地震 の話 (一)
一、はしがき
日本は
二、
わが国は地震学
それやこれやの関係で、日本は地震学開発の国といわれているのであるが、しかし、その開発者のおもな人々は外国人、特にイギリス人であった。
明治二十四年(一八九一)十月二十八日の
日本における地震学のこれまでの発達は、おもに人命財産に関する方面の研究であった。しかるに最近二十年のあいだ、欧米における地震学は他の方面に発達した。それは遠方地震の観測によって、わが地球の内部の構造を
地震学の
前に述べたとおり地震学の研究は、
地震学の応用によって地球の内部状態がかなりに
わが地球には
地球はそういう性質の
大陸は現今のように
大陸は、たとえば
火山作用によって地震をおこすことは、別に説明を要するまでもないことである。またその作用によっても地震がおこされることがないでもないが、いずれの場合においても、大地震とは
この
予知問題の研究についてもっとも大切な目標は、地震の主原因の調査である。
地震の予知問題が
わが国のごとき地震国においては、地震に出会ったときの適当な
つぎに著者が
三、
一、最初の一瞬間において非常の地震なるか否 かを判断し、機宜 に適 する目論見 を立てること。ただし、これには多少の地震知識を要 す。
二、非常の地震たるを覚 るものは、みずから屋外 に避難 せんとつとめるであろう。数秒間に広場へ出られる見込みがあらば機敏 に飛び出すがよい。ただし、火の元 用心を忘れざること。
三、二階建て・三階建て等 の木造家屋では、階上 の方 かえって危険が少 ない。高層 建物の上層 に居合 わせた場合には屋外へ避難することを断念 しなければなるまい。
四、屋内 の一時避難所としては堅牢 な家屋のそばがよい。教場内 においては机 の下がもっとも安全である。木造家屋内にては桁 ・梁 の下を避 けること、また洋風建物内にては、張壁 ・暖炉用 レンガ・煙突 等 の落ちてきそうな所を避 け、止 むを得 ざれば出入口の枠構 えの直下に身 を寄 せること。
五、屋外においては屋根瓦 ・壁 の墜落 、あるいは石垣 ・レンガ塀 ・煙突 等 の倒壊 しきたるおそれある区域から遠ざかること。特に石灯籠 に近寄 らざること。
六、海岸においては津波 襲来 の常習地 を警戒 し、山間 においては崖崩 れ・山津波 〔土石流 。〕に関する注意を怠 らざること。
七、大地震にあたり、およそ最初の一分間をしのぎ得 たら、もはや危険を脱 したものとみなし得 られる。余震 恐 れるに足 らず、地割 れに吸 い込 まれることはわが国にては絶対になし。老若男女、すべて力 のあらん限 り災害防止につとむべきである。火災の防止をまっさきにし、人命救助をそのつぎとすること。これすなわち人命財産の損失を最小にする手段である。
八、潰家 からの発火は地震直後におこることもあり、一、二時間の後におこることもある。油断なきことを要する。
九、大地震の場合には水道は断水 するものと覚悟 し、機敏 に貯水 の用意をなすこと。また、水を用 いざる消防法をも応用すべきこと。
十、余震 はその最大なるものも最初の大地震の十分の一以下の勢力である。最初の大地震をしのぎ得 た木造家屋は、たとい多少の破損 をなしても、余震 に対しては安全であろう。ただし、地震でなくとも壊れそうな程度に損 したものは例外である。
右のうち、説明を
一、
地震に出会った一瞬間、心のおちつきを
著者の
地震は
われわれは地震を感じた場合、その振動の
地震はその根源の場所においては
地震が
つぎに、最初の一瞬間の感覚によって地震の大小・強弱を判断することについて述べてみたい。ことわざに
もっと具体的にいうならば、初期微動は空気中における音波のような波動であって、振動の方向と進行の方向とが
初期微動が到着してから主要動がくるまでの時間を、初期微動
地震計の観測によるときは、
東京
初期
読者は小地震の場合において、初期微動と主要動を明確に区別して
さいわいに最初の一瞬間において、非常の地震なるか
前に述べたとおり、初期
