喜田貞吉 きた さだきち
1871-1939(明治4.5.24-昭和14.7.3)
歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。


もくじ 
春雪の出羽路の三日 喜田貞吉


ミルクティー*現代表記版
春雪の出羽路の三日

思いのほかの雪中旅行 / 箱雪車(はこぞり)とモンペ / 後三年駅 / 江畑新之助君 / タヤとラク / 防壁と立薦(たつごも) / 雪の金沢柵址 / 金沢八幡社のお通夜 / 仙北の俘囚(ふしゅう) / 山形泰安寺――秋元家の巾着寺 / 庄内の獅子踊りと神楽、サイドウ / 山形県の史跡調査について / 山形城址 / おばこ踊り / 羽黒の裸祭

オリジナル版
春雪の出羽路の三日

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

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*凡例
〈 〉:割り注、もしくは小書き。
〔 〕:編者(しだ)注。

*底本
底本:『喜田貞吉著作集 第一二巻 斉東史話・紀行文』平凡社
   1980(昭和55)年8月25日 初版第1刷発行
初出:『社会史研究』第9巻第6号
   1923(大正12)年6月
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1344.html

NDC 分類:212(日本史/東北地方)
http://yozora.kazumi386.org/2/1/ndc212.html
NDC 分類:915(日本文学/日記.書簡.紀行)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc915.html




春雪の出羽路の三日

喜田貞吉


   思いのほかの雪中旅行

 昨年〔大正十一年(一九二二)〕十一月にはじめて出羽の踏査とうさに着手したその続きを、この春の休暇中にやってみたいと思っているおりから、山形県史跡名勝天然記念物調査委員会の開会式がおこなわれるので、やって来ぬかと理事官の有吉君から言ってこられた。これさいわいと、さきにご厄介やっかいになった庄内の阿部あべ正己まさき君に、同地方遺跡踏査とうさのご相談におよぶと、このころはまだ雪が深くてとてもダメだとのお返事だ。冗談じゃない、こちらではもう桜が咲きかけているころだ。同じ本州のうちでも奥羽地方となるとそんなにまで様子が違うものか、これは一つ、遺跡踏査よりも雪の春景色げしきを見たいものだ。それには庄内方面よりもいっそう雪の深かりそうな羽後うご仙北せんぽく地方がよかろう。かねて見たいと思っている後三年の役の遺跡・金沢かねざわ柵址さくしを、雪の中に見てまわるもおもしろかろう。ついでに、久しくお目にかからぬ紫水生深沢ふかさわ多市たいち君をもお訪ねしたい。同君は昨年、丹後熊野くまの郡長を辞してこの仙北せんぽくの地に帰臥きがせられ、お好きの道とて郷里の故事を調査せられ、現に秋田県史跡調査委員となって、最近には「雄勝おかち城址じょうし考」の謄写版とうしゃばん刷りをも寄せられたほどの熱心なお方だ。雪で踏査がダメならば、お目にかかってお話をうかがうだけでも有益であるに相違ない。同君は昨年帰郷後、祝融しゅくゆうの災にかかられて、多年収集の史料までも少なからず焼いてしまわれた。したしくそのお見舞いも申したい。かたがた今回は羽後うごまで足をのばそうと、さっそくご都合をうかがうと、ぜひ出てこいといわれる。その交渉に手間取てまどって、やっと二十七日の東京上野駅発の夜の急行で出発した。
 東海道線とはちがって奥羽線の二等室はゆっくりしている。寝室を取らずとも楽々と足をのばして、大宮駅のあたりから眠りにつき、白河・福島も夢の間にすぎて、目が覚めたのはすでに奥州おうしゅう〔陸奥国の異称。羽州しゅう〔出羽国の異称。の境界たる板谷峠いたやとうげをも越えた後であった。窓外そうがいを見ればまだ夜が明けぬながら、なるほど雪が深いらしい。さすがに出羽だと思った。米沢・赤湯あかゆあたり、平地の開けたところ見渡すかぎり広々と雪の原だ。それが不思議にも山形に近づくとほとんどなくなっている。山形で下車して有吉君に行程のことを電話し、つぎの列車に乗りかえて北に進む。天童・神町じんまち楯岡たておか以北、また、だんだんと雪が多くなっている。平地では約二尺、線路の両側にかきあげたところでは、八尺くらいの高さの所がある。民家の屋のむねからかき落とした雪は家をとりかこんで堤防を作り、家の入口は低く穴室あなむろの中へおりて行く形になっている所もある。これならばなるほどよく寒風を防いで、冬も比較的暖かくすごせるわけだ。線路に沿うて墓地のある所があった。石碑はむろん深く雪の底にうまっている。そこに新たにめられた新墓が二基、雪を掘り上げた擂鉢すりばちの底のような所に、さびしく設けられているのはいっそう物哀ものあわれだ。雪国では葬式も容易でない。
 新庄以北、釜淵かまぶち及位のぞきあたり、山手にかかっては雪がますます深く、山の斜面には雪崩なだれの跡がところどころに見える。駅の前は吹雪ふぶきけの葦簀よしずの垣根が作られている。同車の客の土木請負師うけおいしらしい人は言う。「私はこの奥羽線架設の当時から、鉄道工事に関係していますが、この地方の雪ときては、とても他地方の人の想像にもおよばぬところです。なにしろ、あのありさまですもの、冬の真っさかりなど、どんな設備をしたとて、とうていあの天然の威力にはかないません。それを知りもせずに代議士だの新聞記者だのという奴らは、実地を見にくるだけの親切もなく、やれ予防工事が不完全だの、雪は毎年降るにきまった物だのと、鉄道の故障のあるたびごとにうるさく文句を言うのです。もし雪の多いところ全部に鉄筋かレンガで、ナデ(雪崩なだれ、すなわちナダレの略称)け、スノーセットをトンネル風にでも作ったなら、あるいはどんな大雪でもたえられましょうが、それではとても費用が続かず、また、その必要のない年中の大部分が不快でたまりません」と。なるほどそれにちがいない。人力はよくだんだんと天然に打ち勝っていくとはいえ、今のところではまだ、ぜんぜんこれを征服するとまでにはいかないのだ。どうで昔はこんな交通機関などはなかったのだもの、たまに大雪で汽車が不通になったならば、大井川おおがわ河止かわどめにあったくらいに覚悟してもらえばよいのかもしれぬ。しかし今のいわゆる目覚めざめた人間には、なかなかそれでは承知ができないのだ。とても相撲にならんと、頭から考えてもみなかった労働者らが、結束して資本主に食ってかかる世の中だもの。

   箱雪車はこぞりとモンペ

 十二時すこし前に後三年駅ごさんねんえきで下車すると、改札口に深沢君が待っておられる。当年の郡長様も郷里では鳥打とりうぼうにモンペというちだ。モンペとははかまとズボンとのいの子で、雪国にはなくてはならぬもの。地方によって多少作り方もちがい、タチツケ、あるいは略してタッケ、猿袴さるばかまみなどともいい、庄内あたりではマタシャリとも言うそうな。昔は一般に猟師・山人やまびとなどの着用したものだが、今でも雪国には広くおこなわれている服装なのだ。
 深沢君に伴われて、駅前のある会社の事務所で少憩しょうけい金沢かねざわ八幡社の祠官しかん三浦憲郎君とともに、飯詰村いいづめむら中島の江畑新之助君のやしきに案内せられて、この夜は同家で一同ご厄介やっかいになる。駅から江畑君のお宅まで約二十五町、生まれてはじめて箱雪車はこぞりというもので送られた。いな、乗ったことがないばかりでなく、見たこともまたはじめてなのだ。雪の上ではとても人力車がきかぬので、車屋さんも雪の間だけ雪車屋そりやさんに早がわりする。人一人をやっと座らせるくらいの大きさの箱をソリに取りつけ、上に母衣ほろをかけたもので、厚い座敷団座蒲団とんか。をしき、毛布でダルマさんのようにくるまって、火鉢でもかかえていれば、まずさむさ知らずという結構けっこうな交通具だ。それを乳母車を押すように後から押して行く。つなをつけて前から引く。雪の多い、ことにそれがこおっているようなころには、きわめて軽快に動くそうなが、しかし、今は雪消ゆきげ時期なので、そうでもないらしい。
 この冬はことに雪が多く、この仙北せんぽくあたりでは、さかりには平地に八尺ももったという。今でも三尺ばかりの厚さはある。その一面の雪野ゆきのの中にも自然に通路ができている。表面はかためられておっても、下の方からだんだんとけてくるので、れた足の車屋さんでも、おりおり足を深くふみこむ。小川や水たまりの所などには、ところどころ雪が陥没かんぼつして、断崖だんがいが現われている。幅三、四尺の土橋どばしの上に、二、三尺の厚さに積もった雪が両側からくずれ落ちて、上面うわつらわずかに二尺たらずの梯形ていけいをなしている上を、車屋さんはれたわざとてたくみに引いていく。もし、そのけかけた雪が少しでもくずれたなら、たちまち箱雪車はこぞりもろとも川の中へ墜落ついらくするわけで、ときどきヒヤヒヤさせられる。翌二十九日、三浦祠官しかんは朝早くから金沢かねざわへ先発せられ、自分は深沢君とともに、またも箱雪車はこぞりに送られて、後三年の役の遺跡たる金沢かねざわ柵址さくし踏査とうさに出かけた。この間、約一里。春霞はるがすみが深くこめて数町先は見えず、眼界のおよぶところ、ことごとく純白な雪の郊野こうやで、シベリアの氷原もかくやと思われるくらい、その中を薄ボンヤリと、右往左往にソリが通う。雪国の景色けしきをはじめて見る自分には、これも日本のうちかと、言いしれぬ異様の感に打たれたことであった。しかもこれが三月も末の二十九日で、自分の郷里の阿波あわなどでは、とくに〔とっくに。普通の桜は散りかけて、ヤエザクラ満開の時期なのだから驚く。
 自分らのソリの通っている下はことごとく水田で、道路も用水路もかまわず、好きなところを好きな方向に、勝手に道を作ってその上を進んで行くのだ。農夫は朝早くからソリで肥料を運搬して、各自、自分の地面と思うところへそれを分配している。まちがえて他人の地面に置いて行くことはなかろうかと、他目よそめには案じられるが、遠方の立木や山などの見通しで見当をつけて、自分の地面をまちがえるようなことは決してないそうな。なんでもこの雪国では、雪の上の交通を利用して、その期間になるべく物を運んでおくのだという。材木をせたソリ、砂利じゃりを載せたソリなど、いくつも縦列をなして通っている。土木工事の材料を、今のうちに軽々かるがると運んでおくものらしい。雪の多いときには、一人で十数ひょうの米を運ぶのも容易だという。他所よそにあって考えたときには、雪に閉じこめられた地方の人々は、さだめてその期間禁足のあじわって、薄暗うすぐらい家の中にのみ数か月間を閉じこめられているのかと気の毒にも思っていたが、その時がかえって交通に至便しべんなのだとは、雪にもやはり利用の道があるものだ。

   後三年駅ごさんねんえき

 自分の昨日下車した車駅を後三年駅ごさんねんえきという。近年の新設で、陸地測量部の地図にはっておらぬ。地図をたよりに金沢かねざわ柵址さくし踏査とうさ旅程りょていを予定した自分には、当初この駅の存在がわからず、したがって汽車の切符もつぎの飯詰いいづめ駅まで買っておいたのであったが、昨日、深沢君から「二八ヒゴ三ネンエキマツ」という電報が東京の宅にとどいた。それを自分は、二十八日午後三時ネン駅で待つとのことであろうと解して、ハテ珍しい駅名だと、地図を探してみたがそれらしいものはない。ようやく旅行案内の時間表をってみて、はじめて後三年駅ごさんねんえきなるものの存在を知ったことであった。
 後三年駅ごさんねんえきとはよくも考えた名前だ。聞くところによれば、この駅の所在は金沢町かねざわまち飯詰村いいづめむら金沢かねざわ西根村にしねむらの三町村入会地いりあいちで、どの町村名を取って駅に名づけるということもできず、すったもんだのあげくに、後三年の役の戦跡せんせきたる金沢かねざわ柵址さくしに通ずる最近の駅だというので、その役の名を駅に取ったのだという。ただ「役」と「駅」と、音通のところがまぎらわしい。
 駅から役の最後の遺跡たる金沢かねざわ柵址さくしまで約一里。その間に一群の丘陵が邪魔じゃまになって、遠望のきかぬのは駅名に対して残念だ。この丘陵は他の山からはまったく離れて平地中に存在するもので、その南端のものを経塚山というそうな。その上部には鉢巻はちまき風に段地が山を一周している。段地の上は古墳だとの説があるそうだが、あるいは館としてうがった塹濠ざんごうの跡かもしれぬ。なにぶん雪が深いのと、時間の余裕がなかったのとで、登攀とうはん調査することができなかった。いずれ他日を期したい。この辺の地大部は江畑氏の所有で、同氏は近くこれを提供して一大公園にしたいとの計画だとうけたまわった。

   江畑新之助君

 深沢君によってご案内を受けた江畑新之助君は、秋田県多額納税者中にも屈指なお方のよしで、その邸宅は先年火災にあい、新たに建てられたものだという。広々とした庭園をひかえた、いたって宏大こうだいなものだ。同君は、もともと庭園と読書とに趣味を有せられているそうで、邸内の林泉りんせんは川にまたがって設計せられ、よほど趣向をこらされたものらしい。しかし、なにぶん今もって深く雪にうめられ、庭木を保護する雪よけのタケノコが、雪中にいくつも突っ立っているほどのありさまなので、地面の上の様子はすこしもわからず、ただ、その大規模なところを拝見したにすぎなかった。同君が駅前の丘陵きゅうりょう一帯を公園とされようというのも、やはりこの趣味からであろう。同君の蔵書もかなり多いもので、今なお新刊書などをさかんに買いこまれ、ゆくゆくは一つの図書館として公開せられるおつもりらしい。本宅からはだいぶ離れた一棟の土蔵をそれにあてておられるのは結構けっこうなことだ。収集家は、すべからくこれだけのこころがけが必要である。多数に古器物や珍籍を集めていたがために、火事のさいに一度にそれを焼いてしまうというようなことは、たしかに一つの罪悪だ。しかして昨年、この罪悪を犯して参考書に不自由な深沢君は、江畑氏のこの書庫について書籍の整理や、目録の調製かたがた、閲覧えつらん研究をかさねておられる。同君希望の書籍はなんでも江畑文庫にそなえてくれられるとのことだ、深沢君もよい文庫をひかえられたものである。
 案内をうけて、同じ邸内ながらも雪の山に登ったり、雪の谷にりたりしつつ、やっと書庫にたどりつく。書庫はまだ新しい土蔵造りで、一方にお座敷がついている。深沢君はここで書籍を整理したり、閲覧したりしておられるのだ。蔵書目録がまだ整頓せいとんしておらぬので、拝見するには不便であったが、所蔵の書籍の種類は各方面にわたって、この文庫の特徴というものがなさそうだ。江畑君も、将来これをいかに発展せしむべきかに迷っておられる。そこで自分は、郷里の石原君〔石原六郎。呉郷ごきょう文庫が主として歴史と地理とに局限せられ、とくに阿波あわに関する史料の収集に力をもちいられつつあることをお話しして、どうで歴史好きの深沢君が関係しておられることだから、なるべくこの方面に発展せしめられ、とくに出羽に関する史料ならば、この文庫へればなんでもあるというくらいの抱負ほうふをもって収集に尽力せられたならおよろしかろう、とおすすめしたことであった。江畑君もこれには賛成せられた。深沢君の同感は言うまでもないことと信ずる。
 蔵書の中から『真澄ますみ遊覧記』を借り出して、ところどころひろい読みした。前号〔『社会史研究』第九巻第五号。〕資料欄に納めておいたのは、その中の一節である。
 二十八日の夜は、深沢君および三浦君とともにこの江畑君の御宅でご厄介やっかいになった。近所の石名館いしなだてから発掘したという石器・土器など取り寄せて見せてくださった。土器はもちろんアイヌ式のもので、石器は多くは奥羽地方の普通品だが、ただ一つ、糸ナデと称する麻のかわむきに似た石器はめずらしかった。なにぶんにも仙北せんぽく地方だ。アイヌの遺跡は多いらしい。

   タヤとラク

 江畑君方の一夜は、有益なる雑談に夜のふけるも知らずにすごしたことであった。そのうち特におもしろいと感じたのは、この地方で小作百姓をタヤというとのことである。タヤはもちろん田屋たやの義であろう。他の地方では、一般に婦人の月経のことを「タヤ」といい、月経時のことを「タヤにいる」などという。タヤについては『民族と歴史』第四巻第四号に、橋川はしかわただす君の「タヤ考」を紹介しておいたが、あれは主として本願寺のタヤについてであった。月経をタヤと呼ぶことは、もともとわが邦俗ほうぞく血穢をんで、経時の婦女の住宅内に同居し、とくに神棚かみだなに近づくことを許さぬ習慣から、漁村では通例、海岸に月小屋を設けて、経時の婦女はその期間をここにすごすの例であったように、農村ではありあわせの田屋たやに経時を送ったことから、得た名であるに相違ない。田屋たやとはその名のごとく田地の所在に設けられた小屋で、平素は居村の住宅に住んでいる農民も、農繁期のうはんきには朝夕その耕地に通うの不便をさけて、便宜べんぎここに寝泊ねとまりしたものであった。もちろん、村落に近い田地にはこの必要もなかったであろうが、それでもり取った稲を納めたり、もみを落としたりするための小屋は必要であったはずで、それを経時の例の隔離舎に使用していたものであろう。
 ところで、特にこの仙北地方に、他では半人はしたまたは間人まうとなどと呼ばれた小作百姓のことを、タヤと呼んだのは一考に値する。由来、奥羽地方はもとえびすの地であって、とくに出羽でも仙北三郡〔横手盆地を中心とした地域。北から仙北郡せんぼくぐん平鹿郡ひらかぐん雄勝郡おがちぐんの三郡。の地方は、比較的後まで夷俘いふ俘囚ふしゅうの残存した場所であったから、かの「大宝令たいほうりょう」の規定に見ゆるがごとく、人居はつねに城堡じょうほう内に保護せられて、ただ、農時にのみ出でて営田のところに住むという習慣が比較的後までもおこなわれていたことと思われる。この営田のところの住居すなわち田屋たやである。後にえびすに対する防備の必要がなくなった時においても、地主たる農民はなお引き続いて、営田から離れたもとの村落に住居し、営田の地なる田屋には、土地を有せずして耕作にのみ使役せらるる、いわゆる農奴のうどが住む習慣を生じたものではなかったろうか。農奴はすなわち後の小作百姓のたぐいである。かくてここに小作百姓に対して、田屋たやの称呼もおこり得るわけである。
 仙北でもまた庄内地方と同じく、皮革ひかくをあつかう旧特殊民をラクといっていたそうな。これは本誌〔『社会史研究』〕一月号「庄内雑事」中に書いておいたとおり、牛馬医たる伯楽はくらくの略称であるに相違ない。去る一月二十八日、大和御所町ごせまちにおける差別撤廃講演のさいに、同地大正村西松本の前川増吉君所蔵の部落関係書類を借覧しゃくらんした中に、牛の疾病しっぺい治療法を図示ずしした一巻の伯楽はくらく伝書があった。上方かみがたでもやはり牛馬医はこの人々によっておこなわれて、ために伯楽はくらくの名があったのだ。この仙北地方にももと少数のラクがあって、皮細工かわざいくに従事し、万歳まんざいなどに出ておったが、今もその流れのものがのこっていて、太鼓・三味線などの皮をったりしているものがあるそうな。しかし、今では多くは他の職業に転じ、住居も比較的自由で、通婚も時にはおこなわれ、そう差別待遇は受けておらぬという。そうなければならぬ。

   防壁たつごも立薦たつごも

 雪の深い所ではしばしば屋根の雪を除かぬと、その重みで粗末な家はつぶれるおそれがある。しかし、それをかき落とすとそれが家の周囲に積み重なって、高さのきを没するようにもなる。そうでなくてもこの冬のような大雪では、低い家ではのきまで達することが珍しくない。そこでかかる地方では、雪が四壁しへきにせまるのを防ぐために、家の周囲に「雪がこい」ということをする。雪国の家は普通、三方を壁でかこうて、出入口を一方に設け、他は小窓があるくらいにすぎないから、通例、壁にそうて木材を立て、それに葦簀よしずこもの類をしばりつけてそれで取り囲むのであるが、江畑君のお宅のような都会風の座敷まわりなどでは、前もって板で作ったしとみ風のものを設備して、それを外側に立ててあった。しかし、いずれも壁が直接雪におかされないための防御なのだ。和名抄わみょうしょう』に、

縛壁 『釈名しゃくみょう』云、縛壁ムシロ 縛著於壁也、『漢語抄』云、防壁〈多都古毛〉

とある。そしてそれを屏障具へいしょうぐの中に列挙してあるのである。このことは『民族と歴史』第六巻第五号に、乞食を「おこも」ということを論じた文中に、簡単におよんでおいたことであったが、今、この雪国でこものたぐいを家の周囲にそえ立てて、壁を防ぐの設備をしているのを見て、「縛壁」はむしろをもって壁につくる物だといい、「防壁」と書いてタツコモとませた理由を、なるほどと覚えたことであった。もっともこれは雪国において、積雪の期間のみの設備であるが、昔の不完全な家屋では、普通の場合、風雨の侵食に対しても、また同様にこもを立てて防壁の設備をほどこしたものであったと考える。「縛壁」に対する『釈名』の解は、この用途におけるタツコモのありさまをよく説明している。しかもそれを『和名抄』に屏障具へいしょうぐの中におさめ、とばり屏風びょうぶすだれなどとともに列してあるのは、後にその品の用途を異にしても、なお旧時の称呼しょうこを保存したもので、前引『釈名』や『漢語抄』の解釈は、これを屏障具へいしょうぐというよりは、むしろ墻壁具しょうへきぐの部に収むべき用途に対する説明であると解せられるのである。

   雪の金沢かねざわ柵址さくし

 二十九日、江畑君のお宅から例の箱雪車はこぞり厄介やっかいになって、約一里の雪の郊野こうや金沢町かねざわまちに送られた。平地では滑走自由ですこぶる爽快そうかいだったが、それでもなおけかけた雪の上のこととて、その下を小川が流れたり、水たまりに陥落したりした所もあって、おりおり、ヒヤヒヤさせられた。それがひとたび村落の中に入ってみると、雪道ゆきみち地道じみちとの過渡期なるこの季節のこととて、例の家根やねからかき落とした雪が、まだそのままに高く積もってけわしい山となっていたり、すでに一部分それが除かれて、深い谷となっていたりして、それを引き上げ、引きろされるたびごとに、雪車そりの中の旅も容易でないと思った。
 清原きよはらの武衡たけひら家衡いえひららが最期の籠城ろうじょうの地たる金沢かねざわ柵址さくしは、金沢かねざわ本町もとまちの丘陵上にある。そのふもとを流るる川を厨川くりやがわといい、これをこえるとすぐに柵址さくしへの上り口となる。ただしこの厨川というのは、安倍あべの貞任さだとうの最期をつげた奥州の厨川くりやがわとはぜんぜん別の厨川だ。柵址さくしには八幡神社が勧請かんじょうせられて、その社務所が登り口にある。早朝、江畑君邸から先発された三浦祠官しかんをはじめとして、前代議士の伊藤いとう直純なおずみ君、金沢町かねざわまち助役の伊藤直之助君、近所の菓子屋恵美須屋さんの御主人・戎谷えびすや亀吉君などが、すでに社務所で待っておられる。伊藤直純君は熱心な金沢かねざわ研究家で、金沢柵かねざわのさくや後三年の役に関係した史料を集めて、『金沢史叢』という大部の叢書そうしょをまでも編集しておられるお方だ。昨年、深沢君のお宅が焼けたので、同君はその思い出として「火災にいし記」というものを書かれ、それを謄写版とうしゃばん刷りとして知己ちき・友人に配られたところが、それを受け取って読まれたその日に偶然、伊藤君のお宅もまた焼けた。そして、その感懐かんかいを記述された文が深沢君の記事の付録ふろくとなって、その当時、自分のもとにいたされたので、伊藤君のお名前なり、その特志とくしのお方であることなりは、すでに前から承知していたのであったが、ただ、それだけのことであっただけでも今お目にかかってみれば、なんだか旧知の感がして懐かしかった。恵美須屋さん、また伊藤君と双璧そうへきともいうべき熱心な金沢通で、ことに丹彩の技に長じて、神社の宝物その他をいちいち絵にあらわしたちょうを作られたり、伊藤君とはかって『後三年絵巻』の残欠をおぎなうべく、研究考証のすえに補遺十数巻を描いておられる。その熱心さ加減かげんはとても常人のおよぶところではない。
 社務所から社殿のある柵址さくしまで約六町、雪が深くてとても和服・駒下駄こまげたの行装では登られそうにもない。例のモンペを借りてはかまとはきかえ、足袋たびの上に借り物のゴムぐつをうがち、すでにみ固めてある雪の上をたずたずねして登る。人通ひとどおりのないところではゴムぐつのみでは不可とあって、さらにくつの上にカンジキをしばりつけて、下の方からけかけた雪をみしめみしめ、伊藤君先導のもとについて行く。おりおり、その表面をみぬいて、カンジキつけたまま太股ふともものあたりまでみこんでは、それを引き出すのが容易でなかった。
 丘陵の頂上は二段に削平さくへいされて、上段に八幡宮の社殿がある。がくに「正八幡宮しょうはちまんぐう」とある。別に二の丸・西の丸などと、構造は普道の山館さんかんとはちがってすこぶるみ入っている。兵糧蔵の跡という所、例の炭化したもみが出る。焼き米と普通に呼ばれているが、あながち焼けたわけではあるまい。昨夜拝見した江畑氏蔵品の中にも、それがかたまりをなして厨川くりやがわに流れていたのがあって、珍しく思ったことであった。なんでも、多量の兵糧がそのまま炭化してまっているものらしい。後三年の役に清原武衡たけひら家衡いえひららがこの柵に籠城して、頑強がんきょうにそれを拠守きょしゅしたのには、さすがの八幡太郎も閉口して手のつけようがなかったのであった。かくて、ついに兵糧攻めの持久の策に出でたのは、もちろん武衡たけひららの強勇によったとはいえ、じつに、この柵の要害堅固けんごのためであった。これにはさすがの武衡たけひららも閉口して、城中食き、ついに陥落するに至ったとあるが、しかも今に至ってなお、いわゆる焼米のかく少なからず出るのは不審である。あるいはこの城が、後にふたたび他の豪族の拠守きょしゅするところとなっていたためかもしれぬ。金沢氏拠守のことはその伝えがあるが、その他にもなかったとはがたい。したがって、今の柵址さくしは後三年の役当時のままではなくて、後に手の加えられたところが少くないのかもしれぬ。
 加藤〔伊藤直純か。君、いちいち近傍の形勢を指示して、説明してくださる。南に碧水へきすいをたたえたのが蛭藻沼ひるぬまで、武衡たけひらが藻を頭からかぶって隠れていた所、その付近の丘がじんおかとて義家陣営の跡、西に見える低い丘が陣館じんだての丘で、本城出城でじろのあった所、ここにある深い堀が、当時の塹濠ざんごうの跡だなどと、いちいちたなごころすがごときものだ。帰途の汽車の中で陸軍将校の一団と乗り合わしたが、その人たちの談に、明後日とか金沢町かねざわまち付近で演習がおこなわれるので、加藤〔伊藤〕直純氏から講話をうけたまわるはずになっているとある。加藤〔伊藤〕君は、まったく後三年の役と金沢柵かねざわのさくとについては、なくてはならぬお方なのだ。元の道をくだって社務所に休み、陳列の宝物類や、わざわざ取り寄せてくださった『後三年絵巻』の写しなどを拝見して、ふたたび雪車そりに送られて、後三年駅ごさんねんえきに向かった。

