寺田寅彦 てらだ とらひこ
1878-1935(明治11.11.28-昭和10.12.31)
物理学者・随筆家。東京生れ。高知県人。東大教授。地球物理学を専攻。夏目漱石の門下、筆名は吉村冬彦。随筆・俳句に巧みで、藪柑子と号した。著「冬彦集」「藪柑子集」など。

◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。


もくじ 
津波と人間/天災と国防/災難雑考 寺田寅彦


ミルクティー*現代表記版
津波と人間
天災と国防
災難雑考

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津浪と人間
天災と国防
災難雑考

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*底本
津波と人間
底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店
   1997(平成9)年6月5日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
初出:「鉄塔」
   1933(昭和8)年5月1日
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天災と国防
底本:「寺田寅彦随筆集 第五巻」岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年11月20日第1刷発行
   1963(昭和38)年6月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年9月5日第65刷発行
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災難雑考
底本:「寺田寅彦随筆集 第五巻」岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年11月20日第1刷発行
   1963(昭和38)年6月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年9月5日第65刷発行
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NDC 分類:450(地球科学.地学)
http://yozora.kazumi386.org/4/5/ndc450.html
NDC 分類:452(地球科学.地学/海洋学)
http://yozora.kazumi386.org/4/5/ndc452.html
NDC 分類:453(地球科学.地学/地震学)
http://yozora.kazumi386.org/4/5/ndc453.html
NDC 分類:914(日本文学/評論.エッセイ.随筆)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc914.html




津波と人間

寺田寅彦


 昭和八年(一九三三)三月三日の早朝に、東北日本の太平洋岸に津波が襲来して、沿岸の小都市・村落を片端かたっぱしからなぎ倒し洗い流し、そうして多数の人命と多額の財物を奪い去った。明治二十九年(一八九六)六月十五日の同地方におこったいわゆる「三陸大津波」とほぼ同様な自然現象が、約満三十七年後の今日ふたたびくり返されたのである。
 同じような現象は、歴史に残っているだけでも、過去においてなんべんとなくくり返されている。歴史に記録されていないものが、おそらくそれ以上に多数にあったであろうと思われる。現在の地震学上から判断されるかぎり、同じことは未来においても何度となくくり返されるであろうということである。
 こんなにたびたびくり返される自然現象ならば、当該地方の住民は、とうの昔に何かしら相当な対策を考えてこれにそなえ、災害を未然に防ぐことができていてもよさそうに思われる。これは、このさい誰しもそう思うことであろうが、それが実際はなかなかそうならないというのがこの人間界の人間的自然現象であるように見える。
 学者の立場からは通例、次のようにいわれるらしい。「この地方に数年あるいは数十年ごとに津波のおこるのは既定の事実である。それだのに、これに備うることもせず、また、強い地震の後には津波の来るおそれがあるというくらいの見やすい道理もわきまえずに、うかうかしているというのはそもそも不用意千万なことである。
 しかしまた、罹災者りさいしゃの側にいわせれば、また次のようなもうぶんがある。「それほどわかっていることなら、なぜ津波の前にに合うように警告をあたえてくれないのか。正確な時日に予報できないまでも、もうそろそろあぶないと思ったら、もう少し前にそう言ってくれてもいいではないか。今まで黙っていて、災害のあった後に急にそんなことをいうのはひどい。
 すると、学者の方では「それはもう十年も二十年も前に、とうに警告をあたえてあるのに、それに注意しないからいけない」という。するとまた、罹災民りさいみんは「二十年も前のことなど、このせちがらい世の中でとても覚えてはいられない」という。これはどちらの言い分にも道理がある。つまり、これが人間界の「現象」なのである。
 災害直後、時を移さず政府各方面の官吏かんり、各新聞記者、各方面の学者がけつけて詳細な調査をする。そうして周到な津波災害予防案が考究され、発表され、その実行が奨励しょうれいされるであろう。
 さて、それからさらに三十七年ったとする。その時には、今度の津波を調べた役人、学者、新聞記者はたいてい、もう故人となっているか、さもなくとも世間からは隠退している。そうして、今回の津波のときに働きざかり、分別ざかりであった当該地方の人々も同様である。そうして災害当時、まだ物心ものごころのつくかつかぬであった人たちが、その今から三十七年後の地方の中堅人士じんしとなっているのである。三十七年といえば、たいして長くも聞こえないが、日数にすれば一万三五〇五日である。その間に朝日・夕日は一万三五〇五回ずつ平和な浜辺の平均水準線に近い波打ちぎわをてらすのである。津波にこりて、はじめは高いところだけに住居を移していても、五年たち、十年たち、十五年、二十年とたつ間には、やはり、いつともなく低いところを求めて人口は移って行くであろう。そうして運命の一万数千日の終わりの日が、しのびやかに近づくのである。鉄砲の音におどろいて立ったウミネコが、いつの間にか、またってくるのと本質的の区別はないのである。
 これが二年、三年、あるいは五年に一回はきっと十数メートルの高波がおそってくるのであったら、津波はもう天変でも地異でもなくなるであろう。
 風雪というものを知らない国があったとする。年中、気温が摂氏せっし二十五度を下がることがなかったとする。それが、おおよそ百年にいっぺんくらいちょっとした吹雪ふぶきがあったとすると、それはその国には非常な天災であって、この災害はおそらくわがくにの津波におとらぬものとなるであろう。なぜかといえば、風のない国の家屋はたいてい少しの風にも吹き飛ばされるようにできているであろうし、冬の用意のない国の人は、雪が降ればこごえるに相違ないからである。それほど極端な場合を考えなくてもよい。いわゆる台風たいふうなるものが三十年、五十年、すなわち日本家屋の保存期限と同じ程度の年数をへだてて襲来するのだったら結果は同様であろう。
 夜というものが二十四時間ごとにくり返されるからよいが、約五十年に一度、しかも不定期に突然に夜がめぐりあわせてくるのであったら、その時に、いかなる事柄ことがらがおこるであろうか。おそらく名状のできない混乱が生じるであろう。そうしてやはり、人命財産のいちじるしい損失がおこらないとは限らない。
 さて、個人がたよりにならないとすれば、政府の法令によって永久的の対策を設けることはできないものかと考えてみる。ところが、国は永続しても政府の役人は百年の後にはかならず入れかわっている。役人がかわる間には法令もときどきは変わるおそれがある。その法令が、無事な一万何千日間の生活にはなはだ不便なものである場合は、なおさらそうである。政党内閣などというものの世の中だと、なおさらそうである。
 災害記念碑を立てて永久的警告を残してはどうかという説もあるであろう。しかし、はじめは人目につきやすいところに立ててあるのが、道路改修、市区改正などのおこなわれるたびにあちらこちらと移されて、おしまいにはどこの山陰やまかげの竹やぶの中にもれないとも限らない。そういう時に若干の老人が昔の例をひいてやかましく言っても、たとえば「市会議員」などというようなものは、そんなことは相手にしないであろう。そうしてその碑石が八重葎やえむぐらもれたころに、時分はよしと次の津波がそろそろ準備されるであろう。
 昔の日本人は、子孫のことを多少でも考えない人は少なかったようである。それは、実際いくらか考えばえがする世の中であったからかもしれない。それでこそ、例えば津波をいましめる碑を建てておいても相当な利き目があったのであるが、これから先の日本ではそれがどうであるか、はなはだ心細いような気がする。二千年来伝わった日本人の魂でさえも、打ちくだいて夷狄てきの犬にわせようという人も少なくない世の中である。一代前の言いきなどを歯牙しがにかける人はありそうもない。
 しかし、困ったことには「自然」は過去の習慣に忠実である。地震や津波は、新思想の流行などには委細いさいかまわず、頑固がんこに、保守的に執念深くやってくるのである。紀元前二十世紀にあったことが紀元二十世紀にもまったく同じようにおこなわれるのである。科学の法則とは畢竟ひっきょう「自然の記憶の覚え書き」である。自然ほど伝統に忠実なものはないのである。
 それだからこそ、二十世紀の文明という空虚な名をたのんで、安政の昔の経験をバカにした東京は大正十二年(一九二三)の地震で焼きはらわれたのである。
 こういう災害を防ぐには、人間の寿命を十倍か百倍にのばすか、ただしは地震津波の週期を十分の一か百分の一に縮めるかすればよい。そうすれば、災害はもはや災害でなく五風ごふう十雨じゅううの亜類となってしまうであろう。しかし、それができない相談であるとすれば、残る唯一の方法は、人間がもうすこし過去の記録を忘れないように努力するよりほかはないであろう。
 科学が今日のように発達したのは、過去の伝統の基礎のうえに時代時代の経験を、丹念に、克明に築きあげた結果である。それだからこそ、台風が吹いても地震がゆすってもビクとも動かぬ殿堂ができたのである。二千年の歴史によって代表された経験的基礎を無視して、他所よそからり集めた風土にあわぬ材料で建てた仮小屋のような新しい哲学などは、よくよく吟味ぎんみしないとはなはだあぶないものである。それにもかかわらず、うかうかとそういうものにたよって脚下の安全なものをてようとする、それと同じ心理が、正しく地震や津波の災害を招致しょうちする、というよりはむしろ、地震や津波から災害を製造する原動力になるのである。
 津波のおそれのあるのは三陸沿岸だけとは限らない。寛永(一六二四〜一六四五)・安政(一八五五〜一八六〇)の場合のように、太平洋沿岸の各地をおそうような大がかりなものが、いつかはまたくり返されるであろう。その時にはまた、日本の多くの大都市が大規模な地震の活動によって将棋しょうぎだおしにたおされる「非常時」が到来するはずである。それはいつだかはわからないが、来ることは来るというだけはたしかである。今からその時にそなえるのが、なによりも肝要である。
 それだから、今度の三陸の津波は、日本全国民にとっても人ごとではないのである。
 しかし、少数の学者や自分のような苦労症の人間がいくら骨を折って警告をあたえてみたところで、国民一般も政府の当局者も決して問題にはしない、というのが、一つの事実であり、これが人間界の自然法則であるように見える。自然の法則は人間の力ではげられない。この点では、人間も昆虫もまったく同じ境界きょうがいにある。それでわれわれも昆虫と同様、明日のことなど心配せずに、その日その日を享楽きょうらくしていって、一朝いっちょう天災におそわれれば綺麗きれいにあきらめる。そうして滅亡するか復興するかは、ただそのときの偶然の運命にまかせるということにするほかはないというばちの哲学も可能である。
 しかし、昆虫はおそらく明日に関する知識はもっていないであろうと思われるのに、人間の科学は、人間に未来の知識をさずける。この点はたしかに人間と昆虫とでちがうようである。それで日本国民のこれら災害に関する科学知識の水準をずっと高めることができれば、そのときにはじめて天災の予防が可能になるであろうと思われる。この水準を高めるには何よりもまず、普通教育で、もっと立ち入った地震津波の知識をさずける必要がある。英独仏などの科学国の普通教育の教材には、そんなものはないという人があるかもしれないが、それは、かの地には大地震・大津波がまれなためである。熱帯の住民が裸体はだかで暮らしているからといって、寒い国の人がその真似まねをするいわれはないのである。それで日本のような、世界的に有名な地震国の小学校では、少なくも毎年一回ずつ、一時間や二時間くらい地震・津波に関する特別講演があっても決して不思議はないであろうと思われる。地震・津波の災害を予防するのは、やはり学校で教える「愛国」の精神の具体的な発現方法の中でももっとも手近てぢかで、もっとも有効なものの一つであろうと思われるのである。  
(追記) 三陸災害地を視察して帰った人の話を聞いた。ある地方では明治二十九年(一八九六)の災害記念碑を建てたが、それが今では二つに折れて倒れたままになってころがっており、碑文などはまったく読めないそうである。またある地方では同様な碑を、山腹道路のそばで通行人のもっともよく眼につくところに建てておいたが、その後、新道が別にできたために記念碑のある旧道はさびれてしまっているそうである。それからもう一つ意外な話は、地震があってから津波の到着するまでに通例、数十分かかるという平凡な科学的事実を知っている人が、かの地方に非常にまれだということである。前の津波にあった人でも、たいていそんなことは知らないそうである。
(昭和八年(一九三三)五月『鉄塔』


底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店
   1997(平成9)年6月5日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
初出:「鉄塔」
   1933(昭和8)年5月1日
※初出時の署名は「尾野倶郎」
※単行本「蒸発皿」に収録。
※「正確な時日に」の「に」には編集部によって〔は〕の注記がついています。
入力:砂場清隆
校正:多羅尾伴内
2003年10月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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天災と国防

寺田寅彦


 「非常時」というなんとなく不気味ぶきみな、しかし、はっきりした意味のわかりにくい言葉がはやりだしたのはいつごろからであったか思い出せないが、ただ近来、なにかしら日本全国土の安寧あんねいをおびやかす黒雲のようなものが、遠い水平線の向こう側からこっそりのぞいているらしいという、いわば、取り止めのない悪夢のような不安の陰影が、国民全体の意識の底層に揺曳ようえいしていることは事実である。そうして、その不安の渦巻うずまきの回転する中心点はといえば、やはり、近き将来に期待される国際的折衝の難関であることはもちろんである。
 そういう不安をさらにあおり立てでもするように、ことしになってから、いろいろの天変地異がくびすをついでわが国土をおそい、そうして、おびただしい人命と財産をうばったように見える。あの恐ろしい函館はこだての大火や、近くは北陸地方の水害の記憶がまだなまなましいうちに、さらに九月二十一日の近畿きんき地方大風たいふう水害が突発して、その損害は容易に評価のできないほど甚大じんだいなものであるように見える。国際的のいわゆる「非常時」は、少なくも現在においては、無形な実証のないものであるが、これらの天変地異の「非常時」は、もっとも具象的な眼前の事実としてその惨状さんじょうを暴露しているのである。
 一家のうちでも、どうかすると、直接の因果関係の考えられないようないろいろな不幸が頻発ひんぱつすることがある。すると人は、きっと何かしら神秘的な因果応報の作用を想像して、祈祷きとう厄払やくばらいの他力にすがろうとする。国土に災禍さいか続起ぞっきするばあいにも同様である。しかし統計に関する数理から考えてみると、一家なり一国なりに、ある年は災禍が重畳ちょうじょうし、また他の年にはまったく無事な回り合わせがくるということは、純粋な偶然の結果としても当然期待されうる「自然ナチュラル変異フラクチュエーション」の現象であって、別に、かならずしも怪力乱神を語るにはあたらないであろうと思われる。悪い年まわりは、むしろいつかはまわってくるのが自然の鉄則であると覚悟を定めて、良い年まわりの間にじゅうぶんの用意をしておかなければならないということは、じつに明白すぎるほど明白なことであるが、また、これほど万人がきれいに忘れがちなこともまれである。もっとも、これを忘れているおかげで今日を楽しむことができるのだという人があるかもしれないのであるが、それは個人めいめいの哲学にまかせるとして、少なくも一国の為政の枢機すうきに参与する人々だけは、この健忘症に対する診療を常々おこたらないようにしてもらいたいと思うしだいである。
 日本は、その地理的の位置がきわめて特殊であるために国際的にも特殊な関係が生じ、いろいろな仮想敵国に対する特殊な防備の必要を生じると同様に、気象学的・地球物理学的にもまた、きわめて特殊な環境の支配を受けているために、その結果として、特殊な天変地異にたえずおびやかされなければならない運命のもとに置かれていることを、一日も忘れてはならないはずである。
 地震・津波・台風のごとき西欧文明諸国の多くの国々にも、全然ないとはいわれないまでも、頻繁ひんぱんにわが国のように激甚げきじん災禍さいかをおよぼすことは、はなはだまれであるといってもよい。わが国のように、こういう災禍の頻繁ひんぱんであるということは、一面から見れば、わが国の国民性のうえに良い影響をおよぼしていることも否定しがたいことであって、数千年来の災禍の試練によって、日本国民特有のいろいろな国民性のすぐれた諸相が作り上げられたことも事実である。
 しかし、ここで一つ考えなければならないことで、しかも、いつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈げきれつの度を増すという事実である。
 人類がまだ草昧そうまいの時代を脱しなかったころ、がんじょうな岩山の洞窟どうくつの中にまっていたとすれば、たいていの地震や暴風でも平気であったろうし、これらの天変によって破壊さるべきなんらの造営物をも持ちあわせなかったのである。もう少し文化が進んで小屋を作るようになっても、テントかて小屋のようなものであってみれば、地震にはかえって絶対安全であり、また、たとえ風に飛ばされてしまっても復旧ははなはだ容易である。とにかく、こういう時代には、人間は極端に自然に従順であって、自然にさからうようなだいそれたくわだては何もしなかったからよかったのである。
 文明が進むにしたがって人間は、しだいに自然を征服しようとする野心を生じた。そうして、重力にさからい、風圧・水力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうして、あっぱれ自然の暴威をふうじ込めたつもりになっていると、どうかした拍子におりをやぶった猛獣の大群のように、自然があばれ出して高楼を倒壊せしめ、堤防を崩壊ほうかいさせて人命をあやうくし、財産をほろぼす。その災禍をおこさせたもとのおこりは、天然に反抗する人間の細工であるといっても不当ではないはずである。災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやがうえにも災害を大きくするように努力しているものは、たれあろう文明人そのものなのである。
 もう一つ、文明の進歩のために生じた対自然関係のいちじるしい変化がある。それは人間の団体、なかんずくいわゆる国家あるいは国民と称するものの有機的結合が進化し、その内部機構の分化がいちじるしく進展してきたために、その有機系のある一部の損害が系全体に対してはなはだしく有害な影響をおよぼす可能性が多くなり、ときには一小部分の傷害が全系統に致命的となりうるおそれがあるようになったということである。
 単細胞動物のようなものでは個体を切断しても、各片が平気で生命を持続することができるし、もう少し高等なものでも、肢節しせつを切断すれば、その痕跡こんせきからわりが芽を吹くということもある。しかし高等動物になると、そういう融通がきかなくなって、針一本でも打ちどころしだいでは生命をうしなうようになる。
 先住アイヌが日本の大部に住んでいたころに、たとえば大正十二年(一九二三)の関東大震か、今度の九月二十一日のような台風が襲来したと想像してみる。彼らの宗教的畏怖いふの念はわれわれの想像以上に強烈であったであろうが、彼らの受けた物質的損害は些細ささいなものであったに相違ない。前にも述べたように、彼らの小屋にとっては弱震も烈震れっしんも効果においてたいした相違はないであろうし、毎秒二十メートルの風も毎秒六十メートルの風も、やはり結果においてほぼ同等であったろうと想像される。そうして、野生の鳥獣が地震や風雨にたえるように、これら未開の民もまた、年々歳々の天変を案外らくにしのいで種族を維持してきたに相違ない。そうして食物も衣服も住居も、めいめいが自身の労力によって獲得するのであるから、天災による損害は結局、各個人めいめいの損害であって、その回復もまためいめいの仕事であり、また、めいめいの力で回復し得られないような損害ははじめからありようがないはずである。
 文化が進むにしたがって、個人が社会を作り、職業の分化がおこってくると、事情は未開時代とぜんぜん変わってくる。天災による個人の損害は、もはや、その個人だけの迷惑ではすまなくなってくる。村の貯水池や共同水車小屋が破壊されれば、多数の村民は同時にその損害の余響を受けるであろう。
 二十世紀の現代では、日本全体が一つの高等な有機体である。各種の動力を運ぶ電線やパイプやが縦横に交差し、いろいろな交通網がすきまもなくり渡されているありさまは、高等動物の神経や血管と同様である。その神経や血管の一か所に故障がおこれば、その影響はたちまち全体に波及はきゅうするであろう。今度の暴風で畿内きない地方の電信が不通になったために、どれだけの不都合が全国に波及したかを考えてみれば、このことは了解されるであろう。
 これほどだいじな神経や血管であるから、天然の設計になる動物体内では、これらの器官がじつに巧妙なしかけで注意深く保護されているのであるが、一国の神経であり血管である送電線は野天のてんに吹きさらしで、風や雪がちょっとばかり強くれればすぐに切断するのである。市民の栄養を供給する水道は、ちょっとした地震で断絶するのである。もっとも、送電線にしても工学者の計算によってそうとうな風圧を考慮し、若干の安全係数をかけて設計してあるはずであるが、変化のはげしい風圧を静力学的に考え、しかもロビンソン風速計で測った平均風速だけを目安めやすにして勘定したりするようなアカデミックな方法によって作ったものでは、弛張しちょうのはげしい風の息の偽週期的衝撃にたえないのはむしろ当然のことであろう。
 それで、文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実をじゅうぶんに自覚して、そして、平生へいぜいからそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それが、いっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟ひっきょう、そういう天災がきわめてまれにしかおこらないで、ちょうど人間が前車の顛覆てんぷくを忘れたころに、そろそろ後車を引き出すようになるからであろう。
 しかし昔の人間は、過去の経験を大切に保存し、蓄積して、その教えにたよることがはなはだ忠実であった。過去の地震や風害にたえたような場所にのみ集落を保存し、時の試練にたえたような建築様式のみを墨守してきた。それだから、そうした経験にしたがってつくられたものは、関東震災でも多くは助かっているのである。大震後、横浜よこはまから鎌倉かまくらへかけて被害の状況を見学に行ったとき、かの地方の丘陵のふもとをう古い村家そんかが存外平気で残っているのに、田んぼの中に発展した新開地の新式家屋が、ひどくメチャメチャに破壊されているのを見た時につくづくそういうことを考えさせられたのであったが、今度の関西の風害でも、古い神社仏閣などは存外あまりいたまないのに、時の試練を経ない新様式の学校や工場が無残むざんに倒壊してしまったという話を聞いて、いっそうその感を深くしているしだいである。やはり、文明の力をかいかぶって自然をあなどりすぎた結果からそういうことになったのではないかと想像される。新聞の報ずるところによると、さいわいに当局でもこの点に注意して、このさい各種建築被害の比較的研究を徹底的に遂行することになったらしいから、今回のにがい経験がむだになるようなことは万に一つもあるまいと思うが、しかしこれは決して当局者だけに任すべき問題ではなく、国民全体が日常、めいめいに深く留意すべきことであろうと思われる。
 小学校の倒壊のおびただしいのは、じつに不可思議である。ある友人は、国辱こくじょく中の大国辱だと言って憤慨ふんがいしている。ちょっと勘定かんじょうしてみると、普通家屋の全壊一三五に対し学校の全壊一の割合である。じつにおどろくべき比例である。これにはいろいろの理由があるであろうが、要するに、時の試練を経ない造営物が今度の試練でみごとに落第したと見ることはできるであろう。
 小学校建築には政党政治の宿弊しゅくへいに根をひいた不正な施工せこうがつきまとっているというゴシップもあって、小学生を殺したものは○○議員だと皮肉をいうものさえある。あるいはきぬき廊下のせいだという、はなはだ手取てっとばやで、すこしうたがわしい学説もある。あるいはまた、たいがいの学校は周囲が広いあき地にかこまれているために風あたりが強く、そのうえに二階建てであるためにいっそういけないという解釈もある。いずれもほんとうかもしれない。しかしいずれにしても、今度のような烈風の可能性を知らなかった、あるいは忘れていたことが、すべての災厄さいやくの根本原因であることには疑いない。そうしてまた、工事に関係する技術者がわが国特有の気象に関する深い知識を欠き、とおりいっぺんの西洋直伝じきでんの風圧計算のみをたよりにしたためもあるのではないかと想像される。これについては、はなはだ僣越せんえつながらこの際、一般工学者の謙虚けんきょな反省をうながしたいと思うしだいである。天然を相手にする工事では、西洋の工学のみにたよることはできないのではないか、というのが自分の年来の疑いであるからである。
 今度の大阪おおさか高知こうち県東部の災害は、台風による高潮たかしおのためにその惨禍を倍加したようである。まだ、じゅうぶんな調査資料を手にしないから確実なことはいわれないが、もっともひどい損害を受けたおもな区域は、おそらくやはり、明治以後になってから急激に発展した新市街地ではないかと想像される。災害史によると、難波なにわ土佐とさの沿岸は古来、しばしば暴風時の高潮のためになぎたおされた経験をもっている。それで明治以前には、そういう危険のあるような場所には、自然に人間の集落が希薄きはくになっていたのではないかと想像される。古い民家の集落の分布は、一見偶然のようであっても、多くの場合に、そうした進化論的の意義があるからである。そのだいじな深い意義が、あさはかな「教科書学問」の横行のために蹂躙じゅうりんされ、忘却されてしまった。そうして、つけの文明に陶酔とうすいした人間は、もうすっかり天然の支配に成功したとのみ思いあがって、ところきらわず薄弱な家を立てつらね、そうしてまくらを高くして、きたるべき審判の日をうかうかと待っていたのではないかという疑いもこし得られる。もっともこれは単なる想像であるが、しかし、自分が最近に中央線の鉄道を通過した機会に、信州しんしゅう甲州こうしゅうの沿線における暴風被害を瞥見べっけんした結果気のついた一事は、停車場付近の新開町しんかいまちの被害がそうとう多い場所でも、古い昔から土着と思わるる村落の被害が意外に少ないという例の多かったことである。これは、一つには建築様式の相違にもよるであろうが、また一つには、いわゆる地の利によるであろう。旧村落は「自然しぜん淘汰とうた」という時の試練にたえた場所に「適者」として「生存」しているのに反して、停車場というものの位置は気象的条件などということはぜんぜん無視して、官僚的・政治的・経済的な立場からのみり出して決定されているためではないかと思われるからである。
 それはとにかく、今度の風害が「いわゆる非常時」の最後の危機の出現と時を同じゅうしなかったのは、なによりのしあわせであったと思う。これが戦禍せんかと重なり合っておこったとしたらその結果はどうなったであろうか、想像するだけでも恐ろしいことである。弘安こうあん(一二七八〜一二八八)の昔と昭和の今日とでは、世の中が一変していることを忘れてはならないのである。
 戦争は、ぜひともけようと思えば人間の力でけられなくはないであろうが、天災ばかりは、科学の力でもその襲来を中止させるわけにはいかない。そのうえに、いつ、いかなる程度の地震・暴風・津波・洪水こうずいがくるか、今のところ容易に予知することができない。最後さいご通牒つうちょうも何もなしに突然襲来するのである。それだから、国家をおびやかす敵としてこれほど恐ろしい敵はないはずである。もっともこうした天然の敵のためにこうむる損害は、敵国の侵略によっておこるべき被害にくらべて小さいという人があるかもしれないが、それはかならずしもそうは言われない。たとえば安政元年(一八五五)大震たいしんのような大規模のものが襲来すれば、東京から福岡ふくおかにいたるまでのあらゆる大小都市の重要な文化設備が一時におびやかされ、西半日本の神経系統と循環系統にそうとうひどい故障がおこって、有機体としての一国の生活機能にいちじるしい麻痺症状しょうじょう惹起じゃっきするおそれがある。万一にも大都市の水道貯水池の堤防でも決壊すれば、市民がたちまち日々の飲用水にこまるばかりでなく、氾濫はんらんする大量の流水の勢力は、少なくも数村を微塵みじんになぎたおし、多数の犠牲者を出すであろう。水電の堰堤えんてい〔ダム。やぶれても同様な犠牲を生じるばかりか、都市はくらやみになり、肝心な動力網のみなもとが一度にれてしまうことになる。
 こういうこの世の地獄の出現は、歴史の教うるところから判断して決して単なる杞憂きゆうではない。しかも安政年間(一八五五〜一八六〇)には、電信も鉄道も電力網も水道もなかったからさいわいであったが、次におこる「安政地震」には、事情が全然ちがうということを忘れてはならない。
 国家の安全をおびやかす敵国に対する国防策は、現に政府当局のあいだで熱心に研究されているであろうが、ほとんど同じように一国の運命に影響する可能性の豊富な大天災に対する国防策は、政府のどこでだれが研究し、いかなる施設を準備しているか、はなはだ心もとないありさまである。思うに、日本のような特殊な天然の敵を四面にひかえた国では、陸軍・海軍のほかにもう一つ科学的国防の常備軍を設け、日常の研究と訓練によって非常時にそなえるのが当然ではないかと思われる。陸海軍の防備がいかにじゅうぶんであっても、肝心な戦争の最中に安政程度の大地震や今回の台風、あるいはそれ以上のものが軍事に関する首脳の設備に大損害をあたえたら、いったいどういうことになるであろうか。そういうことは、そうめったにないと言って安心していてもよいものであろうか。
 わが国の地震学者や気象学者は従来、かかる国難を予想してしばしば当局と国民とに警告をあたえたはずであるが、当局は目前の政務に追われ、国民はその日の生活にせわしくて、そうした忠言に耳をかすいとまがなかったように見える。まことに遺憾なことである。
 台風の襲来を未然に予知し、その進路とその勢力の消長とを今よりもより確実に予測するためには、どうしても太平洋上ならびに日本海上に若干の観測地点を必要とし、その上にまた、大陸方面からオホーツク海方面までも観測網を広げる必要があるように思われる。しかるに現在では、細長い日本にほん島弧とうこの上に、いわばただ一連の念珠ねんじゅのように観測所の列が分布しているだけである。たとえていわば、奥州おうしゅう街道かいどうからくるか、東海道からくるか、信越線からくるかもしれない敵の襲来にそなえるために、ただ中央線の沿線だけに哨兵しょうへいを置いてあるようなものである。
 新聞記事によると、アメリカでは太平洋上に浮き飛行場を設けて、横断飛行の足がかりにする計画があるということである。うそかもしれないが、しかしアメリカ人にとってはじゅうぶん可能なことである。もし、これが可能とすれば、洋上に浮き観測所の設置ということもあながち学究のえがき出した空中楼閣だとばかりはいわれないであろう。五十年、百年の後にはおそらく常識的になるべき種類のことではないかと想像される。