右のほか、体験した地震動の大きさを器械観測の結果に比較するのもまた興味ある
二、
地震に出会ってそれが非常の地震であることを意識したものは、よほど
右のような条件が完全にそなわっていなくとも、たいていの人は屋外に避難せんとあせるに
安政二年(一八五五)十月二日の江戸大地震において、
われわれの
底本:
1982(昭和57)年6月20日 発行
親本:
1930(昭和5)年2月15日 発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日公開
青空文庫作成ファイル:
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地震《ぢしん》の話《はなし》
今村明恒-------------------------------------------------------
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(例)三・二|粁《きろめーとる》
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/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)度々《たび/\》
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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目次《もくじ》
地震《ぢしん》の語《はなし》
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一、はしがき
二、地震學《ぢしんがく》のあらまし
三、地震《ぢしん》に出會《であ》つた時《とき》の心得《こゝろえ》
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一、突差《とつさ》の處置《しよち》
二、屋外《おくがい》への避難《ひなん》
三、階下《かいか》の危險《きけん》
四、屋内《おくない》にての避難《ひなん》
五、屋外《おくがい》に於《お》ける避難《ひなん》
六、津浪《つなみ》と山津浪《やまつなみ》との注意《ちゆうい》
七、災害《さいがい》と防止《ぼうし》
八、火災《かさい》防止《ぼうし》(一《いち》)
九、火災《かさい》防止《ぼうし》(二《に》)
[#ここから1字下げ]
一〇、餘震《よしん》に對《たい》する處置《しよち》
[#ここで字下げ終わり]
地震《ぢしん》の話《はなし》
一、はしがき
日本《につぽん》は地震國《ぢしんこく》であり、又《また》地震學《ぢしんがく》の開《ひら》け始《はじ》めた國《くに》である。これは誤《あやま》りのない事實《じじつ》であるけれども、もし日本《につぽん》は世界中《せかいじゆう》で地震學《ぢしんがく》が最《もつと》も進《すゝ》んだ國《くに》であるなどといふならば、それは聊《いさゝ》かうぬぼれの感《かん》がある。實際《じつさい》地震學《ぢしんがく》の或《ある》方面《ほうめん》では、日本《につぽん》の研究《けんきゆう》が最《もつと》も進《すゝ》んでゐる點《てん》もあるけれども、其他《そのた》の方面《ほうめん》に於《おい》ては必《かなら》ずしもさうでない。其故《それゆゑ》著者等《ちよしやら》は地震學《ぢしんがく》を以《もつ》て世界《せかい》に誇《ほこ》らうなどとは思《おも》つてゐないのみならず、此頃《このごろ》のように、わが國民《こくみん》が繰返《くりかへ》し地震《ぢしん》に征服《せいふく》せられてみると、寧《むし》ろ恥《はづ》かしいような氣持《きも》ちもする。