地震 の話 (二)
三、
わが国における三階建てはもちろん、二階建てもたいてい、各階の柱が
大地震のばあいにおいて、二階建てあるいは三階建て
著者は明治二十七年(一八九四)六月二十日の東京地震を
大正十二年(一九二三)九月一日の関東大地震において、著者のよく知っている
四、
大地震に出会って屋外への安全な避難が
図は明治四十二年(一九〇九)八月十四日、
木造家屋に対しては、処置が比較的に容易であるが、重い洋風建築物であると、そう簡単にはゆかぬ。第一、墜落物も
五、
地震の当初から屋外にいた者も、周囲の状況によっては必ずしも安全であるとはいわれない。また、容易に屋内から逃げ出すことができても、立ち
六、
わが国の大地震は、
非局部性の大地震をおこすことのある
かくして、わが国の太平洋側の沿岸は、非局部性の大地震をおこす海洋底に接しているわけであるが、しかしながら、その海岸線の全部が津波の
右の話を進めるについて必要なのは、津波の概念である。津波に「
こういう
こういう津波は
右のとおり、津波は事実上において「港の波」である。われわれは学術的にもこの名前を
以上の説明によって、津波襲来の常習地の概念が得られたことと思う。しばしば海底の大地震をおこす場所に接し、そこに向かって大きく
津波に
地震のばあいに
関東大地震のばあいにおいては、各所に山津波がおこったが、そのうち
七、災害防止
昔の人は地震の
昔の人の言葉を
余震の勢力、あるいは地震動としての破壊力は、最初の
右のような
大地震のときは大地が
日本において
世界の大地震記録を調べてみると、こういう
西暦一七五五年十一月一日のリスボンの大地震は規模すこぶる広大なものであって、
この地震のばあいにおいて、大地の開閉をおこした所は、リスボンの対岸、アフリカのモロッコ
大地開閉の記事を載せた第三の地震は、西暦一七八三年、イタリア国カラブリアにおこったものであって、地震による死者四万、それに続いておこった
世界大地震の記事において、人畜を
右のような小規模の地割れならば、大正十二年(一九二三)の関東大地震においても経験せられた。場所は、
前に記したジャマイカ地震ならびにリスボン地震における地割れの開閉は、北条小学校におこったような現象がきわめて大規模におこったものとすれば解釈がつくように思う。はたして
右のような
大地震に
下敷になった人を助け出すことは震災の防止上、もっとも大切なことである。なんとなれば震災をこうむる対象物中、人命ほど貴重なものはないからである。もし、そこに火災をおこすおそれが絶対になかったならば、この問題の解決に一点の疑問もおこらないであろう。しかしながら、もしそこに火災をおこすおそれがあり、また実際に
大正十四年(一九二五)五月二十三日の
また、
日本における大地震の統計によれば、あまり大きくない町村において、
八、火災防止(一)
地震にともなう火災は、たいてい地震の後におこるから、それらに対しては注意も行きとどき、
大正十四年(一九二五)五月二十三日の
九、火災防止(二)
普通にできている水道
非常時の消防施設については、別にその
水なしの消防はもっとも不利益であるから、水道の水が止まらないうち、
水を
個人消防上の最大要件は、
水は燃焼の元にそそぐこと、
火が
火に接近するに
水を
化学薬品・
火に
ついでに記しておくことは、火災の
金庫の足の
金庫・書庫・
貴重品を一時、
火災の避難においては、
大火災のときは、地震とは無関係に、
一〇、
昔の人の
余震を恐怖せるため、消防にじゅうぶんの実力を
統計によれば、余震のときの震動の大きさは、最初の大地震のものに比較して、その三分の一というほどのものが、最大の記録である。したがって破壊力からいえば、余震の最大なるものも最初の大地震の九分の一以下であるということになる。ざっと十分の一と見てよいであろう。それゆえに、単に統計のうえから考えても、余震は
大地震後、余震をあまりに恐怖するため、安全な家屋を
著者は関東大地震の調査日記において、大地震後、家族とともに自宅に
昭和二年(一九二七)十月、プラーグ〔プラハ。〕 における地震学科の国際会議へ出席した帰り途 、大活動に瀕 せるヴェスヴィオを訪 いナポリから郵船 筥崎丸 に便乗 し、十三日、アデン沖を通過 するころ本稿 を記し、同じく二十九日、アンナン沖を過 ぐるころ、稿 終わる。 著者 しるす
底本:
1982(昭和57)年6月20日 発行
親本:
1930(昭和5)年2月15日 発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日公開
青空文庫作成ファイル:
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地震《ぢしん》の話《はなし》(二)
今村明恒-------------------------------------------------------
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《》:ルビ
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(例)三・二|粁《きろめーとる》
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(例)[#図版(img_001.png)、キラウヱア火山]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)度々《たび/\》
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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三、階下《かいか》の危險《きけん》
[#図版(img_07.png)、二階建の潰れ方(豐岡)]
わが國《くに》に於《お》ける三階建《さんがいだて》は勿論《もちろん》、二階建《にかいだて》も大抵《たいてい》各階《かくかい》の柱《はしら》が床《とこ》の部分《ぶぶん》に於《おい》て繼《つ》がれてある。即《すなは》ち通《とほ》し柱《はしら》を用《もち》ひないで大神樂《だいかぐら》造《づく》りにしてある。かういふ構造《こうぞう》に於《おい》ては、大《おほ》きな地震動《ぢしんどう》に對《たい》して眞先《まつさき》に傷《いた》むのは最下層《さいかそう》である。更《さら》に震動《しんどう》が強《つよ》いと階下《かいか》の部分《ぶぶん》が潰《つぶ》れ、上層《じようそう》の多《おほ》くは直立《ちよくりつ》の位置《いち》の儘《まゝ》に取殘《とりのこ》される。即《すなは》ち二階建《にかいだて》は平家《ひらや》造《づく》りのように三階建《さんがいだて》は二階建《にかいだて》のようなものになる。大正《たいしよう》十四年《じゆうよねん》の但馬《たじま》地震《ぢしん》に於《おい》て、豐岡町《とよをかまち》の被害《ひがい》状況《じようきよう》の概報《がいほう》に、停車場《ていしやじよう》の前通《まへどほ》り四五町《しごちよう》の間《あひだ》は町家《ちようか》が將棊《しようぎ》倒《だふ》しに潰《つぶ》れたとあつたが、震災地《しんさいち》を始《はじ》めて見學《けんがく》した一學生《いちがくせい》は其《その》實状《じつきよう》[#ルビの「じつきよう」は底本のまま]を見《み》て、右《みぎ》の概報《がいほう》は誤《あやま》りだと思《おも》つた。さうして著者《ちよしや》に向《むか》つていふには、將棊《しようぎ》倒《だふ》しどころか各家屋《かくかおく》直立《ちよくりつ》してゐるではありませんかと。著者《ちよしや》はこのとき彼《かれ》に反問《はんもん》して、君《きみ》はこの町家《ちようか》を平家建《ひらやだて》と思《おも》つてゐるかといつてみたが、該學生《がいがくせい》が潰《つぶ》れ方《かた》の眞相《しんそう》を了解《りようかい》したのは、其《その》状況《じようきよう》を暫時《ざんじ》熟視《じゆくし》した後《のち》のことであつた。
大地震《おほぢしん》の場合《ばあひ》に於《おい》て、二階建《にかいだて》或《あるひ》は三階建《さんがいだて》等《とう》の最下層《さいかそう》が最《もつと》も危險《きけん》であることは、更《さら》に詳説《しようせつ》を要《よう》しない程《ほど》によく知《し》られてゐる。それ故《ゆゑ》に二階《にかい》或《あるひ》は三階《さんがい》に居合《ゐあは》せた人《ひと》が、階下《かいか》を通《とほ》ることの危險《きけん》を侵《おか》してまで屋外《おくがい》に逃《に》げ出《だ》さうとする不見識《ふけんしき》な行動《こうどう》は排斥《はいせき》すべきである。寧《むし》ろ更《さら》に上層《じようそう》に上《のぼ》るか、或《あるひ》は屋上《おくじよう》の物干場《ものほしば》に避難《ひなん》することを勸《すゝ》めるのであるが、實際《じつさい》かういふ賢明《けんめい》な處置《しよち》を取《と》られた例《れい》は屡《しば/\》耳《みゝ》にするところである。
[#図版(img_08.png)、三階建の潰れ方(城崎)]
著者《ちよしや》は明治《めいじ》二十七年《にじゆうしちねん》六月《ろくがつ》二十日《はつか》の東京《とうきやう》地震《ぢしん》を本郷《ほんごう》湯島《ゆしま》に於《おい》て、木造《もくぞう》二階建《にかいだて》の階上《かいじよう》で經驗《けいけん》したことがある。此時《このとき》帝國《ていこく》大學《だいがく》地震學《ぢしんがく》教室《きようしつ》に於《お》ける地動《ちどう》は二寸《にすん》七分《しちぶ》の大《おほ》いさに觀測《かんそく》せられたから、同《おな》じ臺地《だいち》の湯島《ゆしま》に於《おい》ても大差《たいさ》なかつたはずと思《おも》ふ。隨《したが》つて階上《かいじよう》の動搖《どうよう》は六七寸《ろくしちすん》にも達《たつ》したであらう。當時《とうじ》著者《ちよしや》は大學《だいがく》に於《お》ける卒業《そつぎよう》試驗《しけん》の準備中《じゆんびちゆう》でつて[#「でつて」は底本のまま]、机《つくゑ》に向《むか》つて靜座《せいざ》してゐたが、地震《ぢしん》の初期《しよき》微動《びどう》に於《おい》て既《すで》に土壁《どへき》が龜裂《きれつ》しきれ/″\になつて落《お》ちて來《く》るので、自《みづか》ら室《しつ》の中央部《ちゆうおうぶ》まで動《うご》いたけれども、それ以上《いじよう》に歩行《ほこう》することは困難《こんなん》であつて、たとひ階下《かいか》へ行《ゆ》かうなどといふ間違《まちが》つた考《かんが》へを起《おこ》しても、それは實行《じつこう》不可能《ふかのう》であつた。
大正《たいしよう》十二年《じゆうにねん》九月《くがつ》一日《いちにち》の關東《かんとう》大地震《だいぢしん》に於《おい》て、著者《ちよしや》のよく知《し》つてゐる某《ぼう》貴族《きぞく》は、夫妻《ふさい》揃《そろ》つて潰家《かいか》の下敷《したじき》となられた。當時《とうじ》二人《ふたり》とも木造《もくぞう》家屋《かおく》の二階《にかい》にをられたので、下敷《したじき》になりながら小屋組《こやぐみ》の空所《くうしよ》に挾《はさ》まり、無難《ぶなん》に救《すく》ひ出《だ》されたが、階下《かいか》にゐた家扶《かふ》は主人《しゆじん》夫婦《ふうふ》の身《み》の上《うへ》を案《あん》じながら辛《から》うじて、梯子段《はしごだん》を登《のぼ》りつめたとき家《いへ》は潰《つぶ》れてしまつた。もしこの家扶《かふ》が下座敷《したざしき》にゐたまゝであつたならば無論《むろん》壓死《あつし》したであらうが、主人《しゆじん》思《おも》ひの徳行《とくこう》のために主人《しゆじん》夫妻《ふうふ》[#ルビの「ふうふ」は底本のまま]と共《とも》に無難《ぶなん》に救《すく》ひ出《だ》されたのであつた。
[#図版(img_09.png)、東京會館の破壞]
近頃《ちかごろ》わが國《くに》にはアメリカ風《ふう》の高層《こうそう》建築物《けんちくぶつ》が段々《だん/\》増加《ぞうか》しつゝある。地震《ぢしん》に對《たい》して其《その》安全《あんぜん》さを危《あや》ぶんでゐる識者《しきしや》も多《おほ》い事《こと》であるが、これは其局《そのきよく》に當《あた》るものゝ平日《へいじつ》注意《ちゆうい》すべきことであつて、小國民《しようこくみん》の關與《かんよ》すべき事《こと》でもあるまい。然《しか》しながら其《その》ような高《たか》い殿堂《でんどう》に近寄《ちかよ》ることや堂上《どうじよう》に昇《のぼ》ることは年齡《ねんれい》に無關係《むかんけい》なことであるから、わが讀者《どくしや》も偶《たま/\》かような場所《ばしよ》に居合《ゐあは》せたとき大地震《だいぢしん》に出會《であ》ふようなことがないとも限《かぎ》らぬ。かういふ種類《しゆるい》の建物《たてもの》は設計《せつけい》施工《しこう》によつて地震《ぢしん》に傷《いた》められる模樣《もよう》が變《かは》るけれども、多《おほ》くの場合《ばあひ》、地上階《ちじようかい》は比較的《ひかくてき》丈夫《じようぶ》に出來《でき》てゐるため被害《ひがい》が少《すくな》い、この點《てん》は木造《もくぞう》の場合《ばあひ》に比較《ひかく》して反對《はんたい》な結果《けつか》を示《しめ》すのである。もし階數《かいすう》が七《なゝ》つ八《や》つ、高《たか》さが百尺《ひやくしやく》程度《ていど》のものならば、二階《にかい》三階《さんがい》或《あるひ》は四階建《しかいだて》に傷《いた》みが最《もつと》も著《いちじる》しいようである。大正《たいしよう》十一年《じゆういちねん》四月《しがつ》二十六日《にじゆうろくにち》の浦賀《うらが》海峽《かいきよう》地震《ぢしん》に傷《いた》められた丸《まる》の内《うち》びるぢんぐ[#「びるぢんぐ」に傍点]、大正《たいしよう》十二年《じゆうにねん》の關東《かんとう》大地震《だいぢしん》によつて腰《こし》を折《を》られた東京《とうきよう》會館《かいかん》などがその適例《てきれい》であらう。いまかような高層《こうそう》建物《たてもの》の上層《じようそう》に居合《ゐあは》せた場合《ばあひ》、もし地震《ぢしん》に出會《であ》つて屋外《おくがい》に避難《ひなん》せんと試《こゝろ》みたなら、それは恐《おそ》らくは地震《ぢしん》がすんでしまつた頃《ころ》に到達《とうたつ》せられる位《くらゐ》のことであらう。それ故《ゆゑ》にかような場合《ばあひ》に於《おい》ては、屋外《おくがい》へ出《で》ることを斷念《だんねん》し屋内《おくない》に於《おい》て比較的《ひかくてき》安全《あんぜん》な場所《ばしよ》を求《もと》めることが寧《むし》ろ得策《とくさく》であらう。
四、屋内《おくない》にての避難《ひなん》
[#図版(img_10.png)、屋根を支へる家具]
大地震《だいぢしん》に出會《であ》つて屋外《おくがい》への安全《あんぜん》な避難《ひなん》が間《ま》に合《あ》はない場合《ばあひ》は、家屋《かおく》の潰《つぶ》れること、壁《かべ》の墜落《ついらく》、煙突《えんとつ》の崩壞《ほうかい》などを覺悟《かくご》し、又《また》木造《もくぞう》家屋《かおく》ならば下敷《したじき》になつた場合《ばあひ》を考慮《こうりよ》して、崩壞《ほうかい》又《また》は墜落物《ついらくぶつ》の打撃《だげき》から免《のが》れ得《う》るような場所《ばしよ》に一時《いちじ》避難《ひなん》するがよい。普通《ふつう》の住宅《じゆうたく》ならば椅子《いす》、衣類《いるい》で充滿《じゆうまん》した箪笥《たんす》、火鉢《ひばち》、碁盤《ごばん》、將棊盤《しようぎばん》など、總《すべ》て堅牢《けんろう》な家具《かぐ》ならば身《み》を寄《よ》せるに適《てき》してゐる。これ等《ら》の適例《てきれい》は大地震《だいぢしん》の度毎《たびごと》にいくらも見出《みいだ》される。
教場内《きようじようない》に於《おい》ては机《つくゑ》の下《した》が最《もつと》も安全《あんぜん》であるべきことは説明《せつめい》を要《よう》しないであらう。下敷《したじき》になつた場合《ばあひ》に於《おい》て、致命傷《ちめいしよう》を與《あた》へるものは梁《はり》と桁《けた》とである。それさへ避《さ》けることが出來《でき》たなら大抵《たいてい》安全《あんぜん》であるといつてよい。さうして學校《がつこう》の教場内《きようじようない》に竝列《へいれつ》した多數《たすう》の机《つくゑ》や或《あるひ》は銃器臺《じゆうきだい》などは、其《その》連合《れんごう》の力《ちから》を以《もつ》て、此《この》桁《けた》や梁《はり》、又《また》は小屋組《こやぐみ》全部《ぜんぶ》を支《さゝ》へることは容易《ようい》である。
[#図版(img_11.png)、田根小學校の教室倒潰]