 人類が進歩するにしたがって、愛国心も大和魂やまとだましいもやはり進化すべきではないかと思う。砲煙ほうえん弾雨の中に、身命をして敵の陣営に突撃するのもたしかにたっと日本魂やまとだましいであるが、○国や△国よりも強い天然の強敵に対して平生へいぜいから国民一致協力して、適当な科学的対策を講ずるのもまた、現代にふさわしい大和魂の進化の一相として期待してしかるべきことではないかと思われる。天災のおこった時に、はじめて大いそぎでそうした愛国心を発揮するのも結構けっこうであるが、昆虫こんちゅうや鳥獣でない二十世紀の科学的文明国民の愛国心の発露には、もうすこしちがった、もうすこし合理的な様式があってしかるべきではないかと思うしだいである。
(昭和九年(一九三四)十一月、『経済往来』


底本:「寺田寅彦随筆集 第五巻」岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年11月20日第1刷発行
   1963(昭和38)年6月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年9月5日第65刷発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
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災難雑考

寺田寅彦


 大垣おおがきの女学校の生徒が、修学旅行で箱根はこねへ来て一泊した翌朝、出発のぎわに監督の先生が記念の写真をとるというので、おおぜいの生徒が渓流けいりゅうに架したつり橋の上にならんだ。すると、つり橋がグラグラゆれだしたのにおどろいて生徒がさわぎたてたので、振動がますますはげしくなり、そのためにつり橋の鋼索こうさく〔ワイヤロープ。たれて、橋は生徒を乗せたまま渓流に墜落し、無残にもおおぜいの死傷者を出したという記事が新聞に出た。これに対する世評も区々で、監督の先生の不注意をせめる人もあれば、そういう抵抗力の弱い橋をかけておいた土地の人を非難する人もあるようである。なるほど、こういう事故がおこった以上は、監督の先生にも土地の人にもぜんぜん責任がないとはいわれないであろう。しかし、考えてみると、この先生と同じことをして無事に写真をとって帰って、生徒やその父兄たちに喜ばれた先生は何人あるかわからないし、この橋よりもっと弱い橋をかけて、そうしてその橋のたえうる最大荷重について、なんの掲示もせずに通行人の自由に放任している町村をよく調べてみたら、日本全国におよそどのくらいあるのか見当がつかない。それで今度のような事件はむしろ、あるいは落雷の災害などと比較されてもいいようなきわめて稀有けうな偶然のなすわざで、たまたま、この気まぐれな偶然のいたずらの犠牲になった生徒たちの不幸はもちろんであるが、その責任を負わされる先生も土地の人も、まことにめずらしい災難に会ったのだというふうに考えられないこともないわけである。
 こういう災難に会った人を、第三者の立場から見て事後にとがめてするほどやさしいことはないが、それならば、とがめる人がはたして自分でそういう種類の災難に会わないだけの用意が完全に周到にできているかというと、かならずしもそうではないのである。
 早い話が、平生へいぜい、地震の研究に関係している人間の目から見ると、日本の国土全体が一つのつり橋の上にかかっているようなもので、しかも、そのつり橋の鋼索こうさく明日あすにも断たれるかもしれないという、かなりな可能性を前にひかえているような気がしないわけにはいかない。来年にも、あるいは明日あすにも、宝永四年(一七〇七)または安政元年(一八五五)のような大規模な広区域地震が突発すれば、箱根はこねのつり橋の墜落とは少しばかり桁数けたすうのちがった損害を、国民・国家全体が背負せおわされなければならないわけである。
 つり橋の場合と地震の場合とは、もちろん話がちがう。つり橋はおおぜいで乗っからなければ落ちないであろうし、また、たえず補強工事をおこたらなければ安全であろうが、地震のほうは人間の注意・不注意には無関係に、おこるものならおこるであろう。
 しかし、「地震の現象」と「地震による災害」とは区別して考えなければならない。現象のほうは人間の力でどうにもならなくても、「災害」のほうは注意しだいでどんなにでも軽減されうる可能性があるのである。そういう見地から見ると、大地震が来たらつぶれるにきまっているような学校や工場の屋根の下におおぜいの人の子を集団させている当事者は、いわば前述の箱根つり橋墜落事件の責任者と親類どうしになってくるのである。ちょっと考えると、ある地方で大地震が数年以内におこるであろうという確率と、あるつり橋にたとえば五十人乗ったためにそれがその場で落ちるという確率とは、桁違けたちがいのように思われるかもしれないが、かならずしもそう簡単には言われないのである。
 最近の例としては台湾たいわんの地震がある。台湾は昔からそうとう烈震れっしんの多い土地で、二十世紀になってからでも、すでに十回ほどは死傷者を出す程度のがおこっている。平均でいえば三年半に一回の割である。それが五年も休止状態にあったのであるから、そろそろまた一つぐらいは、かなりなのが台湾じゅうのどこかに襲ってきてもたいした不思議はないのであって、そのくらいの予言ならば、なにも学者を待たずともできたわけである。しかし、今度おそわれる地方がどの地方で、それが何月何日ごろにあたるであろうということを的確に予知することは今の地震学ではとうてい不可能であるので、そのおかげで台湾島民は烈震がくればかならずつぶれて、つぶれれば圧死する確率のきわめて大きいような泥土でいどの家に安住していたわけである。それでこの際、そういう家屋の存在を認容していた総督府当事者の責任を問うて、とがめたてることもできないことはないかもしれないが、当事者の側からいわせると、またいろいろ無理のない事情があって、この危険な土角トウカツづくりの民家を全廃することはそう容易ではないらしい。なによりも困難なことには、内地のような木造家屋は地震には比較的安全だが、台湾ではすぐに名物のシロアリに食べられてしまうので、その心配がなくて、しかも熱風防御に最適で、そのうえに金のかからぬといういわゆる土角トウカツづくりが、生活程度のきわめて低い土民に重宝がられるのは自然の勢いである。もっとも阿里山ありさん紅桧べにひを使えば、比較的あまりひどくはシロアリに食われないことが近ごろわかってきたが、あいにく、この事実がわかったころには同時にこの肝心の材料がおおかたりつくされてなくなったことがわかったそうである。政府で歳入の帳尻ちょうじりをあわせるために、ムチャクチャにこの材木の使用を宣伝し、奨励して、棺桶かんおけなどにまでこの良材を使わせたせいだ、といううわさもある。これはゴシップではあろうが、とかく明日あすのことはかまわぬがちの現代為政者のしそうなことと思われて、おかしさに涙がこぼれる。それはとにかく、さしあたってそういう土民に鉄筋コンクリートの家を建ててやるわけにもいかないとすれば、なんとかして現在の土角トウカツづくりの長所を保存して、その短所をおぎなうような、しかも費用のあまりかからぬ簡便な建築法を研究してやるのが急務ではないかと思われる。それを研究するにはまず、土角トウカツづくりの家がいかなる順序で、いかに壊れたかをくわしく調べなければならないであろう。もっとも自分などが言うまでもなく、当局者や各方面の専門学者によってそうした研究がすでに着々ちゃくちゃく、合理的に行なわれていることであろうと思われるが、同じようなことは箱根はこねのつり橋についてもいわれる。だれの責任であるとか、ないとかいう、あとの祭りのとがめだてをひらきなおって子細しさいらしくするよりももっともっとだいじなことは、今後、いかにしてそういう災難を少なくするかを慎重に攻究することであろうと思われる。それには、問題のつり橋のどの鋼索こうさくのどのへんが第一に切れて、それから、どういう順序で他の部分が破壊したかという事故の物的経過を災害の現場についてくわしく調べ、その結果を参考して、次の設計の改善に資するのが何よりもいちばんたいせつなことではないかと思われるのである。しかし多くの場合に、責任者に対するとがめだて、それに対する責任者のいちおうの弁解、ないしは引責いんせきというだけでその問題が完全に落着したような気がして、いちばんたいせつな物的調査による後難こうなんの軽減という眼目が忘れられるのが通例のようである。これではまるで、責任というものの概念がどこかへ迷子まいごになってしまうようである。はなはだしい場合になると、なるべくいわゆる「責任者」を出さないように、つまり、だれにもとがわさせないように、実際の事故の原因を押しかくしたり、あるいは見て見ぬふりをして、なにかしらもっともらしい不可抗力によったかのように付会ふかいしてしまって、そうしてその問題を打ち切りにしてしまうようなことが、つり橋事件などよりもっと重大な事件に関しておこなわれた実例が、諸方面にありはしないかという気がする。そうすれば、そのさしあたりの問題はそれで形式的にはおさまりがつくが、それでは、まったく同じような災難があとからあとからいくどでもくり返しておこるのがあたりまえであろう。そういうへいのおこる原因は、つまり責任の問い方が見当をちがえているためではないかと思う。人間にまぬがれぬ過失自身をめるかわりに、その過失を正当につぐなわないことをとがめるようであれば、こんなへいのおこる心配はないはずであろうと思われるのである。
 たとえば、ある工学者がある構造物を設計したのが、その設計に若干の欠陥けっかんがあってそれが倒壊し、そのために人がおおぜい死傷したとする。そうした場合に、その設計者が引責いんせき辞職してしまうか、ないし切腹して死んでしまえば、それでめをふさいだというのは、どうもうそではないかと思われる。その設計の詳細をいちばんよく知っているはずの設計者自身が主任になって、倒壊の原因と経過とを徹底的に調べ上げて、そうして、その失敗をみ台にして徹底的に安全なものをつくりあげるのが、むしろ、ほんとうにめをうゆえんではないかという気がするのである。
 ツェッペリン飛行船などでも、最初から何度となくにがい失敗をかさねたにかかわらず、当の責任者のツェッペリン伯は、決して切腹もしなければ隠居もしなかった。そのおかげでとうとう、いわゆるツェッペリンが物になったのである。もしも彼がかりに、わが日本政府の官吏かんりであったと仮定したら、はたしてどうであったかを考えてみることを、賢明なる本誌読者の消閑しょうかんパズルの題材としてここに提出したいと思うしだいである。
 これに関連したことで、自分が近年でじつに胸のすくほど愉快ゆかいに思ったことが一つある。それは、日本航空輸送会社の旅客飛行機白鳩号しろはとごうというのが、九州の上空で悪天候のために針路を失して山中に迷い込み、どうしたわけか、機体が空中で分解してバラバラになって林中に墜落した事件について、その事故を徹底的に調査する委員会ができて、おおぜいの学者が集まってあらゆる方面から詳細な研究を遂行し、その結果として、このだれ一人目撃者の存しない空中事故の始終の経過がじつによく手にとるようにありありと推測されるようになってきて、事故の第一原因がほとんど的確につきとめられるようになり、したがって将来、同様の原因からふたたび同様な事故をおこすことのないような端的な改良をすべての機体に加えることができるようになったことである。
 この原因をつきとめるまでに、主としてY教授によっておこなわれた研究の経過は、下手へた探偵たんてい小説しょうせつなどの話の筋道よりは、じつにはるかにおもしろいものであった。乗組員は全部墜死ついししてしまい、しかも、事故のおこったよりずっと前から機上よりの無線電信も途絶えていたから、墜落前の状況については、まったくだれ一人知った人はない。しかし、さいわいなことには、墜落現場における機体の破片の散乱した位置がくわしく忠実に記録されていて、そのうえにまた、それら破片の現品がたんねんに当時のままの姿で収集され、そのまま手つかずに保存されていたので、Y教授はそれを全部とりよせて、まず、そのバラバラの骨片こっぺんから機の骸骨がいこつをすっかり組み立てるという仕事にかかった。そうして、その機材の折れ目・れ目をひとつひとつ番号をつけてはしらみつぶしに調べていって、それらの損所の機体における分布の状況や、また、折れ方の種類のいろいろな型を調べあげた。折れた機材どうしが空中でぶつかったときにできたらしいきずあともいちいち丹念たんねんに検査して、どの折片せっぺんが、どういう向きに衝突したであろうかということを確かめるために、そうしたひっかききず蝋形ろうがたを取ったのと、それらしい相手の折片の表面にあるびょうの頭の断面とあわしてみたり、また、びょうの頭にかすかについているペンキを虫めがねで吟味ぎんみしたり、ここいらはすっかりシャーロック・ホームズの行き方であるが、ただ、科学者のY教授が小説に出てくる探偵たんていとちがうのは、このようにして現品調査で見当をつけた考えを、あとからいちいち実験で確かめていったことである。それには、機材とほぼ同様な形をした試片をいろいろに押し曲げてへしおってみて、その折れ口の様子を見てはそれを現品のそれとくらべたりした。その結果として、空中分解の第一歩がどこの折損せっそんから始まり、それからどういう順序で破壊が進行し、同時に、機体が空中でどんな形に変形しつつ、どんなふうに旋転せんてんしつつ墜落していったかということのだいたいの推測がつくようになった。しかしそれでは肝心の事故の第一原因はわからないので、いろいろ調べているうちに、片方の補助翼を操縦する鋼索こうさくの張力を加減するためにつけてあるタンバックル〔ターンバックルか。と称するネジがある。それがもどるのを防ぐために通してある銅線が、一か所切れてネジがぬけていることを発見した。それから考えると、なんらかの原因でこのめの銅線が切れてタンバックルがぬけたために補助翼がブラブラになったことが事故の第一歩と思われた。そこで今度は飛行機翼の模型を作って風洞ふうどうで風を送って試験してみたところが、ある風速以上になると、補助翼をブラブラにした機翼はひどいばたき振動をおこして、そのために支柱がくの字形げられることがわかった。ところが、前述の現品調査の結果でも、まさしくこの支柱が最初に折れたとするとすべてのことが符合するのである。こうなってくるともう、だいたいの経過の見通しがついたわけであるが、ただ大切なタンバックルの留め針金がどうして切れたか、また、ちょっと考えただけではけそうもないネジが、どうして抜け出したかがわからない。そこで今度は、現品と同じ鋼索こうさくとタンバックルの組み合わせをいろいろな条件のもとに週期的に引っぱったりゆるめたりして試験した結果、実際に想像どおりに破壊の過程が進行することを確かめることができたのであった。要するに、たった一本の銅線に生命がつながっていたのに、それをだれも知らずに安心していた。そういう、じつにだいじなことがこれだけの苦心の研究でやっとわかったのである。さて、これがわかった以上、この命の綱をすこしばかり強くすれば、今後は少なくもこの同じ原因からおこる事故だけは、もう絶対になくなるわけである。
 この点でも、科学者の仕事と探偵たんていの仕事とはすこしちがうようである。探偵は罪人を見つけ出しても、将来の同じ犯罪をなくすることはむつかしそうである。
 しかし、飛行機を墜落させる原因になる「罪人」は数々あるので、科学的探偵の目こぼしになっているのがまだ、どれほどあるか見当はつかない。それがたくさんあるらしいと思わせるのは、時によるとじつに頻繁ひんぱんに新聞で報ぜられる飛行機墜落事故の継起けいきである。もっとも、非常時の陸海軍では民間飛行の場合などとちがって、軍機の制約からくるいろいろなみがたい事情のために事故の確率が多くなるのは当然かもしれないが、いずれにしても、なろうことならすべての事故の徹底的調査をして真相をあきらかにし、そうして後難こうなんをなくするということは、新しい飛行機の数を増すと同様にきわめて必要なことであろうと思われる。これはまた飛行機にかぎらず、あらゆる国防の機関についても同様にいわれることである。もちろん当局でも、そのへんに遺漏いろうのあるはずはないが、しかし一般世間では、どうかすると誤った責任観念からいろいろの災難事故の真因が抹殺まっさつされ、そのおかげで表面上の責任者は出ないかわりに、同じ原因による事故の犠牲者が跡をたないということがめずらしくないようで、これは困ったことだと思われる。これでは犠牲者はまったくかばれない。伝染病患者を内緒ないしょにしておけば患者がふえる。あれと似たようなものであろう。
 こうは言うものの、またよくよく考えてみていると、災難の原因を徹底的に調べてその真相をあきらかにして、それを一般に知らせさえすれば、それでその災難はこの世に跡をつというような考えは、ほんとうの世の中を知らない人間の、机上の空想にすぎないではないかという疑いもおこってくるのである。
 早い話が、むやみに人殺しをすれば後には自分もたいがいは間違いなく処刑されるということは、ずいぶん昔からよくだれにも知られているにかかわらず、いつになっても、自分では死にたくない人で人殺しをするものの種がつきない。若い時分に大酒をのんでムチャな不養生をすれば、頭やからだを痛めて年とってから難儀なんぎすることは明白でも、そうして自分にまいた種の収穫時に後悔しない人はまれである。
 大津波がくると、ひと息に洗い去られて生命・財産ともに泥水どろみずの底にうめられるにきまっている場所でも、繁華な市街が発達して何十万人の集団が利権の争闘に夢中になる。いつるかもわからない津波の心配よりも、明日あすの米びつの心配のほうがより現実的であるからであろう。生きているうちに一度でも金をもうけて三日でも栄華の夢を見さえすれば、津波にさらわれても遺憾はないという、そういう人生観をいだいた人たちがそういう市街を造って集落するのかもしれない。それをめだてするというのがいいかどうか、いいとしてもそれが実行可能かどうか、それは、なかなか容易ならぬむつかしい問題である。ことによると、このような人間の動きを人間の力でとめたりそらしたりするのは、天体の運行を勝手にしようとするよりもいっそう難儀なんぎなことであるかもしれないのである。
 また一方では、こういう話がある。ある遠い国の炭鉱では、鉱山主が爆発防止の設備をおこたってじゅうぶんにしていない。監督官が検査にくると、現に掘っている坑道こうどうはふさいで廃坑だということにして見せないで、検査に及第する坑だけ見せる。それで検閲はパスするが、ときどき爆発がおこるというのである。真偽は知らないが可能なことではある。
 こういうふうに考えてくると、あらゆる災難は一見不可抗的のようであるがじつは人為的のもので、したがって、科学の力によって人為的にいくらでも軽減しうるものだという考えをもういっぺんひっくり返して、結局災難は生じやすいのに、それが人為的であるがためにかえって人間というものを支配する不可抗な法則の支配を受けて不可抗なものであるという、奇妙なまわりくどい結論に到達しなければならないことになるかもしれない。
 理屈はぬきにして、古今東西を通ずる歴史という歴史がほとんどあらゆる災難の歴史であるという事実から見て、今後すくなくも二千年や三千年は、昔からあらゆる災難を根気よくくり返すものと見ても、たいした間違いはないと思われる。すくなくも、それが一つの科学的宿命観でありうるわけである。
 もしもこのように、災難の普遍性・恒久性が事実であり天然の法則であるとすると、われわれは「災難の進化論的意義」といったような問題に行きあたらないわけにはいかなくなる。ひらたく言えば、われわれ人間はこうした災難に養いはぐくまれて育ってきたものであって、ちょうど野菜や鳥獣魚肉を食って育ってきたと同じように、災難を食って生き残ってきた種族であって、野菜や肉類がなくなれば死滅しなければならないように、災難がなくなったらたちまち「災難さいなん飢餓きが」のために死滅すべき運命におかれているのではないか、という変わった心配もおこしられるのではないか。
 古いシナ人の言葉で「艱難かんなんなんじを玉にす」といったようなぐさがあったようであるが、これは進化論以前のものである。植物でも少しいじめないと花実をつけないものが多いし、ゾウリ虫パラメキウムなどでも、あまり天下泰平だと分裂生殖が終息して死滅するが、汽車にでも乗せてすこしゆさぶってやると復活する。このように、虐待ぎゃくたい繁盛はんじょうのホルモン、災難は生命の醸母じょうぼであるとすれば、地震もけっこう、台風も歓迎、戦争も悪疫あくえき礼賛らいさんに値するのかもしれない。
 日本の国土なども、この点ではそうとう恵まれているほうかもしれない。うまいぐあいに、世界的に有名なタイフーンのいつも通る道筋に並行して島弧とうこが長く延長しているので、たいていの台風はひっかかるようなしかけにできている。また、大陸塊の縁辺のちぎれの上に乗っかって、前には深い海溝かいこうをひかえているおかげで、地震や火山の多いことはまず世界じゅうのたいがいの地方にひけはとらないつもりである。そのうえに、冬のモンスーンは火事をあおり、春の不連続線は山火事をたきつけ、夏の山水美はまさしく雷雨の醸成じょうせいに適し、秋の野分のわきは稲の花時はなどき・刈り入れ時をねらってくるようである。日本人を日本人にしたのは、じつは学校でも文部省でもなくて、神代かみよから今日まで根気よく続けられてきた、この災難教育であったかもしれない。もしそうだとすれば、科学の力をかりて災難の防止をくわだて、このせっかくの教育の効果をいくぶんでも減殺げんさいしようとするのは考えものであるかもしれないが、幸か不幸か今のところまず、その心配はなさそうである。いくら科学者が防止法を発見しても、政府はそのままにそれを採用実行することが決してできないように、また一般民衆はいっこうそんなことには頓着とんちゃくしないように、ちゃんと世の中ができているらしく見えるからである。
 植物や動物はたいてい人間よりも年長者で、人間時代以前からの教育を忠実に守っているからかえって災難を予想してこれにそなえることを心得ているか、すくなくも、みずから求めて災難を招くようなことはしないようであるが、人間は先祖のアダムが知恵の木の実を食ったおかげで数万年来受けてきた教育をバカにすることをおぼえたために、新しいいくぶんの災難をたくさん背負せおい込み、目下、その新しい災難から初歩の教育を受け始めたような形である。これからの修行が何十世紀かかるか、これはだれにも見当がつかない。
 災難は日本ばかりとはかぎらないようである。おとなりのアメリカでも、たまにはそうとうな大地震があり、大山火事があるし、時にまた日本にはあまりない「熱波」「寒波」の襲来を受けるほかに、かなりしばしば猛烈な大旋風トルネードにひっかきまわされる。たとえば一九三四年の統計によると総計一一四回のトルネードに見舞われ、その損害額三八三万三〇〇〇ドル、死者四十名であったそうである。北米大陸では、大山脈が南北に走っているためにこうした特異な現象に富んでいるそうで、この点、欧州よりは少なくも一つだけ多くの災害の種に恵まれているわけである。北米の南方では、わがタイフーンのかわりにその親類のハリケーンを享有きょうゆうしているから、ますます心強いわけである。
 西北隣のロシア・シベリアではあいにく地震も噴火も台風もないようであるが、そのかわりに海をとざす氷と、人馬を窒息させる吹雪ふぶきと、大地の底までこおらせる寒さがあり、また、年をこえて燃える野火がある。決して負けてはいないようである。
 中華民国には地方によってはまれに大地震もあり大洪水だいこうずいもあるようであるが、しかし、あの厖大ぼうだいなシナの主要な国土の大部分は、気象的にも地球物理的にも比較的にきわめて平穏へいおんな条件のもとにおかれているようである。そのめ合わせというわけでもないかもしれないが、昔からそうとうに戦乱が頻繁ひんぱんで主権の興亡盛衰のテンポがあわただしく、そのうえに、あくどい暴政の跳梁ちょうりょうのために、庶民しょみん安堵あんどするいとまが少ないように見える。
 災難にかけては、まことに万里ばんり同風どうふうである。浜の真砂まさご磨滅まめつしてどろになり、野の雑草の種族が絶えるまでは、災難の種もつきないというのが自然界・人間界の事実であるらしい。
 雑草といえば、野山に自生する草で、何かの薬にならぬものはまれである。いつか『朝日グラフ』に、いろいろな草の写真とその草の薬効とが満載されているのを見て、じつに不思議な気がした。たいがいの草は何かの薬であり、薬でない草をさがすほうが骨が折れそうに見えるのである。しかしよく考えてみると、これは何も神さまが人間の役に立つためにこんないろいろの薬草をこしらえてくれたのではなくて、これらの天然の植物にはぐくまれ、ちょうど、そういうものの成分になっているアルカロイドなどが薬になるようなふうに適応してきた動物からだんだんに進化してきたのが人間だと思えば、たいした不思議ではなくなるわけである。
 同じようなわけで、たいがいの災難でも、なにかの薬にならないというのはまれなのかもしれないが、ただ、薬も分量を誤れば毒になるように、災難も度がすぎると個人を殺し、国をほろぼすことがあるかもしれないから、あまり無制限に災難歓迎を標榜ひょうぼうするのも考えものである。
 以上のような進化論的災難観とは少しばかり見地をかえた、優生学ゆうせいがく的災難論といったようなものもできるかもしれない。災難を予知したり、あるいは、いつ災難がきてもいいように防備のできているような種類の人間だけが災難を生き残り、そういう「ノア」の子孫だけが繁殖すれば、知恵の動物としての人間の品質はいやでもだんだん高まっていく一方であろう。こういう意味で災難は、優良種を選択する試験のメンタルテストであるかもしれない。そうだとすると、逆に災難をなくすればなくするほど人間の頭の働きは平均してにぶいほうに移ってゆく勘定である。それで、人間の頭脳の最高水準をしだいに引き下げて、かしこい人間やえらい人間をなくしてしまって、四海しかい兄弟けいていみんな凡庸ぼんような人間ばかりになったというユートピアを夢みる人たちには、徹底的な災難防止がなによりの急務であろう。ただ、それに対して一つの心配することは、最高水準を下げると同時に最低水準も下がるというのは自然の変異ヴェリエーション〔バリエーションか。の法則であるから、このユートピアンの努力の結果は、つまり人間をしだいに類人猿るいじんえんの方向にみちびくということになるかもしれないということである。
 いろいろと持ってまわって考えてみたが、以上のような考察からは、結局なんの結論も出ないようである。このまとまらない考察の一つの収穫は、今まで自分など机上で考えていたような楽観的な科学的災害防止可能論に対する一抹いちまつの懐疑である。この疑いを解くべきカギはまだ見つからない。これについて読者の示教しきょうをあおぐことができればさいわいである。
(昭和十年(一九三五)七月、『中央公論』


