素な別荘がりてあったが、彼女はパリが離れられなくて、まず二人の娘イレーヌとエーヴとを一足先へそちらへやった。お母さんであるキュリー夫人は、八月の三日になったならばそこで娘たちとおちあって、多忙な一年のわずかな休みを楽しむ予定であった。
 ところが思いがけないことがおこった。七月二十八日に、オーストリアの皇太子がサラエヴォで暗殺された。世界市場の争奪そうだつのため、危機にあった欧州の空気は、その硝煙しょうえんにおいといっしょに、急速に動揺しはじめた。キュリー夫人は土用まっさかりのがらんとしたアパートの部屋で、ブルターニュの娘たちへ手紙を書いた。
「愛するイレーヌ。愛するエーヴ。事態がますます悪化しそうです。私たちは、今か今かと動員令を待ち受けています。
 しかし、戦争にならなければそちらへ行けるでしょうと約束した月曜には、独軍が宣戦の布告もせずに武力にうったえながらベルギーを通過してフランスに侵入した。
 パリの母は、ふたたび娘たちに書いた。
「おたがいにしばらくは、通信もできないかもしれません。パリは平静です。出征する人たちの悲しみは見られますが、一般に好ましい印象を与えています。
 彼女はおちついた文章のうちに情熱をこめて、小国ながら勇敢なベルギーは容易にドイツ軍の通過をゆるさないだろうとフランス人はみな希望を持ち、苦戦は覚悟のうえだけれど、きっとうまくゆくだろうと信じていること、そして「ポーランドはドイツ軍に占領されました。彼らが通過した後には何が残るでしょう。伯母おばさんたちの消息もまったく不明です」と伝えている。
 キュリー夫人の不幸な故国ポーランド。しかし、愛とほこりとによって記念されているポーランド。伯母というのは彼女の愛する姉たちである。スクロドフスキー教授の末娘、小さい勝ち気なマリア・スクロドフスカとして、露帝ツァーがポーランド言葉で授業を受けることを禁じている小学校で、政府の視学官しがくかんの前に立たされ、意地悪いじわるい屈辱的な質問に一点もたじろがず答えはしたが、その視学官が去ってしまうと、今まではりつめていた気のゆるんだ教室で、ワッと泣き出した少女時代の思い出。また、十七歳の若々しい家庭教師として貴族の家庭で不愉快な周囲に苦しみながらも、勉強のためにいくらかずつの貯金をし、休みのときは、近所の百姓の子に真の母国の言葉ポーランド語を教えてやったりしていた時代の思い出。ドイツに蹂躙じゅうりんされたと聞いたとき、それはみな新しい思い出となってキュリー夫人の胸によみがえってきたであろう。ドイツ軍に掃蕩そうとうされようとしているポーランドには、まだ、そのほかの思い出もつながれている。「マドモアゼル・マリア」が、その射すくめるような、しかも、深いやさしさのこもった灰色の目と、特徴のある表情的な口もとの様子などで、いかにも人目を引く才気煥発かんぱつな教養高い十九歳の家庭教師となったとき、そのZ家の長男カジミールとの間に結ばれた結婚の約束の、その無邪気な若い二人の申し出はZ氏を烈火のようにいきどおらせ、Z夫人を失心させるほど驚かした。カジミールは、さんざんおどかされ、すかされてマリアとの結婚を思いあきらめたが、マリアは、そのことでまったく居心地ごこの悪くなったZ家からも、契約の期間が終わるまでは勝手に立ち去ることができなかった。それからワルソー〔ワルシャワの英語名。で暮らした月日。思いもかけず、パリにいる姉のブローニャから、彼女をパリへ呼び寄せる一通の手紙を受け取った一八九〇年の早春のある日の心持ち。それらは、その苦しさにおいても、ときめきにおいても、おそろしい忍耐にんたいでさえもすべてはポーランドの土と結ばれているものである。そのポーランドにむごたらしい破壊が加えられている。ドイツの彼らが通過した後には何が残るでしょう、というキュリー夫人の言葉は短い。けれども、そこには不幸なポーランドが、ヨーロッパにおけるその位置から、いつも両面からの侵略をこうむりつづけてきていることに対する深いいきどおりと、決してそれに屈しきってはしまわない、その運命についての彼女の意味深い回想がこめられているのであった。

 八月二日にパリの動員がはじまると同時に、開設されたばかりであったラジウム研究所は、たちまちからっぽ同様になってしまった。男の人々はそれぞれ軍務についた。研究所に残っている者といえば、心臓が悪くて軍務に適さない機械係のルイと、リンゴを三つ重ねたくらいの大きさしかない小使こづかい女きりであった。キュリー夫人は「万一の場合には、お母さんはこちらにとどまらなければなりません」と言っていたそのとおり、パリにとどまった。彼女は学者としての研究の仕事は、平和がかえるまで延期であることを知った。彼女がパリに、最後までふみとどまる決心を固めたのは、生まれながら困難に負けることの嫌いな彼女の気質で、「逃げるという行為を好まなかった」ばかりではなかった。
 キュリー夫人は冷静に、パリの置かれている当時の事情を観察して、たといパリが包囲され、爆破されても、新しくできたばかりの研究所は自分の力で敵の手から守らなければならないと考えたからであった。研究所にある一グラムのラジウムを、人類と科学とのために侵略者の手から安全にしなければならないと決心したからであった。彼女の心には、直覚的にささやくものがあった。「もし私がその場にいたら、ドイツ軍もあえて研究所を荒そうとはしないだろう。けれど、もし私がいなかったら、みな、なくなってしまうに相違ない。
 八月の終わり、キュリー夫人は十七になっているイレーヌにあてこう書いた。「あなたのやさしい手紙を受け取りました。どんなにあなたをきしめたく思ったことでしょう。あやうく泣き出すばかりでした。どうも、なりゆきが思わしくありません。私たちには大きな勇気が必要です。悪い天候の後には、かならず晴れた日がくるという確信を固く持っていなければなりません。愛する娘たち、私はその希望をいだいてあなた方を固くきしめます。
 刻々、パリの危険がせまってきた。キュリー夫人は貴重な一グラムを、安全なボルドー市へ移すことにきめた。一グラムのラジウムとは、なまりのかぶせぶたの中で細い管がいくつもたえず光っている、一つのたいへんに重い箱である。黒いアルパカの外套がいとうを着て、ふるびて形のくずれた丸いやわらかい旅行帽をかぶったマリアは、単身、その重い箱を持って満員の列車に乗りこんだ。客車の中は、敗戦の悲観論にみちあふれている。鉄道沿線の国道には、西へ西へと避難してゆく自動車の列がどこまでも続いている。しかし、キュリー夫人はあたりの動乱に断固だんことして耳をかさず、うれいと堅忍けんにんとの輝いている独特な灰色の眼で、日光をあびたフランス平野の景色けしきをながめていた。ボルドーには避難してきた人々があふれていて、キュリー夫人では重くて運びきれない、百万フランの価格を持っている一グラムのラジウム入りの箱を足もとに置いたまま、あやうく駅前の広場で夜かしをしそうなありさまであった。偶然、一人の官吏かんりが彼女を助けた。やっと夜をしのぐ一部屋が見つかり、ラジウムは安全になった。翌朝、キュリー夫人はその重い宝を銀行の金庫へあずけた。
 パリからボルドーへと向かってきた旅行の間、彼女はまるで人目に立たずにすんだ。けれども今、重い責任をはたしてパリに帰ろうとする時になると、彼女のまわりには人垣ひとがきができた。この婦人がパリへ帰ってゆく! 誰だろう? 何のために? パリが今にも包囲されるといううわさが、人心を根っからゆすっているのであった。マリアは固く口をつぐんで、自分の身をかさなかったが、それらの群衆に向かって、パリは持ちこたえるだろうということ、市民は危険にさらされないだろうということを話して聞かせた。
 たった一人の非戦闘員である彼女を乗せた軍用列車は、信じられないほどののろさで平野をよこぎりながら、進んだり止まったりしてパリに近づいた。昨日、研究所を出てから何一つ食べるひまのなかったマリアに、一人の兵士が雑嚢ざつのうから大きなパンを出して彼女にくれた。それは、愛するフランスの香り高いパンである。
 キュリー夫人が帰り着いたパリは、脅威を受けながらも物静ものしずかで、九月初めのうっとりするような光りをあびてきらめいている。そして喜ばしいニュースがちまたに飛びかっていた。マルヌの戦闘が始まってドイツ軍の攻撃は阻止そしされた。
 二人の娘たちはまだ、ブルターニュにいた。マリアは彼女たちに向かって、この新しい希望を語り、「小さいシャヴァンヌに物理学の勉強をさせなさい。あなたは、もしフランスの現在のために働けないとしたらフランスの未来のために働かなければなりません。物理学と数学とをできるだけ勉強してください。

 パリに動員が始まったそのときから、キュリー夫人は彼女の第二の母国、き夫ピエール・キュリーを彼女の生涯にもたらし、その科学の発見を完成させ、彼女を二人の娘の母にしたこのフランスの不幸を、しのぎやすいものにするために役立やくだとうと考えていた。毎日毎日、たくさんの女の人たちが篤志とくし看護婦となって前線へ出て行く。彼女も、研究所を閉鎖してさっそく同じ行動に移るべきであろうか。
 事態の悲痛ひつうさを、キュリー夫人は非常に現実的に洞察どうさつした。科学者としての独創性が彼女の精神に燃えたった。マリアはフランスの衛生施設の組織を調べて、一つの致命的と思われる欠陥けっかんを見い出した。それは後方の病院にも戦線の病院にも、X光線の設備をほとんど持っていないということである。あわれに打ちくだかれた骨の正しい手当てあて、また、きずの中の小銃弾や大砲の弾丸の破片はへんをX光線の透写によって発見する装置が、このおそろしい近代戦になくてもよいのであろうか。
 キュリー夫人は科学上の知識から、大規模の殺戮さつりくが何を必要としているかを見た。つみなく苦しめられている人々のために、彼女は彼女として、ほかの女では不可能な働き方をしなければならない。そこでキュリー夫人は活動を開始してまず、大学のいくつかの研究室にあるいくつかのX光線装置に、自分の分をも加えた目録を作り、続いてその製造者たちのところを一巡して、X光線の材料で使えるだけのものをことごとく集め、パリ地方のそれぞれの病院に配布されるようにはかった。教授や技師や学者たちの間から、篤志とくし操作者が募集された。
 けれどもX光線の設備に、なくてならない電気さえひかれていないような野戦病院へ殺到さっとうしてくる負傷者たちを、どうしたらいいだろう。キュリー夫人は、あることを思いついた。フランス婦人協会の費用で光線治療車というものを作った。これはヨーロッパでもはじめての試みであった。普通の自動車にレントゲン装置と、モーターと結びついて動く発電機を取りつけたもので、この完全な移動X光線班は一九一四年八月から各病院をまわりはじめた。フランスの運命を好転させた歴史的な戦いであるマルヌの戦闘で、故国のためにきずついた人々は、パリへ後送こうそうされて、その移動班に助けられたのであった。この放射光線車は軍隊のあいだで「小キュリー」と親密なあだ名でよばれた。キュリー夫人は戦争の長びくことがわかるにつれ、あらゆる手段を講じて、官僚と衝突してそれを説得し、個人の援助も求めて自動車を手に入れ、それをつぎつぎに研究所で装置して送り出した。そのようにして集められた車は二十台あった。マリアは、その一台を自分の専用にした。
 戦傷者であふれた野戦病院から、放射線治療班の救援を求める通知がキュリー夫人あてにとどく。マリアは大急ぎで自分の車の設備を調べる。兵士の運転手がガソリンをつめている間に、マリアはいつもながらの小さい白カラーのついた黒い服の上に外套がいとうをはおり、ボルドーへも彼女とともに旅をした例の丸帽子をかぶり、すり切れた黄色いかわのカバンを持ち、運転手とならんでそのほろつきの自動車に乗った。運転台は吹きさらしである。こうして彼女はアミアンへ、恐怖の土地であったヴェルダンへと走り出す。
 野戦病院へくやいなや、放射線室として一つの部屋を選定する。あらゆる部分品を組み立てる。隣室には現像液が用意される。運転手に合図してダイナモが動き始める。マリアが姿を現わして後三十分で、これらの事が運ばれた。それから暗い部屋に外科医といっしょに閉じこもるキュリー夫人の前に、うめく人を乗せた担架たんかが一つ一つと運びこまれ、彼女の活動は幾時間も続くばかりか、時によれば数日ついやされた。負傷者の来るかぎり、マリアはその暗い部屋から出ずに働き続けた。
 二十台の「小キュリー」のほかに、彼女の努力で治療室が二百作られ、二百二十班の治療班が組織された。彼女は交戦中フランス、ベルギーの三、四百の病院をたえずまわったほか、一九一八年には北イタリアまで活動をひろげた。そこで彼女は、放射能を持つ物質の資源を調査したのであった。専門の治療者も急速に養成されなければならない。ラジウム研究所でその仕事がはじめられ、三年の間に百五十人の治療看護婦が生まれた。
 このとき二人の娘たちは、もうパリに帰っている。十七歳のイレーヌは放射学を勉強し、ソルボンヌの講義もかかさず聞きながら、まず、母親の装置の操作を受け持ったが、やがて救護班に加わった。ラジウム研究所の治療者養成のための講義では、若いイレーヌも母といっしょに先生として働いた。イレーヌは年こそ若いけれども、この困難と活動の期間に、キュリー夫人にとって二人とない助手、相談相手、友人として成長したのであった。