圖《ず》は明治《めいじ》四十二年《しじゆうにねん》八月《はちがつ》十四日《じゆうよつか》姉川《あねがは》大地震《だいぢしん》に於《おい》て倒潰《とうかい》の憂《う》き目《め》を見《み》た、田根《たね》小學校《しようがつこう》の教場《きようじよう》である。讀者《どくしや》は墜落《ついらく》した小屋組《こやぐみ》が、其《その》連合《れんごう》の力《ちから》を以《もつ》ていかに完全《かんぜん》に支《さゝ》へられたかを見《み》られるであらう。この地震《ぢしん》の時《とき》は、丁度《ちようど》夏季《かき》休暇中《きゆうかちゆう》であつたため、一人《ひとり》の生徒《せいと》もゐなかつたのであるが、假《かり》に授業中《じゆぎようちゆう》であつたとして、もしそれに善處《ぜんしよ》せんとするならば、「机《つくゑ》の下《した》へしゃがめ」の號令《ごうれい》一下《いつか》で十分《じゆうぶん》であつたらう。さうして家《いへ》の潰《つぶ》れ方《かた》が圖《ず》に示《しめ》された通《とほ》りであつたならば、生徒中《せいとちゆう》に一人《ひとり》の負傷者《ふしようしや》も出來《でき》ず、「しゃがんだまゝ外《そと》へ出《で》よ」との第二《だいに》號令《ごうれい》で、全員《ぜんいん》秩序《ちつじよ》を亂《みだ》さず、平日《へいじつ》教場《きようじよう》へ出入《しゆつにゆう》するのと餘《あま》り違《ちが》はない態度《たいど》で校庭《こうてい》へ現《あらは》れ出《で》ることが出來《でき》たであらう。
木造《もくぞう》家屋《かおく》に對《たい》しては、處置《しよち》が比較的《ひかくてき》に容易《ようい》であるが、重《おも》い洋風《ようふう》建築物《けんちくぶつ》であると、さう簡單《かんたん》にはゆかぬ。第一《だいゝち》墜落物《ついらくぶつ》も張壁《はりかべ》、煖爐用《だんろよう》煙突《えんとつ》など、いづれも重量《じゆうりよう》の大《だい》なるものであるから、机《つくゑ》や椅子《いす》では支《さゝ》へることが困難《こんなん》である。しかし室《しつ》は比較的《ひかくてき》に廣《ひろ》く作《つく》られるのが通常《つうじよう》であるから、右《みぎ》のようなものゝ落《お》ちて來《き》さうな場所《ばしよ》から遠《とほ》ざかることも出來《でき》るであらう。廣《ひろ》い室《しつ》ならば、其《その》中央部《ちゆうおうぶ》、もしくは煙突《えんとつ》の立《た》てる反對《はんたい》の側《がは》など、稍《やゝ》それに近《ちか》い條件《じようけん》であらう。若《も》し室内《しつない》にて前記《ぜんき》の如《ごと》き條件《じようけん》の場所《ばしよ》もなく、又《また》は廊下《ろうか》に居合《ゐあは》せて、兩側《りようがは》の張壁《はりかべ》からの墜落物《ついらくぶつ》に挾《はさ》み撃《う》ちせられさうな場合《ばあひ》に於《おい》ては、室《しつ》の出入口《でいりぐち》の枠構《わくがま》へが、夕立《ゆふだち》に出會《であ》つたときの樹陰《こかげ》位《ぐらゐ》の役《やく》を勤《つと》めるであらう。
五、屋外《おくがい》に於《お》ける避難《ひなん》
地震《ぢしん》の當初《とうしよ》から屋外《おくがい》にゐた者《もの》も、周圍《しゆうい》の状況《じようきよう》によつては必《かなら》ずしも安全《あんぜん》であるとはいはれない。又《また》容易《ようい》に屋内《おくない》から逃《に》げ出《だ》すことが出來《でき》ても、立退《たちの》き先《さき》の方《ほう》が却《かへ》つて屋内《おくない》よりも危險《きけん》であるかも知《し》れない。石垣《いしがき》、煉瓦塀《れんがべい》、煙突《えんとつ》などの倒潰物《とうかいぶつ》は致命傷《ちめいしよう》を與《あた》へる事《こと》もあるからである。又《また》家屋《かおく》に接近《せつきん》してゐては、屋根瓦《やねがはら》、壁《かべ》の崩壞物《ほうかいぶつ》に打《う》たれることもあるであらう。
石燈籠《いしどうろう》は餘《あま》り強大《きようだい》ならざる地震《ぢしん》の場合《ばあひ》にも倒《たふ》れ易《やす》く、さうして近《ちか》くにゐたものを壓死《あつし》せしめがちである。特《とく》に兒童《じどう》が顛倒《てんとう》した石燈籠《いしどうろう》のために生命《せつめい》[#ルビの「せつめい」は底本のまま]を失《うしな》つた例《れい》は頗《すこぶ》る多《おほ》い。これは兒童《じどう》の心理《しんり》作用《さよう》に基《もと》づくものゝようであるから、特《とく》に父兄《ふけい》、教師《きようし》の注意《ちゆうい》を要《よう》する事《こと》であらう。元來《がんらい》神社《じんじや》、寺院《じいん》には石燈籠《いしどうろう》が多《おほ》い。さうして其處《そこ》は多《おほ》く兒童《じどう》の集《あつま》る所《ところ》である。そこで偶《たま/\》地震《ぢしん》でも起《おこ》ると兒童《じどう》は逃《に》げ惑《まど》ひ、そこらにある立木《たちき》或《あるひ》は石燈籠《いしどうろう》にしがみつく。これは恐《おそ》らくかういふ場合《ばあひ》、保護者《ほごしや》の膝《ひざ》にしがみつく習慣《しゆうかん》から斯《か》く導《みちび》かれるものであらう。それ故《ゆゑ》餘《あま》り大《おほ》きくない地震《ぢしん》、例《たと》へば漸《やうや》く器物《きぶつ》を顛倒《てんとう》し土壁《つちかべ》を損《そん》し粗造《そぞう》な煉瓦《れんが》煙突《えんとつ》を損傷《そんしよう》するに止《とゞ》まる程度《ていど》に於《おい》ても、石燈籠《いしどうろう》の顛倒《てんとう》によつて兒童《じどう》の壓死者《あつししや》を出《だ》すことが珍《めづら》しくない。此事《このこと》は教師《きようし》父兄《ふけい》の注意《ちゆうい》を促《うなが》すと共《とも》にわが小國民《しようこくみん》に、向《むか》つても直接《ちよくせつ》に戒《いまし》めて置《お》きたいことである。
六、津浪《つなみ》と山津浪《やまつなみ》との注意《ちゆうい》
わが國《くに》の大地震《おほぢしん》は激震《げきしん》區域《くいき》の廣《ひろ》いと狹《せま》いとによつて、これを非局部性《ひきよくぶせい》のものと、局部性《きよくぶせい》のものとに區別《くべつ》する事《こと》が出來《でき》る。非局部性《ひきよくぶせい》の大地震《だいぢしん》は多《おほ》く太平洋側《たいへいようがは》の海底《かいてい》に起《し》[#ルビの「し」は底本のまま]り、地震《ぢしん》の規模《きぼ》廣大《こうだい》なると陸地《りくち》が震原《しんげん》から遠《とほ》いために、はたまた海底《かいてい》地震《ぢしん》の性質《せいしつ》として震動《しんどう》は大搖《おほゆ》れであるが、然《しか》しながら緩漫《かんまん》である。それと同時《どうじ》に津浪《つなみ》を伴《ともな》ふことが其《その》特色《とくしよく》である。これに反《はん》して局部性《きよくぶせい》の大地震《おほぢしん》は規模《きぼ》狹小《きようしよう》であるが、多《おほ》く陸地《りくち》に起《おこ》るがために震動《しんどう》の性質《せいしつ》が急激《きゆうげき》である。近《ちか》く其例《そのれい》をとるならば、大正《たいしよう》十二年《じゆうにねん》の關東《かんとう》大地震《だいぢしん》は非局部性《ひきよくぶせい》であつて、大正《たいしよう》十四年《じゆうよねん》の但馬《たじま》地震《ぢしん》及《およ》び昭和《しようわ》二年《にねん》の丹後《たんご》地震《ぢしん》は局部性《きよくぶせい》であつた。
非局部性《ひきよくぶせい》の大地震《だいぢしん》を起《おこ》す事《こと》のある海洋底《かいようてい》に接《せつ》した海岸《かいがん》地方《ちほう》は、大搖《おほゆ》れの地震《ぢしん》に見舞《みま》はれた場合《ばあひ》、津浪《つなみ》についての注意《ちゆうい》を要《よう》する。但《たゞ》し津浪《つなみ》を伴《ともな》ふ程《ほど》の地震《ぢしん》は最大級《さいだいきゆう》のものであるから、倒潰《とうかい》家屋《かおく》を生《しよう》ずる區域《くえき》[#ルビの「くえき」は底本のまま]が數箇《すうこ》の國《くに》や縣《けん》に亙《わた》ることもあり、或《あるひ》は震原《しんげん》距離《りより》[#ルビの「りより」は底本のまま]が陸地《りくち》から餘《あま》り遠《とほ》いために、單《たん》に廣區域《こうくいき》に亙《わた》つて大搖《おほゆ》れのみを感《かん》じ、地震《ぢしん》の直接《ちよくせつ》の損害《そんがい》を生《しよう》じないこともある。前者《ぜんしや》の例《れい》は大正《たいしよう》十二年《じゆうにねん》の關東《かんとう》大地震《だいぢしん》、或《あるひ》は安政《あんせい》元年《がんねん》十一月《じゆういちがつ》四日《よつか》及《およ》び同五日《どういつか》の東海道《とうかいどう》、南海道《なんかいどう》大地震《だいぢしん》等《とう》であつて、後者《こうしや》の例《れい》としては明治《めいじ》二十九年《にじゆうくねん》六月《ろくがつ》十五日《じゆうごにち》の三陸《さんりく》大津浪《おほつなみ》を擧《あ》げることが出來《でき》る。
かくしてわが國《くに》の大平洋側《たいへいようがは》[#「大平洋」は底本のまま]の沿岸《えんがん》は非局部性《ひきよくぶせい》の大地震《だいぢしん》を起《おこ》す海洋底《かいようてい》に接《せつ》してゐるわけであるが、しかしながら其《その》海岸線《かいがんせん》の全部《ぜんぶ》が津浪《つなみ》の襲來《しゆうらい》に暴露《ばくろ》されてゐるわけではない。それについては津浪《つなみ》襲來《しゆうらい》の常習地《じようしゆうち》といふものがある。この常習地《じようしゆうち》は右《みぎ》に記《しる》したような地震《ぢしん》に見舞《みま》はれた場合《ばあひ》、特別《とくべつ》の警戒《けいかい》を要《よう》するけれども、其他《そのた》の地方《ちほう》に於《おい》ては左程《さほど》の注意《ちゆうい》を必要《ひつよう》としないのである。
右《みぎ》の話《はなし》を進《すゝ》めるについて必要《ひつよう》なのは津浪《つなみ》の概念《がいねん》である。津浪《つなみ》に海嘯《かいしよう》なる文字《もんじ》がよくあててあるがこれは適當《てきとう》でない。海嘯《かいしよう》は潮汐《ちようせき》の干滿《かんまん》の差《さ》の非常《ひじよう》に大《おほ》きな海《うみ》に向《むか》つて、河口《かこう》が三角《さんかく》なりに大《おほ》きく開《ひら》いてゐる所《ところ》に起《おこ》る現象《げんしよう》である。支那《しな》淅江省《せつこうしよう》[#「淅江省」は底本のまま]の錢塘江《せんとうこう》は海嘯《かいしよう》について最《もつと》も有名《ゆうめい》である。つまり河流《かりゆう》と上汐《あげしほ》とが河口《かこう》で暫時《ざんじ》戰《たゝか》つて、遂《つひ》に上汐《あげしほ》が勝《かち》を占《し》め、海水《かいすい》の壁《かべ》を築《きづ》きながらそれが上流《じようりゆう》に向《むか》つて勢《いきほひ》よく進行《しんこう》するのである。津浪《つなみ》とは津《つ》の浪《なみ》、即《すなは》ち港《みなと》に現《あらは》れる大津浪《おほつなみ》であつて、暴風《ぼうふう》など氣象上《きしようじよう》の變調《へんちよう》から起《おこ》ることもあるが、最《もつと》も恐《おそ》ろしいのは地震《ぢしん》津浪《つなみ》である。元來《がんらい》浪《なみ》といふから讀者《どくしや》は直《すぐ》に風《かぜ》で起《おこ》される波《なみ》を想像《そう/″\》せられるかも知《し》れないが、寧《むし》ろ潮《うしほ》の差引《さしひき》といふ方《ほう》が實際《じつさい》に近《ちか》い。われ/\が通常《つうじよう》みるところの波《なみ》は、其山《そのやま》と山《やま》との間隔《かんかく》、即《すなは》ち波長《はちよう》が幾米《いくめーとる》、或《あるひ》は十幾米《じゆういくめーとる》といふ程度《ていど》にすぎないが、津浪《つなみ》の波長《はちよう》は幾粁《いくきろめーとる》、幾十《いくじゆう》粁《きろめーとる》、或《あるひ》は幾百《いくひやく》粁《きろめーとる》といふ程度《ていど》のものである。それ故《ゆゑ》に海上《かいじよう》に浮《うか》んでゐる船舶《せんぱく》には其《その》存在《そんざい》又《また》は進行《しんこう》が分《わか》りかねる場合《ばあひ》が多《おほ》い。但《たゞ》しそれが海岸《かいがん》に接近《せつきん》すると、比較的《ひかくてき》に急《きゆう》な潮《うしほ》の干滿《かんまん》となつて現《あらは》れて來《く》る。即《すなは》ち普通《ふつう》の潮汐《ちようせき》は一晝夜《いつちゆうや》に二回《にかい》の干滿《かんまん》をなすだけであつて、隨《したが》つて其《その》週期《しゆうき》は凡《およ》そ十二《じゆうに》時間《じかん》であるけれども、津浪《つなみ》のために生《しよう》ずる干滿《かんまん》は幾分《いくぶん》或《あるひ》は幾十分《いくじつぷん》の週期《しゆうき》を以《もつ》て繰返《くりかへ》されるのである。
かういふ長波長《ちようはちよう》の津浪《つなみ》が海底《かいてい》の大地震《だいぢしん》によつていかにして起《おこ》されるかといふに、それは多《おほ》く海底《かいてい》の地形《ちけい》變動《へんどう》に基《もと》づくのである。われ/\は近《ちか》く關東《かんとう》大地震《だいぢしん》に於《おい》て、相模灣《さがみわん》の海底《かいてい》が廣《ひろ》さ十里《じゆうり》四方《しほう》の程度《ていど》に於《おい》て、幾米《いくめーとる》の上下《じようげ》變動《へんどう》のあつたことを學《まな》んだ。さういふ海底《かいてい》の地形《ちけい》變動《へんどう》は直《すぐ》に海水面《かいすいめん》の變動《へんどう》を惹起《ひきおこ》すから、そこに長波長《ちようはちよう》の津浪《つなみ》が出來《でき》るわけである。
[#図版(img_12.png)、熱海における津浪の高さ]
[#図版(img_13.png)、三陸大津浪高さの分布(數字は高さを尺にて表したもの)]
かういふ津浪《つなみ》は沖合《おきあひ》に於《おい》ては概《がい》して數尺《すうしやく》の高《たか》さしか持《も》たないから、もしそれが其《その》まゝの高《たか》さを以《もつ》て海岸《かいがん》に押寄《おしよ》せたならば、大抵《たいてい》無難《ぶなん》なるべきはずである。しかし、波《なみ》は海深《かいしん》が次第《しだい》に淺《あさ》くなる所《ところ》に進入《しんにゆう》すると、それにつれて高《たか》さを増《ま》し、又《また》漏斗《じようご》のように奧《おく》が次第《しだい》に狹《せま》くなる所《ところ》に進入《しんにゆう》しても波《なみ》の高《たか》さが増《ま》してくる。かういふ關係《かんけい》が重《かさ》なるような場所《ばしよ》に於《おい》ては、津浪《つなみ》の高《たか》さが著《いちじる》しく増大《ぞうだい》するわけであるが、それのみならず、浪《なみ》が淺《あさ》い所《ところ》に來《く》れば遂《つひ》に破浪《はろう》するに至《いた》ること、丁度《ちようど》普通《ふつう》の小《ちひ》さな波《なみ》について濱《はま》に於《おい》て經驗《けいけん》する通《とほ》りであるから、此《この》状態《じようたい》になつてからは、浪《なみ》といふよりも寧《むし》ろ流《なが》れといふべきである。即《すなは》ち海水《かいすい》が段々《だん/\》狹《せま》くなる港灣《こうわん》に流《なが》れ込《こ》むことになり、隨《したが》つて沖合《おきあひ》では高《たか》さ僅《わづか》に一二尺《いちにしやく》にすぎなかつた津浪《つなみ》も、港灣《こうわん》の奧《おく》に於《おい》ては數十尺《すうじつしやく》の高《たか》さとなるのである。大正《たいしよう》十二年《じゆうにねん》の關東《かんとう》大地震《だいぢしん》に於《おい》て熱海港《あたみこう》の兩翼《りようよく》、即《すなは》ち北《きた》は衞戍《えいじゆ》病院《びよういん》分室《ぶんしつ》のある邊《へん》、南《みなみ》は魚見崎《うをみざき》に於《おい》ては波《なみ》の高《たか》さ四五尺《しごしやく》しかなかつたが、船着場《ふなつきば》では十五尺《じゆうごしやく》、港《みなと》の奧《おく》では四十尺《しじゆつしやく》に達《たつ》して多《おほ》くの家屋《かおく》を浚《さら》ひ人命《じんめい》を奪《うば》つた。但《たゞ》し港《みなと》の奧《おく》ではかような大事變《だいじへん》を起《おこ》してゐるに拘《かゝは》らず數十町《すうじつちよう》の沖合《おきあひ》では全《まつた》くそれに無關係《むかんけい》であつて當時《とうじ》そこを航行中《こう/\ちゆう》であつた石油《せきゆ》發動機船《はつどうきせん》が海岸《かいがん》に於《お》けるかゝる慘事《さんじ》を想像《そう/″\》し得《え》なかつたのも無理《むり》のないことである。明治《めいじ》二十九年《にじゆうくねん》の三陸《さんりく》大津浪《おほつなみ》は、其《その》原因《げんいん》數十里《すうじゆうり》の沖合《おきあひ》に於《お》ける海底《かいてい》の地形《ちけい》變動《へんどう》にあつたのであるが、津浪《つなみ》の常習地《じようしゆうち》たる漏斗状《じようごがた》[#ルビの「じようごがた」は底本のまま]の港灣《こうわん》の奧《おく》に於《おい》ては圖《ず》に示《しめ》された通《とほ》り、或《あるひ》は八十尺《はちじつしやく》、或《あるひ》は七十五尺《しちじゆうごしやく》といふような高《たか》さの洪水《こうずい》となり、合計《ごうけい》二萬《にまん》七千人《ちしせんにん》の人命《じんめい》を奪《うば》つたのに、港灣《こうわん》の兩翼端《りようよくたん》では僅《わづか》に數尺《すうしやく》にすぎない程《ほど》のものであつたし、其夜《そのよ》沖合《おきあひ》に漁獵《ぎよりよう》に行《い》つてゐた村人《むらびと》は、あんな悲慘事《ひさんじ》が自分《じぶん》の村《むら》で起《おこ》つたことを夢想《むそう》することも出來《でき》ず、翌朝《よくあさ》、跡方《あとかた》もなく失《うしな》はれた村《むら》へ歸《かへ》つて茫然《ぼうせん》[#ルビの「ぼうせん」は底本のまま]自失《じしつ》したといふ。