底本:「寺田寅彦随筆集 第五巻」岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年11月20日第1刷発行
   1963(昭和38)年6月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年9月5日第65刷発行
入力:(株)モモ
校正:多羅尾伴内
2003年11月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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津浪と人間

寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)片端から薙《な》ぎ倒し

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 昭和八年三月三日の早朝に、東北日本の太平洋岸に津浪が襲来して、沿岸の小都市村落を片端から薙《な》ぎ倒し洗い流し、そうして多数の人命と多額の財物を奪い去った。明治二十九年六月十五日の同地方に起ったいわゆる「三陸大津浪」とほぼ同様な自然現象が、約満三十七年後の今日再び繰返されたのである。
 同じような現象は、歴史に残っているだけでも、過去において何遍となく繰返されている。歴史に記録されていないものがおそらくそれ以上に多数にあったであろうと思われる。現在の地震学上から判断される限り、同じ事は未来においても何度となく繰返されるであろうということである。
 こんなに度々繰返される自然現象ならば、当該地方の住民は、とうの昔に何かしら相当な対策を考えてこれに備え、災害を未然に防ぐことが出来ていてもよさそうに思われる。これは、この際誰しもそう思うことであろうが、それが実際はなかなかそうならないというのがこの人間界の人間的自然現象であるように見える。
 学者の立場からは通例次のように云われるらしい。「この地方に数年あるいは数十年ごとに津浪の起るのは既定の事実である。それだのにこれに備うる事もせず、また強い地震の後には津浪の来る恐れがあるというくらいの見やすい道理もわきまえずに、うかうかしているというのはそもそも不用意千万なことである。」
 しかしまた、罹災者《りさいしゃ》の側に云わせれば、また次のような申し分がある。「それほど分かっている事なら、何故津浪の前に間に合うように警告を与えてくれないのか。正確な時日に予報出来ないまでも、もうそろそろ危ないと思ったら、もう少し前にそう云ってくれてもいいではないか、今まで黙っていて、災害のあった後に急にそんなことを云うのはひどい。」
 すると、学者の方では「それはもう十年も二十年も前にとうに警告を与えてあるのに、それに注意しないからいけない」という。するとまた、罹災民は「二十年も前のことなどこのせち辛い世の中でとても覚えてはいられない」という。これはどちらの云い分にも道理がある。つまり、これが人間界の「現象」なのである。
 災害直後時を移さず政府各方面の官吏、各新聞記者、各方面の学者が駆付けて詳細な調査をする。そうして周到な津浪災害予防案が考究され、発表され、その実行が奨励されるであろう。
 さて、それから更に三十七年経ったとする。その時には、今度の津浪を調べた役人、学者、新聞記者は大抵もう故人となっているか、さもなくとも世間からは隠退している。そうして、今回の津浪の時に働き盛り分別盛りであった当該地方の人々も同様である。そうして災害当時まだ物心のつくか付かぬであった人達が、その今から三十七年後の地方の中堅人士となっているのである。三十七年と云えば大して長くも聞こえないが、日数にすれば一万三千五百五日である。その間に朝日夕日は一万三千五百五回ずつ平和な浜辺の平均水準線に近い波打際を照らすのである。津浪に懲りて、はじめは高い処だけに住居を移していても、五年たち、十年たち、十五年二十年とたつ間には、やはりいつともなく低い処を求めて人口は移って行くであろう。そうして運命の一万数千日の終りの日が忍びやかに近づくのである。鉄砲の音に驚いて立った海猫が、いつの間にかまた寄って来るのと本質的の区別はないのである。
 これが、二年、三年、あるいは五年に一回はきっと十数メートルの高波が襲って来るのであったら、津浪はもう天変でも地異でもなくなるであろう。
 風雪というものを知らない国があったとする、年中気温が摂氏二十五度を下がる事がなかったとする。それがおおよそ百年に一遍くらいちょっとした吹雪《ふぶき》があったとすると、それはその国には非常な天災であって、この災害はおそらく我邦の津浪に劣らぬものとなるであろう。何故かと云えば、風のない国の家屋は大抵少しの風にも吹き飛ばされるように出来ているであろうし、冬の用意のない国の人は、雪が降れば凍《こご》えるに相違ないからである。それほど極端な場合を考えなくてもよい。いわゆる颱風《たいふう》なるものが三十年五十年、すなわち日本家屋の保存期限と同じ程度の年数をへだてて襲来するのだったら結果は同様であろう。
 夜というものが二十四時間ごとに繰返されるからよいが、約五十年に一度、しかも不定期に突然に夜が廻り合せてくるのであったら、その時に如何なる事柄が起るであろうか。おそらく名状の出来ない混乱が生じるであろう。そうしてやはり人命財産の著しい損失が起らないとは限らない。
 さて、個人が頼りにならないとすれば、政府の法令によって永久的の対策を設けることは出来ないものかと考えてみる。ところが、国は永続しても政府の役人は百年の後には必ず入れ代わっている。役人が代わる間には法令も時々は代わる恐れがある。その法令が、無事な一万何千日間の生活に甚だ不便なものである場合は猶更《なおさら》そうである。政党内閣などというものの世の中だと猶更そうである。
 災害記念碑を立てて永久的警告を残してはどうかという説もあるであろう。しかし、はじめは人目に付きやすい処に立ててあるのが、道路改修、市区改正等の行われる度にあちらこちらと移されて、おしまいにはどこの山蔭の竹藪の中に埋もれないとも限らない。そういう時に若干の老人が昔の例を引いてやかましく云っても、例えば「市会議員」などというようなものは、そんなことは相手にしないであろう。そうしてその碑石が八重葎《やえむぐら》に埋もれた頃に、時分はよしと次の津浪がそろそろ準備されるであろう。
 昔の日本人は子孫のことを多少でも考えない人は少なかったようである。それは実際いくらか考えばえがする世の中であったからかもしれない。それでこそ例えば津浪を戒める碑を建てておいても相当な利き目があったのであるが、これから先の日本ではそれがどうであるか甚だ心細いような気がする。二千年来伝わった日本人の魂でさえも、打砕いて夷狄《いてき》の犬に喰わせようという人も少なくない世の中である。一代前の云い置きなどを歯牙《しが》にかける人はありそうもない。
 しかし困ったことには「自然」は過去の習慣に忠実である。地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執念深くやって来るのである。紀元前二十世紀にあったことが紀元二十世紀にも全く同じように行われるのである。科学の方則とは畢竟《ひっきょう》「自然の記憶の覚え書き」である。自然ほど伝統に忠実なものはないのである。
 それだからこそ、二十世紀の文明という空虚な名をたのんで、安政の昔の経験を馬鹿にした東京は大正十二年の地震で焼払われたのである。
 こういう災害を防ぐには、人間の寿命を十倍か百倍に延ばすか、ただしは地震津浪の週期を十分の一か百分の一に縮めるかすればよい。そうすれば災害はもはや災害でなく五風十雨の亜類となってしまうであろう。しかしそれが出来ない相談であるとすれば、残る唯一の方法は人間がもう少し過去の記録を忘れないように努力するより外はないであろう。
 科学が今日のように発達したのは過去の伝統の基礎の上に時代時代の経験を丹念に克明に築き上げた結果である。それだからこそ、颱風が吹いても地震が揺《ゆす》ってもびくとも動かぬ殿堂が出来たのである。二千年の歴史によって代表された経験的基礎を無視して他所《よそ》から借り集めた風土に合わぬ材料で建てた仮小屋のような新しい哲学などはよくよく吟味しないと甚だ危ないものである。それにもかかわらず、うかうかとそういうものに頼って脚下の安全なものを棄てようとする、それと同じ心理が、正しく地震や津浪の災害を招致する、というよりはむしろ、地震や津浪から災害を製造する原動力になるのである。
 津浪の恐れのあるのは三陸沿岸だけとは限らない、寛永安政の場合のように、太平洋沿岸の各地を襲うような大がかりなものが、いつかはまた繰返されるであろう。その時にはまた日本の多くの大都市が大規模な地震の活動によって将棋倒しに倒される「非常時」が到来するはずである。それはいつだかは分からないが、来ることは来るというだけは確かである。今からその時に備えるのが、何よりも肝要である。
 それだから、今度の三陸の津浪は、日本全国民にとっても人ごとではないのである。
 しかし、少数の学者や自分のような苦労症の人間がいくら骨を折って警告を与えてみたところで、国民一般も政府の当局者も決して問題にはしない、というのが、一つの事実であり、これが人間界の自然方則であるように見える。自然の方則は人間の力では枉《ま》げられない。この点では人間も昆虫も全く同じ境界《きょうがい》にある。それで吾々も昆虫と同様明日の事など心配せずに、その日その日を享楽して行って、一朝天災に襲われれば綺麗にあきらめる。そうして滅亡するか復興するかはただその時の偶然の運命に任せるということにする外はないという棄《す》て鉢《ばち》の哲学も可能である。
 しかし、昆虫はおそらく明日に関する知識はもっていないであろうと思われるのに、人間の科学は人間に未来の知識を授ける。この点はたしかに人間と昆虫とでちがうようである。それで日本国民のこれら災害に関する科学知識の水準をずっと高めることが出来れば、その時にはじめて天災の予防が可能になるであろうと思われる。この水準を高めるには何よりも先ず、普通教育で、もっと立入った地震津浪の知識を授ける必要がある。英独仏などの科学国の普通教育の教材にはそんなものはないと云う人があるかもしれないが、それは彼地には大地震大津浪が稀なためである。熱帯の住民が裸体《はだか》で暮しているからと云って寒い国の人がその真似をする謂《い》われはないのである。それで日本のような、世界的に有名な地震国の小学校では少なくも毎年一回ずつ一時間や二時間くらい地震津浪に関する特別講演があっても決して不思議はないであろうと思われる。地震津浪の災害を予防するのはやはり学校で教える「愛国」の精神の具体的な発現方法の中でも最も手近で最も有効なものの一つであろうと思われるのである。
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(追記) 三陸災害地を視察して帰った人の話を聞いた。ある地方では明治二十九年の災害記念碑を建てたが、それが今では二つに折れて倒れたままになってころがっており、碑文などは全く読めないそうである。またある地方では同様な碑を、山腹道路の傍で通行人の最もよく眼につく処に建てておいたが、その後新道が別に出来たために記念碑のある旧道は淋《さび》れてしまっているそうである。それからもう一つ意外な話は、地震があってから津浪の到着するまでに通例数十分かかるという平凡な科学的事実を知っている人が彼地方に非常に稀だということである。前の津浪に遭った人でも大抵そんなことは知らないそうである。
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[#地から1字上げ](昭和八年五月『鉄塔』)



底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店
   1997(平成9)年6月5日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
初出:「鉄塔」
   1933(昭和8)年5月1日
※初出時の署名は「尾野倶郎」。
※単行本「蒸発皿」に収録。
※「正確な時日に」の「に」には編集部によって〔は〕の注記がついています。
入力:砂場清隆
校正:多羅尾伴内
2003年10月23日作成
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天災と国防

寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)揺曳《ようえい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)宗教的|畏怖《いふ》の

