今村明恒 いまむら あきつね
1870-1948(明治3.5.16-昭和23.1.1)
地震学者。理学博士。鹿児島県生まれ。明治38年、統計上の見地から関東地方に大地震が起こりうると説き、大森房吉との間に大論争が起こった。大正12年、東大教授に就任。翌年、地震学科の設立とともに主任となる。昭和4年、地震学会を創設、その会長となり、機関誌『地震』の編集主任を兼ね、18年間その任にあたる。

◇参照:Wikipedia、『日本人名大事典』(平凡社)。
◇表紙絵・挿絵:恩地孝四郎。



もくじ 
地震の話(二) 今村明恒


ミルクティー*現代表記版
地震の話(二)
   三、地震に出会ったときの心得
    三、階下の危険
    四、屋内にての避難
    五、屋外における避難
    六、津波と山津波(やまつなみ)との注意
    七、災害防止
    八、火災防止(一)
    九、火災防止(二)
   一〇、余震に対する処置

オリジナル版
地震の話(二)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

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*凡例
〈 〉:割り注、もしくは小書き。
〔 〕:編者(しだ)注。

*底本
底本:『星と雲・火山と地震』復刻版 日本児童文庫、名著普及会
   1982(昭和57)年6月20日 発行
親本:『星と雲・火山と地震』日本兒童文庫、アルス
   1930(昭和5)年2月15日 発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1578.html

NDC 分類:K450(地球科学.地学)
http://yozora.kazumi386.org/4/5/ndck450.html
NDC 分類:K453(地球科学.地学/地震学)
http://yozora.kazumi386.org/4/5/ndck453.html




地震じしんはなし(二)

今村いまむら明恒あきつね


    三、階下かいかの危険

 わが国における三階建てはもちろん、二階建てもたいてい、各階の柱がとこの部分においてがれてある。すなわち、とおばしらもちいないで大神楽だいかぐらづくりにしてある。こういう構造においては、大きな地震動に対してまっさきにいたむのは最下層である。さらに震動が強いと階下の部分がつぶれ、上層の多くは直立の位置のままに取り残される。すなわち、二階建ては平家ひらやづくりのように、三階建ては二階建てのようなものになる。大正十四年(一九二五)但馬たじま地震において、豊岡町とよおかまちの被害状況の概報がいほうに、停車場の前通まえどおり四、ちょうのあいだは町家ちょう将棊しょうぎだおしにつぶれたとあったが、震災地をはじめて見学した一学生はその実状を見て、右の概報はあやまりだと思った。そうして著者に向かっていうには、将棊しょうぎだおしどころか各家屋直立ちょくりつしているではありませんかと。著者は、このとき彼に反問して、きみはこの町家を平家建ひらだてと思っているかといってみたが、がい学生がつぶれ方の真相を了解したのは、その状況を暫時ざんじ熟視じゅくしした後のことであった。

 大地震のばあいにおいて、二階建てあるいは三階建てとうの最下層がもっとも危険であることは、さらに詳説しょうせつを要しないほどによく知られている。それゆえに二階あるいは三階に居合いあわせた人が、階下を通ることの危険をおかしてまで屋外おくがいに逃げ出そうとする不見識ふけんしきな行動は排斥はいせきすべきである。むしろ、さらに上層にのぼるか、あるいは屋上おくじょう物干場ものほしばに避難することをすすめるのであるが、実際、こういう賢明けんめいな処置を取られた例はしばしば耳にするところである。

 著者は明治二十七年(一八九四)六月二十日の東京地震を本郷ほんごう湯島ゆしまにおいて、木造二階建ての階上で経験したことがある。このとき、帝国大学地震学じしんがく教室における地動ちどう二寸にすん七分しちぶの大きさに観測せられたから、同じ台地の湯島においても大差たいさなかったはずと思う。したがって、階上の動揺どうようは六、すんにも達したであろう。当時、著者は大学における卒業試験の準備中であって、つくえに向かって静座せいざしていたが、地震の初期微動びどうにおいてすでに土壁どへき亀裂きれつし、きれぎれになって落ちてくるので、みずからしつの中央部まで動いたけれども、それ以上に歩行することは困難であって、たとい階下へ行こうなどという間違った考えをおこしても、それは実行不可能であった。
 大正十二年(一九二三)九月一日の関東大地震において、著者のよく知っているぼう貴族は、夫妻そろって潰家かいか下敷したじきとなられた。当時、二人とも木造家屋の二階におられたので、下敷になりながら小屋組こやぐみ空所くうしょにはさまり、無難ぶなんに救い出されたが、階下にいた家扶かふは主人夫婦の身のうえを案じながら、かろうじて、梯子段はしごだんを登りつめたとき、家はつぶれてしまった。もし、この家扶かふ下座敷したざしきにいたままであったならば、無論、圧死あっししたであろうが、主人思いの徳行とくこうのために主人夫妻とともに無難に救い出されたのであった。

 ちかごろ、わが国にはアメリカふうの高層建築物がだんだん増加しつつある。地震に対してその安全さをあやぶんでいる識者しきしゃも多いことであるが、これはそのきょくにあたるものの平日へいじつ注意すべきことであって、小国民しょうこくみんの関与すべきことでもあるまい。しかしながら、そのような高い殿堂でんどう近寄ちかよることや堂上どうじょうのぼることは年齢に無関係なことであるから、わが読者もたまたま、かような場所に居合いあわせたとき、大地震に出会うようなことがないともかぎらぬ。こういう種類の建物は設計施工せこうによって地震にいためられる模様が変わるけれども、多くのばあい、地上階は比較的じょうぶにできているため、被害が少ない。この点は木造のばあいに比較して反対な結果をしめすのである。もし階数が七つ八つ、高さが百しゃく程度のものならば、二階、三階あるいは四階建てにいたみがもっともいちじるしいようである。大正十一年(一九二二)四月二十六日の浦賀うらが海峡地震にいためられたまるうちビルディング、大正十二年の関東大地震によってこしられた東京会館などがその適例であろう。いま、かような高層建物の上層に居合いあわせたばあい、もし、地震に出会って屋外に避難せんとこころみたなら、それはおそらくは、地震がすんでしまったころに到達とうたつせられるくらいのことであろう。それゆえにかような場合においては、屋外へ出ることを断念し、屋内において比較的安全な場所を求めることがむしろ得策とくさくであろう。

    四、屋内おくないにての避難

 大地震に出会って屋外への安全な避難がわないばあいは、家屋のつぶれること、かべ墜落ついらく煙突えんとつ崩壊ほうかいなどを覚悟し、また、木造家屋ならば下敷したじきになったばあいを考慮して、崩壊または墜落物の打撃からのがるような場所に一時避難するがよい。普通の住宅ならばイス・衣類で充満したタンス・火鉢ひばち碁盤ごばん将棊盤しょうばんなど、すべて堅牢けんろうな家具ならば身をせるに適している。これらの適例は大地震のたびごとにいくらも見い出される。

 教場内きょうじょうないにおいてはつくえの下がもっとも安全であるべきことは説明を要しないであろう。下敷したじきになった場合において、致命傷ちめいしょうをあたえるものははりけたとである。それさえけることができたなら、たいてい安全であるといってよい。そうして学校の教場内に並列した多数のつくえやあるいは銃器台じゅうきだいなどは、その連合のちからをもって、このけたはり、または小屋組こやぐみ全部を支えることは容易である。

 図は明治四十二年(一九〇九)八月十四日、姉川あねがわ大地震において倒壊のを見た、田根たね小学校の教場である。読者は墜落ついらくした小屋組が、その連合のちからをもっていかに完全に支えられたかを見られるであろう。この地震のときは、ちょうど夏季かき休暇中きゅうかちゅうであったため、一人の生徒もいなかったのであるが、仮に授業中であったとして、もしそれに善処ぜんしょせんとするならば、つくえの下へしゃがめ!」の号令ごうれい一下いっかでじゅうぶんであったろう。そうして家のつぶれ方が図にしめされたとおりであったならば、生徒中に一人の負傷者もできず、「しゃがんだまま外へ出よ!」との第二号令で、全員秩序をみださず、平日へいじつ教場へ出入しゅつにゅうするのとあまり違わない態度で校庭へ現われ出ることができたであろう。
 木造家屋に対しては、処置が比較的に容易であるが、重い洋風建築物であると、そう簡単にはゆかぬ。第一、墜落物も張壁はりかべ暖炉用だんろよう煙突えんとつなど、いずれも重量のだいなるものであるから、つくえやイスでは支えることが困難である。しかし、しつは比較的に広く作られるのが通常であるから、右のようなものの落ちてきそうな場所から遠ざかることもできるであろう。広いしつならば、その中央部、もしくは煙突えんとつの立てる反対のがわなど、ややそれに近い条件であろう。もし室内にて前記のごとき条件の場所もなく、または廊下ろうか居合いあわせて、両側の張壁はりかべからの墜落物にはさみちせられそうな場合においては、しつの出入口の枠構わくがまえが、夕立ゆうだちに出会ったときの樹陰こかげぐらいの役をつとめるであろう。

    五、屋外おくがいにおける避難

 地震の当初から屋外にいた者も、周囲の状況によっては必ずしも安全であるとはいわれない。また、容易に屋内から逃げ出すことができても、立ち退き先のほうがかえって屋内よりも危険であるかもしれない。石垣いしがき・レンガべい煙突えんとつなどの倒壊物は致命傷をあたえることもあるからである。また、家屋に接近していては、屋根瓦やねがわらかべの崩壊物に打たれることもあるであろう。
 石灯籠いしどうろうはあまり強大ならざる地震のばあいにもたおれやすく、そうして近くにいたものを圧死せしめがちである。特に、児童が転倒した石灯籠のために生命をうしなった例はすこぶる多い。これは児童の心理作用にもとづくもののようであるから、特に父兄ふけい・教師の注意を要することであろう。元来がんらい、神社・寺院には石灯籠が多い。そうしてそこは多く児童の集まる所である。そこでたまたま地震でもこると児童は逃げまどい、そこらにある立木たちきあるいは石灯籠にしがみつく。これはおそらくこういう場合、保護者のひざにしがみつく習慣からかくみちびかれるものであろう。それゆえ、あまり大きくない地震、たとえばようやく器物きぶつを転倒し、土壁つちかべそん粗造そぞうなレンガ煙突えんとつ損傷そんしょうするにとどまる程度においても、石灯籠の転倒によって児童の圧死者を出すことがめずらしくない。このことは教師・父兄の注意をうながすとともに、わが小国民しょうこくみんに向かっても直接にいましめておきたいことである。

    六、津波つなみ山津波やまつなみとの注意

 わが国の大地震は、激震げきしん区域の広いとせまいとによって、これを非局部性ひきょくぶせいのものと局部性のものとに区別することができる。非局部性の大地震は多く太平洋側の海底におこり、地震の規模広大こうだいなると陸地が震源から遠いために、はたまた海底地震の性質として震動はおおゆれであるが、しかしながら緩漫かんまんである。それと同時に津波つなみをともなうことがその特色である。これに反して、局部性の大地震は規模狭小きょうしょうであるが、多く陸地におこるがために震動の性質が急激である。近くその例をとるならば、大正十二年(一九二三)の関東大地震は非局部性であって、大正十四年の但馬たじま地震および昭和二年(一九二七)丹後たんご地震は局部性であった。
 非局部性の大地震をおこすことのある海洋底かいようていに接した海岸地方は、おおゆれの地震にみまわれたばあい、津波についての注意を要する。ただし、津波をともなうほどの地震は最大級のものであるから、倒壊とうかい家屋を生ずる区域が数個の国や県にわたることもあり、あるいは震源距離が陸地からあまり遠いために、単に広区域こうくいきにわたっておおゆれのみを感じ、地震の直接の損害を生じないこともある。前者の例は、大正十二年(一九二三)の関東大地震、あるいは安政元年(一八五五)十一月四日および同五日の東海道・南海道大地震とうであって、後者の例としては、明治二十九年(一八九六)六月十五日の三陸さんりく大津波おおつなみをあげることができる。
 かくして、わが国の太平洋側の沿岸は、非局部性の大地震をおこす海洋底に接しているわけであるが、しかしながら、その海岸線の全部が津波の襲来しゅうらい暴露ばくろされているわけではない。それについては津波襲来の常習地じょうしゅうというものがある。この常習地は右に記したような地震にみまわれたばあい、特別の警戒を要するけれども、その他の地方においては、さほどの注意を必要としないのである。
 右の話を進めるについて必要なのは、津波の概念である。津波に「海嘯かいしょう」なる文字がよくあててあるが、これは適当でない。海嘯かいしょう潮汐ちょうせきの干満の差の非常に大きな海に向かって、河口かこうが三角なりに大きく開いている所におこる現象である。支那しな浙江省せっこうしょう銭塘江せんとうこうは海嘯についてもっとも有名である。つまり、河流かりゅう上汐あげしおとが河口で暫時ざんじ戦って、ついに上汐あげしおちをめ、海水のかべを築きながらそれが上流に向かっていきおいよく進行するのである。津波とはなみ、すなわちみなとに現われる大津波であって、暴風など気象上の変調へんちょうからおこることもあるが、もっともおそろしいのは地震津波である。元来がんらい、波というから、読者はすぐに風でおこされる波を想像せられるかもしれないが、むしろうしおの差し引きというほうが実際に近い。われわれが通常みるところの波は、その山と山との間隔かんかく、すなわち波長はちょういくメートル、あるいは十幾じゅういくメートルという程度にすぎないが、津波の波長はいくキロメートル、幾十いくじゅうキロメートル、あるいは幾百いくひゃくキロメートルという程度のものである。それゆえに海上に浮かんでいる船舶せんぱくには、その存在または進行がわかりかねる場合が多い。ただし、それが海岸に接近すると、比較的に急なうしおの干満となって現われてくる。すなわち普通の潮汐ちょうせき一昼夜いっちゅうやに二回の干満をなすだけであって、したがってその周期はおよそ十二時間であるけれども、津波のために生ずる干満は幾分あるいは幾十分の周期をもってくり返されるのである。

 こういう長波長ちょうはちょうの津波が海底の大地震によっていかにしておこされるかというに、それは多く海底の地形変動にもとづくのである。われわれは近く関東大地震において、相模湾さがみわんの海底が広さ十里じゅうり四方しほうの程度において、いくメートルの上下変動のあったことを学んだ。そういう海底の地形変動は、すぐに海水面の変動をひきこすから、そこに長波長の津波ができるわけである。

 こういう津波は沖合おきあいにおいてはがいして数尺すうしゃくの高さしか持たないから、もし、それがそのままの高さをもって海岸に押しせたならば、たいてい無難なるべきはずである。しかし、波は海深かいしんがしだいに浅くなる所に進入すると、それにつれて高さを増し、またじょうごのように奥がしだいにせまくなる所に進入しても波の高さがしてくる。こういう関係がかさなるような場所においては、津波の高さがいちじるしく増大するわけであるが、それのみならず、波があさい所にれば、ついに破浪はろうするにいたること、ちょうど普通の小さな波について浜において経験するとおりであるから、この状態になってからは、波というよりもむしろ流れというべきである。すなわち海水がだんだんせまくなる港湾こうわんに流れ込むことになり、したがって沖合おきあいでは高さわずかに一、しゃくにすぎなかった津波も、港湾の奥においては数十尺すうじっしゃくの高さとなるのである。大正十二年(一九二三)の関東大地震において熱海港あたみこう両翼りょうよく、すなわち北は衛戍えいじゅ病院分室ぶんしつのあるへん、南は魚見崎うおみざきにおいては波の高さ四、五尺しかなかったが、船着き場では十五尺、港の奥では四十尺に達して多くの家屋をさらい、人命をうばった。ただし、港の奥ではかような大事変だいじへんをおこしているにかかわらず、数十町すうじっちょう沖合おきあいではまったくそれに無関係であって、当時、そこを航行中こうこうちゅうであった石油発動機船はつどうきせんが、海岸におけるかかる惨事さんじを想像し得なかったのも無理のないことである。明治二十九年(一八九六)三陸さんりく大津波は、その原因、数十里すうじゅうり沖合おきあいにおける海底の地形変動にあったのであるが、津波の常習地たるじょうごがたの港湾の奥においては、図にしめされたとおり、あるいは八十尺、あるいは七十五尺というような高さの洪水こうずいとなり、合計二万七〇〇〇人の人命をうばったのに、港湾の両翼端りょうよくたんではわずかに数尺すうしゃくにすぎないほどのものであったし、その夜、沖合おきあいに漁猟ぎょりょうに行っていた村人は、あんな悲惨事ひさんじが自分の村でおこったことを夢想むそうすることもできず、翌朝よくあさあとかたもなくうしなわれた村へ帰って茫然ぼうぜん自失じしつしたという。

 右のとおり、津波は事実上において「港の波」である。われわれは学術的にもこの名前をもちいている。じつに「津波つなみ」なるは、もはや国際語となったかんがある。
 以上の説明によって、津波襲来の常習地の概念が得られたことと思う。しばしば海底の大地震をおこす場所に接し、そこに向かって大きくじょうごがたに開いた地形の港湾がそれにあたるわけであるが、これについで多少の注意をはらうべきは、遠浅とおあさの海岸である。たとい海岸線が直線に近くとも、遠浅だけの関係で、波の高さが数倍の程度に増すこともあるから、もし沖合おきあいにおける高さが数尺すうしゃくのものであったならば、前記のごとき地形の沿岸において多少の被害を見ることもある。
 津波にいためられた二階建て、三階建ての木造家屋は、大地震に傷められた場合のごとく、階下から順番につぶれてゆく。また、津波にさらわれた場合において、その港湾の奥に接近した所ではうしおの差し引きが急であるから、遊泳ゆうえいも思うようにいかないけれども、港湾の両翼端りょうよくたん近くにてはかようなことがないから、平常どおりに泳ぎ得られる。この前の関東大地震に際し、熱海あたみで津波にさらわれたもののうち、伊豆山いずさんのほうへ向かって泳いだものは助かったという。
 地震のばあいに崖下がいかの危険なことはいうまでもない。横須賀よこすか停車場の前に立ったものは、そこの崖下がけした石地蔵いしぞうてるを気づくであろう。これは関東大地震のさい、そこに生埋いきうずめにされた五十二名の不幸な人の冥福めいふくを祈るために建てられたものである。かような危険は直接の崖下がいかばかりでなく、崩壊せる土砂が流れくだる地域全部がそうなのである。崩壊した土砂の分量が大きくて、一〇〇メートル立方、すなわち一〇〇万立方メートルの程度にもなれば、斜面を沿うて流れくだるありさまは、渓水たにみず奔流ほんりゅうする以上の速さをもってせくだるのである。あたかも陸上における洪水のごときかんていするので山津波やまつなみ〔土石流のこと。と呼ばれるようになったものであろう。

 関東大地震のばあいにおいては、各所に山津波がおこったが、そのうち根府川ねぶかわの一村をさらったものがもっとも有名であった。この山津波の源は根府川の渓流けいりゅうを西にさかのぼること六キロメートル、海面からの高さおよそ五〇〇メートルの所にあったが、実際は数か所からの崩壊物ほうかいぶつがいっしょに集合したものらしく、その分量は一五〇メートル立方と推算せられた。これが勾配こうばい九分の一の斜面に沿い、五分間ぐらいのあいだ一里半いちはんほどの距離をくだったものらしい。そうして根府川かわの一村落は崖上がいじょうの数戸を残して、五〇〇の村民とともにその下に埋没まいぼつされてしまった。このさい、鉄道橋梁きょうりょうくだり汽車とともにさらわれてしまったが、これは土砂にうずまったまま海底まで持って行かれたものであることがわかった。その後、山津波が残した土砂が渓流けいりゅうのためにしだいにさらわれて、ふたたび以前の村落地そんらくち暴露ばくろしたけれども、家屋はそこから現われてこなかったので、山津波が一村いっそんを埋没したというよりも、これをさらって行ったというほうが適当なことが後日こうじついたって気づかれた。
 山津波やまつなみは、かの丹後たんご地震のばあいにもおこった。それは主に海岸の砂丘におこったものであって、根府川ねぶかわの山津波とは比較にならなかったけれども、なだれくだった距離が五、ちょうにおよび、山林、田園でんえん道路にかなりな損害をあたえた。この地方の砂丘は地震ならずとも崩壊することがあるのだから、地震にさいして注意すべきは当然であるけれども、平日へいじつにおいても気をつけ、特に宅地として選定するときに考慮しなければならぬ弱点を持っているのである。

    七、災害防止

 昔の人は地震のかえし、あるいはもどしをおそれたものである。この言葉は俗語ぞくごであるため誤解ごかいをひきこし、今の人はこれを余震よしんてはめているが、それはまったくあやまりである。昔の人のいわゆるもどしは、われわれが今日こんにちとなえている地震動の主要部である。藤田ふじた東湖とうこ先生の最後をしるすならば、彼は最初の地震によって屋外へ飛び出し、もどしのために圧死したのである。われわれは子どもの時分じぶんには、か教えられた。最初の地震を感じたなら、もどしのないうちに戸外こがいへ飛び出せなどといましめられたものである。外国の大地震ではもどしといわずして、第二の地震ととなえた場合がある。つまり初期微動部びどうぶ・主要部を合併して一個の地震と見ないで、これをいちいち別なものとみなしたのである。かくして西暦紀元一七五五年のリスボン地震の記事がよく了解せられる。
 もどしと余震よしんとの混同は、単に言葉のうえのあやまりとして、そのままこれをかたづけるわけにはゆかぬ。わが国においては余震を恐怖きょうふするねんが特に強いが、それは右の言葉上のあやまりによりても培養ばいようせられているのである。
 昔の人の言葉をりていうならば、大地震に家のつぶれるのは、みなもどしによるのである。もし、このもどしを余震だと解したならば、余震はもっとも恐ろしいものでなければならぬ。そこに理論上または経験上まったく恐れるにたりない余震を、あやまって恐怖きょうふするようにもなったのである。
 余震の勢力、あるいは地震動としての破壊力は、最初の本地震ほんじしんと比較して微小なものでなければならぬ。多くの実例にちょうするも、その最大なるばあいでも十分の一以下である。このことは最後の項において再説さいせつすることだからここには説明を略するが、とにかく余震は恐れるにたりない。ただ、恐るべきは最初の大地震の主要動である。しかしながら、どんな地震でもそのもっとも恐るべき主要動は、最初の一分間においておさまってしまうのである。この一分間といったのは、もっとも長引ながびくばあいを顧慮こりょしてのことであって、たいていの場合においては二十秒間ぐらいで危険な震動は終わりをげるものである。すなわち明治二十七年(一八九四)六月二十日の東京地震は、最初から十五秒間でいちじるしい震動は終わりを告げ、大正十四年(一九二五)但馬たじま地震は二十秒間で全部ほとんどおさまり、昭和二年(一九二七)丹後たんご地震も、たいてい十数秒間で主要震動がすんでしまった。ただし、大正十二年(一九二三)の関東大地震は主要震動が長く続き、最初から二、三十秒間でおさまったとはいえない。このことは該地震がいじしんを経験した地方により、多少の相違があるべきであるが、比較的に長く続いたと思われる東京にての観測の結果をあげるならば、震動のもっとも強かったのは最初から十六、七秒目であって、それからあと三十秒間ぐらいは、震動がかえって大きくなったくらいである。けれども往復おうふく震動は急に緩慢かんまんとなったため、地動ちどうの強さはしだいにおとろえてしまった。鎌倉かまくら小田原おだわらへんでも、もっとも激しかったのは最初の一分間以内であったといえる。
 右のような次第しだいであるから、大地震に出会ったなら、最初の二、三十秒間、ばあいによっては一分間ぐらいは、その位置環境によっては畏縮いしゅくせざるを得ないこともあろう。もちろん、崩壊のおそれなき家屋の内にいるとか、あるいは、広場など安全な場所に居合いあわせたなら畏縮いしゅくするほどのこともないであろう。また、余震の恐れるにらないこともほぼ前に述べたとおりである。かくして最初の一分間をしのぎ得たならば、もはや不安に思うべき何物なにものも残さないはずであるが、ただ、これに今一いまひとつ解説しておく必要のあるものは、地割じわれに対してあやまれる恐怖心きょうふしんである。
 大地震のときは大地がけてはつぼみ、開いては閉じるものだとは、昔から語り伝えられてもっとも恐怖されている一つの仮想現象である。もし、このにはさまると、人畜じんちく・牛馬、せんべいのように押しつぶされるといわれ、避難の場所としては竹やぶを選べとか、戸板といたいてこれをふせげなどといましめられている。これは、わが国にてはいかなる寒村かんそん僻地へきちにも普及している注意事項であるが、かような地割れの開閉に関する恐怖は世界の地震地方に共通なものだといってよい。しかるに、わが国の地震史には右のような現象のおこったことの記事皆無かいむであるのみならず、明治以後の大地震調査においてもいまだかつて気づかれたことがない。もっとも、道路あるいは堤防ががりによって地割れをおこすこともあるが、それは単に開いたままであって、開閉をくり返すものではない。また、構造物が地震動によってを生じ、それが振動継続中けいぞくちゅう、開閉をくり返すこともあるが、問題は大地に関係したものであって、構造物におこる現象をさすのではない。とにかく人畜じんちくい込まれる程度において、大地が開閉するということは、わが国においてはけっしておこり得ない現象と見てよい。
 日本においてけっしておこらない現象が、なぜに津々つつ浦々うらうらまで語り伝えられ、恐怖せられているのであろうか。著者ははじめ、この話が南洋伝来のものではあるまいか、とうたがってみたこともあるが、ちかごろ研究の結果、そうでないように思われてきたのである。
 世界の大地震記録を調べてみると、こういうおそろしい現象が三所みところに見い出される。これを年代の順に記してみると、第一は西暦一六九二年六月七日、西インド諸島のうち、ジャマイカ島におこった地震であって、このとき、首府しゅふロワイヤルこうにおいては大地に数百じょう亀裂きれつができ、それがパクパク開いたり閉じたりするので、たまたま、これにおちいった人畜はたちまち見えなくなり、ふたたびその姿を現わすことはできなかった。後で掘り出してみると、いずれも板のように押しつぶされていたという。このとき、市街地の大部だいぶ沈下ちんかして海となったということも記してあるから、前記現象のおこった場所は新しい地盤じばんたりしに相違なかるべく、埋立地うめたてちであったかもしれない。また、この時の死人は首府しゅふ総人口の三分の二をめたことも記されてあるから、地震がよほど激烈げきれつであったことも想像される。
 西暦一七五五年十一月一日のリスボンの大地震は規模すこぶる広大なものであって、感震かんしん区域は長径ちょうけい五百にわたり、地動ちどう余波よはによって、スコットランド、スカンジナビアへんにおける湖水の氾濫はんらんをひきこしたものである。このとき、リスボンには津波も襲来しゅうらいし、ここだけの死人でも六万人にのぼった。震源は大西洋底たいせいようていにあったものであろう。津波は北アメリカの東海岸においても気づかれた。
 この地震のばあいにおいて、大地の開閉をおこした所は、リスボンの対岸、アフリカのモロッコこくの首府モロッコから三里さんりほど離れた一部落であって、そこにはベスンバ種族しゅぞくと呼ばれる土民どみんまっていた。このとき、大地の開閉によって土民はもちろん、彼らのっていた畜類ちくるいは牛馬・ラクダとういたるまでことごとくそれにい込まれ、八千ないし一万の人口をゆうしておったこの部落は、そのためにあとかたもなくうしなわれたという。この地震史上の大事件の舞台が未開みかいの土地であるだけに、記事に確信をおくわけにもいかないが、これをせた書物は地震直後に出版された『一七五五年十一月一日のリスボン大地震』と題するもので、欧州における当時の知名の科学者十名の論文を集めたものである。
 大地開閉の記事を載せた第三の地震は、西暦一七八三年、イタリア国カラブリアにおこったものであって、地震による死者四万、それに続いておこった疫病えきびょうによる死者二万とかぞえられたものである。場所は長靴ながぐつの形にたとえられたイタリアの足の中央部〔イタリア半島の先端部か。にあたっている。このとき、中央山脈の斜面に沿うて堆積たいせきしていた土砂が全体として山骨さんこつを離れ、それが斜面を流れくだる際、がりの所において、なだれの表面があるいは開いたり、あるいは閉じたりしたもののようであるが、このひらぐちに人畜がおちいって見えなくなったことが記されてある。あるいはまた、開いたままに残った地割じわれもあったが、後で検査してみると、その深さは計測することができないほどのものであったという。関東大地震のときおこった根府川ねぶかわ山津波やまつなみは、そのなだれくだる際、右のような現象があるいは小規模におこったかもしれない。
 世界大地震の記事において、人畜をい込むほどの地割れの開閉現象がおこったのは、著者の鋭意えいい調べた結果、以上の三回のみである。このほかにはばわずかに一、すんほどの地割れが開閉したことを記したものはないでもないが、それも余計よけいはない。一例をあげるならば、西暦一八三五年の南米チリ地震である。このとき、卑湿ひしゅうの土地に一、すんの地割れがいくらもでき、それが開閉して土砂がき出したという。
 右のような小規模の地割れならば、大正十二年(一九二三)の関東大地震においても経験せられた。場所は、安房国あわのくに北条町ほうじょうまち北条小学校の校庭であった。この学校の敷地しきちは、数年前に水田をめ立てて作られたものであって、南北に長き水田の一区域の中に、半島の形をなして西から東へ突出していた。そうしてこの水田の東西南の三方は、比較的にかたい地盤じばんをもってかこまれている。こういう構造の地盤であるから、地震も比較的にはげしかったであろう。だれしも想像しられるとおり、校舎は新築でありながら全部つぶれてしまった。わずかにをもってのがれた校長以下の職員はうようにして中庭なかにわにまで出ると、目前もくぜんに非常な現象がおこりはじめた。それは校庭が南北に二条にじょう亀裂きれつして、そこから水柱みずばしらを二、げんの高さに噴出ふんしゅつし始めたのであった。あとで亀裂の長さをはかってみたら、延長二十二けんほどあったから、これほど噴出の景況けいきよう壮観そうかんであったに相違ない。あれよあれよと見ていると水煙みずけむりは急におとろえ、ぐちも閉じて噴出一時いちじに止まってしまったが、わずかに五、六秒くらい経過した後ふたたびき出しはじめた。かく、いてはみ、噴いては止みすること五、六回にしてしだいにおとろえ、ついにんでしまった。あとには所々ところどころに小さな土砂の円錐えんすいを残し、ぐちはたいていふさがって、ただほそい線を残したのみである。著者は、事件があって二月ふたつきのちにその場所を見学したが、土砂の円錐えんすい痕跡こんせきはそのときまでも見ることができた。そうしてこの現象の原因は、水田のどろの層が敷地しきちとともに水桶内みずおけないにおける水の動揺どうようと同じ性質の震動をおこし、校舎の敷地にあたる所がカマボコなりに持ち上がって地割じわれを生じ、それがくぼんでがったとき地割れが閉じるようになったものと考えた。大地震のとき、泥土層でいどそうや、卑湿ひしゅうの土地には長い沿うて泥砂どろすな噴出ふきだすことはありがちのことであるが、もし、地震の当時にこの現象を観察することができたならば、北条小学校校庭こうていにおいて実見じっけんせられたようなものの多々あることであろう。じつに北条小学校職員によってなされた前記現象の観察は、地震学上、きわめてとうといものであった。