[#図版(img_14.png)、伊東の津浪]
右《みぎ》の通《とほ》り、津浪《つなみ》は事實上《じじつじよう》に於《おい》て港《みなと》の波《なみ》である。われ/\は學術的《がくじゆつてき》にもこの名前《なまへ》を用《もち》ひてゐる。實《じつ》に津浪《つなみ》なる語《ご》は、最早《もはや》國際語《こくさいご》となつた觀《かん》がある。
以上《いじよう》の説明《せつめい》によつて、津浪《つなみ》襲來《しゆうらい》の常習地《じようしゆうち》の概念《がいねん》が得《え》られたことゝ思《おも》ふ。屡《しば/\》海底《かいてい》の大地震《だいぢしん》を起《おこ》す場所《ばしよ》に接《せつ》し、そこに向《むか》つて大《おほ》きく漏斗形《じようごがた》に開《ひら》いた地形《ちけい》の港灣《こうわん》がそれに當《あた》るわけであるが、これに次《つ》いで多少《たしよう》の注意《ちゆうい》を拂《はら》ふべきは、遠淺《とほあさ》の海岸《かいがん》である。たとひ海岸線《かいがんせん》が直線《ちよくせん》に近《ちか》くとも、遠淺《とほあさ》だけの關係《かんけい》で、波《なみ》の高《たか》さが數倍《すうばい》の程度《ていど》に増《ま》すこともあるから、もし沖合《おきあひ》に於《お》ける高《たか》さが數尺《すうしやく》のものであつたならば、前記《ぜんき》の如《ごと》き地形《ちけい》の沿岸《えんがん》に於《おい》て多少《たしよう》の被害《ひがい》を見《み》ることもある。
津浪《つなみ》に傷《いた》められた二階建《にかいだて》、三階建《さんがいだて》の木造《もくぞう》家屋《かおく》は、大地震《だいぢしん》に傷《いた》められた場合《ばあひ》の如《ごと》く、階下《かいか》から順番《じゆんばん》に潰《つぶ》れて行《ゆ》く。又《また》津浪《つなみ》に浚《さら》はれた場合《ばあひ》に於《おい》て、其《その》港灣《こうわん》の奧《おく》に接近《せつきん》した所《ところ》では潮《うしほ》の差引《さしひき》が急《きゆう》であるから、游泳《ゆうえい》も思《おも》ふように行《ゆ》かないけれども、港灣《こうわん》の兩翼端《りようよくたん》近《ちか》くにてはかような事《こと》がないから、平常通《へいじようどほ》りに泳《およ》ぎ得《え》られる。この前《まへ》の關東《かんとう》大地震《だいぢしん》に際《さい》し、熱海《あたみ》で津浪《つなみ》に浚《さら》はれたものゝ中《うち》、伊豆山《いづさん》の方《ほう》へ向《むか》つて泳《およ》いだものは助《たす》かつたといふ。
[#図版(img_15.png)、根府川の山津浪]
地震《ぢしん》の場合《ばあひ》に崖下《がいか》の危險《きけん》なことはいふまでもない。横須賀《よこすか》停車場《ていしやば》の前《まへ》に立《た》つたものは、其處《そこ》の崖下《がけした》に石地藏《いしじぞう》の建《た》てるを氣《き》づくであらう。これは關東《かんとう》大地震《だいぢしん》の際《さい》、其處《そこ》に生埋《いきうづ》めにされた五十二名《ごじゆうにめい》の不幸《ふこう》な人《ひと》の冥福《めいふく》を祈《いの》るために建《た》てられたものである。かような危險《きけん》は直接《ちよくせつ》の崖下《がいか》許《ばか》りでなく、崩壞《ほうかい》せる土砂《どさ》が流《なが》れ下《くだ》る地域《ちいき》全部《ぜんぶ》がさうなのである。崩壞《ほうかい》した土砂《どさ》の分量《ぶんりよう》が大《おほ》きくて、百米《ひやくめーとる》立方《りつぽう》、即《すなは》ち百萬《ひやくまん》立方米《りつぽうめーとる》の程度《ていど》にもなれば、斜面《しやめん》を沿《そ》うて流《なが》れ下《くだ》るありさまは、溪水《たにみづ》が奔流《ほんりゆう》する以上《いじよう》の速《はや》さを以《もつ》て馳《は》せ下《くだ》るのである。恰《あだか》も陸上《りくじよう》に於《お》ける洪水《こうずい》の如《ごと》き觀《かん》を呈《てい》するので山津浪《やまつなみ》と呼《よ》ばれるようになつたものであらう。
關東《かんとう》大地震《だいぢしん》の場合《ばあひ》に於《おい》ては、各所《かくしよ》に山津浪《やまつなみ》が起《おこ》つたが、其中《そのうち》根府川《ねぶがは》の一村《いつそん》を浚《さら》つたものが最《もつと》も有名《ゆうめい》であつた。この山津浪《やまつなみ》の源《みなもと》は根府川《ねぶがは》の溪流《けいりゆう》を西《にし》に溯《さかのぼ》ること六粁《ろくきろめーとる》、海面《かいめん》からの高《たか》さ凡《およ》そ五百《ごひやく》米《めーとる》の所《ところ》にあつたが、實際《じつさい》は數箇所《すうかしよ》からの崩壞物《ほうかいぶつ》が一緒《いつしよ》に集合《しゆうごう》したものらしく、其《その》分量《ぶんりよう》は百五十《ひやくごじゆう》米《めーとる》立方《りつぽう》と推算《すいさん》せられた、これが勾配《こうばい》九分《くぶん》の一《いち》の斜面《しやめん》に沿《そ》ひ、五分《ごふん》時間《じかん》位《ぐらゐ》の間《あひだ》に一里半《いちりはん》程《ほど》の距離《きより》を馳《は》せ下《くだ》つたものらしい。さうして根府川《ねぶがは》の一村落《いちそんらく》は崖上《がいじよう》の數戸《すうこ》を殘《のこ》して、五百《ごひやく》の村民《そんみん》と共《とも》に其下《そのした》に埋沒《まいぼつ》されてしまつた。此際《このさい》鐵道《てつどう》橋梁《きようりよう》も下《くだ》り汽車《きしや》と共《とも》に浚《さら》はれてしまつたが、これは土砂《どさ》に埋《うづま》つたまゝ海底《かいてい》まで持《も》つて行《ゆ》かれたものであることが解《わか》つた。其後《そのご》山津浪《やまつなみ》が殘《のこ》した土砂《どしや》が溪流《けいりゆう》のために次第《しだい》に浚《さら》はれて、再《ふたゝ》び以前《いぜん》の村落地《そんらくち》を暴露《ばくろ》したけれども、家屋《かおく》は其處《そこ》から現《あらは》れて來《こ》なかつたので、山津浪《やまつなみ》が一村《いつそん》を埋沒《まいぼつ》したといふよりも、これを浚《さら》つて行《い》つたといふ方《ほう》が適當《てきとう》なことが後日《こうじつ》に至《いた》つて氣附《きづ》かれた。
山津浪《やまつなみ》はかの丹後《たんご》地震《ぢしん》の場合《ばあひ》にも起《おこ》つた。それは主《おも》に海岸《かいがん》の砂丘《さきゆう》に起《おこ》つたものであつて根府川《ねぶがは》の山津浪《やまつなみ》とは比較《ひかく》にならなかつたけれども、雪崩《なだ》れ下《くだ》つた距離《きより》が五六町《ごろくちよう》に及《およ》び、山林《さんりん》、田園《でんえん》道路《どうろ》に可《か》なりな損害《そんがん》[#ルビの「そんがん」は底本のまま]を與《あた》へた。此《この》地方《ちほう》の砂丘《さきゆう》は地震《ぢしん》ならずとも崩壞《ほうかい》することがあるのだから、地震《ぢしん》に際《さい》して注意《ちゆうい》すべきは當然《とうぜん》であるけれども、平日《へいじつ》に於《おい》ても氣《き》をつけ、特《とく》に宅地《たくち》として選定《せんてい》するときに考慮《こうりよ》しなければならぬ弱點《じやくてん》を持《も》つてゐるのである。
七、災害《さいがい》防止《ぼうし》
昔《むかし》の人《ひと》は地震《ぢしん》の搖《ゆ》り返《かへ》し、或《あるひ》は搖《ゆ》り戻《もど》しを恐《おそ》れたものである。此《この》言葉《ことば》は俗語《ぞくご》であるため誤解《ごかい》を惹起《ひきおこ》し、今《いま》の人《ひと》はこれを餘震《よしん》に當《あ》て嵌《は》めてゐるが、それは全《まつた》く誤《あやま》りである。昔《むかし》の人《ひと》の所謂《いはゆる》搖《ゆ》り戻《もど》しは、われ/\が今日《こんにち》唱《とな》へてゐる地震動《ぢしんどう》の主要部《しゆようぶ》である。藤田《ふぢた》東湖《とうこ》先生《せんせい》の最後《さいご》を記《しる》すならば、彼《かれ》は最初《さいしよ》の地震《ぢしん》によつて屋外《おくがい》へ飛出《とびだ》し、搖《ゆ》り戻《もど》しのために壓死《あつし》したのである。われ/\は子供《こども》の時分《じぶん》には然《し》か教《をし》へられた。最初《さいしよ》の地震《ぢしん》を感《かん》じたなら、搖《ゆ》り戻《もど》しの來《こ》ない中《うち》に戸外《こがい》へ飛出《とびだ》せなどと戒《いまし》められたものである。外國《がいこく》の大地震《だいぢしん》では搖《ゆ》り戻《もど》しといはずして、第二《だいに》の地震《ぢしん》と唱《とな》へた場合《ばあひ》がある。つまり初期《しよき》微動部《びどうぶ》、主要部《しゆようぶ》を合併《がつぺい》して一箇《いつこ》の地震《ぢしん》と見《み》ないで、これを一々《いち/\》別《べつ》なものと見做《みな》したのである。かくして西暦《せいれき》紀元《きげん》千七百《せんしちひやく》五十五年《ごじゆうごねん》のリスボン地震《ぢしん》の記事《きじ》がよく了解《りようかい》せられる。
[#行頭の全角スペースなし]搖《ゆ》り戻《もど》しと餘震《よしん》との混同《こんどう》は單《たん》に言葉《ことば》の上《うへ》の誤《あやま》りとして、其儘《そのまゝ》これを片附《かたづ》けるわけにはゆかぬ。わが國《くに》に於《おい》ては餘震《よしん》を恐怖《きようふ》する念《ねん》が特《とく》に強《つよ》いが、それは右《みぎ》の言葉上《ことばじよう》の誤《あやま》りによりても培養《ばいよう》せられてゐるのである。
昔《むかし》の人《ひと》の言葉《ことば》を借《か》りていふならば、大地震《だいぢしん》に家《いへ》の潰《つぶ》れるのは、皆《みな》搖《ゆ》り戻《もど》しに由《よ》るのである。もし此《この》搖《ゆ》り戻《もど》しを餘震《よしん》だと解《かい》したならば餘震《よしん》は最《もつと》も恐《おそ》ろしいものでなければならぬ。そこに理論上《りろんじよう》又《また》は經驗上《けいけんじよう》全《まつた》く恐《おそ》れるに足《た》りない餘震《よしん》を、誤《あやま》つて恐怖《きようふ》するようにもなつたのである。
餘震《よしん》の勢力《せいりよく》、或《あるひ》は地震動《ぢしんどう》としての破壞力《はかいりよく》は、最初《さいしよ》の本地震《ほんぢしん》と比較《ひかく》して微小《びしよう》なものでなければならぬ。多《おほ》くの實例《じつれい》に徴《ちよう》するも其《その》最大《さいだい》なる場合《ばあひ》でも十分《じゆうぶん》の一《いち》以下《いか》である。この事《こと》は最後《さいご》の項《こう》に於《おい》て再説《さいせつ》することだから茲《こゝ》には説明《せつめい》を略《りやく》するが、とに角《かく》餘震《よしん》は恐《おそ》れるに足《た》りない。唯《たゞ》恐《おそ》るべきは最初《さいしよ》の大地震《だいぢしん》の主要動《しゆようどう》である。然《しか》しながら、どんな地震《ぢしん》でも其《その》最《もつと》も恐《おそ》るべき主要動《しゆようどう》は、最初《さいしよ》の一分《いつぷん》時間《じかん》に於《おい》て收《をさ》まつてしまふのである。此《この》一分間《いつぷんかん》といつたのは、最《もつと》も長引《ながび》く場合《ばあひ》を顧慮《こうりよ》[#ルビの「こうりよ」は底本のまま]してのことであつて、大抵《たいてい》の場合《ばあひ》に於《おい》ては二十秒間《にじゆうびようかん》位《ぐらゐ》で危險《きけん》な震動《しんどう》は終《をは》りを告《つ》げるものである。即《すなは》ち明治《めいじ》二十七年《にじゆうしちねん》六月《ろくがつ》二十日《はつか》の東京《とうきよう》地震《ぢしん》は最初《さいしよ》から十五秒間《じゆうごびようかん》で著《いちじる》しい震動《しんどう》は終《をは》りを告《つ》げ、大正《たいしよう》十四年《じゆうよねん》の但馬《たじま》地震《ぢしん》は二十秒間《にじゆうびようかん》で全部《ぜんぶ》殆《ほと》んど收《をさ》まり、昭和《しようわ》二年《にねん》の丹後《たんご》地震《ぢしん》も大抵《たいてい》十數秒間《じゆうすうびようかん》で主要《しゆよう》震動《しんどう》がすんでしまつた。但《たゞ》し大正《たいしよう》十二年《じゆうにねん》の關東《かんとう》大地震《だいぢしん》は主要《しゆよう》震動《しんどう》が長《なが》く續《つゞ》き、最初《さいしよ》から二三十《にさんじゆう》秒間《びようかん》で收《をさ》まつたとはいへない。此事《このこと》は該地震《がいぢしん》を經驗《けいけん》した地方《ちほう》により、多少《たしよう》の相違《そうい》があるべきであるが、比較的《ひかくてき》に長《なが》く續《つゞ》いたと思《おも》はれる東京《とうきよう》にての觀測《かんそく》の結果《けつか》を擧《あ》げるならば、震動《しんどう》の最《もつと》も強《つよ》かつたのは最切《さいしよ》[#「最切」は底本のまま]から十六七《じゆうろくしち》秒目《びようめ》であつて、それから後《あと》三十秒間《さんじゆうびようかん》位《ぐらゐ》は、震動《しんどう》が却《かへ》つて大《おほ》きくなつた位《くらゐ》である。けれども往復《おうふく》震動《しんどう》は急《きゆう》に緩慢《かんまん》となつたゝめ、地動《ちどう》の強《つよ》さは次第《しだい》に衰《おとろ》へてしまつた。鎌倉《かまくら》や小田原《をだはら》邊《へん》でも、最《もつと》も激《はげ》しかつたのは最初《さいしよ》の一分間《いつぷんかん》以内《いない》であつたといへる。
右《みぎ》のような次第《しだい》であるから、大地震《だいぢしん》に出會《であ》つたなら、最初《さいしよ》の二三十《にさんじゆう》秒間《びようかん》、場合《ばあひ》によつては一分間《いつぷんかん》位《ぐらゐ》は、その位置《いち》環境《かんきよう》によつては畏縮《いしゆく》せざるを得《え》ないこともあらう。勿論《もちろん》崩壞《ほうかい》の虞《おそ》れなき家屋《かおく》の内《うち》にゐるとか、或《あるひ》は廣場《ひろば》など安全《あんぜん》な場所《ばしよ》に居合《ゐあは》せたなら畏縮《いしゆく》する程《ほど》のこともないであらう。また餘震《よしん》の恐《おそ》れるに足《た》らないこともほゞ前《まへ》に述《の》べた通《とほ》りである。かくして最初《さいしよ》の一分間《いつぷんかん》を凌《しの》ぎ得《え》たならば、最早《もはや》不安《ふあん》に思《おも》ふべき何物《なにもの》も殘《のこ》さないはずであるが、唯《たゞ》これに今一《いまひと》つ解説《かいせつ》して置《お》く必要《ひつよう》のあるものは、地割《ぢわ》れに對《たい》して誤《あやま》れる恐怖心《きようふしん》である。
大地震《だいぢしん》のときは大地《だいち》が裂《さ》けてはつぼみ、開《ひら》いては閉《と》ぢるものだとは、昔《むかし》から語《かた》り傳《つた》へられて最《もつと》も恐怖《きようふ》されてゐる一《ひと》つの假想《かそう》現象《げんしよう》である。もし此《この》裂《さ》け目《め》に挾《はさ》まると、人畜《じんちく》牛馬《ぎゆうば》、煎餅《せんべい》のように押《お》し潰《つぶ》されるといはれ、避難《ひなん》の場所《ばしよ》としては竹藪《たけやぶ》を選《えら》べとか、戸板《といた》を敷《し》いてこれを防《ふせ》げなどと戒《いまし》められてゐる。これはわが國《くに》にてはいかなる寒村《かんそん》僻地《へきち》にも普及《ふきゆう》してゐる注意《ちゆうい》事項《じこう》であるが、かような地割《ぢわ》れの開閉《かいへい》に關《かん》する恐怖《きようふ》は世界《せかい》の地震《ぢしん》地方《ちほう》に共通《きようつう》なものだといつてよい、[#読点は底本の通り]然《しか》るにわが國《くに》の地震史《ぢしんし》には右《みぎ》のような現象《げんしよう》の起《おこ》つたことの記事《きじ》皆無《かいむ》であるのみならず、明治《めいじ》以後《いご》の大地震《だいぢしん》調査《ちようさ》に於《おい》ても未《いま》だかつて氣附《きづ》かれたことがない。尤《もつと》も道路《どうろ》或《あるひ》は堤防《ていぼう》が搖《ゆ》り下《さが》りに因《よ》つて地割《ぢわ》れを起《おこ》すこともあるが、それは單《たん》に開《ひら》いたまゝであつて、開閉《かいへい》を繰返《くりかへ》すものではない。又《また》構造物《こうぞうぶつ》が地震動《ぢしんどう》に因《よ》つて裂《さ》け目《め》を生《しよう》じ、それが振動《しんどう》繼續中《けいぞくちゆう》開閉《かいへい》を繰返《くりかへ》すこともあるが、問題《もんだい》は大地《だいち》に關係《かんけい》したものであつて、構造物《こうぞうぶつ》に起《おこ》る現象《げんしよう》を指《さ》すのではない。とに角《かく》人畜《じんちく》が吸《す》ひ込《こ》まれる程度《ていど》に於《おい》て、大地《だいち》が開閉《かいへい》するといふことは、わが國《くに》に於《おい》ては決《けつ》して起《おこ》り得《え》ない現象《げんしよう》と見《み》てよい。