即《すなは》ち大正《たいしよう》十二年《じゆうにねん》の關東《かんとう》大地震《だいぢしん》に於《おい》ては十萬《じゆうまん》の生命《せいめい》と五十五《ごじゆうご》億圓《おくえん》の財産《ざいさん》とを失《うしな》ひ、二年後《にねんご》但馬《たじま》の國《くに》のけちな地震《ぢしん》の爲《ため》、四百《しひやく》の人命《じんめい》と三千《さんぜん》萬圓《まんえん》の財産《ざいさん》とを損《そん》し、又《また》二年後《にねんご》の丹後《たんご》地震《ぢしん》によつて三千《さんぜん》の死者《ししや》と一億圓《いちおくえん》の財産《ざいさん》損失《そんしつ》とを生《しやう》じた。そして此等《これら》の損失《そんしつ》の殆《ほと》んど全部《ぜんぶ》は地震後《ぢしんご》の火災《かさい》に由《よ》るものであつて、被害民《ひがいみん》の努力《どりよく》次第《しだい》によつては大部分《だいぶぶん》免《まぬか》れ得《う》られるべき損失《そんしつ》であつた。然《しか》るに事實《じじつ》はさうでなく、あのような悲慘《ひさん》な結果《けつか》の續發《ぞくはつ》となつたのであるが、これを遠《とほ》く海外《かいがい》から眺《なが》めてみると、日本《につぽん》は恐《おそ》ろしい地震國《ぢしんこく》である。地震《ぢしん》の度毎《たびごと》に大火災《だいかさい》を起《おこ》す國《くに》である。外國人《がいこくじん》は命懸《いのちが》けでないと旅行《りよこう》の出來《でき》ない國《くに》である。國民《こくみん》はあゝ度々《たび/\》地震《ぢしん》火災《かさい》に惱《なや》まされても少《すこ》しも懲《こ》りないものゝようである。地震《ぢしん》に因《よ》つて命《いのち》を失《うしな》ふことをなんとも思《おも》つてゐないのかも知《し》れないなどといふ結論《けつろん》を下《くだ》されないとも限《かぎ》あるまい[#送りがなの「あるまい」は底本のまま]。實際《じつさい》これは歐米人《おうべいじん》の多數《たすう》が日本《につぽん》の地震《ぢしん》に對《たい》する觀念《かんねん》である。かく觀察《かんさつ》されてみる時《とき》、著者《ちよしや》の如《ごと》き斯學《しがく》の專攻者《せんこうしや》は非常《ひじよう》な恥辱《ちじよく》を感《かん》ぜざるを得《え》ないのである。勿論《もちろん》この學問《がくもん》の研究《けんきゆう》が容易《ようい》に進歩《しんぽ》しないのも震災國《しんさいこく》たるの一因《いちいん》には相違《そうい》ないが、然《しか》しながら地震《ぢしん》に對《たい》して必要《ひつよう》な初歩《しよほ》の知識《ちしき》がわが國民《こくみん》に缺《か》けてゐることが、震災《しんさい》擴大《かくだい》の最大《さいだい》原因《げんいん》であらう。實《じつ》に著者《ちよしや》の如《ごと》きは、地震學《ぢしんがく》が今日《こんにち》以上《いじよう》に進歩《しんぽ》しなくとも、震災《しんさい》の殆《ほと》んど全部《ぜんぶ》はこれを免《まぬか》れ得《う》る手段《しゆだん》があると考《かんが》へてゐるものゝ一人《ひとり》である。
著者《ちよしや》は少年《しようねん》諸君《しよくん》に向《むか》つて、地震學《ぢしんがく》の進《すゝ》んだ知識《ちしき》を紹介《しようかい》しようとするものでない。又《また》たとひ卑近《ひきん》な部分《ぶぶん》でも、震災《しんさい》防止《ぼうし》の目的《もくてき》に直接《ちよくせつ》關係《かんけい》のないものまで論《ろん》じようとするのでもない。但《たゞ》し震災《しんさい》防止《ぼうし》につき、少年《しようねん》諸君《どくしや》[#ルビの「どくしや」は底本のまま]が現在《げんざい》の小國民《しようこくみん》としても、又《また》他日《たじつ》國民《こくみん》人物《じんぶつ》の中堅《ちゆうけん》としても自衞上《じえいじよう》、はた公益上《こうえきじよう》必要《ひつよう》缺《か》くべからざる事項《じこう》を叙述《じよじゆつ》せんとするものである。
二、地震學《ぢしんがく》のあらまし