 四年間のキュリー夫人の活動が、どんなに激しく広範であったかということは、小さい娘であったエーヴの書く手紙の宛名あてなが、一通ごとに母の移動先へと数かぎりなく動いて書かれていることでも語られている。古い服のそでに赤十字の腕章わんしょうをピンでとめたきりの普通のなりで、その上へいつも研究所で着ている白いブルース〔ブラウス。をつけるだけで、キュリー夫人はどんな特別の服装もしなかった。食事のとれないなどということは、ざらであった。どんなところででも眠らなければならなかった。固いタコができて、ラジウムの火傷やけどあとのある手を持った小柄こがらな五十がらみの一人の婦人が、着のみ着のままで野天のてんのテントの中に眠っている。その蒼白あおじろい疲れた顔を見た人は、それが世界のキュリー夫人であり、ノーベル賞のほかに六つの世界的な賞を持ち、七つの賞牌しょうはいを授けられ、四十の学術的称号をあらゆる国々からささげられているキュリー夫人であるということを信じるのは、おそらく困難であったろう。十余年の昔、夫ピエールと二人で物理学校の中庭にある、くずれかけた倉庫住居の四年間、ラジウムを取り出すために瀝青れきせいウラン鉱の山と取り組み合ってくっしなかった彼女の不撓ふとうさ、さらにさかのぼってピエールに会う前後、パリの屋根裏部屋で火の気もなしに勉強していた女学生の熱誠ねっせいが、髪の白くなりかかっている四十七歳のマリアのからだと心の中に燃え立っていたのであった。
 キュリー夫人は、特別よい待遇をあたえられたとしてもこばんだであろう。人々が彼女の「有名さ」を忘れるよりさきに、マリアがそれをてていた。けれども軽薄な看護婦たちが、自分から名乗なのろうとはしない粗末な身なりのマリアを、ときには不愉快にさせる事があった。そういう時、彼女の心を温める一人の兵士のおもかげと一人の看護婦の思い出とがあった。それはベルギーのアルベール皇帝とエリザベート皇后とであった。この活動の間に、マリアは多くの危険にさらされ、一九一五年の四月のある晩は、病院からの帰り、自動車がみぞに落ちて顛覆てんぷくして負傷したこともあった。が、娘たちがそのことを知ったのは、ふたたび彼女が出発した後、偶然、化粧室で血のついた下着を見つけ、同時に新聞がそのことを報道したからであった。彼女は昔からそうであったように、自分の身についておこるかもしれない危険とか激しい疲労とか、そのからだにおよぼしているラジウムのおそろしい影響とかについて、一言ひとことも口に出さなかった。
 マリア・キュリーをこのような活動に立たせた力は何であったろう。日夜の過労のあいだに彼女の精神と肉体を支えている力は何であったろう。それは、決してせまい愛国心とか敵愾心てきがいしんとかいうものではなかった。科学者としての自分の任務を、がらんとした研究所の机の前で自分に問うたとき、マリアの心にかんだものは、十年ばかり前のある日曜日の朝の光景ではなかったろうか。それはケレルマン通りの家で、一通の開かれた手紙を間に置いてすわっているピエールとマリアの姿である。手紙はアメリカから来たものであった。瀝青れきせいウラン鉱からラジウムを引き出すことに成功した彼らが、その特許を独占して商業的に巨万の富を作ってゆくか、それとも、あくまで科学者としての態度を守ってその精錬せいれんのやり方をも公表し、人類科学のために開放するか、二つの中のどちらかに決定する種類のものであった。そのときピエールは、永年ながねんの夢であった整備された研究室の実現も考え、また夫として父親としての家庭に対する愛情から、いくらかの特許独占の方法を思わないでもなかったらしかったが、結局は、彼ら夫婦を結んでいるまじりのない科学的精神に反するものとして、そのことを放棄した。わずか十五分の間にそうして決められた自分たちの一生の方向、それはピエールが不慮ふりょの死をとげて八年を経た今日、あれほどピエールが望んでいてその完成を見なかった研究所が落成されている今日、マリアの心を他の方向にみちびきようのない力となって作用したのであろう。
 ブロンドの背の高い、両肩のすこし曲がったなざしに極度のやさしみをたたえている卓抜たくばつな科学者ピエールは、その父親とちがって、不断は時事問題などに対して決して乗り出さなかった。
「私は、腹を立てるだけ強くないんです」と自分から言っていたピエールが、ドレフュス事件でドレフュス大尉がユダヤ人であるということのために無辜むこの苦しみに置かれていることを知って、正義のために示した情熱。ノーベル賞授与式のときの講演でピエールがおこなった演説も、マリアに新しい価値で思いおこされたろう。彼はそのとき、次のようにいった。
「人はいちおう疑って見ることができます。人間は自然の秘密を知って、はたして得をするであろうか。その秘密を利用できるほど人間は成熟しているであろうか。それとも、この知識は有害なのであろうかと。が、私は人間は新しい発見から悪よりも、むしろ、善を引き出すと考える者の一人であります。
 マリアは、愛するピエールの最後のこの言葉を実現しなければならないと思ったろう。科学の力が、一方で最大限にその破壊の力をふるっている時には、ますます他の一方で創造の力、生きる力としての科学の力、それを動かす科学者としての情熱が必要と思われたにちがいない。
 一九一八年十一月の休戦の合図を、マリアは研究所にいて聞いた。うれしさにじっとしていられなくなったマリアが、激しい活動できずのついている例の自分の車の「小キュリー」に乗ってパリ市中を行進した気持ちは察するにあまりある。
 フランスの勝利は、マリアにとって二重の勝利を意味した。彼女の愛するポーランドは、一世紀半の奴隷どれい状態からかれて独立した。マリアは兄のスクロドフスキーに書いた。
「とうとう私たち(生まれながらに奴隷であり、ゆりかごの中からすでにくさりでつながれていた)は、永年ながねん夢見ていた私たちの国の復活を見たのです。」しかしキュリー夫人は、歴史の現実の複雑さに対してもやはり一個の洞察を持っていた。彼女はそのよろこびにわずに、さながら十九年後の今日を見とおしたように、続けて言っている。
「私たちの国が、この幸福を得るために高い代価を支払はらったこと、また今度も支払しはらわなければならないことは確かです。

 第二次大戦によってポーランドはふたたびナチスの侵略をうけ、南部ロシアのウクライナ地方とともに、もっとも惨酷さんこくな目にあわされた。しかしポーランド人民は、ウクライナの農民が善戦したとおりに雄々おおしくたたかって、ナチスをうちやぶった。単に自分たちの土地の上からナチスを追いはらったばかりでなく、世界の歴史から、暴虐ぼうぎゃくなナチズムの精神を追いはらったのである。ポーランド人民解放委員会の中に、ワンダ・ワシリェフスカヤという一人の優れた婦人作家が加わっていることをキュリー夫人が知ることができたら、どんなによろこんだであろう。


底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
   1952(昭和27)年8月発行
初出:不詳
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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はるかな道

―『くれない』について―
宮本百合子


 今、わたしの机の上に二冊の本が置かれている。一冊は最近、中央公論社から出版された、窪川くぼかわ稲子いねこのはじめての長編小説というべき『くれない』である。もう一冊は、これもごく近く白水社から出た『キュリー夫人伝』である。この二冊の本は、それぞれに違ったものである。左方は名の示すように、世界の科学に大なる貢献をした婦人科学者の伝記であるし、一方は日本の婦人作家によって書かれた一つの小説である。だが、この種類のちがう二冊の本は、その相違にもかかわらず、今日の生活のもとに現われて、なんと強力にわれわれの心によびかけてくることだろう。二十世紀の社会というものが、それぞれ国土のちがった、環境と習俗と専門のちがった、したがって生涯の過程も異なっている女性の生活記録にもなお、つらぬくひとすじの血脈を感じさせるのは、感動的な事実である。私たちには次のことがじつにはっきりと感じられる。
 もし、キュリー夫人が『くれない』を読み、その作者を知ったならば、彼女はきっと、そのけがれない女性の心で、この作者のひたむきな心と苦悩とを理解したであろうと。同じ暦の下に歴史が展開されていても、海のかなた、海のこなたでは、歴史の内包している生活の諸条件が、特に社会における女の現実の立場について、非常にちがっている。広い客観の見とおし、そして人間の発展と進歩への道に立って『くれない』を見れば、女主人公、明子の苦悩と努力とは、とりもなおさず、環境のおくれている多くの条件が重荷となって、合理的に、明るく輝かしく生きのびようとする意欲の桎梏しっこくとなることから生じている。妻として母として、そのうえにさらに作家として歴史の進歩に貢献していこうと欲する現代の社会性ひろい、情感ゆたかに努力的な婦人が、日本の時代の空気の中で、周囲の重り、自身の内部にある重り、愛する良人おっとのうちにある重りと、どのように交錯こうさくし合い、痛みつつ、まともに成長しようと健気けなげにたたかっているか、その記録が『くれない』であると思う。
 この小説は、夫婦ともどもに一定の仕事をもって行く結婚生活・家庭生活について、また、それぞれ独立した社会的存在である夫妻が、仕事の上でたがいに影響しあう微妙な心理について、おびただしい問題を呈出ていしゅつしている。これらの問題のなかには読者にとってあきらかに普遍性を持った性質のものとしてうけとられ、まじめな考察に導かれるものもあり、率直にいえば、誰でもみなこういう場合こう感じ、表現し、行動するのが普通であろうかという、きわめて自然な疑問に逢着ほうちゃくせざるを得ないような心理のモメントもあると思う。
 作者は少なくともこの作品の内部では、それらの二様のものの性質を、現実に作用しあう因子として十分に意識し、その本質を追求し、発展の方向にとらえて観察しつくしているとはい得ないように思える。双方がもつれからんでいる、その渦中に身はおかれたままである。その結果として、作中に事件は推移するが、全編を通っているいくつかの根本的な問題、小説のそもそも発端をなした諸契機の特質にふれての解決の示唆しさは見えていないのである。
 それにもかかわらず、『くれない』は、その真摯しんしさと人間的な熱意のせつなさとにおいて、わたしたちをゆさぶる作品である。この作品に描かれているような波乱と苦悩の性質について、そこからの出道でみちについて深く考えさせる作品である。
 『くれない』を読む人々は、おそらく『キュリー夫人伝』をも愛読する人々であろう。女性によって書かれたこの二種の本は、業績の相異とか資質の詮索せんさくとかをえて結局は人類がその時代にひそめられているさまざまの可能を実現し、花咲きみのらすためには、どのような良心と、精励せいれいとが生活の全面に求められているかということについて、男性の生涯へも直接関係している一つながりの問題を示しているのである。
〔一九三八年十一月〕


底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
   1952(昭和27)年10月発行
初出:「法政大学新聞」
   1938(昭和13)年11月20日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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キュリー夫人の命のほのお