日本《につぽん》に於《おい》て決《けつ》して起《おこ》らない現象《げんしよう》が、なぜに津々《つゝ》浦々《うら/\》まで語《かた》り傳《つた》へられ、恐怖《きようふ》せられてゐるのであらうか。著者《ちよしや》は初《はじ》め此話《このはなし》が南洋《なんよう》傳來《でんらい》のものではあるまいか、と疑《うたが》つてみたこともあるが、近頃《ちかごろ》研究《けんきゆう》の結果《けつか》、さうでないように思《おも》はれて來《き》たのである。
世界《せかい》の大地震《だいぢしん》記録《きろく》を調《しら》べてみると、かういふ恐《おそ》ろしい現象《げんしよう》が三所《みところ》に見出《みいだ》される。これを年代《ねんだい》の順《じゆん》に記《しる》してみると、第一《だいゝち》は西暦《せいれき》千六百《せんろつぴやく》九十二年《くじゆうにねん》六月《ろくがつ》七日《なぬか》西《にし》インド諸島《しよとう》の中《うち》、ジャマイカ島《とう》に起《おこ》つた地震《ぢしん》であつて、このとき首府《しゆふ》ロアイヤル港《こう》に於《おい》ては大地《だいち》に數百條《すうひやくじよう》の龜裂《きれつ》が出來《でき》、それがぱく/\開《ひら》いたり閉《と》ぢたりするので、偶《たま/\》これに陷《おちい》つた人畜《じんちく》は忽《たちま》ち見《み》えなくなり、再《ふたゝ》びその姿《すがた》を現《あらは》すことは出來《でき》なかつた。後《あと》で掘《ほ》り出《だ》してみると、いづれも板《いた》のように押《お》し潰《つぶ》されてゐたといふ。此時《このとき》市街地《しがいち》の大部《だいぶ》は沈下《ちんか》して海《うみ》となつたといふことも記《しる》してあるから、前記《ぜんき》現象《げんしよう》の起《おこ》つた場所《ばしよ》は新《あたら》しい地盤《ぢばん》たりしに相違《そうい》なかるべく、埋立地《うめたてち》であつたかも知《し》れない。又《また》此時《このとき》の死人《しにん》は首府《しゆふ》總人口《そうじんこう》の三分《さんぶん》の二《に》を占《し》めたことも記《しる》されてあるから、地震《ぢしん》が餘程《よほど》激烈《げきれつ》であつたことも想像《そう/″\》される。
西暦《せいれき》千七百《せんしちひやく》五十五年《ごじゆうごねん》十一月《じゆういちがつ》一日《いちにち》のリスボンの大地震《だいぢしん》は規模《きぼ》頗《すこぶ》る廣大《こうだい》なものであつて、感震《かんしん》區域《くいき》は長徑《ちようけい》五百里《ごひやくり》に亙《わた》り、地動《ちどう》の餘波《よは》によつて、スコットランド、スカンヂナビヤ邊《へん》に於《お》ける湖水《こすい》の氾濫《はんらん》を惹起《ひきおこ》したものである。此時《このとき》リスボンには津浪《つなみ》も襲來《しゆうらい》し、こゝだけの死人《しにん》でも六萬人《ろくまんにん》に上《のぼ》つた。震原《しんげん》は大西洋底《たいせいようてい》にあつたものであらう。津浪《つなみ》は北《きた》アメリカの東海岸《ひがしかいがん》に於《おい》ても氣附《きづ》かれた。
此《この》地震《ぢしん》の場合《ばあひ》に於《おい》て、大地《だいち》の開閉《かいへい》を起《おこ》した所《ところ》は、リスボンの對岸《たいがん》、アフリカのモロッコ國《こく》の首府《しゆふ》モロッコから三里《さんり》ほど離《はな》れた一部落《いちぶらく》であつて、そこにはベスンバ種族《しゆぞく》と呼《よ》ばれる土民《どみん》が住《す》まつてゐた。この時《とき》大地《だいち》の開閉《かいへい》によつて土民《どみん》は勿論《もちろん》、彼等《かれら》の飼《か》つてゐた畜類《ちくるい》は牛馬《ぎゆうば》、駱駝《らくだ》等《とう》に至《いた》るまで盡《こと/″\》くそれに吸《す》ひ込《こ》まれ、八千《はつせん》乃至《ないし》一萬《いちまん》の人口《じんこう》を有《ゆう》してをつたこの部落《ぶらく》は其《その》ために跡方《あとかた》もなく失《うしな》はれたといふ。此《この》地震《ぢしん》史上《しじよう》の大事件《だいじけん》の舞臺《ぶたい》が未開《みかい》の土地《とち》であるだけに、記事《きじ》に確信《かくしん》を置《お》くわけにも行《ゆ》かないが、これを載《の》せた書物《しよもつ》は地震《ぢしん》直後《ちよくご》に出版《しゆつぱん》された『千七百《せんしちひやく》五十五年《ごじゆうごねん》十一月《じゆういちがつ》一日《いちにち》のリスボン大地震《だいぢしん》』と題《だい》するもので、歐洲《おうしゆう》に於《お》ける當時《とうじ》の知名《ちめい》の科學者《かがくしや》十名《じゆうめい》の論文《ろんぶん》を集《あつ》めたものである。
大地《だいち》開閉《かいへい》の記事《きじ》を載《の》せた第三《だいさん》の地震《ぢしん》は西暦《せいれき》千七百《せんしちひやく》八十三年《はちじゆうさんねん》イタリー國《こく》カラブリヤに起《おこ》つたものであつて、地震《ぢしん》に因《よ》る死者《ししや》四萬《しまん》、それに續《つゞ》いて起《おこ》つた疫病《えきびよう》に因《よ》る死者《ししや》二萬《にまん》と數《かぞ》へられたものである。場所《ばしよ》は長靴《ながぐつ》の形《かたち》に譬《たと》へられたイタリーの足《あし》の中央部《ちゆうおうぶ》に當《あた》つてゐる。この時《とき》中央《ちゆうおう》山脈《さんみやく》の斜面《しやめん》に沿《そ》うて堆積《たいせき》してゐた土砂《どさ》が全體《ぜんたい》として山骨《さんこつ》を離《はな》れ、それが斜面《しやめん》を流《なが》れ下《くだ》る際《さい》曲《まが》り目《め》の所《ところ》に於《おい》て、雪崩《なだ》れの表面《ひようめん》が或《あるひ》は開《ひら》いたり、或《あるひ》は閉《と》ぢたりしたものゝようであるが、此《この》開《ひら》き口《ぐち》に人畜《じんちく》が陷《おちい》つて見《み》えなくなつたことが記《しる》されてある。或《あるひ》は又《また》開《ひら》いたままに殘《のこ》つた地割《じわ》れもあつたが、後《あと》で檢査《けんさ》して見《み》ると、其《その》深《ふか》さは計測《けいそく》することが出來《でき》ない程《ほど》のものであつたといふ。關東《かんとう》大地震《だいぢしん》のとき起《おこ》つた根府川《ねぶがは》の山津浪《やまつなみ》は、其《その》雪崩《なだ》れ下《くだ》る際《さい》、右《みぎ》のような現象《げんしよう》が或《あるひ》は小規模《しようきぼ》に起《おこ》つたかも知《し》れない。
世界《せかい》大地震《だいぢしん》の記事《きじ》に於《おい》て、人畜《じんちく》を吸《す》ひ込《こ》むほどの地割《ぢわ》れの開閉《かいへい》現象《げんしよう》が起《おこ》つたのは、著者《ちよしや》の鋭意《えいい》調《しら》べた結果《けつか》、以上《いじよう》の三回《さんかい》のみである。此外《このほか》に幅《はゞ》僅《わづか》に一二寸《いちにすん》程《ほど》の地割《ぢわ》れが開閉《かいへい》したことを記《しる》したものはないでもないが、それも餘計《よけい》はない。一例《いちれい》を擧《あ》げるならば、西暦《せいれき》千八百《せんはつぴやく》三十五年《さんじゆうごねん》の南米《なんべい》チリ地震《ぢしん》である。此時《このとき》卑濕《ひしゆう》の土地《とち》に一二寸《いちにすん》の地割《ぢわ》れがいくらも出來《でき》、それが開閉《かいへい》して土砂《どさ》が吹出《ふきだ》したといふ。
右《みぎ》のような小規模《しようきぼ》の地割《ぢわ》れならば、大正《たいしよう》十二年《じゆうにねん》の關東《かんとう》大地震《だいぢしん》に於《おい》ても經驗《けいけん》せられた。場所《ばしよ》は安房國《あはのくに》北條町《ほうじようまち》北條《ほうじよう》小學校《しようがつこう》の校庭《こうてい》であつた。此《この》學校《がつこう》の敷地《しきち》は、數年前《すうねんぜん》に水田《すいでん》を埋立《うめた》てゝ作《つく》られたものであつて、南北《なんぼく》に長《なが》き水田《すいでん》の一區域《いちくいき》の中《なか》に、半島《はんとう》の形《かたち》をなして西《にし》から東《ひがし》へ突出《とつしゆつ》してゐた。さうしてこの水田《すいでん》の東西南《とうざいなん》の三方《さんぽう》は比較的《ひかくてき》に堅《かた》い地盤《ぢばん》を以《もつ》て圍《かこ》まれてゐる。かういふ構造《こうぞう》の地盤《ぢばん》であるから、地震《ぢしん》も比較的《ひかくてき》に烈《はげ》しかつたであらう。誰《たれ》しも想像《そう/″\》し得《え》られる通《とほ》り、校舍《こうしや》は新築《しんちく》でありながら全部《ぜんぶ》潰《つぶ》れてしまつた。わづかに身《み》を持《もつ》て免《のが》れた校長《こうちよう》以下《いか》の職員《しよくいん》は這《は》ふようにして中庭《なかには》にまで出《で》ると、目前《もくぜん》に非常《ひじよう》な現象《げんしよう》が起《おこ》り始《はじ》めた。それは校庭《こうてい》が南北《なんぼく》に二條《にじよう》に龜裂《きれつ》して、其處《そこ》から水柱《みづばしら》を二三間《にさんげん》の高《たか》さに噴出《ふんしゆつ》し始《はじ》めたのであつた。あとで龜裂《きれつ》の長《なが》さを計《はか》つてみたら、延長《えんちよう》二十二間《にじゆうにけん》程《ほど》あつたから、此程《これほど》噴出《ふんしゆつ》の景況《けいきよう》は壯觀《そうかん》であつたに相違《そうい》ない。あれよ/\とみてゐると水煙《みづけむり》は急《きゆう》に衰《おとろ》へ裂《さ》け口《くち》も閉《と》ぢて噴出《ふんしゆつ》一時《いちじ》に止《と》まつてしまつたが、僅《わづか》に五六秒《ごろくびよう》位《くらゐ》經過《けいか》した後《のち》再《ふたゝ》び噴《ふ》き出《だ》し始《はじ》めた。かく噴《ふ》いては止《や》み噴《ふ》いては止《や》みすること五六回《ごろつかい》にして次第《しだい》に衰《おとろ》へ遂《つひ》に止《や》んでしまつた。跡《あと》には所々《ところ/″\》に小《ちひ》さな土砂《とさ》の圓錐《えんすい》を殘《のこ》し、裂口《さけぐち》は大抵《たいてい》塞《ふさ》がつて唯《たゞ》細《ほそ》い線《せん》を殘《のこ》したのみである。著者《ちよしや》は事件《じけん》があつて二月《にがつ》の後《のち》に其《その》場所《ばしよ》を見學《けんがく》したが、土砂《とさ》の圓錐《えんすい》の痕跡《こんせき》は其時《そのとき》までも見《み》ることが出來《でき》た。さうしてこの現象《げんしよう》の原因《げんいん》は、水田《すいでん》の泥《どろ》の層《そう》が敷地《しきち》と共《とも》に水桶内《みづをけない》に於《お》ける水《みづ》の動搖《どうよう》と同《おな》じ性質《せいしつ》の震動《しんどう》を起《おこ》し、校舍《こうしや》の敷地《しきち》に當《あた》る所《ところ》が蒲鉾《かまぼこ》なりに持上《もちあが》つて地割《ぢわ》れを生《しよう》じ、それが凹《くぼ》んで下《さが》つたとき地割《ぢわ》れが閉《と》ぢるようになつたものと考《かんが》へた。大地震《だいぢしん》のとき、泥土層《でいどそう》や、卑濕《ひしゆう》の土地《とち》には長《なが》い裂《さ》け目《め》に沿《そ》うて泥砂《どろすな》を噴出《ふきだ》すことはありがちのことであるが、もし地震《ぢしん》の當時《とうじ》に此《この》現象《げんしよう》を觀察《かんさつ》することが出來《でき》たならば、北條《ほうじよう》小學校《しようがつこう》々庭《/\てい》に於《おい》て實見《じつけん》せられたようなものゝ多々《たゝ》あることであらう。實《じつ》に北條《ほうじよう》小學校《しようがつこう》職員《しよくいん》によつてなされた前記《ぜんき》現象《げんしよう》の觀察《かんさつ》は、地震學上《ぢしんがくじよう》極《きは》めて貴《たふと》いものであつた。
[#図版(img_16.png)、地割れ開閉の説明圖]
前《まへ》に記《しる》したジャマイカ地震《ぢしん》並《ならび》にリスボン地震《ぢしん》に於《お》ける地割《ぢわ》れの開閉《かいへい》は、北條《ほうじよう》小學校《しようがつこう》に起《おこ》つたような現象《げんしよう》が極《きは》めて大規模《おほきぼ》に起《おこ》つたものとすれば解釋《かいしやく》がつくように思《おも》ふ。果《はた》して然《しか》らば、ロアイヤル港《こう》や、昔《むかし》ベスンバ族《ぞく》のゐた部落《ぶらく》は右《みぎ》の現象《げんしよう》を起《おこ》すに最《もつと》も適當《てきとう》な場所《ばしよ》であつて、此等《これら》の地方《ちほう》は他《た》の大地震《だいぢしん》によつて再《ふたゝ》び同樣《どうよう》の現象《げんしよう》を起《おこ》すこともあるであらう。わが國《くに》に於《おい》て此《この》現象《げんしよう》を未《ま》だかつて大規模《だいきぼ》に起《おこ》したことのないのは、單《たん》に此《この》現象《げんしよう》を起《おこ》すに適當《てきとう》な構造《こうぞう》の場所《ばしよ》が存在《そんざい》しないのに因《よ》るものであらう。
右《みぎ》の樣《よう》な次第《しだい》であるから、著者《ちよしや》の結論《けつろん》としては、地割《ぢわ》れに吸込《すひこ》まれるような現象《げんしよう》は、わが國《くに》にては絶對《ぜつたい》に起《おこ》らないといふことに歸着《きちやく》するのである。されば竹藪《たけやぶ》に逃《に》げ込《こ》めとか、戸板《といた》を敷《し》いて避難《ひなん》せよとかいふ注意《ちゆうい》は餘《あま》りに用心《ようじん》すぎるように思《おも》はれる。況《いは》んや竹藪《たけやぶ》自身《じしん》が二十間《にじゆつけん》も移動《いどう》したことが明治《めいぢ》二十四年《にじゆうよねん》濃尾《のうび》大地震《だいぢしん》にも經驗《けいけん》され、又《また》それを通《とほ》して大《おほ》きな地割《ぢわ》れの出來《でき》た實例《じつれい》はいくらもある位《くらゐ》であるから、左程《さほど》に重《おも》きを置《お》かなくとも差支《さしつか》へない注意《ちゆうい》であるように思《おも》ふ。
大地震《だいぢしん》に遭遇《そうぐう》して最初《さいしよ》の一分間《いつぷんかん》を無事《ぶし》[#ルビの「ぶし」は底本のまま]に凌《しの》ぎ得《え》たとし、又《また》餘震《よしん》や地割《ぢわ》れは恐《おそ》れるに足《た》らないものとの悟《さと》りがついたならば、其後《そのご》災害《さいがい》防止《ぼうし》について全力《ぜんりよく》を盡《つく》すことが出來《でき》よう。此際《このさい》或《あるひ》は倒壞《とうかい》家屋《かおく》の下敷《したじき》になつたものもあらうし、或《あるひ》は火災《かさい》を起《おこ》しかけてゐる場所《ばしよ》も多《おほ》いことであらうし、救難《きゆうなん》に出來《でき》るだけ多《おほ》くの人手《ひとで》を要《よう》し、しかもそれには一刻《いつこく》の躊躇《ちゆうちよ》を許《ゆる》されないものがある。これ老幼《ろうよう》男女《だんじよ》の區別《くべつ》を問《と》はず、一齊《いつせい》に災害《さいがい》防止《ぼうし》に努力《どりよく》しなければならない所以《ゆえん》である。
下敷《したじき》になつた人《ひと》を助《たす》け出《だ》すことは震災《しんさい》の防止上《ぼうしじよう》最《もつと》も大切《たいせつ》なことである。なんとなれば震災《しんさい》を被《かうむ》る對象物中《たいしようぶつちゆう》、人命《じんめい》ほど貴重《きちよう》なものはないからである。もしそこに火災《かさい》を起《おこ》す虞《おそ》れが絶對《ぜつたい》になかつたならば、この問題《もんだい》の解決《かいけつ》に一點《いつてん》の疑問《ぎもん》も起《おこ》らないであらう。然《しか》しながら、もしそこに火災《かさい》を起《おこ》す虞《おそ》れがあり、又《また》實際《じつさい》に小火《ぼや》を起《おこ》してゐたならば、問題《もんだい》は全然《ぜんぜん》別物《べつもの》である。