 前に記したジャマイカ地震ならびにリスボン地震における地割れの開閉は、北条小学校におこったような現象がきわめて大規模におこったものとすれば解釈がつくように思う。はたしてしからば、ロワイヤルこうや、昔、ベスンバ族のいた部落は右の現象をおこすにもっとも適当な場所であって、これらの地方は他の大地震によってふたたび同様の現象をおこすこともあるであろう。わが国においてこの現象をいまだかつて大規模におこしたことのないのは、単にこの現象をおこすに適当な構造の場所が存在しないのによるものであろう。
 右のような次第しだいであるから、著者の結論としては、地割れにい込まれるような現象は、わが国にては絶対におこらないということに帰着きちゃくするのである。されば竹やぶに逃げ込めとか、戸板といたいて避難せよとかいう注意はあまりに用心すぎるように思われる。いわんや竹やぶ自身が二十けんも移動したことが明治二十四年(一八九一)濃尾のうび大地震にも経験され、また、それをとおして大きな地割れのできた実例はいくらもあるくらいであるから、さほどにおもきをおかなくともさしつかえない注意であるように思う。
 大地震に遭遇そうぐうして最初の一分間を無事にしのぎ得たとし、また余震や地割れはおそれるにたらないものとのさとりがついたならば、その後、災害防止について全力をつくすことができよう。この際、あるいは倒壊家屋の下敷したじきになったものもあろうし、あるいは火災をおこしかけている場所も多いことであろうし、救難きゅうなんにできるだけ多くの人手ひとでを要し、しかもそれには一刻いっこく躊躇ちゅうちょゆるされないものがある。これ老幼ろうよう男女だんじょの区別をわず、いっせいに災害防止に努力しなければならない所以ゆえんである。
 下敷になった人を助け出すことは震災の防止上、もっとも大切なことである。なんとなれば震災をこうむる対象物中、人命ほど貴重なものはないからである。もし、そこに火災をおこすおそれが絶対になかったならば、この問題の解決に一点の疑問もおこらないであろう。しかしながら、もしそこに火災をおこすおそれがあり、また実際に小火ぼやをおこしていたならば、問題はぜんぜん別物である。
 大正十四年(一九二五)五月二十三日の但馬たじま地震において、震源地にあたれる田結村たいむらにおいては、全村八十三戸中こちゅう八十二戸つぶれ、六十五名の村民が潰家かいかの下敷となった。この村は半農はんのう半漁はんりょうの小部落であるが、地震の当日はちょうど蚕児さんじ掃立はきたてにあたり、暖室用だんしつよう炭火すみびもちいていた家が多く、そのうち三十六戸からはけむりをはき出し、ついに三戸さんこだけは燃えあがるにいたった。一方では下敷の下から助けをうてわめき、他方では消防の急をぐるさけび、これにしてなき余震の鳴動と大地の動揺どうようとは、さいわいにをもってのがれたものには手のくだしようもなかったであろう。しかし、村民の間にはこういう非常時に対する訓練がよく行きとどいていたと見え、老幼ろうよう男女だんじょ、第一に火災防止につとめ、時をうつさず人命救助に従事したのであった。さいわいに火も小火ぼやのままで消し止め、下敷になった六十五名中、五十八名は無事に助け出されたが、残りの七名は遺憾いかんながら崩壊物ほうかいぶつの第一撃によって即死したのであった。もし、村民の訓練が不行きとどきであり、あるいは火を消すことを第二にしたならば、おそらくは全村烏有うゆうし、人命の損失は助けられた五十八名の中にもおよんだであろう。すなわち、人命の損失は実際に幾倍いくばいし、財産の損失は幾十倍にもおよんだであろう。じつにその村民の行動は、震災に対してわれわれの理想とするところを実行したものといえる。聞けばこの村は、かって壮丁そうていの多数が出漁中しゅつりょうちゅうに火をしっして全村灰燼かいじんしたことがあるそうで、これにかんがみてその後、女子の消防隊をも編成し、かかる寒村かんそんなるにガソリンポンプ一台そなえつけてあるのだという。平日へいじつこういう訓練があればこそ、かかる立派な行動にでることもできたのであろう。
 また、丹後たんご大地震のときは、九歳になる茂籠もかご伝一郎でんいちろうという山田やまだ小学校二年生は一家いっか八人とともに下敷になり、家族は屋根をやぶって逃げ出したにかかわらず、伝一郎君は倒壊家屋内かおくないみとどまり、危険をおかして火を消し止めたといい、十一歳になる糸井いとい重幸しげゆきという島津しまづ小学校四年生は、祖母・妹とともに下敷になりながら、二人には退くちをあてがって、自分だけは取って返し、二か所の火元ひもとを雪をもって消しにかかったが、祖母は家よりも身体からだが大事だといって重幸しげゆき少年をせいしたけれども、少年はこれをきかないで、いくども雪を運んできて、ついに消し止めたという。このために両少年は各自の家屋のみならず、重幸しげゆき少年のごときは隣接りんせつした小学校と二十戸の民家とを危急ききゅうから救い得たのであった。じつにこれら義勇ぎゆうの行動は、それが少年によってなされただけに、殊更ことさらたのもしく思われるではないか。
 日本における大地震の統計によれば、あまり大きくない町村において、潰家かいか十一けんごとに一名の死者を生ずる割合である。しかるに、もしこれに火災が加わると、人命の損失は三倍ないし四倍になるのであるが、これは下敷になった人のうち、火災さえなければ無事に助け出さるべきものまで焼死の不幸を見るにいたるものが多数に生ずるからである。地震の災害を最小限度に防止せんとするにあたり、主義として人命救護きゅうごにもっとも重きをおくことはもちろんであるが、ただ、この主義の実行手段として、火災の防止をまっさきにすることが必要条件となるのである。もし、この手段の実行上にともなう犠牲ぎせいがあるならば、それを考慮することも必要であるけれども、なんらの犠牲がないのみならず、火災防止というもっとも有利な条件がともなうのである。実際、大地震の損害において、直接、地震動しんどうよりたるものはわずかにその一小部分であって、大部分は火災のために生ずる損失であるといえる。この関係は関東大地震・但馬たじま地震・丹後たんご地震において、このごろ証拠しょうこだてられたところであって、別段べつだんな説明を要しない事実である。

    八、火災防止(一)

 地震にともなう火災は、たいてい地震の後におこるから、それらに対しては注意も行きとどき、小火ぼやのうちに消し止める余裕もあるけれども、潰家かいかの下から徐々じょじょに燃え上がるものは、大事にいたるまで気づかれずに進行することがあり、ついに大火災をひきおこしたことも少なくない。
 大正十四年(一九二五)五月二十三日の但馬たじま地震において、豊岡町とよおかまちにおいては、地震直後、火は三か所から燃え上がった。これは容易に消し止められたので、消防隊または一般の町民のあいだには多少のゆるみも生じたのであろう。市街の中心地における潰家かいかのもとに、大火災となるべき火種ひだね培養ばいようせられつつあったことを気づかないでいたのである。地震のおこったのは当日、午前十一時十分ごろであり、郵便局のとなりの潰家かいかから発火したのは正午をぐる三十分ぐらいだったというから、地震後およそ一時間半を経過している。これが気づかれたときは、いったん集合していた消防隊も解散した後であり、また、気づかれた後も倒壊家屋にみちをふさがれて火元に近づくことが困難であったなどの不利益が種々しゅじゅかさなって、ついに全町二一〇〇戸のうち、その三分の二を全焼せしめるほどの大火災となったのである。しかもその焼失しょうしつ区域は、町のもっとも重要な部分をめていたので、損失の実際の価値はさらに重大なものであったのである。

    九、火災防止(二)

 普通にできている水道鉄管てっかんは、地震によって破損はそんしやすい。ただに大地震のみならず、ちょっとした強い地震にもそうである。特に、地盤じばんの弱い市街地においてはそれが著明ちょめいである。関東大地震後、この方面における研究もおおいに進み、あるいは鉄管の継手つぎての改良、あるいは地盤不良な場所をさけて敷設ふせつすること、やむを得なければ予備の複線ふくせんもうけることなど、いくぶん耐震的たいしんてきになった所もあるけれども、それも地震の種類によるのであって、われわれがいうところの大地震に対しては、まず暫時ざんじ、無能力となるものとあきらめねばなるまい。今日こんにち、都市における消防施設は水道を首位しゅいにおいてあって、普通の火災に対してはそれでさしつかえないのであるが、大地震のような非常時においては、たちまち支障ししょうをきたすこと、その例があまりに多い。
 非常時の消防施設については、別にそのきょくにあたる人があるであろう。ただ、われわれは現状において最善をつくす工夫をしなければならぬ。
 水なしの消防はもっとも不利益であるから、水道の水が止まらないうち、機敏きびん貯水ちょすいの用意をすることが賢明けんめいな仕方である。たとい四辺あたりに火災のおそれがないように考えられた場合においても、遠方の火元から延焼えんしょうしてくることがあるからである。著者は大正十二年(一九二三)の関東大地震のさい、東京帝国大学内地震学しんがく教室にあって、水なしに消防に従事した苦しい経験をゆうしているが、水の用意があっての消防に比較してその難易なんいくことは、けだし骨頂こっちようであろう。この経験によって、水なしの消防法をも心得こころえておくべきものということをさとったが、実際には水を使用してはかえってよくない場合もあるので、著者の専門外ではあるけれども、聞きかじったことを略述りゃくじゅつしてみることにする。
 水をもちいてはかえってよくない場合は後回あとまわしにして、まず水をもちいてさしつかえない場合、もしくは有利な場合において、水のあるなしによっていかにこれを処置するかを述べてみたい。
 個人消防上の最大要件は、時機じきうしなうことなく、もっとも敏速びんそくに処置することにある。これは火は小さいほど、消しやすいという原則にもとづいている。あるいは自力でじゅうぶんなこともあり、あるいは他の助力を要することもあり、あるいは消防隊を必要とすることもあるであろう。
 水は燃焼の元にそそぐこと、ほのおけむりいでもなんらの効果がない。
 障子しょうじのような建具たてぐに火が燃えついたならば、この建具をたおすこと。衣類に火が燃えついたときは、ゆかまたは地面に一転ひところがりすれば、ほのおだけは消える。
 火が天井てんじょうまで燃え上がったならば、屋根まで打ちぬいて火気かきくこと。これは、ほのおが天井をはって燃えひろがるのをふせぐに効力がある。この際、もし竿さお雑巾ぞうきん竿さおの先に湿雑巾ぬれぞうきんを結びつけたもの)の用意があると、もっとも好都合である。
 隣家りんかからの延焼を防ぐに、雨戸あまどめることはいくぶんの効力がある。
 けむりかれたら、地面にはうこと、ぬれ手ぬぐいにて鼻口はなくちをおおうこと。
 ほのおの下をくぐるときは、手ぬぐいにて頭部をおおうこと。手ぬぐいがれていればなおよく、座布団ざぶとんを水にひたしたものは、さらによし。
 火に接近するにたたみたては有効である。
 水をもちいてはかえってよくない場合は、燃焼物が油・アルコールのごときものの場合である。薬品のうちには容器の転倒てんとうによって単独に発火するものもあれば、接触せっしょく混合によって発火するものもある。それにアルコール、エーテルとうのごとく一時いちじに燃えひろがるものが近くにあるとき、すぐに大事をひきおこすにいたることが多い。あるいは飲食店におけるげ物の油、あるいはセルロイド工場など、世の文化が進むにしたがい、化学薬品にして発火の原因となるものが、ますますふえてくる。関東大地震のとき、東京における大火災の火元は一五〇か所ほどにかぞえられているが、そのうち化学薬品によるものは四十四か所であって、三十一か所は都合つごうよく消し止められたけれども、十三か所だけは大事をひきおこすにいたった。
 化学薬品・油類ゆるいの発火に対しては、燃焼をさまたげる薬品をもって、処理する方法もあるけれども、普通のばあいには砂でよろしい。もし、布団ふとん茣蓙ござ手近てぢかにあったならば、それをもっておおうことも一法いっぽうである。
 げ物の油がなべの中にて発火したばあいは、手近てぢかにあるうどん菜葉なっぱなどをなべに投げ込むこと。

 火にれないものは火をおそれるために、小火ぼやのうちにこれをさえつけることができずして大事にいたらしめることが多い。もし、右のような火の性質を心得こころえていると、心の落ちきもできるため、危急ききゅうのばあい、機宜きぎに適する処置もできるようにもなるものである。左に記したものの中には実験をおこない得るものもあるから、教師・父兄ふけい指導のもとに、安全な場所を選びて、これをこころみることはきわめて有益なことである。
 ついでに記しておくことは、火災のけがたきばあいを顧慮こりょしての心得こころえである。
 金庫の足の車止くるまどめをたしかにしておくこと。地震のとき金庫が動き出し、とびらがしまらなくなった例が多い。
 金庫・書庫・土蔵どぞうには、おのおのの大きさに相応そうおうする器物きぶつ(たとえば土蔵ならばバケツ)に水を入れ置くこと。これは内部の貴重品の蒸焼むしやきになるのをふせぐためである。
 土蔵内どぞうないの品物は、かべから一しゃく以上、離し置くこと。
 貴重品を一時、井戸いどしずめることあり。地中にうずめるばあいは、砂のあつ五分ごぶほどにても有効である。
 火災の避難においては、旋風せんぷうおそわれそうな場所をさけること。
 大火災のときは、地震とは無関係に、旋風せんぷうがおこりがちである。火先ひさきなかくぼの正面をもって前進するとき、そのがりかどには塵旋風ちりせんぷうづくべきものがおこる。また、川筋に接した広場は移動旋風せんぷうによっておそわれやすい。明暦めいれき大火たいかのさい、浜町はまちょう河岸がしの本願寺境内けいだいにおいて、また、関東大地震・東京大火災のさい、本所ほんじょ被服廠ふくしょうあとにおいて、旋風せんぷうのために、死人の集団ができたことはよく知られた悲惨事ひさんじであった。

   一〇、余震よしんに対する処置

 昔の人のおそれていた大地震のもどしは、最初の大地震の主要部の意味であって、今日こんにちのいわゆる余震をさすものでないことは前にべんじたとおりである。しかるに後世こうせいの人、これを余震と混同し、したがって余震までも恐怖するにいたったのは災害防止上、遺憾いかん次第しだいであった。
 余震を恐怖せるため、消防にじゅうぶんの実力を発揮はっきすることができなかったとは、しばしば専門の消防手しょうぼうしゅから聞く述懐じゅっかいであるが、著者はこのしゅ人士じんしが余震を誤解ごかいしているのを、もっとも遺憾に思うものである。
 統計によれば、余震のときの震動の大きさは、最初の大地震のものに比較して、その三分の一というほどのものが、最大の記録である。したがって破壊力からいえば、余震の最大なるものも最初の大地震の九分の一以下であるということになる。ざっと十分の一と見てよいであろう。それゆえに、単に統計のうえから考えても、余震はおそれるほどのものでないことが了解せられるであろう。ただ、大地震直後はそれがすこぶる頻々ひんぴんにおこり、しかも間々ままきもひやすほどのものもるから、気味悪きみわるくないとはいいにくいことであるけれども。
 大地震後、余震をあまりに恐怖するため、安全な家屋を見捨みすてて、幾日いくにちも幾日も野宿のじゅくすることは、震災地における一般の状態である。もし、その野宿が何かの練習として効能こうのうが認められてのことならば、それも結構けっこうであるけれども、病人までもその仲間に入れるか、または病気をひきおこしてまでもこれを施行しこうするにおいては、骨頂こっちようといわなければならぬ。大地震によりて損傷した家屋の中には、崩壊ほうかいふち近寄ちかより、きわどいところでい止めたものもあろう。そういうものは、地震ならずとも、あるいは風、あるいは雨によって崩壊することもあるであろう。また、洋風建築物にては墜落ついらくしかけた材料もよく気づかれる。そういう建築物には近寄ちかよらぬをよしとしても、普通の木造家屋、とくに平屋建ひらやだてにあっては、屋根瓦やねがわら土壁つちかべとし、あるいは少しばかりの傾斜をなしても、余震に対しては安全とみなしてさしつかえないものと認める。じつに木造家屋が単に屋根瓦と土壁とを取りのぞかれただけならば、これあるときに比較して耐震たいしん価値をしたといえる。なんとなれば、これらの材料は家屋各部の結束けっそくに無能力なるがうえに、地震のとき、自分の惰性だせいをもって家屋が地面といっしょに動くことに反対するからである。また家屋の少しばかりの傾斜は、その耐震たいしん価値をきずつけていないばあいが多い。いったい家屋が新しいあいだは柱と横木よこぎとの間をめつけているくさびがよくいているけれども、それがだんだん古くなってくると、しだいにゆるみが出てくる。これは木材が乾燥するのと、表面からしだいに腐蝕ふしょくしてくるとによるのである。それで大地震に出会って容易にいくらかの傾斜をなしても、それがためにくさびがはじめてき出してくることになり、その位置において構造物のいっそうかたむかんとするのに頑強がんきょう抵抗ていこうするにあるのである。あたかも相撲すもうのとき、土俵どひょうの中央からズルズルと押された力士が、つるぎみねみこらえる場合のようである。こうして最初の大地震にみこらえる家屋が、その後、三分の一以下の地震力によって押しられることはないはずである。
 著者は関東大地震の調査日記において、大地震後、家族とともに自宅に安眠あんみんし、一回も野宿のじゅくしなかったことを記した。また、但馬たじま大地震の調査日記には、震源地のほとんど直上ちょくじょうたる瀬戸せと港西こうさい小学校に一泊いっぱくしたことを記した。この校舎は木造二階建てであったが、地震のために中央部が階下まで崩壊し、可憐かれんな児童を二名ほど圧殺したのであった。しかし、家屋の両翼りょうよくすこしくかたむきながら、つぶれずに残っていたので、これを検査してみると、余震には安全であろうと想像されたから、山崎やまざき博士をはじめ一行いっこう四人はその家の楼上ろうじょうに一泊した。その夜、大雨たいうり出したので、これまで野営やえいを続けていた付近の被害民はみな、このつぶれ残りの家に集まってきてあまり大勢でありしため、混雑はしたけれども、みな口々くちぐちに、やすらかな一夜いちやごしたことをかたっていた。

 昭和二年(一九二七)十月、プラーグ〔プラハ。における地震学科の国際会議へ出席した帰りみち、大活動にひんせるヴェスヴィオをいナポリから郵船ゆうせん筥崎丸はこざきまる便乗びんじょうし、十三日、アデン沖を通過つうかするころ本稿ほんこうを記し、同じく二十九日、アンナン沖をぐるころ、稿こう終わる。   著者 しるす


底本:『星と雲・火山と地震』復刻版 日本児童文庫、名著普及会
   1982(昭和57)年6月20日 発行
親本:『星と雲・火山と地震』日本兒童文庫、アルス
   1930(昭和5)年2月15日 発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日公開
青空文庫作成ファイル:
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地震《ぢしん》の話《はなし》(二)

今村明恒

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)目次《もくじ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三・二|粁《きろめーとる》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)[#図版(img_001.png)、キラウヱア火山]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)度々《たび/\》
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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    三、階下《かいか》の危險《きけん》

[#図版(img_07.png)、二階建の潰れ方(豐岡)]
 わが國《くに》に於《お》ける三階建《さんがいだて》は勿論《もちろん》、二階建《にかいだて》も大抵《たいてい》各階《かくかい》の柱《はしら》が床《とこ》の部分《ぶぶん》に於《おい》て繼《つ》がれてある。即《すなは》ち通《とほ》し柱《はしら》を用《もち》ひないで大神樂《だいかぐら》造《づく》りにしてある。かういふ構造《こうぞう》に於《おい》ては、大《おほ》きな地震動《ぢしんどう》に對《たい》して眞先《まつさき》に傷《いた》むのは最下層《さいかそう》である。更《さら》に震動《しんどう》が強《つよ》いと階下《かいか》の部分《ぶぶん》が潰《つぶ》れ、上層《じようそう》の多《おほ》くは直立《ちよくりつ》の位置《いち》の儘《まゝ》に取殘《とりのこ》される。即《すなは》ち二階建《にかいだて》は平家《ひらや》造《づく》りのように三階建《さんがいだて》は二階建《にかいだて》のようなものになる。大正《たいしよう》十四年《じゆうよねん》の但馬《たじま》地震《ぢしん》に於《おい》て、豐岡町《とよをかまち》の被害《ひがい》状況《じようきよう》の概報《がいほう》に、停車場《ていしやじよう》の前通《まへどほ》り四五町《しごちよう》の間《あひだ》は町家《ちようか》が將棊《しようぎ》倒《だふ》しに潰《つぶ》れたとあつたが、震災地《しんさいち》を始《はじ》めて見學《けんがく》した一學生《いちがくせい》は其《その》實状《じつきよう》[#ルビの「じつきよう」は底本のまま]を見《み》て、右《みぎ》の概報《がいほう》は誤《あやま》りだと思《おも》つた。さうして著者《ちよしや》に向《むか》つていふには、將棊《しようぎ》倒《だふ》しどころか各家屋《かくかおく》直立《ちよくりつ》してゐるではありませんかと。著者《ちよしや》はこのとき彼《かれ》に反問《はんもん》して、君《きみ》はこの町家《ちようか》を平家建《ひらやだて》と思《おも》つてゐるかといつてみたが、該學生《がいがくせい》が潰《つぶ》れ方《かた》の眞相《しんそう》を了解《りようかい》したのは、其《その》状況《じようきよう》を暫時《ざんじ》熟視《じゆくし》した後《のち》のことであつた。
 大地震《おほぢしん》の場合《ばあひ》に於《おい》て、二階建《にかいだて》或《あるひ》は三階建《さんがいだて》等《とう》の最下層《さいかそう》が最《もつと》も危險《きけん》であることは、更《さら》に詳説《しようせつ》を要《よう》しない程《ほど》によく知《し》られてゐる。それ故《ゆゑ》に二階《にかい》或《あるひ》は三階《さんがい》に居合《ゐあは》せた人《ひと》が、階下《かいか》を通《とほ》ることの危險《きけん》を侵《おか》してまで屋外《おくがい》に逃《に》げ出《だ》さうとする不見識《ふけんしき》な行動《こうどう》は排斥《はいせき》すべきである。寧《むし》ろ更《さら》に上層《じようそう》に上《のぼ》るか、或《あるひ》は屋上《おくじよう》の物干場《ものほしば》に避難《ひなん》することを勸《すゝ》めるのであるが、實際《じつさい》かういふ賢明《けんめい》な處置《しよち》を取《と》られた例《れい》は屡《しば/\》耳《みゝ》にするところである。
[#図版(img_08.png)、三階建の潰れ方(城崎)]
 著者《ちよしや》は明治《めいじ》二十七年《にじゆうしちねん》六月《ろくがつ》二十日《はつか》の東京《とうきやう》地震《ぢしん》を本郷《ほんごう》湯島《ゆしま》に於《おい》て、木造《もくぞう》二階建《にかいだて》の階上《かいじよう》で經驗《けいけん》したことがある。此時《このとき》帝國《ていこく》大學《だいがく》地震學《ぢしんがく》教室《きようしつ》に於《お》ける地動《ちどう》は二寸《にすん》七分《しちぶ》の大《おほ》いさに觀測《かんそく》せられたから、同《おな》じ臺地《だいち》の湯島《ゆしま》に於《おい》ても大差《たいさ》なかつたはずと思《おも》ふ。隨《したが》つて階上《かいじよう》の動搖《どうよう》は六七寸《ろくしちすん》にも達《たつ》したであらう。當時《とうじ》著者《ちよしや》は大學《だいがく》に於《お》ける卒業《そつぎよう》試驗《しけん》の準備中《じゆんびちゆう》でつて[#「でつて」は底本のまま]、机《つくゑ》に向《むか》つて靜座《せいざ》してゐたが、地震《ぢしん》の初期《しよき》微動《びどう》に於《おい》て既《すで》に土壁《どへき》が龜裂《きれつ》しきれ/″\になつて落《お》ちて來《く》るので、自《みづか》ら室《しつ》の中央部《ちゆうおうぶ》まで動《うご》いたけれども、それ以上《いじよう》に歩行《ほこう》することは困難《こんなん》であつて、たとひ階下《かいか》へ行《ゆ》かうなどといふ間違《まちが》つた考《かんが》へを起《おこ》しても、それは實行《じつこう》不可能《ふかのう》であつた。
 大正《たいしよう》十二年《じゆうにねん》九月《くがつ》一日《いちにち》の關東《かんとう》大地震《だいぢしん》に於《おい》て、著者《ちよしや》のよく知《し》つてゐる某《ぼう》貴族《きぞく》は、夫妻《ふさい》揃《そろ》つて潰家《かいか》の下敷《したじき》となられた。當時《とうじ》二人《ふたり》とも木造《もくぞう》家屋《かおく》の二階《にかい》にをられたので、下敷《したじき》になりながら小屋組《こやぐみ》の空所《くうしよ》に挾《はさ》まり、無難《ぶなん》に救《すく》ひ出《だ》されたが、階下《かいか》にゐた家扶《かふ》は主人《しゆじん》夫婦《ふうふ》の身《み》の上《うへ》を案《あん》じながら辛《から》うじて、梯子段《はしごだん》を登《のぼ》りつめたとき家《いへ》は潰《つぶ》れてしまつた。もしこの家扶《かふ》が下座敷《したざしき》にゐたまゝであつたならば無論《むろん》壓死《あつし》したであらうが、主人《しゆじん》思《おも》ひの徳行《とくこう》のために主人《しゆじん》夫妻《ふうふ》[#ルビの「ふうふ」は底本のまま]と共《とも》に無難《ぶなん》に救《すく》ひ出《だ》されたのであつた。
[#図版(img_09.png)、東京會館の破壞]
 近頃《ちかごろ》わが國《くに》にはアメリカ風《ふう》の高層《こうそう》建築物《けんちくぶつ》が段々《だん/\》増加《ぞうか》しつゝある。地震《ぢしん》に對《たい》して其《その》安全《あんぜん》さを危《あや》ぶんでゐる識者《しきしや》も多《おほ》い事《こと》であるが、これは其局《そのきよく》に當《あた》るものゝ平日《へいじつ》注意《ちゆうい》すべきことであつて、小國民《しようこくみん》の關與《かんよ》すべき事《こと》でもあるまい。然《しか》しながら其《その》ような高《たか》い殿堂《でんどう》に近寄《ちかよ》ることや堂上《どうじよう》に昇《のぼ》ることは年齡《ねんれい》に無關係《むかんけい》なことであるから、わが讀者《どくしや》も偶《たま/\》かような場所《ばしよ》に居合《ゐあは》せたとき大地震《だいぢしん》に出會《であ》ふようなことがないとも限《かぎ》らぬ。かういふ種類《しゆるい》の建物《たてもの》は設計《せつけい》施工《しこう》によつて地震《ぢしん》に傷《いた》められる模樣《もよう》が變《かは》るけれども、多《おほ》くの場合《ばあひ》、地上階《ちじようかい》は比較的《ひかくてき》丈夫《じようぶ》に出來《でき》てゐるため被害《ひがい》が少《すくな》い、この點《てん》は木造《もくぞう》の場合《ばあひ》に比較《ひかく》して反對《はんたい》な結果《けつか》を示《しめ》すのである。もし階數《かいすう》が七《なゝ》つ八《や》つ、高《たか》さが百尺《ひやくしやく》程度《ていど》のものならば、二階《にかい》三階《さんがい》或《あるひ》は四階建《しかいだて》に傷《いた》みが最《もつと》も著《いちじる》しいようである。大正《たいしよう》十一年《じゆういちねん》四月《しがつ》二十六日《にじゆうろくにち》の浦賀《うらが》海峽《かいきよう》地震《ぢしん》に傷《いた》められた丸《まる》の内《うち》びるぢんぐ[#「びるぢんぐ」に傍点]、大正《たいしよう》十二年《じゆうにねん》の關東《かんとう》大地震《だいぢしん》によつて腰《こし》を折《を》られた東京《とうきよう》會館《かいかん》などがその適例《てきれい》であらう。いまかような高層《こうそう》建物《たてもの》の上層《じようそう》に居合《ゐあは》せた場合《ばあひ》、もし地震《ぢしん》に出會《であ》つて屋外《おくがい》に避難《ひなん》せんと試《こゝろ》みたなら、それは恐《おそ》らくは地震《ぢしん》がすんでしまつた頃《ころ》に到達《とうたつ》せられる位《くらゐ》のことであらう。それ故《ゆゑ》にかような場合《ばあひ》に於《おい》ては、屋外《おくがい》へ出《で》ることを斷念《だんねん》し屋内《おくない》に於《おい》て比較的《ひかくてき》安全《あんぜん》な場所《ばしよ》を求《もと》めることが寧《むし》ろ得策《とくさく》であらう。