―彼女を不死にするものは何か、
宮本百合子


 えらい女の人というものは、歴史の上で何人かいますし、現在でも世界には、幾人かの偉い婦人とよばれるにふさわしい人がいるでしょう。
 けれども、ひとくちにえらいといっても、その内容はいろいろで、えらさの大きさにもまた、さまざまのちがいがあると思われます。よく婦人雑誌の実話などのなかに、たとえば、手内職から今日の富豪となるまでの努力生活の女主人公として女の人の立志伝がったりしますが、そういう人の生涯でも、ある意味ではやはりえらいといえるでしょう。普通の人間のしのべないと思うような辛苦しんくをよくたえたり、機知をはたらかして窮地きゅうちを脱したり、その点では人並ひとなみ以上の生活の力を発揮しているわけですが、そういう立志伝を読むと、多くの場合私たちの心には、なにか一筋ひとすじの、ものたりない感情が残されるのはなぜでしょう。それはえらいにはちがいない、けれども、という心持ちがわくのはなぜでしょう。そこにこそ、人間の本当のえらさの微妙な意味がひそめられているのだろうと考えます。一人の人が自分のためだけに志を立て、自分の成功のためだけに努力し、富をふやし、社会的に有名人となったというだけの話を聞いても、私たちが真の人間としての偉さにうたれたり、心の高まるようなよろこびを見い出したりできないのは自然でしょう。本当の偉さはそういう、どちらかというと自分中心の成功に満足している姿のなかには見い出せないものです。
 キュリー夫人伝は、近ごろ非常にひろく多勢の若い人たちに読まれた本でした。おそらく、この雑誌の読者のかたも読んでいられるでしょう。そして、きっといろいろな感動をうけながら読み終えられたことだろうと思います。キュリー夫人は、疑いもなく世界の偉い婦人のうちの一人です。では、キュリー夫人の偉さ、美しさ、私たちの記憶にとどまって困難なときの私たちにとってはげましの魅力となる生気は、彼女の生きかたのどういうところからわき出ているのでしょうか。
 伝記を読んだ方々にはご承知のとおりに、マリアは、ポーランドの首府ワルソー〔ワルシャワの英語名。で、中学校の物理の先生をするかたわら副視学官をつとめていたスクロドフスキーの四人娘のすえっ子として生まれました。西暦一八六七年十一月に生まれたから、日本が明治元年をむかえた時です。聡明そうめいで教養も深い両親のご秘蔵っ子としてのマーニャは、いつも、家庭のたっぷりした情愛につつまれて幼い時代をすごしたけれども、小学生になるころからは、もうポーランドという国がこうむっていた昔の露帝ツァーの圧迫のわけまえをになって、教室で意地わるい視学の問いに、苦しい答えをしなければならないような経験のうちに成長しました。マーニャの家は、貧しいポーランドの貧しい小貴族のはしくれで、経済的には決して楽でなかったことは、マーニャの生まれた時分すでに結核けっかくの徴候があらわれていて閉じこもりがちであった、美しくて音楽好きの母が、小さいマーニャのために自分でくつをぬってやっているという家庭情景の描写のうちにも十分うかがえます。マーニャが、ごく集注的な精神をもって生まれていたということは、特別、私たちの注意をひく点だと思います。毎日五時になって、おやつがすむと、スクロドフスキー家の食堂の大テーブルの上には石油のつり燭台しょくだいがついて、さて、子どもたちの勉強がはじまります。キュリー夫人の伝を書いたエーヴは、彼女の尊敬すべき母の子ども時代にあって、その勉強時間のありさまを次のように描いています。「やがて、どこからとなく単調な合唱がいつまでも聞こえてくる。それはラテン語の詩句や、歴史の年代、あるいは数学の与件よけんを、大声でいって見ずにはいられない子供たちの声なのである」その騒々そうぞうしいなかでも、一旦いったんあることに注意をあつめたら最後、マーニャの気をほかへ散らすということは、どんないたずら巧者こうしゃの姉たちの腕にもかなうことでありませんでした。大テーブルに向かって、両ひじをついて両手をひたいにあて、まわりのうるささをふせぐために親指で耳をふさいで、マリアが何かはじめたら、もう彼女の頭脳は吸いこむように働きはじめ、おどろくばかりの記憶力のなかへそれをたたみ込むのでした。女学生時代の写真を見ると、マーニャはたいへんお父さん似です。小さめなキリッとした愛らしい口元も、まじめに正面を見ている力のこもった眼差も。ふっくりしたほがらかな顔だち、真摯しんしな誠実さのあらわれている風貌ふうぼうなど、お父さんそっくりです。金メダルを賞にもらって、マリアは女学校を卒業しました。が、そのころからますます切りつまってきた一家の経済のため、スクロドフスキーの娘たちはそれぞれ自活の道を立てなければならなくなって、十六歳半の若いマーニャも苦しい家庭教師として働きだしました。そのころは一時間半ルーブルという謝礼さえ、若い女の家庭教師に対しては高すぎる報酬と思われていた時代です。ところで、生まれつき勤勉で物わかりのいい若いマーニャは、家庭教師としての自分の生活をどんなふうに導いていたでしょう。マーニャが世間によくある若い女のように自分の境遇に負けて、一軒でもお顧客とくいをふやそうとあくせくしたり、相手のご機嫌きげんそんじまいと気色きしょくをうかがったりする卑屈ひくつさを、ちっとも持たなかったということはおもしろいところです。生活の必要から家庭教師をしているけれども、マーニャの心はもっと広い大きい未来のことを考えていました。十七歳の彼女の心の中の考えは、まだはっきりした形をとってこそいなかったが、人間の発達をはばむようないろいろの条件には決して屈伏くっぷくしないで、一人でも多くの人々がじゅうぶんの文化の光に浴さねばならないこと、そうして社会進歩はもたらされなければならないという事です。
 マーニャは、ワルソーの市中をあちらからこちらへと家庭教師の出教授をして働く合間あいまに、好学の若い男女によって組織されていた「移動大学」に出席して、解剖学・自然科学・社会学などの勉強をしました。そして、そこで学んだ知識をもって、工場に働いている人たちに有益な講義を聞かせて、彼らの進歩をたすけようとしました。マーニャが、天性の勤勉さ・緻密ちみつで、敏活びんかつな頭脳を、こうしてごく若いころから自分の功名のためだけに使おうなどとは思いもしなかった気質こそ、後年、キュリー夫人として科学者、人間としての彼女の真価をきめるものとなったと思います。
 姉のブローニャがパリへ行って勉強する費用を助けるために、自分は三年の間、ポーランドのある地方の貴族の家の住み込み家庭教師として辛抱しんぼうしたマリア。やっと自分がパリへ行ける番になって、ソルボンヌ大学の理科の貧しい学生となってからのマリアが、エレベーターなどありっこない七階のてっぺんのひどい屋根裏部屋で、ときには疲労と空腹とから卒倒そっとうするような経験をしながら、物理学と数学との学士号をとるまでがんばりとおした四年間。マリアがそういう生活にたえて、二十六歳のころ物理は一番で、数学は二番という成績で学士号を得たのが、決してただの負けじ魂や女の勝ち気や名誉心からではなかったことを、私たちは深く心にとめて味わわなければならないと思います。マリアは、しんから科学の学問が好きで、そこにつきることのない研究心と愛着とをさそわれ、そういう人間の知慧ちえのよろこびにひかれて、その勉強のためには、雄々しく辛苦しんくをしのぐねばりと勇気が持てたのでした。このことは、彼女が同じソルボンヌ大学で、すでに数々の重要な物理学上の発見をしていたピエール・キュリーと知りあい、たがいに愛して結婚してから後の全生涯の努力とも最後まで一貫しているマリアの命のほのおです。もしも彼女が、上成績で学位をとったことを、これから安楽な奥さん生活をいとなむためにより有利な条件として利用しようとでもする俗っぽい性根であったなら、決してピエール・キュリーのような天才的な、創意にみちた科学者の人柄と学問の立派さを理解することはできなかったでしょう。なぜなら、保守的な学界のなかで、当時三十五歳だったピエールの学者としての真価は、決してまだ十分には認められていなかったのですから。貧しいマリアにくらべても、彼は決して富裕というどころの生活ではなかったのですから。物理化学学校の実験室での、八時間。その一日の仕事の帰りみち、市場へまわって夫婦はいっしょに夕飯のための材料を買いました。家事の雑用をもっとも手まわしよくやって三時間。それからマリアの夜の時間は、家計簿の記入と中等教員選抜試験準備のためにつかわれて、朝の二時三時まで二つしかイスのないキュリー夫婦の書斎での活動はつづきます。
 一八九七年、マリアは長女のイレーヌを生み、彼女の家庭生活と科学者としての生活はいっそう複雑に多忙になったけれども、健康なマリアは、すべての卓抜たくばつな女性がこいねがうとおり、それらの生活の全面を愛して生きようとしました。「妻としての愛情も、母としての役目も、それから科学も、等しく同列において、そのいずれからも手をくまいと覚悟していた。そうして熱情と意志をもって、彼女はそのことに成功したのである」
 成功の冠は、一九〇四年、ピエールが四十五歳、マリアが三十六歳の年、ラジウムを発見した業績によって、世界的に彼らの上にもたらされました。ノーベル賞をあたえられた彼らは、科学者として最高の名誉の席につかせられ、学界からおくられる称号・学位の数々は、まるでそういう名誉でキュリー夫妻をかざることをおこたれば、その国々の恥辱ちじょくとなるとでもいいそうな勢いでした。もし、キュリー夫妻の艱難かんなん堅忍けんにんと努力と成功の物語がここまでで終わっていたとしたら、この人々の生涯は、なるほど立派でもあり業蹟ぎょうせきもあがっているが、いわば平凡な一つの立志伝にすぎなかったと思われます。
 成功し、業蹟ぎょうせきをたてた人の真の価値は、むしろ世間にその価値が認められてから後、その人がどんな態度で周囲からあたえられる尊敬や名誉やそれにともなう世間的な利益に処していくかというところにこそ、人間としての評価の眼が向けられるべきではないでしょうか。キュリー夫妻の生涯の価値、科学者としての真のえらさは、一九〇四年の春のある日曜日の朝の会話に、その精髄せいずいをあらわしていると思います。アメリカからきた一通の手紙が、二人の間のテーブルの上に置かれています。手紙は、アメリカの技術家からラジウム調製の方法を教えてくれるようにといって来ているものです。この手紙の内容は、誰にでもすぐ考えられるとおり、キュリー夫妻が世間の人たちが誰でもやっているとおり自分の発見に特許をとって、ラジウム応用のあらゆる事業から莫大ばくだいな富を独占するか、それとも、そんなことはいっさいせず、科学上の発見を人類の進歩のためにひろく開放するか、二つに一つの態度をきめさせる性質のものでした。特許をとれば、あきらかにラジウムは巨万の富をキュリー夫妻へもたらすでしょう。学生時代から貧乏のしどおしである日々の生活がやすらかになるばかりでなく、科学者としてキュリー夫妻が永年の間あこがれている設備のいい実験室さえ、何の苦もなく持つことができるでしょう。それらのことは、彼らのこれまでの辛苦しんくに対して当然のむくいではないのでしょうか。マリアはしずかに金儲かねもうけのことや物質上の報酬のことを考えたあげく、こういいました。「私たちの発見に商業的な未来があるとしても、それは一つの偶然で、それを私たちが利用するという法はありません。」ラジウムが病人をなおす役に立つからといって、そこからもうけることなど、マリアには思いもおよばないことであったのです。ピエールとマリアは、科学者としての彼らの後半生の方向を決めたこの重大な相談に、わずか十五分を費やしたきりでした。夫妻がノーベル賞を授与された祝賀会の講演で、次のように述べたピエールの言葉こそ、キュリー夫妻を不滅にした科学の栄光であると思います。「私は、人間が新しい発見から悪よりもむしろ善をひき出すと考える者の一人であります」と。
〔一九三九年十二月〕


底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「少女の友」
   1939(昭和14)年12月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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キュリー夫人

宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)露帝《ツァー》
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 一九一四年の夏は、ピエール・キュリー街にラジウム研究所キュリー館ができ上ってキュリー夫人はそこの最後の仕上げの用事と、ソルボンヌ大学の学年末の用事とで、なかなか忙がしかった。フランスの北のブルターニュに夏休みのための質素な別荘が借りてあったが、彼女はパリが離れられなくて、まず二人の娘イレーヌとエーヴとを一足先へそちらへやった。お母さんであるキュリー夫人は八月の三日になったならばそこで娘たちと落合って、多忙な一年の僅かな休みを楽しむ予定であった。
 ところが思いがけないことが起った。七月二十八日に、オーストリアの皇太子がサラエヴォで暗殺された。世界市場の争奪のため、危機にあった欧州の空気はその硝煙の匂いと一緒に、急速に動揺しはじめた。キュリー夫人は土用真盛りの、がらんとしたアパートの部屋でブルターニュの娘たちへ手紙を書いた。
「愛するイレーヌ。愛するエーヴ。事態がますます悪化しそうです。私たちは今か今かと動員令を待ち受けています。」
 しかし戦争にならなければそちらへ行けるでしょうと約束した月曜には、独軍が宣戦の布告もせずに武力に訴えながらベルギーを通過してフランスに侵入した。
 パリの母は再び娘たちに書いた。
「お互いにしばらくは、通信もできないかも知れません。パリは平静です。出征する人たちの悲しみは見られますが、一般に好ましい印象を与えています。」
 彼女は落着いた文章のうちに情熱をこめて、小国ながら勇敢なベルギーは容易にドイツ軍の通過を許さないだろうとフランス人はみな希望を持ち、苦戦は覚悟の上だけれどきっとうまくゆくだろうと信じていること、そして「ポーランドはドイツ軍に占領されました。彼らが通過した後には何が残るでしょう。伯母さんたちの消息も全く不明です」と伝えている。
 キュリー夫人の不幸な故国ポーランド、しかし愛と誇とによって記念されているポーランド。伯母というのは彼女の愛する姉たちである。スクロドフスキー教授の末娘、小さい勝気なマリア・スクロドフスカとして、露帝《ツァー》がポーランド言葉で授業を受けることを禁じている小学校で政府の視学官の前に立たされ、意地悪い屈辱的な質問に一点もたじろがず答えはしたが、その視学官が去ってしまうと、今まではりつめていた気のゆるんだ教室でわっと泣き出した少女時代の思い出。また十七歳の若々しい家庭教師として貴族の家庭で不愉快な周囲に苦しみながらも勉強のためにいくらかずつの貯金をし、休みの時は近所の百姓の子に真の母国の言葉ポーランド語を教えてやったりしていた時代の思い出。ドイツに蹂躙されたときいたときそれはみな新しい思い出となってキュリー夫人の胸に甦って来たであろう。ドイツ軍に掃蕩されようとしているポーランドにはまだその外の思い出もつながれている。「マドモアゼル・マリア」が、その射すくめるようなしかも深い優しさのこもった灰色の目と、特徴のある表情的な口もとの様子などで、いかにも人目を引く才気煥発な教養高い十九歳の家庭教師となった時、そのZ家の長男カジミールとの間に結ばれた結婚の約束のその無邪気な若い二人の申し出はZ氏を烈火のように憤らせZ夫人を失心させるほど驚かした。カジミールは、さんざん嚇かされ、すかされてマリアとの結婚を思いあきらめたが、マリアは、その事で全く居心地の悪くなったZ家からも、契約の期間が終るまでは勝手に立ち去ることができなかった。それからワルソーで暮した月日。思いもかけず、パリにいる姉のブローニャから、彼女をパリへ呼び寄せる一通の手紙を受取った一八九〇年の早春のある日の心持。それらはその苦しさにおいても、ときめきにおいても、恐ろしい忍耐でさえもすべてはポーランドの土と結ばれているものである。そのポーランドに惨《むご》たらしい破壊が加えられている。ドイツの彼らが通過した後には何が残るでしょうというキュリー夫人の言葉は短い。けれども、そこには不幸なポーランドが、ヨーロッパにおけるその位置からいつも両面からの侵略をこうむりつづけてきていることに対する深い憤りと、決してそれに屈しきってはしまわないその運命についての彼女の意味深い回想がこめられているのであった。

 八月二日にパリの動員がはじまると同時に、開設されたばかりであったラジウム研究所はたちまちからっぽ同様になってしまった。男の人々はそれぞれ軍務についた。研究所に残っている者といえば、心臓が悪くて軍務に適さない機械係のルイと林檎を三つ重ねたくらいの大きさしかない小使女きりであった。キュリー夫人は「万一の場合にはお母さんはこちらに踏み止まらなければなりません」といっていたその通り、パリに止まった。彼女は学者としての研究の仕事は、平和がかえるまで延期であることを知った。彼女がパリに、最後まで踏み止まる決心を固めたのは、生れながら困難に負けることの嫌いな彼女の気質で「逃げるという行為を好まなかった」ばかりではなかった。
 キュリー夫人は冷静に、パリの置かれている当時の事情を観察して、たといパリが包囲され、爆破されても、新しくできたばかりの研究所は自分の力で敵の手から守らなければならないと考えたからであった。研究所にある一グラムのラジウムを、人類と科学とのために侵略者の手から安全にしなければならないと決心したからであった。彼女の心には直覚的にささやくものがあった。「もし私がその場にいたらドイツ軍もあえて研究所を荒そうとはしないだろう。けれどもし私がいなかったらみななくなってしまうに相違ない。」
 八月の終りキュリー夫人は十七になっているイレーヌにあてこう書いた。「あなたのやさしい手紙を受取りました。どんなにあなたを抱きしめたく思ったことでしょう。危く泣き出すばかりでした。どうも成り行きが思わしくありません。私たちには大きな勇気が必要です。悪い天候の後には必ず晴れた日が来るという確信を固く持っていなければなりません。愛する娘たち、私はその希望を抱いてあなた方を固く抱きしめます。」
 刻々パリの危険が迫ってきた。キュリー夫人は貴重な一グラムを、安全なボルドー市へ移すことにきめた。一グラムのラジウムとは、鉛の被蓋の中で細い管が幾つもたえず光っている一つの大変に重い箱である。黒いアルパカの外套を着て、古びて形のくずれた丸い柔い旅行帽をかぶったマリアは、単身その重い箱を持って満員の列車に乗りこんだ。客車の中は敗戦の悲観論にみち溢れている。鉄道沿線の国道には、西へ西へと避難してゆく自動車の列がどこまでも続いている。しかしキュリー夫人はあたりの動乱に断乎として耳をかさず、憂いと堅忍との輝いている独特な灰色の眼で、日光をあびたフランス平野の景色を眺めていた。ボルドーには避難して来た人々があふれていて、キュリー夫人では重くて運びきれない百万フランの価格を持っている一グラムのラジウム入の箱を足許に置いたまま、危く駅前の広場で夜明しをしそうな有様であった。偶然、一人の官吏が彼女を助けた。やっと夜をしのぐ一部屋が見つかり、ラジウムは安全になった。翌朝キュリー夫人はその重い宝を銀行の金庫へ預けた。
 パリからボルドーへと向って来た旅行の間、彼女はまるで人目に立たずにすんだ。けれども今重い責任をはたしてパリに帰ろうとする時になると、彼女の廻りには人垣ができた。この婦人がパリへ帰ってゆく! 誰だろう? 何のために? パリが今にも包囲されるという噂が、人心を根からゆすっているのであった。マリアは固く口をつぐんで、自分の身を明さなかったが、それらの群衆に向って、パリは持ちこたえるだろうということ、市民は危険にさらされないだろうということを話して聞かせた。
 たった一人の非戦闘員である彼女を乗せた軍用列車は、信じられないほどののろさで平野を横切りながら、進んだり止ったりしてパリに近づいた。昨日研究所を出てから何一つ食べる暇のなかったマリアに、一人の兵士が雑嚢から大きなパンを出して彼女にくれた。それは愛するフランスの香り高いパンである。
 キュリー夫人が帰り着いたパリは、脅威を受けながらも物静かで、九月初めのうっとりするような光りをあびてきらめいている。そして喜ばしいニュースが巷に飛び交っていた。マルヌの戦闘が始まってドイツ軍の攻撃は阻止された。
 二人の娘たちはまだブルターニュにいた。マリアは彼女たちに向って、この新しい希望を語り「小さいシャヴァンヌに物理学の勉強をさせなさい。あなたはもしフランスの現在のために働けないとしたらフランスの未来のために働かなければなりません。物理学と数学とをできるだけ勉強して下さい。」