大正《たいしよう》十四年《じゆうよねん》五月《ごがつ》二十三日《にじゆうさんにち》の但馬《たじま》地震《ぢしん》に於《おい》て、震原地《しんげんち》に當《あた》れる田結村《たいむら》に於《おい》ては、全村《ぜんそん》八十三《はちじゆうさん》戸中《こちゆう》八十二戸《はちじゆうにこ》潰《つぶ》れ、六十五名《ろくじゆうごめい》の村民《そんみん》が潰家《かいか》の下敷《したじき》となつた。この村《むら》は半農《はんのう》半漁《はんりよう》の小部落《しようぶらく》であるが、地震《ぢしん》の當日《とうじつ》は丁度《ちようど》蠶兒《さんじ》掃立《はきたて》の日《に》に當《あた》り、暖室用《だんしつよう》の炭火《すみび》を用《もち》ひてゐた家《いへ》が多《おほ》く、その中《うち》三十六戸《さんじゆうろつこ》からは煙《けむり》を吐《は》き出《だ》し、遂《つひ》に三戸《さんこ》だけは燃《も》え上《あが》るに至《いた》つた。一方《いつぽう》では下敷《したじき》の下《した》から助《たす》けを乞《こ》ふてわめき、他方《たほう》では消防《しようぼう》の急《きゆう》を告《つ》ぐるさけび、これに和《わ》して絶《た》え間《ま》なき餘震《よしん》の鳴動《めいどう》と大地《だいち》の動搖《どうよう》とは、幸《さいはひ》に身《み》を以《もつ》て免《のが》れたものには手《て》の下《くだ》しようもなかつたであらう。然《しか》し村民《そんみん》の間《あひだ》にはかういふ非常時《ひじようじ》に對《たい》する訓練《くんれん》がよく行屆《ゆきとゞ》いてゐたと見《み》え、老幼《ろうよう》男女《だんじよ》第一《だいいち》に火災《かさい》防止《ぼうし》に力《つと》め、時《とき》を移《うつ》さず人命《じんめい》救助《きゆうじよ》に從事《じゆうじ》したのであつた。幸《さいはひ》に火《ひ》も小火《ぼや》のまゝで消《け》し止《と》め、下敷《したじき》になつた六十五名《ろくじゆうごめい》中《ちゆう》、五十八名《ごじゆうはちめい》は無事《ぶじ》に助《たす》け出《だ》されたが、殘《のこ》りの七名《しちめい》は遺憾《いかん》ながら崩壞物《ほうかいぶつ》の第一撃《だいいちげき》によつて即死《そくし》したのであつた。もし村民《そんみん》の訓練《くんれん》が不行屆《ふゆきとゞ》きであり、或《あるひ》は火《ひ》を消《け》すことを第二《だいに》にしたならば、恐《おそ》らくは全村《ぜんそん》烏有《うゆう》に歸《き》し、人命《じんめい》の損失《そんしつ》は助《たす》けられた五十八名《ごじゆうはちめい》の中《なか》にも及《およ》んだであらう。即《すなは》ち人命《じんめい》の損失《そんしつ》は實際《じつさい》に幾倍《いくばい》し、財産《ざいさん》の損失《そんしつ》は幾十倍《いくじゆうばい》にも及《およ》んだであらう。實《じつ》にその村民《そんみん》の行動《こうどう》は震災《しんさい》に對《たい》してわれ/\の理想《りそう》とする所《ところ》を實行《じつこう》したものといへる。聞《き》けばこの村《むら》はかって壯丁《そうてい》の多數《たすう》が出漁中《しゆつりようちゆう》に火《ひ》を失《しつ》して全村《ぜんそん》灰燼《かいじん》に歸《き》したことがあるさうで、これに鑑《かんが》みて其後《そのご》女子《じよし》の消防隊《しようぼうたい》をも編成《へんせい》し、かゝる寒村《かんそん》なるにがそりん[#「がそりん」に傍点]・ぽんぷ[#「ぽんぷ」に傍点]一臺《いちだい》備《そな》へつけてあるのだといふ。平日《へいじつ》かういふ訓練《くんれん》があればこそ、かゝる立派《りつぱ》な行動《こうどう》に出《い》でることも出來《でき》たのであらう。
また丹後《たんご》大地震《だいぢしん》の時《とき》は、九歳《きゆうさい》になる茂籠《もかご》傳一郎《でんいちろう》といふ山田《やまだ》小學校《しようがつこう》二年生《にねんせい》は一家《いつか》八人《はちにん》と共《とも》に下敷《したじき》になり、家族《かぞく》は屋根《やね》を破《やぶ》つて逃《に》げ出《だ》したに拘《かゝは》らず、傳一郎《でんいちろう》君《くん》は倒潰《とうかい》家屋内《かおくない》に踏《ふ》み留《とゞ》まり、危險《きけん》を冒《をか》して火《ひ》を消《け》し止《と》めたといひ、十一歳《じゆういつさい》になる糸井《いとゐ》重幸《しげゆき》といふ島津《しまづ》小學校《しようがつこう》四年生《よねんせい》は、祖母《そぼ》妹《いもうと》と共《とも》に下敷《したじき》になりながら、二人《ふたり》には退《の》き口《くち》をあてがつて、自分《じぶん》だけは取《と》つて返《かへ》し、二箇所《にかしよ》の火元《ひもと》を雪《ゆき》を以《もつ》て消《け》しにかゝつたが、祖母《そぼ》は家《いへ》よりも身體《からだ》が大事《だいじ》だといつて重幸《しげゆき》少年《しようねん》を制《せい》したけれども、少年《しようねん》はこれをきかないで、幾度《いくど》も雪《ゆき》を運《はこ》んで來《き》て、遂《つひ》に消《け》し止《と》めたといふ。この爲《ため》に兩少年《りようしようねん》は各自《かくじ》の家屋《かおく》のみならず、重幸《しげゆき》少年《しようねん》の如《ごと》きは隣接《りんせつ》した小學校《しようがつこう》と二十戸《にじゆつこ》の民家《みんか》とを危急《ききゆう》から救《すく》ひ得《え》たのであつた。實《じつ》にこれ等《ら》義勇《ぎゆう》の行動《こうどう》はそれが少年《しようねん》によつてなされたゞけに殊更《ことさら》たのもしく思《おも》はれるではないか。
日本《につぽん》に於《お》ける大地震《だいぢしん》の統計《とうけい》によれば、餘《あま》り大《おほ》きくない町村《ちようそん》に於《おい》て、潰家《かいか》十一軒《じゆういつけん》毎《ごと》に一名《いちめい》の死者《ししや》を生《しよう》ずる割合《わりあひ》である。然《しか》るに、もしこれに火災《かさい》が加《くは》はると、人命《じんめい》の損失《そんしつ》は三倍《さんばい》乃至《ないし》四倍《よばい》になるのであるが、これは下敷《したじき》になつた人《ひと》の中《うち》、火災《かさい》さへなければ無事《ぶじ》に助《たす》け出《だ》さるべきものまで燒死《しようし》の不幸《ふこう》を見《み》るに至《いた》るものが多數《たすう》に生《しよう》ずるからである。地震《ぢしん》の災害《さいがい》を最小《さいしよう》限度《げんど》に防止《ぼうし》せんとするに當《あた》り主義《しゆぎ》として人命《じんめい》救護《きゆうご》に最《もつと》も重《おも》きを置《お》くことは勿論《もちろん》であるが、唯《たゞ》此《この》主義《しゆぎ》の實行《じつこう》手段《しゆだん》として、火災《かさい》の防止《ぼうし》を眞先《まつさき》にすることが必要《ひつよう》條件《じようけん》となるのである。もし此《この》手段《しゆだん》の實行上《じつこうじよう》に伴《ともな》ふ犧牲《ぎせい》があるならば、それを考慮《こうりよ》することも必要《ひつよう》であるけれども、何等《なんら》の犧牲《ぎせい》がないのみならず、火災《かさい》防止《ぼうし》といふ最《もつと》も有利《ゆうり》な條件《じようけん》が伴《ともな》ふのである。實際《じつさい》大地震《だいぢしん》の損害《そんがい》に於《おい》て、直接《ちよくせつ》地震動《ぢしんどう》より來《きた》るものは僅《わづか》に其一《そのいつ》小部分《しようぶぶん》であつて、大部分《だいぶぶん》は火災《かさい》のために生《しよう》ずる損失《そんしつ》であるといへる。此《この》關係《かんけい》は關東《かんとう》大地震《だいぢしん》、但馬《たじま》地震《ぢしん》、丹後《たんご》地震《ぢしん》に於《おい》て、此頃《このごろ》證據立《しようこだ》てられた所《ところ》であつて、別段《べつだん》な説明《せつめい》を要《よう》しない事實《じじつ》である。
八、火災《かさい》防止《ぼうし》(一)
地震《ぢしん》に伴《ともな》ふ火災《かさい》は大抵《たいてい》地震《ぢしん》の後《のち》に起《おこ》るから、其等《それら》に對《たい》しては注意《ちゆうい》も行屆《ゆきとゞ》き、小火《ぼや》の中《うち》に消止《けしと》める餘裕《よゆう》もあるけれども、潰家《かいか》の下《した》から徐々《じよ/\》に燃《も》え上《あ》がるものは、大事《だいじ》に至《いた》るまで氣附《きづ》かれずに進行《しんこう》することがあり、終《つひ》に大火災《だいかさい》を惹起《ひきおこ》したことも少《すくな》くない。
大正《たいしよう》十四年《じゆうよねん》五月《ごがつ》二十三日《にじゆうさんにち》の但馬《たじま》地震《ぢしん》に於《おい》て、豐岡町《とよをかまち》に於《おい》ては、地震《ぢしん》直後《ちよくご》、火《ひ》は三箇所《さんかしよ》から燃《も》え上《あが》つた。これは容易《ようい》に消《け》し止《と》められたので、消防隊《しようぼうたい》又《また》は一般《いつぱん》の町民《ちようみん》の間《あひだ》には多少《たしよう》の緩《ゆる》みも生《しよう》じたのであらう。市街《しがい》の中心地《ちゆうしんち》に於《お》ける潰家《かいか》の下《もと》に、大火災《だいかさい》となるべき火種《ひだね》が培養《ばいよう》せられつゝあつたことを氣附《きづ》かないでゐたのである。地震《ぢしん》の起《おこ》つたのは當日《とうじつ》午前《ごぜん》十一時《じゆういちじ》十分頃《じつぷんごろ》であり、郵便局《ゆうびんきよく》の隣《とな》りの潰家《かいか》から發火《はつか》したのは正午《しようご》を過《す》ぐる三十分《さんじつぷん》位《ぐらゐ》だつたといふから、地震後《ぢしんご》凡《およ》そ一時間《いちじかん》半《はん》を經過《けいか》してゐる。これが氣附《きづ》かれたときは、一旦《いつたん》集合《しゆうごう》してゐた消防隊《しようぼうたい》も解散《かいさん》した後《のち》であり、又《また》氣附《きづ》かれた後《のち》も倒潰《とうかい》家屋《かおく》に途《みち》を塞《ふさ》がれて火元《ひもと》に近《ちか》づくことが困難《こんなん》であつたなどの不利益《ふりえき》が種々《しゆ/″\》重《かさ》なつて、遂《つひ》に全町《ぜんちよう》二千《にせん》百戸《ひやつこ》の中《うち》、其《その》三分《さんぶん》の二《に》を全燒《ぜんしよう》せしめる程《ほど》の大火災《だいかさい》となつたのである。しかも其《その》燒失《しょうしつ》區域《くいき》は町《まち》の最《もつと》も重要《じゆうよう》な部分《ぶぶん》を占《し》めてゐたので、損失《そんしつ》の實際《じつさい》の價値《かち》は更《さら》に重大《じゆうだい》なものであつたのである。
九、火災《かさい》防止《ぼうし》(二)
普通《ふつう》に出來《でき》てゐる水道《すいどう》鐵管《てつかん》は、地震《ぢしん》によつて破損《はそん》し易《やす》い。啻《たゞ》に大地震《だいぢしん》のみならず、一寸《ちよつと》した強《つよ》い地震《ぢしん》にもさうである。特《とく》に地盤《ぢばん》の弱《よわ》い市街地《しがいち》に於《おい》てはそれが著明《ちよめい》である。關東《かんとう》大地震《だいぢしん》後《ご》、この方面《ほうめん》に於《お》ける研究《けんきゆう》も大《おほ》いに進《すゝ》み、或《あるひ》は鐵管《てつかん》の繼手《つぎて》の改良《かいりよう》、或《あるひ》は地盤《ぢばん》不良《ふりよう》な場所《ばしよ》を避《さ》けて敷設《ふせつ》すること、止《や》むを得《え》なければ豫備《よび》の複線《ふくせん》を設《まう》けることなど、幾分《いくぶん》耐震的《たいしんてき》になつた所《ところ》もあるけれども、それも地震《ぢしん》の種類《しゆるい》によるのであつて、われ/\が謂《い》ふ所《ところ》の大地震《だいぢしん》に對《たい》しては、先《ま》づ暫時《ざんじ》無能力《むのうりよく》となるものと諦《あきら》めねばなるまい。今日《こんにち》都市《とし》に於《お》ける消防《しようぼう》施設《しせつ》は水道《すいどう》を首位《しゆい》に置《お》いてあつて、普通《ふつう》の火災《かさい》に對《たい》してはそれで差支《さしつか》へないのであるが、大地震《だいぢしん》のような非常時《ひじようじ》に於《おい》ては、忽《たちま》ち支障《ししよう》を來《きた》すこと、其例《そのれい》が餘《あま》りに多《おほ》い。
非常時《ひじようじ》の消防《しようぼう》施設《しせつ》については別《べつ》に其局《そのきよく》に當《あた》る人《ひと》があるであらう。唯《たゞ》われ/\は現状《げんじよう》に於《おい》て最善《さいぜん》を盡《つく》す工夫《くふう》をしなければならぬ。
水《みづ》なしの消防《しようぼう》は最《もつと》も不利益《ふりえき》であるから、水道《すいどう》の水《みづ》が止《と》まらない内《うち》、機敏《きびん》に貯水《ちよすい》の用意《ようい》をすることが賢明《けんめい》な仕方《しかた》である。たとひ四邊《あたり》に火災《かさい》の虞《おそ》れがないように考《かんが》へられた場合《ばあひ》に於《おい》ても、遠方《えんぽう》の火元《ひもと》から延燒《えんしよう》して來《く》ることがあるからである。著者《ちよしや》は大正《たいしよう》十二年《じゆうにねん》の關東《かんとう》大地震《だいぢしん》の際《さい》、東京《とうきよう》帝國《ていこく》大學内《だいがくない》地震學《ぢしんがく》教室《きようしつ》にあつて、水無《みづな》しに消防《しようぼう》に從事《じゆうじ》した苦《くる》しい經驗《けいけん》を有《ゆう》してゐるが、水《みづ》の用意《ようい》があつての消防《しようぼう》に比較《ひかく》して其《その》難易《なんい》を説《と》くことは、蓋《けだ》し愚《ぐ》の骨頂《こつちよう》であらう。この經驗《けいけん》によつて、水《みづ》なしの消防法《しようぼうほう》をも心得《こゝろえ》て置《お》くべきものといふことを覺《さと》つたが、實際《じつさい》には水《みづ》を使用《しよう》しては却《かへ》つて能《よ》くない場合《ばあひ》もあるので、著者《ちよしや》の專門外《せんもんがい》ではあるけれども、聞《き》き噛《かじ》つたことを略述《りやくじゆつ》して見《み》ることにする。
水《みづ》を用《もち》ひては却《かへ》つて能《よ》くない場合《ばあひ》は後廻《あとまは》しにして、先《ま》づ水《みづ》を用《もち》ひて差支《さしつか》へない場合《ばあひ》、もしくは有利《ゆうり》な場合《ばあひ》に於《おい》て、水《みづ》のあるなしによつて如何《いか》に之《これ》を處置《しよち》するかを述《の》べて見《み》たい。
個人《こじん》消防上《しようぼうじよう》の最大《さいだい》要件《ようけん》は時機《じき》を失《うしな》ふことなく、最《もつと》も敏速《びんそく》に處置《しよち》することにある。これは火《ひ》は小《ちひ》さい程《ほど》、消《け》し易《やす》いといふ原則《げんそく》に基《もと》づいてゐる。或《あるひ》は自力《じりよく》で十分《じゆうぶん》なこともあり、或《あるひ》は他《た》の助力《じよりよく》を要《よう》することもあり、或《あるひ》は消防隊《しようぼうたい》を必要《ひつよう》とすることもあるであらう。
水《みづ》は燃燒《ねんしよう》の元《もと》に注《そゝ》ぐこと、焔《ほのほ》や煙《けむり》に注《つ》いでも何等《なんら》の效果《こうか》がない。
障子《しようじ》のような建具《たてぐ》に火《ひ》が燃《も》えついたならば、この建具《たてぐ》を倒《たふ》すこと、衣類《いるい》に火《ひ》が燃《も》えついたときは、床《ゆか》又《また》は地面《じめん》に一轉《ひところ》がりすれば、焔《ほのほ》だけは消《き》える。
火《ひ》が天井《てんじよう》まで燃《も》え上《あが》つたならば、屋根《やね》まで打拔《うちぬ》いて火氣《かき》を拔《ぬ》くこと。これは焔《ほのほ》が天井《てんじよう》を這《は》つて燃《も》え擴《ひろ》がるのを防《ふせ》ぐに效力《こうりよく》がある。この際《さい》若《も》し竿雜巾《さをぞうきん》(竿《さを》の先《さき》に濕雜巾《ぬれざふきん》を結付《むすびつ》けたもの)の用意《ようい》があると、最《もつと》も好都合《こうつごう》である。
隣家《りんか》からの延燒《えんしよう》を防《ふせ》ぐに、雨戸《あまど》を締《し》めることは幾分《いくぶん》の效力《こうりよく》がある。
煙《けむり》に卷《ま》かれたら、地面《ぢめん》に這《は》ふこと、濕《ぬ》れ手拭《てぬぐひ》にて鼻口《はなくち》を被《おほ》ふこと。
焔《ほのほ》の下《した》をくゞるときは、手拭《てぬぐひ》にて頭部《とうぶ》を被《おほ》ふこと。手拭《てぬぐひ》が濕《ぬ》れてゐれば猶《なほ》よく、座蒲團《ざぶとん》を水《みづ》に浸《ひた》したものは更《さら》によし。
火《ひ》に接近《せつきん》するに疊《たゝみ》の楯《たて》は有效《ゆうこう》である。
水《みづ》を用《もち》ひては却《かへ》つて能《よ》くない場合《ばあひ》は、燃燒物《ねんしようぶつ》が油《あぶら》、あるこーる[#「あるこーる」に傍点]の如《ごと》きものゝ場合《ばあひ》である。藥品《やくひん》の中《うち》には容器《ようき》の顛倒《てんとう》によつて單獨《たんどく》に發火《はつか》するものもあれば、接觸《せつしよく》混合《こんごう》によつて發火《はつか》するものもある。それにあるこーる[#「あるこーる」に傍点]、えーてる[#「えーてる」に傍点]等《とう》の如《ごと》く一時《いちじ》に燃《も》え擴《ひろ》がるものが近《ちか》くにあるとき、直《すぐ》に大事《だいじ》を惹起《ひきおこ》すに至《いた》ることが多《おほ》い。或《あるひ》は飮食店《いんしよくてん》に於《お》ける揚物《あげもの》の油《あぶら》、或《あるひ》はせるろいど[#「せるろいど」に傍点]工場《こうじよう》など、世《よ》の文化《ぶんか》が進《すゝ》むに從《したが》ひ、化學《かがく》藥品《やくひん》にして發火《はつか》の原因《げんいん》となるものが、益《ます/\》殖《ふ》えて來《く》る。關東《かんとう》大地震《だいぢしん》のとき、東京《とうきよう》に於《お》ける大火災《だいかさい》の火元《ひもと》は百五十箇所《ひやくごじゆつかしよ》程《ほど》に數《かぞ》へられてゐるが、其中《そのうち》化學《かがく》藥品《やくひん》に由《よ》るものは四十四箇所《しじゆうしかしよ》であつて、三十一箇所《さんじゆういちかしよ》は都合《つごう》よく消《け》し止《と》められたけれども、十三箇所《じゆうさんかしよ》だけは大事《だいじ》を惹起《ひきおこ》すに至《いた》つた。