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(例)[#地から3字上げ](昭和九年十一月、経済往来)
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「非常時」というなんとなく不気味なしかしはっきりした意味のわかりにくい言葉がはやりだしたのはいつごろからであったか思い出せないが、ただ近来何かしら日本全国土の安寧を脅かす黒雲のようなものが遠い水平線の向こう側からこっそりのぞいているらしいという、言わば取り止めのない悪夢のような不安の陰影が国民全体の意識の底層に揺曳《ようえい》していることは事実である。そうして、その不安の渦巻《うずまき》の回転する中心点はと言えばやはり近き将来に期待される国際的折衝の難関であることはもちろんである。
 そういう不安をさらにあおり立てでもするように、ことしになってからいろいろの天変地異が踵《くびす》を次いでわが国土を襲い、そうしておびただしい人命と財産を奪ったように見える。あの恐ろしい函館《はこだて》の大火や近くは北陸地方の水害の記憶がまだなまなましいうちに、さらに九月二十一日の近畿《きんき》地方大風水害が突発して、その損害は容易に評価のできないほど甚大《じんだい》なものであるように見える。国際的のいわゆる「非常時」は、少なくも現在においては、無形な実証のないものであるが、これらの天変地異の「非常時」は最も具象的な眼前の事実としてその惨状を暴露しているのである。
 一家のうちでも、どうかすると、直接の因果関係の考えられないようないろいろな不幸が頻発《ひんぱつ》することがある。すると人はきっと何かしら神秘的な因果応報の作用を想像して祈祷《きとう》や厄払《やくばら》いの他力にすがろうとする。国土に災禍の続起する場合にも同様である。しかし統計に関する数理から考えてみると、一家なり一国なりにある年は災禍が重畳しまた他の年には全く無事な回り合わせが来るということは、純粋な偶然の結果としても当然期待されうる「自然変異《ナチュラルフラクチュエーション》」の現象であって、別に必ずしも怪力乱神を語るには当たらないであろうと思われる。悪い年回りはむしろいつかは回って来るのが自然の鉄則であると覚悟を定めて、良い年回りの間に充分の用意をしておかなければならないということは、実に明白すぎるほど明白なことであるが、またこれほど万人がきれいに忘れがちなこともまれである。もっともこれを忘れているおかげで今日を楽しむことができるのだという人があるかもしれないのであるが、それは個人めいめいの哲学に任せるとして、少なくも一国の為政の枢機に参与する人々だけは、この健忘症に対する診療を常々怠らないようにしてもらいたいと思う次第である。
 日本はその地理的の位置がきわめて特殊であるために国際的にも特殊な関係が生じいろいろな仮想敵国に対する特殊な防備の必要を生じると同様に、気象学的地球物理学的にもまたきわめて特殊な環境の支配を受けているために、その結果として特殊な天変地異に絶えず脅かされなければならない運命のもとに置かれていることを一日も忘れてはならないはずである。
 地震津波台風のごとき西欧文明諸国の多くの国々にも全然無いとは言われないまでも、頻繁《ひんぱん》にわが国のように劇甚《げきじん》な災禍を及ぼすことははなはだまれであると言ってもよい。わが国のようにこういう災禍の頻繁であるということは一面から見ればわが国の国民性の上に良い影響を及ぼしていることも否定し難いことであって、数千年来の災禍の試練によって日本国民特有のいろいろな国民性のすぐれた諸相が作り上げられたことも事実である。
 しかしここで一つ考えなければならないことで、しかもいつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。
 人類がまだ草昧《そうまい》の時代を脱しなかったころ、がんじょうな岩山の洞窟《どうくつ》の中に住まっていたとすれば、たいていの地震や暴風でも平気であったろうし、これらの天変によって破壊さるべきなんらの造営物をも持ち合わせなかったのである。もう少し文化が進んで小屋を作るようになっても、テントか掘っ立て小屋のようなものであって見れば、地震にはかえって絶対安全であり、またたとえ風に飛ばされてしまっても復旧ははなはだ容易である。とにかくこういう時代には、人間は極端に自然に従順であって、自然に逆らうような大それた企ては何もしなかったからよかったのである。
 文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた。そうして、重力に逆らい、風圧水力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうしてあっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻《おり》を破った猛獣の大群のように、自然があばれ出して高楼を倒壊せしめ堤防を崩壊《ほうかい》させて人命を危うくし財産を滅ぼす。その災禍を起こさせたもとの起こりは天然に反抗する人間の細工であると言っても不当ではないはずである、災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやが上にも災害を大きくするように努力しているものはたれあろう文明人そのものなのである。
 もう一つ文明の進歩のために生じた対自然関係の著しい変化がある。それは人間の団体、なかんずくいわゆる国家あるいは国民と称するものの有機的結合が進化し、その内部機構の分化が著しく進展して来たために、その有機系のある一部の損害が系全体に対してはなはだしく有害な影響を及ぼす可能性が多くなり、時には一小部分の傷害が全系統に致命的となりうる恐れがあるようになったということである。
 単細胞動物のようなものでは個体を切断しても、各片が平気で生命を持続することができるし、もう少し高等なものでも、肢節《しせつ》を切断すれば、その痕跡《こんせき》から代わりが芽を吹くという事もある。しかし高等動物になると、そういう融通がきかなくなって、針一本でも打ち所次第では生命を失うようになる。
 先住アイヌが日本の大部に住んでいたころにたとえば大正十二年の関東大震か、今度の九月二十一日のような台風が襲来したと想像してみる。彼らの宗教的|畏怖《いふ》の念はわれわれの想像以上に強烈であったであろうが、彼らの受けた物質的損害は些細《ささい》なものであったに相違ない。前にも述べたように彼らの小屋にとっては弱震も烈震も効果においてたいした相違はないであろうし、毎秒二十メートルの風も毎秒六十メートルの風もやはり結果においてほぼ同等であったろうと想像される。そうして、野生の鳥獣が地震や風雨に堪えるようにこれら未開の民もまた年々歳々の天変を案外楽にしのいで種族を維持して来たに相違ない。そうして食物も衣服も住居もめいめいが自身の労力によって獲得するのであるから、天災による損害は結局各個人めいめいの損害であって、その回復もまためいめいの仕事であり、まためいめいの力で回復し得られないような損害は始めからありようがないはずである。
 文化が進むに従って個人が社会を作り、職業の分化が起こって来ると事情は未開時代と全然変わって来る。天災による個人の損害はもはやその個人だけの迷惑では済まなくなって来る。村の貯水池や共同水車小屋が破壊されれば多数の村民は同時にその損害の余響を受けるであろう。
 二十世紀の現代では日本全体が一つの高等な有機体である。各種の動力を運ぶ電線やパイプやが縦横に交差し、いろいろな交通網がすきまもなく張り渡されているありさまは高等動物の神経や血管と同様である。その神経や血管の一か所に故障が起こればその影響はたちまち全体に波及するであろう。今度の暴風で畿内《きない》地方の電信が不通になったために、どれだけの不都合が全国に波及したかを考えてみればこの事は了解されるであろう。
 これほどだいじな神経や血管であるから天然の設計に成る動物体内ではこれらの器官が実に巧妙な仕掛けで注意深く保護されているのであるが、一国の神経であり血管である送電線は野天に吹きさらしで風や雪がちょっとばかりつよく触れればすぐに切断するのである。市民の栄養を供給する水道はちょっとした地震で断絶するのである。もっとも、送電線にしても工学者の計算によって相当な風圧を考慮し若干の安全係数をかけて設計してあるはずであるが、変化のはげしい風圧を静力学的に考え、しかもロビンソン風速計で測った平均風速だけを目安にして勘定したりするようなアカデミックな方法によって作ったものでは、弛張《しちょう》のはげしい風の息の偽週期的衝撃に堪えないのはむしろ当然のことであろう。
 それで、文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟《ひっきょう》そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顛覆《てんぷく》を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。
 しかし昔の人間は過去の経験を大切に保存し蓄積してその教えにたよることがはなはだ忠実であった。過去の地震や風害に堪えたような場所にのみ集落を保存し、時の試練に堪えたような建築様式のみを墨守して来た。それだからそうした経験に従って造られたものは関東震災でも多くは助かっているのである。大震後|横浜《よこはま》から鎌倉《かまくら》へかけて被害の状況を見学に行ったとき、かの地方の丘陵のふもとを縫う古い村家が存外平気で残っているのに、田んぼの中に発展した新開地の新式家屋がひどくめちゃめちゃに破壊されているのを見た時につくづくそういう事を考えさせられたのであったが、今度の関西の風害でも、古い神社仏閣などは存外あまりいたまないのに、時の試練を経ない新様式の学校や工場が無残に倒壊してしまったという話を聞いていっそうその感を深くしている次第である。やはり文明の力を買いかぶって自然を侮り過ぎた結果からそういうことになったのではないかと想像される。新聞の報ずるところによると幸いに当局でもこの点に注意してこの際各種建築被害の比較的研究を徹底的に遂行することになったらしいから、今回の苦《にが》い経験がむだになるような事は万に一つもあるまいと思うが、しかしこれは決して当局者だけに任すべき問題ではなく国民全体が日常めいめいに深く留意すべきことであろうと思われる。
 小学校の倒壊のおびただしいのは実に不可思議である。ある友人は国辱中の大国辱だと言って憤慨している。ちょっと勘定してみると普通家屋の全壊百三十五に対し学校の全壊一の割合である。実に驚くべき比例である。これにはいろいろの理由があるであろうが、要するに時の試練を経ない造営物が今度の試練でみごとに落第したと見ることはできるであろう。
 小学校建築には政党政治の宿弊に根を引いた不正な施工がつきまとっているというゴシップもあって、小学生を殺したものは○○議員だと皮肉をいうものさえある。あるいは吹き抜き廊下のせいだというはなはだ手取り早で少し疑わしい学説もある。あるいはまた大概の学校は周囲が広い明き地に囲まれているために風当たりが強く、その上に二階建てであるためにいっそういけないという解釈もある。いずれもほんとうかもしれない。しかしいずれにしても、今度のような烈風の可能性を知らなかったあるいは忘れていたことがすべての災厄《さいやく》の根本原因である事には疑いない。そうしてまた、工事に関係する技術者がわが国特有の気象に関する深い知識を欠き、通り一ぺんの西洋|直伝《じきでん》の風圧計算のみをたよりにしたためもあるのではないかと想像される。これについてははなはだ僣越《せんえつ》ながらこの際一般工学者の謙虚な反省を促したいと思う次第である。天然を相手にする工事では西洋の工学のみにたよることはできないのではないかというのが自分の年来の疑いであるからである。
 今度の大阪《おおさか》や高知《こうち》県東部の災害は台風による高潮のためにその惨禍を倍加したようである。まだ充分な調査資料を手にしないから確実なことは言われないが、最もひどい損害を受けたおもな区域はおそらくやはり明治以後になってから急激に発展した新市街地ではないかと想像される。災害史によると、難波《なにわ》や土佐《とさ》の沿岸は古来しばしば暴風時の高潮のためになぎ倒された経験をもっている。それで明治以前にはそういう危険のあるような場所には自然に人間の集落が希薄になっていたのではないかと想像される。古い民家の集落の分布は一見偶然のようであっても、多くの場合にそうした進化論的の意義があるからである。そのだいじな深い意義が、浅薄な「教科書学問」の横行のために蹂躙《じゅうりん》され忘却されてしまった。そうして付け焼き刃の文明に陶酔した人間はもうすっかり天然の支配に成功したとのみ思い上がって所きらわず薄弱な家を立て連ね、そうして枕《まくら》を高くしてきたるべき審判の日をうかうかと待っていたのではないかという疑いも起こし得られる。もっともこれは単なる想像であるが、しかし自分が最近に中央線の鉄道を通過した機会に信州《しんしゅう》や甲州《こうしゅう》の沿線における暴風被害を瞥見《べっけん》した結果気のついた一事は、停車場付近の新開町の被害が相当多い場所でも古い昔から土着と思わるる村落の被害が意外に少ないという例の多かった事である。これは、一つには建築様式の相違にもよるであろうが、また一つにはいわゆる地の利によるであろう。旧村落は「自然淘汰《しぜんとうた》」という時の試練に堪えた場所に「適者」として「生存」しているのに反して、停車場というものの位置は気象的条件などということは全然無視して官僚的政治的経済的な立場からのみ割り出して決定されているためではないかと思われるからである。
 それはとにかく、今度の風害が「いわゆる非常時」の最後の危機の出現と時を同じゅうしなかったのは何よりのしあわせであったと思う。これが戦禍と重なり合って起こったとしたらその結果はどうなったであろうか、想像するだけでも恐ろしいことである。弘安《こうあん》の昔と昭和の今日とでは世の中が一変していることを忘れてはならないのである。
 戦争はぜひとも避けようと思えば人間の力で避けられなくはないであろうが、天災ばかりは科学の力でもその襲来を中止させるわけには行かない。その上に、いついかなる程度の地震暴風津波|洪水《こうずい》が来るか今のところ容易に予知することができない。最後通牒《さいごつうちょう》も何もなしに突然襲来するのである。それだから国家を脅かす敵としてこれほど恐ろしい敵はないはずである。もっともこうした天然の敵のためにこうむる損害は敵国の侵略によって起こるべき被害に比べて小さいという人があるかもしれないが、それは必ずしもそうは言われない。たとえば安政元年の大震のような大規模のものが襲来すれば、東京から福岡《ふくおか》に至るまでのあらゆる大小都市の重要な文化設備が一時に脅かされ、西半日本の神経系統と循環系統に相当ひどい故障が起こって有機体としての一国の生活機能に著しい麻痺症状《まひしょうじょう》を惹起《じゃっき》する恐れがある。万一にも大都市の水道貯水池の堤防でも決壊すれば市民がたちまち日々の飲用水に困るばかりでなく、氾濫《はんらん》する大量の流水の勢力は少なくも数村を微塵《みじん》になぎ倒し、多数の犠牲者を出すであろう。水電の堰堤《えんてい》が破れても同様な犠牲を生じるばかりか、都市は暗やみになり肝心な動力網の源が一度に涸《か》れてしまうことになる。
 こういうこの世の地獄の出現は、歴史の教うるところから判断して決して単なる杞憂《きゆう》ではない。しかも安政年間には電信も鉄道も電力網も水道もなかったから幸いであったが、次に起こる「安政地震」には事情が全然ちがうということを忘れてはならない。
 国家の安全を脅かす敵国に対する国防策は現に政府当局の間で熱心に研究されているであろうが、ほとんど同じように一国の運命に影響する可能性の豊富な大天災に対する国防策は政府のどこでだれが研究しいかなる施設を準備しているかはなはだ心もとないありさまである。思うに日本のような特殊な天然の敵を四面に控えた国では、陸軍海軍のほかにもう一つ科学的国防の常備軍を設け、日常の研究と訓練によって非常時に備えるのが当然ではないかと思われる。陸海軍の防備がいかに充分であっても肝心な戦争の最中に安政程度の大地震や今回の台風あるいはそれ以上のものが軍事に関する首脳の設備に大損害を与えたらいったいどういうことになるであろうか。そういうことはそうめったにないと言って安心していてもよいものであろうか。
 わが国の地震学者や気象学者は従来かかる国難を予想してしばしば当局と国民とに警告を与えたはずであるが、当局は目前の政務に追われ、国民はその日の生活にせわしくて、そうした忠言に耳をかす暇《いとま》がなかったように見える。誠に遺憾なことである。
 台風の襲来を未然に予知し、その進路とその勢力の消長とを今よりもより確実に予測するためには、どうしても太平洋上ならびに日本海上に若干の観測地点を必要とし、その上にまた大陸方面からオホツク海方面までも観測網を広げる必要があるように思われる。しかるに現在では細長い日本島弧《にほんとうこ》の上に、言わばただ一連の念珠のように観測所の列が分布しているだけである。たとえて言わば奥州街道《おうしゅうかいどう》から来るか東海道から来るか信越線から来るかもしれない敵の襲来に備えるために、ただ中央線の沿線だけに哨兵《しょうへい》を置いてあるようなものである。
 新聞記事によると、アメリカでは太平洋上に浮き飛行場を設けて横断飛行の足がかりにする計画があるということである。うそかもしれないがしかしアメリカ人にとっては充分可能なことである。もしこれが可能とすれば、洋上に浮き観測所の設置ということもあながち学究の描き出した空中楼閣だとばかりは言われないであろう。五十年百年の後にはおそらく常識的になるべき種類のことではないかと想像される。

 人類が進歩するに従って愛国心も大和魂《やまとだましい》もやはり進化すべきではないかと思う。砲煙弾雨の中に身命を賭《と》して敵の陣営に突撃するのもたしかに貴《たっと》い日本魂《やまとだましい》であるが、○国や△国よりも強い天然の強敵に対して平生から国民一致協力して適当な科学的対策を講ずるのもまた現代にふさわしい大和魂の進化の一相として期待してしかるべきことではないかと思われる。天災の起こった時に始めて大急ぎでそうした愛国心を発揮するのも結構であるが、昆虫《こんちゅう》や鳥獣でない二十世紀の科学的文明国民の愛国心の発露にはもう少しちがった、もう少し合理的な様式があってしかるべきではないかと思う次第である。
[#地から3字上げ](昭和九年十一月、経済往来)



底本:「寺田寅彦随筆集 第五巻」岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年11月20日第1刷発行
   1963(昭和38)年6月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年9月5日第65刷発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年2月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