    四、屋内《おくない》にての避難《ひなん》

[#図版(img_10.png)、屋根を支へる家具]
 大地震《だいぢしん》に出會《であ》つて屋外《おくがい》への安全《あんぜん》な避難《ひなん》が間《ま》に合《あ》はない場合《ばあひ》は、家屋《かおく》の潰《つぶ》れること、壁《かべ》の墜落《ついらく》、煙突《えんとつ》の崩壞《ほうかい》などを覺悟《かくご》し、又《また》木造《もくぞう》家屋《かおく》ならば下敷《したじき》になつた場合《ばあひ》を考慮《こうりよ》して、崩壞《ほうかい》又《また》は墜落物《ついらくぶつ》の打撃《だげき》から免《のが》れ得《う》るような場所《ばしよ》に一時《いちじ》避難《ひなん》するがよい。普通《ふつう》の住宅《じゆうたく》ならば椅子《いす》、衣類《いるい》で充滿《じゆうまん》した箪笥《たんす》、火鉢《ひばち》、碁盤《ごばん》、將棊盤《しようぎばん》など、總《すべ》て堅牢《けんろう》な家具《かぐ》ならば身《み》を寄《よ》せるに適《てき》してゐる。これ等《ら》の適例《てきれい》は大地震《だいぢしん》の度毎《たびごと》にいくらも見出《みいだ》される。
 教場内《きようじようない》に於《おい》ては机《つくゑ》の下《した》が最《もつと》も安全《あんぜん》であるべきことは説明《せつめい》を要《よう》しないであらう。下敷《したじき》になつた場合《ばあひ》に於《おい》て、致命傷《ちめいしよう》を與《あた》へるものは梁《はり》と桁《けた》とである。それさへ避《さ》けることが出來《でき》たなら大抵《たいてい》安全《あんぜん》であるといつてよい。さうして學校《がつこう》の教場内《きようじようない》に竝列《へいれつ》した多數《たすう》の机《つくゑ》や或《あるひ》は銃器臺《じゆうきだい》などは、其《その》連合《れんごう》の力《ちから》を以《もつ》て、此《この》桁《けた》や梁《はり》、又《また》は小屋組《こやぐみ》全部《ぜんぶ》を支《さゝ》へることは容易《ようい》である。
[#図版(img_11.png)、田根小學校の教室倒潰]
 圖《ず》は明治《めいじ》四十二年《しじゆうにねん》八月《はちがつ》十四日《じゆうよつか》姉川《あねがは》大地震《だいぢしん》に於《おい》て倒潰《とうかい》の憂《う》き目《め》を見《み》た、田根《たね》小學校《しようがつこう》の教場《きようじよう》である。讀者《どくしや》は墜落《ついらく》した小屋組《こやぐみ》が、其《その》連合《れんごう》の力《ちから》を以《もつ》ていかに完全《かんぜん》に支《さゝ》へられたかを見《み》られるであらう。この地震《ぢしん》の時《とき》は、丁度《ちようど》夏季《かき》休暇中《きゆうかちゆう》であつたため、一人《ひとり》の生徒《せいと》もゐなかつたのであるが、假《かり》に授業中《じゆぎようちゆう》であつたとして、もしそれに善處《ぜんしよ》せんとするならば、「机《つくゑ》の下《した》へしゃがめ」の號令《ごうれい》一下《いつか》で十分《じゆうぶん》であつたらう。さうして家《いへ》の潰《つぶ》れ方《かた》が圖《ず》に示《しめ》された通《とほ》りであつたならば、生徒中《せいとちゆう》に一人《ひとり》の負傷者《ふしようしや》も出來《でき》ず、「しゃがんだまゝ外《そと》へ出《で》よ」との第二《だいに》號令《ごうれい》で、全員《ぜんいん》秩序《ちつじよ》を亂《みだ》さず、平日《へいじつ》教場《きようじよう》へ出入《しゆつにゆう》するのと餘《あま》り違《ちが》はない態度《たいど》で校庭《こうてい》へ現《あらは》れ出《で》ることが出來《でき》たであらう。
 木造《もくぞう》家屋《かおく》に對《たい》しては、處置《しよち》が比較的《ひかくてき》に容易《ようい》であるが、重《おも》い洋風《ようふう》建築物《けんちくぶつ》であると、さう簡單《かんたん》にはゆかぬ。第一《だいゝち》墜落物《ついらくぶつ》も張壁《はりかべ》、煖爐用《だんろよう》煙突《えんとつ》など、いづれも重量《じゆうりよう》の大《だい》なるものであるから、机《つくゑ》や椅子《いす》では支《さゝ》へることが困難《こんなん》である。しかし室《しつ》は比較的《ひかくてき》に廣《ひろ》く作《つく》られるのが通常《つうじよう》であるから、右《みぎ》のようなものゝ落《お》ちて來《き》さうな場所《ばしよ》から遠《とほ》ざかることも出來《でき》るであらう。廣《ひろ》い室《しつ》ならば、其《その》中央部《ちゆうおうぶ》、もしくは煙突《えんとつ》の立《た》てる反對《はんたい》の側《がは》など、稍《やゝ》それに近《ちか》い條件《じようけん》であらう。若《も》し室内《しつない》にて前記《ぜんき》の如《ごと》き條件《じようけん》の場所《ばしよ》もなく、又《また》は廊下《ろうか》に居合《ゐあは》せて、兩側《りようがは》の張壁《はりかべ》からの墜落物《ついらくぶつ》に挾《はさ》み撃《う》ちせられさうな場合《ばあひ》に於《おい》ては、室《しつ》の出入口《でいりぐち》の枠構《わくがま》へが、夕立《ゆふだち》に出會《であ》つたときの樹陰《こかげ》位《ぐらゐ》の役《やく》を勤《つと》めるであらう。

    五、屋外《おくがい》に於《お》ける避難《ひなん》

 地震《ぢしん》の當初《とうしよ》から屋外《おくがい》にゐた者《もの》も、周圍《しゆうい》の状況《じようきよう》によつては必《かなら》ずしも安全《あんぜん》であるとはいはれない。又《また》容易《ようい》に屋内《おくない》から逃《に》げ出《だ》すことが出來《でき》ても、立退《たちの》き先《さき》の方《ほう》が却《かへ》つて屋内《おくない》よりも危險《きけん》であるかも知《し》れない。石垣《いしがき》、煉瓦塀《れんがべい》、煙突《えんとつ》などの倒潰物《とうかいぶつ》は致命傷《ちめいしよう》を與《あた》へる事《こと》もあるからである。又《また》家屋《かおく》に接近《せつきん》してゐては、屋根瓦《やねがはら》、壁《かべ》の崩壞物《ほうかいぶつ》に打《う》たれることもあるであらう。
 石燈籠《いしどうろう》は餘《あま》り強大《きようだい》ならざる地震《ぢしん》の場合《ばあひ》にも倒《たふ》れ易《やす》く、さうして近《ちか》くにゐたものを壓死《あつし》せしめがちである。特《とく》に兒童《じどう》が顛倒《てんとう》した石燈籠《いしどうろう》のために生命《せつめい》[#ルビの「せつめい」は底本のまま]を失《うしな》つた例《れい》は頗《すこぶ》る多《おほ》い。これは兒童《じどう》の心理《しんり》作用《さよう》に基《もと》づくものゝようであるから、特《とく》に父兄《ふけい》、教師《きようし》の注意《ちゆうい》を要《よう》する事《こと》であらう。元來《がんらい》神社《じんじや》、寺院《じいん》には石燈籠《いしどうろう》が多《おほ》い。さうして其處《そこ》は多《おほ》く兒童《じどう》の集《あつま》る所《ところ》である。そこで偶《たま/\》地震《ぢしん》でも起《おこ》ると兒童《じどう》は逃《に》げ惑《まど》ひ、そこらにある立木《たちき》或《あるひ》は石燈籠《いしどうろう》にしがみつく。これは恐《おそ》らくかういふ場合《ばあひ》、保護者《ほごしや》の膝《ひざ》にしがみつく習慣《しゆうかん》から斯《か》く導《みちび》かれるものであらう。それ故《ゆゑ》餘《あま》り大《おほ》きくない地震《ぢしん》、例《たと》へば漸《やうや》く器物《きぶつ》を顛倒《てんとう》し土壁《つちかべ》を損《そん》し粗造《そぞう》な煉瓦《れんが》煙突《えんとつ》を損傷《そんしよう》するに止《とゞ》まる程度《ていど》に於《おい》ても、石燈籠《いしどうろう》の顛倒《てんとう》によつて兒童《じどう》の壓死者《あつししや》を出《だ》すことが珍《めづら》しくない。此事《このこと》は教師《きようし》父兄《ふけい》の注意《ちゆうい》を促《うなが》すと共《とも》にわが小國民《しようこくみん》に、向《むか》つても直接《ちよくせつ》に戒《いまし》めて置《お》きたいことである。

    六、津浪《つなみ》と山津浪《やまつなみ》との注意《ちゆうい》

 わが國《くに》の大地震《おほぢしん》は激震《げきしん》區域《くいき》の廣《ひろ》いと狹《せま》いとによつて、これを非局部性《ひきよくぶせい》のものと、局部性《きよくぶせい》のものとに區別《くべつ》する事《こと》が出來《でき》る。非局部性《ひきよくぶせい》の大地震《だいぢしん》は多《おほ》く太平洋側《たいへいようがは》の海底《かいてい》に起《し》[#ルビの「し」は底本のまま]り、地震《ぢしん》の規模《きぼ》廣大《こうだい》なると陸地《りくち》が震原《しんげん》から遠《とほ》いために、はたまた海底《かいてい》地震《ぢしん》の性質《せいしつ》として震動《しんどう》は大搖《おほゆ》れであるが、然《しか》しながら緩漫《かんまん》である。それと同時《どうじ》に津浪《つなみ》を伴《ともな》ふことが其《その》特色《とくしよく》である。これに反《はん》して局部性《きよくぶせい》の大地震《おほぢしん》は規模《きぼ》狹小《きようしよう》であるが、多《おほ》く陸地《りくち》に起《おこ》るがために震動《しんどう》の性質《せいしつ》が急激《きゆうげき》である。近《ちか》く其例《そのれい》をとるならば、大正《たいしよう》十二年《じゆうにねん》の關東《かんとう》大地震《だいぢしん》は非局部性《ひきよくぶせい》であつて、大正《たいしよう》十四年《じゆうよねん》の但馬《たじま》地震《ぢしん》及《およ》び昭和《しようわ》二年《にねん》の丹後《たんご》地震《ぢしん》は局部性《きよくぶせい》であつた。
 非局部性《ひきよくぶせい》の大地震《だいぢしん》を起《おこ》す事《こと》のある海洋底《かいようてい》に接《せつ》した海岸《かいがん》地方《ちほう》は、大搖《おほゆ》れの地震《ぢしん》に見舞《みま》はれた場合《ばあひ》、津浪《つなみ》についての注意《ちゆうい》を要《よう》する。但《たゞ》し津浪《つなみ》を伴《ともな》ふ程《ほど》の地震《ぢしん》は最大級《さいだいきゆう》のものであるから、倒潰《とうかい》家屋《かおく》を生《しよう》ずる區域《くえき》[#ルビの「くえき」は底本のまま]が數箇《すうこ》の國《くに》や縣《けん》に亙《わた》ることもあり、或《あるひ》は震原《しんげん》距離《りより》[#ルビの「りより」は底本のまま]が陸地《りくち》から餘《あま》り遠《とほ》いために、單《たん》に廣區域《こうくいき》に亙《わた》つて大搖《おほゆ》れのみを感《かん》じ、地震《ぢしん》の直接《ちよくせつ》の損害《そんがい》を生《しよう》じないこともある。前者《ぜんしや》の例《れい》は大正《たいしよう》十二年《じゆうにねん》の關東《かんとう》大地震《だいぢしん》、或《あるひ》は安政《あんせい》元年《がんねん》十一月《じゆういちがつ》四日《よつか》及《およ》び同五日《どういつか》の東海道《とうかいどう》、南海道《なんかいどう》大地震《だいぢしん》等《とう》であつて、後者《こうしや》の例《れい》としては明治《めいじ》二十九年《にじゆうくねん》六月《ろくがつ》十五日《じゆうごにち》の三陸《さんりく》大津浪《おほつなみ》を擧《あ》げることが出來《でき》る。
 かくしてわが國《くに》の大平洋側《たいへいようがは》[#「大平洋」は底本のまま]の沿岸《えんがん》は非局部性《ひきよくぶせい》の大地震《だいぢしん》を起《おこ》す海洋底《かいようてい》に接《せつ》してゐるわけであるが、しかしながら其《その》海岸線《かいがんせん》の全部《ぜんぶ》が津浪《つなみ》の襲來《しゆうらい》に暴露《ばくろ》されてゐるわけではない。それについては津浪《つなみ》襲來《しゆうらい》の常習地《じようしゆうち》といふものがある。この常習地《じようしゆうち》は右《みぎ》に記《しる》したような地震《ぢしん》に見舞《みま》はれた場合《ばあひ》、特別《とくべつ》の警戒《けいかい》を要《よう》するけれども、其他《そのた》の地方《ちほう》に於《おい》ては左程《さほど》の注意《ちゆうい》を必要《ひつよう》としないのである。
 右《みぎ》の話《はなし》を進《すゝ》めるについて必要《ひつよう》なのは津浪《つなみ》の概念《がいねん》である。津浪《つなみ》に海嘯《かいしよう》なる文字《もんじ》がよくあててあるがこれは適當《てきとう》でない。海嘯《かいしよう》は潮汐《ちようせき》の干滿《かんまん》の差《さ》の非常《ひじよう》に大《おほ》きな海《うみ》に向《むか》つて、河口《かこう》が三角《さんかく》なりに大《おほ》きく開《ひら》いてゐる所《ところ》に起《おこ》る現象《げんしよう》である。支那《しな》淅江省《せつこうしよう》[#「淅江省」は底本のまま]の錢塘江《せんとうこう》は海嘯《かいしよう》について最《もつと》も有名《ゆうめい》である。つまり河流《かりゆう》と上汐《あげしほ》とが河口《かこう》で暫時《ざんじ》戰《たゝか》つて、遂《つひ》に上汐《あげしほ》が勝《かち》を占《し》め、海水《かいすい》の壁《かべ》を築《きづ》きながらそれが上流《じようりゆう》に向《むか》つて勢《いきほひ》よく進行《しんこう》するのである。津浪《つなみ》とは津《つ》の浪《なみ》、即《すなは》ち港《みなと》に現《あらは》れる大津浪《おほつなみ》であつて、暴風《ぼうふう》など氣象上《きしようじよう》の變調《へんちよう》から起《おこ》ることもあるが、最《もつと》も恐《おそ》ろしいのは地震《ぢしん》津浪《つなみ》である。元來《がんらい》浪《なみ》といふから讀者《どくしや》は直《すぐ》に風《かぜ》で起《おこ》される波《なみ》を想像《そう/″\》せられるかも知《し》れないが、寧《むし》ろ潮《うしほ》の差引《さしひき》といふ方《ほう》が實際《じつさい》に近《ちか》い。われ/\が通常《つうじよう》みるところの波《なみ》は、其山《そのやま》と山《やま》との間隔《かんかく》、即《すなは》ち波長《はちよう》が幾米《いくめーとる》、或《あるひ》は十幾米《じゆういくめーとる》といふ程度《ていど》にすぎないが、津浪《つなみ》の波長《はちよう》は幾粁《いくきろめーとる》、幾十《いくじゆう》粁《きろめーとる》、或《あるひ》は幾百《いくひやく》粁《きろめーとる》といふ程度《ていど》のものである。それ故《ゆゑ》に海上《かいじよう》に浮《うか》んでゐる船舶《せんぱく》には其《その》存在《そんざい》又《また》は進行《しんこう》が分《わか》りかねる場合《ばあひ》が多《おほ》い。但《たゞ》しそれが海岸《かいがん》に接近《せつきん》すると、比較的《ひかくてき》に急《きゆう》な潮《うしほ》の干滿《かんまん》となつて現《あらは》れて來《く》る。即《すなは》ち普通《ふつう》の潮汐《ちようせき》は一晝夜《いつちゆうや》に二回《にかい》の干滿《かんまん》をなすだけであつて、隨《したが》つて其《その》週期《しゆうき》は凡《およ》そ十二《じゆうに》時間《じかん》であるけれども、津浪《つなみ》のために生《しよう》ずる干滿《かんまん》は幾分《いくぶん》或《あるひ》は幾十分《いくじつぷん》の週期《しゆうき》を以《もつ》て繰返《くりかへ》されるのである。
 かういふ長波長《ちようはちよう》の津浪《つなみ》が海底《かいてい》の大地震《だいぢしん》によつていかにして起《おこ》されるかといふに、それは多《おほ》く海底《かいてい》の地形《ちけい》變動《へんどう》に基《もと》づくのである。われ/\は近《ちか》く關東《かんとう》大地震《だいぢしん》に於《おい》て、相模灣《さがみわん》の海底《かいてい》が廣《ひろ》さ十里《じゆうり》四方《しほう》の程度《ていど》に於《おい》て、幾米《いくめーとる》の上下《じようげ》變動《へんどう》のあつたことを學《まな》んだ。さういふ海底《かいてい》の地形《ちけい》變動《へんどう》は直《すぐ》に海水面《かいすいめん》の變動《へんどう》を惹起《ひきおこ》すから、そこに長波長《ちようはちよう》の津浪《つなみ》が出來《でき》るわけである。
[#図版(img_12.png)、熱海における津浪の高さ]
[#図版(img_13.png)、三陸大津浪高さの分布(數字は高さを尺にて表したもの)]
 かういふ津浪《つなみ》は沖合《おきあひ》に於《おい》ては概《がい》して數尺《すうしやく》の高《たか》さしか持《も》たないから、もしそれが其《その》まゝの高《たか》さを以《もつ》て海岸《かいがん》に押寄《おしよ》せたならば、大抵《たいてい》無難《ぶなん》なるべきはずである。しかし、波《なみ》は海深《かいしん》が次第《しだい》に淺《あさ》くなる所《ところ》に進入《しんにゆう》すると、それにつれて高《たか》さを増《ま》し、又《また》漏斗《じようご》のように奧《おく》が次第《しだい》に狹《せま》くなる所《ところ》に進入《しんにゆう》しても波《なみ》の高《たか》さが増《ま》してくる。かういふ關係《かんけい》が重《かさ》なるような場所《ばしよ》に於《おい》ては、津浪《つなみ》の高《たか》さが著《いちじる》しく増大《ぞうだい》するわけであるが、それのみならず、浪《なみ》が淺《あさ》い所《ところ》に來《く》れば遂《つひ》に破浪《はろう》するに至《いた》ること、丁度《ちようど》普通《ふつう》の小《ちひ》さな波《なみ》について濱《はま》に於《おい》て經驗《けいけん》する通《とほ》りであるから、此《この》状態《じようたい》になつてからは、浪《なみ》といふよりも寧《むし》ろ流《なが》れといふべきである。即《すなは》ち海水《かいすい》が段々《だん/\》狹《せま》くなる港灣《こうわん》に流《なが》れ込《こ》むことになり、隨《したが》つて沖合《おきあひ》では高《たか》さ僅《わづか》に一二尺《いちにしやく》にすぎなかつた津浪《つなみ》も、港灣《こうわん》の奧《おく》に於《おい》ては數十尺《すうじつしやく》の高《たか》さとなるのである。大正《たいしよう》十二年《じゆうにねん》の關東《かんとう》大地震《だいぢしん》に於《おい》て熱海港《あたみこう》の兩翼《りようよく》、即《すなは》ち北《きた》は衞戍《えいじゆ》病院《びよういん》分室《ぶんしつ》のある邊《へん》、南《みなみ》は魚見崎《うをみざき》に於《おい》ては波《なみ》の高《たか》さ四五尺《しごしやく》しかなかつたが、船着場《ふなつきば》では十五尺《じゆうごしやく》、港《みなと》の奧《おく》では四十尺《しじゆつしやく》に達《たつ》して多《おほ》くの家屋《かおく》を浚《さら》ひ人命《じんめい》を奪《うば》つた。但《たゞ》し港《みなと》の奧《おく》ではかような大事變《だいじへん》を起《おこ》してゐるに拘《かゝは》らず數十町《すうじつちよう》の沖合《おきあひ》では全《まつた》くそれに無關係《むかんけい》であつて當時《とうじ》そこを航行中《こう/\ちゆう》であつた石油《せきゆ》發動機船《はつどうきせん》が海岸《かいがん》に於《お》けるかゝる慘事《さんじ》を想像《そう/″\》し得《え》なかつたのも無理《むり》のないことである。明治《めいじ》二十九年《にじゆうくねん》の三陸《さんりく》大津浪《おほつなみ》は、其《その》原因《げんいん》數十里《すうじゆうり》の沖合《おきあひ》に於《お》ける海底《かいてい》の地形《ちけい》變動《へんどう》にあつたのであるが、津浪《つなみ》の常習地《じようしゆうち》たる漏斗状《じようごがた》[#ルビの「じようごがた」は底本のまま]の港灣《こうわん》の奧《おく》に於《おい》ては圖《ず》に示《しめ》された通《とほ》り、或《あるひ》は八十尺《はちじつしやく》、或《あるひ》は七十五尺《しちじゆうごしやく》といふような高《たか》さの洪水《こうずい》となり、合計《ごうけい》二萬《にまん》七千人《ちしせんにん》の人命《じんめい》を奪《うば》つたのに、港灣《こうわん》の兩翼端《りようよくたん》では僅《わづか》に數尺《すうしやく》にすぎない程《ほど》のものであつたし、其夜《そのよ》沖合《おきあひ》に漁獵《ぎよりよう》に行《い》つてゐた村人《むらびと》は、あんな悲慘事《ひさんじ》が自分《じぶん》の村《むら》で起《おこ》つたことを夢想《むそう》することも出來《でき》ず、翌朝《よくあさ》、跡方《あとかた》もなく失《うしな》はれた村《むら》へ歸《かへ》つて茫然《ぼうせん》[#ルビの「ぼうせん」は底本のまま]自失《じしつ》したといふ。
[#図版(img_14.png)、伊東の津浪]
 右《みぎ》の通《とほ》り、津浪《つなみ》は事實上《じじつじよう》に於《おい》て港《みなと》の波《なみ》である。われ/\は學術的《がくじゆつてき》にもこの名前《なまへ》を用《もち》ひてゐる。實《じつ》に津浪《つなみ》なる語《ご》は、最早《もはや》國際語《こくさいご》となつた觀《かん》がある。
 以上《いじよう》の説明《せつめい》によつて、津浪《つなみ》襲來《しゆうらい》の常習地《じようしゆうち》の概念《がいねん》が得《え》られたことゝ思《おも》ふ。屡《しば/\》海底《かいてい》の大地震《だいぢしん》を起《おこ》す場所《ばしよ》に接《せつ》し、そこに向《むか》つて大《おほ》きく漏斗形《じようごがた》に開《ひら》いた地形《ちけい》の港灣《こうわん》がそれに當《あた》るわけであるが、これに次《つ》いで多少《たしよう》の注意《ちゆうい》を拂《はら》ふべきは、遠淺《とほあさ》の海岸《かいがん》である。たとひ海岸線《かいがんせん》が直線《ちよくせん》に近《ちか》くとも、遠淺《とほあさ》だけの關係《かんけい》で、波《なみ》の高《たか》さが數倍《すうばい》の程度《ていど》に増《ま》すこともあるから、もし沖合《おきあひ》に於《お》ける高《たか》さが數尺《すうしやく》のものであつたならば、前記《ぜんき》の如《ごと》き地形《ちけい》の沿岸《えんがん》に於《おい》て多少《たしよう》の被害《ひがい》を見《み》ることもある。
 津浪《つなみ》に傷《いた》められた二階建《にかいだて》、三階建《さんがいだて》の木造《もくぞう》家屋《かおく》は、大地震《だいぢしん》に傷《いた》められた場合《ばあひ》の如《ごと》く、階下《かいか》から順番《じゆんばん》に潰《つぶ》れて行《ゆ》く。又《また》津浪《つなみ》に浚《さら》はれた場合《ばあひ》に於《おい》て、其《その》港灣《こうわん》の奧《おく》に接近《せつきん》した所《ところ》では潮《うしほ》の差引《さしひき》が急《きゆう》であるから、游泳《ゆうえい》も思《おも》ふように行《ゆ》かないけれども、港灣《こうわん》の兩翼端《りようよくたん》近《ちか》くにてはかような事《こと》がないから、平常通《へいじようどほ》りに泳《およ》ぎ得《え》られる。この前《まへ》の關東《かんとう》大地震《だいぢしん》に際《さい》し、熱海《あたみ》で津浪《つなみ》に浚《さら》はれたものゝ中《うち》、伊豆山《いづさん》の方《ほう》へ向《むか》つて泳《およ》いだものは助《たす》かつたといふ。
[#図版(img_15.png)、根府川の山津浪]
 地震《ぢしん》の場合《ばあひ》に崖下《がいか》の危險《きけん》なことはいふまでもない。横須賀《よこすか》停車場《ていしやば》の前《まへ》に立《た》つたものは、其處《そこ》の崖下《がけした》に石地藏《いしじぞう》の建《た》てるを氣《き》づくであらう。これは關東《かんとう》大地震《だいぢしん》の際《さい》、其處《そこ》に生埋《いきうづ》めにされた五十二名《ごじゆうにめい》の不幸《ふこう》な人《ひと》の冥福《めいふく》を祈《いの》るために建《た》てられたものである。かような危險《きけん》は直接《ちよくせつ》の崖下《がいか》許《ばか》りでなく、崩壞《ほうかい》せる土砂《どさ》が流《なが》れ下《くだ》る地域《ちいき》全部《ぜんぶ》がさうなのである。崩壞《ほうかい》した土砂《どさ》の分量《ぶんりよう》が大《おほ》きくて、百米《ひやくめーとる》立方《りつぽう》、即《すなは》ち百萬《ひやくまん》立方米《りつぽうめーとる》の程度《ていど》にもなれば、斜面《しやめん》を沿《そ》うて流《なが》れ下《くだ》るありさまは、溪水《たにみづ》が奔流《ほんりゆう》する以上《いじよう》の速《はや》さを以《もつ》て馳《は》せ下《くだ》るのである。恰《あだか》も陸上《りくじよう》に於《お》ける洪水《こうずい》の如《ごと》き觀《かん》を呈《てい》するので山津浪《やまつなみ》と呼《よ》ばれるようになつたものであらう。
 關東《かんとう》大地震《だいぢしん》の場合《ばあひ》に於《おい》ては、各所《かくしよ》に山津浪《やまつなみ》が起《おこ》つたが、其中《そのうち》根府川《ねぶがは》の一村《いつそん》を浚《さら》つたものが最《もつと》も有名《ゆうめい》であつた。この山津浪《やまつなみ》の源《みなもと》は根府川《ねぶがは》の溪流《けいりゆう》を西《にし》に溯《さかのぼ》ること六粁《ろくきろめーとる》、海面《かいめん》からの高《たか》さ凡《およ》そ五百《ごひやく》米《めーとる》の所《ところ》にあつたが、實際《じつさい》は數箇所《すうかしよ》からの崩壞物《ほうかいぶつ》が一緒《いつしよ》に集合《しゆうごう》したものらしく、其《その》分量《ぶんりよう》は百五十《ひやくごじゆう》米《めーとる》立方《りつぽう》と推算《すいさん》せられた、これが勾配《こうばい》九分《くぶん》の一《いち》の斜面《しやめん》に沿《そ》ひ、五分《ごふん》時間《じかん》位《ぐらゐ》の間《あひだ》に一里半《いちりはん》程《ほど》の距離《きより》を馳《は》せ下《くだ》つたものらしい。さうして根府川《ねぶがは》の一村落《いちそんらく》は崖上《がいじよう》の數戸《すうこ》を殘《のこ》して、五百《ごひやく》の村民《そんみん》と共《とも》に其下《そのした》に埋沒《まいぼつ》されてしまつた。此際《このさい》鐵道《てつどう》橋梁《きようりよう》も下《くだ》り汽車《きしや》と共《とも》に浚《さら》はれてしまつたが、これは土砂《どさ》に埋《うづま》つたまゝ海底《かいてい》まで持《も》つて行《ゆ》かれたものであることが解《わか》つた。其後《そのご》山津浪《やまつなみ》が殘《のこ》した土砂《どしや》が溪流《けいりゆう》のために次第《しだい》に浚《さら》はれて、再《ふたゝ》び以前《いぜん》の村落地《そんらくち》を暴露《ばくろ》したけれども、家屋《かおく》は其處《そこ》から現《あらは》れて來《こ》なかつたので、山津浪《やまつなみ》が一村《いつそん》を埋沒《まいぼつ》したといふよりも、これを浚《さら》つて行《い》つたといふ方《ほう》が適當《てきとう》なことが後日《こうじつ》に至《いた》つて氣附《きづ》かれた。
 山津浪《やまつなみ》はかの丹後《たんご》地震《ぢしん》の場合《ばあひ》にも起《おこ》つた。それは主《おも》に海岸《かいがん》の砂丘《さきゆう》に起《おこ》つたものであつて根府川《ねぶがは》の山津浪《やまつなみ》とは比較《ひかく》にならなかつたけれども、雪崩《なだ》れ下《くだ》つた距離《きより》が五六町《ごろくちよう》に及《およ》び、山林《さんりん》、田園《でんえん》道路《どうろ》に可《か》なりな損害《そんがん》[#ルビの「そんがん」は底本のまま]を與《あた》へた。此《この》地方《ちほう》の砂丘《さきゆう》は地震《ぢしん》ならずとも崩壞《ほうかい》することがあるのだから、地震《ぢしん》に際《さい》して注意《ちゆうい》すべきは當然《とうぜん》であるけれども、平日《へいじつ》に於《おい》ても氣《き》をつけ、特《とく》に宅地《たくち》として選定《せんてい》するときに考慮《こうりよ》しなければならぬ弱點《じやくてん》を持《も》つてゐるのである。