わが國《くに》は地震學《ぢしんがく》發祥《はつしよう》の地《ち》といはれてゐる。これは文化《ぶんか》の進《すゝ》んだ國《くに》としては地震《ぢしん》に見舞《みま》はれる機會《きかい》の多《おほ》いからにもよるのであるが、なほ他《た》の一因《いちいん》として明治《めいじ》維新後《いしんご》、わが國《くに》の文化《ぶんか》開發《かいはつ》事業《じぎよう》の補助者《ほじよしや》として招聘《しようへい》した歐米人《おうべいじん》が、多《おほ》くは其道《そのみち》に於《おい》て、優秀《ゆうしゆう》な人達《ひとたち》であつたことも數《かぞ》へなければならぬ。事《こと》の發端《ほつたん》は、明治《めいじ》十三年《じゆうさんねん》二月《にがつ》二十二日《にちじゆうににち》横濱《よこはま》並《ならび》にその近郊《きんこう》に於《おい》て、煉瓦《れんが》煙突《えんとつ》並《ならび》に土壁《どへき》に小破損《しようはそん》を生《しよう》ぜしめた地震《ぢしん》にある。この時《とき》大學《だいがく》其他《そのた》の官衙《かんが》にゐた内外《ないがい》達識《たつしき》の士《し》が相會《あひかい》して、二週間目《にしゆうかんめ》には日本《につぽん》地震《ぢしん》學會《がつかい》を組織《そしき》し、つゞいて毎月《まいげつ》の會合《かいごう》に有益《ゆうえき》な研究《けんきゆう》の結果《けつか》を發表《はつぴよう》したが、創立《そうりつ》數箇月《すうかげつ》の後《のち》、當時《とうじ》東京《とうきよう》帝國《ていこく》大學《だいがく》理學部《りがくぶ》に於《お》ける機械《きかい》工學《こうがく》及《およ》び物理學《ぶつりがく》の教授《きようじゆ》であつたユーイング博士《はかせ》(現今《げんこん》エヂンバラ大學《だいがく》總長《そうちよう》)は水平《すいへい》振子《しんし》地震計《ぢしんけい》の發明《はつめい》を公《おほやけ》にし、ついで翌年《よくねん》には工學部《こうがくぶ》大學校《だいがつこう》電氣學《でんきがく》教授《きようじゆ》たりしグレー博士《はかせ》の考案《こうあん》を改良《かいりよう》した上下動《じようげどう》地震計《ぢしんけい》を作《つく》り出《だ》した。これが即《すなは》ち現今《げんこん》の地震計《ぢしんけい》の基礎《きそ》の形式《けいしき》であつて、當今《とうこん》行《おこな》はれてゐるミルン地震計《ぢしんけい》、大森《おほもり》地震計《ぢしんけい》、ガリッチン地震計《ぢしんけい》、パシュウィチ水平《すいへい》振子《しんし》など、其《その》構造《こうぞう》の要點《ようてん》は皆《みな》ユーイング地震計《ぢしんけい》である。實《じつ》にこの地震計《ぢしんけい》の發明《はつめい》は、それまで極《きは》めて幼稚《ようち》であつた地震學《ぢしんがく》が本當《ほんとう》の學問《がくもん》に進歩《しんぽ》した基《もとゐ》であるので、單《たん》に此《この》一點《いつてん》からみても、地震學《ぢしんがく》は日本《につぽん》に於《おい》て開《ひら》けたといつても差支《さしつか》へないくらゐである。それのみならず日本《につぽん》地震《ぢしん》學會《がつかい》から出版《しゆつぱん》せられた二十册《にじつさつ》の報告書《ほうこくしよ》は、當時《とうじ》世界《せかい》に於《おい》て唯一《ゆいつ》の地震學《ぢしんがく》雜誌《ざつし》であつたのみならず、收録《しゆうろく》せられた材料《ざいりよう》、ミルン教授《きようじゆ》等《ら》によつて物《もつ》せられたる多《おほ》くの論文《ろんぶん》、いづれも有益《ゆうえき》な資料《しりよう》であつて、今日《こんにち》でも地震學《ぢしんがく》について何《なに》か研究《けんきゆう》でも試《こゝろ》みんとするものゝ、必《かなら》ず參考《さんこう》すべき古典書《こてんしよ》である。
それやこれやの關係《かんけい》で、日本《につぽん》は地震學《ぢしんがく》開發《かいはつ》の國《くに》といはれてゐるのであるが、然《しか》し其《その》開發者《かいはつしや》の重《おも》な人々《じんこう》[#ルビの「じんこう」は底本のまま]は外國人《がいこくじん》、特《とく》にイギリス人《じん》であつた。關谷《せきや》教授《きようじゆ》、大森《おほもり》博士《はかせ》などの加《くは》はれたのはずっと後《のち》のことである。