災難雑考

寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)大垣《おおがき》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)旅客飛行機|白鳩号《しろはとごう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](昭和十年七月、中央公論)
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 大垣《おおがき》の女学校の生徒が修学旅行で箱根《はこね》へ来て一泊した翌朝、出発の間ぎわに監督の先生が記念の写真をとるというので、おおぜいの生徒が渓流《けいりゅう》に架したつり橋の上に並んだ。すると、つり橋がぐらぐら揺れだしたのに驚いて生徒が騒ぎ立てたので、振動がますますはげしくなり、そのためにつり橋の鋼索が断たれて、橋は生徒を載せたまま渓流に墜落し、無残にもおおぜいの死傷者を出したという記事が新聞に出た。これに対する世評も区々で、監督の先生の不注意を責める人もあれば、そういう抵抗力の弱い橋を架けておいた土地の人を非難する人もあるようである。なるほどこういう事故が起こった以上は監督の先生にも土地の人にも全然責任がないとは言われないであろう。しかし、考えてみると、この先生と同じことをして無事に写真をとって帰って、生徒やその父兄たちに喜ばれた先生は何人あるかわからないし、この橋よりもっと弱い橋を架けて、そうしてその橋の堪えうる最大荷重についてなんの掲示もせずに通行人の自由に放任している町村をよく調べてみたら日本全国におよそどのくらいあるのか見当がつかない。それで今度のような事件はむしろあるいは落雷の災害などと比較されてもいいようなきわめて稀有《けう》な偶然のなすわざで、たまたまこの気まぐれな偶然のいたずらの犠牲になった生徒たちの不幸はもちろんであるが、その責任を負わされる先生も土地の人も誠に珍しい災難に会ったのだというふうに考えられないこともないわけである。
 こういう災難に会った人を、第三者の立場から見て事後にとがめ立てするほどやさしいことはないが、それならばとがめる人がはたして自分でそういう種類の災難に会わないだけの用意が完全に周到にできているかというと、必ずしもそうではないのである。
 早い話が、平生地震の研究に関係している人間の目から見ると、日本の国土全体が一つのつり橋の上にかかっているようなもので、しかも、そのつり橋の鋼索があすにも断たれるかもしれないというかなりな可能性を前に控えているような気がしないわけには行かない。来年にもあるいはあすにも、宝永四年または安政元年のような大規模な広区域地震が突発すれば、箱根《はこね》のつり橋の墜落とは少しばかり桁数《けたすう》のちがった損害を国民国家全体が背負わされなければならないわけである。
 つり橋の場合と地震の場合とはもちろん話がちがう。つり橋はおおぜいでのっからなければ落ちないであろうし、また断えず補強工事を怠らなければ安全であろうが、地震のほうは人間の注意不注意には無関係に、起こるものなら起こるであろう。
 しかし、「地震の現象」と「地震による災害」とは区別して考えなければならない。現象のほうは人間の力でどうにもならなくても「災害」のほうは注意次第でどんなにでも軽減されうる可能性があるのである。そういう見地から見ると大地震が来たらつぶれるにきまっているような学校や工場の屋根の下におおぜいの人の子を集団させている当事者は言わば前述の箱根つり橋墜落事件の責任者と親類どうしになって来るのである。ちょっと考えるとある地方で大地震が数年以内に起こるであろうという確率と、あるつり橋にたとえば五十人乗ったためにそれがその場で落ちるという確率とは桁違いのように思われるかもしれないが、必ずしもそう簡単には言われないのである。
 最近の例としては台湾《たいわん》の地震がある。台湾は昔から相当烈震の多い土地で二十世紀になってからでもすでに十回ほどは死傷者を出す程度のが起こっている。平均で言えば三年半に一回の割である。それが五年も休止状態にあったのであるから、そろそろまた一つぐらいはかなりなのが台湾じゅうのどこかに襲って来てもたいした不思議はないのであって、そのくらいの予言ならば何も学者を待たずともできたわけである。しかし今度襲われる地方がどの地方でそれが何月何日ごろに当たるであろうということを的確に予知することは今の地震学では到底不可能であるので、そのおかげで台湾島民は烈震が来れば必ずつぶれて、つぶれれば圧死する確率のきわめて大きいような泥土《でいど》の家に安住していたわけである。それでこの際そういう家屋の存在を認容していた総督府当事者の責任を問うて、とがめ立てることもできないことはないかもしれないが、当事者の側から言わせるとまたいろいろ無理のない事情があって、この危険な土角造《トウカツづく》りの民家を全廃することはそう容易ではないらしい。何よりも困難なことには、内地のような木造家屋は地震には比較的安全だが台湾ではすぐに名物の白蟻《しろあり》に食べられてしまうので、その心配がなくて、しかも熱風防御に最適でその上に金のかからぬといういわゆる土角造《トウカツづく》りが、生活程度のきわめて低い土民に重宝がられるのは自然の勢いである。もっとも阿里山《ありさん》の紅檜《べにひ》を使えば比較的あまりひどくは白蟻に食われないことが近ごろわかって来たが、あいにくこの事実がわかったころには同時にこの肝心の材料がおおかた伐《き》り尽くされてなくなった事がわかったそうである。政府で歳入の帳尻《ちょうじり》を合わせるために無茶苦茶にこの材木の使用を宣伝し奨励して棺桶《かんおけ》などにまでこの良材を使わせたせいだといううわさもある。これはゴシップではあろうがとかくあすの事はかまわぬがちの現代為政者のしそうなことと思われておかしさに涙がこぼれる。それはとにかく、さし当たってそういう土民に鉄筋コンクリートの家を建ててやるわけにも行かないとすれば、なんとかして現在の土角造《トウカツづく》りの長所を保存して、その短所を補うようなしかも費用のあまりかからぬ簡便な建築法を研究してやるのが急務ではないかと思われる。それを研究するにはまず土角造《トウカツづく》りの家がいかなる順序でいかにこわれたかをくわしく調べなければならないであろう。もっとも自分などが言うまでもなく当局者や各方面の専門学者によってそうした研究がすでに着々合理的に行なわれていることであろうと思われるが、同じようなことは箱根《はこね》のつり橋についても言われる。だれの責任であるとか、ないとかいうあとの祭りのとがめ立てを開き直って子細らしくするよりももっともっとだいじなことは、今後いかにしてそういう災難を少なくするかを慎重に攻究することであろうと思われる。それには問題のつり橋のどの鋼索のどのへんが第一に切れて、それから、どういう順序で他の部分が破壊したかという事故の物的経過を災害の現場について詳しく調べ、その結果を参考して次の設計の改善に資するのが何よりもいちばんたいせつなことではないかと思われるのである。しかし多くの場合に、責任者に対するとがめ立て、それに対する責任者の一応の弁解、ないしは引責というだけでその問題が完全に落着したような気がして、いちばんたいせつな物的調査による後難の軽減という眼目が忘れられるのが通例のようである。これではまるで責任というものの概念がどこかへ迷子《まいご》になってしまうようである。はなはだしい場合になると、なるべくいわゆる「責任者」を出さないように、つまりだれにも咎《とが》を負わさせないように、実際の事故の原因をおしかくしたり、あるいは見て見ぬふりをして、何かしらもっともらしい不可抗力によったかのように付会してしまって、そうしてその問題を打ち切りにしてしまうようなことが、つり橋事件などよりもっと重大な事件に関して行なわれた実例が諸方面にありはしないかという気がする。そうすればそのさし当たりの問題はそれで形式的には収まりがつくが、それでは、全く同じような災難があとからあとから幾度でも繰り返して起こるのがあたりまえであろう。そういう弊の起こる原因はつまり責任の問い方が見当をちがえているためではないかと思う。人間に免れぬ過失自身を責める代わりに、その過失を正当に償わないことをとがめるようであれば、こんな弊の起こる心配はないはずであろうと思われるのである。
 たとえばある工学者がある構造物を設計したのがその設計に若干の欠陥があってそれが倒壊し、そのために人がおおぜい死傷したとする。そうした場合に、その設計者が引責辞職してしまうかないし切腹して死んでしまえば、それで責めをふさいだというのはどうもうそではないかと思われる。その設計の詳細をいちばんよく知っているはずの設計者自身が主任になって倒壊の原因と経過とを徹底的に調べ上げて、そうしてその失敗を踏み台にして徹底的に安全なものを造り上げるのが、むしろほんとうに責めを負うゆえんではないかという気がするのである。
 ツェッペリン飛行船などでも、最初から何度となく苦《にが》い失敗を重ねたにかかわらず、当の責任者のツェッペリン伯は決して切腹もしなければ隠居もしなかった。そのおかげでとうとういわゆるツェッペリンが物になったのである。もしも彼がかりにわが日本政府の官吏であったと仮定したら、はたしてどうであったかを考えてみることを、賢明なる本誌読者の銷閑《しょうかん》パズルの題材としてここに提出したいと思う次第である。
 これに関連したことで自分が近年で実に胸のすくほど愉快に思ったことが一つある。それは、日本航空輸送会社の旅客飛行機|白鳩号《しろはとごう》というのが九州の上空で悪天候のために針路を失して山中に迷い込み、どうしたわけか、機体が空中で分解してばらばらになって林中に墜落した事件について、その事故を徹底的に調査する委員会ができて、おおぜいの学者が集まってあらゆる方面から詳細な研究を遂行し、その結果として、このだれ一人目撃者の存しない空中事故の始終の経過が実によく手にとるようにありありと推測されるようになって来て、事故の第一原因がほとんど的確に突き留められるようになり、従って将来、同様の原因から再び同様な事故を起こすことのないような端的な改良をすべての機体に加えることができるようになったことである。
 この原因を突きとめるまでに主としてY教授によって行なわれた研究の経過は、下手《へた》な探偵小説《たんていしょうせつ》などの話の筋道よりは実にはるかにおもしろいものであった。乗組員は全部墜死してしまい、しかも事故の起こったよりずっと前から機上よりの無線電信も途絶えていたから、墜落前の状況については全くだれ一人知った人はない。しかし、幸いなことには墜落現場における機体の破片の散乱した位置が詳しく忠実に記録されていて、その上にまたそれら破片の現品がたんねんに当時のままの姿で収集され、そのまま手つかずに保存されていたので、Y教授はそれを全部取り寄せてまずそのばらばらの骨片から機の骸骨《がいこつ》をすっかり組み立てるという仕事にかかった、そうしてその機材の折れ目割れ目を一つ一つ番号をつけてはしらみつぶしに調べて行って、それらの損所の機体における分布の状況やまた折れ方の種類のいろいろな型を調べ上げた。折れた機材どうしが空中でぶつかったときにできたらしい傷あとも一々たんねんに検査して、どの折片がどういう向きに衝突したであろうかということを確かめるために、そうした引っかき傷の蝋形《ろうがた》を取ったのとそれらしい相手の折片の表面にある鋲《びょう》の頭の断面と合わしてみたり、また鋲の頭にかすかについているペンキを虫めがねで吟味したり、ここいらはすっかりシャーロック・ホールムスの行き方であるが、ただ科学者のY教授が小説に出て来る探偵《たんてい》とちがうのは、このようにして現品調査で見当をつけた考えをあとから一々実験で確かめて行ったことである。それには機材とほぼ同様な形をした試片をいろいろに押し曲げてへし折ってみて、その折れ口の様子を見てはそれを現品のそれと比べたりした。その結果として、空中分解の第一歩がどこの折損から始まり、それからどういう順序で破壊が進行し、同時に機体が空中でどんな形に変形しつつ、どんなふうに旋転しつつ墜落して行ったかということのだいたいの推測がつくようになった。しかしそれでは肝心の事故の第一原因はわからないのでいろいろ調べているうちに、片方の補助翼を操縦する鋼索の張力を加減するためにつけてあるタンバックルと称するネジがある、それがもどるのを防ぐために通してある銅線が一か所切れてネジが抜けていることを発見した。それから考えるとなんらかの原因でこの留めの銅線が切れてタンバックルが抜けたために補助翼がぶらぶらになったことが事故の第一歩と思われた。そこで今度は飛行機翼の模型を作って風洞《ふうどう》で風を送って試験してみたところがある風速以上になると、補助翼をぶらぶらにした機翼はひどい羽ばたき振動を起こして、そのために支柱がくの字形に曲げられることがわかった。ところが、前述の現品調査の結果でもまさしくこの支柱が最初に折れたとするとすべてのことが符合するのである。こうなって来るともうだいたいの経過の見通しがついたわけであるが、ただ大切なタンバックルの留め針金がどうして切れたか、またちょっと考えただけでは抜けそうもないネジがどうして抜け出したかがわからない。そこで今度は現品と同じ鋼索とタンバックルの組み合わせをいろいろな条件のもとに週期的に引っぱったりゆるめたりして試験した結果、実際に想像どおりに破壊の過程が進行することを確かめることができたのであった。要するにたった一本の銅線に生命がつながっていたのに、それをだれも知らずに安心していた。そういう実にだいじなことがこれだけの苦心の研究でやっとわかったのである。さて、これがわかった以上、この命の綱を少しばかり強くすれば、今後は少なくもこの同じ原因から起こる事故だけはもう絶対になくなるわけである。
 この点でも科学者の仕事と探偵《たんてい》の仕事とは少しちがうようである。探偵は罪人を見つけ出しても将来の同じ犯罪をなくすることはむつかしそうである。
 しかし、飛行機を墜落させる原因になる「罪人」は数々あるので、科学的探偵の目こぼしになっているのがまだどれほどあるか見当はつかない。それがたくさんあるらしいと思わせるのは時によると実に頻繁《ひんぱん》に新聞で報ぜられる飛行機墜落事故の継起である。もっとも非常時の陸海軍では民間飛行の場合などとちがって軍機の制約から来るいろいろな止《や》み難い事情のために事故の確率が多くなるのは当然かもしれないが、いずれにしても成ろうことならすべての事故の徹底的調査をして真相を明らかにし、そうして後難を無くするという事は新しい飛行機の数を増すと同様にきわめて必要なことであろうと思われる。これはまた飛行機に限らずあらゆる国防の機関についても同様に言われることである。もちろん当局でもそのへんに遺漏のあるはずはないが、しかし一般世間ではどうかすると誤った責任観念からいろいろの災難事故の真因が抹殺《まっさつ》され、そのおかげで表面上の責任者は出ない代わりに、同じ原因による事故の犠牲者が跡を絶たないということが珍しくないようで、これは困ったことだと思われる。これでは犠牲者は全く浮かばれない。伝染病患者を内証にしておけば患者がふえる。あれと似たようなものであろう。
 こうは言うもののまたよくよく考えて見ていると災難の原因を徹底的に調べてその真相を明らかにして、それを一般に知らせさえすれば、それでその災難はこの世に跡を絶つというような考えは、ほんとうの世の中を知らない人間の机上の空想に過ぎないではないかという疑いも起こって来るのである。
 早い話がむやみに人殺しをすれば後には自分も大概は間違いなく処刑されるということはずいぶん昔からよくだれにも知られているにかかわらず、いつになっても、自分では死にたくない人で人殺しをするものの種が尽きない。若い時分に大酒をのんで無茶な不養生をすれば頭やからだを痛めて年取ってから難儀することは明白でも、そうして自分にまいた種の収穫時に後悔しない人はまれである。
 大津波が来るとひと息に洗い去られて生命財産ともに泥水《どろみず》の底に埋められるにきまっている場所でも繁華な市街が発達して何十万人の集団が利権の争闘に夢中になる。いつ来るかもわからない津波の心配よりもあすの米びつの心配のほうがより現実的であるからであろう。生きているうちに一度でも金をもうけて三日でも栄華の夢を見さえすれば津波にさらわれても遺憾はないという、そういう人生観をいだいた人たちがそういう市街を造って集落するのかもしれない。それを止めだてするというのがいいかどうか、いいとしてもそれが実行可能かどうか、それは、なかなか容易ならぬむつかしい問題である。事によると、このような人間の動きを人間の力でとめたりそらしたりするのは天体の運行を勝手にしようとするよりもいっそう難儀なことであるかもしれないのである。
 また一方ではこういう話がある。ある遠い国の炭鉱では鉱山主が爆発防止の設備を怠って充分にしていない。監督官が検査に来ると現に掘っている坑道はふさいで廃坑だということにして見せないで、検査に及第する坑だけ見せる。それで検閲はパスするが時々爆発が起こるというのである。真偽は知らないが可能な事ではある。
 こういうふうに考えて来ると、あらゆる災難は一見不可抗的のようであるが実は人為的のもので、従って科学の力によって人為的にいくらでも軽減しうるものだという考えをもう一ぺんひっくり返して、結局災難は生じやすいのにそれが人為的であるがためにかえって人間というものを支配する不可抗な方則の支配を受けて不可抗なものであるという、奇妙な回りくどい結論に到達しなければならないことになるかもしれない。
 理屈はぬきにして古今東西を通ずる歴史という歴史がほとんどあらゆる災難の歴史であるという事実から見て、今後少なくも二千年や三千年は昔からあらゆる災難を根気よく繰り返すものと見てもたいした間違いはないと思われる。少なくもそれが一つの科学的宿命観でありうるわけである。
 もしもこのように災難の普遍性恒久性が事実であり天然の方則であるとすると、われわれは「災難の進化論的意義」といったような問題に行き当たらないわけには行かなくなる。平たく言えば、われわれ人間はこうした災難に養いはぐくまれて育って来たものであって、ちょうど野菜や鳥獣魚肉を食って育って来たと同じように災難を食って生き残って来た種族であって、野菜や肉類が無くなれば死滅しなければならないように、災難が無くなったらたちまち「災難饑餓《さいなんきが》」のために死滅すべき運命におかれているのではないかという変わった心配も起こし得られるのではないか。
 古いシナ人の言葉で「艱難《かんなん》汝《なんじ》を玉にす」といったような言い草があったようであるが、これは進化論以前のものである。植物でも少しいじめないと花実をつけないものが多いし、ぞうり虫パラメキウムなどでもあまり天下泰平だと分裂生殖が終息して死滅するが、汽車にでものせて少しゆさぶってやると復活する。このように、虐待は繁盛のホルモン、災難は生命の醸母であるとすれば、地震も結構、台風も歓迎、戦争も悪疫も礼賛《らいさん》に値するのかもしれない。
 日本の国土などもこの点では相当恵まれているほうかもしれない。うまいぐあいに世界的に有名なタイフーンのいつも通る道筋に並行して島弧が長く延長しているので、たいていの台風はひっかかるような仕掛けにできている。また大陸塊の縁辺のちぎれの上に乗っかって前には深い海溝《かいこう》を控えているおかげで、地震や火山の多いことはまず世界じゅうの大概の地方にひけは取らないつもりである。その上に、冬のモンスーンは火事をあおり、春の不連続線は山火事をたきつけ、夏の山水美はまさしく雷雨の醸成に適し、秋の野分《のわき》は稲の花時刈り入れ時をねらって来るようである。日本人を日本人にしたのは実は学校でも文部省でもなくて、神代から今日まで根気よく続けられて来たこの災難教育であったかもしれない。もしそうだとすれば、科学の力をかりて災難の防止を企て、このせっかくの教育の効果をいくぶんでも減殺しようとするのは考えものであるかもしれないが、幸か不幸か今のところまずその心配はなさそうである。いくら科学者が防止法を発見しても、政府はそのままにそれを採用実行することが決してできないように、また一般民衆はいっこうそんな事には頓着《とんちゃく》しないように、ちゃんと世の中ができているらしく見えるからである。
 植物や動物はたいてい人間よりも年長者で人間時代以前からの教育を忠実に守っているからかえって災難を予想してこれに備える事を心得ているか少なくもみずから求めて災難を招くような事はしないようであるが、人間は先祖のアダムが知恵の木の実を食ったおかげで数万年来受けて来た教育をばかにすることを覚えたために新しいいくぶんの災難をたくさん背負い込み、目下その新しい災難から初歩の教育を受け始めたような形である。これからの修行が何十世紀かかるかこれはだれにも見当がつかない。
 災難は日本ばかりとは限らないようである。お隣のアメリカでも、たまには相当な大地震があり、大山火事があるし、時にまた日本にはあまり無い「熱波」「寒波」の襲来を受けるほかに、かなりしばしば猛烈な大旋風トルナドーに引っかき回される。たとえば一九三四年の統計によると総計百十四回のトルナドーに見舞われ、その損害額三百八十三万三千ドル、死者四十名であったそうである。北米大陸では大山脈が南北に走っているためにこうした特異な現象に富んでいるそうで、この点欧州よりは少なくも一つだけ多くの災害の種に恵まれているわけである。北米の南方ではわがタイフーンの代わりにその親類のハリケーンを享有しているからますます心強いわけである。
 西北隣のロシアシベリアではあいにく地震も噴火も台風もないようであるが、そのかわりに海をとざす氷と、人馬を窒息させるふぶきと、大地の底まで氷らせる寒さがあり、また年を越えて燃える野火がある。決して負けてはいないようである。
 中華民国には地方によってはまれに大地震もあり大洪水《だいこうずい》もあるようであるが、しかしあの厖大《ぼうだい》なシナの主要な国土の大部分は、気象的にも地球物理的にも比較的にきわめて平穏な条件のもとにおかれているようである。その埋め合わせというわけでもないかもしれないが、昔から相当に戦乱が頻繁《ひんぱん》で主権の興亡盛衰のテンポがあわただしくその上にあくどい暴政の跳梁《ちょうりょう》のために、庶民の安堵《あんど》する暇《いとま》が少ないように見える。
 災難にかけては誠に万里同風である。浜の真砂《まさご》が磨滅《まめつ》して泥《どろ》になり、野の雑草の種族が絶えるまでは、災難の種も尽きないというのが自然界人間界の事実であるらしい。
 雑草といえば、野山に自生する草で何かの薬にならぬものはまれである。いつか朝日グラフにいろいろな草の写真とその草の薬効とが満載されているのを見て実に不思議な気がした。大概の草は何かの薬であり、薬でない草を捜すほうが骨が折れそうに見えるのである。しかしよく考えてみるとこれは何も神様が人間の役に立つためにこんないろいろの薬草をこしらえてくれたのではなくて、これらの天然の植物にはぐくまれ、ちょうどそういうものの成分になっているアルカロイドなどが薬になるようなふうに適応して来た動物からだんだんに進化して来たのが人間だと思えばたいした不思議ではなくなるわけである。
 同じようなわけで、大概の災難でも何かの薬にならないというのはまれなのかもしれないが、ただ、薬も分量を誤れば毒になるように、災難も度が過ぎると個人を殺し国を滅ぼすことがあるかもしれないから、あまり無制限に災難歓迎を標榜《ひょうぼう》するのも考えものである。
 以上のような進化論的災難観とは少しばかり見地をかえた優生学的災難論といったようなものもできるかもしれない。災難を予知したり、あるいはいつ災難が来てもいいように防備のできているような種類の人間だけが災難を生き残り、そういう「ノア」の子孫だけが繁殖すれば知恵の動物としての人間の品質はいやでもだんだん高まって行く一方であろう。こういう意味で災難は優良種を選択する試験のメンタルテストであるかもしれない。そうだとすると逆に災難をなくすればなくするほど人間の頭の働きは平均して鈍いほうに移って行く勘定である。それで、人間の頭脳の最高水準を次第に引き下げて、賢い人間やえらい人間をなくしてしまって、四海兄弟みんな凡庸な人間ばかりになったというユートピアを夢みる人たちには徹底的な災難防止が何よりの急務であろう。ただそれに対して一つの心配することは、最高水準を下げると同時に最低水準も下がるというのは自然の変異《ヴェリエーション》の方則であるから、このユートピアンの努力の結果はつまり人間を次第に類人猿《るいじんえん》の方向に導くということになるかもしれないということである。
 いろいろと持って回って考えてみたが、以上のような考察からは結局なんの結論も出ないようである。このまとまらない考察の一つの収穫は、今まで自分など机上で考えていたような楽観的な科学的災害防止可能論に対する一抹《いちまつ》の懐疑である。この疑いを解くべきかぎはまだ見つからない。これについて読者の示教を仰ぐことができれば幸いである。
[#地から3字上げ](昭和十年七月、中央公論)



底本:「寺田寅彦随筆集 第五巻」岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年11月20日第1刷発行
   1963(昭和38)年6月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年9月5日第65刷発行
入力:(株)モモ
校正:多羅尾伴内
2003年11月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



*地名

(地名を冠した自然現象などを含む)

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津波と人間
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三陸 さんりく (1) 陸前・陸中・陸奥の総称。(2) 三陸地方の略。東北地方北東部、北上高地の東側の地域。
函館大火 はこだて たいか 1934年3月21日に北海道函館市で発生した火災のこと。死者2,166名、焼損棟数11,105棟を数える大惨事となった。函館ではこれ以前にも1,000戸以上を焼失する大火が10回以上発生しているが、一般的に発生年を付さない場合には1934年の火災を指す。
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天災と国防
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畿内 きない 帝都付近の地。中国の古制で、王城を中心とする四方500里以内の特別行政区。日本では歴代の皇居が置かれた大和・山城・河内・和泉・摂津の5カ国、すなわち五畿内。和泉が河内から分置される奈良時代までは四畿内といった。
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災難雑考
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大垣 おおがき 岐阜県南西部、濃尾平野西部にある市。もと戸田氏10万石の城下町。産業は化学・機械工業など。大垣城址がある。人口16万2千。
箱根 はこね 神奈川県足柄下郡の町。箱根山一帯を含む。温泉・観光地。芦ノ湖南東岸の旧宿場町は東海道五十三次の一つで、江戸時代には関所があった。
台湾 たいわん (Taiwan)中国福建省と台湾海峡をへだてて東方200キロメートルにある島。台湾本島・澎湖列島および他の付属島から成る。総面積3万6000平方キロメートル。明末・清初、鄭成功がオランダ植民者を追い出して中国領となったが、日清戦争の結果1895年日本の植民地となり、1945年日本の敗戦によって中国に復帰し、49年国民党政権がここに移った。60年代以降、経済発展が著しい。人口2288万(2006)。フォルモサ。
阿里山 ありさん (Alishan)台湾、嘉義市の東部にある山。また、玉山(新高山)の西方一帯の山地の総称。主峰大塔山は標高2663メートル。桧の良材で名高い。ありさん
中華民国 ちゅうか みんこく 辛亥革命の結果清朝が倒れた後、1912年中国最初の共和制政体として成立した国。初代大総統袁世凱(えんせいがい)。28年中国国民党が国民政府を樹立、全国を統一したが、第二次大戦後共産党との内戦に敗れ、49年本土を離れて台湾に移った。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。




*年表


一六三三(寛永一〇)三月一日 相模・駿河・伊豆地震 - M 7.1、死者110〜150人。駿河・熱海に津波。
一七〇七(宝永四)一〇月 宝永地震。マグニチュード8.4。東海から九州にかけて巨大地震と大津波。
一七〇七(宝永四)一一月 富士山が噴火(宝永大噴火)。
一八五五(安政元)一一月 安政の大地震。
一八九六(明治二九)六月一五日 三陸大津波。
一九二三(大正一二)九月一日 関東大震災。
一九三三(昭和八)三月三日 東北日本の太平洋岸に津波が襲来。三陸地方大地震。M8.1、死者3021名、不明43名、負傷968名。
一九三三(昭和八)五月 寺田寅彦「津浪と人間」『鉄塔』。
一九三四(昭和九)九月二一日 近畿地方、大風水害が突発。室戸台風が日本上陸。
一九三四(昭和九)一一月 寺田寅彦「天災と国防」『経済往来』。
一九三四 アメリカ、総計一一四回のトルネードに見舞われ、その損害額三八三万三〇〇〇ドル、死者四十名。
一九三五(昭和一〇)七月 寺田寅彦「災難雑考」『中央公論』。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)

寺田寅彦 てらだ とらひこ 1878-1935 物理学者・随筆家。東京生れ。高知県人。東大教授。地球物理学を専攻。夏目漱石の門下、筆名は吉村冬彦。随筆・俳句に巧みで、藪柑子と号した。著「冬彦集」「藪柑子集」など。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)

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津波と人間
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『鉄塔』
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天災と国防
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『経済往来』 けいざい おうらい 大正15年(1926)3月創刊。日本評論社の刊行。月刊総合誌。昭和10年(1935)10月号から『日本評論』と改題。昭和19年4月号から経済誌『経済往来』に転じた。昭和26年6月号(26巻6号)で停刊。(国史)
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災難雑考
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『朝日グラフ』 アサヒグラフか。
『中央公論』 ちゅうおう こうろん 代表的な総合雑誌の一つ。1899年(明治32)「反省会雑誌」(87年創刊)を改題。滝田樗陰(ちょいん)を編集者(のち主幹)として部数を伸ばし、文壇の登竜門、大正デモクラシー言論の中心舞台となる。1944年(昭和19)横浜事件にまきこまれて廃刊を命じられる。第二次大戦後、46年復刊。