   金沢八幡社のお通夜つや

 金沢かねざわ柵址さくしの八幡神社は、伝えて八幡太郎義家よしいえが、羽州鎮護のために石清水から分霊奉祀ほうししたものだという。慶長九年(一六〇四)佐竹さたけ義宣よしのぶ社殿改修の時の棟札むなふだに、「出羽国六个郡之鎮守」とある。しかし後世では、金沢一郷のみがその氏子うじこたるにすぎなくなった。八幡宮は、その宗社そうしゃ石清水に古く放生会ほうじょうえがおこなわれたほどで、ことさらに殺生をまれ、また触穢しょくえ禁忌きんきのやかましい社なので、ここでは今なお領域内の殺生を厳禁し、また例祭月の正月と八月とには、朔日ついたちから十五日までは鳥獣の肉を食うを禁じ、この間に氏子中に死者あるとも、村内に葬ることをせず、隣り村の境にいたって葬儀をおこなうということである。
 八幡宮の社殿に「お通夜つや」ということがおこなわれる。男女相集まってかけうたもよおし、勝負を決する。その歌には一定の型があるが、文句は即席に作るのが多く、それをニガタ節という節調せっちょうで歌う。文句に行きつまったもの、声の続かぬものは負けとなって退しりぞき、新手あらてと入れかわる。たいてい十二時ころから始まって、夜を徹するという。かけ歌とは、相手の歌の文句なり内容なりにかけて、それに縁故ある歌を歌うの義であろう。昔の歌垣うたがきというのは、集まった人がならんで人垣ひとがきを作り、たがいに歌をみかわすための名であろうが、このかけ歌、また一種の歌垣うたがきである。『摂津風土記』に見える歌垣山、『万葉集』や『常陸風土記』に見える筑波のカガイ、みな同じ種類のものであろう。自分の郷里においても、夏の夜、若い男女がお寺の庭などに集まって、麦きの真似まねをしながら、相手の歌の文句にかけて即席新作の歌をうたい、勝負を争うもよおしがしばしばおこなわれる。それをオスガタといっている。相手の姿をほめたり、ひやかしたりする歌を多くはじめに歌うからだという。「様のお姿すがたこれから見れば、ちょうど山田のししおどし」というふうのものだ。昔は、このようなことが各地におこなわれていたものであろう。そしてそれが、この金沢八幡社の恒例祭日にもおこなわれているのだ。伊藤〔直純。君記述の『八幡神社略記』に、「八幡宮の北方にあたる村落を仙北せんぽく北浦きたうらと称し、この地方における妙齢みょうれいの女子、恒例祭に社参しゃさんし、一夜の参籠さんろうをなすにあらざれば、とつがざるもの多しと。これを御通夜おつやと称し、今なお、おこなわるという」とある。やはり筑波の歌かがいと同じく、もとは未婚の女子の夫定つまさだめの機会をなしたものであろう。

   仙北せんぽく俘囚ふしゅう

 仙北の名は、今は平鹿郡ひらかぐんと川辺郡河辺郡かわべぐんとの間にある一郡の称となっているが、もとは広く山の北の義で、羽前うぜん境の連山以北、御物川雄物川おものがわ上流の平野を中心とした一帯の地の総称であった。今の雄勝おがち平鹿ひらか・仙北の三郡はすなわち、すべていわゆる仙北のうちなのだ。それを総称して時にあるいは仙北郡ともいった。今の仙北郡はほぼ『延喜式』に見ゆる山本郡やまもとぐんの域にあたり、いわゆる仙北の一部たるにすぎぬ。そして今の山本郡の地は、『延喜式』時代にはなお夷地に没して、いまだ一郡をなするにいたらず、阿倍あべの比羅夫遠征のころの渟代ぬしろ郡のあった場所なのだ。しかるに徳川時代、寛文四年(一六六四)郡名整理のさいに、おおいにその実際を誤って、仙北をもって一郡の名と心得たがために、もとの山本郡にこの名をつけ、もと郡名のなかった別の所に、新たに山本やまもとの旧郡名をあてたのである。
 仙北、あるいは『吾妻鏡』に「千福せんぷく」ともある。例の奥羽なまりによってセンポクとセンプクと、その区別がしにくかったので、鎌倉武士が土人の口にするところを聞いたままに、勝手な文字を書いたのだ。この地方は川の上流に位置し、南は山で限られていたために、日本文化のおよぶことは比較的遅かった。出羽方面の王化はまず海岸から入り込んだので、秋田・渟代ぬしろ能代のしろ)のあたりはすでに、斉明さいめい天皇朝に安倍比羅夫の遠征によって郡が置かれ、当時、津軽のあたりにまで、内地化したる熟蝦夷にぎえみしがいたほどであった。しかるにこの山間の仙北地方は、なお久しく麁蝦夷あらえみしすなわち生蕃せいばん住処すみかとしてのこされ、奥州の国府多賀城たがじょうから、出羽の秋田城に通ずるにも、最上川に沿うていったん西に下り、飽海郡あくみぐんから西海岸を迂回うかいしたものであった。それではあまりに不便とあって、天平年間(七二九〜七四九)にこの方面の蝦夷えみしを征して雄勝おがちの道を通じ、最上郡もがみぐんからただちに御物川雄物川おものがわの上流に出ることとなった。それからだんだんと内地人を雄勝城おかちのきにうつし、仙北平野の拓殖たくしょくも進んでくる。蝦夷もしだいに内地化して、いわゆる俘囚ふしゅうとなってきたのではあったが、その後、なお久しく民夷雑居の境であった。天平の開通をへだたる約一四〇年後の元慶がんぎょう四年(八八〇)において、出羽の国司こくしはこんなことを上言じょうげんしている。

 管諸郡のうち、山北せんぼく雄勝おがち平鹿ひらか山本やまもとの三郡は、遠く国府を去り、近く賊地に接す。昔時せきじ叛夷の種、民と雑居し、ややもすれば間隙かんげきに乗じて腹心の病をなす。頃年けいねんしきりに不登にあい、うれ荒飢こうきにあり。もし優恤ゆうじゅつせずんば、民夷和しがたし、望みう、調庸ちょうよう二年を復して、まさに弊民へいみんを休めん。

 これに対して勅して一年の復をたまい、不動穀ふどうこく六二〇〇石を三郡の狄俘てきふ八〇三人に給した。狄俘てきふとは夷俘いふというと同じく、蝦夷えみし生蕃せいばんいいである。わが国では同じアイヌ種の蝦夷人をでも、奥州を東とし、越後・出羽を北といったがために、シナの東夷とうい北狄ほくてきの語を取って、越後・出羽方面の蝦夷えみしをしばしば蝦狄あるいは狄俘てきふといったのであった。元慶がんぎょう(八七七〜八八五)の当時なお仙北の地には、少なからず生蕃せいばんがいたのだ。延喜(九〇一〜九二三)前後から地方の政治はなはだしく紊乱びんらんした。奥州においては蝦夷えみしの族勢力を回復して、いったん設置した郡までが夷地に没入するの情勢となった。かくて奥州では俘囚ふしゅうの長安倍あべの頼時よりときが、今の陸中りくちゅう中部の六郡を押領おうりょうして、国司の命を奉せず、ためにいわゆる前九年の役がおこったのであった。このさい、この仙北地方は、同じ俘囚長ふしゅうちょうたる清原氏きよはらしの占領するところとなっていたらしい。安倍氏をとうじた陸奥守頼義よりよし、その子義家よしいえは、上方かみがたにあっては驍勇ぎょうゆうをもって聞こえた武士の棟梁とうりょうであったが、容易に安倍あべの貞任さだとうを征服することができなかった。かくて前後十二年をついやして、最後にこの仙北俘囚長ふしゅうちょうたる清原氏の援助をい、ようやくこれをほろぼすことができたのである。このとき頼義よりよしが、いかに辞をひくうし礼をあつうして清原氏を誘ったかは、後に清原氏の方で頼義よりよしを見ること、家人けにんのごとく心得ていたのによっても解せられる。かくて清原光頼みつより武則たけのりの兄弟は、一族吉彦きひこ秀武ひでたけらとともに一万余騎の兵をひきいてこれに応じ、ついによく安倍氏を滅ぼすことができた。武則たけのり功をもって鎮守府将軍に任ぜられ、胆沢いさわに移って威を奥州にふるい、かねてこの仙北を領していたので、その勢力ははるかに安倍氏に増していたに相違ない。これ、とうてい後三年の役の起らざるを得ざるゆえんであった。武則たけのりは実に夷人じんにして、はじめて鎮守府将軍に任ぜられたのだ。一族、秀武ひでたけの姓の吉彦きひこはすなわち吉弥侯で、これまた俘囚しゅうに普通に見る氏である。後三年の役の末、金沢落城のさいにあたって、義家よしいえは清原氏をののしって、武則たけのりいやしきえびすの名をもって、かたじけなくも鎮守府将軍に任ぜられたのは、これ、わが父の推挙によるものだと言っている。その夷人いじんが奥羽両州に跋扈ばっこしては、いわゆる臥榻がとうかたわらに他人の鼾睡かんすいるるもので、義家よしいえたるもののしのぶあたわざるところであったに相違ない。後三年の役、直接の原因がなんであろうとも、その根本は華夷かいの衝突とうていまぬがれがたいところにあったのだ。しかもその義家よしいえも、自己の兵力のみをもってしてはとうてい清原氏に勝つことができなかった。彼は依然、俘囚ふしゅうたる藤原清衡きよひらの援助を得て、ついによくこれを滅ぼしたのであったから、義家よしいえ任満ちて都に帰った後においては、その功、ついに清衡きよひらに帰して、清原氏にかわって鎮守府将軍となり、清原氏についで奥羽二州に勢力を振うこととなったのである。後に文治五年(一一八九)の源頼朝の奥州征伐せいばつは、その名は藤原氏が弟義経よしつね容隠よういんしたにあったとはいえ、その根本はやはり華夷かいの衝突、まぬがるべからざるものであったのだ。仙北俘囚ふしゅうの勢力の最後も、じつにこの頼朝よりとも奥州征伐の時にあったといってよいのであろう。

   山形泰安寺―秋元あきもと家の巾着きんちゃく

 後三年駅ごさんねんえき午後五時の上り汽車に乗って、山形についたのが九時四十五分。あの広い二等車中には、二、三人の乗り合いしかない。よい気持ちに眠ってしまって駅に来たのも知らず、汽車はしあわせに山形止まりであったので良かったものの、それでも危なく車庫内に運び込まれるところであった。駅までむかえに来てくださった有吉君・阿部(正己まさき)君などと同車で、山形ホテルに送られて、ここで一夜のご厄介やっかいになる。阿部君は史跡名勝天然紀念物調査委員として、明日の発会式のために前もって来ておられるのだ。さいわい同宿で、旧臘きゅうろううかがいもらした土地のお話を、ゆっくりうけたまわる機会を得たのはうれしい。
 ホテルは、もと秋元家の泰安寺の跡で、その庭園は、今もなお当時の林泉りんせんのままだという。秋元家は譜代ふだいの大名として、たびたび転封てんぽうの経験を有し、この山形では明和四年(一七六七)に武州川越かわごえから移ってより、弘化二年(一八四五)上州館林たてばやしに転じて、水野越前守水野みずの忠邦ただくにと入れかわるまで、わずか八十年にもたらぬほどの就封にすぎなかったが、その間にも菩提寺として、ここに泰安寺を造営したのであった。この寺は俗に秋元家の巾着きんちゃく寺といわれて、転封てんぽうごとに腰巾着こしぎんちゃくのごとく持ってまわったものだという。
 これは阿部君からうけたまわったところだが、以下、同君談話の中からおもしろいものを二、三、書きとめておく。

   庄内の獅子踊りと神楽かぐら、サイドウ

 飽海郡あくみぐん松嶺町の南に大沼という村がある。ここに古来、獅子という踊りがあって、農家の子弟がこれをおこなう。獅子の面をかぶって踊るので、ササラ方があり、うたうたいがあり、棒方二人、五尺ばかりの物を持つ。この踊りはひとり自村の氏神祭のみならず、他村の氏神祭にもまねかれて出かけて行くのだという。けだし田楽でんがくの遺物で、三月号に紹介した宇和島うわじまの鹿の子踊りや、豊橋の鬼祭おにまつりのようなたぐいで、昔は各地におこなわれたものが、名を忘れて後もなお、かく諸所にのこっているものと思われる。
 松嶺の本町・新町には神楽かぐらがある。はじめ天狗の面をかぶったものが出て、手に三叉鉾を持ち、足に高足駄たかあしだをはいて、笛にあわして種々所作事しょさごとをする。つぎに神楽かぐらがある。大きな獅子を二人であやつり、一人はその頭を持ち、一人はその尻尾しっぽを持つといえば、これは普通の獅子舞らしい。
 サイドウという道祖神どうそじんの祭りは、毎年正月十五日に、深い積雪の上でおこなわれる。町が二つに分かれて、血気の若者が足袋たび跣足せんそく鉢巻はちまきの出でたちで、双方、大太鼓をいくつもかつぎ出してソリにせ、けずりかけのばちを腰にさして、中央の大橋で出合ってたがいに通過を争うのであるそうな。その争いはいたって元気のよいもので、ためにしばしばケガ人ができることすらある、道祖神のためには別に社殿があるのではなく、正月五日ころから各町ごとに小屋を作って、子供らそこに集まって太鼓をたたいてこれを祭る。その最後の日に疫送りとて、町はずれに送り出す。前の争いは、そのときの衝突だという。
 右は阿部君のお話の大要だが、聞きちがい・書きちがいがあるかもしれぬ。くわしいことは同君のご執筆をわずらわす約束である。

   山形県の史跡調査について

 今日、いよいよ議事堂で山形県史跡名勝天然紀念物の調査会が開かれた。内務省から理学博士三好みよしまなぶ君が見えられて、種々、調査上の注意のお話がある。自分もお相伴しょうばんして、山形県下の史跡調査について、一席の講話を試みたことであった。歴史の研究は記録と実地との両方から進まねばならぬこと、記録的資料の少ない古代の事情は、ことに実地の踏査とうさに重きを置かねばならぬこと、別して奥羽地方はその資料にとぼしいので、遺跡の調査によってこれをおぎなわねばならぬことなどを説いて、山形県地方開発の沿革におよんだ。太古の住民なる蝦夷族の研究、その遺跡として石器時代の調査の必要なこと、出羽における王化の布及の越後・陸奥両方より来たこと、夷俘いふ俘囚ふしゅうのこと、館跡および古墳の調査のこと、華夷かい勢力消長のこと、蝦夷族の末路のことなどの概略を述べて、この講話を終わった。
 講演後、渡辺わたなべ徳太郎とくたろう君の訪問をうけ、同君にさそわれて千歳亭で昼餐ちゅうさん饗応きょうおうにあずかった。同君は多年、山形商業学校校長をつとめられ、県立図書館長をかねて、先年、満鮮旅行のさいに同行されたお方だ。令兄れいけい渡辺正三郎君編集の『山形県経済史料』二冊を贈られたのはうれしかった。わが社会史研究にも有益な材料が少なくない。
 午後、調査委員の顔合わせ会があって、自分も陪席ばいせきし、史跡調査の方針について意見を述べたことであった。

   山形城址

 午後、山形城址の案内を受けて一覧した。維新前はわずかに水野氏みずのし五万石の居城たるにすぎなかったが、なにしろ、もと最上氏もがみし五十七万石の城郭じょうかくとて、規模すこぶる広大で、なかなか五万石や十万石の大名の持ちきれるものではない。元和八年(一六二二)最上氏改易後は、ほとんど定まったる城主もないといってよいほどで、鳥居氏とりいし以下、わずか一四五年間に十一家の領主を改め、その間、時に幕府の直轄地ともなったこともある。かくて明和四年(一七六七)に秋元家が、六万石でここに移封したさいには、城郭の荒廃すこぶるはなはだしくなっていた様子であるが、秋元氏これを修築し、外濠そとぼり内に三千石の田地を開いてこれを込高こみだかとしておったとのことである。しかるに弘化二年(一八四五)、水野家五万石で浜松はままつからここに転封したさいには、この城内三千石の地も高に数えられて、事実上、城郭は二の丸以内に限局せられた。その中央にさらにごうをめぐらして本丸が設けられていたが、今は兵営へいえいとなったのでこのごうはうめられ、跡形あとかたもなくなった。将校集会所で、最上時代以後秋元家修築前の状をあらわした数軸の地図を拝見した。最上家の時代には、二の丸内はもとより、その以外いわゆる三千石の地にも諸士の邸宅がりあてられていたさかんな状が知られる。それが些細ささいなことから幕府の忌諱ききにふれて、一朝主家の改易となっては、たちまち分散消滅してしまったのだ。

   おばこ踊り

 夜、四山楼の晩餐ばんさんに、庄内のおばこぶしというものを聞かしてもらうの光栄を得た。おばこ踊りとはむすめッ子の手踊ておどりの義であるそうな。説明にいわく、「おばこ」とは若き女をさしたることにて、弟を「おじ」といい、妹を「おば」と呼ぶより出でたることなるべしだと。「おばこ」の「こ」はけだし東北地方の方言で、よく名詞の尻につける「コ」であろう。東京あたりでもすみのことをすみッコといい、うんコ・しッコなどと語尾のコをつける場合が少くないが、東北地方にはことにそれが多い。牛のことをベコというので、それにコをつけてベココといい、牛の子のことをベココのコッコというたぐいだ。
 おばこぶしの歌詞は、田舎情緒じょうちょの方言丸出しの無邪気なものだ。そのすこしばかりを左に書きとめておく。

おばこるかやとんぼのんづれまで出て見たば、コバエテ、おばこ来もせでのない煙草たんばこ売りなの(「なの」は「など」の意)ふれてる。コバエテ
おばこたかやと裏の小ん窓からのぞいて見たば(「見たば」は「見たれば」の意)、コバエテ、おばこもせでのない婆様ばあさまなの(など)糸車、コバエテ
おばこのぢよめえね(「このごろ見えぬ」の意)風でもひいたかやと案じられ、コバエテ、風もひかねど親んちやんびしぐで(東北方面には濁音が多い)カゴの鳥、コバエテ
おばこ心持ちや池の端のはすの葉のんまり水、コバエテ、すこしさわるでど(「でど」は「というと」の意)ころころころんでそま(「そま」はすぐの義)落ちる、コバエテ
おばこ昼寝したば(したれば)若いかりゆめ(猟師)がきて小槍こやりつん出したね、コバエテ、かりゆめ何をする、かりゆめはくまくしょべえ(商売)だもの、コバエテ
酒田山王山でえびンコとかんじかコ(「かんじかコ」は「かじか」かじかのこと)と相撲すもとったば(とったれば)コバエテえびコなして(なにゆえに)またこしがた、かんじかコと相撲すもとって投んげられて、それでこしがた。コバエテ
ウナギよめ取る、八ツ目のなかあど(仲人)でどじょ(どじょう)の子よめもろた、コバエテよめもしょうと(しゅうとめ)に似て腰もんと弱ぐで、グニャラシャンニャラと、コバエテ

 まず、こんなようなものだ。合いの手の「コバエテ」とは「れはいい」の義で、酒田地方の方言だという。同じ庄内でも、鶴岡ではこれを「コバイチャ」というそうな。

   羽黒の裸祭はだかまつり

 晩餐ばんさんの席上で、同席の諸君からいろいろ有益なお話をうけたまわった中に、一つ、羽黒の裸祭はだかまつりのことをここに書きとめておく。一月三十一日のころ、年越としこしの晩におこなわれるので、村民、真冬の雪の深い中を、二組にわかれて、丸裸でおしあって、ツツガムシを送るのだという。わらで大きなツツガムシの形を作り、それを切り取って振りまく。それを血気の若者があらそって取りあう。ある一定の地域より外へ持ち出せば、もはや、その所得が認められたので争わない。それを持って帰って家の入口に置く。その残りを一定の地で焼く。その早く焼き終わったほうが勝ちとなるのだという。そのおしあい祭りの両方の長たるものをヒジリというのがおもしろい。ヒジリは「聖」で、普通には念仏行者の称であるが、ここではその聖が首領となって、ツツガムシ送りの行事をするのだ。そのヒジリなるものは百日間家を出て、羽黒山はぐろさん参籠さんろうして潔斎けっさいするのだという。この祭りの時は、たいそうな人出なので、積雪をうがって室を作り、そこで茶店を開いて参詣者に茶菓ちゃか酒食しゅしを供するという。
 かくのごとき風習は奥羽地方各地にあると見えて、陸中江刺郡黒石くろいし蘇民祭そみんさいもこれに似たものだとのことであった。『民族と歴史』第五巻第四号に、羽後平鹿郡ひらぐんの細谷則理君が報告せられた「羽後のおしあい祭り」と題する記事もこれに似ている。
 なお、右の羽黒の行事は、加藤将義君と高橋栄君とに詳細の報道をご依頼しておいたから、いずれ本誌においてご紹介し得るの機会があろう。

 この夜、終列車の急行で帰京。出羽滞在、丸三日にすぎなかったが、あまり同地方を知らぬ自分にとっては、珍しいことの多かったのがうれしい。帰ってみると東京の桜はすでにいている。


底本:『喜田貞吉著作集 第一二巻 斉東史話・紀行文』平凡社
   1980(昭和55)年8月25日 初版第1刷発行
初出:『社会史研究』第9巻第6号
   1923(大正12)年6月
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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春雪の出羽路の三日

喜田貞吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)穴室《あなむろ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)陣※[#小書き「ガ」]岡

 [#…]:返り点
 (例)縛壁[#(ハ)]以[#レ]席《ムシロ》

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)縛壁[#(ハ)]以[#レ]席《ムシロ》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)コバエテ/\
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   思いのほかの雪中旅行