化學《かがく》藥品《やくひん》油類《ゆるい》の發火《はつか》に對《たい》しては、燃燒《せんしよう》[#ルビの「せんしよう」は底本のまま]を妨《さまた》げる藥品《やくひん》を以《もつ》て、處理《しより》する方法《ほう/\》もあるけれども、普通《ふつう》の場合《ばあひ》には砂《すな》でよろしい。もし蒲團《ふとん》、茣蓙《ござ》が手近《てぢか》にあつたならば、それを以《もつ》て被《おほ》ふことも一法《いちほう》である。
揚物《あげもの》の油《あぶら》が鍋《なべ》の中《なか》にて發火《はつか》した場合《ばあひ》は、手近《てぢか》にあるうどん[#「うどん」に傍点]粉《こ》、菜葉《なつぱ》などを鍋《なべ》に投《な》げ込《こ》むこと。
火《ひ》に慣《な》れないものは火《ひ》を恐《おそ》れるために、小火《ぼや》の中《うち》にこれを押《おさ》へ付《つ》けることが出來《でき》ずして大事《だいじ》に至《いた》らしめることが多《おほ》い。もし右《みぎ》のような火《ひ》の性質《せいしつ》を心得《こゝろえ》てゐると、心《こゝろ》の落着《おちつき》も出來《でき》るため、危急《ききゆう》の場合《ばあひ》、機宜《きゞ》に適《てき》する處置《しよち》も出來《でき》るようにもなるものである。左《さ》に記《しる》したものゝ中《なか》には實驗《じつけん》を行《おこな》ひ得《う》るものもあるから、教師《きようし》父兄《ふけい》指導《しどう》の下《もと》に、安全《あんぜん》な場所《ばしよ》を選《えら》びて、これを試《こゝろ》みることは極《きは》めて有益《ゆうえき》なことである。
ついでに記《しる》して置《お》くことは、火災《かさい》の避《さ》け難《がた》き場合《ばあひ》を顧慮《こりよ》しての心得《こゝろえ》である。
金庫《きんこ》の足《あし》の車止《くるまど》めを確《たし》かにして置《お》くこと。地震《ぢしん》のとき金庫《きんこ》が動《うご》き出《だ》し、扉《とびら》がしまらなくなつた例《れい》が多《おほ》い。
金庫《きんこ》、書庫《しよこ》、土藏《どぞう》には各《おの/\》の大《おほ》きさに相應《そうおう》する器物《きぶつ》(例《たと》へば土藏《どぞう》ならばばけつ[#「ばけつ」に傍点])に水《みづ》を入《い》れ置《お》くこと。これは内部《ないぶ》の貴重品《きちようひん》の蒸燒《むしやき》になるのを防《ふせ》ぐためである。
土藏内《どぞうない》の品物《しなもの》は壁《かべ》から一尺《いつしやく》以上《いじよう》離《はな》し置《お》くこと。
貴重品《きちようひん》を一時《いちじ》井戸《ゐど》に沈《しづ》めることあり。地中《ちちゆう》に埋《うづ》める場合《ばあひ》は砂《すな》の厚《あつ》さ五分《ごぶ》程《ほど》にても有效《ゆうこう》である。
火災《かさい》の避難《ひなん》に於《おい》ては旋風《せんぷう》に襲《おそ》はれさうな場處《ばしよ》を避《さ》けること。
大火災《だいかさい》のときは、地震《ぢしん》とは無關係《むかんけい》に、旋風《せんぷう》が起《おこ》り勝《が》ちである。火先《ひさき》が凹《なかくぼ》の正面《しようめん》を以《もつ》て前進《ぜんしん》するとき、其《その》曲《まが》り角《かど》には塵旋風《ちりせんぷう》と名《な》づくべきものが起《おこ》る。又《また》川筋《かはすぢ》に接《せつ》した廣場《ひろば》は移動《いどう》旋風《せんぷう》によつて襲《おそ》はれ易《やす》い。明暦《めいれき》大火《たいか》の際《さい》、濱町《はまちよう》河岸《がし》の本願寺《ほんがんじ》境内《けいだい》に於《おい》て、又《また》關東《かんとう》大地震《だいぢしん》東京《とうきよう》大火災《だいかさい》の際《さい》、本所《ほんじよ》被服廠《ひふくしよう》跡《あと》に於《おい》て、旋風《せんぷう》のために、死人《しにん》の集團《しゆうだん》が出來《でき》たことはよく知《し》られた悲慘事《ひさんじ》であつた。
一〇、餘震《よしん》に對《たい》する處置《しよち》
昔《むかし》の人《ひと》の恐《おそ》れてゐた大地震《だいぢしん》の搖《ゆ》り戻《もど》しは、最初《さいしよ》の大地震《だいぢしん》の主要部《しゆようぶ》の意味《いみ》であつて、今日《こんにち》の所謂《いはゆる》餘震《よしん》を指《さ》すものでないことは前《まへ》に辯《べん》じた通《とほ》りである。然《しか》るに後世《こうせい》の人《ひと》、これを餘震《よしん》と混同《こんどう》し、隨《したが》つて餘震《よしん》までも恐怖《きようふ》するに至《いた》つたのは災害《さいがい》防止上《ぼうしじよう》遺憾《いかん》の次第《しだい》であつた。
餘震《よしん》を恐怖《きようふ》せるため、消防《しようぼう》に十分《じゆうぶん》の實力《じつりよく》を發揮《はつき》することが出來《でき》なかつたとは、屡《しば/\》專門《せんもん》の消防手《しようぼうしゆ》から聞《き》く述懷《じつかい》であるが、著者《ちよしや》は此種《このしゆ》の人士《じんし》が餘震《よしん》を誤解《ごかい》してゐるのを、最《もつと》も遺憾《いかん》に思《おも》ふものである。
統計《とうけい》によれば、餘震《よしん》のときの震動《しんどう》の大《おほ》いさは、最初《さいしよ》の大地震《だいぢしん》のものに比較《ひかく》して、其《その》三分《さんぶん》の一《いち》といふ程《ほど》のものが、最大《さいだい》の記録《きろく》である。隨《したが》つて破壞力《はかいりよく》からいへば、餘震《よしん》の最大《さいだい》なるものも最初《さいしよ》の大地震《だいぢしん》の九分《くぶん》の一《いち》以下《いか》であるといふことになる。ざっと十分《じゆうぶん》の一《いち》と見《み》てよいであらう。其故《それゆゑ》に、單《たん》に統計《とうけい》の上《うへ》から考《かんが》へても、餘震《よしん》は恐《おそ》れる程《ほど》のものでないことが了解《りようかい》せられるであらう。唯《たゞ》大地震《だいぢしん》直後《ちよくご》はそれが頗《すこぶ》る頻々《ひんぴん》に起《おこ》り、しかも間々《まゝ》膽《きも》を冷《ひや》す程《ほど》のものも來《く》るから、氣味惡《きみわる》くないとはいひ難《にく》いことであるけれども。
大地震後《だいぢしんご》、餘震《よしん》を餘《あま》りに恐怖《きようふ》するため、安全《あんぜん》な家屋《かおく》を見捨《みす》てゝ、幾日《いくにち》も/\野宿《のじゆく》することは、震災地《しんさいち》に於《お》ける一般《いつぱん》の状態《じようたい》である。もし其《その》野宿《のじゆく》が何《なに》かの練習《れんしゆう》として效能《こうのう》が認《みと》められてのことならば、それも結構《けつこう》であるけれども、病人《びようにん》までも其《その》仲間《なかま》に入《い》れるか、又《また》は病氣《びようき》を惹《ひ》き起《おこ》してまでもこれを施行《しこう》するに於《おい》ては、愚《ぐ》の骨頂《こつちよう》といはなければならぬ。大地震《だいぢしん》によりて損傷《そんしよう》した家屋《かおく》の中《なか》には崩壞《ほうかい》の縁《ふち》に近寄《ちかよ》り、きはどい所《ところ》で喰止《くひと》めたものもあらう。さういふものは、地震《ぢしん》ならずとも、或《あるひ》は風《かぜ》、或《あるひ》は雨《あめ》によつて崩壞《ほうかい》することもあるであらう。又《また》洋風《ようふう》建築物《けんちくぶつ》にては墜落《ついらく》しかけた材料《ざいりよう》も能《よ》く氣附《きづ》かれる。さういふ建築物《けんちくぶつ》には近寄《ちかよ》らぬをよしとしても、普通《ふつう》の木造《もくぞう》家屋《かおく》特《とく》に平屋建《ひらやだて》にあつては、屋根瓦《やねがはら》や土壁《つちかべ》を落《おと》し、或《あるひ》は少《すこ》し許《ばか》りの傾斜《けいしや》をなしても、餘震《よしん》に對《たい》しては安全《あんぜん》と見做《みな》して差支《さしつか》へないものと認《みと》める。實《じつ》に木造《もくぞう》家屋《かおく》が單《たん》に屋根瓦《やねがはら》と土壁《つちかべ》とを取除《とりのぞ》かれただけならば、これあるときに比較《ひかく》して耐震《たいしん》價値《かち》を増《ま》したといへる。何《なん》となれば、これ等《ら》の材料《ざいりよう》は家屋《かおく》各部《かくぶ》の結束《けつそく》に無能力《むのうりよく》なるが上《うへ》に、地震《ぢしん》のとき、自分《じぶん》の惰性《だせい》を以《もつ》て家屋《かおく》が地面《ぢめん》と一緒《いつしよ》に動《うご》くことに反對《はんたい》するからである。又《また》家屋《かおく》の少《すこ》し許《ばか》りの傾斜《けいしや》は、其《その》耐震《たいしん》價値《かち》を傷《きづ》つけてゐない場合《ばあひ》が多《おほ》い。一體《いつたい》家屋《かおく》が新《あたら》しい間《あひだ》は柱《はしら》と横木《よこぎ》との間《あひだ》を締《し》めつけてゐる楔《くさび》が能《よ》く利《き》いてゐるけれども、それが段々《だん/″\》古《ふる》くなつて來《く》ると、次第《しだい》に緩《ゆる》みが出《で》て來《く》る。これは木材《もくざい》が乾燥《かんそう》するのと、表面《ひようめん》から次第《しだい》に腐蝕《ふしよく》して來《く》るとに由《よ》るのである。それで大地震《だいぢしん》に出會《であ》つて容易《ようい》に幾《いく》らかの傾斜《けいしや》をなしても、それがために楔《くさび》が始《はじ》めて利《き》き出《だ》して來《く》ることになり。[#句点は底本のまま]其《その》位置《いち》に於《おい》て構造物《こうぞうぶつ》の一層《いつそう》傾《かたむ》かんとするのに頑強《がんきよう》に抵抗《ていこう》するにあるのである。恰《あだか》も相撲《すまふ》のとき、土俵《どひよう》の中央《ちゆうおう》からずる/\と押《お》された力士《りきし》が、劍《つるぎ》の峯《みね》に蹈《ふ》み耐《こら》へる場合《ばあひ》のようである。かしうて[#「かしうて」は底本のまま]最初《さいしよ》の大地震《だいぢしん》に蹈《ふ》み耐《こら》へる家屋《かおく》が、其後《そのご》、三分《さんぶん》の一《いち》以下《いか》の地震力《ぢしんりよく》によつて押《お》し切《き》られることはないはずである。
著者《ちよしや》は關東《かんとう》大地震《だいぢしん》の調査《ちようさ》日記《につき》に於《おい》て、大地震後《だいぢしんご》家族《かぞく》と共《とも》に自宅《じたく》に安眠《あんみん》し、一回《いつかい》も野宿《のじゆく》しなかつたことを記《しる》した。又《また》但馬《たじま》大地震《だいぢしん》の調査《ちようさ》日記《につき》には、震原地《しんげんち》の殆《ほと》んど直上《ちよくじよう》たる瀬戸《せと》の港西《こうさい》小學校《しようがくこう》に一泊《いつぱく》したことを記《しる》した。此《この》校舍《こうしや》は木造《もくぞう》二階建《にかいだて》であつたが、地震《ぢしん》のために中央部《ちゆうおうぶ》が階下《かいか》まで崩壞《ほうかい》し、可憐《かれん》な兒童《じどう》を二名《にめい》程《ほど》壓殺《あつさつ》したのであつた。然《しか》し家屋《かおく》の兩翼《りようよく》は少《すこ》しく傾《かたむ》きながら、潰《つぶ》れずに殘《のこ》つてゐたので、これを檢査《けんさ》して見《み》ると、餘震《よしん》には安全《あんぜん》であらうと想像《そう/″\》されたから、山崎《やまざき》博士《はかせ》を初《はじ》め一行《いつこう》四人《よにん》は其家《そのいへ》の樓上《ろうじよう》に一泊《いつぱく》した。其夜《そのよ》大雨《たいう》が降《ふ》り出《だ》したので、これ迄《まで》野營《やえい》を續《つゞ》けてゐた附近《ふきん》の被害民《ひがいみん》は、皆《みな》此《こ》の潰《つぶ》れ殘《のこ》りの家《いへ》に集《あつ》まつて來《き》て餘《あま》り大勢《おほぜい》でありし爲《ため》、混雜《こんざつ》はしたけれども、皆《みな》口々《くち/″\》に、安《やす》らかな一夜《いちや》を過《す》ごしたことを談《かた》り合《あ》つてゐた。
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昭和《しようわ》二年《にねん》十月《じゆうがつ》、プラーグに於《お》ける地震《ぢしん》學科《がくか》の國際《こくさい》會議《かいぎ》へ出席《しゆつせき》した歸《かへ》り途《みち》、大活動《だいかつどう》に瀕《ひん》せるヴエスヴイオを訪《と》ひナポリから郵船《ゆうせん》筥崎丸《はこざきまる》に便乘《びんじよう》し、十三日《じゆうさんにち》アデン沖《おき》を通過《つうか》する頃《ころ》本稿《ほんこう》を記《しる》し、同《おな》じく二十九日《にじゆうくにち》安南沖《あんなんおき》を過《す》ぐる頃《ころ》、稿《こう》終《をは》る。 著者 誌す
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【テキスト中、置きかえた漢字】
[第3水準1-89-3]→ 研
[第3水準1-14-48]→ 免
[第3水準1-86-35]→ 歩
[第3水準1-89-29]→ 祥
[第3水準1-86-16]→ 横
[第3水準1-89-49]→ 突
[第3水準1-14-81]→ 即
[第3水準1-93-21]→ 録
[第3水準1-47-65]→ 層
[第3水準1-87-74]→ 状
[第3水準1-15-61]→ 増
[第3水準1-89-68]→ 節
[第3水準1-86-73]→ 海
[第3水準1-91-89]→ 視
[第3水準1-90-13]→ 縁
[第3水準1-84-89]→ 掴
[第3水準1-15-56]→ 填
[第3水準1-84-36]→ 徴
[第3水準1-93-67]→ 難
[第3水準1-89-19]→ 社
[第3水準1-86-42]→ 毎
[第3水準1-92-76]→ 郷
[第3水準1-47-64]→ 屡
[第3水準1-86-4]→ 概
[第3水準1-85-8]→ 敏
[第3水準1-14-72]→ 勤
[第3水準1-89-73]→ 箪
[第3水準1-85-2]→ 撃
[第3水準1-89-25]→ 祖
[第3水準1-15-26]→ 噛
[第3水準1-87-49]→ 焔
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底本:『星と雲・火山と地震』復刻版 日本兒童文庫、名著普及会
1982(昭和57)年6月20日 発行
親本:『星と雲・火山と地震』日本兒童文庫、アルス
1930(昭和5)年2月15日 発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日公開
青空文庫作成ファイル:
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*地名
(地名を冠した自然現象などを含む)[三陸] さんりく (1) 陸前・陸中・陸奥の総称。(2) 三陸地方の略。東北地方北東部、北上高地の東側の地域。
三陸大津波 さんりく おおつなみ 津波の常襲地の三陸地方沿岸で、過去100年間に起こったもののうち最大規模の1896年(明治29)6月15日(明治三陸地震津波)および1933年(昭和8)3月3日(昭和三陸地震津波)の津波を指す。
三陸沖地震 さんりくおき じしん 三陸沖に起こる巨大地震。震源は日本海溝付近にあるため、地震動による被害は少ないが、リアス海岸になっているため津波の被害が大きい。1896年には3万人近い死者、1933年には3000人以上の死者を出した。
[安房国] あわのくに 旧国名。今の千葉県の南部。房州。
北条町 ほうじょうまち 1933年4月18日まで千葉県安房郡に存在した町(現・館山市、旧:館山北条町)。
[東京都]
本郷 ほんごう 東京都文京区の一地区。もと東京市35区の一つ。山の手住宅地。東京大学がある。
湯島 ゆしま 東京都文京区東端の地区。江戸時代から、孔子を祀った聖堂や湯島天神がある。
東京会館 とうきょうかいかん 株式会社東京會舘。宴会場、結婚式場、レストランを経営する会社である。贈答用の洋菓子や料理缶詰の販売も手がけている。1920年(大正9年)4月24日に設立され、1922年(大正11年)11月1日竣工。フランス料理のレストランと宴会場を持った。本社でもある丸の内本館は、東京都千代田区丸の内の皇居近くにある。
浦賀海峡 → 浦賀水道か
浦賀水道 うらが すいどう 東京湾の入口、三浦半島と房総半島との間の海峡。幅約7キロメートル。
丸の内ビルディング まるのうち- 東京駅にほど近い東京都千代田区丸の内二丁目に所在する、三菱地所保有のオフィスビル。通称丸ビル。大阪駅前にもマルビルというビルがあることが知られているが、これは建物の形が円筒形であることから来ており、両者の関連性はない。
丸の内 まるのうち (2) 東京都千代田区、皇居の東方一帯の地。もと、内堀と外堀に挟まれ、大名屋敷のち陸軍練兵場があったが、東京駅建築後は丸ビル・新丸ビルなどが建設され、ビジネス街となった。
浜町河岸 はまちょう がし 江戸、隅田川の両国橋から永代橋に至る間の右岸の河岸。明治以後は、特に東京都中央区日本橋浜町の河岸。