    七、災害《さいがい》防止《ぼうし》

 昔《むかし》の人《ひと》は地震《ぢしん》の搖《ゆ》り返《かへ》し、或《あるひ》は搖《ゆ》り戻《もど》しを恐《おそ》れたものである。此《この》言葉《ことば》は俗語《ぞくご》であるため誤解《ごかい》を惹起《ひきおこ》し、今《いま》の人《ひと》はこれを餘震《よしん》に當《あ》て嵌《は》めてゐるが、それは全《まつた》く誤《あやま》りである。昔《むかし》の人《ひと》の所謂《いはゆる》搖《ゆ》り戻《もど》しは、われ/\が今日《こんにち》唱《とな》へてゐる地震動《ぢしんどう》の主要部《しゆようぶ》である。藤田《ふぢた》東湖《とうこ》先生《せんせい》の最後《さいご》を記《しる》すならば、彼《かれ》は最初《さいしよ》の地震《ぢしん》によつて屋外《おくがい》へ飛出《とびだ》し、搖《ゆ》り戻《もど》しのために壓死《あつし》したのである。われ/\は子供《こども》の時分《じぶん》には然《し》か教《をし》へられた。最初《さいしよ》の地震《ぢしん》を感《かん》じたなら、搖《ゆ》り戻《もど》しの來《こ》ない中《うち》に戸外《こがい》へ飛出《とびだ》せなどと戒《いまし》められたものである。外國《がいこく》の大地震《だいぢしん》では搖《ゆ》り戻《もど》しといはずして、第二《だいに》の地震《ぢしん》と唱《とな》へた場合《ばあひ》がある。つまり初期《しよき》微動部《びどうぶ》、主要部《しゆようぶ》を合併《がつぺい》して一箇《いつこ》の地震《ぢしん》と見《み》ないで、これを一々《いち/\》別《べつ》なものと見做《みな》したのである。かくして西暦《せいれき》紀元《きげん》千七百《せんしちひやく》五十五年《ごじゆうごねん》のリスボン地震《ぢしん》の記事《きじ》がよく了解《りようかい》せられる。
[#行頭の全角スペースなし]搖《ゆ》り戻《もど》しと餘震《よしん》との混同《こんどう》は單《たん》に言葉《ことば》の上《うへ》の誤《あやま》りとして、其儘《そのまゝ》これを片附《かたづ》けるわけにはゆかぬ。わが國《くに》に於《おい》ては餘震《よしん》を恐怖《きようふ》する念《ねん》が特《とく》に強《つよ》いが、それは右《みぎ》の言葉上《ことばじよう》の誤《あやま》りによりても培養《ばいよう》せられてゐるのである。
 昔《むかし》の人《ひと》の言葉《ことば》を借《か》りていふならば、大地震《だいぢしん》に家《いへ》の潰《つぶ》れるのは、皆《みな》搖《ゆ》り戻《もど》しに由《よ》るのである。もし此《この》搖《ゆ》り戻《もど》しを餘震《よしん》だと解《かい》したならば餘震《よしん》は最《もつと》も恐《おそ》ろしいものでなければならぬ。そこに理論上《りろんじよう》又《また》は經驗上《けいけんじよう》全《まつた》く恐《おそ》れるに足《た》りない餘震《よしん》を、誤《あやま》つて恐怖《きようふ》するようにもなつたのである。
 餘震《よしん》の勢力《せいりよく》、或《あるひ》は地震動《ぢしんどう》としての破壞力《はかいりよく》は、最初《さいしよ》の本地震《ほんぢしん》と比較《ひかく》して微小《びしよう》なものでなければならぬ。多《おほ》くの實例《じつれい》に徴《ちよう》するも其《その》最大《さいだい》なる場合《ばあひ》でも十分《じゆうぶん》の一《いち》以下《いか》である。この事《こと》は最後《さいご》の項《こう》に於《おい》て再説《さいせつ》することだから茲《こゝ》には説明《せつめい》を略《りやく》するが、とに角《かく》餘震《よしん》は恐《おそ》れるに足《た》りない。唯《たゞ》恐《おそ》るべきは最初《さいしよ》の大地震《だいぢしん》の主要動《しゆようどう》である。然《しか》しながら、どんな地震《ぢしん》でも其《その》最《もつと》も恐《おそ》るべき主要動《しゆようどう》は、最初《さいしよ》の一分《いつぷん》時間《じかん》に於《おい》て收《をさ》まつてしまふのである。此《この》一分間《いつぷんかん》といつたのは、最《もつと》も長引《ながび》く場合《ばあひ》を顧慮《こうりよ》[#ルビの「こうりよ」は底本のまま]してのことであつて、大抵《たいてい》の場合《ばあひ》に於《おい》ては二十秒間《にじゆうびようかん》位《ぐらゐ》で危險《きけん》な震動《しんどう》は終《をは》りを告《つ》げるものである。即《すなは》ち明治《めいじ》二十七年《にじゆうしちねん》六月《ろくがつ》二十日《はつか》の東京《とうきよう》地震《ぢしん》は最初《さいしよ》から十五秒間《じゆうごびようかん》で著《いちじる》しい震動《しんどう》は終《をは》りを告《つ》げ、大正《たいしよう》十四年《じゆうよねん》の但馬《たじま》地震《ぢしん》は二十秒間《にじゆうびようかん》で全部《ぜんぶ》殆《ほと》んど收《をさ》まり、昭和《しようわ》二年《にねん》の丹後《たんご》地震《ぢしん》も大抵《たいてい》十數秒間《じゆうすうびようかん》で主要《しゆよう》震動《しんどう》がすんでしまつた。但《たゞ》し大正《たいしよう》十二年《じゆうにねん》の關東《かんとう》大地震《だいぢしん》は主要《しゆよう》震動《しんどう》が長《なが》く續《つゞ》き、最初《さいしよ》から二三十《にさんじゆう》秒間《びようかん》で收《をさ》まつたとはいへない。此事《このこと》は該地震《がいぢしん》を經驗《けいけん》した地方《ちほう》により、多少《たしよう》の相違《そうい》があるべきであるが、比較的《ひかくてき》に長《なが》く續《つゞ》いたと思《おも》はれる東京《とうきよう》にての觀測《かんそく》の結果《けつか》を擧《あ》げるならば、震動《しんどう》の最《もつと》も強《つよ》かつたのは最切《さいしよ》[#「最切」は底本のまま]から十六七《じゆうろくしち》秒目《びようめ》であつて、それから後《あと》三十秒間《さんじゆうびようかん》位《ぐらゐ》は、震動《しんどう》が却《かへ》つて大《おほ》きくなつた位《くらゐ》である。けれども往復《おうふく》震動《しんどう》は急《きゆう》に緩慢《かんまん》となつたゝめ、地動《ちどう》の強《つよ》さは次第《しだい》に衰《おとろ》へてしまつた。鎌倉《かまくら》や小田原《をだはら》邊《へん》でも、最《もつと》も激《はげ》しかつたのは最初《さいしよ》の一分間《いつぷんかん》以内《いない》であつたといへる。
 右《みぎ》のような次第《しだい》であるから、大地震《だいぢしん》に出會《であ》つたなら、最初《さいしよ》の二三十《にさんじゆう》秒間《びようかん》、場合《ばあひ》によつては一分間《いつぷんかん》位《ぐらゐ》は、その位置《いち》環境《かんきよう》によつては畏縮《いしゆく》せざるを得《え》ないこともあらう。勿論《もちろん》崩壞《ほうかい》の虞《おそ》れなき家屋《かおく》の内《うち》にゐるとか、或《あるひ》は廣場《ひろば》など安全《あんぜん》な場所《ばしよ》に居合《ゐあは》せたなら畏縮《いしゆく》する程《ほど》のこともないであらう。また餘震《よしん》の恐《おそ》れるに足《た》らないこともほゞ前《まへ》に述《の》べた通《とほ》りである。かくして最初《さいしよ》の一分間《いつぷんかん》を凌《しの》ぎ得《え》たならば、最早《もはや》不安《ふあん》に思《おも》ふべき何物《なにもの》も殘《のこ》さないはずであるが、唯《たゞ》これに今一《いまひと》つ解説《かいせつ》して置《お》く必要《ひつよう》のあるものは、地割《ぢわ》れに對《たい》して誤《あやま》れる恐怖心《きようふしん》である。
 大地震《だいぢしん》のときは大地《だいち》が裂《さ》けてはつぼみ、開《ひら》いては閉《と》ぢるものだとは、昔《むかし》から語《かた》り傳《つた》へられて最《もつと》も恐怖《きようふ》されてゐる一《ひと》つの假想《かそう》現象《げんしよう》である。もし此《この》裂《さ》け目《め》に挾《はさ》まると、人畜《じんちく》牛馬《ぎゆうば》、煎餅《せんべい》のように押《お》し潰《つぶ》されるといはれ、避難《ひなん》の場所《ばしよ》としては竹藪《たけやぶ》を選《えら》べとか、戸板《といた》を敷《し》いてこれを防《ふせ》げなどと戒《いまし》められてゐる。これはわが國《くに》にてはいかなる寒村《かんそん》僻地《へきち》にも普及《ふきゆう》してゐる注意《ちゆうい》事項《じこう》であるが、かような地割《ぢわ》れの開閉《かいへい》に關《かん》する恐怖《きようふ》は世界《せかい》の地震《ぢしん》地方《ちほう》に共通《きようつう》なものだといつてよい、[#読点は底本の通り]然《しか》るにわが國《くに》の地震史《ぢしんし》には右《みぎ》のような現象《げんしよう》の起《おこ》つたことの記事《きじ》皆無《かいむ》であるのみならず、明治《めいじ》以後《いご》の大地震《だいぢしん》調査《ちようさ》に於《おい》ても未《いま》だかつて氣附《きづ》かれたことがない。尤《もつと》も道路《どうろ》或《あるひ》は堤防《ていぼう》が搖《ゆ》り下《さが》りに因《よ》つて地割《ぢわ》れを起《おこ》すこともあるが、それは單《たん》に開《ひら》いたまゝであつて、開閉《かいへい》を繰返《くりかへ》すものではない。又《また》構造物《こうぞうぶつ》が地震動《ぢしんどう》に因《よ》つて裂《さ》け目《め》を生《しよう》じ、それが振動《しんどう》繼續中《けいぞくちゆう》開閉《かいへい》を繰返《くりかへ》すこともあるが、問題《もんだい》は大地《だいち》に關係《かんけい》したものであつて、構造物《こうぞうぶつ》に起《おこ》る現象《げんしよう》を指《さ》すのではない。とに角《かく》人畜《じんちく》が吸《す》ひ込《こ》まれる程度《ていど》に於《おい》て、大地《だいち》が開閉《かいへい》するといふことは、わが國《くに》に於《おい》ては決《けつ》して起《おこ》り得《え》ない現象《げんしよう》と見《み》てよい。
 日本《につぽん》に於《おい》て決《けつ》して起《おこ》らない現象《げんしよう》が、なぜに津々《つゝ》浦々《うら/\》まで語《かた》り傳《つた》へられ、恐怖《きようふ》せられてゐるのであらうか。著者《ちよしや》は初《はじ》め此話《このはなし》が南洋《なんよう》傳來《でんらい》のものではあるまいか、と疑《うたが》つてみたこともあるが、近頃《ちかごろ》研究《けんきゆう》の結果《けつか》、さうでないように思《おも》はれて來《き》たのである。
 世界《せかい》の大地震《だいぢしん》記録《きろく》を調《しら》べてみると、かういふ恐《おそ》ろしい現象《げんしよう》が三所《みところ》に見出《みいだ》される。これを年代《ねんだい》の順《じゆん》に記《しる》してみると、第一《だいゝち》は西暦《せいれき》千六百《せんろつぴやく》九十二年《くじゆうにねん》六月《ろくがつ》七日《なぬか》西《にし》インド諸島《しよとう》の中《うち》、ジャマイカ島《とう》に起《おこ》つた地震《ぢしん》であつて、このとき首府《しゆふ》ロアイヤル港《こう》に於《おい》ては大地《だいち》に數百條《すうひやくじよう》の龜裂《きれつ》が出來《でき》、それがぱく/\開《ひら》いたり閉《と》ぢたりするので、偶《たま/\》これに陷《おちい》つた人畜《じんちく》は忽《たちま》ち見《み》えなくなり、再《ふたゝ》びその姿《すがた》を現《あらは》すことは出來《でき》なかつた。後《あと》で掘《ほ》り出《だ》してみると、いづれも板《いた》のように押《お》し潰《つぶ》されてゐたといふ。此時《このとき》市街地《しがいち》の大部《だいぶ》は沈下《ちんか》して海《うみ》となつたといふことも記《しる》してあるから、前記《ぜんき》現象《げんしよう》の起《おこ》つた場所《ばしよ》は新《あたら》しい地盤《ぢばん》たりしに相違《そうい》なかるべく、埋立地《うめたてち》であつたかも知《し》れない。又《また》此時《このとき》の死人《しにん》は首府《しゆふ》總人口《そうじんこう》の三分《さんぶん》の二《に》を占《し》めたことも記《しる》されてあるから、地震《ぢしん》が餘程《よほど》激烈《げきれつ》であつたことも想像《そう/″\》される。
 西暦《せいれき》千七百《せんしちひやく》五十五年《ごじゆうごねん》十一月《じゆういちがつ》一日《いちにち》のリスボンの大地震《だいぢしん》は規模《きぼ》頗《すこぶ》る廣大《こうだい》なものであつて、感震《かんしん》區域《くいき》は長徑《ちようけい》五百里《ごひやくり》に亙《わた》り、地動《ちどう》の餘波《よは》によつて、スコットランド、スカンヂナビヤ邊《へん》に於《お》ける湖水《こすい》の氾濫《はんらん》を惹起《ひきおこ》したものである。此時《このとき》リスボンには津浪《つなみ》も襲來《しゆうらい》し、こゝだけの死人《しにん》でも六萬人《ろくまんにん》に上《のぼ》つた。震原《しんげん》は大西洋底《たいせいようてい》にあつたものであらう。津浪《つなみ》は北《きた》アメリカの東海岸《ひがしかいがん》に於《おい》ても氣附《きづ》かれた。
 此《この》地震《ぢしん》の場合《ばあひ》に於《おい》て、大地《だいち》の開閉《かいへい》を起《おこ》した所《ところ》は、リスボンの對岸《たいがん》、アフリカのモロッコ國《こく》の首府《しゆふ》モロッコから三里《さんり》ほど離《はな》れた一部落《いちぶらく》であつて、そこにはベスンバ種族《しゆぞく》と呼《よ》ばれる土民《どみん》が住《す》まつてゐた。この時《とき》大地《だいち》の開閉《かいへい》によつて土民《どみん》は勿論《もちろん》、彼等《かれら》の飼《か》つてゐた畜類《ちくるい》は牛馬《ぎゆうば》、駱駝《らくだ》等《とう》に至《いた》るまで盡《こと/″\》くそれに吸《す》ひ込《こ》まれ、八千《はつせん》乃至《ないし》一萬《いちまん》の人口《じんこう》を有《ゆう》してをつたこの部落《ぶらく》は其《その》ために跡方《あとかた》もなく失《うしな》はれたといふ。此《この》地震《ぢしん》史上《しじよう》の大事件《だいじけん》の舞臺《ぶたい》が未開《みかい》の土地《とち》であるだけに、記事《きじ》に確信《かくしん》を置《お》くわけにも行《ゆ》かないが、これを載《の》せた書物《しよもつ》は地震《ぢしん》直後《ちよくご》に出版《しゆつぱん》された『千七百《せんしちひやく》五十五年《ごじゆうごねん》十一月《じゆういちがつ》一日《いちにち》のリスボン大地震《だいぢしん》』と題《だい》するもので、歐洲《おうしゆう》に於《お》ける當時《とうじ》の知名《ちめい》の科學者《かがくしや》十名《じゆうめい》の論文《ろんぶん》を集《あつ》めたものである。
 大地《だいち》開閉《かいへい》の記事《きじ》を載《の》せた第三《だいさん》の地震《ぢしん》は西暦《せいれき》千七百《せんしちひやく》八十三年《はちじゆうさんねん》イタリー國《こく》カラブリヤに起《おこ》つたものであつて、地震《ぢしん》に因《よ》る死者《ししや》四萬《しまん》、それに續《つゞ》いて起《おこ》つた疫病《えきびよう》に因《よ》る死者《ししや》二萬《にまん》と數《かぞ》へられたものである。場所《ばしよ》は長靴《ながぐつ》の形《かたち》に譬《たと》へられたイタリーの足《あし》の中央部《ちゆうおうぶ》に當《あた》つてゐる。この時《とき》中央《ちゆうおう》山脈《さんみやく》の斜面《しやめん》に沿《そ》うて堆積《たいせき》してゐた土砂《どさ》が全體《ぜんたい》として山骨《さんこつ》を離《はな》れ、それが斜面《しやめん》を流《なが》れ下《くだ》る際《さい》曲《まが》り目《め》の所《ところ》に於《おい》て、雪崩《なだ》れの表面《ひようめん》が或《あるひ》は開《ひら》いたり、或《あるひ》は閉《と》ぢたりしたものゝようであるが、此《この》開《ひら》き口《ぐち》に人畜《じんちく》が陷《おちい》つて見《み》えなくなつたことが記《しる》されてある。或《あるひ》は又《また》開《ひら》いたままに殘《のこ》つた地割《じわ》れもあつたが、後《あと》で檢査《けんさ》して見《み》ると、其《その》深《ふか》さは計測《けいそく》することが出來《でき》ない程《ほど》のものであつたといふ。關東《かんとう》大地震《だいぢしん》のとき起《おこ》つた根府川《ねぶがは》の山津浪《やまつなみ》は、其《その》雪崩《なだ》れ下《くだ》る際《さい》、右《みぎ》のような現象《げんしよう》が或《あるひ》は小規模《しようきぼ》に起《おこ》つたかも知《し》れない。
 世界《せかい》大地震《だいぢしん》の記事《きじ》に於《おい》て、人畜《じんちく》を吸《す》ひ込《こ》むほどの地割《ぢわ》れの開閉《かいへい》現象《げんしよう》が起《おこ》つたのは、著者《ちよしや》の鋭意《えいい》調《しら》べた結果《けつか》、以上《いじよう》の三回《さんかい》のみである。此外《このほか》に幅《はゞ》僅《わづか》に一二寸《いちにすん》程《ほど》の地割《ぢわ》れが開閉《かいへい》したことを記《しる》したものはないでもないが、それも餘計《よけい》はない。一例《いちれい》を擧《あ》げるならば、西暦《せいれき》千八百《せんはつぴやく》三十五年《さんじゆうごねん》の南米《なんべい》チリ地震《ぢしん》である。此時《このとき》卑濕《ひしゆう》の土地《とち》に一二寸《いちにすん》の地割《ぢわ》れがいくらも出來《でき》、それが開閉《かいへい》して土砂《どさ》が吹出《ふきだ》したといふ。
 右《みぎ》のような小規模《しようきぼ》の地割《ぢわ》れならば、大正《たいしよう》十二年《じゆうにねん》の關東《かんとう》大地震《だいぢしん》に於《おい》ても經驗《けいけん》せられた。場所《ばしよ》は安房國《あはのくに》北條町《ほうじようまち》北條《ほうじよう》小學校《しようがつこう》の校庭《こうてい》であつた。此《この》學校《がつこう》の敷地《しきち》は、數年前《すうねんぜん》に水田《すいでん》を埋立《うめた》てゝ作《つく》られたものであつて、南北《なんぼく》に長《なが》き水田《すいでん》の一區域《いちくいき》の中《なか》に、半島《はんとう》の形《かたち》をなして西《にし》から東《ひがし》へ突出《とつしゆつ》してゐた。さうしてこの水田《すいでん》の東西南《とうざいなん》の三方《さんぽう》は比較的《ひかくてき》に堅《かた》い地盤《ぢばん》を以《もつ》て圍《かこ》まれてゐる。かういふ構造《こうぞう》の地盤《ぢばん》であるから、地震《ぢしん》も比較的《ひかくてき》に烈《はげ》しかつたであらう。誰《たれ》しも想像《そう/″\》し得《え》られる通《とほ》り、校舍《こうしや》は新築《しんちく》でありながら全部《ぜんぶ》潰《つぶ》れてしまつた。わづかに身《み》を持《もつ》て免《のが》れた校長《こうちよう》以下《いか》の職員《しよくいん》は這《は》ふようにして中庭《なかには》にまで出《で》ると、目前《もくぜん》に非常《ひじよう》な現象《げんしよう》が起《おこ》り始《はじ》めた。それは校庭《こうてい》が南北《なんぼく》に二條《にじよう》に龜裂《きれつ》して、其處《そこ》から水柱《みづばしら》を二三間《にさんげん》の高《たか》さに噴出《ふんしゆつ》し始《はじ》めたのであつた。あとで龜裂《きれつ》の長《なが》さを計《はか》つてみたら、延長《えんちよう》二十二間《にじゆうにけん》程《ほど》あつたから、此程《これほど》噴出《ふんしゆつ》の景況《けいきよう》は壯觀《そうかん》であつたに相違《そうい》ない。あれよ/\とみてゐると水煙《みづけむり》は急《きゆう》に衰《おとろ》へ裂《さ》け口《くち》も閉《と》ぢて噴出《ふんしゆつ》一時《いちじ》に止《と》まつてしまつたが、僅《わづか》に五六秒《ごろくびよう》位《くらゐ》經過《けいか》した後《のち》再《ふたゝ》び噴《ふ》き出《だ》し始《はじ》めた。かく噴《ふ》いては止《や》み噴《ふ》いては止《や》みすること五六回《ごろつかい》にして次第《しだい》に衰《おとろ》へ遂《つひ》に止《や》んでしまつた。跡《あと》には所々《ところ/″\》に小《ちひ》さな土砂《とさ》の圓錐《えんすい》を殘《のこ》し、裂口《さけぐち》は大抵《たいてい》塞《ふさ》がつて唯《たゞ》細《ほそ》い線《せん》を殘《のこ》したのみである。著者《ちよしや》は事件《じけん》があつて二月《にがつ》の後《のち》に其《その》場所《ばしよ》を見學《けんがく》したが、土砂《とさ》の圓錐《えんすい》の痕跡《こんせき》は其時《そのとき》までも見《み》ることが出來《でき》た。さうしてこの現象《げんしよう》の原因《げんいん》は、水田《すいでん》の泥《どろ》の層《そう》が敷地《しきち》と共《とも》に水桶内《みづをけない》に於《お》ける水《みづ》の動搖《どうよう》と同《おな》じ性質《せいしつ》の震動《しんどう》を起《おこ》し、校舍《こうしや》の敷地《しきち》に當《あた》る所《ところ》が蒲鉾《かまぼこ》なりに持上《もちあが》つて地割《ぢわ》れを生《しよう》じ、それが凹《くぼ》んで下《さが》つたとき地割《ぢわ》れが閉《と》ぢるようになつたものと考《かんが》へた。大地震《だいぢしん》のとき、泥土層《でいどそう》や、卑濕《ひしゆう》の土地《とち》には長《なが》い裂《さ》け目《め》に沿《そ》うて泥砂《どろすな》を噴出《ふきだ》すことはありがちのことであるが、もし地震《ぢしん》の當時《とうじ》に此《この》現象《げんしよう》を觀察《かんさつ》することが出來《でき》たならば、北條《ほうじよう》小學校《しようがつこう》々庭《/\てい》に於《おい》て實見《じつけん》せられたようなものゝ多々《たゝ》あることであらう。實《じつ》に北條《ほうじよう》小學校《しようがつこう》職員《しよくいん》によつてなされた前記《ぜんき》現象《げんしよう》の觀察《かんさつ》は、地震學上《ぢしんがくじよう》極《きは》めて貴《たふと》いものであつた。
[#図版(img_16.png)、地割れ開閉の説明圖]
 前《まへ》に記《しる》したジャマイカ地震《ぢしん》並《ならび》にリスボン地震《ぢしん》に於《お》ける地割《ぢわ》れの開閉《かいへい》は、北條《ほうじよう》小學校《しようがつこう》に起《おこ》つたような現象《げんしよう》が極《きは》めて大規模《おほきぼ》に起《おこ》つたものとすれば解釋《かいしやく》がつくように思《おも》ふ。果《はた》して然《しか》らば、ロアイヤル港《こう》や、昔《むかし》ベスンバ族《ぞく》のゐた部落《ぶらく》は右《みぎ》の現象《げんしよう》を起《おこ》すに最《もつと》も適當《てきとう》な場所《ばしよ》であつて、此等《これら》の地方《ちほう》は他《た》の大地震《だいぢしん》によつて再《ふたゝ》び同樣《どうよう》の現象《げんしよう》を起《おこ》すこともあるであらう。わが國《くに》に於《おい》て此《この》現象《げんしよう》を未《ま》だかつて大規模《だいきぼ》に起《おこ》したことのないのは、單《たん》に此《この》現象《げんしよう》を起《おこ》すに適當《てきとう》な構造《こうぞう》の場所《ばしよ》が存在《そんざい》しないのに因《よ》るものであらう。
 右《みぎ》の樣《よう》な次第《しだい》であるから、著者《ちよしや》の結論《けつろん》としては、地割《ぢわ》れに吸込《すひこ》まれるような現象《げんしよう》は、わが國《くに》にては絶對《ぜつたい》に起《おこ》らないといふことに歸着《きちやく》するのである。されば竹藪《たけやぶ》に逃《に》げ込《こ》めとか、戸板《といた》を敷《し》いて避難《ひなん》せよとかいふ注意《ちゆうい》は餘《あま》りに用心《ようじん》すぎるように思《おも》はれる。況《いは》んや竹藪《たけやぶ》自身《じしん》が二十間《にじゆつけん》も移動《いどう》したことが明治《めいぢ》二十四年《にじゆうよねん》濃尾《のうび》大地震《だいぢしん》にも經驗《けいけん》され、又《また》それを通《とほ》して大《おほ》きな地割《ぢわ》れの出來《でき》た實例《じつれい》はいくらもある位《くらゐ》であるから、左程《さほど》に重《おも》きを置《お》かなくとも差支《さしつか》へない注意《ちゆうい》であるように思《おも》ふ。
 大地震《だいぢしん》に遭遇《そうぐう》して最初《さいしよ》の一分間《いつぷんかん》を無事《ぶし》[#ルビの「ぶし」は底本のまま]に凌《しの》ぎ得《え》たとし、又《また》餘震《よしん》や地割《ぢわ》れは恐《おそ》れるに足《た》らないものとの悟《さと》りがついたならば、其後《そのご》災害《さいがい》防止《ぼうし》について全力《ぜんりよく》を盡《つく》すことが出來《でき》よう。此際《このさい》或《あるひ》は倒壞《とうかい》家屋《かおく》の下敷《したじき》になつたものもあらうし、或《あるひ》は火災《かさい》を起《おこ》しかけてゐる場所《ばしよ》も多《おほ》いことであらうし、救難《きゆうなん》に出來《でき》るだけ多《おほ》くの人手《ひとで》を要《よう》し、しかもそれには一刻《いつこく》の躊躇《ちゆうちよ》を許《ゆる》されないものがある。これ老幼《ろうよう》男女《だんじよ》の區別《くべつ》を問《と》はず、一齊《いつせい》に災害《さいがい》防止《ぼうし》に努力《どりよく》しなければならない所以《ゆえん》である。
 下敷《したじき》になつた人《ひと》を助《たす》け出《だ》すことは震災《しんさい》の防止上《ぼうしじよう》最《もつと》も大切《たいせつ》なことである。なんとなれば震災《しんさい》を被《かうむ》る對象物中《たいしようぶつちゆう》、人命《じんめい》ほど貴重《きちよう》なものはないからである。もしそこに火災《かさい》を起《おこ》す虞《おそ》れが絶對《ぜつたい》になかつたならば、この問題《もんだい》の解決《かいけつ》に一點《いつてん》の疑問《ぎもん》も起《おこ》らないであらう。然《しか》しながら、もしそこに火災《かさい》を起《おこ》す虞《おそ》れがあり、又《また》實際《じつさい》に小火《ぼや》を起《おこ》してゐたならば、問題《もんだい》は全然《ぜんぜん》別物《べつもの》である。
 大正《たいしよう》十四年《じゆうよねん》五月《ごがつ》二十三日《にじゆうさんにち》の但馬《たじま》地震《ぢしん》に於《おい》て、震原地《しんげんち》に當《あた》れる田結村《たいむら》に於《おい》ては、全村《ぜんそん》八十三《はちじゆうさん》戸中《こちゆう》八十二戸《はちじゆうにこ》潰《つぶ》れ、六十五名《ろくじゆうごめい》の村民《そんみん》が潰家《かいか》の下敷《したじき》となつた。この村《むら》は半農《はんのう》半漁《はんりよう》の小部落《しようぶらく》であるが、地震《ぢしん》の當日《とうじつ》は丁度《ちようど》蠶兒《さんじ》掃立《はきたて》の日《に》に當《あた》り、暖室用《だんしつよう》の炭火《すみび》を用《もち》ひてゐた家《いへ》が多《おほ》く、その中《うち》三十六戸《さんじゆうろつこ》からは煙《けむり》を吐《は》き出《だ》し、遂《つひ》に三戸《さんこ》だけは燃《も》え上《あが》るに至《いた》つた。一方《いつぽう》では下敷《したじき》の下《した》から助《たす》けを乞《こ》ふてわめき、他方《たほう》では消防《しようぼう》の急《きゆう》を告《つ》ぐるさけび、これに和《わ》して絶《た》え間《ま》なき餘震《よしん》の鳴動《めいどう》と大地《だいち》の動搖《どうよう》とは、幸《さいはひ》に身《み》を以《もつ》て免《のが》れたものには手《て》の下《くだ》しようもなかつたであらう。然《しか》し村民《そんみん》の間《あひだ》にはかういふ非常時《ひじようじ》に對《たい》する訓練《くんれん》がよく行屆《ゆきとゞ》いてゐたと見《み》え、老幼《ろうよう》男女《だんじよ》第一《だいいち》に火災《かさい》防止《ぼうし》に力《つと》め、時《とき》を移《うつ》さず人命《じんめい》救助《きゆうじよ》に從事《じゆうじ》したのであつた。幸《さいはひ》に火《ひ》も小火《ぼや》のまゝで消《け》し止《と》め、下敷《したじき》になつた六十五名《ろくじゆうごめい》中《ちゆう》、五十八名《ごじゆうはちめい》は無事《ぶじ》に助《たす》け出《だ》されたが、殘《のこ》りの七名《しちめい》は遺憾《いかん》ながら崩壞物《ほうかいぶつ》の第一撃《だいいちげき》によつて即死《そくし》したのであつた。もし村民《そんみん》の訓練《くんれん》が不行屆《ふゆきとゞ》きであり、或《あるひ》は火《ひ》を消《け》すことを第二《だいに》にしたならば、恐《おそ》らくは全村《ぜんそん》烏有《うゆう》に歸《き》し、人命《じんめい》の損失《そんしつ》は助《たす》けられた五十八名《ごじゆうはちめい》の中《なか》にも及《およ》んだであらう。即《すなは》ち人命《じんめい》の損失《そんしつ》は實際《じつさい》に幾倍《いくばい》し、財産《ざいさん》の損失《そんしつ》は幾十倍《いくじゆうばい》にも及《およ》んだであらう。實《じつ》にその村民《そんみん》の行動《こうどう》は震災《しんさい》に對《たい》してわれ/\の理想《りそう》とする所《ところ》を實行《じつこう》したものといへる。聞《き》けばこの村《むら》はかって壯丁《そうてい》の多數《たすう》が出漁中《しゆつりようちゆう》に火《ひ》を失《しつ》して全村《ぜんそん》灰燼《かいじん》に歸《き》したことがあるさうで、これに鑑《かんが》みて其後《そのご》女子《じよし》の消防隊《しようぼうたい》をも編成《へんせい》し、かゝる寒村《かんそん》なるにがそりん[#「がそりん」に傍点]・ぽんぷ[#「ぽんぷ」に傍点]一臺《いちだい》備《そな》へつけてあるのだといふ。平日《へいじつ》かういふ訓練《くんれん》があればこそ、かゝる立派《りつぱ》な行動《こうどう》に出《い》でることも出來《でき》たのであらう。
 また丹後《たんご》大地震《だいぢしん》の時《とき》は、九歳《きゆうさい》になる茂籠《もかご》傳一郎《でんいちろう》といふ山田《やまだ》小學校《しようがつこう》二年生《にねんせい》は一家《いつか》八人《はちにん》と共《とも》に下敷《したじき》になり、家族《かぞく》は屋根《やね》を破《やぶ》つて逃《に》げ出《だ》したに拘《かゝは》らず、傳一郎《でんいちろう》君《くん》は倒潰《とうかい》家屋内《かおくない》に踏《ふ》み留《とゞ》まり、危險《きけん》を冒《をか》して火《ひ》を消《け》し止《と》めたといひ、十一歳《じゆういつさい》になる糸井《いとゐ》重幸《しげゆき》といふ島津《しまづ》小學校《しようがつこう》四年生《よねんせい》は、祖母《そぼ》妹《いもうと》と共《とも》に下敷《したじき》になりながら、二人《ふたり》には退《の》き口《くち》をあてがつて、自分《じぶん》だけは取《と》つて返《かへ》し、二箇所《にかしよ》の火元《ひもと》を雪《ゆき》を以《もつ》て消《け》しにかゝつたが、祖母《そぼ》は家《いへ》よりも身體《からだ》が大事《だいじ》だといつて重幸《しげゆき》少年《しようねん》を制《せい》したけれども、少年《しようねん》はこれをきかないで、幾度《いくど》も雪《ゆき》を運《はこ》んで來《き》て、遂《つひ》に消《け》し止《と》めたといふ。この爲《ため》に兩少年《りようしようねん》は各自《かくじ》の家屋《かおく》のみならず、重幸《しげゆき》少年《しようねん》の如《ごと》きは隣接《りんせつ》した小學校《しようがつこう》と二十戸《にじゆつこ》の民家《みんか》とを危急《ききゆう》から救《すく》ひ得《え》たのであつた。實《じつ》にこれ等《ら》義勇《ぎゆう》の行動《こうどう》はそれが少年《しようねん》によつてなされたゞけに殊更《ことさら》たのもしく思《おも》はれるではないか。
 日本《につぽん》に於《お》ける大地震《だいぢしん》の統計《とうけい》によれば、餘《あま》り大《おほ》きくない町村《ちようそん》に於《おい》て、潰家《かいか》十一軒《じゆういつけん》毎《ごと》に一名《いちめい》の死者《ししや》を生《しよう》ずる割合《わりあひ》である。然《しか》るに、もしこれに火災《かさい》が加《くは》はると、人命《じんめい》の損失《そんしつ》は三倍《さんばい》乃至《ないし》四倍《よばい》になるのであるが、これは下敷《したじき》になつた人《ひと》の中《うち》、火災《かさい》さへなければ無事《ぶじ》に助《たす》け出《だ》さるべきものまで燒死《しようし》の不幸《ふこう》を見《み》るに至《いた》るものが多數《たすう》に生《しよう》ずるからである。地震《ぢしん》の災害《さいがい》を最小《さいしよう》限度《げんど》に防止《ぼうし》せんとするに當《あた》り主義《しゆぎ》として人命《じんめい》救護《きゆうご》に最《もつと》も重《おも》きを置《お》くことは勿論《もちろん》であるが、唯《たゞ》此《この》主義《しゆぎ》の實行《じつこう》手段《しゆだん》として、火災《かさい》の防止《ぼうし》を眞先《まつさき》にすることが必要《ひつよう》條件《じようけん》となるのである。もし此《この》手段《しゆだん》の實行上《じつこうじよう》に伴《ともな》ふ犧牲《ぎせい》があるならば、それを考慮《こうりよ》することも必要《ひつよう》であるけれども、何等《なんら》の犧牲《ぎせい》がないのみならず、火災《かさい》防止《ぼうし》といふ最《もつと》も有利《ゆうり》な條件《じようけん》が伴《ともな》ふのである。實際《じつさい》大地震《だいぢしん》の損害《そんがい》に於《おい》て、直接《ちよくせつ》地震動《ぢしんどう》より來《きた》るものは僅《わづか》に其一《そのいつ》小部分《しようぶぶん》であつて、大部分《だいぶぶん》は火災《かさい》のために生《しよう》ずる損失《そんしつ》であるといへる。此《この》關係《かんけい》は關東《かんとう》大地震《だいぢしん》、但馬《たじま》地震《ぢしん》、丹後《たんご》地震《ぢしん》に於《おい》て、此頃《このごろ》證據立《しようこだ》てられた所《ところ》であつて、別段《べつだん》な説明《せつめい》を要《よう》しない事實《じじつ》である。