 昨年十一月に始めて出羽の踏査に着手したその続きを、この春の休暇中にやってみたいと思っている折から、山形県史蹟名勝天然記念物調査委員会の開会式が行われるので、やって来ぬかと理事官の有吉君から言って来られた。これ幸いとさきに御厄介になった庄内の阿部正己君に、同地方遺蹟踏査の御相談に及ぶと、このころはまだ雪が深くてとても駄目だとのお返事だ。冗談じゃない、こちらではもう桜が咲きかけているころだ。同じ本州のうちでも奥羽地方となるとそんなにまで様子が違うものか、これは一つ遺蹟踏査よりも雪の春景色を見たいものだ。それには庄内方面よりもいっそう雪の深かりそうな羽後の仙北地方がよかろう。かねて見たいと思っている後三年の役の遺蹟金沢柵址を、雪の中に見てまわるも面白かろう。ついでに久しくお目にかからぬ紫水生深沢多市君をもお訪ねしたい。同君は昨年丹後熊野郡長を辞してこの仙北の地に帰臥せられ、お好きの道とて郷里の故事を調査せられ、現に秋田県史蹟調査委員となって、最近には「雄勝城址考」の謄写版刷をも寄せられたほどの熱心なお方だ。雪で踏査が駄目ならば、お目にかかってお話を伺うだけでも有益であるに相違ない。同君は昨年帰郷後、祝融の災にかかられて、多年蒐集の史料までも少からず焼いてしまわれた。親しくそのお見舞も申したい。かたがた今回は羽後まで足を伸ばそうと、早速御都合を伺うとぜひ出て来いと言われる。その交渉に手間取って、やっと二十七日の東京上野駅発の夜の急行で出発した。
 東海道線とは違って奥羽線の二等室はゆっくりしている。寝室を取らずとも楽々と足を伸ばして、大宮駅のあたりから眠りにつき、白河・福島も夢の間に過ぎて、目が覚めたのはすでに奥州と羽州の境界たる板谷峠をも越えた後であった。窓外を見ればまだ夜が明けぬながら、なるほど雪が深いらしい。さすがに出羽だと思った。米沢・赤湯あたり、平地の開けた所見渡す限り広々と雪の原だ。それが不思議にも山形に近づくとほとんどなくなっている。山形で下車して有吉君に行程のことを電話し、次の列車に乗りかえて北に進む。天童・神町・楯岡以北、まただんだんと雪が多くなっている。平地では約二尺、線路の両側に掻き上げた所では、八尺くらいの高さの所がある。民家の屋の棟から掻き落した雪は家を取り囲んで堤防を作り、家の入口は低く穴室《あなむろ》の中へ下りて行く形になっている所もある。これならばなるほどよく寒風を防いで、冬も比較的暖かく過ごせる訳だ。線路に沿うて墓地のある所があった。石碑はむろん深く雪の底に埋まっている。そこに新たに埋められた新墓が二基、雪を掘り上げた擂鉢の底のような所に、淋しく設けられているのはいっそう物哀れだ。雪国では葬式も容易でない。
 新庄以北、釜淵・及位《のぞき》あたり、山手にかかっては雪がますます深く、山の斜面には雪崩《なだれ》の跡が所々に見える。駅の前は吹雪《ふぶき》除《よ》けの葦簀《よしず》の垣根が作られている。同車の客の土木請負師らしい人は言う。「私はこの奥羽線架設の当時から、鉄道工事に関係していますが、この地方の雪と来てはとても他地方の人の想像にも及ばぬところです。何しろあの有様ですもの、冬の真っ盛りなど、どんな設備をしたとてとうていあの天然の威力には敵いません。それを知りもせずに代議士だの新聞記者だのという奴らは、実地を見に来るだけの親切もなく、やれ予防工事が不完全だの、雪は毎年降るに極った物だのと、鉄道の故障のあるたびごとにうるさく文句を言うのです。もし雪の多い所全部に鉄筋か煉瓦で、ナデ(雪崩すなわちナダレの略称)除け、スノーセットをトンネル風にでも作ったなら、あるいはどんな大雪でも堪えられましょうが、それではとても費用が続かず、またその必要のない年中の大部分が不快でたまりません」と。なるほどそれに違いない。人力はよくだんだんと天然に打ち勝って行くとはいえ、今のところではまだ、全然これを征服するとまでには行かないのだ。どうで昔はこんな交通機関などはなかったのだもの、たまに大雪で汽車が不通になったならば、大井川の河止めに遭ったくらいに覚悟して貰えばよいのかも知れぬ。しかし今のいわゆる目覚めた人間には、なかなかそれでは承知が出来ないのだ。とても相撲にならんと、頭から考えてもみなかった労働者らが、結束して資本主に喰ってかかる世の中だもの。

   箱雪車とモンペ

 十二時少し前に後三年駅で下車すると、改札口に深沢君が待っておられる。当年の郡長様も郷里では鳥打帽にモンペという出で立ちだ。モンペとは袴とズボンとの合の子で、雪国にはなくてはならぬもの。地方によって多少作り方も違い、タチツケ、あるいは略してタッケ、猿袴、踏《ふ》ん込《こ》みなどともいい、庄内辺ではマタシャリとも言うそうな。昔は一般に猟師・山人などの着用したものだが、今でも雪国には広く行われている服装なのだ。
 深沢君に伴われて、駅前のある会社の事務所で少憩、金沢八幡社の祠官三浦憲郎君とともに、飯詰村中島の江畑新之助君の邸に案内せられて、この夜は同家で一同御厄介になる。駅から江畑君のお宅まで約二十五町、生れて始めて箱雪車《はこぞり》というもので送られた。否、乗ったことがないばかりでなく、見たこともまた始めてなのだ。雪の上ではとても人力車が利かぬので、俥屋さんも雪の間だけ雪車屋《そりや》さんに早代りする。人一人をやっと坐らせるくらいの大きさの箱を橇《そり》に取りつけ、上に母衣をかけたもので、厚い座敷団を敷き、毛布で達磨さんのようにくるまって、火鉢でも抱えていれば、まず寒さ知らずという結構な交通具だ。それを乳母車を押すように後から押して行く。綱をつけて前から引く。雪の多い、ことにそれが氷っているようなころには、きわめて軽快に動くそうなが、しかし今は雪消時期なので、そうでもないらしい。
 この冬はことに雪が多く、この仙北あたりでは、盛りには平地に八尺も積ったという。今でも三尺ばかりの厚さはある。その一面の雪野の中にも自然に通路が出来ている。表面は踏み固められておっても、下の方からだんだんと融けて来るので、慣れた足の俥屋さんでも折々足を深く踏み込む。小川や水溜りの所などには、ところどころ雪が陥没して、断崖が現われている。幅三、四尺の土橋の上に、二、三尺の厚さに積った雪が両側から崩れ落ちて、上面わずかに二尺足らずの梯形をなしている上を、俥屋さんは慣れた業とて巧みに引いて行く。もしその融けかけた雪が少しでも崩れたなら、たちまち箱雪車もろとも川の中へ墜落する訳で、時々ヒヤヒヤさせられる。翌二十九日、三浦祠官は朝早くから金沢へ先発せられ、自分は深沢君とともに、またも箱雪車に送られて、後三年の役の遺蹟たる金沢柵址踏査に出かけた。この間約一里。春霞が深くこめて数町先は見えず、眼界の及ぶところことごとく純白な雪の郊野で、シベリヤの氷原もかくやと思われるくらい、その中を薄ボンヤリと、右往左往に橇が通う。雪国の景色を初めて見る自分には、これも日本のうちかと、言い知れぬ異様の感に打たれたことであった。しかもこれが三月も末の二十九日で、自分の郷里の阿波などでは、疾くに普通の桜は散りかけて、八重桜満開の時期なのだから驚く。
 自分らの橇の通っている下はことごとく水田で、道路も用水路も構わず、好きな所を好きな方向に、勝手に道を作ってその上を進んで行くのだ。農夫は朝早くから橇で肥料を運搬して、各自自分の地面と思う所へそれを分配している。間違えて他人の地面に置いて行くことはなかろうかと、他目《よそめ》には案じられるが、遠方の立木や山などの見通しで見当をつけて、自分の地面を間違えるようなことは決してないそうな。なんでもこの雪国では、雪の上の交通を利用して、その期間になるべく物を運んでおくのだという。材木を載せた橇、砂利を載せた橇など、いくつも縦列をなして通っている。土木工事の材料を、今のうちに軽々と運んでおくものらしい。雪の多い時には、一人で十数俵の米を運ぶのも容易だという。他所にあって考えた時には、雪に閉じ籠められた地方の人々は、定めてその期間禁足の憂き目を味わって、薄暗い家の中にのみ数月間を閉じ籠められているのかと気の毒にも思っていたが、その時がかえって交通に至便なのだとは、雪にもやはり利用の道があるものだ。

   後三年駅

 自分の昨日下車した車駅を後三年駅という。近年の新設で、陸地測量部の地図には載っておらぬ。地図をたよりに金沢柵址踏査の旅程を予定した自分には、当初この駅の存在がわからず、したがって汽車の切符も次の飯詰駅まで買っておいたのであったが、昨日深沢君から「二八ヒゴ三ネンエキマツ」という電報が東京の宅に届いた。それを自分は二十八日午後三時ネン駅で待つとのことであろうと解して、ハテ珍らしい駅名だと、地図を探してみたがそれらしいものはない。ようやく旅行案内の時間表を繰ってみて、始めて後三年駅なるものの存在を知ったことであった。
 後三年駅とはよくも考えた名前だ。聞くところによれば、この駅の所在は金沢町・飯詰村・金沢西根村の三町村入会地で、どの町村名を取って駅に名付けるということも出来ず、磨った揉んだの揚句に、後三年の役の戦跡たる金沢柵址に通ずる最近の駅だというので、その役の名を駅に取ったのだという。ただ「役」と「駅」と、音通のところが紛らわしい。
 駅から役の最後の遺蹟たる金沢柵址まで約一里。その間に一群の丘陵が邪魔になって、遠望の利かぬのは駅名に対して残念だ。この丘陵は他の山からは全く離れて平地中に存在するもので、その南端のものを経塚山というそうな。その上部には鉢巻風に段地が山を一周している。段地の上は古墳だとの説があるそうだが、あるいは館として穿った塹濠の址かも知れぬ。なにぶん雪が深いのと、時間の余裕がなかったのとで、登攀調査することが出来なかった。いずれ他日を期したい。この辺の地大部は江畑氏の所有で、同氏は近くこれを提供して一大公園にしたいとの計画だと承った。

   江畑新之助君

 深沢君によって御案内を受けた江畑新之助君は、秋田県多額納税者中にも屈指なお方の由で、その邸宅は先年火災に遭い、新たに建てられたものだという。広々とした庭園を控えた、至って宏大なものだ。同君はもともと庭園と読書とに趣味を有せられているそうで、邸内の林泉は川に跨って設計せられ、よほど趣向を凝らされたものらしい。しかし、なにぶん今もって深く雪に埋められ、庭木を保護する雪除けの筍が、雪中にいくつも突っ立っているほどの有様なので、地面の上の様子は少しもわからず、ただその大規模なところを拝見したに過ぎなかった。同君が駅前の丘陵一帯を公園とされようというのも、やはりこの趣味からであろう。同君の蔵書もかなり多いもので、今なお新刊書などを盛んに買い込まれ、行く行くは一の図書館として公開せられるおつもりらしい。本宅からは大分離れた一棟の土蔵をそれに当てておられるのは結構なことだ。蒐集家はすべからくこれだけの心懸けが必要である。多数に古器物や珍籍を集めていたがために、火事のさいに一度にそれを焼いてしまうというようなことは、確かに一の罪悪だ。しかして昨年この罪悪を犯して参考書に不自由な深沢君は、江畑氏のこの書庫について書籍の整理や、目録の調製かたがた、閲覧研究を重ねておられる。同君希望の書籍はなんでも江畑文庫に供えてくれられるとのことだ、深沢君もよい文庫を控えられたものである。
 案内をうけて、同じ邸内ながらも雪の山に登ったり、雪の谷に降りたりしつつ、やっと書庫にたどりつく。書庫はまだ新しい土蔵造で、一方にお座敷がついている。深沢君はここで書籍を整理したり、閲覧したりしておられるのだ。蔵書目録がまだ整頓しておらぬので、拝見するには不便であったが、所蔵の書籍の種類は各方面に渉って、この文庫の特徴というものがなさそうだ。江畑君も将来これをいかに発展せしむべきかに迷っておられる。そこで自分は、郷里の石原君の呉郷文庫が主として歴史と地理とに局限せられ、特に阿波に関する史料の蒐集に力を用いられつつあることをお話しして、どうで歴史好きの深沢君が関係しておられることだから、なるべくこの方面に発展せしめられ、特に出羽に関する史料ならば、この文庫へ来ればなんでもあるというくらいの抱負をもって蒐集に尽力せられたならおよろしかろうとお勧めしたことであった。江畑君もこれには賛成せられた。深沢君の同感は言うまでもないことと信ずる。
 蔵書の中から『真澄遊覧記』を借り出して、ところどころ拾い読みした。前号資料欄に納めておいたのは、その中の一節である。
 二十八日の夜は深沢君および三浦君とともにこの江畑君の御宅で御厄介になった。近所の石名館《いしなだて》から発掘したという石器、土器など取り寄せて見せてくださった。土器はもちろんアイヌ式のもので、石器は多くは奥羽地方の普通品だが、ただ一つ、糸ナデと称する麻の皮剥きに似た石器は珍らしかった。何分にも仙北地方だ。アイヌの遺蹟は多いらしい。

   タヤとラク

 江畑君方の一夜は、有益なる雑談に夜の更けるも知らずに過ごしたことであった。そのうち特に面白いと感じたのは、この地方で小作百姓をタヤというとのことである。タヤはもちろん田屋《たや》の義であろう。他の地方では一般に婦人の月経のことを「タヤ」といい、月経時のことを「タヤにいる」などという。タヤについては『民族と歴史』第四巻第四号に、橋川正君の「タヤ考」を紹介しておいたが、あれは主として本願寺のタヤについてであった。月経をタヤと呼ぶことは、もともとわが邦俗血穢を忌んで、経時の婦女の住宅内に同居し、特に神棚に近づくことを許さぬ習慣から、漁村では通例海岸に月小屋を設けて、経時の婦女はその期間をここに過ごすの例であったように、農村では有り合せの田屋に経時を送ったことから、得た名であるに相違ない。田屋とはその名のごとく田地の所在に設けられた小屋で、平素は居村の住宅に住んでいる農民も、農繁期には朝夕その耕地に通うの不便を避けて、便宜ここに寝泊りしたものであった。もちろん村落に近い田地にはこの必要もなかったであろうが、それでも刈り取った稲を納めたり、籾を落としたりするための小屋は必要であったはずで、それを経時の例の隔離舎に使用していたものであろう。
 ところで特にこの仙北地方に、他では半人《はした》または間人《まうと》などと呼ばれた小作百姓のことを、タヤと呼んだのは一考に値する。由来、奥羽地方はもと夷の地であって、特に出羽でも仙北三郡の地方は、比較的後まで夷俘や俘囚の残存した場所であったから、かの「大宝令」の規定に見ゆるがごとく、人居は常に城堡内に保護せられて、ただ農時にのみ出でて営田の所に住むという習慣が比較的後までも行われていたことと思われる。この営田の所の住居すなわち田屋である。後に夷に対する防備の必要がなくなった時においても、地主たる農民はなお引続いて、営田から離れたもとの村落に住居し、営田の地なる田屋には、土地を有せずして耕作にのみ使役せらるる、いわゆる農奴が住む習慣を生じたものではなかったろうか。農奴はすなわち後の小作百姓の類である。かくてここに小作百姓に対して、田屋の称呼も起り得る訳である。
 仙北でもまた庄内地方と同じく、皮革を扱う旧特殊民をラクといっていたそうな。これは本誌一月号「庄内雑事」中に書いておいた通り、牛馬医たる伯楽の略称であるに相違ない。去る一月二十八日、大和御所町における差別撤廃講演のさいに、同地大正村西松本の前川増吉君所蔵の部落関係書類を借覧した中に、牛の疾病治療法を図示した一巻の伯楽伝書があった。上方《かみがた》でもやはり牛馬医はこの人々によって行われて、ために伯楽の名があったのだ。この仙北地方にももと少数のラクがあって、皮細工に従事し、万歳などに出ておったが、今もその流れのものが遺っていて、太鼓、三味線などの皮を張ったりしているものがあるそうな。しかし今では多くは他の職業に転じ、住居も比較的自由で、通婚も時には行われ、そう差別待遇は受けておらぬという。そうなければならぬ。

   防壁と立薦《たつごも》

 雪の深い所ではしばしば屋根の雪を除かぬと、その重みで粗末な家は潰れる虞れがある。しかしそれを掻き落すとそれが家の周囲に積み重なって、高さ軒を没するようにもなる。そうでなくてもこの冬のような大雪では、低い家では軒まで達することが珍らしくない。そこでかかる地方では雪が四壁に逼まるのを防ぐために、家の周囲に「雪がこい」ということをする。雪国の家は普通三方を壁で囲うて、出入口を一方に設け、他は小窓があるくらいに過ぎないから、通例壁に副うて木材を立て、それに葦簀《よしず》や薦《こも》の類を縛りつけてそれで取り囲むのであるが、江畑君のお宅のような都会風の座敷廻りなどでは、前もって板で作った蔀《しとみ》風のものを設備して、それを外側に立ててあった。しかしいずれも壁が直接雪に冒されないための防禦なのだ。『和名抄』に、
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縛壁 釈名云、縛壁[#(ハ)]以[#レ]席《ムシロ》 縛著[#二]於壁[#一]也、漢語抄云、防壁〈多都古毛〉
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とある。そしてそれを屏障具の中に列挙してあるのである。このことは『民族と歴史』第六巻第五号に、乞食を「お薦」ということを論じた文中に、簡単に及んでおいたことであったが、今この雪国で薦の類を家の周囲に副え立てて、壁を防ぐの設備をしているのを見て、縛壁は席をもって壁に著くる物だといい、防壁と書いてタツコモと訓ませた理由を、なるほどと覚えたことであった。もっともこれは雪国において、積雪の期間のみの設備であるが、昔の不完全な家屋では、普通の場合風雨の侵蝕に対しても、また同様に薦を立てて防壁の設備を施したものであったと考える。「縛壁」に対する『釈名』の解は、この用途におけるタツコモの有様をよく説明している。しかもそれを『和名抄』に屏障具の中に収め、帳《とばり》・屏風・簾《すだれ》などとともに列してあるのは、後にその品の用途を異にしても、なお旧時の称呼を保存したもので、前引『釈名』や『漢語抄』の解釈は、これを屏障具というよりは、むしろ墻壁具の部に収むべき用途に対する説明であると解せられるのである。

   雪の金沢柵址

 二十九日江畑君のお宅から例の箱雪車の厄介になって、約一里の雪の郊野を金沢町に送られた。平地では滑走自由ですこぶる爽快だったが、それでもなお融けかけた雪の上のこととて、その下を小川が流れたり、水溜りに陥落したりした所もあって、折々ひやひやさせられた。それが一とたび村落の中に這入ってみると、雪道《ゆきみち》と地道《じみち》との過渡期なるこの季節のこととて、例の家根から掻き落した雪が、まだそのままに高く積もって崚しい山となっていたり、すでに一部分それが除かれて、深い谷となっていたりして、それを引き上げ引き下ろされるたびごとに、雪車の中の旅も容易でないと思った。
 清原武衡・家衡らが最期の籠城の地たる金沢柵址は、金沢本町の丘陵上にある。その麓を流るる川を厨川《くりやがわ》といい、これを越えるとすぐに柵址への上り口となる。ただしこの厨川というのは、安倍貞任の最期を告げた奥州の厨川とは全然別の厨川だ。柵址には八幡神社が勧請せられて、その社務所が登り口にある。早朝江畑君邸から先発された三浦祠官を始めとして、前代議士の伊藤直純君、金沢町助役の伊藤直之助君、近所の菓子屋恵美須屋さんの御主人戎谷亀吉君などが、すでに社務所で待っておられる。伊藤直純君は熱心な金沢研究家で、金沢柵や後三年の役に関係した史料を集めて、『金沢史叢』という大部の叢書をまでも編輯しておられるお方だ。昨年深沢君のお宅が焼けたので、同君はその思い出として「火災に遭ひし記」というものを書かれ、それを謄写版刷として知己、友人に配られたところが、それを受け取って読まれたその日に偶然伊藤君のお宅もまた焼けた。そしてその感懐を記述された文が深沢君の記事の附録となって、その当時自分のもとに致されたので、伊藤君のお名前なり、その特志のお方であることなりは、すでに前から承知していたのであったが、ただそれだけのことであっただけでも今お目にかかってみれば、なんだか旧知の感がして懐かしかった。恵美須屋さんまた伊藤君と双璧ともいうべき熱心な金沢通で、ことに丹彩の技に長じて、神社の宝物その他を一々絵にあらわした帖を作られたり、伊藤君と謀って『後三年絵巻』の残欠を補うべく、研究考証の末に補遺十数巻を描いておられる。その熱心さ加減はとても常人の及ぶところではない。
 社務所から社殿のある柵址まで約六町、雪が深くてとても和服、駒下駄の行装では登られそうにもない。例のモンペを借りて袴とはきかえ、足袋の上に借り物のゴム靴を穿ち、すでに踏み固めてある雪の上を尋ね尋ねして登る。人通りのない所ではゴム靴のみでは不可とあって、さらに靴の上にカンジキを縛りつけて、下の方から融けかけた雪を踏みしめ踏みしめ、伊藤君先導のもとについて行く。折々その表面を踏みぬいて、カンジキ著けたまま太股の辺まで踏み込んでは、それを引き出すのが容易でなかった。
 丘陵の頂上は二段に削平されて、上段に八幡宮の社殿がある。額に正八幡宮とある。別に二の丸、西の丸などと、構造は普道の山館とは違ってすこぶる込み入っている。兵糧蔵の跡という所、例の炭化した籾が出る。焼き米と普通に呼ばれているが、あながち焼けた訳ではあるまい。昨夜拝見した江畑氏蔵品の中にも、それが塊をなして厨川に流れていたのがあって、珍しく思ったことであった。なんでも多量の兵糧がそのまま炭化して埋まっているものらしい。後三年の役に清原武衡、家衡らがこの柵に籠城して、頑強にそれを拠守したのには、さすがの八幡太郎も閉口して手のつけようがなかったのであった。かくてついに兵糧攻めの持久の策に出でたのは、もちろん武衡らの強勇によったとはいえ、実にこの柵の要害堅固のためであった。これにはさすがの武衡らも閉口して、城中食尽きついに陥落するに至ったとあるが、しかも今に至ってなおいわゆる焼米のかく少からず出るのは不審である。あるいはこの城が後に再び他の豪族の拠守するところとなっていたためかも知れぬ。金沢氏拠守のことはその伝えがあるが、その他にもなかったとは保し難い。したがって今の柵址は後三年の役当時のままではなくて、後に手の加えられたところが少くないのかも知れぬ。
 加藤君一々近傍の形勢を指示して、説明してくださる。南に碧水を湛えたのが蛭藻沼で、武衡が藻を頭から被って隠れていた所、その附近の丘が陣※[#小書き「ガ」]岡とて義家陣営の址、西に見える低い丘が陣館の丘で、本城出城のあった所、ここにある深い堀が、当時の塹濠の址だなどと、一々掌を指すがごときものだ。帰途の汽車の中で陸軍将校の一団と乗り合したが、その人達の談に、明後日とか金沢町附近で演習が行われるので、加藤直純氏から講話を承るはずになっているとある。加藤君は全く後三年の役と金沢柵とについては、なくてはならぬお方なのだ。元の道を下って社務所に休み、陳列の宝物類や、わざわざ取り寄せてくださった『後三年絵巻』の写しなどを拝見して、再び雪車に送られて、後三年駅に向った。

   金沢八幡社のお通夜

 金沢柵址の八幡神社は、伝えて八幡太郎義家が、羽州鎮護のために石清水から分霊奉祀したものだという。慶長九年、佐竹義宣社殿改修の時の棟札に、出羽国六个郡之鎮守とある。しかし後世では金沢一郷のみがその氏子たるに過ぎなくなった。八幡宮はその宗社石清水に古く放生会が行われたほどで、ことさらに殺生を忌まれ、また触穢の禁忌のやかましい社なので、ここでは今なお領域内の殺生を厳禁し、また例祭月の正月と八月とには、朔日から十五日までは鳥獣の肉を喰うを禁じ、この間に氏子中に死者あるとも、村内に葬ることをせず、隣村の境に到って葬儀を行うということである。
 八幡宮の社殿に「お通夜《つや》」ということが行われる。男女相集ってかけ歌を催し、勝負を決する。その歌には一定の型があるが、文句は即席に作るのが多く、それをニガタ節という節調で歌う。文句に行きつまったもの、声の続かぬものは負となって退き、新手と入れかわる。たいてい十二時ころから始まって、夜を徹するという。かけ歌とは、相手の歌の文句なり内容なりにかけて、それに縁故ある歌を歌うの義であろう。昔の歌垣というのは、集まった人が並んで人垣を作り、互いに歌を詠み交わすための名であろうが、このかけ歌また一種の歌垣である。『摂津風土記』に見える歌垣山、『万葉集』や『常陸風土記』に見える筑波のカガイ、皆同じ種類のものであろう。自分の郷里においても、夏の夜若い男女がお寺の庭などに集まって、麦舂きの真似をしながら、相手の歌の文句にかけて即席新作の歌をうたい、勝負を争う催しがしばしば行われる。それをオスガタといっている。相手の姿を賞めたり、ひやかしたりする歌を多く初めに歌うからだという。「様のお姿これから見れば、丁度山田の猪脅《ししおど》し」という風のものだ。昔はこのようなことが各地に行われていたものであろう。そしてそれがこの金沢八幡社の恒例祭日にも行われているのだ。伊藤君記述の『八幡神社略記』に、「八幡宮の北方に当る村落を仙北の北浦と称し、此地方に於ける妙齢の女子、恒例祭に社参し、一夜の参籠を為すに非ざれば、嫁がざるもの多しと。之を御通夜と称し、今猶行はるといふ」とある。やはり筑波の歌かがいと同じく、もとは未婚の女子の夫定《つまさだ》めの機会をなしたものであろう。