◇参照:Wikipedia、『国史大辞典』(吉川弘文館)。



*難字、求めよ


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津波と人間
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八重葎 やえむぐら 繁茂しているむぐら。雑多に生えている蔓草。
五風十雨 ごふう じゅうう 5日に一度風が吹き、10日に一度雨が降ること。転じて、風雨その時を得て、農作上好都合で、天下の太平なこと。
揺曳 ようえい ゆらゆらとなびくこと。また、あとあとまで長く、その気分や痕跡などが残ること。
続起 ぞっき/ぞくき 物事がたて続けに起こること。
自然変異 ナチュラルフラクチュエーション
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天災と国防
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草昧 そうまい 世の中が未開で人知の発達していないこと。
烈震 れっしん 気象庁旧震度階級の震度6につけられていた名称。家屋の倒壊は30パーセント以下で、山崩れが起き、地割れを生じ、多くの人々が立っていることができない程度の地震。
ロビンソン風速計 Robinson - アイルランド人。自由に回転する直立軸に三個または四個の半球(風杯)をもった腕を取りつけ、直立軸の回転数から風速を求める器械。
瞥見 べっけん ちらりと見ること。
堰堤 えんてい 河川や渓谷を横断して水流や土砂をせきとめるために築いた堤防。ダム。
新開町 しんかいまち 新たに開けて町となったところ。
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災難雑考
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土角造 トウカツ づくり
紅桧 べにひ タイワンヒノキの別称。
台湾桧 たいわん ひのき ヒノキ科の常緑高木。台湾の山地に自生。高さ60メートルに達する。葉はヒノキに似るが薄い。花は単性、雌雄同株。材は樹脂に富み、心材は淡紅色。建築用・器具用。紅桧(べにひ)。
ツェッペリン飛行船 ツェッペリン ひこうせん ツェッペリンが開発した大型の硬式飛行船。軽金属骨組の船体内に多数の気嚢(きのう)を収める。1900年初飛行。航空輸送に活躍し、第一次大戦中は偵察・爆撃に使用。37年、ヒンデンブルク号が爆発事故を起こす。
消閑 しょうかん ひまをつぶすこと。
折片 切片(せっぺん)か。
タンバックル → ターンバックルか
ターンバックル turnbuckle ロープやワイヤーやタイロッドなどの張力を調節する装置。金属製の胴の両端にネジ山が切られていて、一方は右ネジ、もう一方は左ネジ(逆ネジ)になっている。この胴を回転させることで両端に取り付けられたボルトが締め込まれ(あるいは緩められ)、張力を調節することができる。
継起 けいき (succession)引き続いて起こること。時間的に前後の順を追って現れること。
艱難汝を玉にす かんなん なんじを たまにす (英語のことわざから)人は多くの艱難を乗り越えてこそ立派な人物になる。
ゾウリ虫パラメキウム Paramecium → ゾウリムシ
ゾウリムシ その名のとおり草履(ぞうり)のような形をしている繊毛虫 Paramecium caudatum の和名、またはその近似種を指す。単細胞生物としてはよく名を知られている。微生物自体の発見者であるオランダのレーウェンフックによって17世紀末に発見された。
醸母 じょうぼ 発酵させて酒をつくるもとになるもの。酵母。酒母。
トルネード tornado (もとアフリカ海岸に起こる嵐の名)北アメリカ中南部に発生する大規模な陸上竜巻(たつまき)。直径は数百メートルから1キロメートルに達し、強風・強雨・降雹・雷雨を伴い、家や樹木を巻き倒す。
万里同風 ばんり どうふう [漢書終軍伝「今天下為一、万里同風」]極めて遠い所までも、同じ風俗になる。天下が統一されて太平であることのたとえ。千里同風。
アルカロイド alkaloid 主に高等植物体中に存在する、窒素を含む複雑な塩基性有機化合物の総称。ニコチン・モルヒネ・コカイン・キニーネ・カフェイン・エフェドリン・クラーレなど多数のものが知られている。植物体中では多く酸と結合して塩を形成。少量で、毒作用や感覚異常など特殊な薬理作用を呈し、毒性を持つ。類塩基。植物塩基。
優生学 ゆうせいがく (eugenics)人類の遺伝的素質を改善することを目的とし、悪質の遺伝形質を淘汰し、優良なものを保存することを研究する学問。1883年イギリスの遺伝学者ゴールトンが首唱。
四海兄弟 しかい けいてい [論語顔淵「四海之内皆兄弟也」]天下の人はすべて我と同一人類で、親疎のわけへだてがなく親しみあうことが兄弟のようであるの意。四海同胞。
ヴェリエーション → バリエーションか
バリエーション variation (1) 変化。変異。変種。変形。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 本文中、「中華民国」はそのままとしました。

 嘉永・安政(1848〜1860)にかけて群発した地震を、大河『龍馬伝』のなかに見かけたおぼえがない。『JIN』とガチにかぶるのを避けたためか、震災後のコレラ・パンデミック(1858年から3年間)の描写もなかったように思う。

 「坂本龍馬略年表 1〜24歳(1835〜1858)」。菊地明『追跡! 坂本龍馬』(PHP研究所、2009.10)の「坂本龍馬略年表」をベースに、田中貢太郎「日本天変地異記」から江戸・東海道〜土佐の地震・津波をピックアップ。『広辞苑』と Wikipedia「地震の年表」にて期日と内容をクロスチェック。
 ちなみに天保の飢饉(1833〜1836)は、龍馬の生まれる直前にあたる。八歳違いの西郷隆盛・六歳ちがいの武市瑞山・五歳ちがいの清河八郎ら世代は、飢饉当時の幼少の記憶がおそらく色濃いのに対し、龍馬以降は、それが薄くなる。
 Wikipedia によれば、「(安政東海・南海地震は)余震とみられる地震は9年間で3,000回近く」とある。余震が9年間。なぜ、龍馬は「海から支援する」という着想を持ち、また、海舟は「海防」という発想を実現することができたのか。黒船・攘夷という漠然とした抽象的な危機よりも、むしろ、地震・津波という現実的な危機の経験と記憶が先にあったんじゃないだろうか……と想像する。土佐と本所。




*次週予告


第三巻 第三八号 
春雪の出羽路の三日 喜田貞吉


第三巻 第三八号は、
四月一六日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第三巻 第三七号
津波と人間/天災と国防/災難雑考 寺田寅彦
発行:二〇一一年四月九日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



T-Time マガジン 週刊ミルクティー*99 出版

第二巻

第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン 月末最終号:無料
第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン 定価:200円
第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 定価:200円
第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 定価:200円
第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 定価:200円
第六号 新羅人の武士的精神について 池内宏 月末最終号:無料
第七号 新羅の花郎について 池内宏 定価:200円
第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉 定価:200円
第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治 定価:200円
第十号 風の又三郎 宮沢賢治 月末最終号:無料
第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎 定価:200円
第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎 定価:200円
第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎 定価:200円
第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎 定価:200円
第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル 定価:200円
第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル 定価:200円
第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル 月末最終号:無料
第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル 定価:200円
第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉 定価:200円
第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉 定価:200円
第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太 月末最終号:無料
第二四号 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫 定価:200円
第二五号 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉 定価:200円
第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎 定価:200円
第二七号 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治 定価:200円
第二八号 翁の発生/鬼の話 折口信夫  月末最終号:無料
第二九号 生物の歴史(一)石川千代松  定価:200円
第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松  定価:200円
第三一号 生物の歴史(三)石川千代松  定価:200円
第三二号 生物の歴史(四)石川千代松  月末最終号:無料
第三三号 特集 ひなまつり  定価:200円  雛 芥川龍之介
 雛がたり 泉鏡花
 ひなまつりの話 折口信夫

第三四号 特集 ひなまつり  定価:200円  人形の話 折口信夫
 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫

第三五号 右大臣実朝(一)太宰治  定価:200円
第三六号 右大臣実朝(二)太宰治 月末最終号:無料
第三七号 右大臣実朝(三)太宰治 定価:200円
第三八号 清河八郎(一)大川周明 定価:200円
第三九号 清河八郎(二)大川周明  定価:200円
第四〇号 清河八郎(三)大川周明  月末最終号:無料
第四一号 清河八郎(四)大川周明  定価:200円
第四二号 清河八郎(五)大川周明  定価:200円
第四三号 清河八郎(六)大川周明  定価:200円
第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉  定価:200円
第四五号 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉  月末最終号:無料
第四六号 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉  定価:200円
第四七号 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉  定価:200円
第四八号 若草物語(一)L. M. オルコット  定価:200円
第四九号 若草物語(二)L. M. オルコット  月末最終号:無料
第五〇号 若草物語(三)L. M. オルコット  定価:200円
第五一号 若草物語(四)L. M. オルコット  定価:200円
第五二号 若草物語(五)L. M. オルコット  定価:200円
第五三号 二人の女歌人/東北の家 片山広子  定価:200円
第三巻 第一号 星と空の話(一)山本一清  月末最終号:無料
  一、星座(せいざ)の星
  二、月(つき)
(略)殊にこの「ベガ」は、わが日本や支那では「七夕」の祭りにちなむ「織(お)り女(ひめ)」ですから、誰でも皆、幼い時からおなじみの星です。「七夕」の祭りとは、毎年旧暦七月七日の夜に「織り女」と「牽牛(ひこぼし)〔彦星〕」とが「天の川」を渡って会合するという伝説の祭りですが、その「天の川」は「こと」星座のすぐ東側を南北に流れていますし、また、「牽牛」は「天の川」の向かい岸(東岸)に白く輝いています。「牽牛」とその周囲の星々を、星座では「わし」の星座といい、「牽牛」を昔のアラビア人たちは、「アルタイル」と呼びました。「アルタイル」の南と北とに一つずつ小さい星が光っています。あれは「わし」の両翼を拡げている姿なのです。ところが「ベガ」の付近を見ますと、その東側に小さい星が二つ集まっています。昔の人はこれを見て、一羽の鳥が両翼をたたんで地に舞いくだる姿だと思いました。それで、「こと」をまた「舞いくだる鳥」と呼びました。

 「こと」の東隣り「天の川」の中に、「はくちょう」という星座があります。このあたりは大星や小星が非常に多くて、天が白い布のように光に満ちています。

第三巻 第二号 星と空の話(二)山本一清  定価:200円
  三、太陽
  四、日食と月食
  五、水星
  六、金星
  七、火星
  八、木星
 太陽の黒点というものは誠におもしろいものです。黒点の一つ一つは、太陽の大きさにくらべると小さい点々のように見えますが、じつはみな、いずれもなかなか大きいものであって、(略)最も大きいのは地球の十倍以上のものがときどき現われます。そして同じ黒点を毎日見ていますと、毎日すこしずつ西の方へ流れていって、ついに太陽の西の端(はし)でかくれてしまいますが、二週間ばかりすると、こんどは東の端から現われてきます。こんなにして、黒点の位置が規則正しく変わるのは、太陽全体が、黒点を乗せたまま、自転しているからなのです。太陽は、こうして、約二十五日間に一回、自転をします。(略)
 太陽の黒点からは、あらゆる気体の熱風とともに、いろいろなものを四方へ散らしますが、そのうちで最も強く地球に影響をあたえるものは電子が放射されることです。あらゆる電流の原因である電子が太陽黒点から放射されて、わが地球に達しますと、地球では、北極や南極付近に、美しいオーロラ(極光(きょっこう))が現われたり、「磁気嵐(じきあらし)」といって、磁石の針が狂い出して盛んに左右にふれたりします。また、この太陽黒点からやってくる電波や熱波や電子などのために、地球上では、気温や気圧の変動がおこったり、天気が狂ったりすることもあります。(略)
 太陽の表面に、いつも同じ黒点が長い間見えているのではありません。一つ一つの黒点はずいぶん短命なものです。なかには一日か二日ぐらいで消えるのがありますし、普通のものは一、二週間ぐらいの寿命のものです。特に大きいものは二、三か月も、七、八か月も長く見えるのがありますけれど、一年以上長く見えるということはほとんどありません。
 しかし、黒点は、一つのものがまったく消えない前に、他の黒点が二つも三つも現われてきたりして、ついには一時に三十も四十も、たくさんの黒点が同じ太陽面に見えることがあります。
 こうした黒点の数は、毎年、毎日、まったく無茶苦茶というわけではありません。だいたいにおいて十一年ごとに増したり減ったりします。

第三巻 第三号 星と空の話(三)山本一清  定価:200円
   九、土星
  一〇、天王星
  一一、海王星
  一二、小遊星
  一三、彗星
  一四、流星
  一五、太陽系
  一六、恒星と宇宙
 晴れた美しい夜の空を、しばらく家の外に出てながめてごらんなさい。ときどき三分間に一つか、五分間に一つぐらい星が飛ぶように見えるものがあります。あれが流星です。流星は、平常、天に輝いている多くの星のうちの一つ二つが飛ぶのだと思っている人もありますが、そうではありません。流星はみな、今までまったく見えなかった星が、急に光り出して、そしてすぐまた消えてしまうものなのです。(略)
 しかし、流星のうちには、はじめから稀(まれ)によほど形の大きいものもあります。そんなものは空気中を何百キロメートルも飛んでいるうちに、燃えつきてしまわず、熱したまま、地上まで落下してきます。これが隕石というものです。隕石のうちには、ほとんど全部が鉄のものもあります。これを隕鉄(いんてつ)といいます。(略)
 流星は一年じゅう、たいていの夜に見えますが、しかし、全体からいえば、冬や春よりは、夏や秋の夜にたくさん見えます。ことに七、八月ごろや十月、十一月ごろは、一時間に百以上も流星が飛ぶことがあります。
 八月十二、三日ごろの夜明け前、午前二時ごろ、多くの流星がペルセウス星座から四方八方へ放射的に飛びます。これらは、みな、ペルセウス星座の方向から、地球の方向へ、列を作ってぶっつかってくるものでありまして、これを「ペルセウス流星群」と呼びます。
 十一月十四、五日ごろにも、夜明け前の二時、三時ごろ、しし星座から飛び出してくるように見える一群の流星があります。これは「しし座流星群」と呼ばれます。
 この二つがもっとも有名な流星群ですが、なおこの他には、一月のはじめにカドラント流星群、四月二十日ごろに、こと座流星群、十月にはオリオン流星群などあります。

第三巻 第四号 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎  定価:200円
獅子舞雑考
  一、枯(か)れ木も山の賑(にぎ)やかし
  二、獅子舞に関する先輩の研究
  三、獅子頭に角(つの)のある理由
  四、獅子頭と狛犬(こまいぬ)との関係
  五、鹿踊(ししおど)りと獅子舞との区別は何か
  六、獅子舞は寺院から神社へ
  七、仏事にもちいた獅子舞の源流
  八、獅子舞について関心すべき点
  九、獅子頭の鼻毛と馬の尻尾(しっぽ)

穀神としての牛に関する民俗
  牛を穀神とするは世界共通の信仰
  土牛(どぎゅう)を立て寒気を送る信仰と追儺(ついな)
  わが国の家畜の分布と牛飼神の地位
  牛をもって神をまつるは、わが国の古俗
  田遊(たあそ)びの牛の役と雨乞いの牛の首

 全体、わが国の獅子舞については、従来これに関する発生、目的、変遷など、かなり詳細なる研究が発表されている。(略)喜多村翁の所説は、獅子舞は西域の亀茲(きじ)国の舞楽が、支那の文化とともに、わが国に渡来したのであるという、純乎たる輸入説である。柳田先生の所論は、わが国には古く鹿舞(ししまい)というものがあって、しかもそれが広くおこなわれていたところへ、後に支那から渡来した獅子舞が、国音の相通から付会(ふかい)したものである。その証拠には、わが国の各地において、古風を伝えているものに、角(つの)のある獅子頭があり、これに加うるのに鹿を歌ったものを、獅子舞にもちいているという、いわば固有説とも見るべき考証である。さらに小寺氏の観察は、だいたいにおいて柳田先生の固有説をうけ、別にこれに対して、わが国の鹿舞の起こったのは、トーテム崇拝に由来するのであると、付け加えている。
 そこで、今度は管見を記すべき順序となったが、これは私も小寺氏と同じく、柳田先生のご説をそのまま拝借する者であって、べつだんに奇説も異論も有しているわけではない。ただ、しいて言えば、わが国の鹿舞と支那からきた獅子舞とは、その目的において全然別個のものがあったという点が、相違しているのである。ことに小寺氏のトーテム説にいたっては、あれだけの研究では、にわかに左袒(さたん)することのできぬのはもちろんである。

 こういうと、なんだか柳田先生のご説に、反対するように聞こえるが、角(つの)の有無をもって鹿と獅子の区別をすることは、再考の余地があるように思われる。

第三巻 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉  月末最終号:無料
鹿踊りのはじまり 宮沢賢治
奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  一 緒言
  二 シシ踊りは鹿踊り
  三 伊予宇和島地方の鹿の子踊り
  四 アイヌのクマ祭りと捕獲物供養
  五 付記

 奥羽地方には各地にシシ踊りと呼ばるる一種の民間舞踊がある。地方によって多少の相違はあるが、だいたいにおいて獅子頭を頭につけた青年が、数人立ちまじって古めかしい歌謡を歌いつつ、太鼓の音に和して勇壮なる舞踊を演ずるという点において一致している。したがって普通には獅子舞あるいは越後獅子などのたぐいで、獅子奮迅・踊躍の状を表象したものとして解せられているが、奇態なことにはその旧仙台領地方におこなわるるものが、その獅子頭に鹿の角(つの)を有し、他の地方のものにも、またそれぞれ短い二本の角がはえているのである。
 楽舞用具の一種として獅子頭のわが国に伝わったことは、すでに奈良朝のころからであった。くだって鎌倉時代以後には、民間舞踊の一つとして獅子舞の各地におこなわれたことが少なからず文献に見えている。そしてかの越後獅子のごときは、その名残りの地方的に発達・保存されたものであろう。獅子頭はいうまでもなくライオンをあらわしたもので、本来、角があってはならぬはずである。もちろんそれが理想化し、霊獣化して、彫刻家の意匠により、ことさらにそれに角を付加するということは考えられぬでもない。武蔵南多摩郡元八王子村なる諏訪神社の獅子頭は、古来、龍頭とよばれて二本の長い角が斜めにはえているので有名である。しかしながら、仙台領において特にそれが鹿の角であるということは、これを霊獣化したとだけでは解釈されない。けだし、もと鹿供養の意味からおこった一種の田楽的舞踊で、それがシシ踊りと呼ばるることからついに獅子頭とまで転訛するに至り、しかもなお原始の鹿角を保存して、今日におよんでいるものであろう。

第三巻 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝  定価:200円
魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝

倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。漢時有朝見者、今使訳所通三十国。従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千余里。始度一海千余里、至対馬国、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島、方可四百余里(略)。又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国〔一支国か〕(略)。又渡一海千余里、至末盧国(略)。東南陸行五百里、到伊都国(略)。東南至奴国百里(略)。東行至不弥国百里(略)。南至投馬国水行二十日、官曰弥弥、副曰弥弥那利、可五万余戸。南至邪馬壱国〔邪馬台国〕、女王之所都、水行十日・陸行一月、官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰奴佳�、可七万余戸。(略)其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟、佐治国、自為王以来、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、伝辞出入居処。宮室・楼観・城柵厳設、常有人持兵守衛。

第三巻 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南  定価:200円
  一、本文の選択
  二、本文の記事に関するわが邦(くに)最旧の見解
  三、旧説に対する異論
 『後漢書』『三国志』『晋書』『北史』などに出でたる倭国女王卑弥呼のことに関しては、従来、史家の考証はなはだ繁く、あるいはこれをもってわが神功皇后とし、あるいはもって筑紫の一女酋とし、紛々として帰一するところなきが如くなるも、近時においてはたいてい後説を取る者多きに似たり。(略)
 卑弥呼の記事を載せたる支那史書のうち、『晋書』『北史』のごときは、もとより『後漢書』『三国志』に拠りたること疑いなければ、これは論を費やすことをもちいざれども、『後漢書』と『三国志』との間に存する�異(きい)の点に関しては、史家の疑惑をひく者なくばあらず。『三国志』は晋代になりて、今の范曄の『後漢書』は、劉宋の代になれる晩出の書なれども、両書が同一事を記するにあたりて、『後漢書』の取れる史料が、『三国志』の所載以外におよぶこと、東夷伝中にすら一、二にして止まらざれば、その倭国伝の記事もしかる者あるにあらずやとは、史家のどうもすれば疑惑をはさみしところなりき。この疑惑を決せんことは、すなわち本文選択の第一要件なり。
 次には本文のうち、各本に字句の異同あることを考えざるべからず。『三国志』について言わんに、余はいまだ宋板本を見ざるも、元槧明修本、明南監本、乾隆殿板本、汲古閣本などを対照し、さらに『北史』『通典』『太平御覧』『冊府元亀』など、この記事を引用せる諸書を参考してその異同の少なからざるに驚きたり。その�異を決せんことは、すなわち本文選択の第二要件なり。

第三巻 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南  定価:200円
  四、本文の考証
帯方 / 旧百余国。漢時有朝見者。今使訳所通三十国。 / 到其北岸狗邪韓国 / 対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国 / 南至投馬國。水行二十日。/ 南至邪馬壹國。水行十日。陸行一月。/ 斯馬国 / 已百支国 / 伊邪国 / 郡支国 / 弥奴国 / 好古都国 / 不呼国 / 姐奴国 / 対蘇国 / 蘇奴国 / 呼邑国 / 華奴蘇奴国 / 鬼国 / 為吾国 / 鬼奴国 / 邪馬国 / 躬臣国 / 巴利国 / 支惟国 / 烏奴国 / 奴国 / 此女王境界所盡。其南有狗奴國 / 会稽東治
南至投馬國。水行二十日。  これには数説あり、本居氏は日向国児湯郡に都万神社ありて、『続日本後紀』『三代実録』『延喜式』などに見ゆ、此所にてもあらんかといえり。鶴峰氏は『和名鈔』に筑後国上妻郡、加牟豆万、下妻郡、准上とある妻なるべしといえり。ただし、その水行二十日を投馬より邪馬台に至る日程と解したるは著しき誤謬なり。黒川氏は三説をあげ、一つは鶴峰説に同じく、二つは「投」を「殺」の譌りとみて、薩摩国とし、三つは『和名鈔』、薩摩国麑島郡に都万郷ありて、声近しとし、さらに「投」を「敏」の譌りとしてミヌマと訓み、三潴郡とする説をもあげたるが、いずれも穏当ならずといえり。『国史眼』は設馬の譌りとして、すなわち薩摩なりとし、吉田氏はこれを取りて、さらに『和名鈔』の高城郡托摩郷をもあげ、菅氏は本居氏に従えり。これを要するに、みな邪馬台を筑紫に求むる先入の見に出で、「南至」といえる方向に拘束せられたり。しかれども支那の古書が方向をいう時、東と南と相兼ね、西と北と相兼ぬるは、その常例ともいうべく、またその発程のはじめ、もしくは途中のいちじるしき土地の位置などより、方向の混雑を生ずることも珍しからず。『後魏書』勿吉伝に太魯水、すなわち今の�児河より勿吉、すなわち今の松花江上流に至るによろしく東南行すべきを東北行十八日とせるがごとき、陸上におけるすらかくのごとくなれば海上の方向はなおさら誤り易かるべし。ゆえに余はこの南を東と解して投馬国を『和名鈔』の周防国佐婆郡〔佐波郡か。〕玉祖郷〈多萬乃於也〉にあてんとす。この地は玉祖宿祢の祖たる玉祖命、またの名、天明玉命、天櫛明玉命をまつれるところにして周防の一宮と称せられ、今の三田尻の海港をひかえ、内海の衝要にあたれり。その古代において、玉作を職とせる名族に拠有せられて、五万余戸の集落をなせしことも想像し得べし。日向・薩摩のごとき僻陬とも異なり、また筑後のごとく、路程の合いがたき地にもあらず、これ、余がかく定めたる理由なり。