    八、火災《かさい》防止《ぼうし》(一)

 地震《ぢしん》に伴《ともな》ふ火災《かさい》は大抵《たいてい》地震《ぢしん》の後《のち》に起《おこ》るから、其等《それら》に對《たい》しては注意《ちゆうい》も行屆《ゆきとゞ》き、小火《ぼや》の中《うち》に消止《けしと》める餘裕《よゆう》もあるけれども、潰家《かいか》の下《した》から徐々《じよ/\》に燃《も》え上《あ》がるものは、大事《だいじ》に至《いた》るまで氣附《きづ》かれずに進行《しんこう》することがあり、終《つひ》に大火災《だいかさい》を惹起《ひきおこ》したことも少《すくな》くない。
 大正《たいしよう》十四年《じゆうよねん》五月《ごがつ》二十三日《にじゆうさんにち》の但馬《たじま》地震《ぢしん》に於《おい》て、豐岡町《とよをかまち》に於《おい》ては、地震《ぢしん》直後《ちよくご》、火《ひ》は三箇所《さんかしよ》から燃《も》え上《あが》つた。これは容易《ようい》に消《け》し止《と》められたので、消防隊《しようぼうたい》又《また》は一般《いつぱん》の町民《ちようみん》の間《あひだ》には多少《たしよう》の緩《ゆる》みも生《しよう》じたのであらう。市街《しがい》の中心地《ちゆうしんち》に於《お》ける潰家《かいか》の下《もと》に、大火災《だいかさい》となるべき火種《ひだね》が培養《ばいよう》せられつゝあつたことを氣附《きづ》かないでゐたのである。地震《ぢしん》の起《おこ》つたのは當日《とうじつ》午前《ごぜん》十一時《じゆういちじ》十分頃《じつぷんごろ》であり、郵便局《ゆうびんきよく》の隣《とな》りの潰家《かいか》から發火《はつか》したのは正午《しようご》を過《す》ぐる三十分《さんじつぷん》位《ぐらゐ》だつたといふから、地震後《ぢしんご》凡《およ》そ一時間《いちじかん》半《はん》を經過《けいか》してゐる。これが氣附《きづ》かれたときは、一旦《いつたん》集合《しゆうごう》してゐた消防隊《しようぼうたい》も解散《かいさん》した後《のち》であり、又《また》氣附《きづ》かれた後《のち》も倒潰《とうかい》家屋《かおく》に途《みち》を塞《ふさ》がれて火元《ひもと》に近《ちか》づくことが困難《こんなん》であつたなどの不利益《ふりえき》が種々《しゆ/″\》重《かさ》なつて、遂《つひ》に全町《ぜんちよう》二千《にせん》百戸《ひやつこ》の中《うち》、其《その》三分《さんぶん》の二《に》を全燒《ぜんしよう》せしめる程《ほど》の大火災《だいかさい》となつたのである。しかも其《その》燒失《しょうしつ》區域《くいき》は町《まち》の最《もつと》も重要《じゆうよう》な部分《ぶぶん》を占《し》めてゐたので、損失《そんしつ》の實際《じつさい》の價値《かち》は更《さら》に重大《じゆうだい》なものであつたのである。

    九、火災《かさい》防止《ぼうし》(二)

 普通《ふつう》に出來《でき》てゐる水道《すいどう》鐵管《てつかん》は、地震《ぢしん》によつて破損《はそん》し易《やす》い。啻《たゞ》に大地震《だいぢしん》のみならず、一寸《ちよつと》した強《つよ》い地震《ぢしん》にもさうである。特《とく》に地盤《ぢばん》の弱《よわ》い市街地《しがいち》に於《おい》てはそれが著明《ちよめい》である。關東《かんとう》大地震《だいぢしん》後《ご》、この方面《ほうめん》に於《お》ける研究《けんきゆう》も大《おほ》いに進《すゝ》み、或《あるひ》は鐵管《てつかん》の繼手《つぎて》の改良《かいりよう》、或《あるひ》は地盤《ぢばん》不良《ふりよう》な場所《ばしよ》を避《さ》けて敷設《ふせつ》すること、止《や》むを得《え》なければ豫備《よび》の複線《ふくせん》を設《まう》けることなど、幾分《いくぶん》耐震的《たいしんてき》になつた所《ところ》もあるけれども、それも地震《ぢしん》の種類《しゆるい》によるのであつて、われ/\が謂《い》ふ所《ところ》の大地震《だいぢしん》に對《たい》しては、先《ま》づ暫時《ざんじ》無能力《むのうりよく》となるものと諦《あきら》めねばなるまい。今日《こんにち》都市《とし》に於《お》ける消防《しようぼう》施設《しせつ》は水道《すいどう》を首位《しゆい》に置《お》いてあつて、普通《ふつう》の火災《かさい》に對《たい》してはそれで差支《さしつか》へないのであるが、大地震《だいぢしん》のような非常時《ひじようじ》に於《おい》ては、忽《たちま》ち支障《ししよう》を來《きた》すこと、其例《そのれい》が餘《あま》りに多《おほ》い。
 非常時《ひじようじ》の消防《しようぼう》施設《しせつ》については別《べつ》に其局《そのきよく》に當《あた》る人《ひと》があるであらう。唯《たゞ》われ/\は現状《げんじよう》に於《おい》て最善《さいぜん》を盡《つく》す工夫《くふう》をしなければならぬ。
 水《みづ》なしの消防《しようぼう》は最《もつと》も不利益《ふりえき》であるから、水道《すいどう》の水《みづ》が止《と》まらない内《うち》、機敏《きびん》に貯水《ちよすい》の用意《ようい》をすることが賢明《けんめい》な仕方《しかた》である。たとひ四邊《あたり》に火災《かさい》の虞《おそ》れがないように考《かんが》へられた場合《ばあひ》に於《おい》ても、遠方《えんぽう》の火元《ひもと》から延燒《えんしよう》して來《く》ることがあるからである。著者《ちよしや》は大正《たいしよう》十二年《じゆうにねん》の關東《かんとう》大地震《だいぢしん》の際《さい》、東京《とうきよう》帝國《ていこく》大學内《だいがくない》地震學《ぢしんがく》教室《きようしつ》にあつて、水無《みづな》しに消防《しようぼう》に從事《じゆうじ》した苦《くる》しい經驗《けいけん》を有《ゆう》してゐるが、水《みづ》の用意《ようい》があつての消防《しようぼう》に比較《ひかく》して其《その》難易《なんい》を説《と》くことは、蓋《けだ》し愚《ぐ》の骨頂《こつちよう》であらう。この經驗《けいけん》によつて、水《みづ》なしの消防法《しようぼうほう》をも心得《こゝろえ》て置《お》くべきものといふことを覺《さと》つたが、實際《じつさい》には水《みづ》を使用《しよう》しては却《かへ》つて能《よ》くない場合《ばあひ》もあるので、著者《ちよしや》の專門外《せんもんがい》ではあるけれども、聞《き》き噛《かじ》つたことを略述《りやくじゆつ》して見《み》ることにする。
 水《みづ》を用《もち》ひては却《かへ》つて能《よ》くない場合《ばあひ》は後廻《あとまは》しにして、先《ま》づ水《みづ》を用《もち》ひて差支《さしつか》へない場合《ばあひ》、もしくは有利《ゆうり》な場合《ばあひ》に於《おい》て、水《みづ》のあるなしによつて如何《いか》に之《これ》を處置《しよち》するかを述《の》べて見《み》たい。
 個人《こじん》消防上《しようぼうじよう》の最大《さいだい》要件《ようけん》は時機《じき》を失《うしな》ふことなく、最《もつと》も敏速《びんそく》に處置《しよち》することにある。これは火《ひ》は小《ちひ》さい程《ほど》、消《け》し易《やす》いといふ原則《げんそく》に基《もと》づいてゐる。或《あるひ》は自力《じりよく》で十分《じゆうぶん》なこともあり、或《あるひ》は他《た》の助力《じよりよく》を要《よう》することもあり、或《あるひ》は消防隊《しようぼうたい》を必要《ひつよう》とすることもあるであらう。
 水《みづ》は燃燒《ねんしよう》の元《もと》に注《そゝ》ぐこと、焔《ほのほ》や煙《けむり》に注《つ》いでも何等《なんら》の效果《こうか》がない。
 障子《しようじ》のような建具《たてぐ》に火《ひ》が燃《も》えついたならば、この建具《たてぐ》を倒《たふ》すこと、衣類《いるい》に火《ひ》が燃《も》えついたときは、床《ゆか》又《また》は地面《じめん》に一轉《ひところ》がりすれば、焔《ほのほ》だけは消《き》える。
 火《ひ》が天井《てんじよう》まで燃《も》え上《あが》つたならば、屋根《やね》まで打拔《うちぬ》いて火氣《かき》を拔《ぬ》くこと。これは焔《ほのほ》が天井《てんじよう》を這《は》つて燃《も》え擴《ひろ》がるのを防《ふせ》ぐに效力《こうりよく》がある。この際《さい》若《も》し竿雜巾《さをぞうきん》(竿《さを》の先《さき》に濕雜巾《ぬれざふきん》を結付《むすびつ》けたもの)の用意《ようい》があると、最《もつと》も好都合《こうつごう》である。
 隣家《りんか》からの延燒《えんしよう》を防《ふせ》ぐに、雨戸《あまど》を締《し》めることは幾分《いくぶん》の效力《こうりよく》がある。
 煙《けむり》に卷《ま》かれたら、地面《ぢめん》に這《は》ふこと、濕《ぬ》れ手拭《てぬぐひ》にて鼻口《はなくち》を被《おほ》ふこと。
 焔《ほのほ》の下《した》をくゞるときは、手拭《てぬぐひ》にて頭部《とうぶ》を被《おほ》ふこと。手拭《てぬぐひ》が濕《ぬ》れてゐれば猶《なほ》よく、座蒲團《ざぶとん》を水《みづ》に浸《ひた》したものは更《さら》によし。
 火《ひ》に接近《せつきん》するに疊《たゝみ》の楯《たて》は有效《ゆうこう》である。
 水《みづ》を用《もち》ひては却《かへ》つて能《よ》くない場合《ばあひ》は、燃燒物《ねんしようぶつ》が油《あぶら》、あるこーる[#「あるこーる」に傍点]の如《ごと》きものゝ場合《ばあひ》である。藥品《やくひん》の中《うち》には容器《ようき》の顛倒《てんとう》によつて單獨《たんどく》に發火《はつか》するものもあれば、接觸《せつしよく》混合《こんごう》によつて發火《はつか》するものもある。それにあるこーる[#「あるこーる」に傍点]、えーてる[#「えーてる」に傍点]等《とう》の如《ごと》く一時《いちじ》に燃《も》え擴《ひろ》がるものが近《ちか》くにあるとき、直《すぐ》に大事《だいじ》を惹起《ひきおこ》すに至《いた》ることが多《おほ》い。或《あるひ》は飮食店《いんしよくてん》に於《お》ける揚物《あげもの》の油《あぶら》、或《あるひ》はせるろいど[#「せるろいど」に傍点]工場《こうじよう》など、世《よ》の文化《ぶんか》が進《すゝ》むに從《したが》ひ、化學《かがく》藥品《やくひん》にして發火《はつか》の原因《げんいん》となるものが、益《ます/\》殖《ふ》えて來《く》る。關東《かんとう》大地震《だいぢしん》のとき、東京《とうきよう》に於《お》ける大火災《だいかさい》の火元《ひもと》は百五十箇所《ひやくごじゆつかしよ》程《ほど》に數《かぞ》へられてゐるが、其中《そのうち》化學《かがく》藥品《やくひん》に由《よ》るものは四十四箇所《しじゆうしかしよ》であつて、三十一箇所《さんじゆういちかしよ》は都合《つごう》よく消《け》し止《と》められたけれども、十三箇所《じゆうさんかしよ》だけは大事《だいじ》を惹起《ひきおこ》すに至《いた》つた。
 化學《かがく》藥品《やくひん》油類《ゆるい》の發火《はつか》に對《たい》しては、燃燒《せんしよう》[#ルビの「せんしよう」は底本のまま]を妨《さまた》げる藥品《やくひん》を以《もつ》て、處理《しより》する方法《ほう/\》もあるけれども、普通《ふつう》の場合《ばあひ》には砂《すな》でよろしい。もし蒲團《ふとん》、茣蓙《ござ》が手近《てぢか》にあつたならば、それを以《もつ》て被《おほ》ふことも一法《いちほう》である。
 揚物《あげもの》の油《あぶら》が鍋《なべ》の中《なか》にて發火《はつか》した場合《ばあひ》は、手近《てぢか》にあるうどん[#「うどん」に傍点]粉《こ》、菜葉《なつぱ》などを鍋《なべ》に投《な》げ込《こ》むこと。

 火《ひ》に慣《な》れないものは火《ひ》を恐《おそ》れるために、小火《ぼや》の中《うち》にこれを押《おさ》へ付《つ》けることが出來《でき》ずして大事《だいじ》に至《いた》らしめることが多《おほ》い。もし右《みぎ》のような火《ひ》の性質《せいしつ》を心得《こゝろえ》てゐると、心《こゝろ》の落着《おちつき》も出來《でき》るため、危急《ききゆう》の場合《ばあひ》、機宜《きゞ》に適《てき》する處置《しよち》も出來《でき》るようにもなるものである。左《さ》に記《しる》したものゝ中《なか》には實驗《じつけん》を行《おこな》ひ得《う》るものもあるから、教師《きようし》父兄《ふけい》指導《しどう》の下《もと》に、安全《あんぜん》な場所《ばしよ》を選《えら》びて、これを試《こゝろ》みることは極《きは》めて有益《ゆうえき》なことである。
 ついでに記《しる》して置《お》くことは、火災《かさい》の避《さ》け難《がた》き場合《ばあひ》を顧慮《こりよ》しての心得《こゝろえ》である。
 金庫《きんこ》の足《あし》の車止《くるまど》めを確《たし》かにして置《お》くこと。地震《ぢしん》のとき金庫《きんこ》が動《うご》き出《だ》し、扉《とびら》がしまらなくなつた例《れい》が多《おほ》い。
 金庫《きんこ》、書庫《しよこ》、土藏《どぞう》には各《おの/\》の大《おほ》きさに相應《そうおう》する器物《きぶつ》(例《たと》へば土藏《どぞう》ならばばけつ[#「ばけつ」に傍点])に水《みづ》を入《い》れ置《お》くこと。これは内部《ないぶ》の貴重品《きちようひん》の蒸燒《むしやき》になるのを防《ふせ》ぐためである。
 土藏内《どぞうない》の品物《しなもの》は壁《かべ》から一尺《いつしやく》以上《いじよう》離《はな》し置《お》くこと。
 貴重品《きちようひん》を一時《いちじ》井戸《ゐど》に沈《しづ》めることあり。地中《ちちゆう》に埋《うづ》める場合《ばあひ》は砂《すな》の厚《あつ》さ五分《ごぶ》程《ほど》にても有效《ゆうこう》である。
 火災《かさい》の避難《ひなん》に於《おい》ては旋風《せんぷう》に襲《おそ》はれさうな場處《ばしよ》を避《さ》けること。
 大火災《だいかさい》のときは、地震《ぢしん》とは無關係《むかんけい》に、旋風《せんぷう》が起《おこ》り勝《が》ちである。火先《ひさき》が凹《なかくぼ》の正面《しようめん》を以《もつ》て前進《ぜんしん》するとき、其《その》曲《まが》り角《かど》には塵旋風《ちりせんぷう》と名《な》づくべきものが起《おこ》る。又《また》川筋《かはすぢ》に接《せつ》した廣場《ひろば》は移動《いどう》旋風《せんぷう》によつて襲《おそ》はれ易《やす》い。明暦《めいれき》大火《たいか》の際《さい》、濱町《はまちよう》河岸《がし》の本願寺《ほんがんじ》境内《けいだい》に於《おい》て、又《また》關東《かんとう》大地震《だいぢしん》東京《とうきよう》大火災《だいかさい》の際《さい》、本所《ほんじよ》被服廠《ひふくしよう》跡《あと》に於《おい》て、旋風《せんぷう》のために、死人《しにん》の集團《しゆうだん》が出來《でき》たことはよく知《し》られた悲慘事《ひさんじ》であつた。