   仙北の俘囚

 仙北の名は今は平鹿郡と川辺郡との間にある一郡の称となっているが、もとは広く山の北の義で、羽前境の連山以北、御物川上流の平野を中心とした一帯の地の総称であった。今の雄勝・平鹿・仙北の三郡はすなわち、すべていわゆる仙北のうちなのだ。それを総称して時にあるいは仙北郡ともいった。今の仙北郡はほぼ『延喜式』に見ゆる山本郡の域に当り、いわゆる仙北の一部たるに過ぎぬ。そして今の山本郡の地は、『延喜式』時代にはなお夷地に没して、いまだ一郡をなするに至らず、阿倍比羅夫遠征のころの渟代《ぬしろ》郡のあった場所なのだ。しかるに徳川時代寛文四年郡名整理のさいに、大いにその実際を誤って、仙北をもって一郡の名と心得たがために、もとの山本郡にこの名を附け、もと郡名のなかった別の所に、新たに山本の旧郡名を当てたのである。
 仙北あるいは『吾妻鏡』に千福《せんぷく》ともある。例の奥羽訛りによってセンポクとセンプクと、その区別がしにくかったので、鎌倉武士が土人の口にするところを聞いたままに、勝手な文字を書いたのだ。この地方は川の上流に位置し、南は山で限られていたために、日本文化の及ぶことは比較的遅かった。出羽方面の王化はまず海岸から入り込んだので、秋田・渟代《ぬしろ》(能代)の辺はすでに、斉明天皇朝に安倍比羅夫の遠征によって郡が置かれ、当時津軽の辺にまで、内地化したる熟蝦夷《にぎえみし》がいたほどであった。しかるにこの山間の仙北地方は、なお久しく麁蝦夷《あらえみし》すなわち生蕃の住処として遺され、奥州の国府多賀城から、出羽の秋田城に通ずるにも、最上川に沿うていったん西に下り、飽海郡から西海岸を迂回したものであった。それではあまりに不便とあって、天平年間にこの方面の蝦夷を征して雄勝の道を通じ、最上郡からただちに御物川の上流に出ることとなった。それからだんだんと内地人を雄勝城にうつし、仙北平野の拓殖も進んで来る。蝦夷も次第に内地化して、いわゆる俘囚となって来たのではあったが、その後なお久しく民夷雑居の境であった。天平の開通を距る約百四十年後の元慶四年において、出羽の国司はこんなことを上言している。
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 管諸郡の中、山北の雄勝・平鹿・山本の三郡は、遠く国府を去り、近く賊地に接す。昔時叛夷の種、民と雑居し、動《やや》もすれば間隙に乗じて腹心の病を成す。頃年頻りに不登に遭ひ、憂ひ荒飢に在り。若し優恤せずんば、民夷和し難し、望み請ふ、調庸二年を復して、将に弊民を休めん。
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 これに対して勅して一年の復を賜い、不動穀六千二百石を三郡の狄俘八百三人に給した。狄俘とは夷俘というと同じく、蝦夷の生蕃の謂である。わが国では同じアイヌ種の蝦夷人をでも、奥州を東とし、越後・出羽を北といったがために、シナの東夷・北狄の語を取って、越後・出羽方面の蝦夷をしばしば蝦狄あるいは狄俘といったのであった。元慶の当時なお仙北の地には、少からず生蕃がいたのだ。延喜前後から地方の政治はなはだしく紊乱した。奥州においては蝦夷の族勢力を恢復して、いったん設置した郡までが夷地に没入するの情勢となった。かくて奥州では俘囚の長安倍頼時が、今の陸中中部の六郡を押領して、国司の命を奉せず、ためにいわゆる前九年の役が起ったのであった。このさいこの仙北地方は、同じ俘囚長たる清原氏の占領するところとなっていたらしい。安倍氏を討じた陸奥守源頼義、その子義家は、上方《かみがた》にあっては驍勇をもって聞こえた武士の棟梁であったが、容易に安倍貞任を征服することが出来なかった。かくて前後十二年を費して、最後にこの仙北俘囚長たる清原氏の援助を乞い、ようやくこれを滅ぼすことが出来たのである。この時頼義が、いかに辞を卑《ひく》うし礼を厚うして清原氏を誘ったかは、後に清原氏の方で頼義を見ること、家人《けにん》のごとく心得ていたのによっても解せられる。かくて清原光頼・武則の兄弟は、一族|吉彦《きひこ》秀武らとともに一万余騎の兵を率いてこれに応じ、ついによく安倍氏を滅ぼすことが出来た。武則功をもって鎮守府将軍に任ぜられ、胆沢に移って威を奥州に振い、かねてこの仙北を領していたので、その勢力は遙かに安倍氏に増していたに相違ない。これとうてい後三年の役の起らざるを得ざるゆえんであった。武則は実に夷人にして、始めて鎮守府将軍に任ぜられたのだ。一族秀武の姓の吉彦はすなわち吉弥侯《きみこ》で、これまた俘囚に普通に見る氏である。後三年の役の末金沢落城のさいに当って、義家は清原氏を罵って、武則賤しき夷の名をもって、忝くも鎮守府将軍に任ぜられたのは、これわが父の推挙によるものだと言っている。その夷人が奥羽両州に跋扈しては、いわゆる臥榻の傍に他人の鼾睡を容るるもので、義家たるものの忍ぶ能わざるところであったに相違ない。後三年の役直接の原因がなんであろうとも、その根本は華夷の衝突とうてい免れ難いところにあったのだ。しかもその義家も、自己の兵力のみをもってしてはとうてい清原氏に勝つことが出来なかった。彼は依然俘囚たる藤原清衡の援助を得て、ついによくこれを滅ぼしたのであったから、義家任満ちて都に帰った後においては、その功ついに清衡に帰して、清原氏に代って鎮守府将軍となり、清原氏についで奥羽二州に勢力を振うこととなったのである。後に文治五年の源頼朝の奥州征伐は、その名は藤原氏が弟義経を容隠したにあったとはいえ、その根本はやはり華夷の衝突免るべからざるものであったのだ。仙北俘囚の勢力の最後も、実にこの頼朝奥州征伐の時にあったといってよいのであろう。

   山形泰安寺――秋元家の巾着寺

 後三年駅午後五時の上り汽車に乗って、山形に着いたのが九時四十五分。あの広い二等車中には、二、三人の乗合しかない。よい気持に眠ってしまって駅に来たのも知らず、汽車は仕合せに山形止りであったので良かったものの、それでも危なく車庫内に運び込まれるところであった。駅まで迎えに来てくださった有吉君・阿部(正己)君などと同車で、山形ホテルに送られて、ここで一夜の御厄介になる。阿部君は史蹟名勝天然紀念物調査委員として、明日の発会式のために前もって来ておられるのだ。幸い同宿で、旧臘伺い漏らした土地のお話を、ゆっくり承る機会を得たのは嬉しい。
 ホテルはもと秋元家の泰安寺の址で、その庭園は今もなお当時の林泉のままだという。秋元家は譜代の大名として、たびたび転封の経験を有し、この山形では明和四年に武州川越から移ってより、弘化二年上州館林に転じて、水野越前守と入れ交るまで、わずか八十年にも足らぬほどの就封に過ぎなかったが、その間にも菩提寺として、ここに泰安寺を造営したのであった。この寺は俗に秋元家の巾着寺といわれて、転封ごとに腰巾着のごとく持って廻ったものだという。
 これは阿部君から承ったところだが、以下同君談話の中から面白いものを二、三書きとめておく。

   荘内の獅子踊と神楽、サイドウ

 飽海郡松嶺町の南に大沼という村がある。ここに古来獅子という踊があって、農家の子弟がこれを行う。獅子の面を被って踊るので、ササラ方があり、歌うたいがあり、棒方二人、五尺ばかりの物を持つ。この踊はひとり自村の氏神祭のみならず、他村の氏神祭にも招かれて出かけて行くのだという。けだし田楽の遺物で、三月号に紹介した宇和島の鹿の子踊りや、豊橋の鬼祭のような類で、昔は各地に行われたものが、名を忘れて後もなおかく諸所に遺っているものと思われる。
 松嶺の本町・新町には神楽がある。初め天狗の面を被ったものが出て、手に三叉鉾を持ち、足に高足駄をはいて、笛に合して種々所作事をする。次に神楽がある。大きな獅子を二人であやつり、一人はその頭を持ち、一人はその尻尾を持つといえば、これは普通の獅子舞らしい。
 サイドウという道祖神の祭は、毎年正月十五日に、深い積雪の上で行われる。町が二つに分れて、血気の若者が足袋跣足鉢巻の出でたちで、双方大太鼓をいくつも担ぎ出して橇に載せ、削り懸けの撥《ばち》を腰にさして、中央の大橋で出合って互いに通過を争うのであるそうな。その争いは至って元気のよいもので、ためにしばしば怪我人が出来ることすらある、道祖神のためには別に社殿があるのではなく、正月五日ころから各町ごとに小屋を作って、子供らそこに集まって太鼓を叩いてこれを祭る。その最後の日に疫送りとて、町はずれに送り出す。前の争いはその時の衝突だという。
 右は阿部君のお話の大要だが、聞き違い書き違いがあるかも知れぬ。精しいことは同君の御執筆を煩わす約束である。

   山形県の史蹟調査について

 今日いよいよ議事堂で山形県史蹟名勝天然紀念物の調査会が開かれた。内務省から理学博士三好学君が見えられて、種々調査上の注意のお話がある。自分もお相伴して、山形県下の史蹟調査について、一席の講話を試みたことであった。歴史の研究は記録と実地との両方から進まねばならぬこと、記録的資料の少い古代の事情は、ことに実地の踏査に重きを置かねばならぬこと、別して奥羽地方はその資料に乏しいので、遺蹟の調査によってこれを補わねばならぬこと等を説いて、山形県地方開発の沿革に及んだ。太古の住民なる蝦夷族の研究、その遺蹟として石器時代の調査の必要なこと、出羽における王化の布及の越後・陸奥両方より来たこと、夷俘・俘囚のこと、館址および古墳の調査のこと、華夷勢力消長のこと、蝦夷族の末路のこと等の概略を述べて、この講話を終った。
 講演後、渡辺徳太郎君の訪問をうけ、同君に誘われて千歳亭で昼餐の饗応に預った。同君は多年山形商業学校校長を勤められ、県立図書館長を兼ねて、先年満鮮旅行のさいに同行されたお方だ。令兄渡辺正三郎君編輯の『山形県経済史料』二冊を贈られたのは嬉しかった。わが社会史研究にも有益な材料が少くない。
 午後調査委員の顔合せ会があって、自分も陪席し、史蹟調査の方針について意見を述べたことであった。

   山形城址

 午後、山形城址の案内を受けて一覧した。維新前はわずかに水野氏五万石の居城たるに過ぎなかったが、何しろもと最上氏五十七万石の城郭とて、規模すこぶる広大で、なかなか五万石や十万石の大名の持ち切れるものではない。元和八年最上氏改易後は、ほとんど定ったる城主もないと言ってよいほどで、鳥居氏以下わずか百四十五年間に十一家の領主を改め、その間時に幕府の直轄地ともなったこともある。かくて明和四年に秋元家が、六万石でここに移封したさいには、城郭の荒廃すこぶるはなはだしくなっていた様子であるが、秋元氏これを修築し、外濠内に三千石の田地を開いてこれを込高としておったとのことである。しかるに弘化二年、水野家五万石で浜松からここに転封したさいには、この城内三千石の地も高に数えられて、事実上城郭は二の丸以内に限局せられた。その中央にさらに濠を繞らして本丸が設けられていたが、今は兵営となったのでこの濠は埋められ、跡形もなくなった。将校集会所で、最上時代以後秋元家修築前の状を現わした数軸の地図を拝見した。最上家の時代には、二の丸内はもとより、その以外いわゆる三千石の地にも諸士の邸宅が割り宛てられていた盛んな状が知られる。それが些細なことから幕府の忌諱に触れて、一朝主家の改易となっては、たちまち分散消滅してしまったのだ。

   おばこ踊

 夜四山楼の晩餐に、庄内のおばこ節というものを聞かして貰うの光栄を得た。おばこ踊とは娘ッ子の手踊の義であるそうな。説明に曰く、「おばこ」とは若き女を指したることにて、弟をおじといい、妹をおばと呼ぶより出でたることなるべしだと。「おばこ」の「こ」はけだし東北地方の方言で、よく名詞の尻につける「コ」であろう。東京あたりでも隅《すみ》のことを隅ッコといい、うんコ・しッコなどと語尾のコを附ける場合が少くないが、東北地方にはことにそれが多い。牛のことをベコというので、それにコをつけてベココといい、牛の子のことをベココのコッコという類だ。
 おばこ節の歌詞は田舎情緒の方言丸出しの無邪気なものだ。その少許を左に書き留めておく。
[#ここから1字下げ]
おばこ来るかやと田圃《たんぼ》の外《は》んづれまで出て見たば、コバエテ/\、おばこ来もせで用《よ》のない煙草《たんばこ》売りなの(なのはなどの意)ふれて来る。コバエテ/\
おばこ居たかやと裏の小ん窓から覗《のぞ》いて見たば(見たばは見たればの意)、コバエテ/\、おばこ居もせで用《よ》のない婆様《ばあさま》なの(など)糸車、コバエテ/\。
おばこ此のぢよめえね(このごろ見えぬの意)風でも引いたかやと案じられ、コバエテ/\、風も引かねど親|達《だ》んちや厳《き》んびしぐで(東北方面には濁音が多い)籠の鳥、コバエテ/\。
おばこ心持ちや池の端の蓮の葉の溜《た》んまり水、コバエテ/\、少し触《さは》るでど(でどはというとの意)ころ/\、転《ころ》んでそま(そまはすぐの義)落ちる、コバエテ/\、
おばこ昼寝したば(したれば)若いかりゆめ(猟師)が来て小槍つん出したね、コバエテ/\、かりゆめ何を為《す》る、かりゆめは熊を突くしよべゑ(商売)だもの、コバエテ/\。
酒田山王山で鰕《えび》ンコとかんじかコ(かんじかコはかじか=鰍のこと)と相撲《すも》取つたば(取ったれば)コバエテ/\、蝦コなして(何故に)又|腰《こし》や曲《ま》がた、かんじかコと相撲《すも》取つて投んげられて、それで腰《こし》や曲がた。コバエテ/\。
鰻嫁取る、八ツ目のなかあど(仲人)でどじよ(鰌)の子嫁貰ろた、コバエテ/\、嫁もしようと(姑)に似て腰もんと弱ぐで、ぐにやらしやんにやらと、コバエテ/\。
[#ここで字下げ終わり]
 まずこんなようなものだ。合の手のコバエテとは「来れは良い」の義で、酒田地方の方言だという。同じ庄内でも鶴岡ではこれをコバイチャというそうな。

   羽黒の裸祭

 晩餐の席上で、同席の諸君からいろいろ有益なお話を承った中に、一つ羽黒の裸祭のことをここに書き留めておく。一月三十一日のころ年越の晩に行われるので、村民真冬の雪の深い中を、二組に分れて、丸裸でおしあって、恙虫を送るのだという。藁で大きな恙虫の形を作り、それを切り取って振り蒔く。それを血気の若者が争って取り合う。ある一定の地域より外へ持ち出せば、もはやその所得が認められたので争わない。それを持って帰って家の入口に置く。その残りを一定の地で焼く。その早く焼き終った方が勝ちとなるのだという。そのおしあい祭の両方の長たるものをヒジリというのが面白い。ヒジリは「聖」で、普通には念仏行者の称であるが、ここではその聖が首領となって、恙虫送りの行事をするのだ。そのヒジリなるものは百日間家を出て、羽黒山に参籠して潔斎するのだという。この祭の時は大そうな人出なので、積雪を穿って室を作り、そこで茶店を開いて参詣者に茶菓、酒食を供するという。
 かくのごとき風習は奥羽地方各地にあると見えて、陸中江刺郡黒石の蘇民祭もこれに似たものだとのことであった。『民族と歴史』第五巻第四号に、羽後平鹿郡の細谷則理君が報告せられた「羽後のおしあひ祭」と題する記事もこれに似ている。
 なお右の羽黒の行事は、加藤将義君と高橋栄君とに詳細の報道を御依頼しておいたから、いずれ本誌において御紹介し得るの機会があろう。

 この夜終列車の急行で帰京。出羽滞在丸三日に過ぎなかったが、あまり同地方を知らぬ自分にとっては、珍らしいことの多かったのが嬉しい。帰ってみると東京の桜はすでに咲いている。



※ 荘内と庄内の混用は底本の通りです。
※「加藤(直純)」は「伊藤(直純)」の誤りと思われますが、底本のままとしました。
底本:『喜田貞吉著作集 第一二巻 斉東史話・紀行文』平凡社
   1980(昭和55)年8月25日 初版第1刷発行
初出:『社会史研究』第9巻第6号
   1923(大正12)年6月
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名

(地名を冠した自然現象などを含む)