本願寺 → 本願寺築地別院か
本願寺築地別院 ほんがんじ つきじ べついん 東京都中央区築地にある浄土真宗本願寺派の寺。もと浅草浜町(日本橋浜町)にあり、江戸海辺坊舎・浜町御坊と称した。明暦の大火(1657)後、現在地に移る。
本所 ほんじょ 東京都墨田区の一地区。もと東京市35区の一つ。隅田川東岸の低地。商工業地域。
被服廠跡 ひふくしょう あと 東京都墨田区横網二丁目にある旧日本陸軍被服廠本廠の跡地。大正12年(1923)の関東大震災のさいに、ここに避難した約4万人の罹災民が焼死した。現在、東京都慰霊堂および復興記念館が建てられている。
[神奈川県]
相模湾 さがみわん 神奈川県三浦半島南端の城ヶ島と真鶴岬とを結ぶ線から北側の海域。相模川、境川、酒匂川が流入。ブリ・アジ・サバなどの好漁場。
横須賀 よこすか 神奈川県南東部の市。三浦半島の東岸、東京湾の入口に位置する。元軍港で、鎮守府・東京湾要塞司令部・造船所などがあった。現在、米海軍・自衛隊の基地、自動車工場がある。人口42万6千。
鎌倉 かまくら 神奈川県南東部の市。横浜市の南に隣接。鎌倉幕府跡・源頼朝屋敷址・鎌倉宮・鶴岡八幡宮・建長寺・円覚寺・長谷の大仏・長谷観音などの史跡・社寺に富む。風致にすぐれ、京浜の住宅地。人口17万1千。
小田原 おだわら 神奈川県南西部の市。古来箱根越え東麓の要駅。戦国時代は北条氏の本拠地として栄えた。もと大久保氏11万石の城下町。かまぼこなどの水産加工、木工業が盛ん。人口19万9千。
[静岡県]
熱海 あたみ 静岡県伊豆半島の北東隅、相模湾に面する市。観光・保養都市。全国有数の温泉場(塩化物泉・硫酸塩泉など)。人口4万1千。
伊東 いとう 静岡県伊豆半島東岸の市。温泉を中心とする観光・保養地。人口7万2千。
伊豆山 いづさん → 伊豆山神社
伊豆山神社 いずさん じんじゃ 静岡県熱海市伊豆山にある元国幣小社。祭神は伊豆山神。源頼朝以来武家が尊信。伊豆山権現。走湯権現。
根府川 ねぶかわ 神奈川県小田原市南部の地名。箱根外輪山の斜面にあり、相模湾に面する。ミカンの栽培で知られる。根府川石を産出。根符川。
衛戍病院 えいじゅ びょういん 各衛戍地に置かれた陸軍の病院。
魚見崎 うおみざき
[愛知県]
瀬戸 せと 愛知県北西部の市。付近の丘陵に陶土を産し、燃料の黒松が多いので、陶祖加藤景正以来瀬戸焼の名を全国に馳せた。日本最大の陶磁器工業地として陶都の称がある。人口13万2千。
港西小学校 こうさい -
[滋賀県]
姉川 あねがわ 滋賀県東浅井郡を流れる川。伊吹山に発源、琵琶湖に注ぐ。1570年(元亀1)織田信長が浅井長政・朝倉義景を破った古戦場。
姉川地震 あねがわ じしん 1909年(明治42年)8月14日、滋賀県北東部の姉川付近を震源として発生した地震。滋賀県から福井県にかけて、北北西方向にのびる柳ヶ瀬断層が活動したと考えられている。M6.8。現在の滋賀県東浅井郡虎姫町で最大の震度6、滋賀県内全域で震度5〜4を記録した。東北地方南部から九州地方の一部にかけての広い範囲で有感地震が観測され、被害は滋賀県と岐阜県に及んだ。そのため、「江濃地震」とも呼ばれる。
田根 たね 田根村。現、滋賀県東浅井郡浅井町。古代の田根郷は現町域の中部。明治22年(1889)の町村制施行によって田根村が成立。昭和29年(1954)五か村が合併して浅井町が成立。
[兵庫県]
豊岡 とよおか 兵庫県北部の市。もと京極氏3万石の城下町。かつては柳行李・柳籠、今はスーツケースなどの生産が盛ん。人口8万9千。
豊岡町 とよおかまち 兵庫県城崎郡豊岡町(とよおかちょう、現・豊岡市)。
城崎 きのさき 兵庫県の北東部の郡。円山川・矢田川の流域にあり、日本海に面する。明治29年(1896)気多・美含両郡を併合。
城崎町 きのさきちょう かつて兵庫県北東部に存在した町。旧城崎郡。2005年4月1日、豊岡市、城崎郡竹野町・日高町、出石郡出石町・但東町と対等合併して新「豊岡市」となったため消滅した。
田結村 たいむら 現在の兵庫県豊岡市田結。北は日本海に面する。豊岡市は県北但馬地方の北東部。豊岡盆地を中心市域とする。大正14年(1925)、港村田結沖を震源地とする北但馬大震災が発生。
[中国]
浙江 せっこう (Zhejiang) (1) 中国南東部、東シナ海に面する省。長江下流の南を占め、銭塘江によって東西に分かれる。古くから商工業が盛ん。別称、浙・越。省都は杭州。面積約10万平方キロメートル。(2) 銭塘江の別称。
銭塘江 せんとうこう (Qiantang Jiang)中国、浙江省の北西部を流れる大河。浙江・江西両省の境の仙霞嶺山脈に発源し、杭州湾に注ぐ。河口の三角江には、定時に海嘯があり壮観。浙江。
[ポルトガル]
リスボン Lisbon ポルトガル共和国の首都。タホ川河口の港湾都市。1256年コインブラより遷都。旧王宮・美術博物館などがある。人口53万5千(2004)。ポルトガル語名リジュボア。
リスボン地震 - じしん 1531年と1755年に発生した、ポルトガルのリスボン付近を震源とする地震の名称。「リスボン大地震」というと、1755年の地震を指す場合が多い。
[ジャマイカ]
ジャマイカ地震 1692年。
西インド諸島 にし インド しょとう West Indies 南北アメリカ大陸に挟まれたカリブ海域にある群島。アメリカ合衆国のフロリダ半島南端、および、メキシコのユカタン半島東端から、ベネズエラの北西部沿岸にかけて、少なくとも7000の島、小島、岩礁、珊瑚礁がカーブを描くようにして連なる。これらの島々が、大西洋と、メキシコ湾、カリブ海の境界線を形成している。
ジャマイカ島 Jamaica カリブ海、大アンティル諸島の国。1494年コロンブスが来航。1962年イギリスから独立。住民の大半はアフリカ系。面積1万1000平方キロメートル。人口262万(2004)。首都キングストン。
ロワイヤル港 → ポート・ロイヤルか
ポート・ロイヤル 17世紀のジャマイカの海運業の中心地。当時は「世界で最も豊かで最もひどい町」の両方の名声を得た。バッカニア(海賊)たちが奪った宝物を持って来て、消費することで有名な場所だった。17世紀、英国は海賊を奨励し、ポート・ロイヤルを海賊の拠点として、スペイン船やフランス船を攻撃していた。
スコットランド Scotland イギリス、グレート‐ブリテン島北部の地方。古くはカレドニアと称。1707年イングランドと合併。中心都市エディンバラ。
スカンジナビア Scandinavia 北ヨーロッパの半島。長さ約1800キロメートル、幅最大約800キロメートル。フィンランドの北西端から南西に延びて、バルト海・ボスニア湾と大西洋との間に横たわり、東部はスウェーデン、西部はノルウェー。両国国境にスカンディナヴィア山脈が走り、海岸にフィヨルド(峡湾)が多い。
[モロッコ] Morocco アフリカ北西端の王国。1956年フランス領モロッコが独立、スペイン領モロッコをも併合。大部分がアトラス山脈などの高原国。住民の大多数はイスラム教徒のアラブ人・ベルベル人。面積45万平方キロメートル。人口3054万(2004)。首都ラバト。
ベスンバ種族 - しゅぞく
[イエメン]
アデン Aden アラビア半島南西端、イエメンの港湾都市。紅海の入口にあり、古来、地中海とインド洋とを結ぶ航路上の要地。人口39万8千(1994)。
[チェコ]
プラーグ → プラハ
プラハ Praha チェコ共和国の首都。ヴルタヴァ川に沿い、ボヘミア盆地の中心に位置する交通・文化の中心地。自動車・織物・化学工業が行われ、ガラス工芸品も有名。中世の面影を色濃く残す歴史地区は世界遺産。人口116万6千(2004)。英語名プラーグ。
[イタリア]
カラブリア Calabria イタリア南部の州。ナポリの南、イタリア半島の先端に位置する。州都はカタンザーロ。
ナポリ Napoli イタリア南部の都市。ナポリ湾に臨み、ローマの南東約220キロメートル。古代ギリシア・ローマ以来栄え、1282年以後ナポリ王国を形成、ルネサンス文化の一中心。南東方にヴェスヴィオ火山がそびえ、風光明媚。カーポディモンテの王宮や古城などがある。人口99万8千(2004)。英語名ネープルズ。
ヴェスヴィオ Vesuvio イタリア南部の活火山。ナポリ湾の東側、ナポリの南東16キロメートルにある。標高1281メートル。二重式火山で、古来しばしば大噴火をなし、西暦79年8月ポンペイ・ヘルクラネウムを噴出物で埋めた。英語名ヴェスヴィアス。
[チリ]
チリ地震 1835年。
筥崎丸 はこざきまる 郵船。
[ベトナム]
アンナン Annam・安南 中国人・フランス人などがかつてベトナムを呼んだ称。また、ベトナム人がこの地に建てた国家をもいう。唐がこの地に設けた安南都護府に由来。狭義には、北のトンキン、南のコーチシナとともに旧仏領インドシナの一行政区画の称。
◇参照:Wikipedia、
*年表
一六五七(明暦三)一月一八〜二〇日 明暦の大火。江戸城本丸をはじめ市街の大部分を焼き払う。焼失町数400町。死者10万人余。本郷丸山町の本妙寺で施餓鬼に焼いた振袖が空中に舞い上がったのが原因といわれ、俗に振袖火事と称した。
一六九二年六月七日 西インド諸島、ジャマイカ地震。首府ロワイヤル港においては大地に数百条の亀裂。人畜のみこまれる。市街地の大部は沈下して海となる。死人は首府総人口の三分の二を占める。
一七五五年十一月一日 リスボン地震。感震区域は長径五百里にわたる。スコットランド、スカンジナビア辺における湖水氾濫。リスボンには津波襲来し死者六万人。震源は大西洋底か。モロッコの一部落で大地開閉。論文集『一七五五年十一月一日のリスボン大地震』刊行。
一七八三 イタリア、カラブリアにて大地震。死者四万。続いておこった疫病による死者二万。
一八三五 南米チリ地震。
一八五五(安政元)一一月四日および同五日 東海道・南海道大地震。
一八九一(明治二四) 濃尾大地震。
一八九四(明治二七)六月二〇日 東京地震。今村明恒、本郷湯島において、木造二階建ての階上で経験。
一八九六(明治二九)六月一五日 三陸大津波。
一九〇九(明治四二)八月一四日 姉川大地震において田根小学校倒壊。
一九二二(大正一一)四月二六日 浦賀海峡地震。丸の内ビルディング損傷。
一九二三(大正一二)九月一日 関東大地震。東京会館に被害。千葉県北条小学校の校庭で小規模の地割れ。今村明恒、ふた月の後に見学。東京における大火災の火元は一五〇か所ほど。そのうち化学薬品によるものは四十四か所。三十一か所は消し止められたけれども、十三か所は大事をひきおこす。
一九二五(大正一四)五月二三日 但馬地震。震源地の田結村は全村八十三戸中八十二戸つぶれ、六十五名の村民が潰家の下敷。五十八名は無事に助け出された。豊岡町においては三か所で火災。いったん鎮火後、全町二一〇〇戸のうち、三分の二を全焼の大火災おこる。
一九二七(昭和二) 丹後地震。
◇参照:Wikipedia、
*人物一覧
(人名、および組織・団体名・神名)今村明恒 いまむら あきつね 1870-1948 地震学者。理学博士。鹿児島県生まれ。明治38年、統計上の見地から関東地方に大地震が起こりうると説き、大森房吉との間に大論争が起こった。大正12年、東大教授に就任。翌年、地震学科の設立とともに主任となる。昭和4年、地震学会を創設、その会長となり、機関誌『地震』の編集主任を兼ね、18年間その任にあたる(人名)。
藤田東湖 ふじた とうこ 1806-1855 幕末の儒学者。名は彪(たけし)。幽谷の子。水戸藩士。藩主徳川斉昭を補佐して、天保の改革を推進し、側用人となる。交友範囲も広く、激烈な尊攘論者として知られる。安政の江戸大地震に母を助けて自分は圧死。著「回天詩史」「弘道館記述義」など。
茂籠伝一郎 もかご でんいちろう 山田小学校二年生、九歳。
糸井重幸 いとい しげゆき 島津小学校四年生。十一歳。
山崎博士 やまざき
◇参照:Wikipedia、
*書籍
(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)『一七五五年十一月一日のリスボン大地震』
◇参照:Wikipedia。
*難字、求めよ
通し柱 とおしばしら 2階以上の建物で、土台から軒桁まで、継ぎ足しせず1本で通っている柱。←→管柱(くだばしら)。
大神楽造り だいかぐら づくり
家扶 かふ (1) 親王家・王家で、家令をたすけ家務・会計をつかさどった判任官。(2) 華族の家務・会計をつかさどった者。家令の次席。
山骨 さんこつ 山の土砂が崩れて岩石が露出したもの。
卑湿 ひしゅう/ひしつ 土地が低くて湿気のあること。また、その土地。
掃立 はきたて 養蚕で、孵化した毛蚕を、蚕卵紙から羽箒で掃きおろし蚕座へ移すこと。/本来は一年に一回、桑の芽吹く春におこなわれた作業で、春の季語となっている。
壮丁 そうてい (1) 壮年の男子。血気さかんな男子。成年に達した男子。わかもの。(2) 夫役または軍役にあたる壮年の男子。
セルロイド celluloid ニトロセルロースに樟脳をまぜて製した半透明のプラスチック。セ氏90度で柔軟となり、冷却すれば硬くなる。燃えやすい。玩具・フィルム・文房具・装身具などに用いられた。最近ではアセチルセルロース系のプラスチックを多く用い、これを不燃セルロイドと称する。
◇参照:Wikipedia、
*後記(工作員 日記)
本文中、イタリア・カラブリアは「長靴の形にたとえられたイタリアの足の中央部」とあるが、イタリア半島の先端部(つまさきの部分)のかんちがいではなかろうか。
アスペリティ(固着域)……ここが一気にずれ動くことで地震が発生する(p.19)。七日深夜の地震直後、
尾池和夫『新版 活動期に入った地震列島』
地震の前兆現象についていくつかの示唆がある。温泉の水温が約1か月前から平均して0.1〜0.3度下がり、地震発生まで下がったまま(p.83)。阪神淡路大地震の10時間ほど前に、M3.3 の明石海峡に前震。立ち上がりがゆっくりとした変化で始まっており、前震を出発点として、直後に大地震となる震源破壊面が成長するという可能性(p.117)。
今回、山形県内の温泉で震災後、源泉が自噴せずポンプくみ上げで営業を再開した事例がある。報道記事を読むかぎりパイプ破損が原因ではなく、湧出量の顕著な変化とみられる。
太平洋海岸線が広域にわたって沈下。研究者によっては、これから数か月〜数年のあいだに再び隆起する可能性を指摘している(読売新聞、4.4、p.22)。真偽は不明。むしろ地震直前(1か月〜1週間レベル)で当地域の急激な地盤隆起があったのではなかろうかと推測するが、今のところ、そういう報道・調査は見ない。
*次週予告
第三巻 第三七号
津浪と人間/天災と国防/災難雑考 寺田寅彦
第三巻 第三七号は、
四月九日(土)発行予定です。
定価:200円
T-Time マガジン 週刊ミルクティー* 第三巻 第三六号
地震の話
発行:二〇一一年四月二日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。
第二巻
第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン 月末最終号:無料
第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン 定価:200円
第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 定価:200円
第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 定価:200円
第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 定価:200円
第六号 新羅人の武士的精神について 池内宏 月末最終号:無料
第七号 新羅の花郎について 池内宏 定価:200円
第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉 定価:200円
第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治 定価:200円
第十号 風の又三郎 宮沢賢治 月末最終号:無料
第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎 定価:200円
第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎 定価:200円
第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎 定価:200円
第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎 定価:200円
第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル 定価:200円