 パリに動員が始まったその時から、キュリー夫人は彼女の第二の母国、亡き夫ピエール・キュリーを彼女の生涯にもたらし、その科学の発見を完成させ、彼女を二人の娘の母にしたこのフランスの不幸を凌ぎやすいものにするために役立とうと考えていた。毎日毎日たくさんの女の人たちが篤志看護婦となって前線へ出て行く。彼女も研究所を閉鎖して早速同じ行動に移るべきであろうか。
 事態の悲痛さをキュリー夫人は非常に現実的に洞察した。科学者としての独創性が彼女の精神に燃えたった。マリアはフランスの衛生施設の組織を調べて、一つの致命的と思われる欠陥を見出した。それは後方の病院にも戦線の病院にもX光線の設備をほとんど持っていないという事である。あわれに打ちくだかれた骨の正しい手当、また傷の中の小銃弾や大砲の弾丸の破片をX光線の透写によって発見する装置が、この恐ろしい近代戦になくてもよいのであろうか。
 キュリー夫人は科学上の知識から、大規模の殺戮が何を必要としているかを見た。罪なく苦しめられている人々のために、彼女は彼女として、外の女では不可能な働き方をしなければならない。そこでキュリー夫人は活動を開始して先ず大学の幾つかの研究室にある幾つかのX光線装置に、自分の分をも加えた目録を作り、続いてその製造者たちのところを一巡して、X光線の材料で使えるだけのものをことごとく集め、パリ地方のそれぞれの病院に配布されるように計った。教授や技師や学者たちの間から篤志操作者が募集された。
 けれどもX光線の設備に、なくてならない電気さえひかれていないような野戦病院へ殺到して来る負傷者たちをどうしたらいいだろう。キュリー夫人はある事を思いついた。フランス婦人協会の費用で光線治療車というものを作った。これはヨーロッパでもはじめての試みであった。普通の自動車にレントゲン装置と、モーターと結びついて動く発電機を取りつけたもので、この完全な移動X光線班は一九一四年八月から各病院を廻り始めた。フランスの運命を好転させた歴史的な戦いであるマルヌの戦闘で、故国のために傷ついた人々は、パリへ後送されてその移動班に助けられたのであった。この放射光線車は軍隊の間で「小キュリー」と親密な綽名で呼ばれた。キュリー夫人は戦争の長びくことが分るにつれ、あらゆる手段を講じて、官僚と衝突してそれを説得し、個人の援助も求めて自動車を手に入れ、それをつぎつぎに研究所で装置して送り出した。そのようにして集められた車は二十台あった。マリアはその一台を自分の専用にした。
 戦傷者で溢れた野戦病院から、放射線治療班の救援を求める通知がキュリー夫人宛にとどく。マリアは大急ぎで自分の車の設備を調べる。兵士の運転手がガソリンをつめている間に、マリアはいつもながらの小さい白カラーのついた黒い服の上に外套をはおり、ボルドーへも彼女とともに旅をした例の丸帽子をかぶり、すり切れた黄色い革の鞄を持ち、運転手とならんでそのほろつきの自動車に乗った。運転台は吹きさらしである。こうして彼女はアミアンへ、恐怖の土地であったヴェルダンへと走り出す。
 野戦病院へ着くや否や、放射線室として一つの部屋を選定する。あらゆる部分品を組立てる。隣室には現像液が用意される。運転手に合図してダイナモが動き始める。マリアが姿を現わして後三十分でこれらの事が運ばれた。それから暗い部屋に外科医と一緒に閉じこもるキュリー夫人の前に、うめく人を乗せた担架が一つ一つと運び込まれ、彼女の活動は幾時間も続くばかりか、時によれば数日費された。負傷者の来る限りマリアはその暗い部屋から出ずに働き続けた。
 二十台の「小キュリー」の外に彼女の努力で治療室が二百作られ、二百二十班の治療班が組織された。彼女は交戦中フランス、ベルギーの三四百の病院をたえず廻った外、一九一八年には北イタリヤまで活動をひろげた。そこで彼女は放射能を持つ物質の資源を調査したのであった。専門の治療者も急速に養成されなければならない。ラジウム研究所でその仕事が始められ、三年の間に百五十人の治療看護婦が生れた。
 この時二人の娘たちはもうパリに帰っている。十七歳のイレーヌは放射学を勉強し、ソルボンヌの講義もかかさず聞きながら、まず母親の装置の操作を受持ったが、やがて救護班に加わった。ラジウム研究所の治療者養成のための講義では、若いイレーヌも母と一緒に先生として働いた。イレーヌは年こそ若いけれども、この困難と活動の期間にキュリー夫人にとって二人とない助手、相談相手、友人として成長したのであった。

 四年間のキュリー夫人の活動がどんなに激しく広汎であったかということは、小さい娘であったエーヴの書く手紙の宛名が、一通毎に母の移動先へと数限りなく動いて書かれていることでも語られている。古い服の袖に赤十字の腕章をピンで止めたきりの普通のなりで、その上へいつも研究所で着ている白いブルースを着けるだけで、キュリー夫人はどんな特別の服装もしなかった。食事のとれないなどということはざらであった。どんなところででも眠らなければならなかった。固いタコができてラジウムの火傷の痕のある手を持った小柄な五十がらみの一人の婦人が、着のみ着のままで野天のテントの中に眠っている。その蒼白い疲れた顔を見た人は、それが世界のキュリー夫人であり、ノーベル賞の外に六つの世界的な賞を持ち、七つの賞牌を授けられ、四十の学術的称号をあらゆる国々から捧げられているキュリー夫人であるということを信じるのはおそらく困難であったろう。十余年の昔、夫ピエールと二人で物理学校の中庭にある崩れかけた倉庫住居の四年間、ラジウムを取出すために瀝青ウラン鉱の山と取組合って屈しなかった彼女の不撓さ、さらに溯《さかのぼ》ってピエールに会う前後、パリの屋根裏部屋で火の気もなしに勉強していた女学生の熱誠が、髪の白くなりかかっている四十七歳のマリアの躯と心の中に燃え立っていたのであった。
 キュリー夫人は特別よい待遇を与えられたとしても拒んだであろう。人々が彼女の「有名さ」を忘れるよりさきにマリアがそれを捨てていた。けれども軽薄な看護婦たちが、自分から名乗ろうとはしない粗末な身なりのマリアを時には不愉快にさせる事があった。そういう時、彼女の心を温める一人の兵士の俤《おもかげ》と一人の看護婦の思い出とがあった。それはベルギーのアルベール皇帝とエリザベート皇后とであった。この活動の間にマリアは多くの危険にさらされ、一九一五年の四月のある晩は、病院からの帰り、自動車が溝に落ちて顛覆して負傷したこともあった。が、娘たちがそのことを知ったのは再び彼女が出発した後、偶然化粧室で血のついた下着を見つけ、同時に新聞がそのことを報道したからであった。彼女は昔からそうであったように、自分の身について起るかも知れない危険とか激しい疲労とか、その躯におよぼしているラジウムのおそろしい影響とかについて一言も口に出さなかった。
 マリア・キュリーをこの様な活動に立たせた力は何であったろう。日夜の過労の間に彼女の精神と肉体を支えている力は何であったろう。それは決して狭い愛国心とか敵愾心とかいうものではなかった。科学者としての自分の任務を、がらんとした研究所の机の前で自分に問うた時マリアの心に浮かんだものは、十年ばかり前のある日曜日の朝の光景ではなかったろうか。それはケレルマン通の家で、一通の開かれた手紙を間に置いて坐っているピエールとマリアの姿である。手紙はアメリカから来たものであった。瀝青ウラン鉱からラジウムを引き出すことに成功した彼らが、その特許を独占して商業的に巨万の富を作ってゆくか、それとも、あくまで科学者としての態度を守ってその精錬のやり方をも公表し、人類科学の為に開放するか、二つの中のどちらかに決定する種類のものであった。その時ピエールは永年の夢であった整備された研究室の実現も考え、また夫として父親としての家庭に対する愛情から、いくらかの特許独占の方法を思わないでもなかったらしかったが、結局は彼ら夫婦を結んでいるまじり気のない科学的精神に反するものとしてそのことを放棄した。わずか十五分の間にそうして決められた自分たちの一生の方向、それはピエールが不慮の死をとげて八年を経た今日、あれほどピエールが望んでいてその完成を見なかった研究所が落成されている今日、マリアの心を他の方向に導きようのない力となって作用したのであろう。
 ブロンドの背の高い、両肩の少し曲った眼なざしに極度の優しみを湛えている卓抜な科学者ピエールは、その父親と違って不断は時事問題などに対して決して乗り出さなかった。
「私は腹を立てるだけ強くないんです」と自分からいっていたピエールが、ドレフュス事件でドレフュス大尉がユダヤ人であるということのために無辜《むこ》の苦しみに置かれていることを知って、正義のために示した情熱。ノーベル賞授与式の時の講演でピエールが行った演説も、マリアに新しい価値で思い起されたろう。彼はその時次のようにいった。
「人は一応疑って見ることができます。人間は自然の秘密を知ってはたして得をするであろうか。その秘密を利用出来るほど人間は成熟しているであろうか。それとも、この知識は有害なのであろうかと。が、私は人間は新しい発見から悪よりも、むしろ、善を引き出すと考える者の一人であります。」
 マリアは愛するピエールの最後のこの言葉を実現しなければならないと思ったろう。科学の力が一方で最大限にその破壊の力を振るっている時には、ますます他の一方で創造の力、生きる力としての科学の力、それを動かす科学者としての情熱が必要と思われたに違いない。
 一九一八年十一月の休戦の合図をマリアは研究所にいて聞いた。嬉しさにじっとしていられなくなったマリアが、激しい活動で傷のついている例の自分の車の「小キュリー」に乗ってパリ市中を行進した気持は察するに余りある。
 フランスの勝利は、マリアにとって二重の勝利を意味した。彼女の愛するポーランドは一世紀半の奴隷状態から解かれて独立した。マリアは兄のスクロドフスキーに書いた。
「とうとう私たち(生れながらに奴隷であり、揺籃の中からすでに鎖でつながれていた)は、永年夢見ていた私たちの国の復活を見たのです。」しかしキュリー夫人は歴史の現実の複雑さに対してもやはり一個の洞察を持っていた。彼女はその喜びに酔わずに、さながら十九年後の今日を見透したように、続けていっている。
「私たちの国がこの幸福を得るために高い代価を支払ったこと、また今度も支払わなければならないことは確かです。」

 第二次大戦によってポーランドは再びナチスの侵略をうけ、南部ロシアのウクライナ地方とともに、最も惨酷な目にあわされた。しかしポーランド人民は、ウクライナの農民が善戦したとおりに雄々しくたたかって、ナチスをうち破った。単に自分たちの土地の上からナチスを追いはらったばかりでなく、世界の歴史から、暴虐なナチズムの精神を追いはらったのである。ポーランド人民解放委員会の中に、ワンダ・ワシリェフスカヤという一人の優れた婦人作家が加わっていることをキュリー夫人が知ることができたらどんなによろこんだであろう。



底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
   1952(昭和27)年8月発行
初出:不詳
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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はるかな道

――「くれない」について――
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)健気《けなげ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九三八年十一月〕
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 今わたしの机の上に二冊の本が置かれている。一冊は最近中央公論社から出版された窪川稲子の初めての長篇小説と云うべき「くれない」である。もう一冊は、これもごく近く白水社から出た「キュリー夫人伝」である。この二冊の本は、それぞれに違ったものである。左方は名の示すように、世界の科学に大なる貢献をした婦人科学者の伝記であるし、一方は日本の婦人作家によって書かれた一つの小説である。だが、この種類のちがう二冊の本は、その相違にもかかわらず、今日の生活の下に現れて何と強力に我々の心に呼びかけて来ることだろう。二十世紀の社会というものが、それぞれ国土の違った、環境と習俗と専門の違った、従って生涯の過程も異っている女性の生活記録にも猶貫く一すじの血脈を感じさせるのは、感動的な事実である。私たちには次のことが実にはっきりと感じられる。
 若しキュリー夫人が「くれない」をよみ、その作者を知ったならば、彼女はきっと、その汚れない女性の心で、この作者のひたむきな心と苦悩とを理解したであろうと。同じ暦の下に歴史が展開されていても、海の彼方、海の此方では、歴史の内包している生活の諸条件が、特に社会における女の現実の立場について、非常にちがっている。広い客観の見とおし、そして人間の発展と進歩への道に立って「くれない」を見れば、女主人公、明子の苦悩と努力とは、とりも直さず、環境のおくれている多くの条件が重荷となって、合理的に、明るく輝しく生き伸びようとする意欲の桎梏となることから生じている。妻として母としてその上に更に作家として歴史の進歩に貢献して行こうと欲する現代の社会性ひろい、情感ゆたかに努力的な婦人が、日本の時代の空気の中で、周囲の重り、自身の内部に在る重り、愛する良人の内にある重りと、どのように交錯し合い、痛みつつ、まともに成長しようと健気《けなげ》にたたかっているか、その記録が「くれない」であると思う。
 この小説は、夫婦ともどもに一定の仕事をもって行く結婚生活、家庭生活について、又、それぞれ独立した社会的存在である夫妻が、仕事の上で互に影響し合う微妙な心理について、夥しい問題を呈出している。これらの問題の中には読者にとって明かに普遍性をもった性質のものとしてうけとられ、真面目な考察に導かれるものもあり、率直に云えば、誰でも皆こういう場合こう感じ、表現し、行動するのが普通であろうかという極めて自然な疑問に逢着せざるを得ないような心理のモメントもあると思う。
 作者は少くともこの作品の内部では、それらの二様のものの性質を、現実に作用し合う因子として十分に意識し、その本質を追求し、発展の方向に捕えて観察しつくしているとは云い得ないように思える。双方が縺れ絡んでいる、その渦中に身はおかれたままである。その結果として、作中に事件は推移するが、全篇を通っているいくつかの根本的な問題、小説の抑々発端をなした諸契機の特質にふれての解決の示唆は見えていないのである。
 それにもかかわらず、「くれない」は、その真摯さと人間的な熱意の切なさとに於て、わたし達を揺ぶる作品である。この作品に描かれているような波瀾と苦悩の性質について、そこからの出道について深く考えさせる作品である。
「くれない」を読む人々は、おそらく「キュリー夫人伝」をも愛読する人々であろう。女性によって書かれたこの二種の本は、業績の相異とか資質の詮索とかを超えて結局は人類がその時代に潜められている様々の可能を実現し、花咲き実らすためには、どのような良心と、精励とが生活の全面に求められているかということについて、男性の生涯へも直接関係している一つながりの問題を示しているのである。[#地付き]〔一九三八年十一月〕