[奥羽] おうう 陸奥と出羽。現在の東北地方。福島・宮城・岩手・青森・秋田・山形の6県の総称。
[奥州] おうしゅう (1) 陸奥国の別称。昔の勿来・白河関以北で、今の福島・宮城・岩手・青森の4県と秋田県の一部に当たる。1869年(明治元年12月)磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥の5カ国に分割。(2) 岩手県の内陸南部、北上川中流に位置する市。稲作を中心とした農業のほか、商工業も盛ん。人口13万。
[青森県]
津軽 つがる (古くは清音) (1) 青森県(陸奥国)西半部の呼称。もと越の国または出羽に属した。(2) (「つがる」と書く)青森県西部、津軽平野の中央部・西部に位置する市。稲作やリンゴ・メロン・スイカの栽培が盛ん。人口4万。
黒石 くろいし 青森県西部、津軽平野の南東部にある市。津軽藩の支藩の陣屋町。周辺は米とリンゴの産地。人口3万8千。
[岩手県]
[陸中] りくちゅう 旧国名。1869年(明治元年12月)陸奥国を分割して設置。大部分は今の岩手県、一部は秋田県に属する。
江刺郡 えさしぐん 陸中国(旧陸奥国中部)、岩手県にかつて存在した郡。
奥六郡 おく ろくぐん 律令制下に陸奥国中部(東北地方太平洋側、後の陸中国)に置かれた胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡の六郡の総称。現在の岩手県奥州市から岩手県盛岡市にかけての地域に当たる。
胆沢 いさわ 胆沢城は現、水沢市佐倉河。
胆沢城 いさわじょう 802年(延暦21)陸奥鎮定のために坂上田村麻呂の築いた城。のち鎮守府を置く。岩手県奥州市水沢区に城跡がある。
厨川 くりやがわ 北上川右岸に位置し、同川に東流して合流する雫石川北岸にあたる地名。
厨川柵 くりやがわのき 岩手県盛岡市下厨川にあった城柵。前九年の役の際、源頼義が安倍氏一族を滅ぼした古戦場。
[宮城県]
[陸前] りくぜん 旧国名。1869年(明治元年12月)陸奥国を分割して設置。大部分は今の宮城県、一部は岩手県に属する。
多賀城 たがじょう (1) 奈良時代、蝦夷に備えて、現在の宮城県多賀城市市川に築かれた城柵。東北地方経営の拠点として国府・鎮守府を置く。政庁を中心とした内郭や方1キロメートル余の外郭の土塁が残る。城跡は国の特別史跡。(2) 宮城県中部、仙台市の北東にある市。仙台港の開港後、急速に工業化が進展。人口6万3千。
出羽路
[秋田県]
[羽州] うしゅう 出羽国の別称。
[羽後] うご 旧国名。1869年(明治元年12月)出羽国を分割して設置。大部分は今の秋田県、一部は山形県に属する。
[秋田] あきた (1) 東北地方北西部の県。羽後国の大部分、陸中の一部を管轄。面積1万1612平方キロメートル。人口114万6千。全13市。(2) 秋田県西部、日本海に面する市。県庁所在地。もと佐竹氏20万石の城下町。旧名、久保田。雄物川の下流に位置し、古くから畝織・秋田八丈・秋田蕗を産する。産業は化学・食料品・パルプ工業。秋田港(土崎港)をもつ。七夕の竿灯祭は東北三大祭の一つ。人口33万3千。
[仙北郡] せんぼくぐん 羽後国および秋田県の東部に位置する郡。古い資料では「山北」「仙福」「仙乏」と表記している事もある。
仙北平野  せんぼく へいや 秋田県仙北郡にある横手盆地内の平地。
仙北 せんぼく/せんぽく 秋田県東部の市。市域のほぼ中央に田沢湖がある。林業・観光業が盛ん。人口3万2千。
金沢柵 かねざわのき/かねざわのさく 秋田県横手市金沢にあった城柵。後三年の役に清原武衡・家衡がこれに拠り、源義家に攻め滅ぼされた。
金沢町 かねざわまち 秋田県の東南部に位置した町。後三年の役の古戦場として知られ、金沢柵などの史跡がある。昭和の大合併で横手市に編入され消滅。その後、北部が仙北郡仙南村に分市した。
金沢西根村 かねざわ にしねむら 秋田県仙北郡にかつて置かれていた村。横手盆地のほぼ中央部に位置し、丸子川と厨川の複合扇状地扇端部および後背湿地に所在する。湿地をあらわす「谷地」のつく地名が多い。全体が平坦地を占め、県下有数の穀倉地帯の一画を占める。横手川(旭川)により平鹿郡角間川町・同郡黒川村と接す。
雄勝城 おかちのき 藤原朝狩が759年(天平宝字3年)に雄勝郡(現在の秋田県雄物川流域地方)に造った城柵。
後三年駅 ごさんねんえき 秋田県仙北郡美郷町飯詰東山本にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)奥羽本線の駅。駅名の由来は、一帯が後三年の役の古戦場であったことから。
金沢八幡社 → 金沢山八幡神社か
金沢山八幡神社 かねざわやま はちまん じんじゃ 現、横手市金沢字安本館。
飯詰村 いいづめむら 秋田県仙北郡にかつて置かれていた村。横手盆地のほぼ中央部に位置し、丸子川と厨川の複合扇状地上に所在する。金沢町との境界をなす南側・東側に残丘があるものの平坦地は地味肥沃で県下有数の穀倉地帯の一画を占める。
経塚山
石名館 いしなだて 六郷町六郷か。
厨川 くりやがわ 横手市金沢本町を流れる川。
金沢本町村 かねざわ もとまちむら 現、横手市金沢本町。
蛭藻沼 ひるもぬま 金沢中野村の南端にある沼。
陣が岡 義家陣営の跡。
陣館の丘 じんだてのおか 陣館の岡。現、横手市金沢字安本館。
北浦 きたうら 秋田県男鹿市北浦か。金沢八幡社の北方。
仙北三郡 せんぼく さんぐん 横手盆地を中心とした地域。北から仙北郡・平鹿郡・雄勝郡の三郡。
[山本郡] やまもとぐん 羽後国および秋田県の北西に位置する郡。
[渟代郡] ぬしろぐん
能代 のしろ 秋田県北西部の市。米代川河口の南岸に臨む港湾都市。製材業・木工業が盛んで、能代塗は有名。人口6万3千。
秋田城 あきたじょう (1) 奈良・平安時代、出羽北部の蝦夷に備えるために、733年(天平5)出羽柵を移して現秋田市寺内の高清水岡に築かれた城。今は土塁の一部などが残存する。(2) 佐竹氏の居城。現、秋田市千秋公園。久保田城。矢留城。
[平鹿郡] ひらかぐん 羽後国および秋田県の南東部に位置していた郡。郡域はおおむね現在の横手市の市域に相当する。
[河辺郡] かわべぐん 羽後国および秋田県にあった郡。奈良時代の古文書にもかかれているほど歴史ある郡であった。かつては新屋町(→秋田市)、豊島村(→河辺町)、大正寺村(→雄和町)など県内でも有数の町村数を誇ったが、相次ぐ合併で縮小し、最終的には鹿角郡の一町(小坂町)に次ぐ県内でも小規模の二町のみの郡となっていた。
川辺郡 → 河辺郡。絵図に「川辺郡」もあり。
御物川 おものがわ → 雄物川(日本史)。
雄物川 おものがわ 秋田県南東部に発し、横手盆地・秋田平野を経て日本海に注ぐ川。長さ133キロメートル。
[雄勝郡] おがちぐん 羽後国および秋田県の南東部に位置する郡。 羽後町・ 東成瀬村の1町・1村を含む。
[山形県]
[羽前] うぜん 旧国名。1869年(明治元年12月)出羽国を分割して設置。今の山形県の大部分。
[庄内] しょうない 山形県北西部、最上川下流の日本海に臨む地方。米の産地として知られる。中心都市は酒田市・鶴岡市。
荘内 しょうない → 庄内
[飽海郡] あくみぐん 羽後国および山形県の郡。
松嶺町 まつみねちょう? 現、松山町。
大沼村 大沼新田村か。現、松山町大沼新田。
松嶺の本町・新町
酒田 さかた 山形県北西部、最上川の河口に位置する市。江戸時代、北国廻船と最上川舟運とが結びついて庄内米を積み出した日本海有数の港町。人口11万8千。
酒田山王山
鶴岡 つるおか 山形県北西部、庄内平野の中心の市。もと酒井氏14万石の城下町。羽二重などの絹織物、第二次大戦後は農機具・清酒などの生産が盛ん。人口14万2千。旧称、荘内。古名、つるがおか。
羽黒 はぐろ かつて山形県東田川郡に存在していた町。現在は鶴岡市の一部。羽黒町を参照。
羽黒山 はぐろさん 山形県庄内平野南東にある山。月山・湯殿山と共に出羽三山の一つ。山頂に出羽神社があり、古来修験者の登山が多い。標高414メートル。
最上川 もがみがわ 山形県の南境、飯豊山および吾妻火山群に発源、米沢・山形・新庄の各盆地を貫流し、庄内平野を経て酒田市で日本海に注ぐ川。富士川・球磨川とともに日本三急流の一つ。古くから水運に利用。長さ229キロメートル。
[最上郡] もがみぐん 出羽国・羽前国・山形県の郡。 古代の最上郡は、後の最上郡と村山郡の双方を包含していた。仁和2年(886年)、最上郡は北の村山郡と南の最上郡の南北2郡に分割された。現在の最上郡に当たるのは村山郡の方。 江戸時代初期、村山郡と最上郡とが入れ替えられ、現在のように北が最上郡、南が村山郡となった。
釜淵 かまぶち 山形県最上郡真室川町釜淵。
及位 のぞき 山形県最上郡真室川町及位。
新庄 しんじょう 山形県北東部の市。新庄盆地の中心で米・木材の集散地。近年、家具製造業も発展。もと最上氏、のち戸沢氏の城下町。人口4万1千。
楯岡 たておか 山形県村山市楯岡。
神町 じんまち 山形県東根市神町。
天童 てんどう 山形県東部の市。もと織田氏2万石の城下町。下級武士の内職として始められた将棋駒の製造は有名。天童温泉がある。人口6万4千。
山形 やまがた (1) 東北地方南西部の県。羽前国と羽後国の一部とを管轄。面積9323平方キロメートル。人口121万6千。全13市。(2) 山形県東部、山形盆地の南東部の市。県庁所在地。もと最上と称し、出羽の要地。江戸時代、保科・松平・奥平・堀田・秋元・水野氏らの城下町。市の南東に蔵王山・蔵王温泉がある。人口25万6千。
泰安寺 山形。
山形ホテル
千歳亭
山形城 やまがたじょう 山形県山形市霞城町にあった城。別名で霞城、霞ヶ城(かすみがじょう)と呼ばれる。また、吉字城(三の丸城門の数が11、吉字の画数が11画であることを由来とする)とも呼ばれた。国の史跡に指定されている。おおよそ基礎は、最上義光の時代につくられ、鳥居忠政の時代に現在の形に整えられた。江戸時代には山形藩の政庁が置かれた。
四山楼
赤湯 あかゆ 現、南陽市赤湯。米沢盆地北東端。温泉街。開湯は約900年前、源義家の弟、源義綱が発見したとされる。
米沢 よねざわ 山形県南部の市。米沢盆地の南端に位置し、もと上杉氏15万石の城下町。古来、機業で知られる。人口9万3千。
板谷峠 いたや とうげ 山形・福島の県境にあり、奥羽山脈をこえる峠。標高755メートル。
[福島県]
福島 ふくしま (1) 東北地方南部の県。岩代および磐城国の大部分を管轄。面積1万3783平方キロメートル。人口209万1千。全13市。(2) 福島県北東部、福島盆地にある市。県庁所在地。もと板倉氏3万石の城下町。生糸・織物業で発展。食品・機械工業のほか、モモ・リンゴなどの栽培も盛ん。人口29万1千。
白河 しらかわ (1) 磐城国南部、今の福島県南部一帯の地名。(2) 福島県南部の市。もと、阿部氏10万石の城下町。古来、関東から奥州に入る一門戸。人口6万6千。
[茨城県]
[常陸] ひたち 旧国名。今の茨城県の大部分。常州。
筑波 つくば (古くは清音) (1) 茨城県筑波郡の旧地名。(2) (「つくば」と書く)茨城県南西部、筑波山の南麓に位置する市。筑波研究学園都市がある。人口20万1千。
[群馬県]
[上州] じょうしゅう 上野国の別称。群馬県。
館林 たてばやし 群馬県南東部の市。もと秋元氏6万石の城下町。文福茶釜で有名な茂林寺がある。人口7万9千。
[埼玉県]
[武州] ぶしゅう 武蔵国の別称。埼玉県。
川越 かわごえ 埼玉県中部の市。酒井・松平氏らの城下町として繁栄し、小江戸と呼ばれる。交通の要地。産業は食品・家具・機械工業など。東京の衛星都市。人口33万4千。
大宮 おおみや 埼玉県南東部の旧市名。2001年、浦和市・与野市と合併してさいたま市となり、大宮区はその行政区名の一つ。東北新幹線と上越新幹線との分岐点。県の商工業の中心。氷川神社・大宮公園がある。
[静岡県]
浜松 はままつ 静岡県西部の市。政令指定都市の一つ。もと徳川家康の居城で、水野・井上氏6万石の城下町。綿織物業、楽器・オートバイ製造業などが盛ん。人口80万4千。
[愛知県]
豊橋 とよはし 愛知県南東部の市。近世は吉田と称し、松平(大河内)氏7万石の城下町。産業は紡織・鉄鋼・機械工業など。東三河工業地域の中心。人口37万2千。
[京都府]
本願寺 ほんがんじ 浄土真宗の本山。親鸞の死後、1272年(文永9)京都東山大谷に御影堂を建てたのに始まり、1478年(文明10)より蓮如が京都山科に再興。次いで大坂石山に移ったが、1602年(慶長7)に東西に分立。
熊野郡 くまのぐん 京都府にあった郡。明治維新までは丹後国に含まれていた。消滅直前となる2004年3月31日の時点で、久美浜町1町を含んでいた。2004年4月1日、久美浜町が中郡・竹野郡に所属していた全町と合併し、京丹後市となったため消滅。
石清水 いわしみず (1) 石清水八幡宮の略。
石清水八幡宮 いわしみず はちまんぐう 京都府八幡市にある元官幣大社。祭神は誉田別尊(応神天皇)・息長帯姫尊(神功皇后)・比売神の三座。859年(貞観1)、宇佐八幡を勧請。歴代朝廷の崇敬篤く、鎌倉時代以降、源氏の氏神として武家の崇敬も深かった。例祭は9月15日。伊勢神宮・賀茂神社とともに三社の称がある。二十二社の一つ。男山八幡宮。
[奈良県]
[大和]
御所町 ごせまち 奈良県南葛城郡御所町か。現、御所市。
大正村西松本 たいしょうむら? 御所町。
[徳島県]
[阿波] あわ (1) 旧国名。今の徳島県。粟国。阿州。(2) 徳島県北部の市。吉野川の北岸に位置する。果樹・野菜栽培が盛ん。天然記念物の土柱(阿波の土柱)がある。人口4万1千。
呉郷文庫 ごきょう ぶんこ 現、麻植郡鴨島町。大正4年、飯尾の石原六郎が、大正天皇即位大典記念として喜田・田所眉東らを顧問に迎えて設立した私立図書館。呉郷の名は古代の呉島郷からとったもので、阿波郷土史関係を中心に、最盛期には六千冊の蔵書を誇った。昭和7年、石原の死後に休館。
[愛媛県]
宇和島 うわじま 愛媛県南西部の市。もと伊達氏10万石の城下町。豊後水道に臨む伊予南部の中心都市。段々畑とミカン栽培が有名。人口8万9千。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『日本歴史地名大系』(平凡社)。




*年表


七二九〜七四九(天平年間) 出羽・陸奥南部の蝦夷を征して雄勝の道を通じ、最上郡からただちに御物川〔雄物川〕の上流に出る。
八七七〜八八五(元慶) 当時なお仙北の地には、少なからず生蕃がいた。
八八〇(元慶四) 出羽の国司、上言。これに対し、勅して一年の復を賜い、不動穀六二〇〇石を三郡の狄俘八〇三人に給した。
九〇一〜九二三(延喜)前後〜 地方の政治はなはだしく紊乱。奥州においては蝦夷の族勢力を回復して、いったん設置した郡までが夷地に没入する。
一〇五一〜一〇六二 前九年の役 ぜんくねんのえき 源頼義・義家父子が奥羽地方の豪族安倍頼時とその子貞任・宗任らを討伐した戦役。平定した1062年(康平5)まで、実際は12年にわたって断続。後三年の役と共に源氏が東国に勢力を築く契機となる。前九年合戦。
一〇八三〜一〇八七 後三年の役 ごさんねんのえき 奥羽の清原家衡・武衡と一族の真衡らとの間の戦乱。前九年の役に続いて1083年(永保3)より87年(寛治1)の間に起こり、陸奥守源義家が家衡らを金沢柵に攻めて平定。後三年合戦。
一一八九(文治五) 源頼朝の奥州征伐。
一六〇四(慶長九) 佐竹義宣、社殿改修の時の棟札に「出羽国六个郡之鎮守」。
一六二二(元和八) 最上氏改易。
一六六四(寛文四) 郡名整理。おおいにその実際を誤る。
一七六七(明和四) 秋元家、武州川越から六万石で山形に移る。
一八四五(弘化二) 秋元家、上州館林に転じる。水野家、五万石で浜松から山形に転封。
一九二二(大正一一)一一月 喜田貞吉、はじめて出羽の踏査に着手。
一九二三(大正一二) 喜田「庄内雑事」『社会史研究』一月号。
一九二三(大正一二)一月二八日 大和御所町における差別撤廃講演。
一九二三(大正一二) 山形県史跡名勝天然記念物調査委員会の開会式。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)

喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939 歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。
山形県史跡名勝天然記念物調査委員会
有吉 ありよし? 山形県史跡名勝天然記念物調査委員会の理事官。
阿部正己 あべ まさき 1879-1946 阿部正巳。山形県飽海郡松嶺生まれ。阿部鉐弥の長男。郷土史家。北海道史編纂委員、酒田町史編纂主務者、山形県史跡調査員。大正12年(1923)頃、職を辞して以後、在野の史学者生活をおくる。主著『川俣茂七郎』『伊藤鳳山』『出羽国分寺遺址調査・付・出羽国府位置』他。(『山形県関係文献目録〈人物編〉』『新編 庄内人名辞典』『松山町史 下巻』)
紫水生 → 深澤多市
深澤多市 ふかさわ たいち 1874-1934 郷土史家・民俗学研究家。『秋田叢書』の編者。号は紫水。秋田県仙北郡畑屋村生まれ。『秋田県史』(大正版)の編集に加わり、京都で歴史学の喜田貞吉博士の知遇を得、また民俗学の柳田国男と交わりを深くした。帰郷後は秋田県の県史蹟名勝記念物調査委員を嘱託された。
三浦憲郎 ? 金沢八幡社の祠官。
江畑新之助 ? 飯詰村中島。
江畑氏
陸地測量部 りくち そくりょうぶ 日本陸軍参謀本部の外局で国内外の地理、地形などの測量・管理等にあたった。前身は兵部省に陸軍参謀局が設置された時まで遡り、直前の組織は参謀本部測量局(地図課及び測量課が昇格した)で、明治21年5月14日に陸地測量部條例(明治21年5月勅令第25号)の公布とともに、参謀本部の一局であった位置付けから本部長直属の独立官庁として設置された。
石原 → 石原六郎
石原六郎 いしはら ろくろう? 呉郷文庫。阿波か。
菅江真澄 すがえ ますみ 1754-1829 江戸後期の旅行家。民俗学の先駆。本名、白井秀雄。三河の人。国学・和歌・本草学を学び、信濃・東北・蝦夷地を遊歴、津軽藩・秋田藩に滞在。その紀行を「真澄遊覧記」という。
橋川正 はしかわ ただす 1894-1931 歴史学者・仏教史学者。京都の真宗大谷派の寺院仏願寺に生まれる。仏教史・真宗史の研究・教育に尽力するとともに、個別寺院史・地域史研究にも従事し、短期間に多くのすぐれた業績を残した。また 1927年には、真宗大谷大学に国史学会を創設。同大学での歴史学・仏教史学の研究・教育を本格的に始動させた。
前川増吉 まえかわ ますきち? 大和御所町大正村西松本。
清原武衡 きよはらの たけひら ?-1087 平安後期の豪族。武則の子。兄の子家衡を助けて金沢柵に拠り、源義家の大軍に囲まれ兵粮攻めにあい、柵は陥落し、捕殺。
清原家衡 きよはらの いえひら ?-1087 平安後期の豪族。清衡の異父弟。1083年(永保3)清衡と共に兄真衡の館を焼く。源義家が陸奥守となって来たが、これに従わず、金沢柵に拠って防ぎ、討死。
安倍貞任 あべの さだとう 1019-1062 平安中期の豪族。頼時の子。宗任の兄。厨川次郎と称す。前九年の役で源頼義・義家と戦い、厨川柵で敗死。
伊藤直純 いとう なおずみ 1860-1933 政治家。秋田県横手市生まれ。後に初代金沢村長となる豪農・伊藤兵吉の長男。号は耕余。農村振興、交通網の整備、文化・教育振興など秋田県の近代化を進めた。前代議士。
伊藤直之助 金沢町助役。
戎谷亀吉 えびすや かめきち? → 戎谷南山
戎谷南山 えびすや なんざん 1866-1949 画家。菓子屋恵美須屋の主人。秋田県秋田市生まれ。本名は戎谷亀吉。「後三年合戦絵詞」の模写をライフワークとした。
加藤直純 → 伊藤直純か
八幡太郎 はちまん たろう (頼義の長子で、石清水八幡で元服したことからいう)源義家の通称。
源義家 みなもとの よしいえ 1039-1106 平安後期の武将。頼義の長男。八幡太郎と号す。幼名、不動丸・源太丸。武勇にすぐれ、和歌も巧みであった。前九年の役には父とともに陸奥の安倍貞任を討ち、陸奥守兼鎮守府将軍となり、後三年の役を平定。東国に源氏勢力の根拠を固めた。
金沢氏
佐竹義宣 さたけ よしのぶ 1570-1633 江戸時代初期の佐竹氏当主、初代秋田藩主。佐竹氏十九代当主。久保田藩(秋田藩)の初代藩主。佐竹義重の長男。母は伊達晴宗の娘。幼名は徳寿丸。通称は次郎。官位は従四位上、左近衛中将。右京大夫。
阿倍比羅夫 あべの ひらぶ/ひらふ ?-? 古代の武人。658年頃、日本海沿岸の蝦夷・粛慎を討ち、661・663年には百済を助けて唐や新羅と戦った。
斉明天皇 さいめい てんのう 594-661 7世紀中頃の天皇。皇極天皇の重祚。孝徳天皇の没後、飛鳥の板蓋宮で即位。翌年飛鳥の岡本宮に移る。百済救援のため筑紫の朝倉宮に移り、その地に没す。(在位655〜661)
安倍頼時 あべの よりとき ?-1057 平安中期、陸奥の豪族。初名、頼良。貞任・宗任の父。奥六郡の俘囚長として蝦夷を統率。陸奥守源頼義に攻められ、敗れて流矢に当たり鳥海柵に没。
清原氏 きよはらし 平安時代の氏族。舎人親王にはじまる皇別氏族。平安時代は中堅貴族であった。清原深養父、清少納言などが有名。またこの氏族の末裔との見方もある氏族に、出羽清原氏がある。 
安倍氏 あべし 平安時代の陸奥国(後の陸中国)の豪族。
源頼義 みなもとの よりよし 988-1075 平安中期の武将。頼信の長男。父と共に平忠常を討ち、相模守。後に陸奥の豪族安倍頼時・貞任父子を討ち、伊予守。東国地方に源氏の地歩を確立。晩年剃髪して世に伊予入道という。陸奥守。
清原光頼 きよはらの みつより ?-? 平安時代後期の武将。出羽の豪族 清原光方の子。
清原武則 きよはらの たけのり ?-? 平安後期の豪族。出羽の俘囚の長。1062年(康平5)源頼義を助けて安倍貞任を滅ぼし、功により鎮守府将軍に任ぜられ、安倍氏の旧領を併せ、奥羽の雄となった。
吉彦秀武 きひこ/きみこの ひでたけ ?-? 平安時代後期の武将。出羽の豪族。父は吉美侯武宗、母は清原武頼女。妻は清原武則女。弟に吉彦武忠がいる。
吉弥侯 きみこ → 吉美侯部
吉美侯部 きみこべ または吉弥侯部は服属した蝦夷(俘囚)からなる部民で、出羽国・陸奥国の両国および上野国・下野国などに多く分布する氏の名。
藤原清衡 ふじわらの きよひら 1056-1128 平安後期、奥州の豪族。経清の子。源義家の支援によって清原家衡・武衡らを滅ぼし、奥羽両国の押領使となり、鎮守府将軍を兼ね、平泉に中尊寺を建立、奥州藤原氏の祖となった。清原清衡。
源頼朝 みなもとの よりとも 1147-1199 鎌倉幕府初代将軍(在職1192〜1199)。武家政治の創始者。義朝の第3子。平治の乱に伊豆に流されたが、1180年(治承4)以仁王の令旨を奉じて平氏追討の兵を挙げ、石橋山に敗れた後、富士川の戦に大勝。鎌倉にあって東国を固め、幕府を開いた。弟範頼・義経をして源義仲、続いて平氏を滅亡させた。その後守護・地頭の制を定め、右近衛大将、92年(建久3)征夷大将軍となった。
秋元氏 あきもとし 氏族。本姓は藤原氏で宇都宮氏の一族と伝える。江戸時代に譜代大名となった。家紋は横木瓜。
水野越前守 → 水野忠邦
水野忠邦 みずの ただくに 1794-1851 江戸後期の幕府老中。唐津藩主忠光の子。越前守。1817年(文化14)浜松に転封。大坂城代・京都所司代を経て老中。天保の改革を企てたが、強権的な政治手法が反発を招き、失脚。隠居謹慎。
水野氏 みずのし 清和源氏の一門。経基王の王子で源満仲の弟、鎮守府将軍源満政を祖とする。満政の7世、重房の代に至り、小川氏を称した。その子、重清の代に至り水野氏を称するという。代々、三河国刈谷城主。徳川家康の母、伝通院の実家にあたる。柳営秘鑑では、岡崎譜代。近世大名家を輩出した一族の一つ。幕末期において、下総結城藩、駿河沼津藩、上総鶴牧藩、出羽山形藩の各藩の藩主が水野氏であった。その他、寛文7年(1667年)に改易となった上野安中藩の藩主や紀州藩の附家老であった紀伊新宮城主もこの一族であった。
三好学 みよし まなぶ 1861-1939 植物学者。美濃(岐阜県)岩村藩出身。東大教授。学士院会員。「欧洲植物学輓近之進歩」により植物生態学を生理学から分離、また天然記念物の保存に尽力。著「桜」「最新植物学」「植物生態美観」など。
渡辺徳太郎 わたなべ とくたろう 1870-1946 山形商業学校校長。県立図書館長をかねる。満鮮旅行のさいに喜田貞吉と同行。/山形市旅篭生まれ。山形県師範学校教師。商業科担当。1909(明治42)山形県立図書館長を兼任。論文多数。(『山形県大百科』)
渡辺正三郎 わたなべ しょうざぶろう? 渡辺徳太郎の兄か。編『山形県経済史料』二冊。
最上氏 もがみし 清和源氏の足利氏の一族である管領の斯波氏の分家。羽州探題を務め、のち出羽国の戦国大名。斯波最上氏とも斯波出羽家ともいわれる。
鳥居氏 とりいし 徳川氏家臣。出自は紀伊国熊野権現の神職の家柄。通称「鳥居法眼」。その後三河国に土着し松平氏(徳川氏)に仕えた。戦国時代では鳥居伊賀忠吉と彦右衛門元忠の父子が著名。
細谷則理 ? 著「羽後のおしあい祭り」『民族と歴史』第五巻第四号。
加藤将義
高橋栄


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)

「雄勝城址考」 深沢多市の著。
『真澄遊覧記』 ますみ ゆうらんき? 菅江真澄の著。旅先の各地で、土地の民族習慣、風土、宗教から自作の詩歌まで数多くの記録を残す。フィールドノート(野帳)のようなものであるが、特にそれに付された彼のスケッチ画が注目に値する。著述は約200冊ほどを数え、「菅江真澄遊覧記」と総称。東洋文庫に収録され、2000年以降、平凡社ライブラリーから5巻本として刊行。
『民族と歴史』第四巻第四号
「タヤ考」橋川正
『民族と歴史』第六巻第五号
「大宝令」 たいほうりょう 大宝律令の令の部分。
「庄内雑事」 喜田貞吉の著。『社会史研究』一月号。
『和名抄』 わみょうしょう 和名抄・倭名鈔。倭名類聚鈔の略称。
『倭名類聚鈔』 わみょう るいじゅしょう 日本最初の分類体の漢和辞書。源順著。10巻本と20巻本とがあり、20巻本では、漢語を32部249門に類聚・掲出し、音・意義を漢文で注し、万葉仮名で和訓を加え、文字の出所を考証・注釈する。承平(931〜938)年中、醍醐天皇の皇女勤子内親王の命によって撰進。略称、和名抄。順和名。
『釈名』 しゃくみょう 諸物の名を訓釈した書。8巻。後漢の劉煕の撰。全体を27類に分ける。別名、逸雅。
『漢語抄』
『金沢史叢』
「火災に遭いし記」 深澤多市の著。
『後三年絵巻』 → 後三年合戦絵詞か
『後三年合戦絵詞』 東京国立博物館に収蔵されている、鎌倉幕府滅亡の14年後の南北朝時代、貞和3年(1347年)に、飛騨守惟久により描かれた絵巻。三巻が現存。ただし、途中の欠落が見られる。
『摂津風土記』 摂津国風土記逸文か。
『万葉集』 まんようしゅう (万世に伝わるべき集、また万の葉すなわち歌の集の意とも)現存最古の歌集。20巻。仁徳天皇皇后作といわれる歌から淳仁天皇時代の歌(759年)まで、約350年間の長歌・短歌・旋頭歌・仏足石歌体歌・連歌合わせて約4500首、漢文の詩・書翰なども収録。編集は大伴家持の手を経たものと考えられる。東歌・防人歌なども含み、豊かな人間性にもとづき現実に即した感動を率直に表す調子の高い歌が多い。
『常陸風土記』 ひたち ふどき 古風土記の一つ。1巻。常陸国11郡のうち、河内(逸文あり)・白壁(のちの真壁)の2郡を欠く9郡の地誌。713年(和銅6)の詔に基づいて養老(717〜724)年間に撰進。文体は漢文による修飾が著しい。常陸国風土記。
『八幡神社略記』 伊藤直純の著か。
『延喜式』 えんぎしき (1) 弘仁式・貞観式の後をうけて編修された律令の施行細則。平安初期の禁中の年中儀式や制度などを漢文で記す。50巻。905年(延喜5)藤原時平・紀長谷雄・三善清行らが勅を受け、時平の没後、忠平が業を継ぎ、927年(延長5)撰進。967年(康保4)施行。
『吾妻鏡』 あずまかがみ 吾妻鏡・東鑑。鎌倉後期成立の史書。52巻。鎌倉幕府の事跡を変体漢文で日記体に編述。源頼政の挙兵(1180年)から前将軍宗尊親王の帰京(1266年)に至る87年間の重要史料。
『山形県経済史料』 二冊。渡辺正三郎の編。
「おばこ節」 おばこぶし 秋田・山形(庄内)地方の民謡。
「羽後のおしあい祭り」 細谷則理。『民族と歴史』第五巻第四号。