第三巻 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南  月末最終号:無料
  四、本文の考証(つづき)
爾支 / 泄謨觚、柄渠觚、�馬觚 / 多模 / 弥弥、弥弥那利 / 伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳� / 狗古智卑狗
卑弥呼 / 難升米 / 伊声耆掖邪狗 / 都市牛利 / 載斯烏越 / 卑弥弓呼素 / 壱与
  五、結論
    付記
 次に人名を考証せんに、その主なる者はすなわち、「卑弥呼」なり。余はこれをもって倭姫命に擬定す。その故は前にあげたる官名に「伊支馬」「弥馬獲支」あるによりて、その崇神・垂仁二朝を去ること遠からざるべきことを知る、一つなり。「事二鬼道一、能惑レ衆」といえるは、垂仁紀二十五年の記事ならびにその細注、『延暦儀式帳』『倭姫命世記』などの所伝を総合して、もっともこの命(みこと)の行事に適当せるを見る。その天照大神の教えにしたがいて、大和より近江・美濃・伊勢諸国を遍歴し、〈『倭姫世記』によれば尾張・丹波・紀伊・吉備にもおよびしが如し〉いたるところにその土豪より神戸・神田・神地を徴して神領とせるは、神道設教の上古を離るること久しき魏人より鬼道をもって衆を惑わすと見えしも怪しむに足らざるべし、二つなり。余が邪馬台の旁国の地名を擬定せるは、もとより務めて大和の付近にして、倭姫命が遍歴せる地方より選び出したれども、その多数がはなはだしき付会におちいらずして、伊勢を基点とせる地方に限定することを得たるは、また一証とすべし、三つなり。(略)「卑弥呼」の語解は本居氏がヒメコの義とするは可なれども、神代巻に火之戸幡姫児千々姫ノ命、また万幡姫児玉依姫ノ命などある「姫児(ヒメコ)」に同じとあるは非にして、この二つの「姫児」は平田篤胤のいえるごとく姫の子の義なり。「弥」を「メ」と訓(よ)む例は黒川氏の『北史国号考』に「上宮聖徳法王帝説、繍張文の吉多斯比弥乃弥己等(キタシヒメノミコト)、また等已弥居加斯支移比弥乃弥己等(トヨミケカシキヤヒメノミコト)、注云 弥字或当二売音一也」とあるを引けるなどに従うべし。
付記 余がこの編を出せる直後、すでに自説の欠陥を発見せしものあり、すなわち「卑弥呼」の名を考証せる条中に『古事記』神代巻にある火之戸幡姫児(ヒノトバタヒメコ)、および万幡姫児(ヨロヅハタヒメコ)の二つの「姫児」の字を本居氏にしたがいて、ヒメコと読みしは誤りにして、平田氏のヒメノコと読みしが正しきことを認めたれば、今の版にはこれを改めたり。

第三巻 第一〇号 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫  定価:200円
最古日本の女性生活の根底
  一 万葉びと――琉球人
  二 君主――巫女
  三 女軍(めいくさ)
  四 結婚――女の名
  五 女の家
稲むらの陰にて
 古代の歴史は、事実の記憶から編み出されたものではない。神人(かみびと)に神憑(がか)りした神の、物語った叙事詩から生まれてきたのである。いわば夢語りともいうべき部分の多い伝えの、世をへて後、筆録せられたものにすぎない。(略)神々の色彩を持たない事実などの、後世に伝わりようはあるべきはずがないのだ。(略)女として神事にあずからなかった者はなく、神事に関係せなかった女の身の上が、物語の上に伝誦せられるわけがなかったのである。
(略)村々の君主の下になった巫女が、かつては村々の君主自身であったこともあるのである。『魏志』倭人伝の邪馬台(ヤマト)国の君主卑弥呼は女性であり、彼の後継者も女児であった。巫女として、呪術をもって、村人の上に臨んでいたのである。が、こうした女君制度は、九州の辺土には限らなかった。卑弥呼と混同せられていた神功皇后も、最高巫女としての教権をもって、民を統べていられた様子は、『日本紀』を見れば知られることである。(略)
 沖縄では、明治の前までは国王の下に、王族の女子あるいは寡婦が斎女王(いつきのみこ)同様の仕事をして、聞得大君(きこえうふきみ)(ちふいぢん)と言うた。尚家の中途で、皇后の下に位どられることになったが、以前は沖縄最高の女性であった。その下に三十三君というて、神事関係の女性がある。それは地方地方の神職の元締めのような位置にいる者であった。その下にあたるノロ(祝女)という、地方の神事官吏なる女性は今もいる。そのまた下にその地方の家々の神につかえる女の神人がいる。この様子は、内地の昔を髣髴(ほうふつ)させるではないか。沖縄本島では聞得大君を君主と同格に見た史実がない。が、島々の旧記にはその痕跡が残っている。(「最古日本の女性生活の根底」より)

第三巻 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦  定価:200円
瀬戸内海の潮と潮流
コーヒー哲学序説
神話と地球物理学
ウジの効用
 一体、海の面はどこでも一昼夜に二度ずつ上がり下がりをするもので、それを潮の満干といいます。これは月と太陽との引力のためにおこるもので、月や太陽がたえず東から西へまわるにつれて、地球上の海面の高くふくれた満潮の部分と低くなった干潮の部分もまた、だいたいにおいて東から西へ向かって大洋の上を進んで行きます。このような潮の波が内海のようなところへ入って行きますと、いろいろに変わったことがおこります。ことに瀬戸内海のように外洋との通路がいくつもあり、内海の中にもまた瀬戸がたくさんあって、いくつもの灘に分かれているところでは、潮の満干もなかなか込み入ってきて、これをくわしく調べるのはなかなか難しいのです。しかし、航海の頻繁なところであるから潮の調査は非常に必要なので、海軍の水路部などではたくさんな費用と時日を費やしてこれを調べておられます。東京あたりと四国の南側の海岸とでは満潮の時刻は一時間くらいしか違わないし、満干の高さもそんなに違いませんが、四国の南側とその北側とでは満潮の時刻はたいへんに違って、ところによっては六時間も違い、一方の満潮の時に他のほうは干潮になることもあります。また、内海では満干の高さが外海の倍にもなるところがあります。このように、あるところでは満潮であるのに他のところでは干潮になったり、内海の満干の高さが外海の満干の高さの倍になるところのあるのは、潮の流れがせまい海峡を入るためにおくれ、また、方々の入口から入り乱れ、重なり合うためであります。(「瀬戸内海の潮と潮流」より)

第三巻 第一二号 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦  定価:200円
日本人の自然観
 緒言
 日本の自然
 日本人の日常生活
 日本人の精神生活
 結語
天文と俳句
 もしも自然というものが、地球上どこでも同じ相貌(そうぼう)をあらわしているものとしたら、日本の自然も外国の自然も同じであるはずであって、したがって上記のごとき問題の内容吟味は不必要であるが、しかし実際には、自然の相貌がいたるところむしろ驚くべき多様多彩の変化を示していて、ひと口に自然と言ってしまうにはあまりに複雑な変化を見せているのである。こういう意味からすると、同じように、「日本の自然」という言葉ですらも、じつはあまりに漠然としすぎた言葉である。(略)
 こう考えてくると、今度はまた「日本人」という言葉の内容が、かなり空疎な散漫なものに思われてくる。九州人と東北人とくらべると各個人の個性を超越するとしても、その上にそれぞれの地方的特性の支配が歴然と認められる。それで九州人の自然観や、東北人の自然観といったようなものもそれぞれ立派に存立しうるわけである。(略)
 われわれは通例、便宜上、自然と人間とを対立させ、両方別々の存在のように考える。これが現代の科学的方法の長所であると同時に短所である。この両者は、じつは合わして一つの有機体を構成しているのであって、究極的には独立に切り離して考えることのできないものである。(略)
 日本人の先祖がどこに生まれ、どこから渡ってきたかは別問題として、有史以来二千有余年、この土地に土着してしまった日本人が、たとえいかなる遺伝的記憶をもっているとしても、その上層を大部分掩蔽(えんぺい)するだけの経験の収穫をこの日本の環境から受け取り、それにできるだけしっくり適応するように努力し、また少なくも、部分的にはそれに成効してきたものであることには疑いがないであろうと思われる。(「日本人の自然観」より)

第三巻 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉  定価:200円
 倭人の名は『山海経』『漢書』『論衡』などの古書に散見すれども、その記事いずれも簡単にして、これによりては、いまだ上代における倭国の状態をうかがうに足(た)らず。しかるにひとり『魏志』の「倭人伝」に至りては、倭国のことを叙することすこぶる詳密にして、しかも伝中の主人公たる卑弥呼女王の人物は、赫灼(かくしゃく)として紙上に輝き、読者をしてあたかも暗黒の裡に光明を認むるがごとき感あらしむ。(略)
 それすでに里数をもってこれを測るも、また日数をもってこれを稽(かんが)うるも、女王国の位置を的確に知ることあたわずとせば、はたしていかなる事実をかとらえてこの問題を解決すべき。余輩は幾度か『魏志』の文面を通読玩索(がんさく)し、しかして後、ようやくここに確乎動かすべからざる三個の目標を認め得たり。しからばすなわち、いわゆる三個の目標とは何ぞや。いわく邪馬台国は不弥国より南方に位すること、いわく不弥国より女王国に至るには有明の内海を航行せしこと、いわく女王国の南に狗奴国と称する大国の存在せしこと、すなわちこれなり。さて、このうち第一・第二の二点は『魏志』の文面を精読して、たちまち了解せらるるのみならず、先輩すでにこれを説明したれば、しばらくこれを措(お)かん。しかれども第三点にいたりては、『魏志』の文中明瞭の記載あるにもかかわらず、余輩が日本学会においてこれを述べたる時までは、何人もかつてここに思い至らざりしがゆえに、また、この点は本論起草の主眼なるがゆえに、余輩は狗奴国の所在をもって、この問題解決の端緒を開かんとす。

第三巻 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉  月末最終号:無料
 九州の西海岸は潮汐満乾の差はなはだしきをもって有名なれば、上に記せる塩盈珠(しおみつたま)・塩乾珠(しおひるたま)の伝説は、この自然的現象に原因しておこれるものならん。ゆえに神典に見えたる彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と火闌降命(ほのすそりのみこと)との争闘は、『魏志』によりて伝われる倭女王と狗奴(くな)男王との争闘に類せる政治的状態の反映とみなすべきものなり。
 『魏志』の記すところによれば、邪馬台国はもと男子をもって王となししが、そののち国中混乱して相攻伐し、ついに一女子を立てて王位につかしむ。これを卑弥呼となす。この女王登位の年代は詳らかならざれども、そのはじめて魏国に使者を遣わしたるは、景初二年すなわち西暦二三八年なり。しかして正始八年すなわち西暦二四七年には、女王、狗奴国の男王と戦闘して、その乱中に没したれば、女王はけだし後漢の末葉よりこの時まで九州の北部を統治せしなり。女王死してのち国中また乱れしが、その宗女壱与(いよ)なる一小女を擁立するにおよんで国乱定まりぬ。卑弥呼の仇敵狗奴国の男王卑弓弥呼(ヒコミコ)は何年に即位し何年まで在位せしか、『魏志』に伝わらざれば、またこれを知るに由なし。しかれども正始八年(二四七)にこの王は女王卑弥呼と戦って勝利を得たれば、女王の嗣者壱与(いよ)の代におよんでも、依然として九州の南部に拠りて、暴威を逞(たくま)しうせしに相違なし。

第三巻 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉  定価:200円
倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う
倭奴国および邪馬台国に関する誤解
 考古界の重鎮高橋健自君逝(い)かれて、考古学会長三宅先生〔三宅米吉。〕の名をもって追悼の文をもとめられた。しかもまだ自分がその文に筆を染めぬ間にその三宅先生がまた突然逝かれた。本当に突然逝かれたのだった。青天の霹靂というのはまさにこれで、茫然自失これを久しうすということは、自分がこの訃報に接した時にまことに体験したところであった。
 自分が三宅先生とご懇意を願うようになったのは、明治三十七、八年(一九〇四・一九〇五)戦役のさい、一緒に戦地見学に出かけた時であった。十数日間いわゆる同舟の好みを結び、あるいは冷たいアンペラの上に御同様南京虫を恐がらされたのであったが、その間にもあの沈黙そのもののごときお口から、ポツリポツリと識見の高邁なところをうけたまわるの機会を得て、その博覧強記と卓見とは心から敬服したことであった。今度考古学会から、先生のご研究を記念すべき論文を募集せられるというので、倭奴国および邪馬台国に関する小篇をあらわして、もって先生の学界における功績を追懐するの料とする。
 史学界、考古学界における先生の遺された功績はすこぶる多い。しかしその中において、直接自分の研究にピンときたのは漢委奴国王の問題の解決であった。うけたまわってみればなんの不思議もないことで、それを心づかなかった方がかえって不思議なくらいであるが、そこがいわゆるコロンブスの卵で、それまで普通にそれを怡土国王のことと解して不思議としなかったのであった。さらに唐人らの輩にいたっては、それをもって邪馬台国のことなりとし、あるいはただちに倭国全体の称呼であるとまで誤解していたのだった。

第三巻 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)  定価:200円
 長いクロワゼットの散歩路が、あおあおとした海に沿うて、ゆるやかな弧を描いている。はるか右のほうにあたって、エストゥレルの山塊がながく海のなかに突き出て眼界をさえぎり、一望千里のながめはないが、奇々妙々を極めた嶺岑(みね)をいくつとなく擁するその山姿は、いかにも南国へ来たことを思わせる、うつくしいながめであった。
 頭をめぐらして右のほうを望むと、サント・マルグリット島とサント・オノラ島が、波のうえにぽっかり浮かび、樅(もみ)の木におおわれたその島の背を二つ見せている。
 この広い入江のほとりや、カンヌの町を三方から囲んで屹立(きつりつ)している高い山々に沿うて、数知れず建っている白亜の別荘は、おりからの陽ざしをさんさんと浴びて、うつらうつら眠っているように見えた。そしてはるか彼方には、明るい家々が深緑の山肌を、その頂から麓のあたりまで、はだれ雪のように、まだらに点綴(てんてい)しているのが望まれた。
 海岸通りにたちならんでいる家では、その柵のところに鉄の格子戸がひろい散歩路のほうに開くようにつけてある。その路のはしには、もう静かな波がうちよせてきて、ザ、ザアッとそれを洗っていた。――うらうらと晴れわたった、暖かい日だった。冬とは思われない陽ざしの降りそそぐ、なまあたたかい小春日和である。輪を回して遊んでいる子供を連れたり、男となにやら語らいながら、足どりもゆるやかに散歩路の砂のうえを歩いてゆく女の姿が、そこにもここにも見えた。

第三巻 第一七号 高山の雪 小島烏水  定価:200円
 古い雪の上に新雪が加わると、その翌る朝などは、新雪が一段と光輝を放ってまばゆく見える。雪は古くなるほど、結晶形を失って、粒形に変化するもので、粒形になると、純白ではなくなる。また粒形にならないまでも、古い雪に白い輝きがなくなるのは、一部は空気を含むことが少ないからで、一部は鉱物の分子だの、塵芥(じんかい)泥土だのが加わって、黄色、灰色、またはトビ色に変わってしまうからだ。ことに日本北アルプスの飛騨山脈南部などでは、硫黄岳という活火山の降灰のために、雪のおもてが、瀝青(チャン)を塗ったように黒くなることがある。「黒い雪」というものは、私ははじめて、その硫黄岳のとなりの、穂高岳で見た。黒い雪ばかりじゃない、「赤い雪」も槍ヶ岳で私の実見したところである。私は『日本アルプス』第二巻で、それを「色が桃紅なので、水晶のような氷の脈にも血管が通っているようだ」と書いて、原因を花崗岩の※爛(ばいらん)した砂に帰したが、これは誤っている。赤い雪は南方熊楠氏の示教せられたところによれば、スファエレラ・ニヴァリス Sphaerella Nivalis という単細胞の藻で、二本のひげがある。水中を泳ぎまわっているが、またひげを失ってまるい顆粒となり、静止してしまう。それが紅色を呈するため、雪が紅になるので、あまり珍しいものではないそうである。ただし槍ヶ岳で見たのも、同種のものであるや否やは、断言できないが、要するに細胞の藻類であることは、たしかであろうと信ずる。ラボックの『スイス風景論』中、アルプス地方に見る紅雪として、あげてあるのも、やはり同一な細胞藻であった。このほかにアンシロネマ Ancylonema という藻がはえて、雪を青色またはスミレ色に染めることもあるそうであるが、日本アルプス地方では、私はいまだそういう雪を見たことはない。

第三巻 第一八号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(一)徳永 直  月末最終号:無料
 昭和十八年(一九四三)三月のある日、私は“嘉平の活字”をさがすため、東京発鹿児島行きの急行に乗っていた。伴(つ)れがあって、七歳になる甥と、その母親の弟嫁とが、むかいあってこしかけているが、厚狭、小月あたりから、海岸線の防備を見せまいためか、窓をおろしてある車内も、ようやく白んできた。戦備で、すっかり形相のかわった下関構内にはいったころは、乗客たちも洗面の水もない不自由さながら、それぞれに身づくろいして、朝らしく生きかえった顔色になっている……。
 と、私はこの小説だか何だかわからない文章の冒頭をはじめるが、これを書いているのは昭和二十三年(一九四八)夏である。読者のうちには、昭和十八年に出版した同題の、これの上巻を読まれた方もあるかと思うが、私が「日本の活字」の歴史をさがしはじめたのは昭和十四年(一九三九)からだから、まもなくひと昔になろうとしているわけだ。歴史などいう仕事にとっては、十年という月日はちょっとも永くないものだと、素人の私にもちかごろわかってきているが、それでも、鉄カブトに巻ゲートルで、サイレンが鳴っても空襲サイレンにならないうちは、これのノートや下書きをとる仕事をつづけていたころとくらべると、いまは現実の角度がずいぶん変わってきている。弱い歴史の書物など、この変化の関所で、どっかへふっとんだ。いまの私は半そでシャツにサルマタで机のまえにあぐらでいるけれど、上巻を読みかえしてみると、やはり天皇と軍閥におされた多くのひずみを見出さないわけにはゆかない。歴史の真実をえがくということも、階級のある社会では、つねにはげしい抵抗をうける。変わったとはいえ、戦後三年たって、ちがった黒雲がますます大きくなってきているし、新しい抵抗を最初の数行から感じずにいられぬが、はたして、私の努力がどれくらい、歴史の真実をえがき得るだろうか?

第三巻 第一九号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(二)徳永 直  定価:200円
 「江戸期の印刷工場」が近代的な印刷工場に飛躍するためには、活字のほかにいくつかの条件が必要である。第一にはバレンでこするかわりに、鉄のハンドでしめつけるプレスである。第二に、速度のある鋳造機である。第三に、バレン刷りにはふさわしくても金属活字に不向きな「和紙」の改良である。そして第四は、もっともっと重要だが、近代印刷術による印刷物の大衆化を見とおし、これを開拓してゆくところのイデオロギーである。特定の顧客であった大名や貴族、文人や墨客から離脱して、開国以後の新空気に胎動する平民のなかへゆこうとする思想であった。
 苦心の電胎字母による日本の活字がつくれても、それが容易に大衆化されたわけではない。のちに見るように「長崎の活字」は、はるばる「東京」にのぼってきても買い手がなくて、昌造の後継者平野富二は大童(おおわらわ)になって、その使用法や効能を宣伝しなければならなかったし、和製のプレスをつくって売り広めなければならなかったのである。つまり日本の近代的印刷工場が誕生するためには、総合的な科学の力と、それにもまして新しい印刷物を印刷したい、印刷することで大衆的におのれの意志を表現しようとする中味が必要であった。たとえばこれを昌造の例に見ると、彼は蒸汽船をつくり、これを運転し、また鉄を製煉し、石鹸をつくり、はやり眼を治し、痘瘡をうえた。活字をつくると同時に活字のボディに化合すべきアンチモンを求めて、日本の鉱山の半分くらいは探しまわったし、失敗に終わったけれど、いくたびか舶来のプレスを手にいれて、これの操作に熟練しようとした。これらの事実は、ガンブルがくる以前、嘉永から慶応までのことであるが、同時に、昌造が活字をつくったとき最初の目的が、まずおのれの欲する中味の本を印刷刊行したいことであった。印刷して、大名や貴族、文人や墨客ではない大衆に読ませたいということであった。それは前編で見たように、彼が幕府から捕らわれる原因ともなった流し込み活字で印刷した『蘭語通弁』〔蘭和通弁か〕や、電胎活字で印刷した『新塾余談』によっても明らかである。

第三巻 第二〇号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(三)徳永 直  定価:200円
 第一に、ダイアはアルファベット活字製法の流儀にしたがって鋼鉄パンチをつくった。凹型銅字母から凸型活字の再生まで嘉平や昌造と同様であるが、字画の複雑な漢字を「流しこみ」による鋳造では、やさしくないということを自覚していること。自覚していること自体が、アルファベット活字製法の伝統でそれがすぐわかるほど、逆にいえば自信がある。
 第二は、ダイアはたとえば嘉平などにくらべると、後に見るように活字製法では「素人」である。嘉平も昌造も自分でパンチを彫ったが、そのダイアは「労働者を使用し」た。(略)
 第三に、ダイアの苦心は活字つくりの実際にもあるが、もっと大きなことは、漢字の世界を分析し、システムをつくろうとしていることである。アルファベット人のダイアは、漢字活字をつくる前に漢字を習得しなければならなかった。(略)
 さて、ペナンで発生したダイア活字は、これから先、どう発展し成功していったかは、のちに見るところだけれど、いまやパンチによる漢字活字が実際的に誕生したことはあきらかであった。そして、嘉平や昌造よりも三十年早く。日本では昌造・嘉平の苦心にかかわらず、パンチでは成功しなかった漢字活字が、ダイアによっては成功したということ。それが、アルファベット人におけるアルファベット活字製法の伝統と技術とが成功させたものであるということもあきらかであった。そして、それなら、この眼玉の青い連中は、なんで世界でいちばん難しい漢字をおぼえ、活字までつくろうとするのか? いったい、サミュエル・ダイアなる人物は何者か? 世界の同志によびかけて拠金をつのり、世界三分の一の人類の幸福のために、と、彼らは、なんでさけぶのか? 私はそれを知らねばならない。それを知らねば、ダイア活字の、世界で最初の漢字鉛活字の誕生したその根拠がわからぬ、と考えた。