底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
   1952(昭和27)年10月発行
初出:「法政大学新聞」
   1938(昭和13)年11月20日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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キュリー夫人の命の焔

――彼女を不死にするものは何か、
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)傍《かたわら》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九三九年十二月〕
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 偉い女のひとというものは、歴史の上で何人かいますし、現在でも世界には幾人かの偉い婦人と呼ばれるにふさわしいひとがいるでしょう。
 けれども、ひとくちに偉いと云っても、その内容はいろいろで、えらさの大きさにも亦様々のちがいがあると思われます。よく婦人雑誌の実話などのなかに、たとえば手内職から今日の富豪となる迄の努力生活の女主人公として女のひとの立志伝がのったりしますが、そういうひとの生涯でも、或る意味ではやはりえらいと云えるでしょう。普通の人間の忍べないと思うような辛苦をよく耐えたり、機智を働かして窮地を脱したり、その点では人並以上の生活の力を発揮しているわけですが、そういう立志伝を読むと、多くの場合私たちの心には、何か一筋のものたりない感情がのこされるのは何故でしょう。それはえらいには違いない、けれども、という心持が湧くのは何故でしょう。そこにこそ、人間の本当のえらさの微妙な意味がひそめられているのだろうと考えます。一人の人が自分のためだけに志を立て、自分の成功のためだけに努力し、富を殖《ふや》し、社会的に有名人となったというだけの話をきいても、私たちが真の人間としての偉さにうたれたり、心の高まるような歓びを見出したり出来ないのは自然でしょう。本当の偉さはそういうどちらかというと自分中心の成功に満足している姿のなかには見出せないものです。
 キュリー夫人伝は近頃非常にひろく多勢の若い人たちに読まれた本でした。おそらく、この雑誌の読者のかたも読んでいられるでしょう。そして、きっといろいろな感動をうけながら読み終られたことだろうと思います。キュリー夫人は、疑いもなく世界の偉い婦人のうちの一人です。では、キュリー夫人の偉さ、美しさ、私たちの記憶にとどまって困難なときの私たちにとって励ましの魅力となる生気は、彼女の生きかたのどういうところから湧き出ているのでしょうか。
 伝記を読んだ方々には御承知の通りに、マリヤは、ポーランドの首府ワルソーで中学校の物理の先生をする傍《かたわら》副視学官をつとめていたスクロドフスキーの四人娘の末っ子として生れました。西暦一八六七年十一月に生れたから、日本が明治元年を迎えた時です。聰明で教養も深い両親の御秘蔵っ子としてのマーニャは、いつも家庭のたっぷりした情愛につつまれて幼い時代を過したけれども、小学生になる頃からは、もうポーランドという国が蒙っていた昔の露帝《ツァー》の圧迫のわけまえをになって、教室で意地わるい視学の問いに、苦しい答えをしなければならないような経験の裡に成長しました。マーニャの家は、貧しいポーランドの貧しい小貴族の端くれで、経済的には決して楽でなかったことは、マーニャの生れた時分既に結核の徴候があらわれていて閉じこもり勝であった美しくて音楽ずきの母が、小さいマーニャのために自分で靴を縫ってやっているという家庭情景の描写のうちにも十分窺えます。マーニャが、ごく集注的な精神をもって生れていたということは、特別私たちの注意をひく点だと思います。毎日五時になって、お八つがすむと、スクロドフスキー家の食堂の大テーブルの上には石油の釣燭台に灯がついて、さて、子供達の勉強がはじまります。キュリー夫人の伝をかいたエーヴは、彼女の尊敬すべき母の子供時代にあってその勉強時間の有様を次のように描いています。「やがてどこからとなく単調な合唱がいつまでも聞えて来る。それはラテン語の詩句や、歴史の年代、或いは数学の与件を、大声で云って見ずにはいられない子供たちの声なのである」その騒々しいなかでも、一旦或ることに注意をあつめたら最後、マーニャの気を外へ散らすということは、どんないたずら巧者の姉たちの腕にも叶うことでありませんでした。大テーブルに向って、両肱をついて両手を額に当て、まわりのうるささをふせぐために拇指で耳をふさいで、マリヤが何かはじめたら、もう彼女の頭脳は吸いこむように働きはじめ、驚くばかりの記憶力のなかへそれをたたみ込むのでした。女学生時代の写真を見ると、マーニャは大変お父さん似です。小さめなきりっとした愛らしい口元も、真面目に正面を見ている力のこもった眼差も。ふっくりした朗かな顔だち、真摯な誠実さのあらわれている風貌などお父さんそっくりです。金メダルを賞に貰って、マリアは女学校を卒業しました。が、その頃から益々切りつまって来た一家の経済のため、スクロドフスキーの娘たちは夫々自活の道を立てなければならなくなって、十六歳半の若いマーニャも苦しい家庭教師として働きだしました。その頃は一時間半ルーブルという謝礼さえ、若い女の家庭教師に対しては高すぎる報酬と思われていた時代です。ところで、生れつき勤勉で物わかりのいい若いマーニャは、家庭教師としての自分の生活をどんな風に導いていたでしょう。マーニャが世間によくある若い女のように自分の境遇にまけて、一軒でもお顧客《とくい》をふやそうとあくせくしたり、相手の御機嫌を損じまいと気色をうかがったりする卑屈さを、ちっとも持たなかったということは面白いところです。生活の必要から家庭教師をしているけれども、マーニャの心はもっと広い大きい未来のことを考えていました。十七歳の彼女の心の中の考えはまだはっきりした形をとってこそいなかったが、人間の発達を阻むようないろいろの条件には決して屈伏しないで、一人でも多くの人々が充分の文化の光に浴さねばならないこと、そうして社会進歩はもたらされなければならないという事です。
 マーニャは、ワルソーの市中をあちらからこちらへと家庭教師の出教授をして働く合間に、好学の若い男女によって組織されていた「移動大学」に出席して、解剖学、自然科学、社会学などの勉強をしました。そして、そこで学んだ知識をもって、工場に働いている人たちに有益な講義をきかせて、彼等の進歩を扶けようとしました。マーニャが、天性の勤勉さ、緻密で、敏活な頭脳を、こうしてごく若いころから自分の功名のためだけに使おうなどとは思いもしなかった気質こそ、後年キュリー夫人として科学者、人間としての彼女の真価をきめるものとなったと思います。
 姉のブローニャが巴里へ行って勉強する費用をすけるために、自分は三年の間、ポーランドの或る地方の貴族の家の住込家庭教師として辛抱したマリヤ。やっと自分が巴里へ行ける番になって、ソルボンヌ大学の理科の貧しい学生となってからのマリヤが、エレヴェータアなどありっこない七階のてっぺんのひどい屋根裏部屋で、時には疲労と空腹とから卒倒するような経験をしながら、物理学と数学との学士号をとる迄がんばり通した四年間。マリヤがそういう生活に耐えて、二十六歳のころ物理は一番で、数学は二番という成績で学士号を得たのが、決してただの負けじ魂や女の勝気や名誉心からではなかったことを、私たちは深く心にとめて味わわなければならないと思います。マリヤは、しんから科学の学問がすきで、そこに尽きることのない研究心と愛着とを誘われ、そういう人間の知慧のよろこびにひかれて、その勉強のためには、雄々しく辛苦を凌ぐ粘りと勇気がもてたのでした。このことは、彼女が同じソルボンヌ大学で既に数々の重要な物理学上の発見をしていたピエール・キュリーと知り合い、互に愛して結婚してから後の全生涯の努力とも最後まで一貫しているマリヤの命の焔です。もしも彼女が、上成績で学位をとったことを、これから安楽な奥さん生活を営むためにより有利な条件として利用しようとでもする俗っぽい性根であったなら、決してピエール・キュリーのような天才的な、創意にみちた科学者の人柄と学問の立派さを理解することは出来なかったでしょう。何故なら、保守的な学界のなかで、当時三十五歳だったピエールの学者としての真価は決してまだ十分には認められていなかったのですから。貧しいマリヤに比べても彼は決して富裕と云うどころの生活ではなかったのですから。物理化学学校の実験室での、八時間。その一日の仕事の帰り途、市場へまわって夫婦は一緒に夕飯のための材料を買いました。家事の雑用を最も手まわしよくやって三時間。それからマリヤの夜の時間は家計簿の記入と中等教員選抜試験準備のためにつかわれて、朝の二時三時まで二つしか椅子のないキュリー夫婦の書斎での活動はつづきます。
 一八九七年、マリヤは長女のイレーヌを生み、彼女の家庭生活と科学者としての生活は一層複雑に多忙になったけれども、健康なマリヤは、すべての卓抜な女性が希うとおりそれらの生活の全面を愛して生きようとしました。「妻としての愛情も、母としての役目も、それから科学も、等しく同列においてそのいずれからも手を抜くまいと覚悟していた。そうして熱情と意志をもって、彼女はそのことに成功したのである」
 成功の冠は、一九〇四年、ピエールが四十五歳、マリヤが三十六歳の年、ラジウムを発見した業績によって、世界的に彼等の上にもたらされました。ノーベル賞を与えられた彼等は科学者として最高の名誉の席につかせられ、学界からおくられる称号、学位の数々は、まるでそういう名誉でキュリー夫妻を飾ることを怠れば、その国々の恥辱となるとでも云いそうな勢でした。もしキュリー夫妻の艱難と堅忍と努力と成功の物語がここまでで終っていたとしたら、この人々の生涯は、成程立派でもあり業蹟もあがっているが、謂わば平凡な一つの立志伝にすぎなかったと思われます。
 成功し業蹟をたてた人の真の価値は寧《むしろ》世間にその価値が認められてから後、その人がどんな態度で周囲から与えられる尊敬や名誉やそれに伴う世間的な利益に処して行くかというところにこそ、人間としての評価の眼が向けられるべきではないでしょうか。キュリー夫妻の生涯の価値、科学者としての真のえらさは、一九〇四年の春のある日曜日の朝の会話にその精髄をあらわしていると思います。アメリカから来た一通の手紙が二人の間のテーブルの上におかれています。手紙は、アメリカの技術家からラジウム調製の方法を教えて呉れるようにと云って来ているものです。この手紙の内容は、誰にでもすぐ考えられるとおり、キュリー夫妻が世間の人たちが誰でもやっているとおり自分の発見に特許をとって、ラジウム応用のあらゆる事業から莫大な富を独占するか、それとも、そんなことは一切せず、科学上の発見を人類の進歩のためにひろく開放するか、二つに一つの態度をきめさせる性質のものでした。特許をとれば、明かにラジウムは巨万の富をキュリー夫妻へもたらすでしょう。学生時代から貧乏のしどおしである日々の生活が安らかになるばかりでなく、科学者としてキュリー夫妻が永年の間憧れている設備のいい実験室さえ何の苦もなく持つことが出来るでしょう。それらのことは、彼等のこれまでの辛苦に対して当然のむくいではないのでしょうか。マリヤは静に金儲けのことや物質上の報酬のことを考えた揚句、こう云いました。「私たちの発見に商業的な未来があるとしてもそれは一つの偶然で、それを私たちが利用するという法はありません。」ラジウムが病人を治す役に立つからと云って、そこから儲けることなどマリヤには思いも及ばないことであったのです。ピエールとマリヤは科学者としての彼等の後半生の方向をきめたこの重大な相談に、僅十五分を費したきりでした。夫妻がノーベル賞を授与された祝賀会の講演で次のようにのべたピエールの言葉こそ、キュリー夫妻を不滅にした科学の栄光であると思います。「私は人間が新しい発見から悪よりも寧ろ善をひき出すと考える者の一人であります」と。
[#地付き]〔一九三九年十二月〕



底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「少女の友」
   1939(昭和14)年12月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



*地名

(地名を冠した自然現象などを含む)