◇参照:Wikipedia、『国史大辞典』(吉川弘文館)。



*難字、求めよ


祝融 しゅくゆう (1) 中国で、火をつかさどる神。回禄。(2) 中国で、夏の神。(3) 火災。火事。
親しく したしく みずから。直接に。じきじき。
新墓 しんぼ?
葦簀・葭簀 よしず 葦を編んで作った簀。日除けなどに用いる。よしすだれ。
敵いません 適う(かなう)、か。
スノーセット
箱雪車 はこぞり 箱をのせたそり。
モンペ/もんぺ 袴の形をして足首のくくれている、股引に似た衣服。保温用または労働用。雪袴。もっぺ。もんぺえ。
たちつけ 裁着・裁衣。たっつけ。
猿袴 さるばかま 労働用の袴の一種。上部をゆるく、下部をつめて縫う。雪袴と呼ぶ地方もある。
座敷団 座蒲団(ざぶとん)か。
雪野 ゆきの 雪の積もった野原。 
車駅
糸ナデ 麻の皮むきに似た石器。
アイヌ Ainu (アイヌ語で人間の意)かつては北海道・樺太・千島列島に居住したが、現在は主として北海道に居住する先住民族。人種の系統は明らかでない。かつては鮭・鱒などの川漁や鹿などの狩猟、野生植物の採集を主とし、一部は海獣猟も行なった。近世以降は松前藩の苛酷な支配や明治政府の開拓政策・同化政策などにより、固有の慣習や文化の多くが失われ、人口も激減したが、近年文化の継承運動が起こり、地位向上をめざす動きが進む。口承による叙事詩ユーカラなどを伝える。
田屋 たや (1) 田の番をするために建てた小屋。(2) 出作の期間中、居住用に建てた小屋。
他家・他屋 たや (1) 婦人が月経の時に籠もる家。転じて、月経。別火屋。(2) 仮小屋。
血穢
半人 はした
間人 まうと (マヒトの音便) (1) 良民と賤民との中間の身分のもの。(2) 中間(ちゅうげん)。(3) 身分の低い百姓。
間人 もうと(マウト)(モウドとも) 荘園制下で、村落共同体の最下層に位置づけられた新来の住民。卑賤視されることが多く、近世にも名称は残存する。亡土とも書く。
俘囚 ふしゅう (1) とらわれた人。とりこ。俘虜。(2) 朝廷の支配下に入り一般農民の生活に同化した蝦夷。同化の程度の浅いものは夷俘と呼んで区別。
伯楽 はくらく [荘子馬蹄](1) 中国古代の、馬を鑑定することに巧みであったという人。もとは天帝の馬をつかさどる星の名。(2) よく馬の良否を見分ける者。また、馬医。転じて、人物を見抜く眼力のある人。
万歳 まんざい (1) よろずよ。万年。まんぜい。(2) 年の始めに、風折烏帽子を戴き素襖を着て、腰鼓を打ち、当年の繁栄を祝い賀詞を歌って舞い、米銭を請う者。太夫と才蔵とが連れ立ち、才蔵のいう駄洒落を太夫がたしなめるという形式で滑稽な掛合いを演ずる。千秋万歳に始まり、出身地により大和万歳・三河万歳・尾張万歳などがある。「漫才」はこれの現代化。(3) 地歌。端歌物。寛永(1624〜1644)頃、城志賀作曲。大和万歳の万歳歌を連ねた歌詞。
立薦・防壁 たつごも 筵を継ぎ合わせてとばりとし、風を防いだもの。野宿などに用いた。
菰・薦 こも (2) あらく織ったむしろ。もとはマコモを材料としたが、今は藁を用いる。
蔀 しとみ (1) 寝殿造の邸宅における屏障具の一つ。格子組の裏に板を張り、日光をさえぎり、風雨を防ぐ戸。はじめは1枚板。多くは上下2枚に分かれ、下1枚を立て、上1枚は金物で釣り上げて採光用とし、これを釣蔀または半蔀という。また、屋外にあって垣の用をなし、室内にあって衝立の用をなすものを立蔀という。訛って「ひとみ」とも。
屏障 へいしょう へだてさえぎること。また、そのもの。屏風・衝立の類。
御薦 おこも (「こもかぶり」から)こじき。
牆壁・墻壁 しょうへき (1) 垣とかべ。(2) かこいのかべ。(3) へだてるもの。じゃま。さまたげ。
家根 やね 屋根。
柵址 さくし 奈良時代から平安初期にかけて東北経営のために営まれた城(防御施設と行政府を兼ねる)の跡。木材を立てつらねてつくった柵のため、この名がある。
特志 とくし 特別な意図。特別な好意。また、そういう気持ちのあるさま。
丹彩
駒下駄 こまげた 台も歯も一つの材で刳ってつくった下駄。形が馬のひづめに似る。うまげた。
削平 さくへい 平定すること。平和にすること。
正八幡宮 しょう はちまんぐう 正真の八幡宮の意。もと大隅八幡宮(元官幣大社鹿児島神宮)にだけ用いた称。後、その他にも用いる。
山館 さんかん 山中の宿。山の中の建物。
拠守 きょしゅ たてこもり、そこを拠点として防ぎ守ること。
保し難い ほしがたい 
保する ほする うけあう。ひきうける。保証する。
掌を指す たなごころをさす 物事の極めて明白なことのたとえ。
放生会 ほうじょうえ 仏教の不殺生の思想に基づいて、捕らえられた生類を山野や池沼に放ちやる儀式。神社・仏寺で陰暦8月15日に行われる。
石清水放生会 いわしみず ほうじょうえ 石清水八幡宮で行われる法会の一つ。720年(養老4)創始。毎年8月15日に、川辺で施餓鬼法を行い、魚鳥を放ち、天皇や将軍の幸福、天下泰平を祈願した。今は石清水祭の行事として9月15日に行う。
触穢 しょくえ 死穢・弔喪・産穢・月経などのけがれに触れること。昔はその際、朝参または神事などを慎んだ。そくえ。
かけ歌 懸歌。相手に対して、言いかけたり問いかけたりする歌。問いかけ歌。呼びかけ歌。←→返し歌。
かけうた 懸歌。相手に対して言いかけた歌。
ニガタ節
節調 せっちょう 邦楽で、歌詞に対して、音楽面全体(旋律やリズム)をいう。曲調。
歌垣 うたがき (1) 上代、男女が山や市などに集まって互いに歌を詠みかわし舞踏して遊んだ行事。一種の求婚方式で性的解放が行われた。かがい。(2) 男女相唱和する一種の歌舞。宮廷に入り踏歌を合流して儀式化する。
かがい �歌。(一説に、男女が互いに歌を「懸け合う」ことが語源という)上代、東国で、「うたがき(歌垣)」のこと。
歌かがい
夫定め・妻定め つまさだめ 自分の夫(または妻)を定めること。
熟蝦夷 にぎえみし/にきえみし 古代の蝦夷のうち、朝廷に従順なもの。←→あらえみし
麁蝦夷 あらえみし 荒蝦夷。粗野で朝廷に服属しない遠方の蝦夷。←→にきえみし
生蕃 せいばん 教化に服さない異民族。台湾の先住民である高山族(高砂族)中、漢族に同化しなかった者を、清朝は熟蕃と区別してこう呼んだ。
民夷
国司 こくし 律令制で、朝廷から諸国に赴任させた地方官。守・介・掾・目の四等官と、その下に史生があった。その役所を国衙、国衙のある所を国府と称した。くにのつかさ。
上言 じょうげん 天子・天皇など、貴人に意見を申し上げること。言上(ごんじょう)すること。建言。上申。
荒飢 こうき 作物が実らないため食物の乏しいこと。饑荒。饑饉。
優恤 ゆうじゅつ (「優」は豊か、「恤」はあわれむ意)あわれんで、手厚くあつかうこと。
調庸 ちょうよう 調と庸。貢物と労役。
弊民 へいみん 疲れた民。疲弊している人民。
不動穀 ふどうこく 律令制で、田租の一部を非常用として国郡の不動倉に封印しておいたもの。708年(和銅1)から蓄積を開始したが、平安初期、律令制の崩壊とともに諸種の名目で流用され、有名無実となった。
狄俘 てきふ 北方の異民族の捕虜。
夷俘 いふ 「俘囚(ふしゅう)」参照。
東夷 とうい (東方のえびすの意) (1) 中華(黄河の中・下流地方)の東方に住む異民族。西戎・南蛮・北狄に対する。(2) (日本の東方に住むところから)蝦夷の称。(3) 東国地方の武士を京都の人が呼んだ語。あずまえびす。
北狄 ほくてき 古代中国で、北方塞外の匈奴・鮮卑・柔然・突厥・契丹・回オ・蒙古などの遊牧民族を呼んだ称。
蝦狄
鎮守府将軍 ちんじゅふ しょうぐん 古代、鎮守府の長官。その下に、副将軍・権副将軍・将監(のち軍監)・将曹(のち軍曹)・弩師・医師・陰陽師各一人を置いた。鎮東将軍。
臥榻の側 がとうの かたわら (1) 寝台のそば。(2) 自分の領分の内。または近隣。
鼾睡 かんすい いびきをかいて眠ること。
華夷 かい (中国から見ていう)中国と外国。
容隠 よういん (1) 人を迎え入れて留め置くこと。容止。(2) 罪人をかくまうこと。また、犯罪を見のがすこと。
旧臘 きゅうろう (「臘」は陰暦12月)(新年から見て)昨年の12月。客臘。
就封 襲封(しゅうほう)か。諸侯が領地をうけつぐこと。
さいとう 柴灯・斎灯。神仏の灯明として焚く柴火。
棒方
鬼祭 おにまつり 愛知県渥美郡豊橋町、安久美神戸神明社の鬼祭。メインの天狗と鬼のからかいは平安時代から舞われていたユーモラスな有名な田楽であり、本来大晦日に行う年越しの神事。
三叉鉾
高足駄 たかあしだ 足駄の歯の高いもの。たかげた。
疫送り
布及 普及か。
込高 こみだか 江戸時代、領地替などの時、それまでの知行高と石高とに差がないのにかかわらず年貢率の差により物成(年貢)が減少する場合、これを補うため余分に渡す石高。←→延高(のべだか)
手踊 ておどり (1) すわりながら、手だけを動かしてする踊。(2) 三味線につれてする踊。歌舞伎所作事に対していう。(3) 浄瑠璃所作事のうち、手に何も持たないでする踊。(4) 多人数そろって同じ手振でする踊。盆踊の類。(5) 軽快を旨とし表情を主としない簡単な踊。
裸祭 はだかまつり 若い衆が裸で神輿をかついだり、蘇民将来や牛王の護符を争ったりする祭。
ツツガムシ ツツガムシ科のダニの総称。幼虫は卵円形で体長約0.3ミリメートル。オレンジ色。歩脚は3対。多くノネズミの耳などに寄生する。恙虫病を媒介する。成虫は赤色で短毛を密生し、吸血性なく、地表で昆虫の卵などを食う。アカムシ。〈下学集〉
潔斎 けっさい 神事・法会などの前に、酒や肉食などをつつしみ、沐浴をするなどして心身をきよめること。ものいみ。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 司馬遼太郎『街道をゆく 26 嵯峨散歩、仙台・石巻』(朝日新聞社、2005.4)久しぶりに読み返す。仙台の旅を、司馬さんは阿武隈川の河口・荒浜から始める。

 入りそめて 国ゆたかなる みぎりとや
  千代とかぎらじ せんだいのまつ  政宗




*次週予告


第三巻 第三九号 
キュリー夫人(他) 宮本百合子


第三巻 第三九号は、
四月二三日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第三巻 第三八号
春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
発行:二〇一一年四月一六日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



T-Time マガジン 週刊ミルクティー*99 出版

第二巻

第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン 月末最終号:無料
第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン 定価:200円
第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 定価:200円
第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 定価:200円
第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 定価:200円
第六号 新羅人の武士的精神について 池内宏 月末最終号:無料
第七号 新羅の花郎について 池内宏 定価:200円
第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉 定価:200円
第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治 定価:200円
第十号 風の又三郎 宮沢賢治 月末最終号:無料
第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎 定価:200円
第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎 定価:200円
第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎 定価:200円
第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎 定価:200円
第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル 定価:200円
第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル 定価:200円
第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル 月末最終号:無料
第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル 定価:200円
第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉 定価:200円
第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉 定価:200円
第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太 月末最終号:無料
第二四号 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫 定価:200円
第二五号 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉 定価:200円
第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎 定価:200円
第二七号 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治 定価:200円
第二八号 翁の発生/鬼の話 折口信夫  月末最終号:無料
第二九号 生物の歴史(一)石川千代松  定価:200円
第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松  定価:200円
第三一号 生物の歴史(三)石川千代松  定価:200円
第三二号 生物の歴史(四)石川千代松  月末最終号:無料
第三三号 特集 ひなまつり  定価:200円  雛 芥川龍之介
 雛がたり 泉鏡花
 ひなまつりの話 折口信夫

第三四号 特集 ひなまつり  定価:200円  人形の話 折口信夫
 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫

第三五号 右大臣実朝(一)太宰治  定価:200円
第三六号 右大臣実朝(二)太宰治 月末最終号:無料
第三七号 右大臣実朝(三)太宰治 定価:200円
第三八号 清河八郎(一)大川周明 定価:200円
第三九号 清河八郎(二)大川周明  定価:200円
第四〇号 清河八郎(三)大川周明  月末最終号:無料
第四一号 清河八郎(四)大川周明  定価:200円
第四二号 清河八郎(五)大川周明  定価:200円
第四三号 清河八郎(六)大川周明  定価:200円
第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉  定価:200円
第四五号 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉  月末最終号:無料
第四六号 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉  定価:200円
第四七号 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉  定価:200円
第四八号 若草物語(一)L. M. オルコット  定価:200円
第四九号 若草物語(二)L. M. オルコット  月末最終号:無料
第五〇号 若草物語(三)L. M. オルコット  定価:200円
第五一号 若草物語(四)L. M. オルコット  定価:200円
第五二号 若草物語(五)L. M. オルコット  定価:200円
第五三号 二人の女歌人/東北の家 片山広子  定価:200円
第三巻 第一号 星と空の話(一)山本一清  月末最終号:無料
  一、星座(せいざ)の星
  二、月(つき)
(略)殊にこの「ベガ」は、わが日本や支那では「七夕」の祭りにちなむ「織(お)り女(ひめ)」ですから、誰でも皆、幼い時からおなじみの星です。「七夕」の祭りとは、毎年旧暦七月七日の夜に「織り女」と「牽牛(ひこぼし)〔彦星〕」とが「天の川」を渡って会合するという伝説の祭りですが、その「天の川」は「こと」星座のすぐ東側を南北に流れていますし、また、「牽牛」は「天の川」の向かい岸(東岸)に白く輝いています。「牽牛」とその周囲の星々を、星座では「わし」の星座といい、「牽牛」を昔のアラビア人たちは、「アルタイル」と呼びました。「アルタイル」の南と北とに一つずつ小さい星が光っています。あれは「わし」の両翼を拡げている姿なのです。ところが「ベガ」の付近を見ますと、その東側に小さい星が二つ集まっています。昔の人はこれを見て、一羽の鳥が両翼をたたんで地に舞いくだる姿だと思いました。それで、「こと」をまた「舞いくだる鳥」と呼びました。

 「こと」の東隣り「天の川」の中に、「はくちょう」という星座があります。このあたりは大星や小星が非常に多くて、天が白い布のように光に満ちています。

第三巻 第二号 星と空の話(二)山本一清  定価:200円
  三、太陽
  四、日食と月食
  五、水星
  六、金星
  七、火星
  八、木星
 太陽の黒点というものは誠におもしろいものです。黒点の一つ一つは、太陽の大きさにくらべると小さい点々のように見えますが、じつはみな、いずれもなかなか大きいものであって、(略)最も大きいのは地球の十倍以上のものがときどき現われます。そして同じ黒点を毎日見ていますと、毎日すこしずつ西の方へ流れていって、ついに太陽の西の端(はし)でかくれてしまいますが、二週間ばかりすると、こんどは東の端から現われてきます。こんなにして、黒点の位置が規則正しく変わるのは、太陽全体が、黒点を乗せたまま、自転しているからなのです。太陽は、こうして、約二十五日間に一回、自転をします。(略)
 太陽の黒点からは、あらゆる気体の熱風とともに、いろいろなものを四方へ散らしますが、そのうちで最も強く地球に影響をあたえるものは電子が放射されることです。あらゆる電流の原因である電子が太陽黒点から放射されて、わが地球に達しますと、地球では、北極や南極付近に、美しいオーロラ(極光(きょっこう))が現われたり、「磁気嵐(じきあらし)」といって、磁石の針が狂い出して盛んに左右にふれたりします。また、この太陽黒点からやってくる電波や熱波や電子などのために、地球上では、気温や気圧の変動がおこったり、天気が狂ったりすることもあります。(略)
 太陽の表面に、いつも同じ黒点が長い間見えているのではありません。一つ一つの黒点はずいぶん短命なものです。なかには一日か二日ぐらいで消えるのがありますし、普通のものは一、二週間ぐらいの寿命のものです。特に大きいものは二、三か月も、七、八か月も長く見えるのがありますけれど、一年以上長く見えるということはほとんどありません。
 しかし、黒点は、一つのものがまったく消えない前に、他の黒点が二つも三つも現われてきたりして、ついには一時に三十も四十も、たくさんの黒点が同じ太陽面に見えることがあります。
 こうした黒点の数は、毎年、毎日、まったく無茶苦茶というわけではありません。だいたいにおいて十一年ごとに増したり減ったりします。

第三巻 第三号 星と空の話(三)山本一清  定価:200円
   九、土星
  一〇、天王星
  一一、海王星
  一二、小遊星
  一三、彗星
  一四、流星
  一五、太陽系
  一六、恒星と宇宙
 晴れた美しい夜の空を、しばらく家の外に出てながめてごらんなさい。ときどき三分間に一つか、五分間に一つぐらい星が飛ぶように見えるものがあります。あれが流星です。流星は、平常、天に輝いている多くの星のうちの一つ二つが飛ぶのだと思っている人もありますが、そうではありません。流星はみな、今までまったく見えなかった星が、急に光り出して、そしてすぐまた消えてしまうものなのです。(略)
 しかし、流星のうちには、はじめから稀(まれ)によほど形の大きいものもあります。そんなものは空気中を何百キロメートルも飛んでいるうちに、燃えつきてしまわず、熱したまま、地上まで落下してきます。これが隕石というものです。隕石のうちには、ほとんど全部が鉄のものもあります。これを隕鉄(いんてつ)といいます。(略)
 流星は一年じゅう、たいていの夜に見えますが、しかし、全体からいえば、冬や春よりは、夏や秋の夜にたくさん見えます。ことに七、八月ごろや十月、十一月ごろは、一時間に百以上も流星が飛ぶことがあります。
 八月十二、三日ごろの夜明け前、午前二時ごろ、多くの流星がペルセウス星座から四方八方へ放射的に飛びます。これらは、みな、ペルセウス星座の方向から、地球の方向へ、列を作ってぶっつかってくるものでありまして、これを「ペルセウス流星群」と呼びます。
 十一月十四、五日ごろにも、夜明け前の二時、三時ごろ、しし星座から飛び出してくるように見える一群の流星があります。これは「しし座流星群」と呼ばれます。
 この二つがもっとも有名な流星群ですが、なおこの他には、一月のはじめにカドラント流星群、四月二十日ごろに、こと座流星群、十月にはオリオン流星群などあります。

第三巻 第四号 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎  定価:200円
獅子舞雑考
  一、枯(か)れ木も山の賑(にぎ)やかし
  二、獅子舞に関する先輩の研究
  三、獅子頭に角(つの)のある理由
  四、獅子頭と狛犬(こまいぬ)との関係
  五、鹿踊(ししおど)りと獅子舞との区別は何か
  六、獅子舞は寺院から神社へ
  七、仏事にもちいた獅子舞の源流
  八、獅子舞について関心すべき点
  九、獅子頭の鼻毛と馬の尻尾(しっぽ)

穀神としての牛に関する民俗
  牛を穀神とするは世界共通の信仰
  土牛(どぎゅう)を立て寒気を送る信仰と追儺(ついな)
  わが国の家畜の分布と牛飼神の地位
  牛をもって神をまつるは、わが国の古俗
  田遊(たあそ)びの牛の役と雨乞いの牛の首

 全体、わが国の獅子舞については、従来これに関する発生、目的、変遷など、かなり詳細なる研究が発表されている。(略)喜多村翁の所説は、獅子舞は西域の亀茲(きじ)国の舞楽が、支那の文化とともに、わが国に渡来したのであるという、純乎たる輸入説である。柳田先生の所論は、わが国には古く鹿舞(ししまい)というものがあって、しかもそれが広くおこなわれていたところへ、後に支那から渡来した獅子舞が、国音の相通から付会(ふかい)したものである。その証拠には、わが国の各地において、古風を伝えているものに、角(つの)のある獅子頭があり、これに加うるのに鹿を歌ったものを、獅子舞にもちいているという、いわば固有説とも見るべき考証である。さらに小寺氏の観察は、だいたいにおいて柳田先生の固有説をうけ、別にこれに対して、わが国の鹿舞の起こったのは、トーテム崇拝に由来するのであると、付け加えている。
 そこで、今度は管見を記すべき順序となったが、これは私も小寺氏と同じく、柳田先生のご説をそのまま拝借する者であって、べつだんに奇説も異論も有しているわけではない。ただ、しいて言えば、わが国の鹿舞と支那からきた獅子舞とは、その目的において全然別個のものがあったという点が、相違しているのである。ことに小寺氏のトーテム説にいたっては、あれだけの研究では、にわかに左袒(さたん)することのできぬのはもちろんである。

 こういうと、なんだか柳田先生のご説に、反対するように聞こえるが、角(つの)の有無をもって鹿と獅子の区別をすることは、再考の余地があるように思われる。

第三巻 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉  月末最終号:無料
鹿踊りのはじまり 宮沢賢治
奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  一 緒言
  二 シシ踊りは鹿踊り
  三 伊予宇和島地方の鹿の子踊り
  四 アイヌのクマ祭りと捕獲物供養
  五 付記

 奥羽地方には各地にシシ踊りと呼ばるる一種の民間舞踊がある。地方によって多少の相違はあるが、だいたいにおいて獅子頭を頭につけた青年が、数人立ちまじって古めかしい歌謡を歌いつつ、太鼓の音に和して勇壮なる舞踊を演ずるという点において一致している。したがって普通には獅子舞あるいは越後獅子などのたぐいで、獅子奮迅・踊躍の状を表象したものとして解せられているが、奇態なことにはその旧仙台領地方におこなわるるものが、その獅子頭に鹿の角(つの)を有し、他の地方のものにも、またそれぞれ短い二本の角がはえているのである。
 楽舞用具の一種として獅子頭のわが国に伝わったことは、すでに奈良朝のころからであった。くだって鎌倉時代以後には、民間舞踊の一つとして獅子舞の各地におこなわれたことが少なからず文献に見えている。そしてかの越後獅子のごときは、その名残りの地方的に発達・保存されたものであろう。獅子頭はいうまでもなくライオンをあらわしたもので、本来、角があってはならぬはずである。もちろんそれが理想化し、霊獣化して、彫刻家の意匠により、ことさらにそれに角を付加するということは考えられぬでもない。武蔵南多摩郡元八王子村なる諏訪神社の獅子頭は、古来、龍頭とよばれて二本の長い角が斜めにはえているので有名である。しかしながら、仙台領において特にそれが鹿の角であるということは、これを霊獣化したとだけでは解釈されない。けだし、もと鹿供養の意味からおこった一種の田楽的舞踊で、それがシシ踊りと呼ばるることからついに獅子頭とまで転訛するに至り、しかもなお原始の鹿角を保存して、今日におよんでいるものであろう。

第三巻 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝  定価:200円
魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝

倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。漢時有朝見者、今使訳所通三十国。従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千余里。始度一海千余里、至対馬国、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島、方可四百余里(略)。又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国〔一支国か〕(略)。又渡一海千余里、至末盧国(略)。東南陸行五百里、到伊都国(略)。東南至奴国百里(略)。東行至不弥国百里(略)。南至投馬国水行二十日、官曰弥弥、副曰弥弥那利、可五万余戸。南至邪馬壱国〔邪馬台国〕、女王之所都、水行十日・陸行一月、官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰奴佳�、可七万余戸。(略)其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟、佐治国、自為王以来、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、伝辞出入居処。宮室・楼観・城柵厳設、常有人持兵守衛。

第三巻 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南  定価:200円
  一、本文の選択
  二、本文の記事に関するわが邦(くに)最旧の見解
  三、旧説に対する異論
 『後漢書』『三国志』『晋書』『北史』などに出でたる倭国女王卑弥呼のことに関しては、従来、史家の考証はなはだ繁く、あるいはこれをもってわが神功皇后とし、あるいはもって筑紫の一女酋とし、紛々として帰一するところなきが如くなるも、近時においてはたいてい後説を取る者多きに似たり。(略)
 卑弥呼の記事を載せたる支那史書のうち、『晋書』『北史』のごときは、もとより『後漢書』『三国志』に拠りたること疑いなければ、これは論を費やすことをもちいざれども、『後漢書』と『三国志』との間に存する�異(きい)の点に関しては、史家の疑惑をひく者なくばあらず。『三国志』は晋代になりて、今の范曄の『後漢書』は、劉宋の代になれる晩出の書なれども、両書が同一事を記するにあたりて、『後漢書』の取れる史料が、『三国志』の所載以外におよぶこと、東夷伝中にすら一、二にして止まらざれば、その倭国伝の記事もしかる者あるにあらずやとは、史家のどうもすれば疑惑をはさみしところなりき。この疑惑を決せんことは、すなわち本文選択の第一要件なり。
 次には本文のうち、各本に字句の異同あることを考えざるべからず。『三国志』について言わんに、余はいまだ宋板本を見ざるも、元槧明修本、明南監本、乾隆殿板本、汲古閣本などを対照し、さらに『北史』『通典』『太平御覧』『冊府元亀』など、この記事を引用せる諸書を参考してその異同の少なからざるに驚きたり。その�異を決せんことは、すなわち本文選択の第二要件なり。