    一〇、餘震《よしん》に對《たい》する處置《しよち》

 昔《むかし》の人《ひと》の恐《おそ》れてゐた大地震《だいぢしん》の搖《ゆ》り戻《もど》しは、最初《さいしよ》の大地震《だいぢしん》の主要部《しゆようぶ》の意味《いみ》であつて、今日《こんにち》の所謂《いはゆる》餘震《よしん》を指《さ》すものでないことは前《まへ》に辯《べん》じた通《とほ》りである。然《しか》るに後世《こうせい》の人《ひと》、これを餘震《よしん》と混同《こんどう》し、隨《したが》つて餘震《よしん》までも恐怖《きようふ》するに至《いた》つたのは災害《さいがい》防止上《ぼうしじよう》遺憾《いかん》の次第《しだい》であつた。
 餘震《よしん》を恐怖《きようふ》せるため、消防《しようぼう》に十分《じゆうぶん》の實力《じつりよく》を發揮《はつき》することが出來《でき》なかつたとは、屡《しば/\》專門《せんもん》の消防手《しようぼうしゆ》から聞《き》く述懷《じつかい》であるが、著者《ちよしや》は此種《このしゆ》の人士《じんし》が餘震《よしん》を誤解《ごかい》してゐるのを、最《もつと》も遺憾《いかん》に思《おも》ふものである。
 統計《とうけい》によれば、餘震《よしん》のときの震動《しんどう》の大《おほ》いさは、最初《さいしよ》の大地震《だいぢしん》のものに比較《ひかく》して、其《その》三分《さんぶん》の一《いち》といふ程《ほど》のものが、最大《さいだい》の記録《きろく》である。隨《したが》つて破壞力《はかいりよく》からいへば、餘震《よしん》の最大《さいだい》なるものも最初《さいしよ》の大地震《だいぢしん》の九分《くぶん》の一《いち》以下《いか》であるといふことになる。ざっと十分《じゆうぶん》の一《いち》と見《み》てよいであらう。其故《それゆゑ》に、單《たん》に統計《とうけい》の上《うへ》から考《かんが》へても、餘震《よしん》は恐《おそ》れる程《ほど》のものでないことが了解《りようかい》せられるであらう。唯《たゞ》大地震《だいぢしん》直後《ちよくご》はそれが頗《すこぶ》る頻々《ひんぴん》に起《おこ》り、しかも間々《まゝ》膽《きも》を冷《ひや》す程《ほど》のものも來《く》るから、氣味惡《きみわる》くないとはいひ難《にく》いことであるけれども。
 大地震後《だいぢしんご》、餘震《よしん》を餘《あま》りに恐怖《きようふ》するため、安全《あんぜん》な家屋《かおく》を見捨《みす》てゝ、幾日《いくにち》も/\野宿《のじゆく》することは、震災地《しんさいち》に於《お》ける一般《いつぱん》の状態《じようたい》である。もし其《その》野宿《のじゆく》が何《なに》かの練習《れんしゆう》として效能《こうのう》が認《みと》められてのことならば、それも結構《けつこう》であるけれども、病人《びようにん》までも其《その》仲間《なかま》に入《い》れるか、又《また》は病氣《びようき》を惹《ひ》き起《おこ》してまでもこれを施行《しこう》するに於《おい》ては、愚《ぐ》の骨頂《こつちよう》といはなければならぬ。大地震《だいぢしん》によりて損傷《そんしよう》した家屋《かおく》の中《なか》には崩壞《ほうかい》の縁《ふち》に近寄《ちかよ》り、きはどい所《ところ》で喰止《くひと》めたものもあらう。さういふものは、地震《ぢしん》ならずとも、或《あるひ》は風《かぜ》、或《あるひ》は雨《あめ》によつて崩壞《ほうかい》することもあるであらう。又《また》洋風《ようふう》建築物《けんちくぶつ》にては墜落《ついらく》しかけた材料《ざいりよう》も能《よ》く氣附《きづ》かれる。さういふ建築物《けんちくぶつ》には近寄《ちかよ》らぬをよしとしても、普通《ふつう》の木造《もくぞう》家屋《かおく》特《とく》に平屋建《ひらやだて》にあつては、屋根瓦《やねがはら》や土壁《つちかべ》を落《おと》し、或《あるひ》は少《すこ》し許《ばか》りの傾斜《けいしや》をなしても、餘震《よしん》に對《たい》しては安全《あんぜん》と見做《みな》して差支《さしつか》へないものと認《みと》める。實《じつ》に木造《もくぞう》家屋《かおく》が單《たん》に屋根瓦《やねがはら》と土壁《つちかべ》とを取除《とりのぞ》かれただけならば、これあるときに比較《ひかく》して耐震《たいしん》價値《かち》を増《ま》したといへる。何《なん》となれば、これ等《ら》の材料《ざいりよう》は家屋《かおく》各部《かくぶ》の結束《けつそく》に無能力《むのうりよく》なるが上《うへ》に、地震《ぢしん》のとき、自分《じぶん》の惰性《だせい》を以《もつ》て家屋《かおく》が地面《ぢめん》と一緒《いつしよ》に動《うご》くことに反對《はんたい》するからである。又《また》家屋《かおく》の少《すこ》し許《ばか》りの傾斜《けいしや》は、其《その》耐震《たいしん》價値《かち》を傷《きづ》つけてゐない場合《ばあひ》が多《おほ》い。一體《いつたい》家屋《かおく》が新《あたら》しい間《あひだ》は柱《はしら》と横木《よこぎ》との間《あひだ》を締《し》めつけてゐる楔《くさび》が能《よ》く利《き》いてゐるけれども、それが段々《だん/″\》古《ふる》くなつて來《く》ると、次第《しだい》に緩《ゆる》みが出《で》て來《く》る。これは木材《もくざい》が乾燥《かんそう》するのと、表面《ひようめん》から次第《しだい》に腐蝕《ふしよく》して來《く》るとに由《よ》るのである。それで大地震《だいぢしん》に出會《であ》つて容易《ようい》に幾《いく》らかの傾斜《けいしや》をなしても、それがために楔《くさび》が始《はじ》めて利《き》き出《だ》して來《く》ることになり。[#句点は底本のまま]其《その》位置《いち》に於《おい》て構造物《こうぞうぶつ》の一層《いつそう》傾《かたむ》かんとするのに頑強《がんきよう》に抵抗《ていこう》するにあるのである。恰《あだか》も相撲《すまふ》のとき、土俵《どひよう》の中央《ちゆうおう》からずる/\と押《お》された力士《りきし》が、劍《つるぎ》の峯《みね》に蹈《ふ》み耐《こら》へる場合《ばあひ》のようである。かしうて[#「かしうて」は底本のまま]最初《さいしよ》の大地震《だいぢしん》に蹈《ふ》み耐《こら》へる家屋《かおく》が、其後《そのご》、三分《さんぶん》の一《いち》以下《いか》の地震力《ぢしんりよく》によつて押《お》し切《き》られることはないはずである。
 著者《ちよしや》は關東《かんとう》大地震《だいぢしん》の調査《ちようさ》日記《につき》に於《おい》て、大地震後《だいぢしんご》家族《かぞく》と共《とも》に自宅《じたく》に安眠《あんみん》し、一回《いつかい》も野宿《のじゆく》しなかつたことを記《しる》した。又《また》但馬《たじま》大地震《だいぢしん》の調査《ちようさ》日記《につき》には、震原地《しんげんち》の殆《ほと》んど直上《ちよくじよう》たる瀬戸《せと》の港西《こうさい》小學校《しようがくこう》に一泊《いつぱく》したことを記《しる》した。此《この》校舍《こうしや》は木造《もくぞう》二階建《にかいだて》であつたが、地震《ぢしん》のために中央部《ちゆうおうぶ》が階下《かいか》まで崩壞《ほうかい》し、可憐《かれん》な兒童《じどう》を二名《にめい》程《ほど》壓殺《あつさつ》したのであつた。然《しか》し家屋《かおく》の兩翼《りようよく》は少《すこ》しく傾《かたむ》きながら、潰《つぶ》れずに殘《のこ》つてゐたので、これを檢査《けんさ》して見《み》ると、餘震《よしん》には安全《あんぜん》であらうと想像《そう/″\》されたから、山崎《やまざき》博士《はかせ》を初《はじ》め一行《いつこう》四人《よにん》は其家《そのいへ》の樓上《ろうじよう》に一泊《いつぱく》した。其夜《そのよ》大雨《たいう》が降《ふ》り出《だ》したので、これ迄《まで》野營《やえい》を續《つゞ》けてゐた附近《ふきん》の被害民《ひがいみん》は、皆《みな》此《こ》の潰《つぶ》れ殘《のこ》りの家《いへ》に集《あつ》まつて來《き》て餘《あま》り大勢《おほぜい》でありし爲《ため》、混雜《こんざつ》はしたけれども、皆《みな》口々《くち/″\》に、安《やす》らかな一夜《いちや》を過《す》ごしたことを談《かた》り合《あ》つてゐた。

[#ここから2字下げ、地から2地上げ]
 昭和《しようわ》二年《にねん》十月《じゆうがつ》、プラーグに於《お》ける地震《ぢしん》學科《がくか》の國際《こくさい》會議《かいぎ》へ出席《しゆつせき》した歸《かへ》り途《みち》、大活動《だいかつどう》に瀕《ひん》せるヴエスヴイオを訪《と》ひナポリから郵船《ゆうせん》筥崎丸《はこざきまる》に便乘《びんじよう》し、十三日《じゆうさんにち》アデン沖《おき》を通過《つうか》する頃《ころ》本稿《ほんこう》を記《しる》し、同《おな》じく二十九日《にじゆうくにち》安南沖《あんなんおき》を過《す》ぐる頃《ころ》、稿《こう》終《をは》る。   著者 誌す
[#ここで字下げ終わり]

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【テキスト中、置きかえた漢字】

[第3水準1-89-3]→ 研
[第3水準1-14-48]→ 免
[第3水準1-86-35]→ 歩
[第3水準1-89-29]→ 祥
[第3水準1-86-16]→ 横
[第3水準1-89-49]→ 突
[第3水準1-14-81]→ 即
[第3水準1-93-21]→ 録
[第3水準1-47-65]→ 層
[第3水準1-87-74]→ 状
[第3水準1-15-61]→ 増
[第3水準1-89-68]→ 節
[第3水準1-86-73]→ 海
[第3水準1-91-89]→ 視
[第3水準1-90-13]→ 縁
[第3水準1-84-89]→ 掴
[第3水準1-15-56]→ 填
[第3水準1-84-36]→ 徴
[第3水準1-93-67]→ 難
[第3水準1-89-19]→ 社
[第3水準1-86-42]→ 毎
[第3水準1-92-76]→ 郷
[第3水準1-47-64]→ 屡
[第3水準1-86-4]→ 概
[第3水準1-85-8]→ 敏
[第3水準1-14-72]→ 勤
[第3水準1-89-73]→ 箪
[第3水準1-85-2]→ 撃
[第3水準1-89-25]→ 祖
[第3水準1-15-26]→ 噛
[第3水準1-87-49]→ 焔
-----------------------------------

底本:『星と雲・火山と地震』復刻版 日本兒童文庫、名著普及会
   1982(昭和57)年6月20日 発行
親本:『星と雲・火山と地震』日本兒童文庫、アルス
   1930(昭和5)年2月15日 発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日公開
青空文庫作成ファイル:
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*地名

(地名を冠した自然現象などを含む)

[三陸] さんりく (1) 陸前・陸中・陸奥の総称。(2) 三陸地方の略。東北地方北東部、北上高地の東側の地域。
三陸大津波 さんりく おおつなみ 津波の常襲地の三陸地方沿岸で、過去100年間に起こったもののうち最大規模の1896年(明治29)6月15日(明治三陸地震津波)および1933年(昭和8)3月3日(昭和三陸地震津波)の津波を指す。
三陸沖地震 さんりくおき じしん 三陸沖に起こる巨大地震。震源は日本海溝付近にあるため、地震動による被害は少ないが、リアス海岸になっているため津波の被害が大きい。1896年には3万人近い死者、1933年には3000人以上の死者を出した。
[安房国] あわのくに 旧国名。今の千葉県の南部。房州。
北条町 ほうじょうまち 1933年4月18日まで千葉県安房郡に存在した町(現・館山市、旧:館山北条町)。
[東京都]
本郷 ほんごう 東京都文京区の一地区。もと東京市35区の一つ。山の手住宅地。東京大学がある。
湯島 ゆしま 東京都文京区東端の地区。江戸時代から、孔子を祀った聖堂や湯島天神がある。
東京会館 とうきょうかいかん 株式会社東京會舘。宴会場、結婚式場、レストランを経営する会社である。贈答用の洋菓子や料理缶詰の販売も手がけている。1920年(大正9年)4月24日に設立され、1922年(大正11年)11月1日竣工。フランス料理のレストランと宴会場を持った。本社でもある丸の内本館は、東京都千代田区丸の内の皇居近くにある。
浦賀海峡 → 浦賀水道か
浦賀水道 うらが すいどう 東京湾の入口、三浦半島と房総半島との間の海峡。幅約7キロメートル。
丸の内ビルディング まるのうち- 東京駅にほど近い東京都千代田区丸の内二丁目に所在する、三菱地所保有のオフィスビル。通称丸ビル。大阪駅前にもマルビルというビルがあることが知られているが、これは建物の形が円筒形であることから来ており、両者の関連性はない。
丸の内 まるのうち (2) 東京都千代田区、皇居の東方一帯の地。もと、内堀と外堀に挟まれ、大名屋敷のち陸軍練兵場があったが、東京駅建築後は丸ビル・新丸ビルなどが建設され、ビジネス街となった。
浜町河岸 はまちょう がし 江戸、隅田川の両国橋から永代橋に至る間の右岸の河岸。明治以後は、特に東京都中央区日本橋浜町の河岸。
本願寺 → 本願寺築地別院か
本願寺築地別院 ほんがんじ つきじ べついん 東京都中央区築地にある浄土真宗本願寺派の寺。もと浅草浜町(日本橋浜町)にあり、江戸海辺坊舎・浜町御坊と称した。明暦の大火(1657)後、現在地に移る。
本所 ほんじょ 東京都墨田区の一地区。もと東京市35区の一つ。隅田川東岸の低地。商工業地域。
被服廠跡 ひふくしょう あと 東京都墨田区横網二丁目にある旧日本陸軍被服廠本廠の跡地。大正12年(1923)の関東大震災のさいに、ここに避難した約4万人の罹災民が焼死した。現在、東京都慰霊堂および復興記念館が建てられている。
[神奈川県]
相模湾 さがみわん 神奈川県三浦半島南端の城ヶ島と真鶴岬とを結ぶ線から北側の海域。相模川、境川、酒匂川が流入。ブリ・アジ・サバなどの好漁場。
横須賀 よこすか 神奈川県南東部の市。三浦半島の東岸、東京湾の入口に位置する。元軍港で、鎮守府・東京湾要塞司令部・造船所などがあった。現在、米海軍・自衛隊の基地、自動車工場がある。人口42万6千。
鎌倉 かまくら 神奈川県南東部の市。横浜市の南に隣接。鎌倉幕府跡・源頼朝屋敷址・鎌倉宮・鶴岡八幡宮・建長寺・円覚寺・長谷の大仏・長谷観音などの史跡・社寺に富む。風致にすぐれ、京浜の住宅地。人口17万1千。
小田原 おだわら 神奈川県南西部の市。古来箱根越え東麓の要駅。戦国時代は北条氏の本拠地として栄えた。もと大久保氏11万石の城下町。かまぼこなどの水産加工、木工業が盛ん。人口19万9千。
[静岡県]
熱海 あたみ 静岡県伊豆半島の北東隅、相模湾に面する市。観光・保養都市。全国有数の温泉場(塩化物泉・硫酸塩泉など)。人口4万1千。
伊東 いとう 静岡県伊豆半島東岸の市。温泉を中心とする観光・保養地。人口7万2千。
伊豆山 いづさん → 伊豆山神社
伊豆山神社 いずさん じんじゃ 静岡県熱海市伊豆山にある元国幣小社。祭神は伊豆山神。源頼朝以来武家が尊信。伊豆山権現。走湯権現。
根府川 ねぶかわ 神奈川県小田原市南部の地名。箱根外輪山の斜面にあり、相模湾に面する。ミカンの栽培で知られる。根府川石を産出。根符川。
衛戍病院 えいじゅ びょういん 各衛戍地に置かれた陸軍の病院。
魚見崎 うおみざき
[愛知県]
瀬戸 せと 愛知県北西部の市。付近の丘陵に陶土を産し、燃料の黒松が多いので、陶祖加藤景正以来瀬戸焼の名を全国に馳せた。日本最大の陶磁器工業地として陶都の称がある。人口13万2千。
港西小学校 こうさい -
[滋賀県]
姉川 あねがわ 滋賀県東浅井郡を流れる川。伊吹山に発源、琵琶湖に注ぐ。1570年(元亀1)織田信長が浅井長政・朝倉義景を破った古戦場。
姉川地震 あねがわ じしん 1909年(明治42年)8月14日、滋賀県北東部の姉川付近を震源として発生した地震。滋賀県から福井県にかけて、北北西方向にのびる柳ヶ瀬断層が活動したと考えられている。M6.8。現在の滋賀県東浅井郡虎姫町で最大の震度6、滋賀県内全域で震度5〜4を記録した。東北地方南部から九州地方の一部にかけての広い範囲で有感地震が観測され、被害は滋賀県と岐阜県に及んだ。そのため、「江濃地震」とも呼ばれる。
田根 たね 田根村。現、滋賀県東浅井郡浅井町。古代の田根郷は現町域の中部。明治22年(1889)の町村制施行によって田根村が成立。昭和29年(1954)五か村が合併して浅井町が成立。
[兵庫県]
豊岡 とよおか 兵庫県北部の市。もと京極氏3万石の城下町。かつては柳行李・柳籠、今はスーツケースなどの生産が盛ん。人口8万9千。
豊岡町 とよおかまち 兵庫県城崎郡豊岡町(とよおかちょう、現・豊岡市)。
城崎 きのさき 兵庫県の北東部の郡。円山川・矢田川の流域にあり、日本海に面する。明治29年(1896)気多・美含両郡を併合。
城崎町 きのさきちょう かつて兵庫県北東部に存在した町。旧城崎郡。2005年4月1日、豊岡市、城崎郡竹野町・日高町、出石郡出石町・但東町と対等合併して新「豊岡市」となったため消滅した。
田結村 たいむら 現在の兵庫県豊岡市田結。北は日本海に面する。豊岡市は県北但馬地方の北東部。豊岡盆地を中心市域とする。大正14年(1925)、港村田結沖を震源地とする北但馬大震災が発生。
[中国]
浙江 せっこう (Zhejiang) (1) 中国南東部、東シナ海に面する省。長江下流の南を占め、銭塘江によって東西に分かれる。古くから商工業が盛ん。別称、浙・越。省都は杭州。面積約10万平方キロメートル。(2) 銭塘江の別称。
銭塘江 せんとうこう (Qiantang Jiang)中国、浙江省の北西部を流れる大河。浙江・江西両省の境の仙霞嶺山脈に発源し、杭州湾に注ぐ。河口の三角江には、定時に海嘯があり壮観。浙江。
[ポルトガル]
リスボン Lisbon ポルトガル共和国の首都。タホ川河口の港湾都市。1256年コインブラより遷都。旧王宮・美術博物館などがある。人口53万5千(2004)。ポルトガル語名リジュボア。
リスボン地震 - じしん 1531年と1755年に発生した、ポルトガルのリスボン付近を震源とする地震の名称。「リスボン大地震」というと、1755年の地震を指す場合が多い。
[ジャマイカ]
ジャマイカ地震 1692年。
西インド諸島 にし インド しょとう West Indies 南北アメリカ大陸に挟まれたカリブ海域にある群島。アメリカ合衆国のフロリダ半島南端、および、メキシコのユカタン半島東端から、ベネズエラの北西部沿岸にかけて、少なくとも7000の島、小島、岩礁、珊瑚礁がカーブを描くようにして連なる。これらの島々が、大西洋と、メキシコ湾、カリブ海の境界線を形成している。
ジャマイカ島 Jamaica カリブ海、大アンティル諸島の国。1494年コロンブスが来航。1962年イギリスから独立。住民の大半はアフリカ系。面積1万1000平方キロメートル。人口262万(2004)。首都キングストン。
ロワイヤル港 → ポート・ロイヤルか
ポート・ロイヤル 17世紀のジャマイカの海運業の中心地。当時は「世界で最も豊かで最もひどい町」の両方の名声を得た。バッカニア(海賊)たちが奪った宝物を持って来て、消費することで有名な場所だった。17世紀、英国は海賊を奨励し、ポート・ロイヤルを海賊の拠点として、スペイン船やフランス船を攻撃していた。
スコットランド Scotland イギリス、グレート‐ブリテン島北部の地方。古くはカレドニアと称。1707年イングランドと合併。中心都市エディンバラ。
スカンジナビア Scandinavia 北ヨーロッパの半島。長さ約1800キロメートル、幅最大約800キロメートル。フィンランドの北西端から南西に延びて、バルト海・ボスニア湾と大西洋との間に横たわり、東部はスウェーデン、西部はノルウェー。両国国境にスカンディナヴィア山脈が走り、海岸にフィヨルド(峡湾)が多い。
[モロッコ] Morocco アフリカ北西端の王国。1956年フランス領モロッコが独立、スペイン領モロッコをも併合。大部分がアトラス山脈などの高原国。住民の大多数はイスラム教徒のアラブ人・ベルベル人。面積45万平方キロメートル。人口3054万(2004)。首都ラバト。
ベスンバ種族 - しゅぞく
[イエメン]
アデン Aden アラビア半島南西端、イエメンの港湾都市。紅海の入口にあり、古来、地中海とインド洋とを結ぶ航路上の要地。人口39万8千(1994)。
[チェコ]
プラーグ → プラハ
プラハ Praha チェコ共和国の首都。ヴルタヴァ川に沿い、ボヘミア盆地の中心に位置する交通・文化の中心地。自動車・織物・化学工業が行われ、ガラス工芸品も有名。中世の面影を色濃く残す歴史地区は世界遺産。人口116万6千(2004)。英語名プラーグ。
[イタリア]
カラブリア Calabria イタリア南部の州。ナポリの南、イタリア半島の先端に位置する。州都はカタンザーロ。
ナポリ Napoli イタリア南部の都市。ナポリ湾に臨み、ローマの南東約220キロメートル。古代ギリシア・ローマ以来栄え、1282年以後ナポリ王国を形成、ルネサンス文化の一中心。南東方にヴェスヴィオ火山がそびえ、風光明媚。カーポディモンテの王宮や古城などがある。人口99万8千(2004)。英語名ネープルズ。
ヴェスヴィオ Vesuvio イタリア南部の活火山。ナポリ湾の東側、ナポリの南東16キロメートルにある。標高1281メートル。二重式火山で、古来しばしば大噴火をなし、西暦79年8月ポンペイ・ヘルクラネウムを噴出物で埋めた。英語名ヴェスヴィアス。
[チリ]
チリ地震 1835年。
筥崎丸 はこざきまる 郵船。
[ベトナム]
アンナン Annam・安南 中国人・フランス人などがかつてベトナムを呼んだ称。また、ベトナム人がこの地に建てた国家をもいう。唐がこの地に設けた安南都護府に由来。狭義には、北のトンキン、南のコーチシナとともに旧仏領インドシナの一行政区画の称。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『日本歴史地名大系』(平凡社)、『コンサイス外国地名事典』第三版(三省堂、1998.4)。




*年表


一六五七(明暦三)一月一八〜二〇日 明暦の大火。江戸城本丸をはじめ市街の大部分を焼き払う。焼失町数400町。死者10万人余。本郷丸山町の本妙寺で施餓鬼に焼いた振袖が空中に舞い上がったのが原因といわれ、俗に振袖火事と称した。
一六九二年六月七日 西インド諸島、ジャマイカ地震。首府ロワイヤル港においては大地に数百条の亀裂。人畜のみこまれる。市街地の大部は沈下して海となる。死人は首府総人口の三分の二を占める。
一七五五年十一月一日 リスボン地震。感震区域は長径五百里にわたる。スコットランド、スカンジナビア辺における湖水氾濫。リスボンには津波襲来し死者六万人。震源は大西洋底か。モロッコの一部落で大地開閉。論文集『一七五五年十一月一日のリスボン大地震』刊行。
一七八三 イタリア、カラブリアにて大地震。死者四万。続いておこった疫病による死者二万。
一八三五 南米チリ地震。
一八五五(安政元)一一月四日および同五日 東海道・南海道大地震。
一八九一(明治二四) 濃尾大地震。
一八九四(明治二七)六月二〇日 東京地震。今村明恒、本郷湯島において、木造二階建ての階上で経験。
一八九六(明治二九)六月一五日 三陸大津波。
一九〇九(明治四二)八月一四日 姉川大地震において田根小学校倒壊。
一九二二(大正一一)四月二六日 浦賀海峡地震。丸の内ビルディング損傷。
一九二三(大正一二)九月一日 関東大地震。東京会館に被害。千葉県北条小学校の校庭で小規模の地割れ。今村明恒、ふた月の後に見学。東京における大火災の火元は一五〇か所ほど。そのうち化学薬品によるものは四十四か所。三十一か所は消し止められたけれども、十三か所は大事をひきおこす。
一九二五(大正一四)五月二三日 但馬地震。震源地の田結村は全村八十三戸中八十二戸つぶれ、六十五名の村民が潰家の下敷。五十八名は無事に助け出された。豊岡町においては三か所で火災。いったん鎮火後、全町二一〇〇戸のうち、三分の二を全焼の大火災おこる。
一九二七(昭和二) 丹後地震。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)

今村明恒 いまむら あきつね 1870-1948 地震学者。理学博士。鹿児島県生まれ。明治38年、統計上の見地から関東地方に大地震が起こりうると説き、大森房吉との間に大論争が起こった。大正12年、東大教授に就任。翌年、地震学科の設立とともに主任となる。昭和4年、地震学会を創設、その会長となり、機関誌『地震』の編集主任を兼ね、18年間その任にあたる(人名)。
藤田東湖 ふじた とうこ 1806-1855 幕末の儒学者。名は彪(たけし)。幽谷の子。水戸藩士。藩主徳川斉昭を補佐して、天保の改革を推進し、側用人となる。交友範囲も広く、激烈な尊攘論者として知られる。安政の江戸大地震に母を助けて自分は圧死。著「回天詩史」「弘道館記述義」など。
茂籠伝一郎 もかご でんいちろう 山田小学校二年生、九歳。
糸井重幸 いとい しげゆき 島津小学校四年生。十一歳。
山崎博士 やまざき


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『日本人名大事典』(平凡社)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)

『一七五五年十一月一日のリスボン大地震』


◇参照:Wikipedia。



*難字、求めよ


通し柱 とおしばしら 2階以上の建物で、土台から軒桁まで、継ぎ足しせず1本で通っている柱。←→管柱(くだばしら)。
大神楽造り だいかぐら づくり
家扶 かふ (1) 親王家・王家で、家令をたすけ家務・会計をつかさどった判任官。(2) 華族の家務・会計をつかさどった者。家令の次席。
山骨 さんこつ 山の土砂が崩れて岩石が露出したもの。
卑湿 ひしゅう/ひしつ 土地が低くて湿気のあること。また、その土地。
掃立 はきたて 養蚕で、孵化した毛蚕を、蚕卵紙から羽箒で掃きおろし蚕座へ移すこと。/本来は一年に一回、桑の芽吹く春におこなわれた作業で、春の季語となっている。
壮丁 そうてい (1) 壮年の男子。血気さかんな男子。成年に達した男子。わかもの。(2) 夫役または軍役にあたる壮年の男子。
セルロイド celluloid ニトロセルロースに樟脳をまぜて製した半透明のプラスチック。セ氏90度で柔軟となり、冷却すれば硬くなる。燃えやすい。玩具・フィルム・文房具・装身具などに用いられた。最近ではアセチルセルロース系のプラスチックを多く用い、これを不燃セルロイドと称する。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 本文中、イタリア・カラブリアは「長靴の形にたとえられたイタリアの足の中央部」とあるが、イタリア半島の先端部(つまさきの部分)のかんちがいではなかろうか。

 『別冊 Newton 連動して発生する巨大地震』(ニュートンプレス、2008.1)読了。
 アスペリティ(固着域)……ここが一気にずれ動くことで地震が発生する(p.19)。七日深夜の地震直後、「円を描くように横揺れした」という震源近くのコメントを複数聞く。アスペリティ周囲が円を描くようにしてはがれた、ということか。海岸段丘・浜提は、地震による隆起のさいに形成(p.48)。海進・海退によるものかと想像していたのだが認識ちがいらしい。今村明恒のことばを引用してある。「天災は忘れたころにくると言われている。しかし忘れないだけで天災は防げるものでもなく、さけられるものでもない。要は、これを防備することである」(p.67)。

 尾池和夫『新版 活動期に入った地震列島』(岩波科学ライブラリー、2007.12)読了。
 地震の前兆現象についていくつかの示唆がある。温泉の水温が約1か月前から平均して0.1〜0.3度下がり、地震発生まで下がったまま(p.83)。阪神淡路大地震の10時間ほど前に、M3.3 の明石海峡に前震。立ち上がりがゆっくりとした変化で始まっており、前震を出発点として、直後に大地震となる震源破壊面が成長するという可能性(p.117)。
 今回、山形県内の温泉で震災後、源泉が自噴せずポンプくみ上げで営業を再開した事例がある。報道記事を読むかぎりパイプ破損が原因ではなく、湧出量の顕著な変化とみられる。
 太平洋海岸線が広域にわたって沈下。研究者によっては、これから数か月〜数年のあいだに再び隆起する可能性を指摘している(読売新聞、4.4、p.22)。真偽は不明。むしろ地震直前(1か月〜1週間レベル)で当地域の急激な地盤隆起があったのではなかろうかと推測するが、今のところ、そういう報道・調査は見ない。




*次週予告


第三巻 第三七号 
津浪と人間/天災と国防/災難雑考 寺田寅彦


第三巻 第三七号は、
四月九日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第三巻 第三六号
地震の話(二) 今村明恒
発行:二〇一一年四月二日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



T-Time マガジン 週刊ミルクティー*99 出版

第二巻

第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン 月末最終号:無料
第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン 定価:200円
第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 定価:200円
第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 定価:200円
第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 定価:200円
第六号 新羅人の武士的精神について 池内宏 月末最終号:無料
第七号 新羅の花郎について 池内宏 定価:200円
第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉 定価:200円
第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治 定価:200円
第十号 風の又三郎 宮沢賢治 月末最終号:無料
第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎 定価:200円
第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎 定価:200円
第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎 定価:200円
第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎 定価:200円
第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル 定価:200円
第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル 定価:200円
第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル 月末最終号:無料
第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル 定価:200円
第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉 定価:200円
第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉 定価:200円
第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太 月末最終号:無料
第二四号 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫 定価:200円
第二五号 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉 定価:200円
第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎 定価:200円
第二七号 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治 定価:200円
第二八号 翁の発生/鬼の話 折口信夫  月末最終号:無料
第二九号 生物の歴史(一)石川千代松  定価:200円
第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松  定価:200円
第三一号 生物の歴史(三)石川千代松  定価:200円
第三二号 生物の歴史(四)石川千代松  月末最終号:無料
第三三号 特集 ひなまつり  定価:200円  雛 芥川龍之介
 雛がたり 泉鏡花
 ひなまつりの話 折口信夫

第三四号 特集 ひなまつり  定価:200円  人形の話 折口信夫
 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫

第三五号 右大臣実朝(一)太宰治  定価:200円
第三六号 右大臣実朝(二)太宰治 月末最終号:無料
第三七号 右大臣実朝(三)太宰治 定価:200円
第三八号 清河八郎(一)大川周明 定価:200円
第三九号 清河八郎(二)大川周明  定価:200円
第四〇号 清河八郎(三)大川周明  月末最終号:無料
第四一号 清河八郎(四)大川周明  定価:200円
第四二号 清河八郎(五)大川周明  定価:200円
第四三号 清河八郎(六)大川周明  定価:200円
第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉  定価:200円
第四五号 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉  月末最終号:無料
第四六号 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉  定価:200円
第四七号 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉  定価:200円
第四八号 若草物語(一)L. M. オルコット  定価:200円
第四九号 若草物語(二)L. M. オルコット  月末最終号:無料
第五〇号 若草物語(三)L. M. オルコット  定価:200円
第五一号 若草物語(四)L. M. オルコット  定価:200円
第五二号 若草物語(五)L. M. オルコット  定価:200円
第五三号 二人の女歌人/東北の家 片山広子  定価:200円
第三巻 第一号 星と空の話(一)山本一清  月末最終号:無料
  一、星座(せいざ)の星
  二、月(つき)
(略)殊にこの「ベガ」は、わが日本や支那では「七夕」の祭りにちなむ「織(お)り女(ひめ)」ですから、誰でも皆、幼い時からおなじみの星です。「七夕」の祭りとは、毎年旧暦七月七日の夜に「織り女」と「牽牛(ひこぼし)〔彦星〕」とが「天の川」を渡って会合するという伝説の祭りですが、その「天の川」は「こと」星座のすぐ東側を南北に流れていますし、また、「牽牛」は「天の川」の向かい岸(東岸)に白く輝いています。「牽牛」とその周囲の星々を、星座では「わし」の星座といい、「牽牛」を昔のアラビア人たちは、「アルタイル」と呼びました。「アルタイル」の南と北とに一つずつ小さい星が光っています。あれは「わし」の両翼を拡げている姿なのです。ところが「ベガ」の付近を見ますと、その東側に小さい星が二つ集まっています。昔の人はこれを見て、一羽の鳥が両翼をたたんで地に舞いくだる姿だと思いました。それで、「こと」をまた「舞いくだる鳥」と呼びました。

 「こと」の東隣り「天の川」の中に、「はくちょう」という星座があります。このあたりは大星や小星が非常に多くて、天が白い布のように光に満ちています。

第三巻 第二号 星と空の話(二)山本一清  定価:200円
  三、太陽
  四、日食と月食
  五、水星
  六、金星
  七、火星
  八、木星
 太陽の黒点というものは誠におもしろいものです。黒点の一つ一つは、太陽の大きさにくらべると小さい点々のように見えますが、じつはみな、いずれもなかなか大きいものであって、(略)最も大きいのは地球の十倍以上のものがときどき現われます。そして同じ黒点を毎日見ていますと、毎日すこしずつ西の方へ流れていって、ついに太陽の西の端(はし)でかくれてしまいますが、二週間ばかりすると、こんどは東の端から現われてきます。こんなにして、黒点の位置が規則正しく変わるのは、太陽全体が、黒点を乗せたまま、自転しているからなのです。太陽は、こうして、約二十五日間に一回、自転をします。(略)
 太陽の黒点からは、あらゆる気体の熱風とともに、いろいろなものを四方へ散らしますが、そのうちで最も強く地球に影響をあたえるものは電子が放射されることです。あらゆる電流の原因である電子が太陽黒点から放射されて、わが地球に達しますと、地球では、北極や南極付近に、美しいオーロラ(極光(きょっこう))が現われたり、「磁気嵐(じきあらし)」といって、磁石の針が狂い出して盛んに左右にふれたりします。また、この太陽黒点からやってくる電波や熱波や電子などのために、地球上では、気温や気圧の変動がおこったり、天気が狂ったりすることもあります。(略)
 太陽の表面に、いつも同じ黒点が長い間見えているのではありません。一つ一つの黒点はずいぶん短命なものです。なかには一日か二日ぐらいで消えるのがありますし、普通のものは一、二週間ぐらいの寿命のものです。特に大きいものは二、三か月も、七、八か月も長く見えるのがありますけれど、一年以上長く見えるということはほとんどありません。
 しかし、黒点は、一つのものがまったく消えない前に、他の黒点が二つも三つも現われてきたりして、ついには一時に三十も四十も、たくさんの黒点が同じ太陽面に見えることがあります。
 こうした黒点の数は、毎年、毎日、まったく無茶苦茶というわけではありません。だいたいにおいて十一年ごとに増したり減ったりします。

第三巻 第三号 星と空の話(三)山本一清  定価:200円
   九、土星
  一〇、天王星
  一一、海王星
  一二、小遊星
  一三、彗星
  一四、流星
  一五、太陽系
  一六、恒星と宇宙
 晴れた美しい夜の空を、しばらく家の外に出てながめてごらんなさい。ときどき三分間に一つか、五分間に一つぐらい星が飛ぶように見えるものがあります。あれが流星です。流星は、平常、天に輝いている多くの星のうちの一つ二つが飛ぶのだと思っている人もありますが、そうではありません。流星はみな、今までまったく見えなかった星が、急に光り出して、そしてすぐまた消えてしまうものなのです。(略)
 しかし、流星のうちには、はじめから稀(まれ)によほど形の大きいものもあります。そんなものは空気中を何百キロメートルも飛んでいるうちに、燃えつきてしまわず、熱したまま、地上まで落下してきます。これが隕石というものです。隕石のうちには、ほとんど全部が鉄のものもあります。これを隕鉄(いんてつ)といいます。(略)
 流星は一年じゅう、たいていの夜に見えますが、しかし、全体からいえば、冬や春よりは、夏や秋の夜にたくさん見えます。ことに七、八月ごろや十月、十一月ごろは、一時間に百以上も流星が飛ぶことがあります。
 八月十二、三日ごろの夜明け前、午前二時ごろ、多くの流星がペルセウス星座から四方八方へ放射的に飛びます。これらは、みな、ペルセウス星座の方向から、地球の方向へ、列を作ってぶっつかってくるものでありまして、これを「ペルセウス流星群」と呼びます。
 十一月十四、五日ごろにも、夜明け前の二時、三時ごろ、しし星座から飛び出してくるように見える一群の流星があります。これは「しし座流星群」と呼ばれます。
 この二つがもっとも有名な流星群ですが、なおこの他には、一月のはじめにカドラント流星群、四月二十日ごろに、こと座流星群、十月にはオリオン流星群などあります。

第三巻 第四号 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎  定価:200円
獅子舞雑考
  一、枯(か)れ木も山の賑(にぎ)やかし
  二、獅子舞に関する先輩の研究
  三、獅子頭に角(つの)のある理由
  四、獅子頭と狛犬(こまいぬ)との関係
  五、鹿踊(ししおど)りと獅子舞との区別は何か
  六、獅子舞は寺院から神社へ
  七、仏事にもちいた獅子舞の源流
  八、獅子舞について関心すべき点
  九、獅子頭の鼻毛と馬の尻尾(しっぽ)

穀神としての牛に関する民俗
  牛を穀神とするは世界共通の信仰
  土牛(どぎゅう)を立て寒気を送る信仰と追儺(ついな)
  わが国の家畜の分布と牛飼神の地位
  牛をもって神をまつるは、わが国の古俗
  田遊(たあそ)びの牛の役と雨乞いの牛の首

 全体、わが国の獅子舞については、従来これに関する発生、目的、変遷など、かなり詳細なる研究が発表されている。(略)喜多村翁の所説は、獅子舞は西域の亀茲(きじ)国の舞楽が、支那の文化とともに、わが国に渡来したのであるという、純乎たる輸入説である。柳田先生の所論は、わが国には古く鹿舞(ししまい)というものがあって、しかもそれが広くおこなわれていたところへ、後に支那から渡来した獅子舞が、国音の相通から付会(ふかい)したものである。その証拠には、わが国の各地において、古風を伝えているものに、角(つの)のある獅子頭があり、これに加うるのに鹿を歌ったものを、獅子舞にもちいているという、いわば固有説とも見るべき考証である。さらに小寺氏の観察は、だいたいにおいて柳田先生の固有説をうけ、別にこれに対して、わが国の鹿舞の起こったのは、トーテム崇拝に由来するのであると、付け加えている。
 そこで、今度は管見を記すべき順序となったが、これは私も小寺氏と同じく、柳田先生のご説をそのまま拝借する者であって、べつだんに奇説も異論も有しているわけではない。ただ、しいて言えば、わが国の鹿舞と支那からきた獅子舞とは、その目的において全然別個のものがあったという点が、相違しているのである。ことに小寺氏のトーテム説にいたっては、あれだけの研究では、にわかに左袒(さたん)することのできぬのはもちろんである。

 こういうと、なんだか柳田先生のご説に、反対するように聞こえるが、角(つの)の有無をもって鹿と獅子の区別をすることは、再考の余地があるように思われる。

第三巻 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉  月末最終号:無料
鹿踊りのはじまり 宮沢賢治
奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  一 緒言
  二 シシ踊りは鹿踊り
  三 伊予宇和島地方の鹿の子踊り
  四 アイヌのクマ祭りと捕獲物供養
  五 付記

 奥羽地方には各地にシシ踊りと呼ばるる一種の民間舞踊がある。地方によって多少の相違はあるが、だいたいにおいて獅子頭を頭につけた青年が、数人立ちまじって古めかしい歌謡を歌いつつ、太鼓の音に和して勇壮なる舞踊を演ずるという点において一致している。したがって普通には獅子舞あるいは越後獅子などのたぐいで、獅子奮迅・踊躍の状を表象したものとして解せられているが、奇態なことにはその旧仙台領地方におこなわるるものが、その獅子頭に鹿の角(つの)を有し、他の地方のものにも、またそれぞれ短い二本の角がはえているのである。
 楽舞用具の一種として獅子頭のわが国に伝わったことは、すでに奈良朝のころからであった。くだって鎌倉時代以後には、民間舞踊の一つとして獅子舞の各地におこなわれたことが少なからず文献に見えている。そしてかの越後獅子のごときは、その名残りの地方的に発達・保存されたものであろう。獅子頭はいうまでもなくライオンをあらわしたもので、本来、角があってはならぬはずである。もちろんそれが理想化し、霊獣化して、彫刻家の意匠により、ことさらにそれに角を付加するということは考えられぬでもない。武蔵南多摩郡元八王子村なる諏訪神社の獅子頭は、古来、龍頭とよばれて二本の長い角が斜めにはえているので有名である。しかしながら、仙台領において特にそれが鹿の角であるということは、これを霊獣化したとだけでは解釈されない。けだし、もと鹿供養の意味からおこった一種の田楽的舞踊で、それがシシ踊りと呼ばるることからついに獅子頭とまで転訛するに至り、しかもなお原始の鹿角を保存して、今日におよんでいるものであろう。

第三巻 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝  定価:200円
魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝

倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。漢時有朝見者、今使訳所通三十国。従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千余里。始度一海千余里、至対馬国、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島、方可四百余里(略)。又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国〔一支国か〕(略)。又渡一海千余里、至末盧国(略)。東南陸行五百里、到伊都国(略)。東南至奴国百里(略)。東行至不弥国百里(略)。南至投馬国水行二十日、官曰弥弥、副曰弥弥那利、可五万余戸。南至邪馬壱国〔邪馬台国〕、女王之所都、水行十日・陸行一月、官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰奴佳�、可七万余戸。(略)其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟、佐治国、自為王以来、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、伝辞出入居処。宮室・楼観・城柵厳設、常有人持兵守衛。

第三巻 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南  定価:200円
  一、本文の選択
  二、本文の記事に関するわが邦(くに)最旧の見解
  三、旧説に対する異論
 『後漢書』『三国志』『晋書』『北史』などに出でたる倭国女王卑弥呼のことに関しては、従来、史家の考証はなはだ繁く、あるいはこれをもってわが神功皇后とし、あるいはもって筑紫の一女酋とし、紛々として帰一するところなきが如くなるも、近時においてはたいてい後説を取る者多きに似たり。(略)
 卑弥呼の記事を載せたる支那史書のうち、『晋書』『北史』のごときは、もとより『後漢書』『三国志』に拠りたること疑いなければ、これは論を費やすことをもちいざれども、『後漢書』と『三国志』との間に存する�異(きい)の点に関しては、史家の疑惑をひく者なくばあらず。『三国志』は晋代になりて、今の范曄の『後漢書』は、劉宋の代になれる晩出の書なれども、両書が同一事を記するにあたりて、『後漢書』の取れる史料が、『三国志』の所載以外におよぶこと、東夷伝中にすら一、二にして止まらざれば、その倭国伝の記事もしかる者あるにあらずやとは、史家のどうもすれば疑惑をはさみしところなりき。この疑惑を決せんことは、すなわち本文選択の第一要件なり。
 次には本文のうち、各本に字句の異同あることを考えざるべからず。『三国志』について言わんに、余はいまだ宋板本を見ざるも、元槧明修本、明南監本、乾隆殿板本、汲古閣本などを対照し、さらに『北史』『通典』『太平御覧』『冊府元亀』など、この記事を引用せる諸書を参考してその異同の少なからざるに驚きたり。その�異を決せんことは、すなわち本文選択の第二要件なり。

第三巻 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南  定価:200円
  四、本文の考証
帯方 / 旧百余国。漢時有朝見者。今使訳所通三十国。 / 到其北岸狗邪韓国 / 対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国 / 南至投馬國。水行二十日。/ 南至邪馬壹國。水行十日。陸行一月。/ 斯馬国 / 已百支国 / 伊邪国 / 郡支国 / 弥奴国 / 好古都国 / 不呼国 / 姐奴国 / 対蘇国 / 蘇奴国 / 呼邑国 / 華奴蘇奴国 / 鬼国 / 為吾国 / 鬼奴国 / 邪馬国 / 躬臣国 / 巴利国 / 支惟国 / 烏奴国 / 奴国 / 此女王境界所盡。其南有狗奴國 / 会稽東治
南至投馬國。水行二十日。  これには数説あり、本居氏は日向国児湯郡に都万神社ありて、『続日本後紀』『三代実録』『延喜式』などに見ゆ、此所にてもあらんかといえり。鶴峰氏は『和名鈔』に筑後国上妻郡、加牟豆万、下妻郡、准上とある妻なるべしといえり。ただし、その水行二十日を投馬より邪馬台に至る日程と解したるは著しき誤謬なり。黒川氏は三説をあげ、一つは鶴峰説に同じく、二つは「投」を「殺」の譌りとみて、薩摩国とし、三つは『和名鈔』、薩摩国麑島郡に都万郷ありて、声近しとし、さらに「投」を「敏」の譌りとしてミヌマと訓み、三潴郡とする説をもあげたるが、いずれも穏当ならずといえり。『国史眼』は設馬の譌りとして、すなわち薩摩なりとし、吉田氏はこれを取りて、さらに『和名鈔』の高城郡托摩郷をもあげ、菅氏は本居氏に従えり。これを要するに、みな邪馬台を筑紫に求むる先入の見に出で、「南至」といえる方向に拘束せられたり。しかれども支那の古書が方向をいう時、東と南と相兼ね、西と北と相兼ぬるは、その常例ともいうべく、またその発程のはじめ、もしくは途中のいちじるしき土地の位置などより、方向の混雑を生ずることも珍しからず。『後魏書』勿吉伝に太魯水、すなわち今の�児河より勿吉、すなわち今の松花江上流に至るによろしく東南行すべきを東北行十八日とせるがごとき、陸上におけるすらかくのごとくなれば海上の方向はなおさら誤り易かるべし。ゆえに余はこの南を東と解して投馬国を『和名鈔』の周防国佐婆郡〔佐波郡か。〕玉祖郷〈多萬乃於也〉にあてんとす。この地は玉祖宿祢の祖たる玉祖命、またの名、天明玉命、天櫛明玉命をまつれるところにして周防の一宮と称せられ、今の三田尻の海港をひかえ、内海の衝要にあたれり。その古代において、玉作を職とせる名族に拠有せられて、五万余戸の集落をなせしことも想像し得べし。日向・薩摩のごとき僻陬とも異なり、また筑後のごとく、路程の合いがたき地にもあらず、これ、余がかく定めたる理由なり。

第三巻 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南  月末最終号:無料
  四、本文の考証(つづき)
爾支 / 泄謨觚、柄渠觚、�馬觚 / 多模 / 弥弥、弥弥那利 / 伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳� / 狗古智卑狗
卑弥呼 / 難升米 / 伊声耆掖邪狗 / 都市牛利 / 載斯烏越 / 卑弥弓呼素 / 壱与
  五、結論
    付記
 次に人名を考証せんに、その主なる者はすなわち、「卑弥呼」なり。余はこれをもって倭姫命に擬定す。その故は前にあげたる官名に「伊支馬」「弥馬獲支」あるによりて、その崇神・垂仁二朝を去ること遠からざるべきことを知る、一つなり。「事二鬼道一、能惑レ衆」といえるは、垂仁紀二十五年の記事ならびにその細注、『延暦儀式帳』『倭姫命世記』などの所伝を総合して、もっともこの命(みこと)の行事に適当せるを見る。その天照大神の教えにしたがいて、大和より近江・美濃・伊勢諸国を遍歴し、〈『倭姫世記』によれば尾張・丹波・紀伊・吉備にもおよびしが如し〉いたるところにその土豪より神戸・神田・神地を徴して神領とせるは、神道設教の上古を離るること久しき魏人より鬼道をもって衆を惑わすと見えしも怪しむに足らざるべし、二つなり。余が邪馬台の旁国の地名を擬定せるは、もとより務めて大和の付近にして、倭姫命が遍歴せる地方より選び出したれども、その多数がはなはだしき付会におちいらずして、伊勢を基点とせる地方に限定することを得たるは、また一証とすべし、三つなり。(略)「卑弥呼」の語解は本居氏がヒメコの義とするは可なれども、神代巻に火之戸幡姫児千々姫ノ命、また万幡姫児玉依姫ノ命などある「姫児(ヒメコ)」に同じとあるは非にして、この二つの「姫児」は平田篤胤のいえるごとく姫の子の義なり。「弥」を「メ」と訓(よ)む例は黒川氏の『北史国号考』に「上宮聖徳法王帝説、繍張文の吉多斯比弥乃弥己等(キタシヒメノミコト)、また等已弥居加斯支移比弥乃弥己等(トヨミケカシキヤヒメノミコト)、注云 弥字或当二売音一也」とあるを引けるなどに従うべし。
付記 余がこの編を出せる直後、すでに自説の欠陥を発見せしものあり、すなわち「卑弥呼」の名を考証せる条中に『古事記』神代巻にある火之戸幡姫児(ヒノトバタヒメコ)、および万幡姫児(ヨロヅハタヒメコ)の二つの「姫児」の字を本居氏にしたがいて、ヒメコと読みしは誤りにして、平田氏のヒメノコと読みしが正しきことを認めたれば、今の版にはこれを改めたり。

第三巻 第一〇号 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫  定価:200円
最古日本の女性生活の根底
  一 万葉びと――琉球人
  二 君主――巫女
  三 女軍(めいくさ)
  四 結婚――女の名
  五 女の家
稲むらの陰にて
 古代の歴史は、事実の記憶から編み出されたものではない。神人(かみびと)に神憑(がか)りした神の、物語った叙事詩から生まれてきたのである。いわば夢語りともいうべき部分の多い伝えの、世をへて後、筆録せられたものにすぎない。(略)神々の色彩を持たない事実などの、後世に伝わりようはあるべきはずがないのだ。(略)女として神事にあずからなかった者はなく、神事に関係せなかった女の身の上が、物語の上に伝誦せられるわけがなかったのである。
(略)村々の君主の下になった巫女が、かつては村々の君主自身であったこともあるのである。『魏志』倭人伝の邪馬台(ヤマト)国の君主卑弥呼は女性であり、彼の後継者も女児であった。巫女として、呪術をもって、村人の上に臨んでいたのである。が、こうした女君制度は、九州の辺土には限らなかった。卑弥呼と混同せられていた神功皇后も、最高巫女としての教権をもって、民を統べていられた様子は、『日本紀』を見れば知られることである。(略)
 沖縄では、明治の前までは国王の下に、王族の女子あるいは寡婦が斎女王(いつきのみこ)同様の仕事をして、聞得大君(きこえうふきみ)(ちふいぢん)と言うた。尚家の中途で、皇后の下に位どられることになったが、以前は沖縄最高の女性であった。その下に三十三君というて、神事関係の女性がある。それは地方地方の神職の元締めのような位置にいる者であった。その下にあたるノロ(祝女)という、地方の神事官吏なる女性は今もいる。そのまた下にその地方の家々の神につかえる女の神人がいる。この様子は、内地の昔を髣髴(ほうふつ)させるではないか。沖縄本島では聞得大君を君主と同格に見た史実がない。が、島々の旧記にはその痕跡が残っている。(「最古日本の女性生活の根底」より)

第三巻 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦  定価:200円
瀬戸内海の潮と潮流
コーヒー哲学序説
神話と地球物理学
ウジの効用
 一体、海の面はどこでも一昼夜に二度ずつ上がり下がりをするもので、それを潮の満干といいます。これは月と太陽との引力のためにおこるもので、月や太陽がたえず東から西へまわるにつれて、地球上の海面の高くふくれた満潮の部分と低くなった干潮の部分もまた、だいたいにおいて東から西へ向かって大洋の上を進んで行きます。このような潮の波が内海のようなところへ入って行きますと、いろいろに変わったことがおこります。ことに瀬戸内海のように外洋との通路がいくつもあり、内海の中にもまた瀬戸がたくさんあって、いくつもの灘に分かれているところでは、潮の満干もなかなか込み入ってきて、これをくわしく調べるのはなかなか難しいのです。しかし、航海の頻繁なところであるから潮の調査は非常に必要なので、海軍の水路部などではたくさんな費用と時日を費やしてこれを調べておられます。東京あたりと四国の南側の海岸とでは満潮の時刻は一時間くらいしか違わないし、満干の高さもそんなに違いませんが、四国の南側とその北側とでは満潮の時刻はたいへんに違って、ところによっては六時間も違い、一方の満潮の時に他のほうは干潮になることもあります。また、内海では満干の高さが外海の倍にもなるところがあります。このように、あるところでは満潮であるのに他のところでは干潮になったり、内海の満干の高さが外海の満干の高さの倍になるところのあるのは、潮の流れがせまい海峡を入るためにおくれ、また、方々の入口から入り乱れ、重なり合うためであります。(「瀬戸内海の潮と潮流」より)

第三巻 第一二号 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦  定価:200円
日本人の自然観
 緒言
 日本の自然
 日本人の日常生活
 日本人の精神生活
 結語
天文と俳句
 もしも自然というものが、地球上どこでも同じ相貌(そうぼう)をあらわしているものとしたら、日本の自然も外国の自然も同じであるはずであって、したがって上記のごとき問題の内容吟味は不必要であるが、しかし実際には、自然の相貌がいたるところむしろ驚くべき多様多彩の変化を示していて、ひと口に自然と言ってしまうにはあまりに複雑な変化を見せているのである。こういう意味からすると、同じように、「日本の自然」という言葉ですらも、じつはあまりに漠然としすぎた言葉である。(略)
 こう考えてくると、今度はまた「日本人」という言葉の内容が、かなり空疎な散漫なものに思われてくる。九州人と東北人とくらべると各個人の個性を超越するとしても、その上にそれぞれの地方的特性の支配が歴然と認められる。それで九州人の自然観や、東北人の自然観といったようなものもそれぞれ立派に存立しうるわけである。(略)
 われわれは通例、便宜上、自然と人間とを対立させ、両方別々の存在のように考える。これが現代の科学的方法の長所であると同時に短所である。この両者は、じつは合わして一つの有機体を構成しているのであって、究極的には独立に切り離して考えることのできないものである。(略)
 日本人の先祖がどこに生まれ、どこから渡ってきたかは別問題として、有史以来二千有余年、この土地に土着してしまった日本人が、たとえいかなる遺伝的記憶をもっているとしても、その上層を大部分掩蔽(えんぺい)するだけの経験の収穫をこの日本の環境から受け取り、それにできるだけしっくり適応するように努力し、また少なくも、部分的にはそれに成効してきたものであることには疑いがないであろうと思われる。(「日本人の自然観」より)

第三巻 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉  定価:200円
 倭人の名は『山海経』『漢書』『論衡』などの古書に散見すれども、その記事いずれも簡単にして、これによりては、いまだ上代における倭国の状態をうかがうに足(た)らず。しかるにひとり『魏志』の「倭人伝」に至りては、倭国のことを叙することすこぶる詳密にして、しかも伝中の主人公たる卑弥呼女王の人物は、赫灼(かくしゃく)として紙上に輝き、読者をしてあたかも暗黒の裡に光明を認むるがごとき感あらしむ。(略)
 それすでに里数をもってこれを測るも、また日数をもってこれを稽(かんが)うるも、女王国の位置を的確に知ることあたわずとせば、はたしていかなる事実をかとらえてこの問題を解決すべき。余輩は幾度か『魏志』の文面を通読玩索(がんさく)し、しかして後、ようやくここに確乎動かすべからざる三個の目標を認め得たり。しからばすなわち、いわゆる三個の目標とは何ぞや。いわく邪馬台国は不弥国より南方に位すること、いわく不弥国より女王国に至るには有明の内海を航行せしこと、いわく女王国の南に狗奴国と称する大国の存在せしこと、すなわちこれなり。さて、このうち第一・第二の二点は『魏志』の文面を精読して、たちまち了解せらるるのみならず、先輩すでにこれを説明したれば、しばらくこれを措(お)かん。しかれども第三点にいたりては、『魏志』の文中明瞭の記載あるにもかかわらず、余輩が日本学会においてこれを述べたる時までは、何人もかつてここに思い至らざりしがゆえに、また、この点は本論起草の主眼なるがゆえに、余輩は狗奴国の所在をもって、この問題解決の端緒を開かんとす。

第三巻 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉  月末最終号:無料
 九州の西海岸は潮汐満乾の差はなはだしきをもって有名なれば、上に記せる塩盈珠(しおみつたま)・塩乾珠(しおひるたま)の伝説は、この自然的現象に原因しておこれるものならん。ゆえに神典に見えたる彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と火闌降命(ほのすそりのみこと)との争闘は、『魏志』によりて伝われる倭女王と狗奴(くな)男王との争闘に類せる政治的状態の反映とみなすべきものなり。
 『魏志』の記すところによれば、邪馬台国はもと男子をもって王となししが、そののち国中混乱して相攻伐し、ついに一女子を立てて王位につかしむ。これを卑弥呼となす。この女王登位の年代は詳らかならざれども、そのはじめて魏国に使者を遣わしたるは、景初二年すなわち西暦二三八年なり。しかして正始八年すなわち西暦二四七年には、女王、狗奴国の男王と戦闘して、その乱中に没したれば、女王はけだし後漢の末葉よりこの時まで九州の北部を統治せしなり。女王死してのち国中また乱れしが、その宗女壱与(いよ)なる一小女を擁立するにおよんで国乱定まりぬ。卑弥呼の仇敵狗奴国の男王卑弓弥呼(ヒコミコ)は何年に即位し何年まで在位せしか、『魏志』に伝わらざれば、またこれを知るに由なし。しかれども正始八年(二四七)にこの王は女王卑弥呼と戦って勝利を得たれば、女王の嗣者壱与(いよ)の代におよんでも、依然として九州の南部に拠りて、暴威を逞(たくま)しうせしに相違なし。

第三巻 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉  定価:200円
倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う
倭奴国および邪馬台国に関する誤解
 考古界の重鎮高橋健自君逝(い)かれて、考古学会長三宅先生〔三宅米吉。〕の名をもって追悼の文をもとめられた。しかもまだ自分がその文に筆を染めぬ間にその三宅先生がまた突然逝かれた。本当に突然逝かれたのだった。青天の霹靂というのはまさにこれで、茫然自失これを久しうすということは、自分がこの訃報に接した時にまことに体験したところであった。
 自分が三宅先生とご懇意を願うようになったのは、明治三十七、八年(一九〇四・一九〇五)戦役のさい、一緒に戦地見学に出かけた時であった。十数日間いわゆる同舟の好みを結び、あるいは冷たいアンペラの上に御同様南京虫を恐がらされたのであったが、その間にもあの沈黙そのもののごときお口から、ポツリポツリと識見の高邁なところをうけたまわるの機会を得て、その博覧強記と卓見とは心から敬服したことであった。今度考古学会から、先生のご研究を記念すべき論文を募集せられるというので、倭奴国および邪馬台国に関する小篇をあらわして、もって先生の学界における功績を追懐するの料とする。
 史学界、考古学界における先生の遺された功績はすこぶる多い。しかしその中において、直接自分の研究にピンときたのは漢委奴国王の問題の解決であった。うけたまわってみればなんの不思議もないことで、それを心づかなかった方がかえって不思議なくらいであるが、そこがいわゆるコロンブスの卵で、それまで普通にそれを怡土国王のことと解して不思議としなかったのであった。さらに唐人らの輩にいたっては、それをもって邪馬台国のことなりとし、あるいはただちに倭国全体の称呼であるとまで誤解していたのだった。