[フランス]
ピエール・キュリー街
ラジウム研究所キュリー館
ソルボンヌ大学 パリ大学か。
ソルボンヌ la Sorbonne もとフランス中世の神学生の寮。1808年パリ大学に吸収。現在は、パリ大学に属する文学部・理学部・古文書学校などの通称。創立者ソルボン(Robert de Sorbon1201〜1274)の名に因む。
ブルターニュ Bretagne (ブリタニアの転訛)フランス北西部、ブルターニュ半島を中心とする地方。住民はブルトン人(Bretons)と呼ばれ、古くからの習俗・言語など、特異なケルト文化を伝える。
ボルドー市 Bordeaux フランス南西部、ガロンヌ川に沿う港市。葡萄(ぶどう)酒の集散地。また、砂糖・ブランデー・綿織物などを産出する。人口21万5千(1999)。
フランス平野
マルヌ Marne フランス北部の川。セーヌ川の支流。長さ525キロメートル。水運にとって重要。マルヌ‐ライン運河によりライン川と結ばれている。
アミアン Amiens フランス北西部の都市。ソンム川に沿い、繊維工業が発達。13世紀建設のフランス最大の大聖堂は世界遺産。1802年英仏休戦条約締結の地。人口13万5千(1999)。
ヴェルダン
物理学校
ケレルマン通り
サラエヴォ Sarajevo 新・旧ボスニア‐ヘルツェゴヴィナの首都。ヨーロッパで最もイスラム的な都市といわれる。1914年6月末、オーストリア‐ハンガリー帝国皇太子およびその妃が、ここでセルビア青年に暗殺され、第一次大戦の導火線となった。人口52万9千(1991)。
[ベルギー] Belgique ヨーロッパ北西部の立憲王国。北海に面し、北部は低地、南部は丘陵地帯。近世初頭オランダに合邦、1830年独立。面積3万平方キロメートル。人口1042万1千(2004)。住民の多くはカトリックで、フラマン系(言語はオランダ語方言)とワロン系(言語はフランス語方言)とに分かれ、オランダ語・フランス語・ドイツ語を公用語とする。首都ブリュッセル。
[ポーランド] Poland 中部ヨーロッパの共和国。9世紀には王国を成し、中世後期には勢威を振るったが、近世初期から衰え、3次にわたってロシア・オーストリア・ドイツ3国に分割され、1815年ロシア領に編入、1918年独立。39年第二次大戦の当初ドイツ軍が侵入、ソ連軍も分割占領した。45年ソ連軍によって解放され、独立を回復。ポーランド統一労働者党が指導権を掌握し、52年人民共和国となる。89年の東欧民主化のなかで、非共産勢力による政権が発足。2004年EU加盟。工業・農業・畜産業が盛んで、石炭を始めとする鉱物資源も豊富。面積32万3000平方キロメートル。人口3818万(2004)。そのほとんどは西スラヴ系ポーランド人で、カトリック教徒が圧倒的に多い。首都ワルシャワ。
ワルソー Warsaw ワルシャワの英語名。
ワルシャワ Warszawa ポーランド共和国の首都。ヴィスワ川沿岸に位置し、商工業や交通の中心地。第一次・第二次大戦中はドイツ軍が占領し、戦争のたびに市街が破壊されたが、旧市街は復旧。人口169万1千(2004)。英語名ワルソー。
[ウクライナ] Ukraina 東ヨーロッパ平原の南西部を占める共和国。東はロシア、北西はポーランド、南西はルーマニア、南は黒海・アゾフ海に接する。肥沃なステップ地帯で、小麦の大産地。住民の4分の3はウクライナ人。1991年ソ連解体で独立。面積60万3000平方キロメートル。人口4727万1千(2004)。首都キエフ。小ロシア。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。




*年表


一八六七年一一月 マリア・キュリー、ポーランド、ワルシャワにて生まれる。
一八九〇年早春 パリにいる姉のブローニャから、マリアをパリへ呼び寄せる手紙を受け取る。
一八九七 長女のイレーヌ、生まれる。
一九〇四 ピエール四五歳、マリア三六歳の年、ラジウムを発見した業績によってノーベル賞をあたえられる。
一九一四年夏 ピエール・キュリー街にラジウム研究所キュリー館ができあがる。
一九一四年七月二八日 オーストリアの皇太子がサラエヴォで暗殺。
一九一四 独軍が宣戦の布告もせずに武力にうったえながらベルギーを通過してフランスに侵入。
一九一四年八月二日 パリ動員。開設されたばかりであったラジウム研究所は、たちまちからっぽ同様になる。
一九一四年八月終わり キュリー夫人、十七になっているイレーヌにあて手紙を書く。
一九一四年八月 移動X光線班、各病院をまわりはじめる。
一九一五年四月 マリア、病院からの帰りに自動車が溝に落ちて顛覆、負傷。
一九一八 治療班、北イタリアまで活動をひろげる。
一九一八年一一月 休戦。
一九三四年五月 マリア、体調不良で療養所に入院。
一九三四年七月四日 マリア、研究の影響による白血病で死去。
一九三八(昭和一三)一一月二〇日号 宮本百合子「はるかな道」『法政大学新聞』。
一九三九(昭和一四)一二月号 宮本百合子「キュリー夫人の命の焔」『少女の友』。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)

宮本百合子 みやもと ゆりこ 1899-1951 小説家。旧姓、中条。東京生れ。日本女子大中退。顕治の妻。1927〜30年ソ連に滞在、帰国後プロレタリア作家同盟常任委員。32年から終戦までに3度検挙。戦後、民主主義文学運動の先頭に立つ。作「貧しき人々の群」「伸子」「二つの庭」「播州平野」「道標」など。
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キュリー夫人
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キュリー夫人 Marie Curie 1867-1934 フランスの物理学者・化学者。ポーランド生れ。夫はピエール。夫の死後、ラジウムの分離に成功。1903年、夫とともにノーベル物理学賞、11年化学賞。
ピエール・キュリー Pierre Curie 1859-1906 フランスの物理学者。妻マリーとともにラジウム、またポロニウムを発見。また、磁性に関するキュリーの法則を発見。
イレーヌ → イレーヌ・ジョリオ=キュリー
イレーヌ・ジョリオ=キュリー Ire'ne Joliot-Curie 1897-1956 父はピエール・キュリー、母はマリ・キュリー。パリ生まれのフランスの原子物理学者。
ジョリオ‐キュリー Joliot-Curie 1900-1958 フランスの物理学者・平和活動家。キュリー夫妻の長女イレーヌの夫。夫妻協力して人工放射能の研究に寄与、夫妻でノーベル賞を受ける。第二次大戦後、フランス原子力庁長官となったが、職を追われ、1951年世界平和評議会議長。
エーヴ・キュリー E've Denise Curie Labouisse 1904-2007 フランスの芸術家、作家(英語式にイヴ・キュリーとも)。物理学者ピエール・キュリーと、物理学者・化学者マリ・キュリーの次女。1937年に書いた母の伝記で知られている。
スクロドフスキー教授
マリア・スクロドフスカ スクロドフスキー教授の末娘。
露帝 ツァー
カジミール
ブローニャ マリ・キュリーの姉。
シャヴァンヌ
アルベール皇帝 → アルベール1世
アルベール1世 Albert Ier 1875-1934 第3代ベルギー国王。1900年にバイエルン公女エリザベートと結婚し、レオポルド3世、フランドル伯シャルル、マリー=ジョゼ(イタリア王ウンベルト2世妃)の2男1女をもうけた。
エリザベート皇后 → エリザベート・ガブリエル・ヴァレリー・マリー
エリザベート・ガブリエル・ヴァレリー・マリー E'lisabeth Gabriele Vale'rie Marie 1876-1965 バイエルン生まれ。ベルギー国王アルベール1世の王妃、レオポルド3世の母。父はバイエルン公カール・テオドール、母はポルトガル国王ミゲル1世の娘マリア・ジョゼ。
スクロドフスキー マリア・キュリーの兄。
ワンダ・ワシリェフスカヤ → ワシレフスカヤ
ワシレフスカヤ Vanda L'vovna Vasilevskaya 1905-1964 ソ連邦の女流作家。ポーランドの革命運動を指導していたが、1939年ドイツ軍がワルシャワに迫ったため、ソ連に帰化し、ポーランド語で作品を書く。著『祖国』『いましめられた大地』『水の上の歌』『虹』ほか。『世界大百科事典』平凡社)
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はるかな道
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窪川稲子 くぼかわ いねこ 1904-1998 本名、佐多イネ。小説家。長崎市生まれ。最初の結婚に失敗したあと、東京本郷のカフェーにつとめ、雑誌『驢馬』の同人たちの、中野重治・堀辰雄たちと知り合い、創作活動をはじめる。その中で、やはり『驢馬』同人であった窪川鶴次郎と結婚する。
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キュリー夫人の命の焔
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◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)

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キュリー夫人
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はるかな道
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『キュリー夫人伝』 白水社。 ----------------------------------- キュリー夫人の命の焔 -----------------------------------

◇参照:Wikipedia。



*難字、求めよ


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キュリー夫人
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ラジウム radium (ラテン語で光線の意のradiusから)アルカリ土類金属元素の一種。元素記号Ra 原子番号88。ピッチブレンド中にウランと共存する。1898年キュリー夫妻が発見。銀白色の金属。天然に産する最長寿命の同位体は質量数226、アルファ線を放射して半減期1602年でラドンに変化する。医療などに用いる。
ツァー tsar' ツァーリ。帝政時代のロシア君主の称号。ラテン語の皇帝の意になったカエサル(Caesar)から出た語。ツァー。ツァール。ザール。ザー。
視学官 しがくかん (1) 1885年(明治18)文部省に置かれ、学事の視察・統制・監督を任務とした行政官。(2) 現制度で、文部科学省にあり、教育行政の連絡や指導・助言を行う職務。
X線 エックスせん (X-rays)電磁波の一種。ふつう波長が0.01〜10ナノメートルの間。1895年レントゲンが発見、未知の線という意味でX線と命名。物質透過能力・電離作用・写真感光作用・化学作用・生理作用などが強く、干渉・回折などの現象を生じるので、結晶構造の研究、スペクトル分析、医療などに応用。レントゲン線。
ダイナモ dynamo 発電機。
放射線 ほうしゃせん (radiation) (1) 放射性元素の崩壊に伴って放出される粒子線または電磁波。アルファ線・ベータ線・ガンマ線の3種をいうが、それらと同じ程度のエネルギーをもつ粒子線・宇宙線も含める。アルファ線はヘリウムの原子核、ベータ線は電子または陽電子から成る粒子線、ガンマ線は非常に波長が短い電磁波。いずれも気体を電離し、写真作用・蛍光作用を示す。1896年ベクレルにより、ウラン化合物から発見された。(2) 広義には種々の粒子線および電磁波の総称。輻射線。あるいは単に放射・輻射ともいう。
放射能 ほうしゃのう (radioactivity)放射性物質が放射線を出す現象または性質。
ブルース blouse ブルーズ、ブラウス。(1) 筒袖で胴まわりのゆるやかな仕事着。ブルーズ。(2) 女性・子供用の、薄手布で仕立てたシャツ風の上着。
瀝青ウラン鉱 れきせい ウランこう ピッチ‐ブレンドに同じ。
ピッチ‐ブレンド pitchblende 閃ウラン鉱のうち、特に塊状で結晶度の低いもの。瀝青(れきせい)ウラン鉱。
瀝青 れきせい (bitumen)(本来は天然アスファルトの意)天然に産する固体・半固体・液体または気体の炭化水素類に対する一般名。主なものは、固体のアスファルト、液体の石油、気体の天然ガスなど。ビチューメン。チャン。
ドレフュス事件 Affaire Dreyfus 19世紀末フランスの国論を二分した社会的・政治的事件。1894年ユダヤ系の陸軍大尉ドレフュス(Alfred Dreyfus1859〜1935)がドイツのスパイの嫌疑で終身刑に処せられたが、98年以来ゾラなどの知識人が人権擁護のため当局を弾劾し、軍部や右翼がこれに反論。のち真犯人が明らかになってドレフュスは1906年無罪。
無辜 むこ (「辜」は罪の意)罪のないこと。また、その人。
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はるかな道
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桎梏 しっこく (1) [孟子尽心上]足かせと手かせ。また、手足にかせをはめること。(2) 厳しく自由を束縛するもの。
抑々 そもそも
出道 でみち 出てくる道。出る経路。
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キュリー夫人の命の焔
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結核 けっかく〔医〕(Tuberkel ドイツ) (1) 結核菌によって起こされた小さな結節状の病変。(2) 結核症または肺結核の略。
与件 よけん 所与に同じ。
所与 しょよ (datum ラテン複数形data) (1) 与えられること。また、そのもの。(2) 〔哲〕思惟によって加工されない直接的な意識内容。感覚所与を意味することが多い。与件。(3) 一般に、研究などの出発点として異議なく受け取られる事実・原理。与件。
知慧 ちえ 知恵。
業蹟 業績か。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


きいたとき → 聞いたとき
よみ → 読み
もった → 持った
ひと → 人
のったり → 載ったり
かいた → 書いた
拇指 → 親指
すき → 好き
おかれて → 置かれて
のべた → 述べた

「看護婦」「小使い女」はそのままとしました。「リンゴを三つ重ねたくらいの大きさしかない小使い女」って、いくらなんでも……「リンゴ箱」の誤植か。

 赤坂憲雄『東西/南北考――いくつもの日本へ』(岩波新書、2000.11)読了。東北芸術工科大学の東北文化研究センター友の会に入っていたことがある。公開講座などで、たびたび赤坂さんのすがたを拝見したこともある。が、直接、話をかわしたことはない。
 同大学院学長になったこと、福島県立博物館長を兼任したことまでは知っていたものの、本年一月をもって同大学を辞職していたことを今になって知る(『山形新聞』1月13日)。同センター刊行の雑誌『東北学』は極力読んでいたにもかかわらず知らなかった……。

 異人《エトランゼ》・まれびと・来訪者、赤坂憲雄……ということだろうか。

 四月三〇日、くもり時々雨。風も空気も冷たくない。湯たんぽもすっかり不要になる。倉津川に三羽のツバメ飛来。製本テープと表紙用の厚紙を買って、たまっていたルーズリーフを整理。




*次週予告


第三巻 第四〇号 
大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録
私の覚え書
宮本百合子


第三巻 第四〇号は、
四月三〇日(土)発行予定です。
月末最終号:無料


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第三巻 第三九号
キュリー夫人(他)宮本百合子
発行:二〇一一年四月二三日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



T-Time マガジン 週刊ミルクティー*99 出版

第二巻

第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン 月末最終号:無料
第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン 定価:200円
第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 定価:200円
第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 定価:200円
第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 定価:200円
第六号 新羅人の武士的精神について 池内宏 月末最終号:無料
第七号 新羅の花郎について 池内宏 定価:200円
第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉 定価:200円
第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治 定価:200円
第十号 風の又三郎 宮沢賢治 月末最終号:無料
第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎 定価:200円
第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎 定価:200円
第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎 定価:200円
第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎 定価:200円
第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル 定価:200円
第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル 定価:200円
第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル 月末最終号:無料
第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル 定価:200円
第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉 定価:200円
第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉 定価:200円
第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太 月末最終号:無料
第二四号 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫 定価:200円
第二五号 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉 定価:200円
第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎 定価:200円
第二七号 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治 定価:200円
第二八号 翁の発生/鬼の話 折口信夫  月末最終号:無料
第二九号 生物の歴史(一)石川千代松  定価:200円
第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松  定価:200円
第三一号 生物の歴史(三)石川千代松  定価:200円
第三二号 生物の歴史(四)石川千代松  月末最終号:無料
第三三号 特集 ひなまつり  定価:200円  雛 芥川龍之介
 雛がたり 泉鏡花
 ひなまつりの話 折口信夫

第三四号 特集 ひなまつり  定価:200円  人形の話 折口信夫
 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫

第三五号 右大臣実朝(一)太宰治  定価:200円
第三六号 右大臣実朝(二)太宰治 月末最終号:無料
第三七号 右大臣実朝(三)太宰治 定価:200円
第三八号 清河八郎(一)大川周明 定価:200円
第三九号 清河八郎(二)大川周明  定価:200円
第四〇号 清河八郎(三)大川周明  月末最終号:無料
第四一号 清河八郎(四)大川周明  定価:200円
第四二号 清河八郎(五)大川周明  定価:200円
第四三号 清河八郎(六)大川周明  定価:200円
第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉  定価:200円
第四五号 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉  月末最終号:無料
第四六号 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉  定価:200円
第四七号 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉  定価:200円
第四八号 若草物語(一)L. M. オルコット  定価:200円
第四九号 若草物語(二)L. M. オルコット  月末最終号:無料
第五〇号 若草物語(三)L. M. オルコット  定価:200円
第五一号 若草物語(四)L. M. オルコット  定価:200円
第五二号 若草物語(五)L. M. オルコット  定価:200円
第五三号 二人の女歌人/東北の家 片山広子  定価:200円
第三巻 第一号 星と空の話(一)山本一清  月末最終号:無料


第三巻 第二号 星と空の話(二)山本一清  定価:200円


第三巻 第三号 星と空の話(三)山本一清  定価:200円


第三巻 第四号 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎  定価:200円


第三巻 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉  月末最終号:無料


第三巻 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝  定価:200円


第三巻 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南  定価:200円


第三巻 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南  定価:200円


第三巻 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南  月末最終号:無料


第三巻 第一〇号 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫  定価:200円


第三巻 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦  定価:200円
瀬戸内海の潮と潮流
コーヒー哲学序説
神話と地球物理学
ウジの効用


第三巻 第一二号 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦  定価:200円


第三巻 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉  定価:200円


第三巻 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉  月末最終号:無料


第三巻 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉  定価:200円
倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う
倭奴国および邪馬台国に関する誤解


第三巻 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)  定価:200円


第三巻 第一七号 高山の雪 小島烏水  定価:200円


第三巻 第一八号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(一)徳永 直  月末最終号:無料


第三巻 第一九号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(二)徳永 直  定価:200円


第三巻 第二〇号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(三)徳永 直  定価:200円


第三巻 第二一号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(四)徳永 直  定価:200円
 アジアには十六世紀を前後して銅活字の時代があり、朝鮮でも日本でもおこなわれている。秀吉の朝鮮侵略のみやげものに端を発している家康・家光時代の銅活字印刷があるけれど、それにくらべると、このさし絵に見る康熙帝の印刷局ははるかに大規模で組織的であることがわかる。しかし、日本でも『お湯殿日記』に見るような最初の文選工は「お公卿たち」であったが、支那でもあごひげの長い官人たちであった。明治になって印刷術が近代化されてからでも、印刷工業をおこした人々の多くが、武家など文字になじみのある階級だったように、私の徒弟だったころの先輩の印刷工の多くが、やはり士族くずれだったことを思い出す。(略)
 武英殿の銅活字は康熙帝の孫、高宗〔乾隆帝〕の代になるとつぶされて銅貨となった。日本でも家康時代の銅活字は同じ運命をたどっているけれど、支那のばあいは銅貨の不足が原因といわれている。しかし、もっと大きな原因は金属活字にあって、漢字組織ができないならば、またプレス式の印刷機もないとするならば、むしろ手わざの発達による木版の方が容易であり便利であった。ボディが銅であれ鉛であれ、それが彫刻に過ぎないならば、むしろ木版にしくはない。銅活字がほろびて再び木版術が栄え、極彩色の芸術的な印刷物もできるようになった。康熙・乾隆の時代に見られるこの傾向は、十七世紀の終わりから十八世紀のなかほどまでであるが、江戸中期から木版術が再興し、世界にたぐいない木版印刷術を生み出した日本と時間的にもほぼ一致している――ということも、漢字が持つ共通の宿命がするわざであったろう。

第三巻 第二二号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(五)徳永 直  月末最終号:無料
 『東洋文化史上におけるキリスト教』(三六二ページ)で溝口靖夫氏は、前に述べたメドハーストが(Ibid, P.366)自分の当時の経験を追懐した文章を根拠にして、つぎのように述べているところがある。――第五の困難は、アヘン問題と宣教師の関係であった。メドハーストが広東に着いた一八三五年は、アヘン戦争の直前であり、支那と英国のあいだに険悪な空気がみなぎっていた。このときにあたって宣教師たちは、きわめて困難なる立場に置かれた。宣教師たちは、しばしばアヘンを積んだ船に乗ってきた。しかも、メドハーストらは切符は買っているが、積荷について容嘴(ようし)する権利はなかった。……宣教師は、英国人と支那人との間に立って、しばしば通訳の労をとらねばならなかったが、こんなとき支那人はアヘン貿易は正義にかなえるものなりや否や? をただすのであった。……ゆえに当時、宣教師たちのこいねがったのは、一艘の伝道用船を得ることであった。これによりアヘンの罪悪からまぬがるることであった。――一艘の伝道船で、アヘンから逃れることはできないけれど、一口にいって「インドからの手紙」は、英国議会をして宣教師らの活動を保証させる決議案をパスさせながら、こんどは「信教の自由憲章」を勝ち取らねばならぬほどそれが首かせになったことを示している。つまり、産業革命が生み出したアルファベット人種の革命的進歩性は、おなじ産業革命が生み出した「アヘンの罪悪」と衝突しなければならなかったが、この矛盾こそ資本主義の矛盾の中味であり、限界であった。

第三巻 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治  定価:200円
「ですから、もしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを大きな乳の流れと考えるなら、もっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油(あぶら)の球にもあたるのです。(略)
 先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズをさしました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶが、みんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いので、わずかの光る粒、すなわち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒すなわち星がたくさん見え、その遠いのはボウッと白く見えるという、これがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、また、その中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この次の理科の時間にお話しします。では今日はその銀河のお祭りなのですから、みなさんは外へ出て、よく空をごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。
 そして教室じゅうはしばらく机のふたをあけたりしめたり本をかさねたりする音がいっぱいでしたが、まもなく、みんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。 

第三巻 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治  定価:200円
 そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルと転轍器(てんてつき)の灯をすぎ、小さな停車場に止まりました。
 その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示し、その振子は、風もなくなり汽車も動かずしずかなしずかな野原のなかに、カチッカチッと正しく時をきざんで行くのでした。
 そしてまったくその振子の音の間から遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れてくるのでした。「新世界交響楽だわ。」むこうの席の姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言いました。まったくもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。
(こんなしずかないいところで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい。僕といっしょに汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかり話しているんだもの。僕はほんとうにつらい。)
 ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして、むこうの窓の外を見つめていました。
 透きとおったガラスのような笛が鳴って、汽車はしずかに動き出し、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛をふきました。

第三巻 第二五号 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治  定価:200円
 空が青くすみわたり、ドングリはピカピカしてじつにきれいでした。
「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山ねこが、すこし心配そうに、それでもむりに威張(いば)って言いますと、ドングリどもは口々にさけびました。
「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」もうみんな、ガヤガヤガヤガヤ言って、なにがなんだか、まるで蜂の巣をつっついたようで、わけがわからなくなりました。そこで山猫がさけびました。
「やかましい! ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ!」

第三巻 第二六号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(六)徳永 直  定価:200円
 活字が日本に渡るには、他の条件が必要であった。そして、その他の条件のうちもっとも大きなものは、やはり文久二年・一八六二年の日本幕府がはじめてやった貿易船千歳丸の上海入港であったろう。(略)経済的にいえばこの貿易は失敗したけれど、不馴れな幕府の役人たちは積荷をそのまま持ち戻るはめにもなったけれど、オランダの役人につれられて各国の領事たちにあったり、諸外国人の活動ぶりを見てびっくりした。たとえばこれを便乗者・高杉一人の場合に見てもあきらかである。(略)その後二年あまりで、攘夷の中心長州藩が領民に洋品使用の禁を解き、薩摩や佐賀と前後して海外貿易を営なんだ急角度の転回も、したがって「薩長締盟」を可能にした思想的背景も、このときの千歳丸便乗によって彼が上海で感得したものによるところ、はなはだ多いといわれている。
 (略)第一回の千歳丸のときは高杉のほかに中牟田や五代〔五代友厚か。〕や浜松藩の名倉(なぐら)予可人(あなと)などあったが、第二回の健順丸のときは、前巻でなじみの昌造の同僚で長崎通詞、安政開港に功労のあった森山多吉郎、先の栄之助がいまは外国奉行支配調役として乗り組んでいたし、第三回目、慶応三年(一八六七)の同じく幕府船ガンジス号のときは、佐倉藩士高橋作之助〔猪之助か。(のちの由一)ら多数があり、たび重なるにつれて上海渡航者の数は急速に増えていった。(略)
 また、官船以外の密航者、あるいは藩所有の船修理と称して渡航する者もたくさんあった。(略)さては中浜万次郎を案内に立てて汽船を買いに来た土佐藩の後藤象次郎などと、千歳丸以後は「きびす相ついで」いる(略)。

第三巻 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫  月末最終号:無料
黒川能・観点の置き所
 特殊の舞台構造
 五流の親族
 能楽史をかえりみたい
 黒川の能役者へ
村で見た黒川能
能舞台の解説
春日若宮御祭の研究
 おん祭りの今と昔と
 祭りのお練り
 公人の梅の白枝(ずはえ)
 若宮の祭神
 大和猿楽・翁
 影向松・鏡板・風流・開口
 細男(せいのお)・高足・呪師

 山形県には、秋田県へかけて室町時代の芸能に関した民俗芸術が多く残っております。黒川能は、その中でも著しいものの一つで、これと鳥海山の下のひやま舞い〔杉沢比山舞か。〕との二つは、特に皆さまに見ていただきたいものであります。この黒川能が二十数年ぶりでのぼってくるのであります。世話をしてくださった斎藤氏〔斎藤香村か。〕に感謝しなければならないと思います。
 特にこの能で注意しなければならないのは、舞台構造であります。京都の壬生念仏を思わせるような舞台で、上下の廊下が橋掛りになっており、舞台の正面には春日神社の神殿をひかえているのであります。(略)奉仕する役者はというと、上座と下座が二部落にわかれており、ここで能をするときは、上座は左橋掛り(正面から見て)から出て舞い、下座は右橋掛りから出て舞うことになっている。これはもっとも大きな特徴で、今度の公演にいくぶんでも実現できれば結構だと思います。この神前演奏の形は、春日の若宮祭りの第一日の式と同形式といっていいと思います。しかも、黒川ではつねにその形式をくり返しているわけで、見物人よりも神に対する法楽を主としていることがわかります。
(略)おもしろいのは狂言です。表情にも言語にも必ず多少の驚きを受けられるでしょう。ことに方言的な言い回しなどには、つい、われわれも見ていて釣りこまれるものがありました。(「黒川能・観点の置き所」より)

第三巻 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎  定価:200円
面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
能面の様式 / 人物埴輪の眼
(略)しかし「意味ある形」、たとえば「甲冑」を円筒上の人物に着せたとなると、その甲冑は、四肢などに対するとはまったく段ちがいの細かな注意をもって表現されている。(略)それはこの鉄の武器が、人体などよりもはるかに強い関心の対象であったことを示すものであって、いかにも古墳時代の感じ方らしい。(略)
(略)埴輪(はにわ)人形を近くからでなく、三間、五間、あるいはそれ以上に、ときには二、三十間の距離を置いて、ながめてみる必要があると思う。それによって埴輪人形の眼はじつに異様な生気をあらわしてくるのである。もし、この眼が写実的に形作られていたならば、すこし遠のけば、はっきりとは見えなくなるであろう。しかるにこの眼は、そういう形づけを受けず、そばで見れば粗雑に裏までくりぬいた空洞の穴にすぎないのであるが、遠のけば遠のくほど、その粗雑さが見えなくなり、魂の窓としての眼の働きが表面へ出てくる。それが異様な生気を現わしてくるゆえんなのである。眼にそういう働きがあらわれれば、顔面は生気をおび、埴輪人形全体が生きてくるのはもちろんである。古墳時代の人々はそういうふうにして埴輪の人形を見、また、そういうふうに見えるものとして埴輪の人形を作ったのであった。

第三巻 第二九号 火山の話 今村明恒  定価:200円
 桜島噴火はいちじるしい前徴を備えていた。数日前から地震が頻々(ひんぴん)におこることは慣例であるが、今回も一日半前から始まった。また七、八十年前から土地がしだいに隆起しつつあったが、噴火後は元どおりに沈下したのである。そのほか、温泉・冷泉がその温度を高め、あるいは湧出量を増し、あるいは新たに湧出し始めたようなこともあった。
 霧島火山群は東西五里にわたり二つの活火口と多くの死火山とを有している。その二つの活火口とは矛の峰(高さ一七〇〇メートル)の西腹にある御鉢(おはち)と、その一里ほど西にある新燃鉢(しんもえばち)とである。霧島火山はこの二つの活火口で交互に活動するのが習慣のように見えるが、最近までは御鉢が活動していた。ただし享保元年(一七一六)における新燃鉢の噴火は、霧島噴火史上においてもっとも激しく、したがって最高の損害記録をあたえたものであった。
 磐梯山(高さ一八一九メートル)の明治二十一年(一八八八)六月十五日における大爆発は、当時、天下の耳目を聳動(しょうどう)せしめたものであったが、クラカトアには比較すべくもない。このときに磐梯山の大部分は蒸気の膨張力によって吹き飛ばされ、堆積物が渓水をふさいで二、三の湖水を作ったが、東側に流れ出した泥流のために土地のみならず、四百余の村民をも埋めてしまったのである。

第三巻 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 上の巻
   序文
    過去の時代(序文の第一段)
    『古事記』の企画(序文の第二段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
   一、イザナギの命とイザナミの命
    天地のはじめ
    島々の生成
    神々の生成
    黄泉の国
    身禊
   二、アマテラス大神とスサノオの命
    誓約
    天の岩戸
   三、スサノオの命
    穀物の種
    八俣の大蛇
    系譜
 スサノオの命は、かようにして天の世界から逐(お)われて、下界へ下っておいでになり、まず食物をオオゲツ姫の神にお求めになりました。そこでオオゲツ姫が鼻や口、また尻からいろいろのごちそうを出して、いろいろお料理をしてさしあげました。この時にスサノオの命はそのしわざをのぞいて見て、きたないことをして食べさせるとお思いになって、そのオオゲツ姫の神を殺してしまいました。殺された神の身体にいろいろの物ができました。頭にカイコができ、二つの目に稲種ができ、二つの耳にアワができ、鼻にアズキができ、股の間にムギができ、尻にマメができました。カムムスビの命が、これをお取りになって種となさいました。
 かくてスサノオの命は逐いはらわれて出雲の国の肥(ひ)の川上、鳥髪(とりかみ)という所におくだりになりました。このときに箸(はし)がその河から流れてきました。それで川上に人が住んでいるとお思いになってたずねて上っておいでになりますと、老翁と老女と二人があって少女を中において泣いております。そこで「あなたは誰ですか?」とおたずねになったので、その老翁が、「わたくしはこの国の神のオオヤマツミの神の子でアシナヅチといい、妻の名はテナヅチ、娘の名はクシナダ姫といいます」と申しました。また「あなたの泣くわけはどういう次第ですか?」とおたずねになったので「わたくしの女(むすめ)はもとは八人ありました。それを高志(コシ)の八俣の大蛇(おろち)が毎年きて食べてしまいます。今また、それの来る時期ですから泣いています」と申しました。