第三巻 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南  定価:200円
  四、本文の考証
帯方 / 旧百余国。漢時有朝見者。今使訳所通三十国。 / 到其北岸狗邪韓国 / 対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国 / 南至投馬國。水行二十日。/ 南至邪馬壹國。水行十日。陸行一月。/ 斯馬国 / 已百支国 / 伊邪国 / 郡支国 / 弥奴国 / 好古都国 / 不呼国 / 姐奴国 / 対蘇国 / 蘇奴国 / 呼邑国 / 華奴蘇奴国 / 鬼国 / 為吾国 / 鬼奴国 / 邪馬国 / 躬臣国 / 巴利国 / 支惟国 / 烏奴国 / 奴国 / 此女王境界所盡。其南有狗奴國 / 会稽東治
南至投馬國。水行二十日。  これには数説あり、本居氏は日向国児湯郡に都万神社ありて、『続日本後紀』『三代実録』『延喜式』などに見ゆ、此所にてもあらんかといえり。鶴峰氏は『和名鈔』に筑後国上妻郡、加牟豆万、下妻郡、准上とある妻なるべしといえり。ただし、その水行二十日を投馬より邪馬台に至る日程と解したるは著しき誤謬なり。黒川氏は三説をあげ、一つは鶴峰説に同じく、二つは「投」を「殺」の譌りとみて、薩摩国とし、三つは『和名鈔』、薩摩国麑島郡に都万郷ありて、声近しとし、さらに「投」を「敏」の譌りとしてミヌマと訓み、三潴郡とする説をもあげたるが、いずれも穏当ならずといえり。『国史眼』は設馬の譌りとして、すなわち薩摩なりとし、吉田氏はこれを取りて、さらに『和名鈔』の高城郡托摩郷をもあげ、菅氏は本居氏に従えり。これを要するに、みな邪馬台を筑紫に求むる先入の見に出で、「南至」といえる方向に拘束せられたり。しかれども支那の古書が方向をいう時、東と南と相兼ね、西と北と相兼ぬるは、その常例ともいうべく、またその発程のはじめ、もしくは途中のいちじるしき土地の位置などより、方向の混雑を生ずることも珍しからず。『後魏書』勿吉伝に太魯水、すなわち今の�児河より勿吉、すなわち今の松花江上流に至るによろしく東南行すべきを東北行十八日とせるがごとき、陸上におけるすらかくのごとくなれば海上の方向はなおさら誤り易かるべし。ゆえに余はこの南を東と解して投馬国を『和名鈔』の周防国佐婆郡〔佐波郡か。〕玉祖郷〈多萬乃於也〉にあてんとす。この地は玉祖宿祢の祖たる玉祖命、またの名、天明玉命、天櫛明玉命をまつれるところにして周防の一宮と称せられ、今の三田尻の海港をひかえ、内海の衝要にあたれり。その古代において、玉作を職とせる名族に拠有せられて、五万余戸の集落をなせしことも想像し得べし。日向・薩摩のごとき僻陬とも異なり、また筑後のごとく、路程の合いがたき地にもあらず、これ、余がかく定めたる理由なり。

第三巻 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南  月末最終号:無料
  四、本文の考証(つづき)
爾支 / 泄謨觚、柄渠觚、�馬觚 / 多模 / 弥弥、弥弥那利 / 伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳� / 狗古智卑狗
卑弥呼 / 難升米 / 伊声耆掖邪狗 / 都市牛利 / 載斯烏越 / 卑弥弓呼素 / 壱与
  五、結論
    付記
 次に人名を考証せんに、その主なる者はすなわち、「卑弥呼」なり。余はこれをもって倭姫命に擬定す。その故は前にあげたる官名に「伊支馬」「弥馬獲支」あるによりて、その崇神・垂仁二朝を去ること遠からざるべきことを知る、一つなり。「事二鬼道一、能惑レ衆」といえるは、垂仁紀二十五年の記事ならびにその細注、『延暦儀式帳』『倭姫命世記』などの所伝を総合して、もっともこの命(みこと)の行事に適当せるを見る。その天照大神の教えにしたがいて、大和より近江・美濃・伊勢諸国を遍歴し、〈『倭姫世記』によれば尾張・丹波・紀伊・吉備にもおよびしが如し〉いたるところにその土豪より神戸・神田・神地を徴して神領とせるは、神道設教の上古を離るること久しき魏人より鬼道をもって衆を惑わすと見えしも怪しむに足らざるべし、二つなり。余が邪馬台の旁国の地名を擬定せるは、もとより務めて大和の付近にして、倭姫命が遍歴せる地方より選び出したれども、その多数がはなはだしき付会におちいらずして、伊勢を基点とせる地方に限定することを得たるは、また一証とすべし、三つなり。(略)「卑弥呼」の語解は本居氏がヒメコの義とするは可なれども、神代巻に火之戸幡姫児千々姫ノ命、また万幡姫児玉依姫ノ命などある「姫児(ヒメコ)」に同じとあるは非にして、この二つの「姫児」は平田篤胤のいえるごとく姫の子の義なり。「弥」を「メ」と訓(よ)む例は黒川氏の『北史国号考』に「上宮聖徳法王帝説、繍張文の吉多斯比弥乃弥己等(キタシヒメノミコト)、また等已弥居加斯支移比弥乃弥己等(トヨミケカシキヤヒメノミコト)、注云 弥字或当二売音一也」とあるを引けるなどに従うべし。
付記 余がこの編を出せる直後、すでに自説の欠陥を発見せしものあり、すなわち「卑弥呼」の名を考証せる条中に『古事記』神代巻にある火之戸幡姫児(ヒノトバタヒメコ)、および万幡姫児(ヨロヅハタヒメコ)の二つの「姫児」の字を本居氏にしたがいて、ヒメコと読みしは誤りにして、平田氏のヒメノコと読みしが正しきことを認めたれば、今の版にはこれを改めたり。

第三巻 第一〇号 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫  定価:200円
最古日本の女性生活の根底
  一 万葉びと――琉球人
  二 君主――巫女
  三 女軍(めいくさ)
  四 結婚――女の名
  五 女の家
稲むらの陰にて
 古代の歴史は、事実の記憶から編み出されたものではない。神人(かみびと)に神憑(がか)りした神の、物語った叙事詩から生まれてきたのである。いわば夢語りともいうべき部分の多い伝えの、世をへて後、筆録せられたものにすぎない。(略)神々の色彩を持たない事実などの、後世に伝わりようはあるべきはずがないのだ。(略)女として神事にあずからなかった者はなく、神事に関係せなかった女の身の上が、物語の上に伝誦せられるわけがなかったのである。
(略)村々の君主の下になった巫女が、かつては村々の君主自身であったこともあるのである。『魏志』倭人伝の邪馬台(ヤマト)国の君主卑弥呼は女性であり、彼の後継者も女児であった。巫女として、呪術をもって、村人の上に臨んでいたのである。が、こうした女君制度は、九州の辺土には限らなかった。卑弥呼と混同せられていた神功皇后も、最高巫女としての教権をもって、民を統べていられた様子は、『日本紀』を見れば知られることである。(略)
 沖縄では、明治の前までは国王の下に、王族の女子あるいは寡婦が斎女王(いつきのみこ)同様の仕事をして、聞得大君(きこえうふきみ)(ちふいぢん)と言うた。尚家の中途で、皇后の下に位どられることになったが、以前は沖縄最高の女性であった。その下に三十三君というて、神事関係の女性がある。それは地方地方の神職の元締めのような位置にいる者であった。その下にあたるノロ(祝女)という、地方の神事官吏なる女性は今もいる。そのまた下にその地方の家々の神につかえる女の神人がいる。この様子は、内地の昔を髣髴(ほうふつ)させるではないか。沖縄本島では聞得大君を君主と同格に見た史実がない。が、島々の旧記にはその痕跡が残っている。(「最古日本の女性生活の根底」より)

第三巻 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦  定価:200円
瀬戸内海の潮と潮流
コーヒー哲学序説
神話と地球物理学
ウジの効用
 一体、海の面はどこでも一昼夜に二度ずつ上がり下がりをするもので、それを潮の満干といいます。これは月と太陽との引力のためにおこるもので、月や太陽がたえず東から西へまわるにつれて、地球上の海面の高くふくれた満潮の部分と低くなった干潮の部分もまた、だいたいにおいて東から西へ向かって大洋の上を進んで行きます。このような潮の波が内海のようなところへ入って行きますと、いろいろに変わったことがおこります。ことに瀬戸内海のように外洋との通路がいくつもあり、内海の中にもまた瀬戸がたくさんあって、いくつもの灘に分かれているところでは、潮の満干もなかなか込み入ってきて、これをくわしく調べるのはなかなか難しいのです。しかし、航海の頻繁なところであるから潮の調査は非常に必要なので、海軍の水路部などではたくさんな費用と時日を費やしてこれを調べておられます。東京あたりと四国の南側の海岸とでは満潮の時刻は一時間くらいしか違わないし、満干の高さもそんなに違いませんが、四国の南側とその北側とでは満潮の時刻はたいへんに違って、ところによっては六時間も違い、一方の満潮の時に他のほうは干潮になることもあります。また、内海では満干の高さが外海の倍にもなるところがあります。このように、あるところでは満潮であるのに他のところでは干潮になったり、内海の満干の高さが外海の満干の高さの倍になるところのあるのは、潮の流れがせまい海峡を入るためにおくれ、また、方々の入口から入り乱れ、重なり合うためであります。(「瀬戸内海の潮と潮流」より)

第三巻 第一二号 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦  定価:200円
日本人の自然観
 緒言
 日本の自然
 日本人の日常生活
 日本人の精神生活
 結語
天文と俳句
 もしも自然というものが、地球上どこでも同じ相貌(そうぼう)をあらわしているものとしたら、日本の自然も外国の自然も同じであるはずであって、したがって上記のごとき問題の内容吟味は不必要であるが、しかし実際には、自然の相貌がいたるところむしろ驚くべき多様多彩の変化を示していて、ひと口に自然と言ってしまうにはあまりに複雑な変化を見せているのである。こういう意味からすると、同じように、「日本の自然」という言葉ですらも、じつはあまりに漠然としすぎた言葉である。(略)
 こう考えてくると、今度はまた「日本人」という言葉の内容が、かなり空疎な散漫なものに思われてくる。九州人と東北人とくらべると各個人の個性を超越するとしても、その上にそれぞれの地方的特性の支配が歴然と認められる。それで九州人の自然観や、東北人の自然観といったようなものもそれぞれ立派に存立しうるわけである。(略)
 われわれは通例、便宜上、自然と人間とを対立させ、両方別々の存在のように考える。これが現代の科学的方法の長所であると同時に短所である。この両者は、じつは合わして一つの有機体を構成しているのであって、究極的には独立に切り離して考えることのできないものである。(略)
 日本人の先祖がどこに生まれ、どこから渡ってきたかは別問題として、有史以来二千有余年、この土地に土着してしまった日本人が、たとえいかなる遺伝的記憶をもっているとしても、その上層を大部分掩蔽(えんぺい)するだけの経験の収穫をこの日本の環境から受け取り、それにできるだけしっくり適応するように努力し、また少なくも、部分的にはそれに成効してきたものであることには疑いがないであろうと思われる。(「日本人の自然観」より)

第三巻 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉  定価:200円
 倭人の名は『山海経』『漢書』『論衡』などの古書に散見すれども、その記事いずれも簡単にして、これによりては、いまだ上代における倭国の状態をうかがうに足(た)らず。しかるにひとり『魏志』の「倭人伝」に至りては、倭国のことを叙することすこぶる詳密にして、しかも伝中の主人公たる卑弥呼女王の人物は、赫灼(かくしゃく)として紙上に輝き、読者をしてあたかも暗黒の裡に光明を認むるがごとき感あらしむ。(略)
 それすでに里数をもってこれを測るも、また日数をもってこれを稽(かんが)うるも、女王国の位置を的確に知ることあたわずとせば、はたしていかなる事実をかとらえてこの問題を解決すべき。余輩は幾度か『魏志』の文面を通読玩索(がんさく)し、しかして後、ようやくここに確乎動かすべからざる三個の目標を認め得たり。しからばすなわち、いわゆる三個の目標とは何ぞや。いわく邪馬台国は不弥国より南方に位すること、いわく不弥国より女王国に至るには有明の内海を航行せしこと、いわく女王国の南に狗奴国と称する大国の存在せしこと、すなわちこれなり。さて、このうち第一・第二の二点は『魏志』の文面を精読して、たちまち了解せらるるのみならず、先輩すでにこれを説明したれば、しばらくこれを措(お)かん。しかれども第三点にいたりては、『魏志』の文中明瞭の記載あるにもかかわらず、余輩が日本学会においてこれを述べたる時までは、何人もかつてここに思い至らざりしがゆえに、また、この点は本論起草の主眼なるがゆえに、余輩は狗奴国の所在をもって、この問題解決の端緒を開かんとす。

第三巻 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉  月末最終号:無料
 九州の西海岸は潮汐満乾の差はなはだしきをもって有名なれば、上に記せる塩盈珠(しおみつたま)・塩乾珠(しおひるたま)の伝説は、この自然的現象に原因しておこれるものならん。ゆえに神典に見えたる彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と火闌降命(ほのすそりのみこと)との争闘は、『魏志』によりて伝われる倭女王と狗奴(くな)男王との争闘に類せる政治的状態の反映とみなすべきものなり。
 『魏志』の記すところによれば、邪馬台国はもと男子をもって王となししが、そののち国中混乱して相攻伐し、ついに一女子を立てて王位につかしむ。これを卑弥呼となす。この女王登位の年代は詳らかならざれども、そのはじめて魏国に使者を遣わしたるは、景初二年すなわち西暦二三八年なり。しかして正始八年すなわち西暦二四七年には、女王、狗奴国の男王と戦闘して、その乱中に没したれば、女王はけだし後漢の末葉よりこの時まで九州の北部を統治せしなり。女王死してのち国中また乱れしが、その宗女壱与(いよ)なる一小女を擁立するにおよんで国乱定まりぬ。卑弥呼の仇敵狗奴国の男王卑弓弥呼(ヒコミコ)は何年に即位し何年まで在位せしか、『魏志』に伝わらざれば、またこれを知るに由なし。しかれども正始八年(二四七)にこの王は女王卑弥呼と戦って勝利を得たれば、女王の嗣者壱与(いよ)の代におよんでも、依然として九州の南部に拠りて、暴威を逞(たくま)しうせしに相違なし。

第三巻 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉  定価:200円
倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う
倭奴国および邪馬台国に関する誤解
 考古界の重鎮高橋健自君逝(い)かれて、考古学会長三宅先生〔三宅米吉。〕の名をもって追悼の文をもとめられた。しかもまだ自分がその文に筆を染めぬ間にその三宅先生がまた突然逝かれた。本当に突然逝かれたのだった。青天の霹靂というのはまさにこれで、茫然自失これを久しうすということは、自分がこの訃報に接した時にまことに体験したところであった。
 自分が三宅先生とご懇意を願うようになったのは、明治三十七、八年(一九〇四・一九〇五)戦役のさい、一緒に戦地見学に出かけた時であった。十数日間いわゆる同舟の好みを結び、あるいは冷たいアンペラの上に御同様南京虫を恐がらされたのであったが、その間にもあの沈黙そのもののごときお口から、ポツリポツリと識見の高邁なところをうけたまわるの機会を得て、その博覧強記と卓見とは心から敬服したことであった。今度考古学会から、先生のご研究を記念すべき論文を募集せられるというので、倭奴国および邪馬台国に関する小篇をあらわして、もって先生の学界における功績を追懐するの料とする。
 史学界、考古学界における先生の遺された功績はすこぶる多い。しかしその中において、直接自分の研究にピンときたのは漢委奴国王の問題の解決であった。うけたまわってみればなんの不思議もないことで、それを心づかなかった方がかえって不思議なくらいであるが、そこがいわゆるコロンブスの卵で、それまで普通にそれを怡土国王のことと解して不思議としなかったのであった。さらに唐人らの輩にいたっては、それをもって邪馬台国のことなりとし、あるいはただちに倭国全体の称呼であるとまで誤解していたのだった。

第三巻 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)  定価:200円
 長いクロワゼットの散歩路が、あおあおとした海に沿うて、ゆるやかな弧を描いている。はるか右のほうにあたって、エストゥレルの山塊がながく海のなかに突き出て眼界をさえぎり、一望千里のながめはないが、奇々妙々を極めた嶺岑(みね)をいくつとなく擁するその山姿は、いかにも南国へ来たことを思わせる、うつくしいながめであった。
 頭をめぐらして右のほうを望むと、サント・マルグリット島とサント・オノラ島が、波のうえにぽっかり浮かび、樅(もみ)の木におおわれたその島の背を二つ見せている。
 この広い入江のほとりや、カンヌの町を三方から囲んで屹立(きつりつ)している高い山々に沿うて、数知れず建っている白亜の別荘は、おりからの陽ざしをさんさんと浴びて、うつらうつら眠っているように見えた。そしてはるか彼方には、明るい家々が深緑の山肌を、その頂から麓のあたりまで、はだれ雪のように、まだらに点綴(てんてい)しているのが望まれた。
 海岸通りにたちならんでいる家では、その柵のところに鉄の格子戸がひろい散歩路のほうに開くようにつけてある。その路のはしには、もう静かな波がうちよせてきて、ザ、ザアッとそれを洗っていた。――うらうらと晴れわたった、暖かい日だった。冬とは思われない陽ざしの降りそそぐ、なまあたたかい小春日和である。輪を回して遊んでいる子供を連れたり、男となにやら語らいながら、足どりもゆるやかに散歩路の砂のうえを歩いてゆく女の姿が、そこにもここにも見えた。

第三巻 第一七号 高山の雪 小島烏水  定価:200円
 古い雪の上に新雪が加わると、その翌る朝などは、新雪が一段と光輝を放ってまばゆく見える。雪は古くなるほど、結晶形を失って、粒形に変化するもので、粒形になると、純白ではなくなる。また粒形にならないまでも、古い雪に白い輝きがなくなるのは、一部は空気を含むことが少ないからで、一部は鉱物の分子だの、塵芥(じんかい)泥土だのが加わって、黄色、灰色、またはトビ色に変わってしまうからだ。ことに日本北アルプスの飛騨山脈南部などでは、硫黄岳という活火山の降灰のために、雪のおもてが、瀝青(チャン)を塗ったように黒くなることがある。「黒い雪」というものは、私ははじめて、その硫黄岳のとなりの、穂高岳で見た。黒い雪ばかりじゃない、「赤い雪」も槍ヶ岳で私の実見したところである。私は『日本アルプス』第二巻で、それを「色が桃紅なので、水晶のような氷の脈にも血管が通っているようだ」と書いて、原因を花崗岩の※爛(ばいらん)した砂に帰したが、これは誤っている。赤い雪は南方熊楠氏の示教せられたところによれば、スファエレラ・ニヴァリス Sphaerella Nivalis という単細胞の藻で、二本のひげがある。水中を泳ぎまわっているが、またひげを失ってまるい顆粒となり、静止してしまう。それが紅色を呈するため、雪が紅になるので、あまり珍しいものではないそうである。ただし槍ヶ岳で見たのも、同種のものであるや否やは、断言できないが、要するに細胞の藻類であることは、たしかであろうと信ずる。ラボックの『スイス風景論』中、アルプス地方に見る紅雪として、あげてあるのも、やはり同一な細胞藻であった。このほかにアンシロネマ Ancylonema という藻がはえて、雪を青色またはスミレ色に染めることもあるそうであるが、日本アルプス地方では、私はいまだそういう雪を見たことはない。

第三巻 第一八号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(一)徳永 直  月末最終号:無料
 昭和十八年(一九四三)三月のある日、私は“嘉平の活字”をさがすため、東京発鹿児島行きの急行に乗っていた。伴(つ)れがあって、七歳になる甥と、その母親の弟嫁とが、むかいあってこしかけているが、厚狭、小月あたりから、海岸線の防備を見せまいためか、窓をおろしてある車内も、ようやく白んできた。戦備で、すっかり形相のかわった下関構内にはいったころは、乗客たちも洗面の水もない不自由さながら、それぞれに身づくろいして、朝らしく生きかえった顔色になっている……。
 と、私はこの小説だか何だかわからない文章の冒頭をはじめるが、これを書いているのは昭和二十三年(一九四八)夏である。読者のうちには、昭和十八年に出版した同題の、これの上巻を読まれた方もあるかと思うが、私が「日本の活字」の歴史をさがしはじめたのは昭和十四年(一九三九)からだから、まもなくひと昔になろうとしているわけだ。歴史などいう仕事にとっては、十年という月日はちょっとも永くないものだと、素人の私にもちかごろわかってきているが、それでも、鉄カブトに巻ゲートルで、サイレンが鳴っても空襲サイレンにならないうちは、これのノートや下書きをとる仕事をつづけていたころとくらべると、いまは現実の角度がずいぶん変わってきている。弱い歴史の書物など、この変化の関所で、どっかへふっとんだ。いまの私は半そでシャツにサルマタで机のまえにあぐらでいるけれど、上巻を読みかえしてみると、やはり天皇と軍閥におされた多くのひずみを見出さないわけにはゆかない。歴史の真実をえがくということも、階級のある社会では、つねにはげしい抵抗をうける。変わったとはいえ、戦後三年たって、ちがった黒雲がますます大きくなってきているし、新しい抵抗を最初の数行から感じずにいられぬが、はたして、私の努力がどれくらい、歴史の真実をえがき得るだろうか?