明治《めいじ》二十四年《にじゆうよねん》十月《じゆうがつ》二十八日《にじゆうはちにち》の濃尾《のうび》大地震《だいぢしん》は、地震學《ぢしんがく》にとつて第二《だいに》の時代《じだい》を作《つく》つたものである。此頃《このごろ》に於《おい》て日本《につぽん》地震《ぢしん》學界《がつかい》[#「學界」は底本のまま]は解散《かいさん》の止《や》むなきに至《いた》つたが、新《あら》たにわが政府《せいふ》事業《じぎよう》として起《おこ》された震災《しんさい》豫防《よぼう》調査會《ちようさかい》が之《これ》に代《かは》つた。此《この》調査會《ちようさかい》の會員《かいいん》は全部《ぜんぶ》日本人《につぽんじん》であつて、地震學《ぢしんがく》、物理學《ぶつりがく》、地質學《じしつがく》、地理學《ちりがく》、土木《どぼく》工學《こうがく》、建築學《けんちくがく》、機械《きかい》工學《こうがく》等《とう》、地震學《ぢしんがく》の理論《りろん》並《ならび》に應用《おうよう》に關《かん》した學問《がくもん》に於《おい》てわが國《くに》第一流《だいゝちりゆう》の專門家《せんもんか》を網羅《もうら》したものであつた。隨《したが》つて地震動《ぢしんどう》の性質《せいしつ》、地震《ぢしん》に損傷《そんしよう》しない土木《どぼく》工事《こうじ》や、建築《けんちく》の仕方《しかた》等《とう》についての研究《けんきゆう》が非常《ひじよう》に進《すゝ》み、木造《もくぞう》竝《ならび》に西洋風《せいようふう》の家屋《かおく》につき耐震《たいしん》構造法《こうぞうほう》など殆《ほと》んど完全《かんぜん》の域《いき》に進《すゝ》んだ。調査會《ちようさかい》が大正《たいしよう》十三年《じゆうさんねん》廢止《はいし》せられるに至《いた》るまでに發表《はつぴよう》した報告書《ほうこくしよ》は和文《わぶん》のもの百一號《ひやくいちごう》、歐文《おうぶん》のもの二十六號《にじゆうろくごう》、別《べつ》に歐文《おうぶん》紀要《きよう》十一册《じゆういつさつ》、歐文《おうぶん》觀測録《かんそくろく》六册《ろくさつ》は、今日《こんにち》世界《せかい》が有《ゆう》する地震學《ぢしんがく》參考書《さんこうしよ》の中堅《ちゆうけん》をなすものであつて、これ等《ら》の事業《じぎよう》は、日本《につぽん》地震《ぢしん》學會《がつかい》時代《じだい》に於《おい》て專有《せんゆう》してゐたわが國《くに》の名聲《めいせい》を辱《はづ》かしめなかつたといへるであらう。
日本《につぽん》に於《お》ける地震學《ぢしんがく》のこれまでの發達《はつたつ》は主《おも》に人命《じんめい》財産《ざいさん》に關《かん》する方面《ほうめん》の研究《けんきゆう》であつた。然《しか》るに最近《さいきん》二十年《にじゆうねん》の間《あひだ》、歐米《おうべい》に於《お》ける地震學《ぢしんがく》は他《た》の方面《ほうめん》に發達《はつたつ》した。それは遠方《えんぽう》地震《ぢしん》の觀測《かんそく》によつて、わが地球《ちきゆう》の内部《ないぶ》の構造《こうぞう》を推究《すいきゆう》する仕方《しかた》である。少年《しようねん》讀者《どくしや》は、天文學《てんもんがく》、地理學《ちりがく》、地質學《ちしつがく》、物理學《ぶつりがく》等《とう》の應用《おうよう》によつて、わが地球《ちきゆう》の球體《きゆうたい》に近《ちか》きこと、平均《へいきん》密度《みつど》が五・五なること、表面《ひようめん》に近《ちか》き部分《ぶぶん》の構造《こうぞう》、内部《ないぶ》に蓄《たくは》へられる高熱《こうねつ》、地球《ちきゆう》が一箇《いつこ》の大《おほ》きな磁石《じしやく》であることなどを學《まな》ばれたであらう。又《また》此等《これら》の學問《がくもん》の力《ちから》によつて、わが地球《ちきゆう》は鋼鐵《こうてつ》よりも大《おほ》きな剛性《ごうせい》を有《ゆう》してゐることも分《わか》つて來《き》た。即《すなは》ち月《つき》や太陽《たいよう》の引力《いんりよく》によつてわが地球《ちきゆう》が受《う》けるひづみの分量《ぶんりよう》は、地球《ちきゆう》全體《ぜんたい》が鋼鐵《こうてつ》で出來《でき》てゐると假定《かてい》した場合《ばあひ》の三分《さんぶん》の二《に》しかないのである。