第三巻 第三一号 現代語訳『古事記』(二)武田祐吉(訳)  月末最終号:無料
 古事記 上の巻
   四、大国主の命
    兎と鰐
    赤貝姫と蛤貝姫
    根の堅州国(かたすくに)
    ヤチホコの神の歌物語
    系譜
    スクナビコナの神
    御諸山の神
    大年の神の系譜
   五、アマテラス大神と大国主の命
    天若日子(あめわかひこ)
    国譲り
   六、ニニギの命
    天降り
    猿女の君
    木の花の咲くや姫
   七、ヒコホホデミの命
    海幸と山幸
    トヨタマ姫
スクナビコナの神 そこで大国主の命が出雲の御大(みほ)の御埼(みさき)においでになった時に、波の上をツルイモのさやを割って船にして、蛾(が)の皮をそっくりはいで着物にして寄ってくる神さまがあります。その名を聞きましたけれども答えません。また、御従者(おとも)の神たちにおたずねになったけれども、みな知りませんでした。ところがヒキガエルが言うことには、「これはクエ彦がきっと知っているでしょう」と申しましたから、そのクエ彦を呼んでおたずねになると、「これはカムムスビの神の御子でスクナビコナの神です」と申しました。よってカムムスビの神に申し上げたところ、「ほんとにわたしの子だ。子どもの中でも、わたしの手の股からこぼれて落ちた子どもです。あなた、アシハラシコオの命と兄弟となってこの国を作り固めなさい」とおおせられました。それで、それから大国主とスクナビコナとお二人が並んでこの国を作り固めたのです。後にはそのスクナビコナの神は、海のあちらへ渡って行ってしまいました。このスクナビコナの神のことを申し上げたクエ彦というのは、今いう山田のカカシのことです。この神は足は歩きませんが、天下のことをすっかり知っている神さまです。
御諸山の神 そこで大国主の命が心憂く思っておおせられたことは、「わたしはひとりではどのようにしてこの国を作り得ましょう。どの神さまといっしょにわたしはこの国を作りましょうか?」とおおせられました。この時に、海上を照らして寄ってくる神さまがあります。その神のおおせられることには、「わたしに対してよくおまつりをしたら、わたしがいっしょになって国を作りましょう。そうしなければ国はできにくいでしょう」とおおせられました。そこで大国主の命が申されたことには、「それなら、どのようにしておまつりをいたしましょう?」と申されましたら、「わたしを大和の国の青々と取り囲んでいる東の山の上におまつりなさい」とおおせられました。これは御諸(みもろ)の山においでになる神さまです。

第三巻 第三二号 現代語訳『古事記』(三)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 中の巻
   一、神武天皇
    東征
    速吸の門
    イツセの命
    熊野から大和へ
    久米歌
    神の御子
    タギシミミの命の変
   二、綏靖天皇以後八代
    綏靖天皇
    安寧天皇
    懿徳天皇
    孝昭天皇
    孝安天皇
    孝霊天皇
    孝元天皇
    開化天皇
   三、崇神天皇
    后妃と皇子女
    美和の大物主
    将軍の派遣
   四、垂仁天皇
    后妃と皇子女
    サホ彦の反乱
    ホムチワケの御子
    丹波の四女王
    時じくの香の木の実
 この天皇〔崇神天皇〕の御世に、流行病がさかんにおこって、人民がほとんどつきようとしました。ここに天皇は、ご憂慮あそばされて、神をまつってお寝みになった晩に、オオモノヌシの大神がお夢にあらわれておおせになるには、「かように病気がはやるのは、わたしの心である。これはオオタタネコをもってわたしを祭らしめたならば、神のたたりが起こらずに国も平和になるだろう」とおおせられました。そこで急使を四方に出してオオタタネコという人を求めたときに、河内の国の美努(みの)の村でその人を探し出してたてまつりました。(略)そこで天皇が非常にお歓びになっておおせられるには、「天下が平らぎ人民が栄えるであろう」とおおせられて、このオオタタネコを神主として御諸山(みもろやま)でオオモノヌシの神をおまつり申し上げました。(略)これによって疫病がやんで国家が平安になりました。
 このオオタタネコを神の子と知ったしだいは、上に述べたイクタマヨリ姫は美しいお方でありました。ところが形姿・威儀並びなき一人の男が夜中にたちまち来ました。そこでたがいに愛でて結婚して住んでいるうちに、何ほどもないのにその嬢子(おとめ)が妊(はら)みました。そこで父母が妊娠したことを怪しんで、その娘に、「お前は自然に妊娠した。夫がないのにどうして妊娠したのか?」とたずねましたから、答えて言うには「名も知らないりっぱな男が夜ごとに来て住むほどに、自然に妊みました」と言いました。そこでその父母が、その人を知りたいと思って、その娘に教えましたのは、「赤土を床のほとりに散らし麻糸を針につらぬいてその着物の裾(すそ)に刺せ」と教えました。よって教えたとおりにして、朝になって見れば、針をつけた麻は戸の鉤穴から貫けとおって、残った麻はただ三輪だけでした。そこで鉤穴から出たことを知って糸をたよりにたずねて行きましたら、三輪山に行って神の社にとまりました。そこで神の御子であるとは知ったのです。その麻の三輪残ったのによってそこを三輪というのです。このオオタタネコの命は、神(みわ)の君・鴨(かも)の君の祖先です。 

第三巻 第三五号 地震の話(一)今村明恒  月末最終号:無料
 一、はしがき
 二、地震学のあらまし
 三、地震に出会ったときの心得(こころえ)
  一、突差(とっさ)の処置
  二、屋外(おくがい)への避難
 日本は地震国であり、また地震学の開けはじめた国である。これは誤りのない事実であるけれども、もし日本は世界中で地震学がもっとも進んだ国であるなどというならば、それはいささかうぬぼれの感がある。実際、地震学のある方面では、日本の研究がもっとも進んでいる点もあるけれども、その他の方面においては必ずしもそうでない。それゆえ著者らは地震学をもって世界に誇ろうなどとは思っていないのみならず、この頃のように、わが国民がくりかえし地震に征服せられてみると、むしろ恥かしいような気持ちもする。すなわち大正十二年(一九二三)の関東大地震においては一〇万の生命と五十五億円の財産とを失い、二年後、但馬の国のケチな地震のため、四〇〇の人命と三〇〇〇万円の財産とを損し、また二年後の丹後地震によって三〇〇〇の死者と一億円の財産損失とを生じた。そしてこれらの損失のほとんど全部は地震後の火災によるものであって、被害民の努力しだいによっては大部分、免れ得られるべき損失であった。しかるに事実はそうでなく、あのような悲惨な結果の続発となったのであるが、これを遠く海外からながめてみると、日本はおそろしい地震国である。地震のたびごとに大火災をおこす国である。外国人は命がけでないと旅行のできない国である。国民は、ああたびたび地震火災に悩まされても少しもこりないもののようである。地震によって命を失うことをなんとも思っていないのかもしれないなどという結論を下されないとも限らぬまい。実際、これは欧米人の多数が日本の地震に対する観念である。かく観察されてみるとき、著者のごとき斯学の専攻者は非常な恥辱を感ぜざるを得ないのである。もちろん、この学問の研究が容易に進歩しないのも震災国たるの一因には相違ないが、しかしながら地震に対して必要な初歩の知識がわが国民に欠けていることが、震災拡大の最大原因であろう。じつに著者のごときは、地震学が今日以上に進歩しなくとも、震災のほとんど全部はこれを免れ得る手段があると考えているものの一人である。

第三巻 第三六号 地震の話(二)今村明恒  定価:200円
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※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。
 三、地震に出会ったときの心得
  三、階下の危険
  四、屋内にての避難
  五、屋外における避難
  六、津波と山津波(やまつなみ)との注意
  七、災害防止
  八、火災防止(一)
  九、火災防止(二)
 一〇、余震に対する処置
 非局部性の大地震をおこすことのある海洋底に接した海岸地方は、大ゆれの地震にみまわれたばあい、津波についての注意を要する。ただし、津波をともなうほどの地震は最大級のものであるから、倒壊家屋を生ずる区域が数個の国や県にわたることもあり、あるいは震源距離が陸地からあまり遠いために、単に広区域にわたって大ゆれのみを感じ、地震の直接の損害を生じないこともある。
(略)津波とは津の波、すなわち港に現われる大津波であって、暴風など気象上の変調からおこることもあるが、もっとも恐ろしいのは地震津波である。元来、波というから、読者はすぐに風でおこされる波を想像せられるかもしれないが、むしろ潮の差し引きというほうが実際に近い。
(略)明治二十九年(一八九六)の三陸大津波は、その原因、数十里の沖合いにおける海底の地形変動にあったのであるが、津波の常習地たるじょうご形の港湾の奥においては、図に示されたとおり、あるいは八十尺、あるいは七十五尺というような高さの洪水となり、合計二万七〇〇〇人の人命を奪ったのに、港湾の両翼端ではわずかに数尺にすぎないほどのものであったし、その夜、沖合いに漁猟に行っていた村人は、あんな悲惨事が自分の村でおこったことを夢想することもできず、翌朝、跡かたもなく失われた村へ帰って茫然自失したという。
(略)しばしば海底の大地震をおこす場所に接し、そこに向かって大きくじょうご形に開いた地形の港湾がそれにあたるわけであるが、これについで多少の注意をはらうべきは、遠浅の海岸である。たとい海岸線が直線に近くとも、遠浅だけの関係で、波の高さが数倍の程度に増すこともあるから、もし沖合いにおける高さが数尺のものであったならば、前記のごとき地形の沿岸において多少の被害を見ることもある。

第三巻 第三七号 津波と人間/天災と国防/災難雑考 寺田寅彦  定価:200円
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 しかし、ここで一つ考えなければならないことで、しかも、いつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。(略)
 文明が進むにしたがって人間は、しだいに自然を征服しようとする野心を生じた。そうして、重力に逆らい、風圧・水力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうして、あっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻(おり)をやぶった猛獣の大群のように、自然があばれ出して高楼を倒壊せしめ、堤防を崩壊させて人命を危うくし、財産をほろぼす。その災禍をおこさせた元のおこりは、天然に反抗する人間の細工であるといっても不当ではないはずである。災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやがうえにも災害を大きくするように努力しているものは、誰あろう文明人そのものなのである。
 もう一つ、文明の進歩のために生じた対自然関係のいちじるしい変化がある。それは人間の団体、なかんずくいわゆる国家あるいは国民と称するものの有機的結合が進化し、その内部機構の分化がいちじるしく進展してきたために、その有機系のある一部の損害が系全体に対してはなはだしく有害な影響をおよぼす可能性が多くなり、ときには一小部分の傷害が全系統に致命的となりうる恐れがあるようになったということである。(略)
 二十世紀の現代では、日本全体が一つの高等な有機体である。各種の動力を運ぶ電線やパイプやが縦横に交差し、いろいろな交通網がすきまもなく張り渡されているありさまは、高等動物の神経や血管と同様である。その神経や血管の一か所に故障がおこれば、その影響はたちまち全体に波及するであろう。今度の暴風で畿内地方の電信が不通になったために、どれだけの不都合が全国に波及したかを考えてみれば、このことは了解されるであろう。

第三巻 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉  定価:200円
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思いのほかの雪中旅行 / 箱雪車(はこぞり)とモンペ / 後三年駅 / 江畑新之助君 / タヤとラク / 防壁と立薦(たつごも) / 雪の金沢柵址 / 金沢八幡社のお通夜 / 仙北の俘囚(ふしゅう) / 山形泰安寺――秋元家の巾着寺 / 庄内の獅子踊りと神楽、サイドウ / 山形県の史跡調査について / 山形城址 / おばこ踊り / 羽黒の裸祭
 昨年〔大正十一年(一九二二)〕十一月にはじめて出羽の踏査に着手したその続きを、この春の休暇中にやってみたいと思っているおりから、山形県史跡名勝天然記念物調査委員会の開会式がおこなわれるので、やって来ぬかと理事官の有吉君から言ってこられた。これ幸いと、さきにご厄介になった庄内の阿部正己君に、同地方遺跡踏査のご相談におよぶと、このころはまだ雪が深くてとてもダメだとのお返事だ。冗談じゃない、こちらではもう桜が咲きかけているころだ。同じ本州のうちでも奥羽地方となるとそんなにまで様子が違うものか、これは一つ、遺跡踏査よりも雪の春景色を見たいものだ。それには庄内方面よりもいっそう雪の深かりそうな羽後の仙北地方がよかろう。かねて見たいと思っている後三年の役の遺跡・金沢柵址を、雪の中に見てまわるもおもしろかろう。ついでに、久しくお目にかからぬ紫水生・深沢多市君をもお訪ねしたい。(略)

 十二時すこし前に後三年駅で下車すると、改札口に深沢君が待っておられる。(略)
 自分らのソリの通っている下はことごとく水田で、道路も用水路もかまわず、好きなところを好きな方向に、勝手に道を作ってその上を進んで行くのだ。農夫は朝早くからソリで肥料を運搬して、各自、自分の地面と思うところへそれを分配している。まちがえて他人の地面に置いて行くことはなかろうかと、他目には案じられるが、遠方の立木や山などの見通しで見当をつけて、自分の地面をまちがえるようなことは決してないそうな。なんでもこの雪国では、雪の上の交通を利用して、その期間になるべく物を運んでおくのだという。材木を載せたソリ、砂利を載せたソリなど、いくつも縦列をなして通っている。土木工事の材料を、今のうちに軽々と運んでおくものらしい。雪の多いときには、一人で十数俵の米を運ぶのも容易だという。他所にあって考えたときには、雪に閉じこめられた地方の人々は、さだめてその期間禁足の憂き目を味わって、薄暗い家の中にのみ数か月間を閉じこめられているのかと気の毒にも思っていたが、その時がかえって交通に至便なのだとは、雪にもやはり利用の道があるものだ。

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