第三巻 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)  定価:200円
 長いクロワゼットの散歩路が、あおあおとした海に沿うて、ゆるやかな弧を描いている。はるか右のほうにあたって、エストゥレルの山塊がながく海のなかに突き出て眼界をさえぎり、一望千里のながめはないが、奇々妙々を極めた嶺岑(みね)をいくつとなく擁するその山姿は、いかにも南国へ来たことを思わせる、うつくしいながめであった。
 頭をめぐらして右のほうを望むと、サント・マルグリット島とサント・オノラ島が、波のうえにぽっかり浮かび、樅(もみ)の木におおわれたその島の背を二つ見せている。
 この広い入江のほとりや、カンヌの町を三方から囲んで屹立(きつりつ)している高い山々に沿うて、数知れず建っている白亜の別荘は、おりからの陽ざしをさんさんと浴びて、うつらうつら眠っているように見えた。そしてはるか彼方には、明るい家々が深緑の山肌を、その頂から麓のあたりまで、はだれ雪のように、まだらに点綴(てんてい)しているのが望まれた。
 海岸通りにたちならんでいる家では、その柵のところに鉄の格子戸がひろい散歩路のほうに開くようにつけてある。その路のはしには、もう静かな波がうちよせてきて、ザ、ザアッとそれを洗っていた。――うらうらと晴れわたった、暖かい日だった。冬とは思われない陽ざしの降りそそぐ、なまあたたかい小春日和である。輪を回して遊んでいる子供を連れたり、男となにやら語らいながら、足どりもゆるやかに散歩路の砂のうえを歩いてゆく女の姿が、そこにもここにも見えた。

第三巻 第一七号 高山の雪 小島烏水  定価:200円
 古い雪の上に新雪が加わると、その翌る朝などは、新雪が一段と光輝を放ってまばゆく見える。雪は古くなるほど、結晶形を失って、粒形に変化するもので、粒形になると、純白ではなくなる。また粒形にならないまでも、古い雪に白い輝きがなくなるのは、一部は空気を含むことが少ないからで、一部は鉱物の分子だの、塵芥(じんかい)泥土だのが加わって、黄色、灰色、またはトビ色に変わってしまうからだ。ことに日本北アルプスの飛騨山脈南部などでは、硫黄岳という活火山の降灰のために、雪のおもてが、瀝青(チャン)を塗ったように黒くなることがある。「黒い雪」というものは、私ははじめて、その硫黄岳のとなりの、穂高岳で見た。黒い雪ばかりじゃない、「赤い雪」も槍ヶ岳で私の実見したところである。私は『日本アルプス』第二巻で、それを「色が桃紅なので、水晶のような氷の脈にも血管が通っているようだ」と書いて、原因を花崗岩の※爛(ばいらん)した砂に帰したが、これは誤っている。赤い雪は南方熊楠氏の示教せられたところによれば、スファエレラ・ニヴァリス Sphaerella Nivalis という単細胞の藻で、二本のひげがある。水中を泳ぎまわっているが、またひげを失ってまるい顆粒となり、静止してしまう。それが紅色を呈するため、雪が紅になるので、あまり珍しいものではないそうである。ただし槍ヶ岳で見たのも、同種のものであるや否やは、断言できないが、要するに細胞の藻類であることは、たしかであろうと信ずる。ラボックの『スイス風景論』中、アルプス地方に見る紅雪として、あげてあるのも、やはり同一な細胞藻であった。このほかにアンシロネマ Ancylonema という藻がはえて、雪を青色またはスミレ色に染めることもあるそうであるが、日本アルプス地方では、私はいまだそういう雪を見たことはない。

第三巻 第一八号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(一)徳永 直  月末最終号:無料
 昭和十八年(一九四三)三月のある日、私は“嘉平の活字”をさがすため、東京発鹿児島行きの急行に乗っていた。伴(つ)れがあって、七歳になる甥と、その母親の弟嫁とが、むかいあってこしかけているが、厚狭、小月あたりから、海岸線の防備を見せまいためか、窓をおろしてある車内も、ようやく白んできた。戦備で、すっかり形相のかわった下関構内にはいったころは、乗客たちも洗面の水もない不自由さながら、それぞれに身づくろいして、朝らしく生きかえった顔色になっている……。
 と、私はこの小説だか何だかわからない文章の冒頭をはじめるが、これを書いているのは昭和二十三年(一九四八)夏である。読者のうちには、昭和十八年に出版した同題の、これの上巻を読まれた方もあるかと思うが、私が「日本の活字」の歴史をさがしはじめたのは昭和十四年(一九三九)からだから、まもなくひと昔になろうとしているわけだ。歴史などいう仕事にとっては、十年という月日はちょっとも永くないものだと、素人の私にもちかごろわかってきているが、それでも、鉄カブトに巻ゲートルで、サイレンが鳴っても空襲サイレンにならないうちは、これのノートや下書きをとる仕事をつづけていたころとくらべると、いまは現実の角度がずいぶん変わってきている。弱い歴史の書物など、この変化の関所で、どっかへふっとんだ。いまの私は半そでシャツにサルマタで机のまえにあぐらでいるけれど、上巻を読みかえしてみると、やはり天皇と軍閥におされた多くのひずみを見出さないわけにはゆかない。歴史の真実をえがくということも、階級のある社会では、つねにはげしい抵抗をうける。変わったとはいえ、戦後三年たって、ちがった黒雲がますます大きくなってきているし、新しい抵抗を最初の数行から感じずにいられぬが、はたして、私の努力がどれくらい、歴史の真実をえがき得るだろうか?

第三巻 第一九号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(二)徳永 直  定価:200円
 「江戸期の印刷工場」が近代的な印刷工場に飛躍するためには、活字のほかにいくつかの条件が必要である。第一にはバレンでこするかわりに、鉄のハンドでしめつけるプレスである。第二に、速度のある鋳造機である。第三に、バレン刷りにはふさわしくても金属活字に不向きな「和紙」の改良である。そして第四は、もっともっと重要だが、近代印刷術による印刷物の大衆化を見とおし、これを開拓してゆくところのイデオロギーである。特定の顧客であった大名や貴族、文人や墨客から離脱して、開国以後の新空気に胎動する平民のなかへゆこうとする思想であった。
 苦心の電胎字母による日本の活字がつくれても、それが容易に大衆化されたわけではない。のちに見るように「長崎の活字」は、はるばる「東京」にのぼってきても買い手がなくて、昌造の後継者平野富二は大童(おおわらわ)になって、その使用法や効能を宣伝しなければならなかったし、和製のプレスをつくって売り広めなければならなかったのである。つまり日本の近代的印刷工場が誕生するためには、総合的な科学の力と、それにもまして新しい印刷物を印刷したい、印刷することで大衆的におのれの意志を表現しようとする中味が必要であった。たとえばこれを昌造の例に見ると、彼は蒸汽船をつくり、これを運転し、また鉄を製煉し、石鹸をつくり、はやり眼を治し、痘瘡をうえた。活字をつくると同時に活字のボディに化合すべきアンチモンを求めて、日本の鉱山の半分くらいは探しまわったし、失敗に終わったけれど、いくたびか舶来のプレスを手にいれて、これの操作に熟練しようとした。これらの事実は、ガンブルがくる以前、嘉永から慶応までのことであるが、同時に、昌造が活字をつくったとき最初の目的が、まずおのれの欲する中味の本を印刷刊行したいことであった。印刷して、大名や貴族、文人や墨客ではない大衆に読ませたいということであった。それは前編で見たように、彼が幕府から捕らわれる原因ともなった流し込み活字で印刷した『蘭語通弁』〔蘭和通弁か〕や、電胎活字で印刷した『新塾余談』によっても明らかである。

第三巻 第二〇号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(三)徳永 直  定価:200円
 第一に、ダイアはアルファベット活字製法の流儀にしたがって鋼鉄パンチをつくった。凹型銅字母から凸型活字の再生まで嘉平や昌造と同様であるが、字画の複雑な漢字を「流しこみ」による鋳造では、やさしくないということを自覚していること。自覚していること自体が、アルファベット活字製法の伝統でそれがすぐわかるほど、逆にいえば自信がある。
 第二は、ダイアはたとえば嘉平などにくらべると、後に見るように活字製法では「素人」である。嘉平も昌造も自分でパンチを彫ったが、そのダイアは「労働者を使用し」た。(略)
 第三に、ダイアの苦心は活字つくりの実際にもあるが、もっと大きなことは、漢字の世界を分析し、システムをつくろうとしていることである。アルファベット人のダイアは、漢字活字をつくる前に漢字を習得しなければならなかった。(略)
 さて、ペナンで発生したダイア活字は、これから先、どう発展し成功していったかは、のちに見るところだけれど、いまやパンチによる漢字活字が実際的に誕生したことはあきらかであった。そして、嘉平や昌造よりも三十年早く。日本では昌造・嘉平の苦心にかかわらず、パンチでは成功しなかった漢字活字が、ダイアによっては成功したということ。それが、アルファベット人におけるアルファベット活字製法の伝統と技術とが成功させたものであるということもあきらかであった。そして、それなら、この眼玉の青い連中は、なんで世界でいちばん難しい漢字をおぼえ、活字までつくろうとするのか? いったい、サミュエル・ダイアなる人物は何者か? 世界の同志によびかけて拠金をつのり、世界三分の一の人類の幸福のために、と、彼らは、なんでさけぶのか? 私はそれを知らねばならない。それを知らねば、ダイア活字の、世界で最初の漢字鉛活字の誕生したその根拠がわからぬ、と考えた。

第三巻 第二一号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(四)徳永 直  定価:200円
 アジアには十六世紀を前後して銅活字の時代があり、朝鮮でも日本でもおこなわれている。秀吉の朝鮮侵略のみやげものに端を発している家康・家光時代の銅活字印刷があるけれど、それにくらべると、このさし絵に見る康熙帝の印刷局ははるかに大規模で組織的であることがわかる。しかし、日本でも『お湯殿日記』に見るような最初の文選工は「お公卿たち」であったが、支那でもあごひげの長い官人たちであった。明治になって印刷術が近代化されてからでも、印刷工業をおこした人々の多くが、武家など文字になじみのある階級だったように、私の徒弟だったころの先輩の印刷工の多くが、やはり士族くずれだったことを思い出す。(略)
 武英殿の銅活字は康熙帝の孫、高宗〔乾隆帝〕の代になるとつぶされて銅貨となった。日本でも家康時代の銅活字は同じ運命をたどっているけれど、支那のばあいは銅貨の不足が原因といわれている。しかし、もっと大きな原因は金属活字にあって、漢字組織ができないならば、またプレス式の印刷機もないとするならば、むしろ手わざの発達による木版の方が容易であり便利であった。ボディが銅であれ鉛であれ、それが彫刻に過ぎないならば、むしろ木版にしくはない。銅活字がほろびて再び木版術が栄え、極彩色の芸術的な印刷物もできるようになった。康熙・乾隆の時代に見られるこの傾向は、十七世紀の終わりから十八世紀のなかほどまでであるが、江戸中期から木版術が再興し、世界にたぐいない木版印刷術を生み出した日本と時間的にもほぼ一致している――ということも、漢字が持つ共通の宿命がするわざであったろう。

第三巻 第二二号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(五)徳永 直  月末最終号:無料
 『東洋文化史上におけるキリスト教』(三六二ページ)で溝口靖夫氏は、前に述べたメドハーストが(Ibid, P.366)自分の当時の経験を追懐した文章を根拠にして、つぎのように述べているところがある。――第五の困難は、アヘン問題と宣教師の関係であった。メドハーストが広東に着いた一八三五年は、アヘン戦争の直前であり、支那と英国のあいだに険悪な空気がみなぎっていた。このときにあたって宣教師たちは、きわめて困難なる立場に置かれた。宣教師たちは、しばしばアヘンを積んだ船に乗ってきた。しかも、メドハーストらは切符は買っているが、積荷について容嘴(ようし)する権利はなかった。……宣教師は、英国人と支那人との間に立って、しばしば通訳の労をとらねばならなかったが、こんなとき支那人はアヘン貿易は正義にかなえるものなりや否や? をただすのであった。……ゆえに当時、宣教師たちのこいねがったのは、一艘の伝道用船を得ることであった。これによりアヘンの罪悪からまぬがるることであった。――一艘の伝道船で、アヘンから逃れることはできないけれど、一口にいって「インドからの手紙」は、英国議会をして宣教師らの活動を保証させる決議案をパスさせながら、こんどは「信教の自由憲章」を勝ち取らねばならぬほどそれが首かせになったことを示している。つまり、産業革命が生み出したアルファベット人種の革命的進歩性は、おなじ産業革命が生み出した「アヘンの罪悪」と衝突しなければならなかったが、この矛盾こそ資本主義の矛盾の中味であり、限界であった。

第三巻 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治  定価:200円
「ですから、もしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを大きな乳の流れと考えるなら、もっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油(あぶら)の球にもあたるのです。(略)」
 先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズをさしました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶが、みんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いので、わずかの光る粒、すなわち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒すなわち星がたくさん見え、その遠いのはボウッと白く見えるという、これがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、また、その中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この次の理科の時間にお話しします。では今日はその銀河のお祭りなのですから、みなさんは外へ出て、よく空をごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。
 そして教室じゅうはしばらく机のふたをあけたりしめたり本をかさねたりする音がいっぱいでしたが、まもなく、みんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。 

第三巻 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治  定価:200円
 そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルと転轍器(てんてつき)の灯をすぎ、小さな停車場に止まりました。
 その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示し、その振子は、風もなくなり汽車も動かずしずかなしずかな野原のなかに、カチッカチッと正しく時をきざんで行くのでした。
 そしてまったくその振子の音の間から遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れてくるのでした。「新世界交響楽だわ。」むこうの席の姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言いました。まったくもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。
(こんなしずかないいところで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい。僕といっしょに汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかり話しているんだもの。僕はほんとうにつらい。)
 ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして、むこうの窓の外を見つめていました。
 透きとおったガラスのような笛が鳴って、汽車はしずかに動き出し、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛をふきました。

第三巻 第二五号 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治  定価:200円
 空が青くすみわたり、ドングリはピカピカしてじつにきれいでした。
「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山ねこが、すこし心配そうに、それでもむりに威張(いば)って言いますと、ドングリどもは口々にさけびました。
「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」もうみんな、ガヤガヤガヤガヤ言って、なにがなんだか、まるで蜂の巣をつっついたようで、わけがわからなくなりました。そこで山猫がさけびました。
「やかましい! ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ!」

第三巻 第二六号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(六)徳永 直  定価:200円
 活字が日本に渡るには、他の条件が必要であった。そして、その他の条件のうちもっとも大きなものは、やはり文久二年・一八六二年の日本幕府がはじめてやった貿易船千歳丸の上海入港であったろう。(略)経済的にいえばこの貿易は失敗したけれど、不馴れな幕府の役人たちは積荷をそのまま持ち戻るはめにもなったけれど、オランダの役人につれられて各国の領事たちにあったり、諸外国人の活動ぶりを見てびっくりした。たとえばこれを便乗者・高杉一人の場合に見てもあきらかである。(略)その後二年あまりで、攘夷の中心長州藩が領民に洋品使用の禁を解き、薩摩や佐賀と前後して海外貿易を営なんだ急角度の転回も、したがって「薩長締盟」を可能にした思想的背景も、このときの千歳丸便乗によって彼が上海で感得したものによるところ、はなはだ多いといわれている。
 (略)第一回の千歳丸のときは高杉のほかに中牟田や五代〔五代友厚か。〕や浜松藩の名倉(なぐら)予可人(あなと)などあったが、第二回の健順丸のときは、前巻でなじみの昌造の同僚で長崎通詞、安政開港に功労のあった森山多吉郎、先の栄之助がいまは外国奉行支配調役として乗り組んでいたし、第三回目、慶応三年(一八六七)の同じく幕府船ガンジス号のときは、佐倉藩士高橋作之助〔猪之助か。(のちの由一)ら多数があり、たび重なるにつれて上海渡航者の数は急速に増えていった。(略)
 また、官船以外の密航者、あるいは藩所有の船修理と称して渡航する者もたくさんあった。(略)さては中浜万次郎を案内に立てて汽船を買いに来た土佐藩の後藤象次郎などと、千歳丸以後は「きびす相ついで」いる(略)。

第三巻 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫  月末最終号:無料
黒川能・観点の置き所
 特殊の舞台構造
 五流の親族
 能楽史をかえりみたい
 黒川の能役者へ
村で見た黒川能
能舞台の解説
春日若宮御祭の研究
 おん祭りの今と昔と
 祭りのお練り
 公人の梅の白枝(ずはえ)
 若宮の祭神
 大和猿楽・翁
 影向松・鏡板・風流・開口
 細男(せいのお)・高足・呪師

 山形県には、秋田県へかけて室町時代の芸能に関した民俗芸術が多く残っております。黒川能は、その中でも著しいものの一つで、これと鳥海山の下のひやま舞い〔杉沢比山舞か。〕との二つは、特に皆さまに見ていただきたいものであります。この黒川能が二十数年ぶりでのぼってくるのであります。世話をしてくださった斎藤氏〔斎藤香村か。〕に感謝しなければならないと思います。
 特にこの能で注意しなければならないのは、舞台構造であります。京都の壬生念仏を思わせるような舞台で、上下の廊下が橋掛りになっており、舞台の正面には春日神社の神殿をひかえているのであります。(略)奉仕する役者はというと、上座と下座が二部落にわかれており、ここで能をするときは、上座は左橋掛り(正面から見て)から出て舞い、下座は右橋掛りから出て舞うことになっている。これはもっとも大きな特徴で、今度の公演にいくぶんでも実現できれば結構だと思います。この神前演奏の形は、春日の若宮祭りの第一日の式と同形式といっていいと思います。しかも、黒川ではつねにその形式をくり返しているわけで、見物人よりも神に対する法楽を主としていることがわかります。
(略)おもしろいのは狂言です。表情にも言語にも必ず多少の驚きを受けられるでしょう。ことに方言的な言い回しなどには、つい、われわれも見ていて釣りこまれるものがありました。(「黒川能・観点の置き所」より)

第三巻 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎  定価:200円
面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
能面の様式 / 人物埴輪の眼
(略)しかし「意味ある形」、たとえば「甲冑」を円筒上の人物に着せたとなると、その甲冑は、四肢などに対するとはまったく段ちがいの細かな注意をもって表現されている。(略)それはこの鉄の武器が、人体などよりもはるかに強い関心の対象であったことを示すものであって、いかにも古墳時代の感じ方らしい。(略)
(略)埴輪(はにわ)人形を近くからでなく、三間、五間、あるいはそれ以上に、ときには二、三十間の距離を置いて、ながめてみる必要があると思う。それによって埴輪人形の眼はじつに異様な生気をあらわしてくるのである。もし、この眼が写実的に形作られていたならば、すこし遠のけば、はっきりとは見えなくなるであろう。しかるにこの眼は、そういう形づけを受けず、そばで見れば粗雑に裏までくりぬいた空洞の穴にすぎないのであるが、遠のけば遠のくほど、その粗雑さが見えなくなり、魂の窓としての眼の働きが表面へ出てくる。それが異様な生気を現わしてくるゆえんなのである。眼にそういう働きがあらわれれば、顔面は生気をおび、埴輪人形全体が生きてくるのはもちろんである。古墳時代の人々はそういうふうにして埴輪の人形を見、また、そういうふうに見えるものとして埴輪の人形を作ったのであった。

第三巻 第二九号 火山の話 今村明恒  定価:200円
 桜島噴火はいちじるしい前徴を備えていた。数日前から地震が頻々(ひんぴん)におこることは慣例であるが、今回も一日半前から始まった。また七、八十年前から土地がしだいに隆起しつつあったが、噴火後は元どおりに沈下したのである。そのほか、温泉・冷泉がその温度を高め、あるいは湧出量を増し、あるいは新たに湧出し始めたようなこともあった。
 霧島火山群は東西五里にわたり二つの活火口と多くの死火山とを有している。その二つの活火口とは矛の峰(高さ一七〇〇メートル)の西腹にある御鉢(おはち)と、その一里ほど西にある新燃鉢(しんもえばち)とである。霧島火山はこの二つの活火口で交互に活動するのが習慣のように見えるが、最近までは御鉢が活動していた。ただし享保元年(一七一六)における新燃鉢の噴火は、霧島噴火史上においてもっとも激しく、したがって最高の損害記録をあたえたものであった。
 磐梯山(高さ一八一九メートル)の明治二十一年(一八八八)六月十五日における大爆発は、当時、天下の耳目を聳動(しょうどう)せしめたものであったが、クラカトアには比較すべくもない。このときに磐梯山の大部分は蒸気の膨張力によって吹き飛ばされ、堆積物が渓水をふさいで二、三の湖水を作ったが、東側に流れ出した泥流のために土地のみならず、四百余の村民をも埋めてしまったのである。

第三巻 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 上の巻
   序文
    過去の時代(序文の第一段)
    『古事記』の企画(序文の第二段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
   一、イザナギの命とイザナミの命
    天地のはじめ
    島々の生成
    神々の生成
    黄泉の国
    身禊
   二、アマテラス大神とスサノオの命
    誓約
    天の岩戸
   三、スサノオの命
    穀物の種
    八俣の大蛇
    系譜
 スサノオの命は、かようにして天の世界から逐(お)われて、下界へ下っておいでになり、まず食物をオオゲツ姫の神にお求めになりました。そこでオオゲツ姫が鼻や口、また尻からいろいろのごちそうを出して、いろいろお料理をしてさしあげました。この時にスサノオの命はそのしわざをのぞいて見て、きたないことをして食べさせるとお思いになって、そのオオゲツ姫の神を殺してしまいました。殺された神の身体にいろいろの物ができました。頭にカイコができ、二つの目に稲種ができ、二つの耳にアワができ、鼻にアズキができ、股の間にムギができ、尻にマメができました。カムムスビの命が、これをお取りになって種となさいました。
 かくてスサノオの命は逐いはらわれて出雲の国の肥(ひ)の川上、鳥髪(とりかみ)という所におくだりになりました。このときに箸(はし)がその河から流れてきました。それで川上に人が住んでいるとお思いになってたずねて上っておいでになりますと、老翁と老女と二人があって少女を中において泣いております。そこで「あなたは誰ですか?」とおたずねになったので、その老翁が、「わたくしはこの国の神のオオヤマツミの神の子でアシナヅチといい、妻の名はテナヅチ、娘の名はクシナダ姫といいます」と申しました。また「あなたの泣くわけはどういう次第ですか?」とおたずねになったので「わたくしの女(むすめ)はもとは八人ありました。それを高志(コシ)の八俣の大蛇(おろち)が毎年きて食べてしまいます。今また、それの来る時期ですから泣いています」と申しました。

第三巻 第三一号 現代語訳『古事記』(二)武田祐吉(訳)  月末最終号:無料
 古事記 上の巻
   四、大国主の命
    兎と鰐
    赤貝姫と蛤貝姫
    根の堅州国(かたすくに)
    ヤチホコの神の歌物語
    系譜
    スクナビコナの神
    御諸山の神
    大年の神の系譜
   五、アマテラス大神と大国主の命
    天若日子(あめわかひこ)
    国譲り
   六、ニニギの命
    天降り
    猿女の君
    木の花の咲くや姫
   七、ヒコホホデミの命
    海幸と山幸
    トヨタマ姫
スクナビコナの神 そこで大国主の命が出雲の御大(みほ)の御埼(みさき)においでになった時に、波の上をツルイモのさやを割って船にして、蛾(が)の皮をそっくりはいで着物にして寄ってくる神さまがあります。その名を聞きましたけれども答えません。また、御従者(おとも)の神たちにおたずねになったけれども、みな知りませんでした。ところがヒキガエルが言うことには、「これはクエ彦がきっと知っているでしょう」と申しましたから、そのクエ彦を呼んでおたずねになると、「これはカムムスビの神の御子でスクナビコナの神です」と申しました。よってカムムスビの神に申し上げたところ、「ほんとにわたしの子だ。子どもの中でも、わたしの手の股からこぼれて落ちた子どもです。あなた、アシハラシコオの命と兄弟となってこの国を作り固めなさい」とおおせられました。それで、それから大国主とスクナビコナとお二人が並んでこの国を作り固めたのです。後にはそのスクナビコナの神は、海のあちらへ渡って行ってしまいました。このスクナビコナの神のことを申し上げたクエ彦というのは、今いう山田のカカシのことです。この神は足は歩きませんが、天下のことをすっかり知っている神さまです。
御諸山の神 そこで大国主の命が心憂く思っておおせられたことは、「わたしはひとりではどのようにしてこの国を作り得ましょう。どの神さまといっしょにわたしはこの国を作りましょうか?」とおおせられました。この時に、海上を照らして寄ってくる神さまがあります。その神のおおせられることには、「わたしに対してよくおまつりをしたら、わたしがいっしょになって国を作りましょう。そうしなければ国はできにくいでしょう」とおおせられました。そこで大国主の命が申されたことには、「それなら、どのようにしておまつりをいたしましょう?」と申されましたら、「わたしを大和の国の青々と取り囲んでいる東の山の上におまつりなさい」とおおせられました。これは御諸(みもろ)の山においでになる神さまです。

第三巻 第三二号 現代語訳『古事記』(三)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 中の巻
   一、神武天皇
    東征
    速吸の門
    イツセの命
    熊野から大和へ
    久米歌
    神の御子
    タギシミミの命の変
   二、綏靖天皇以後八代
    綏靖天皇
    安寧天皇
    懿徳天皇
    孝昭天皇
    孝安天皇
    孝霊天皇
    孝元天皇
    開化天皇
   三、崇神天皇
    后妃と皇子女
    美和の大物主
    将軍の派遣
   四、垂仁天皇
    后妃と皇子女
    サホ彦の反乱
    ホムチワケの御子
    丹波の四女王
    時じくの香の木の実
 この天皇〔崇神天皇〕の御世に、流行病がさかんにおこって、人民がほとんどつきようとしました。ここに天皇は、ご憂慮あそばされて、神をまつってお寝みになった晩に、オオモノヌシの大神がお夢にあらわれておおせになるには、「かように病気がはやるのは、わたしの心である。これはオオタタネコをもってわたしを祭らしめたならば、神のたたりが起こらずに国も平和になるだろう」とおおせられました。そこで急使を四方に出してオオタタネコという人を求めたときに、河内の国の美努(みの)の村でその人を探し出してたてまつりました。(略)そこで天皇が非常にお歓びになっておおせられるには、「天下が平らぎ人民が栄えるであろう」とおおせられて、このオオタタネコを神主として御諸山(みもろやま)でオオモノヌシの神をおまつり申し上げました。(略)これによって疫病がやんで国家が平安になりました。
 このオオタタネコを神の子と知ったしだいは、上に述べたイクタマヨリ姫は美しいお方でありました。ところが形姿・威儀並びなき一人の男が夜中にたちまち来ました。そこでたがいに愛でて結婚して住んでいるうちに、何ほどもないのにその嬢子(おとめ)が妊(はら)みました。そこで父母が妊娠したことを怪しんで、その娘に、「お前は自然に妊娠した。夫がないのにどうして妊娠したのか?」とたずねましたから、答えて言うには「名も知らないりっぱな男が夜ごとに来て住むほどに、自然に妊みました」と言いました。そこでその父母が、その人を知りたいと思って、その娘に教えましたのは、「赤土を床のほとりに散らし麻糸を針につらぬいてその着物の裾(すそ)に刺せ」と教えました。よって教えたとおりにして、朝になって見れば、針をつけた麻は戸の鉤穴から貫けとおって、残った麻はただ三輪だけでした。そこで鉤穴から出たことを知って糸をたよりにたずねて行きましたら、三輪山に行って神の社にとまりました。そこで神の御子であるとは知ったのです。その麻の三輪残ったのによってそこを三輪というのです。このオオタタネコの命は、神(みわ)の君・鴨(かも)の君の祖先です。 

第三巻 第三五号 地震の話(一)今村明恒  月末最終号:無料
 一、はしがき
 二、地震学のあらまし
 三、地震に出会ったときの心得(こころえ)
  一、突差(とっさ)の処置
  二、屋外(おくがい)への避難
 日本は地震国であり、また地震学の開けはじめた国である。これは誤りのない事実であるけれども、もし日本は世界中で地震学がもっとも進んだ国であるなどというならば、それはいささかうぬぼれの感がある。実際、地震学のある方面では、日本の研究がもっとも進んでいる点もあるけれども、その他の方面においては必ずしもそうでない。それゆえ著者らは地震学をもって世界に誇ろうなどとは思っていないのみならず、この頃のように、わが国民がくりかえし地震に征服せられてみると、むしろ恥かしいような気持ちもする。すなわち大正十二年(一九二三)の関東大地震においては一〇万の生命と五十五億円の財産とを失い、二年後、但馬の国のケチな地震のため、四〇〇の人命と三〇〇〇万円の財産とを損し、また二年後の丹後地震によって三〇〇〇の死者と一億円の財産損失とを生じた。そしてこれらの損失のほとんど全部は地震後の火災によるものであって、被害民の努力しだいによっては大部分、免れ得られるべき損失であった。しかるに事実はそうでなく、あのような悲惨な結果の続発となったのであるが、これを遠く海外からながめてみると、日本はおそろしい地震国である。地震のたびごとに大火災をおこす国である。外国人は命がけでないと旅行のできない国である。国民は、ああたびたび地震火災に悩まされても少しもこりないもののようである。地震によって命を失うことをなんとも思っていないのかもしれないなどという結論を下されないとも限らぬまい。実際、これは欧米人の多数が日本の地震に対する観念である。かく観察されてみるとき、著者のごとき斯学の専攻者は非常な恥辱を感ぜざるを得ないのである。もちろん、この学問の研究が容易に進歩しないのも震災国たるの一因には相違ないが、しかしながら地震に対して必要な初歩の知識がわが国民に欠けていることが、震災拡大の最大原因であろう。じつに著者のごときは、地震学が今日以上に進歩しなくとも、震災のほとんど全部はこれを免れ得る手段があると考えているものの一人である。

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