第三巻 第二一号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(四)徳永 直  定価:200円
 アジアには十六世紀を前後して銅活字の時代があり、朝鮮でも日本でもおこなわれている。秀吉の朝鮮侵略のみやげものに端を発している家康・家光時代の銅活字印刷があるけれど、それにくらべると、このさし絵に見る康熙帝の印刷局ははるかに大規模で組織的であることがわかる。しかし、日本でも『お湯殿日記』に見るような最初の文選工は「お公卿たち」であったが、支那でもあごひげの長い官人たちであった。明治になって印刷術が近代化されてからでも、印刷工業をおこした人々の多くが、武家など文字になじみのある階級だったように、私の徒弟だったころの先輩の印刷工の多くが、やはり士族くずれだったことを思い出す。(略)
 武英殿の銅活字は康熙帝の孫、高宗〔乾隆帝〕の代になるとつぶされて銅貨となった。日本でも家康時代の銅活字は同じ運命をたどっているけれど、支那のばあいは銅貨の不足が原因といわれている。しかし、もっと大きな原因は金属活字にあって、漢字組織ができないならば、またプレス式の印刷機もないとするならば、むしろ手わざの発達による木版の方が容易であり便利であった。ボディが銅であれ鉛であれ、それが彫刻に過ぎないならば、むしろ木版にしくはない。銅活字がほろびて再び木版術が栄え、極彩色の芸術的な印刷物もできるようになった。康熙・乾隆の時代に見られるこの傾向は、十七世紀の終わりから十八世紀のなかほどまでであるが、江戸中期から木版術が再興し、世界にたぐいない木版印刷術を生み出した日本と時間的にもほぼ一致している――ということも、漢字が持つ共通の宿命がするわざであったろう。

第三巻 第二二号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(五)徳永 直  月末最終号:無料
 『東洋文化史上におけるキリスト教』(三六二ページ)で溝口靖夫氏は、前に述べたメドハーストが(Ibid, P.366)自分の当時の経験を追懐した文章を根拠にして、つぎのように述べているところがある。――第五の困難は、アヘン問題と宣教師の関係であった。メドハーストが広東に着いた一八三五年は、アヘン戦争の直前であり、支那と英国のあいだに険悪な空気がみなぎっていた。このときにあたって宣教師たちは、きわめて困難なる立場に置かれた。宣教師たちは、しばしばアヘンを積んだ船に乗ってきた。しかも、メドハーストらは切符は買っているが、積荷について容嘴(ようし)する権利はなかった。……宣教師は、英国人と支那人との間に立って、しばしば通訳の労をとらねばならなかったが、こんなとき支那人はアヘン貿易は正義にかなえるものなりや否や? をただすのであった。……ゆえに当時、宣教師たちのこいねがったのは、一艘の伝道用船を得ることであった。これによりアヘンの罪悪からまぬがるることであった。――一艘の伝道船で、アヘンから逃れることはできないけれど、一口にいって「インドからの手紙」は、英国議会をして宣教師らの活動を保証させる決議案をパスさせながら、こんどは「信教の自由憲章」を勝ち取らねばならぬほどそれが首かせになったことを示している。つまり、産業革命が生み出したアルファベット人種の革命的進歩性は、おなじ産業革命が生み出した「アヘンの罪悪」と衝突しなければならなかったが、この矛盾こそ資本主義の矛盾の中味であり、限界であった。

第三巻 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治  定価:200円
「ですから、もしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを大きな乳の流れと考えるなら、もっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油(あぶら)の球にもあたるのです。(略)」
 先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズをさしました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶが、みんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いので、わずかの光る粒、すなわち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒すなわち星がたくさん見え、その遠いのはボウッと白く見えるという、これがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、また、その中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この次の理科の時間にお話しします。では今日はその銀河のお祭りなのですから、みなさんは外へ出て、よく空をごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。
 そして教室じゅうはしばらく机のふたをあけたりしめたり本をかさねたりする音がいっぱいでしたが、まもなく、みんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。 

第三巻 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治  定価:200円
 そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルと転轍器(てんてつき)の灯をすぎ、小さな停車場に止まりました。
 その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示し、その振子は、風もなくなり汽車も動かずしずかなしずかな野原のなかに、カチッカチッと正しく時をきざんで行くのでした。
 そしてまったくその振子の音の間から遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れてくるのでした。「新世界交響楽だわ。」むこうの席の姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言いました。まったくもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。
(こんなしずかないいところで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい。僕といっしょに汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかり話しているんだもの。僕はほんとうにつらい。)
 ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして、むこうの窓の外を見つめていました。
 透きとおったガラスのような笛が鳴って、汽車はしずかに動き出し、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛をふきました。

第三巻 第二五号 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治  定価:200円
 空が青くすみわたり、ドングリはピカピカしてじつにきれいでした。
「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山ねこが、すこし心配そうに、それでもむりに威張(いば)って言いますと、ドングリどもは口々にさけびました。
「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」もうみんな、ガヤガヤガヤガヤ言って、なにがなんだか、まるで蜂の巣をつっついたようで、わけがわからなくなりました。そこで山猫がさけびました。
「やかましい! ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ!」

第三巻 第二六号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(六)徳永 直  定価:200円
 活字が日本に渡るには、他の条件が必要であった。そして、その他の条件のうちもっとも大きなものは、やはり文久二年・一八六二年の日本幕府がはじめてやった貿易船千歳丸の上海入港であったろう。(略)経済的にいえばこの貿易は失敗したけれど、不馴れな幕府の役人たちは積荷をそのまま持ち戻るはめにもなったけれど、オランダの役人につれられて各国の領事たちにあったり、諸外国人の活動ぶりを見てびっくりした。たとえばこれを便乗者・高杉一人の場合に見てもあきらかである。(略)その後二年あまりで、攘夷の中心長州藩が領民に洋品使用の禁を解き、薩摩や佐賀と前後して海外貿易を営なんだ急角度の転回も、したがって「薩長締盟」を可能にした思想的背景も、このときの千歳丸便乗によって彼が上海で感得したものによるところ、はなはだ多いといわれている。
 (略)第一回の千歳丸のときは高杉のほかに中牟田や五代〔五代友厚か。〕や浜松藩の名倉(なぐら)予可人(あなと)などあったが、第二回の健順丸のときは、前巻でなじみの昌造の同僚で長崎通詞、安政開港に功労のあった森山多吉郎、先の栄之助がいまは外国奉行支配調役として乗り組んでいたし、第三回目、慶応三年(一八六七)の同じく幕府船ガンジス号のときは、佐倉藩士高橋作之助〔猪之助か。(のちの由一)ら多数があり、たび重なるにつれて上海渡航者の数は急速に増えていった。(略)
 また、官船以外の密航者、あるいは藩所有の船修理と称して渡航する者もたくさんあった。(略)さては中浜万次郎を案内に立てて汽船を買いに来た土佐藩の後藤象次郎などと、千歳丸以後は「きびす相ついで」いる(略)。

第三巻 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫  月末最終号:無料
黒川能・観点の置き所
 特殊の舞台構造
 五流の親族
 能楽史をかえりみたい
 黒川の能役者へ
村で見た黒川能
能舞台の解説
春日若宮御祭の研究
 おん祭りの今と昔と
 祭りのお練り
 公人の梅の白枝(ずはえ)
 若宮の祭神
 大和猿楽・翁
 影向松・鏡板・風流・開口
 細男(せいのお)・高足・呪師

 山形県には、秋田県へかけて室町時代の芸能に関した民俗芸術が多く残っております。黒川能は、その中でも著しいものの一つで、これと鳥海山の下のひやま舞い〔杉沢比山舞か。〕との二つは、特に皆さまに見ていただきたいものであります。この黒川能が二十数年ぶりでのぼってくるのであります。世話をしてくださった斎藤氏〔斎藤香村か。〕に感謝しなければならないと思います。
 特にこの能で注意しなければならないのは、舞台構造であります。京都の壬生念仏を思わせるような舞台で、上下の廊下が橋掛りになっており、舞台の正面には春日神社の神殿をひかえているのであります。(略)奉仕する役者はというと、上座と下座が二部落にわかれており、ここで能をするときは、上座は左橋掛り(正面から見て)から出て舞い、下座は右橋掛りから出て舞うことになっている。これはもっとも大きな特徴で、今度の公演にいくぶんでも実現できれば結構だと思います。この神前演奏の形は、春日の若宮祭りの第一日の式と同形式といっていいと思います。しかも、黒川ではつねにその形式をくり返しているわけで、見物人よりも神に対する法楽を主としていることがわかります。
(略)おもしろいのは狂言です。表情にも言語にも必ず多少の驚きを受けられるでしょう。ことに方言的な言い回しなどには、つい、われわれも見ていて釣りこまれるものがありました。(「黒川能・観点の置き所」より)

第三巻 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎  定価:200円
面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
能面の様式 / 人物埴輪の眼
(略)しかし「意味ある形」、たとえば「甲冑」を円筒上の人物に着せたとなると、その甲冑は、四肢などに対するとはまったく段ちがいの細かな注意をもって表現されている。(略)それはこの鉄の武器が、人体などよりもはるかに強い関心の対象であったことを示すものであって、いかにも古墳時代の感じ方らしい。(略)
(略)埴輪(はにわ)人形を近くからでなく、三間、五間、あるいはそれ以上に、ときには二、三十間の距離を置いて、ながめてみる必要があると思う。それによって埴輪人形の眼はじつに異様な生気をあらわしてくるのである。もし、この眼が写実的に形作られていたならば、すこし遠のけば、はっきりとは見えなくなるであろう。しかるにこの眼は、そういう形づけを受けず、そばで見れば粗雑に裏までくりぬいた空洞の穴にすぎないのであるが、遠のけば遠のくほど、その粗雑さが見えなくなり、魂の窓としての眼の働きが表面へ出てくる。それが異様な生気を現わしてくるゆえんなのである。眼にそういう働きがあらわれれば、顔面は生気をおび、埴輪人形全体が生きてくるのはもちろんである。古墳時代の人々はそういうふうにして埴輪の人形を見、また、そういうふうに見えるものとして埴輪の人形を作ったのであった。

第三巻 第二九号 火山の話 今村明恒  定価:200円
 桜島噴火はいちじるしい前徴を備えていた。数日前から地震が頻々(ひんぴん)におこることは慣例であるが、今回も一日半前から始まった。また七、八十年前から土地がしだいに隆起しつつあったが、噴火後は元どおりに沈下したのである。そのほか、温泉・冷泉がその温度を高め、あるいは湧出量を増し、あるいは新たに湧出し始めたようなこともあった。
 霧島火山群は東西五里にわたり二つの活火口と多くの死火山とを有している。その二つの活火口とは矛の峰(高さ一七〇〇メートル)の西腹にある御鉢(おはち)と、その一里ほど西にある新燃鉢(しんもえばち)とである。霧島火山はこの二つの活火口で交互に活動するのが習慣のように見えるが、最近までは御鉢が活動していた。ただし享保元年(一七一六)における新燃鉢の噴火は、霧島噴火史上においてもっとも激しく、したがって最高の損害記録をあたえたものであった。
 磐梯山(高さ一八一九メートル)の明治二十一年(一八八八)六月十五日における大爆発は、当時、天下の耳目を聳動(しょうどう)せしめたものであったが、クラカトアには比較すべくもない。このときに磐梯山の大部分は蒸気の膨張力によって吹き飛ばされ、堆積物が渓水をふさいで二、三の湖水を作ったが、東側に流れ出した泥流のために土地のみならず、四百余の村民をも埋めてしまったのである。

第三巻 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 上の巻
   序文
    過去の時代(序文の第一段)
    『古事記』の企画(序文の第二段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
   一、イザナギの命とイザナミの命
    天地のはじめ
    島々の生成
    神々の生成
    黄泉の国
    身禊
   二、アマテラス大神とスサノオの命
    誓約
    天の岩戸
   三、スサノオの命
    穀物の種
    八俣の大蛇
    系譜
 スサノオの命は、かようにして天の世界から逐(お)われて、下界へ下っておいでになり、まず食物をオオゲツ姫の神にお求めになりました。そこでオオゲツ姫が鼻や口、また尻からいろいろのごちそうを出して、いろいろお料理をしてさしあげました。この時にスサノオの命はそのしわざをのぞいて見て、きたないことをして食べさせるとお思いになって、そのオオゲツ姫の神を殺してしまいました。殺された神の身体にいろいろの物ができました。頭にカイコができ、二つの目に稲種ができ、二つの耳にアワができ、鼻にアズキができ、股の間にムギができ、尻にマメができました。カムムスビの命が、これをお取りになって種となさいました。
 かくてスサノオの命は逐いはらわれて出雲の国の肥(ひ)の川上、鳥髪(とりかみ)という所におくだりになりました。このときに箸(はし)がその河から流れてきました。それで川上に人が住んでいるとお思いになってたずねて上っておいでになりますと、老翁と老女と二人があって少女を中において泣いております。そこで「あなたは誰ですか?」とおたずねになったので、その老翁が、「わたくしはこの国の神のオオヤマツミの神の子でアシナヅチといい、妻の名はテナヅチ、娘の名はクシナダ姫といいます」と申しました。また「あなたの泣くわけはどういう次第ですか?」とおたずねになったので「わたくしの女(むすめ)はもとは八人ありました。それを高志(コシ)の八俣の大蛇(おろち)が毎年きて食べてしまいます。今また、それの来る時期ですから泣いています」と申しました。

第三巻 第三一号 現代語訳『古事記』(二)武田祐吉(訳)  月末最終号:無料
 古事記 上の巻
   四、大国主の命
    兎と鰐
    赤貝姫と蛤貝姫
    根の堅州国(かたすくに)
    ヤチホコの神の歌物語
    系譜
    スクナビコナの神
    御諸山の神
    大年の神の系譜
   五、アマテラス大神と大国主の命
    天若日子(あめわかひこ)
    国譲り
   六、ニニギの命
    天降り
    猿女の君
    木の花の咲くや姫
   七、ヒコホホデミの命
    海幸と山幸
    トヨタマ姫
スクナビコナの神 そこで大国主の命が出雲の御大(みほ)の御埼(みさき)においでになった時に、波の上をツルイモのさやを割って船にして、蛾(が)の皮をそっくりはいで着物にして寄ってくる神さまがあります。その名を聞きましたけれども答えません。また、御従者(おとも)の神たちにおたずねになったけれども、みな知りませんでした。ところがヒキガエルが言うことには、「これはクエ彦がきっと知っているでしょう」と申しましたから、そのクエ彦を呼んでおたずねになると、「これはカムムスビの神の御子でスクナビコナの神です」と申しました。よってカムムスビの神に申し上げたところ、「ほんとにわたしの子だ。子どもの中でも、わたしの手の股からこぼれて落ちた子どもです。あなた、アシハラシコオの命と兄弟となってこの国を作り固めなさい」とおおせられました。それで、それから大国主とスクナビコナとお二人が並んでこの国を作り固めたのです。後にはそのスクナビコナの神は、海のあちらへ渡って行ってしまいました。このスクナビコナの神のことを申し上げたクエ彦というのは、今いう山田のカカシのことです。この神は足は歩きませんが、天下のことをすっかり知っている神さまです。
御諸山の神 そこで大国主の命が心憂く思っておおせられたことは、「わたしはひとりではどのようにしてこの国を作り得ましょう。どの神さまといっしょにわたしはこの国を作りましょうか?」とおおせられました。この時に、海上を照らして寄ってくる神さまがあります。その神のおおせられることには、「わたしに対してよくおまつりをしたら、わたしがいっしょになって国を作りましょう。そうしなければ国はできにくいでしょう」とおおせられました。そこで大国主の命が申されたことには、「それなら、どのようにしておまつりをいたしましょう?」と申されましたら、「わたしを大和の国の青々と取り囲んでいる東の山の上におまつりなさい」とおおせられました。これは御諸(みもろ)の山においでになる神さまです。

第三巻 第三二号 現代語訳『古事記』(三)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 中の巻
   一、神武天皇
    東征
    速吸の門
    イツセの命
    熊野から大和へ
    久米歌
    神の御子
    タギシミミの命の変
   二、綏靖天皇以後八代
    綏靖天皇
    安寧天皇
    懿徳天皇
    孝昭天皇
    孝安天皇
    孝霊天皇
    孝元天皇
    開化天皇
   三、崇神天皇
    后妃と皇子女
    美和の大物主
    将軍の派遣
   四、垂仁天皇
    后妃と皇子女
    サホ彦の反乱
    ホムチワケの御子
    丹波の四女王
    時じくの香の木の実
 この天皇〔崇神天皇〕の御世に、流行病がさかんにおこって、人民がほとんどつきようとしました。ここに天皇は、ご憂慮あそばされて、神をまつってお寝みになった晩に、オオモノヌシの大神がお夢にあらわれておおせになるには、「かように病気がはやるのは、わたしの心である。これはオオタタネコをもってわたしを祭らしめたならば、神のたたりが起こらずに国も平和になるだろう」とおおせられました。そこで急使を四方に出してオオタタネコという人を求めたときに、河内の国の美努(みの)の村でその人を探し出してたてまつりました。(略)そこで天皇が非常にお歓びになっておおせられるには、「天下が平らぎ人民が栄えるであろう」とおおせられて、このオオタタネコを神主として御諸山(みもろやま)でオオモノヌシの神をおまつり申し上げました。(略)これによって疫病がやんで国家が平安になりました。
 このオオタタネコを神の子と知ったしだいは、上に述べたイクタマヨリ姫は美しいお方でありました。ところが形姿・威儀並びなき一人の男が夜中にたちまち来ました。そこでたがいに愛でて結婚して住んでいるうちに、何ほどもないのにその嬢子(おとめ)が妊(はら)みました。そこで父母が妊娠したことを怪しんで、その娘に、「お前は自然に妊娠した。夫がないのにどうして妊娠したのか?」とたずねましたから、答えて言うには「名も知らないりっぱな男が夜ごとに来て住むほどに、自然に妊みました」と言いました。そこでその父母が、その人を知りたいと思って、その娘に教えましたのは、「赤土を床のほとりに散らし麻糸を針につらぬいてその着物の裾(すそ)に刺せ」と教えました。よって教えたとおりにして、朝になって見れば、針をつけた麻は戸の鉤穴から貫けとおって、残った麻はただ三輪だけでした。そこで鉤穴から出たことを知って糸をたよりにたずねて行きましたら、三輪山に行って神の社にとまりました。そこで神の御子であるとは知ったのです。その麻の三輪残ったのによってそこを三輪というのです。このオオタタネコの命は、神(みわ)の君・鴨(かも)の君の祖先です。 

第三巻 第三五号 地震の話(一)今村明恒  月末最終号:無料
 一、はしがき
 二、地震学のあらまし
 三、地震に出会ったときの心得(こころえ)
  一、突差(とっさ)の処置
  二、屋外(おくがい)への避難
 日本は地震国であり、また地震学の開けはじめた国である。これは誤りのない事実であるけれども、もし日本は世界中で地震学がもっとも進んだ国であるなどというならば、それはいささかうぬぼれの感がある。実際、地震学のある方面では、日本の研究がもっとも進んでいる点もあるけれども、その他の方面においては必ずしもそうでない。それゆえ著者らは地震学をもって世界に誇ろうなどとは思っていないのみならず、この頃のように、わが国民がくりかえし地震に征服せられてみると、むしろ恥かしいような気持ちもする。すなわち大正十二年(一九二三)の関東大地震においては一〇万の生命と五十五億円の財産とを失い、二年後、但馬の国のケチな地震のため、四〇〇の人命と三〇〇〇万円の財産とを損し、また二年後の丹後地震によって三〇〇〇の死者と一億円の財産損失とを生じた。そしてこれらの損失のほとんど全部は地震後の火災によるものであって、被害民の努力しだいによっては大部分、免れ得られるべき損失であった。しかるに事実はそうでなく、あのような悲惨な結果の続発となったのであるが、これを遠く海外からながめてみると、日本はおそろしい地震国である。地震のたびごとに大火災をおこす国である。外国人は命がけでないと旅行のできない国である。国民は、ああたびたび地震火災に悩まされても少しもこりないもののようである。地震によって命を失うことをなんとも思っていないのかもしれないなどという結論を下されないとも限らぬまい。実際、これは欧米人の多数が日本の地震に対する観念である。かく観察されてみるとき、著者のごとき斯学の専攻者は非常な恥辱を感ぜざるを得ないのである。もちろん、この学問の研究が容易に進歩しないのも震災国たるの一因には相違ないが、しかしながら地震に対して必要な初歩の知識がわが国民に欠けていることが、震災拡大の最大原因であろう。じつに著者のごときは、地震学が今日以上に進歩しなくとも、震災のほとんど全部はこれを免れ得る手段があると考えているものの一人である。

第三巻 第三六号 地震の話(二)今村明恒  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。
 三、地震に出会ったときの心得
  三、階下の危険
  四、屋内にての避難
  五、屋外における避難
  六、津波と山津波(やまつなみ)との注意
  七、災害防止
  八、火災防止(一)
  九、火災防止(二)
 一〇、余震に対する処置
 非局部性の大地震をおこすことのある海洋底に接した海岸地方は、大ゆれの地震にみまわれたばあい、津波についての注意を要する。ただし、津波をともなうほどの地震は最大級のものであるから、倒壊家屋を生ずる区域が数個の国や県にわたることもあり、あるいは震源距離が陸地からあまり遠いために、単に広区域にわたって大ゆれのみを感じ、地震の直接の損害を生じないこともある。
(略)津波とは津の波、すなわち港に現われる大津波であって、暴風など気象上の変調からおこることもあるが、もっとも恐ろしいのは地震津波である。元来、波というから、読者はすぐに風でおこされる波を想像せられるかもしれないが、むしろ潮の差し引きというほうが実際に近い。
(略)明治二十九年(一八九六)の三陸大津波は、その原因、数十里の沖合いにおける海底の地形変動にあったのであるが、津波の常習地たるじょうご形の港湾の奥においては、図に示されたとおり、あるいは八十尺、あるいは七十五尺というような高さの洪水となり、合計二万七〇〇〇人の人命を奪ったのに、港湾の両翼端ではわずかに数尺にすぎないほどのものであったし、その夜、沖合いに漁猟に行っていた村人は、あんな悲惨事が自分の村でおこったことを夢想することもできず、翌朝、跡かたもなく失われた村へ帰って茫然自失したという。
(略)しばしば海底の大地震をおこす場所に接し、そこに向かって大きくじょうご形に開いた地形の港湾がそれにあたるわけであるが、これについで多少の注意をはらうべきは、遠浅の海岸である。たとい海岸線が直線に近くとも、遠浅だけの関係で、波の高さが数倍の程度に増すこともあるから、もし沖合いにおける高さが数尺のものであったならば、前記のごとき地形の沿岸において多少の被害を見ることもある。

※ 価格は税込みです。
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