第三巻 第一九号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(二)徳永 直  定価:200円
 「江戸期の印刷工場」が近代的な印刷工場に飛躍するためには、活字のほかにいくつかの条件が必要である。第一にはバレンでこするかわりに、鉄のハンドでしめつけるプレスである。第二に、速度のある鋳造機である。第三に、バレン刷りにはふさわしくても金属活字に不向きな「和紙」の改良である。そして第四は、もっともっと重要だが、近代印刷術による印刷物の大衆化を見とおし、これを開拓してゆくところのイデオロギーである。特定の顧客であった大名や貴族、文人や墨客から離脱して、開国以後の新空気に胎動する平民のなかへゆこうとする思想であった。
 苦心の電胎字母による日本の活字がつくれても、それが容易に大衆化されたわけではない。のちに見るように「長崎の活字」は、はるばる「東京」にのぼってきても買い手がなくて、昌造の後継者平野富二は大童(おおわらわ)になって、その使用法や効能を宣伝しなければならなかったし、和製のプレスをつくって売り広めなければならなかったのである。つまり日本の近代的印刷工場が誕生するためには、総合的な科学の力と、それにもまして新しい印刷物を印刷したい、印刷することで大衆的におのれの意志を表現しようとする中味が必要であった。たとえばこれを昌造の例に見ると、彼は蒸汽船をつくり、これを運転し、また鉄を製煉し、石鹸をつくり、はやり眼を治し、痘瘡をうえた。活字をつくると同時に活字のボディに化合すべきアンチモンを求めて、日本の鉱山の半分くらいは探しまわったし、失敗に終わったけれど、いくたびか舶来のプレスを手にいれて、これの操作に熟練しようとした。これらの事実は、ガンブルがくる以前、嘉永から慶応までのことであるが、同時に、昌造が活字をつくったとき最初の目的が、まずおのれの欲する中味の本を印刷刊行したいことであった。印刷して、大名や貴族、文人や墨客ではない大衆に読ませたいということであった。それは前編で見たように、彼が幕府から捕らわれる原因ともなった流し込み活字で印刷した『蘭語通弁』〔蘭和通弁か〕や、電胎活字で印刷した『新塾余談』によっても明らかである。

第三巻 第二〇号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(三)徳永 直  定価:200円
 第一に、ダイアはアルファベット活字製法の流儀にしたがって鋼鉄パンチをつくった。凹型銅字母から凸型活字の再生まで嘉平や昌造と同様であるが、字画の複雑な漢字を「流しこみ」による鋳造では、やさしくないということを自覚していること。自覚していること自体が、アルファベット活字製法の伝統でそれがすぐわかるほど、逆にいえば自信がある。
 第二は、ダイアはたとえば嘉平などにくらべると、後に見るように活字製法では「素人」である。嘉平も昌造も自分でパンチを彫ったが、そのダイアは「労働者を使用し」た。(略)
 第三に、ダイアの苦心は活字つくりの実際にもあるが、もっと大きなことは、漢字の世界を分析し、システムをつくろうとしていることである。アルファベット人のダイアは、漢字活字をつくる前に漢字を習得しなければならなかった。(略)
 さて、ペナンで発生したダイア活字は、これから先、どう発展し成功していったかは、のちに見るところだけれど、いまやパンチによる漢字活字が実際的に誕生したことはあきらかであった。そして、嘉平や昌造よりも三十年早く。日本では昌造・嘉平の苦心にかかわらず、パンチでは成功しなかった漢字活字が、ダイアによっては成功したということ。それが、アルファベット人におけるアルファベット活字製法の伝統と技術とが成功させたものであるということもあきらかであった。そして、それなら、この眼玉の青い連中は、なんで世界でいちばん難しい漢字をおぼえ、活字までつくろうとするのか? いったい、サミュエル・ダイアなる人物は何者か? 世界の同志によびかけて拠金をつのり、世界三分の一の人類の幸福のために、と、彼らは、なんでさけぶのか? 私はそれを知らねばならない。それを知らねば、ダイア活字の、世界で最初の漢字鉛活字の誕生したその根拠がわからぬ、と考えた。

第三巻 第二一号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(四)徳永 直  定価:200円
 アジアには十六世紀を前後して銅活字の時代があり、朝鮮でも日本でもおこなわれている。秀吉の朝鮮侵略のみやげものに端を発している家康・家光時代の銅活字印刷があるけれど、それにくらべると、このさし絵に見る康熙帝の印刷局ははるかに大規模で組織的であることがわかる。しかし、日本でも『お湯殿日記』に見るような最初の文選工は「お公卿たち」であったが、支那でもあごひげの長い官人たちであった。明治になって印刷術が近代化されてからでも、印刷工業をおこした人々の多くが、武家など文字になじみのある階級だったように、私の徒弟だったころの先輩の印刷工の多くが、やはり士族くずれだったことを思い出す。(略)
 武英殿の銅活字は康熙帝の孫、高宗〔乾隆帝〕の代になるとつぶされて銅貨となった。日本でも家康時代の銅活字は同じ運命をたどっているけれど、支那のばあいは銅貨の不足が原因といわれている。しかし、もっと大きな原因は金属活字にあって、漢字組織ができないならば、またプレス式の印刷機もないとするならば、むしろ手わざの発達による木版の方が容易であり便利であった。ボディが銅であれ鉛であれ、それが彫刻に過ぎないならば、むしろ木版にしくはない。銅活字がほろびて再び木版術が栄え、極彩色の芸術的な印刷物もできるようになった。康熙・乾隆の時代に見られるこの傾向は、十七世紀の終わりから十八世紀のなかほどまでであるが、江戸中期から木版術が再興し、世界にたぐいない木版印刷術を生み出した日本と時間的にもほぼ一致している――ということも、漢字が持つ共通の宿命がするわざであったろう。

第三巻 第二二号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(五)徳永 直  月末最終号:無料
 『東洋文化史上におけるキリスト教』(三六二ページ)で溝口靖夫氏は、前に述べたメドハーストが(Ibid, P.366)自分の当時の経験を追懐した文章を根拠にして、つぎのように述べているところがある。――第五の困難は、アヘン問題と宣教師の関係であった。メドハーストが広東に着いた一八三五年は、アヘン戦争の直前であり、支那と英国のあいだに険悪な空気がみなぎっていた。このときにあたって宣教師たちは、きわめて困難なる立場に置かれた。宣教師たちは、しばしばアヘンを積んだ船に乗ってきた。しかも、メドハーストらは切符は買っているが、積荷について容嘴(ようし)する権利はなかった。……宣教師は、英国人と支那人との間に立って、しばしば通訳の労をとらねばならなかったが、こんなとき支那人はアヘン貿易は正義にかなえるものなりや否や? をただすのであった。……ゆえに当時、宣教師たちのこいねがったのは、一艘の伝道用船を得ることであった。これによりアヘンの罪悪からまぬがるることであった。――一艘の伝道船で、アヘンから逃れることはできないけれど、一口にいって「インドからの手紙」は、英国議会をして宣教師らの活動を保証させる決議案をパスさせながら、こんどは「信教の自由憲章」を勝ち取らねばならぬほどそれが首かせになったことを示している。つまり、産業革命が生み出したアルファベット人種の革命的進歩性は、おなじ産業革命が生み出した「アヘンの罪悪」と衝突しなければならなかったが、この矛盾こそ資本主義の矛盾の中味であり、限界であった。

第三巻 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治  定価:200円
「ですから、もしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを大きな乳の流れと考えるなら、もっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油(あぶら)の球にもあたるのです。(略)
 先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズをさしました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶが、みんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いので、わずかの光る粒、すなわち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒すなわち星がたくさん見え、その遠いのはボウッと白く見えるという、これがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、また、その中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この次の理科の時間にお話しします。では今日はその銀河のお祭りなのですから、みなさんは外へ出て、よく空をごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。
 そして教室じゅうはしばらく机のふたをあけたりしめたり本をかさねたりする音がいっぱいでしたが、まもなく、みんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。 

第三巻 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治  定価:200円
 そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルと転轍器(てんてつき)の灯をすぎ、小さな停車場に止まりました。
 その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示し、その振子は、風もなくなり汽車も動かずしずかなしずかな野原のなかに、カチッカチッと正しく時をきざんで行くのでした。
 そしてまったくその振子の音の間から遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れてくるのでした。「新世界交響楽だわ。」むこうの席の姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言いました。まったくもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。
(こんなしずかないいところで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい。僕といっしょに汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかり話しているんだもの。僕はほんとうにつらい。)
 ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして、むこうの窓の外を見つめていました。
 透きとおったガラスのような笛が鳴って、汽車はしずかに動き出し、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛をふきました。

第三巻 第二五号 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治  定価:200円
 空が青くすみわたり、ドングリはピカピカしてじつにきれいでした。
「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山ねこが、すこし心配そうに、それでもむりに威張(いば)って言いますと、ドングリどもは口々にさけびました。
「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」もうみんな、ガヤガヤガヤガヤ言って、なにがなんだか、まるで蜂の巣をつっついたようで、わけがわからなくなりました。そこで山猫がさけびました。
「やかましい! ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ!」

第三巻 第二六号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(六)徳永 直  定価:200円
 活字が日本に渡るには、他の条件が必要であった。そして、その他の条件のうちもっとも大きなものは、やはり文久二年・一八六二年の日本幕府がはじめてやった貿易船千歳丸の上海入港であったろう。(略)経済的にいえばこの貿易は失敗したけれど、不馴れな幕府の役人たちは積荷をそのまま持ち戻るはめにもなったけれど、オランダの役人につれられて各国の領事たちにあったり、諸外国人の活動ぶりを見てびっくりした。たとえばこれを便乗者・高杉一人の場合に見てもあきらかである。(略)その後二年あまりで、攘夷の中心長州藩が領民に洋品使用の禁を解き、薩摩や佐賀と前後して海外貿易を営なんだ急角度の転回も、したがって「薩長締盟」を可能にした思想的背景も、このときの千歳丸便乗によって彼が上海で感得したものによるところ、はなはだ多いといわれている。
 (略)第一回の千歳丸のときは高杉のほかに中牟田や五代〔五代友厚か。〕や浜松藩の名倉(なぐら)予可人(あなと)などあったが、第二回の健順丸のときは、前巻でなじみの昌造の同僚で長崎通詞、安政開港に功労のあった森山多吉郎、先の栄之助がいまは外国奉行支配調役として乗り組んでいたし、第三回目、慶応三年(一八六七)の同じく幕府船ガンジス号のときは、佐倉藩士高橋作之助〔猪之助か。(のちの由一)ら多数があり、たび重なるにつれて上海渡航者の数は急速に増えていった。(略)
 また、官船以外の密航者、あるいは藩所有の船修理と称して渡航する者もたくさんあった。(略)さては中浜万次郎を案内に立てて汽船を買いに来た土佐藩の後藤象次郎などと、千歳丸以後は「きびす相ついで」いる(略)。

第三巻 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫  月末最終号:無料
黒川能・観点の置き所
 特殊の舞台構造
 五流の親族
 能楽史をかえりみたい
 黒川の能役者へ
村で見た黒川能
能舞台の解説
春日若宮御祭の研究
 おん祭りの今と昔と
 祭りのお練り
 公人の梅の白枝(ずはえ)
 若宮の祭神
 大和猿楽・翁
 影向松・鏡板・風流・開口
 細男(せいのお)・高足・呪師

 山形県には、秋田県へかけて室町時代の芸能に関した民俗芸術が多く残っております。黒川能は、その中でも著しいものの一つで、これと鳥海山の下のひやま舞い〔杉沢比山舞か。〕との二つは、特に皆さまに見ていただきたいものであります。この黒川能が二十数年ぶりでのぼってくるのであります。世話をしてくださった斎藤氏〔斎藤香村か。〕に感謝しなければならないと思います。
 特にこの能で注意しなければならないのは、舞台構造であります。京都の壬生念仏を思わせるような舞台で、上下の廊下が橋掛りになっており、舞台の正面には春日神社の神殿をひかえているのであります。(略)奉仕する役者はというと、上座と下座が二部落にわかれており、ここで能をするときは、上座は左橋掛り(正面から見て)から出て舞い、下座は右橋掛りから出て舞うことになっている。これはもっとも大きな特徴で、今度の公演にいくぶんでも実現できれば結構だと思います。この神前演奏の形は、春日の若宮祭りの第一日の式と同形式といっていいと思います。しかも、黒川ではつねにその形式をくり返しているわけで、見物人よりも神に対する法楽を主としていることがわかります。
(略)おもしろいのは狂言です。表情にも言語にも必ず多少の驚きを受けられるでしょう。ことに方言的な言い回しなどには、つい、われわれも見ていて釣りこまれるものがありました。(「黒川能・観点の置き所」より)

第三巻 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎  定価:200円
面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
能面の様式 / 人物埴輪の眼
(略)しかし「意味ある形」、たとえば「甲冑」を円筒上の人物に着せたとなると、その甲冑は、四肢などに対するとはまったく段ちがいの細かな注意をもって表現されている。(略)それはこの鉄の武器が、人体などよりもはるかに強い関心の対象であったことを示すものであって、いかにも古墳時代の感じ方らしい。(略)
(略)埴輪(はにわ)人形を近くからでなく、三間、五間、あるいはそれ以上に、ときには二、三十間の距離を置いて、ながめてみる必要があると思う。それによって埴輪人形の眼はじつに異様な生気をあらわしてくるのである。もし、この眼が写実的に形作られていたならば、すこし遠のけば、はっきりとは見えなくなるであろう。しかるにこの眼は、そういう形づけを受けず、そばで見れば粗雑に裏までくりぬいた空洞の穴にすぎないのであるが、遠のけば遠のくほど、その粗雑さが見えなくなり、魂の窓としての眼の働きが表面へ出てくる。それが異様な生気を現わしてくるゆえんなのである。眼にそういう働きがあらわれれば、顔面は生気をおび、埴輪人形全体が生きてくるのはもちろんである。古墳時代の人々はそういうふうにして埴輪の人形を見、また、そういうふうに見えるものとして埴輪の人形を作ったのであった。

第三巻 第二九号 火山の話 今村明恒  定価:200円
 桜島噴火はいちじるしい前徴を備えていた。数日前から地震が頻々(ひんぴん)におこることは慣例であるが、今回も一日半前から始まった。また七、八十年前から土地がしだいに隆起しつつあったが、噴火後は元どおりに沈下したのである。そのほか、温泉・冷泉がその温度を高め、あるいは湧出量を増し、あるいは新たに湧出し始めたようなこともあった。
 霧島火山群は東西五里にわたり二つの活火口と多くの死火山とを有している。その二つの活火口とは矛の峰(高さ一七〇〇メートル)の西腹にある御鉢(おはち)と、その一里ほど西にある新燃鉢(しんもえばち)とである。霧島火山はこの二つの活火口で交互に活動するのが習慣のように見えるが、最近までは御鉢が活動していた。ただし享保元年(一七一六)における新燃鉢の噴火は、霧島噴火史上においてもっとも激しく、したがって最高の損害記録をあたえたものであった。
 磐梯山(高さ一八一九メートル)の明治二十一年(一八八八)六月十五日における大爆発は、当時、天下の耳目を聳動(しょうどう)せしめたものであったが、クラカトアには比較すべくもない。このときに磐梯山の大部分は蒸気の膨張力によって吹き飛ばされ、堆積物が渓水をふさいで二、三の湖水を作ったが、東側に流れ出した泥流のために土地のみならず、四百余の村民をも埋めてしまったのである。

第三巻 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 上の巻
   序文
    過去の時代(序文の第一段)
    『古事記』の企画(序文の第二段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
   一、イザナギの命とイザナミの命
    天地のはじめ
    島々の生成
    神々の生成
    黄泉の国
    身禊
   二、アマテラス大神とスサノオの命
    誓約
    天の岩戸
   三、スサノオの命
    穀物の種
    八俣の大蛇
    系譜
 スサノオの命は、かようにして天の世界から逐(お)われて、下界へ下っておいでになり、まず食物をオオゲツ姫の神にお求めになりました。そこでオオゲツ姫が鼻や口、また尻からいろいろのごちそうを出して、いろいろお料理をしてさしあげました。この時にスサノオの命はそのしわざをのぞいて見て、きたないことをして食べさせるとお思いになって、そのオオゲツ姫の神を殺してしまいました。殺された神の身体にいろいろの物ができました。頭にカイコができ、二つの目に稲種ができ、二つの耳にアワができ、鼻にアズキができ、股の間にムギができ、尻にマメができました。カムムスビの命が、これをお取りになって種となさいました。
 かくてスサノオの命は逐いはらわれて出雲の国の肥(ひ)の川上、鳥髪(とりかみ)という所におくだりになりました。このときに箸(はし)がその河から流れてきました。それで川上に人が住んでいるとお思いになってたずねて上っておいでになりますと、老翁と老女と二人があって少女を中において泣いております。そこで「あなたは誰ですか?」とおたずねになったので、その老翁が、「わたくしはこの国の神のオオヤマツミの神の子でアシナヅチといい、妻の名はテナヅチ、娘の名はクシナダ姫といいます」と申しました。また「あなたの泣くわけはどういう次第ですか?」とおたずねになったので「わたくしの女(むすめ)はもとは八人ありました。それを高志(コシ)の八俣の大蛇(おろち)が毎年きて食べてしまいます。今また、それの来る時期ですから泣いています」と申しました。

第三巻 第三一号 現代語訳『古事記』(二)武田祐吉(訳)  月末最終号:無料
 古事記 上の巻
   四、大国主の命
    兎と鰐
    赤貝姫と蛤貝姫
    根の堅州国(かたすくに)
    ヤチホコの神の歌物語
    系譜
    スクナビコナの神
    御諸山の神
    大年の神の系譜
   五、アマテラス大神と大国主の命
    天若日子(あめわかひこ)
    国譲り
   六、ニニギの命
    天降り
    猿女の君
    木の花の咲くや姫
   七、ヒコホホデミの命
    海幸と山幸
    トヨタマ姫
スクナビコナの神 そこで大国主の命が出雲の御大(みほ)の御埼(みさき)においでになった時に、波の上をツルイモのさやを割って船にして、蛾(が)の皮をそっくりはいで着物にして寄ってくる神さまがあります。その名を聞きましたけれども答えません。また、御従者(おとも)の神たちにおたずねになったけれども、みな知りませんでした。ところがヒキガエルが言うことには、「これはクエ彦がきっと知っているでしょう」と申しましたから、そのクエ彦を呼んでおたずねになると、「これはカムムスビの神の御子でスクナビコナの神です」と申しました。よってカムムスビの神に申し上げたところ、「ほんとにわたしの子だ。子どもの中でも、わたしの手の股からこぼれて落ちた子どもです。あなた、アシハラシコオの命と兄弟となってこの国を作り固めなさい」とおおせられました。それで、それから大国主とスクナビコナとお二人が並んでこの国を作り固めたのです。後にはそのスクナビコナの神は、海のあちらへ渡って行ってしまいました。このスクナビコナの神のことを申し上げたクエ彦というのは、今いう山田のカカシのことです。この神は足は歩きませんが、天下のことをすっかり知っている神さまです。
御諸山の神 そこで大国主の命が心憂く思っておおせられたことは、「わたしはひとりではどのようにしてこの国を作り得ましょう。どの神さまといっしょにわたしはこの国を作りましょうか?」とおおせられました。この時に、海上を照らして寄ってくる神さまがあります。その神のおおせられることには、「わたしに対してよくおまつりをしたら、わたしがいっしょになって国を作りましょう。そうしなければ国はできにくいでしょう」とおおせられました。そこで大国主の命が申されたことには、「それなら、どのようにしておまつりをいたしましょう?」と申されましたら、「わたしを大和の国の青々と取り囲んでいる東の山の上におまつりなさい」とおおせられました。これは御諸(みもろ)の山においでになる神さまです。

第三巻 第三二号 現代語訳『古事記』(三)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 中の巻
   一、神武天皇
    東征
    速吸の門
    イツセの命
    熊野から大和へ
    久米歌
    神の御子
    タギシミミの命の変
   二、綏靖天皇以後八代
    綏靖天皇
    安寧天皇
    懿徳天皇
    孝昭天皇
    孝安天皇
    孝霊天皇
    孝元天皇
    開化天皇
   三、崇神天皇
    后妃と皇子女
    美和の大物主
    将軍の派遣
   四、垂仁天皇
    后妃と皇子女
    サホ彦の反乱
    ホムチワケの御子
    丹波の四女王
    時じくの香の木の実
 この天皇〔崇神天皇〕の御世に、流行病がさかんにおこって、人民がほとんどつきようとしました。ここに天皇は、ご憂慮あそばされて、神をまつってお寝みになった晩に、オオモノヌシの大神がお夢にあらわれておおせになるには、「かように病気がはやるのは、わたしの心である。これはオオタタネコをもってわたしを祭らしめたならば、神のたたりが起こらずに国も平和になるだろう」とおおせられました。そこで急使を四方に出してオオタタネコという人を求めたときに、河内の国の美努(みの)の村でその人を探し出してたてまつりました。(略)そこで天皇が非常にお歓びになっておおせられるには、「天下が平らぎ人民が栄えるであろう」とおおせられて、このオオタタネコを神主として御諸山(みもろやま)でオオモノヌシの神をおまつり申し上げました。(略)これによって疫病がやんで国家が平安になりました。
 このオオタタネコを神の子と知ったしだいは、上に述べたイクタマヨリ姫は美しいお方でありました。ところが形姿・威儀並びなき一人の男が夜中にたちまち来ました。そこでたがいに愛でて結婚して住んでいるうちに、何ほどもないのにその嬢子(おとめ)が妊(はら)みました。そこで父母が妊娠したことを怪しんで、その娘に、「お前は自然に妊娠した。夫がないのにどうして妊娠したのか?」とたずねましたから、答えて言うには「名も知らないりっぱな男が夜ごとに来て住むほどに、自然に妊みました」と言いました。そこでその父母が、その人を知りたいと思って、その娘に教えましたのは、「赤土を床のほとりに散らし麻糸を針につらぬいてその着物の裾(すそ)に刺せ」と教えました。よって教えたとおりにして、朝になって見れば、針をつけた麻は戸の鉤穴から貫けとおって、残った麻はただ三輪だけでした。そこで鉤穴から出たことを知って糸をたよりにたずねて行きましたら、三輪山に行って神の社にとまりました。そこで神の御子であるとは知ったのです。その麻の三輪残ったのによってそこを三輪というのです。このオオタタネコの命は、神(みわ)の君・鴨(かも)の君の祖先です。 

第三巻 第三五号 地震の話(一)今村明恒  月末最終号:無料
 一、はしがき
 二、地震学のあらまし
 三、地震に出会ったときの心得(こころえ)
  一、突差(とっさ)の処置
  二、屋外(おくがい)への避難
 日本は地震国であり、また地震学の開けはじめた国である。これは誤りのない事実であるけれども、もし日本は世界中で地震学がもっとも進んだ国であるなどというならば、それはいささかうぬぼれの感がある。実際、地震学のある方面では、日本の研究がもっとも進んでいる点もあるけれども、その他の方面においては必ずしもそうでない。それゆえ著者らは地震学をもって世界に誇ろうなどとは思っていないのみならず、この頃のように、わが国民がくりかえし地震に征服せられてみると、むしろ恥かしいような気持ちもする。すなわち大正十二年(一九二三)の関東大地震においては一〇万の生命と五十五億円の財産とを失い、二年後、但馬の国のケチな地震のため、四〇〇の人命と三〇〇〇万円の財産とを損し、また二年後の丹後地震によって三〇〇〇の死者と一億円の財産損失とを生じた。そしてこれらの損失のほとんど全部は地震後の火災によるものであって、被害民の努力しだいによっては大部分、免れ得られるべき損失であった。しかるに事実はそうでなく、あのような悲惨な結果の続発となったのであるが、これを遠く海外からながめてみると、日本はおそろしい地震国である。地震のたびごとに大火災をおこす国である。外国人は命がけでないと旅行のできない国である。国民は、ああたびたび地震火災に悩まされても少しもこりないもののようである。地震によって命を失うことをなんとも思っていないのかもしれないなどという結論を下されないとも限らぬまい。実際、これは欧米人の多数が日本の地震に対する観念である。かく観察されてみるとき、著者のごとき斯学の専攻者は非常な恥辱を感ぜざるを得ないのである。もちろん、この学問の研究が容易に進歩しないのも震災国たるの一因には相違ないが、しかしながら地震に対して必要な初歩の知識がわが国民に欠けていることが、震災拡大の最大原因であろう。じつに著者のごときは、地震学が今日以上に進歩しなくとも、震災のほとんど全部はこれを免れ得る手段があると考えているものの一人である。

第三巻 第三六号 地震の話(二)今村明恒  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。
 三、地震に出会ったときの心得
  三、階下の危険
  四、屋内にての避難
  五、屋外における避難
  六、津波と山津波(やまつなみ)との注意
  七、災害防止
  八、火災防止(一)
  九、火災防止(二)
 一〇、余震に対する処置
 非局部性の大地震をおこすことのある海洋底に接した海岸地方は、大ゆれの地震にみまわれたばあい、津波についての注意を要する。ただし、津波をともなうほどの地震は最大級のものであるから、倒壊家屋を生ずる区域が数個の国や県にわたることもあり、あるいは震源距離が陸地からあまり遠いために、単に広区域にわたって大ゆれのみを感じ、地震の直接の損害を生じないこともある。
(略)津波とは津の波、すなわち港に現われる大津波であって、暴風など気象上の変調からおこることもあるが、もっとも恐ろしいのは地震津波である。元来、波というから、読者はすぐに風でおこされる波を想像せられるかもしれないが、むしろ潮の差し引きというほうが実際に近い。
(略)明治二十九年(一八九六)の三陸大津波は、その原因、数十里の沖合いにおける海底の地形変動にあったのであるが、津波の常習地たるじょうご形の港湾の奥においては、図に示されたとおり、あるいは八十尺、あるいは七十五尺というような高さの洪水となり、合計二万七〇〇〇人の人命を奪ったのに、港湾の両翼端ではわずかに数尺にすぎないほどのものであったし、その夜、沖合いに漁猟に行っていた村人は、あんな悲惨事が自分の村でおこったことを夢想することもできず、翌朝、跡かたもなく失われた村へ帰って茫然自失したという。
(略)しばしば海底の大地震をおこす場所に接し、そこに向かって大きくじょうご形に開いた地形の港湾がそれにあたるわけであるが、これについで多少の注意をはらうべきは、遠浅の海岸である。たとい海岸線が直線に近くとも、遠浅だけの関係で、波の高さが数倍の程度に増すこともあるから、もし沖合いにおける高さが数尺のものであったならば、前記のごとき地形の沿岸において多少の被害を見ることもある。

第三巻 第三七号 津波と人間/天災と国防/災難雑考 寺田寅彦  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。

 しかし、ここで一つ考えなければならないことで、しかも、いつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。(略)
 文明が進むにしたがって人間は、しだいに自然を征服しようとする野心を生じた。そうして、重力に逆らい、風圧・水力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうして、あっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻(おり)をやぶった猛獣の大群のように、自然があばれ出して高楼を倒壊せしめ、堤防を崩壊させて人命を危うくし、財産をほろぼす。その災禍をおこさせた元のおこりは、天然に反抗する人間の細工であるといっても不当ではないはずである。災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやがうえにも災害を大きくするように努力しているものは、誰あろう文明人そのものなのである。
 もう一つ、文明の進歩のために生じた対自然関係のいちじるしい変化がある。それは人間の団体、なかんずくいわゆる国家あるいは国民と称するものの有機的結合が進化し、その内部機構の分化がいちじるしく進展してきたために、その有機系のある一部の損害が系全体に対してはなはだしく有害な影響をおよぼす可能性が多くなり、ときには一小部分の傷害が全系統に致命的となりうる恐れがあるようになったということである。(略)
 二十世紀の現代では、日本全体が一つの高等な有機体である。各種の動力を運ぶ電線やパイプやが縦横に交差し、いろいろな交通網がすきまもなく張り渡されているありさまは、高等動物の神経や血管と同様である。その神経や血管の一か所に故障がおこれば、その影響はたちまち全体に波及するであろう。今度の暴風で畿内地方の電信が不通になったために、どれだけの不都合が全国に波及したかを考えてみれば、このことは了解されるであろう。

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