言葉《ことば》をかへていへば地球《ちきゆう》の平均《へいきん》のしぶとさは鋼鐵《こうてつ》の一倍半《いちばいはん》である。かういふ風《ふう》にしてわが地球《ちきゆう》の知識《ちしき》はだん/\進《すゝ》んで來《き》たけれども、其《その》内部《ないぶ》の成立《なりた》ちに立入《たちい》つた知識《ちしき》は毛頭《もうとう》進《すゝ》んでゐないといつて宜《よろ》しかつた。實際《じつさい》地質學《ちしつがく》で研究《けんきゆう》してゐる地層《ちそう》の深《ふか》さは地表下《ちひようか》二三里内《にさんりない》に横《よこ》たはつてゐるもの許《ばか》りであつて、醫學上《いがくじよう》の皮膚科《ひふか》にも及《およ》ばないものである。但《たゞ》し茲《こゝ》に一《ひと》つの研究《けんきゆう》の手懸《てがか》りが出來《でき》たといふのは、地球《ちきゆう》の表面《ひようめん》近《ちか》くから放《はふ》つた斥候《せつこう》が、地球《ちきゆう》内部《ないぶ》にまで偵察《ていさつ》に出掛《でか》けそれが再《ふたゝ》び地球《ちきゆう》の表面《ひようめん》に現《あらは》れて來《き》て報告《ほうこく》をなしつゝあることが氣附《きづ》かれたことである。此《この》斥候《せつこう》は何者《なにもの》であるかといふと、大地震《だいぢしん》のときに起《おこ》る地震波《ぢしんぱ》である。實際《じつさい》地震《ぢしん》は、地球《ちきゆう》の表面《ひようめん》に近《ちか》い所《ところ》に發生《はつせい》するものであるが、ちょうど風《かぜ》が水面《すいめん》に波《なみ》を起《おこ》すように、又《また》發音體《はつおんたい》が空氣中《くうきちゆう》に音波《おんぱ》を起《おこ》すように、地震《ぢしん》は地震波《ぢしんぱ》を起《おこ》すのである。さうして地震《ぢしん》が大《おほ》きければ大《おほ》きい程《ほど》地震波《ぢくんぱ》[#ルビの「ぢくんぱ」は底本のまま]も大《おほ》きいので、これが地球《ちきゆう》の表面《ひようめん》を沿《そ》うて四方《しほう》八方《はつぽう》に擴《ひろ》がり、或《あるひ》は地球《ちきゆう》を一廻《ひとまは》りも二廻《ふたまは》りもすることもあるが、それと同時《どうじ》に地震波《ぢしんぱ》は地球《ちきゆう》内部《ないぶ》の方向《ほうこう》にも進行《しんこう》して反對《はんたい》の方面《ほうめん》に現《あらは》れ、場合《ばあひ》によつては地球《ちきゆう》の表面《ひようめん》で反射《はんしや》して再《ふたゝ》び他《た》の方面《ほうめん》に向《むか》うのもある。但《たゞ》し此《この》斥候《せつこう》の報告書《ほうこくしよ》とも名《な》づくべきものは、單《たん》に地震波《ぢしんぱ》の種々《しゆ/″\》の形式《けいしき》のみであるから、これを書取《かきと》り其上《そのうへ》にそれを讀《よ》み取《と》ることを必要《ひつよう》とする。これは容易《ようい》ならぬ爲事《しごと》であるが、しかしながら單《たん》に困難《こんなん》であるだけであつて決《けつ》して不可能《ふかのう》ではない。
地震波《ぢしんぱ》の偵察《ていさつ》した結果《けつか》を書《か》き取《と》る器械《きかい》、これを地震計《ぢしんけい》と名《な》づける。前《まへ》にユーイング教授《きようじゆ》が地震計《ぢしんけい》を發明《はつめい》したことを述《の》べたが、これは實《じつ》に容易《ようい》ならざる發明《はつめい》であつたのである。讀者《どくしや》試《こゝろ》みに地震計《ぢしんけい》の原理《げんり》を想像《そう/″\》してみるがよい。地上《ちじよう》の萬物《ばんぶつ》は地震《ぢしん》のとき皆《みな》搖《ゆ》れ出《だ》すのに、自分《じぶん》だけ空間《くうかん》の元《もと》の點《てん》から動《うご》かないといふような方法《ほう/\》を工夫《くふう》しなければなるまい。これは決《けつ》してさう安々《やす/\》と考《かんが》へ出《だ》せるはずのものではないのであるが、更《さら》に其《その》精巧《せいこう》なものに至《いた》つては、人《ひと》の身體《しんたい》には勿論《もちろん》、普通《ふつう》の地震計《ぢしんけい》にも感《かん》じない程《ほど》の地震波《ぢしんぱ》まで記録《きろく》することが出來《でき》るのである。