第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル 定価:200円
第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル 月末最終号:無料
第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル 定価:200円
第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉 定価:200円
第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉 定価:200円
第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太 月末最終号:無料
第二四号 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫 定価:200円
第二五号 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉 定価:200円
第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎 定価:200円
第二七号 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治 定価:200円
第二八号 翁の発生/鬼の話 折口信夫 月末最終号:無料
第二九号 生物の歴史(一)石川千代松 定価:200円
第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松 定価:200円
第三一号 生物の歴史(三)石川千代松 定価:200円
第三二号 生物の歴史(四)石川千代松 月末最終号:無料
第三三号 特集 ひなまつり 定価:200円 雛 芥川龍之介
雛がたり 泉鏡花
ひなまつりの話 折口信夫
第三四号 特集 ひなまつり 定価:200円 人形の話 折口信夫
偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
第三五号 右大臣実朝(一)太宰治 定価:200円
第三六号 右大臣実朝(二)太宰治 月末最終号:無料
第三七号 右大臣実朝(三)太宰治 定価:200円
第三八号 清河八郎(一)大川周明 定価:200円
第三九号 清河八郎(二)大川周明 定価:200円
第四〇号 清河八郎(三)大川周明 月末最終号:無料
第四一号 清河八郎(四)大川周明 定価:200円
第四二号 清河八郎(五)大川周明 定価:200円
第四三号 清河八郎(六)大川周明 定価:200円
第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉 定価:200円
第四五号 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉 月末最終号:無料
第四六号 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉 定価:200円
第四七号
第四八号 若草物語(一)L. M. オルコット 定価:200円
第四九号 若草物語(二)L. M. オルコット 月末最終号:無料
第五〇号 若草物語(三)L. M. オルコット 定価:200円
第五一号 若草物語(四)L. M. オルコット 定価:200円
第五二号 若草物語(五)L. M. オルコット 定価:200円
第五三号 二人の女歌人/東北の家 片山広子 定価:200円
第三巻 第一号 星と空の話(一)山本一清 月末最終号:無料
一、星座(せいざ)の星
二、月(つき)
(略)殊にこの「ベガ」は、わが日本や支那では「七夕」の祭りにちなむ「織(お)り女(ひめ)
第三巻 第二号 星と空の話(二)山本一清 定価:200円
三、太陽
四、日食と月食
五、水星
六、金星
七、火星
八、木星
太陽の黒点というものは誠におもしろいものです。黒点の一つ一つは、太陽の大きさにくらべると小さい点々のように見えますが、じつはみな、いずれもなかなか大きいものであって、
太陽の黒点からは、あらゆる気体の熱風とともに、いろいろなものを四方へ散らしますが、そのうちで最も強く地球に影響をあたえるものは電子が放射されることです。あらゆる電流の原因である電子が太陽黒点から放射されて、わが地球に達しますと、地球では、北極や南極付近に、美しいオーロラ(極光(きょっこう))が現われたり、
太陽の表面に、いつも同じ黒点が長い間見えているのではありません。一つ一つの黒点はずいぶん短命なものです。なかには一日か二日ぐらいで消えるのがありますし、普通のものは一、二週間ぐらいの寿命のものです。特に大きいものは二、三か月も、七、八か月も長く見えるのがありますけれど、一年以上長く見えるということはほとんどありません。
しかし、黒点は、一つのものがまったく消えない前に、他の黒点が二つも三つも現われてきたりして、ついには一時に三十も四十も、たくさんの黒点が同じ太陽面に見えることがあります。
こうした黒点の数は、毎年、毎日、まったく無茶苦茶というわけではありません。だいたいにおいて十一年ごとに増したり減ったりします。
第三巻 第三号 星と空の話(三)山本一清 定価:200円
九、土星
一〇、天王星
一一、海王星
一二、小遊星
一三、彗星
一四、流星
一五、太陽系
一六、恒星と宇宙
晴れた美しい夜の空を、しばらく家の外に出てながめてごらんなさい。ときどき三分間に一つか、五分間に一つぐらい星が飛ぶように見えるものがあります。あれが流星です。流星は、平常、天に輝いている多くの星のうちの一つ二つが飛ぶのだと思っている人もありますが、そうではありません。流星はみな、今までまったく見えなかった星が、急に光り出して、そしてすぐまた消えてしまうものなのです。
しかし、流星のうちには、はじめから稀(まれ)によほど形の大きいものもあります。そんなものは空気中を何百キロメートルも飛んでいるうちに、燃えつきてしまわず、熱したまま、地上まで落下してきます。これが隕石というものです。隕石のうちには、ほとんど全部が鉄のものもあります。これを隕鉄(いんてつ)といいます。
流星は一年じゅう、たいていの夜に見えますが、しかし、全体からいえば、冬や春よりは、夏や秋の夜にたくさん見えます。ことに七、八月ごろや十月、十一月ごろは、一時間に百以上も流星が飛ぶことがあります。
八月十二、三日ごろの夜明け前、午前二時ごろ、多くの流星がペルセウス星座から四方八方へ放射的に飛びます。これらは、みな、ペルセウス星座の方向から、地球の方向へ、列を作ってぶっつかってくるものでありまして、これを「ペルセウス流星群」と呼びます。
十一月十四、五日ごろにも、夜明け前の二時、三時ごろ、しし星座から飛び出してくるように見える一群の流星があります。これは「しし座流星群」と呼ばれます。
この二つがもっとも有名な流星群ですが、なおこの他には、一月のはじめにカドラント流星群、四月二十日ごろに、こと座流星群、十月にはオリオン流星群などあります。
第三巻 第四号 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎 定価:200円
獅子舞雑考
一、枯(か)れ木も山の賑(にぎ)やかし
二、獅子舞に関する先輩の研究
三、獅子頭に角(つの)のある理由
四、獅子頭と狛犬(こまいぬ)との関係
五、鹿踊(ししおど)りと獅子舞との区別は何か
六、獅子舞は寺院から神社へ
七、仏事にもちいた獅子舞の源流
八、獅子舞について関心すべき点
九、獅子頭の鼻毛と馬の尻尾(しっぽ)
穀神としての牛に関する民俗
牛を穀神とするは世界共通の信仰
土牛(どぎゅう)を立て寒気を送る信仰と追儺(ついな)
わが国の家畜の分布と牛飼神の地位
牛をもって神をまつるは、わが国の古俗
田遊(たあそ)びの牛の役と雨乞いの牛の首
全体、わが国の獅子舞については、従来これに関する発生、目的、変遷など、かなり詳細なる研究が発表されている。
そこで、今度は管見を記すべき順序となったが、これは私も小寺氏と同じく、柳田先生のご説をそのまま拝借する者であって、べつだんに奇説も異論も有しているわけではない。ただ、しいて言えば、わが国の鹿舞と支那からきた獅子舞とは、その目的において全然別個のものがあったという点が、相違しているのである。ことに小寺氏のトーテム説にいたっては、あれだけの研究では、にわかに左袒(さたん)することのできぬのはもちろんである。
こういうと、なんだか柳田先生のご説に、反対するように聞こえるが、角(つの)の有無をもって鹿と獅子の区別をすることは、再考の余地があるように思われる。
第三巻 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉 月末最終号:無料
鹿踊りのはじまり 宮沢賢治
奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
一 緒言
二 シシ踊りは鹿踊り
三 伊予宇和島地方の鹿の子踊り
四 アイヌのクマ祭りと捕獲物供養
五 付記
奥羽地方には各地にシシ踊りと呼ばるる一種の民間舞踊がある。地方によって多少の相違はあるが、だいたいにおいて獅子頭を頭につけた青年が、数人立ちまじって古めかしい歌謡を歌いつつ、太鼓の音に和して勇壮なる舞踊を演ずるという点において一致している。したがって普通には獅子舞あるいは越後獅子などのたぐいで、獅子奮迅・踊躍の状を表象したものとして解せられているが、奇態なことにはその旧仙台領地方におこなわるるものが、その獅子頭に鹿の角(つの)を有し、他の地方のものにも、またそれぞれ短い二本の角がはえているのである。
楽舞用具の一種として獅子頭のわが国に伝わったことは、すでに奈良朝のころからであった。くだって鎌倉時代以後には、民間舞踊の一つとして獅子舞の各地におこなわれたことが少なからず文献に見えている。そしてかの越後獅子のごときは、その名残りの地方的に発達・保存されたものであろう。獅子頭はいうまでもなくライオンをあらわしたもので、本来、角があってはならぬはずである。もちろんそれが理想化し、霊獣化して、彫刻家の意匠により、ことさらにそれに角を付加するということは考えられぬでもない。武蔵南多摩郡元八王子村なる諏訪神社の獅子頭は、古来、龍頭とよばれて二本の長い角が斜めにはえているので有名である。しかしながら、仙台領において特にそれが鹿の角であるということは、これを霊獣化したとだけでは解釈されない。けだし、もと鹿供養の意味からおこった一種の田楽的舞踊で、それがシシ踊りと呼ばるることからついに獅子頭とまで転訛するに至り、しかもなお原始の鹿角を保存して、今日におよんでいるものであろう。
第三巻 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝 定価:200円
魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝
倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。漢時有朝見者、今使訳所通三十国。従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千余里。始度一海千余里、至対馬国、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島、方可四百余里(略)。又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国〔一支国か〕
第三巻 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南 定価:200円
一、本文の選択
二、本文の記事に関するわが邦(くに)最旧の見解
三、旧説に対する異論
卑弥呼の記事を載せたる支那史書のうち、
次には本文のうち、各本に字句の異同あることを考えざるべからず。
第三巻 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南 定価:200円
四、本文の考証
帯方 / 旧百余国。漢時有朝見者。今使訳所通三十国。 / 到其北岸狗邪韓国 / 対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国 / 南至投馬國。水行二十日。/ 南至邪馬壹國。水行十日。陸行一月。/ 斯馬国 / 已百支国 / 伊邪国 / 郡支国 / 弥奴国 / 好古都国 / 不呼国 / 姐奴国 / 対蘇国 / 蘇奴国 / 呼邑国 / 華奴蘇奴国 / 鬼国 / 為吾国 / 鬼奴国 / 邪馬国 / 躬臣国 / 巴利国 / 支惟国 / 烏奴国 / 奴国 / 此女王境界所盡。其南有狗奴國 / 会稽東治
南至投馬國。水行二十日。
第三巻 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南 月末最終号:無料
四、本文の考証(つづき)
爾支 / 泄謨觚、柄渠觚、�馬觚 / 多模 / 弥弥、弥弥那利 / 伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳� / 狗古智卑狗
卑弥呼 / 難升米 / 伊声耆掖邪狗 / 都市牛利 / 載斯烏越 / 卑弥弓呼素 / 壱与
五、結論
付記
次に人名を考証せんに、その主なる者はすなわち、
付記 余がこの編を出せる直後、すでに自説の欠陥を発見せしものあり、すなわち「卑弥呼」の名を考証せる条中に『古事記』神代巻にある火之戸幡姫児(ヒノトバタヒメコ)
第三巻 第一〇号 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫 定価:200円
最古日本の女性生活の根底
一 万葉びと―
二 君主―
三 女軍(めいくさ)
四 結婚―
五 女の家
稲むらの陰にて
古代の歴史は、事実の記憶から編み出されたものではない。神人(かみびと)に神憑(がか)りした神の、物語った叙事詩から生まれてきたのである。いわば夢語りともいうべき部分の多い伝えの、世をへて後、筆録せられたものにすぎない。
(略)村々の君主の下になった巫女が、かつては村々の君主自身であったこともあるのである。
沖縄では、明治の前までは国王の下に、王族の女子あるいは寡婦が斎女王(いつきのみこ)同様の仕事をして、聞得大君(きこえうふきみ)
第三巻 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦 定価:200円
瀬戸内海の潮と潮流
コーヒー哲学序説
神話と地球物理学
ウジの効用
一体、海の面はどこでも一昼夜に二度ずつ上がり下がりをするもので、それを潮の満干といいます。これは月と太陽との引力のためにおこるもので、月や太陽がたえず東から西へまわるにつれて、地球上の海面の高くふくれた満潮の部分と低くなった干潮の部分もまた、だいたいにおいて東から西へ向かって大洋の上を進んで行きます。このような潮の波が内海のようなところへ入って行きますと、いろいろに変わったことがおこります。ことに瀬戸内海のように外洋との通路がいくつもあり、内海の中にもまた瀬戸がたくさんあって、いくつもの灘に分かれているところでは、潮の満干もなかなか込み入ってきて、これをくわしく調べるのはなかなか難しいのです。しかし、航海の頻繁なところであるから潮の調査は非常に必要なので、海軍の水路部などではたくさんな費用と時日を費やしてこれを調べておられます。東京あたりと四国の南側の海岸とでは満潮の時刻は一時間くらいしか違わないし、満干の高さもそんなに違いませんが、四国の南側とその北側とでは満潮の時刻はたいへんに違って、ところによっては六時間も違い、一方の満潮の時に他のほうは干潮になることもあります。また、内海では満干の高さが外海の倍にもなるところがあります。このように、あるところでは満潮であるのに他のところでは干潮になったり、内海の満干の高さが外海の満干の高さの倍になるところのあるのは、潮の流れがせまい海峡を入るためにおくれ、また、方々の入口から入り乱れ、重なり合うためであります。
第三巻 第一二号 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦 定価:200円
日本人の自然観
緒言
日本の自然
日本人の日常生活
日本人の精神生活
結語
天文と俳句
もしも自然というものが、地球上どこでも同じ相貌(そうぼう)をあらわしているものとしたら、日本の自然も外国の自然も同じであるはずであって、したがって上記のごとき問題の内容吟味は不必要であるが、しかし実際には、自然の相貌がいたるところむしろ驚くべき多様多彩の変化を示していて、ひと口に自然と言ってしまうにはあまりに複雑な変化を見せているのである。こういう意味からすると、同じように、