特《とく》に其中《そのうち》、ゆっくりとした震動《しんどう》、例《たと》へば一分間《いつぷんかん》に一糎《いちせんちめーとる》程《ほど》を靜《しづ》かに往復《おうふく》振動《しんどう》するような場合《ばあひ》に於《おい》ても、これを實際《じつさい》のまゝに書取《かきと》らしめることが長週期《ちようしゆうき》地震計《ぢしんけい》と名《な》づけるものゝ特色《とくしよく》である。かういふ地震計《ぢしんけい》で遠方《えんぽう》の大地震《だいぢしん》を觀測《かんそく》すると、その記録《きろく》した模樣《もよう》が極《きは》めて規則《きそく》正《たゞ》しいものとなつて現《あらは》れて來《き》て、今日《こんにち》では模樣《もよう》の一《ひと》つ/\について其《その》經路《けいろ》が既《すで》に明《あきら》かにせられてゐる。これによつて地球《ちきゆう》の内部《ないぶ》を通《とほ》るときの地震波《ぢしんぱ》の速《はや》さは、地球《ちきゆう》を鋼鐵《こうてつ》とした場合《ばあひ》の幾倍《いくばい》にも當《あた》ることが分《わか》り、又《また》地球《ちきゆう》の内部《ないぶ》は鐵《てつ》の心《しん》から成《か》[#ルビの「か」は底本のまま]り立《た》つてをり、その大《おほ》きさは半徑《はんけい》二千七百《にせんしちひやく》粁《きろめーとる》の球《きゆう》であることが推定《すいてい》せられて來《き》た。
地震學《ぢしんがく》の今日《こんにち》の進歩《しんぽ》によつて、地球《ちきゆう》の内部《ないぶ》状態《じようたい》が分《わか》りかけて來《き》たことは右《みぎ》の通《とほ》りであるが、實際《じつさい》地震學《ぢしんがく》を除外《じよがい》しては、此《この》地球《ちきゆう》内部《ないぶ》状態《じようたい》の研究《けんきゆう》資料《しりよう》となるところのものが全《まつた》く氣《き》づかれてゐないのである。さればこそ歐米《おうべい》の地震《ぢしん》學者《がくしや》の多《おほ》くは此《この》方面《ほうめん》の研究《けんきゆう》に興味《きようみ》を持《も》ち、また主力《しゆりよく》を傾《かたむ》けてゐるのである。實際《じつさい》地震《ぢしん》の全《まつた》く起《おこ》ることなき國《くに》に於《おい》ては、生命《せいめい》財産《ざいさん》に關係《かんけい》ある方面《ほうめん》の研究《けんきゆう》は無意味《むいみ》であるけれども、適當《てきとう》な器械《きかい》さへあれば、世界《せかい》の遠隔《えんかく》した場所《ばしよ》に起《おこ》つた地震《ぢしん》の餘波《よは》を觀測《かんそく》して、前記《ぜんき》の如《ごと》き研究《けんきゆう》が結構《けつこう》出來《でき》るのである。
前《まへ》に述《の》べた通《とほ》り地震學《ぢしんがく》の研究《けんきゆう》は、便宜上《べんぎじよう》これを二《ふた》つの方面《ほうめん》に分《わ》けることが出來《でき》る。即《すなは》ち一《ひと》つは人命《じんめい》財産《ざいさん》に直接《ちよくせつ》關係《かんけい》ある事項《じこう》、他《た》は地球《ちきゆう》の内部《ないぶ》状態《じようたい》の推究《すいきゆう》に關係《かんけい》ある事項《じこう》である。わが國《くに》に於《お》ける地震學《ぢしんがく》は無論《むろん》第一《だいゝち》の方面《ほうめん》には著《いちじる》しい發達《はつたつ》を遂《と》げ、決《けつ》して他《た》に後《おく》れを取《と》つたことがないのみならず、今後《こんご》に於《おい》てもやはり其《その》先頭《せんとう》に立《た》つて進行《しんこう》することが出來《でき》るであらうと信《しん》じてゐる。然《しか》るに第二《だいに》の方面《ほうめん》に於《おい》ては、歐洲《おうしゆう》特《とく》にドイツ邊《へん》に優秀《ゆうしゆう》な學者《がくしや》が多《おほ》く現《あらは》れ、近年《きんねん》わが國《くに》は此點《このてん》について彼《かれ》に一歩《いつぽ》を讓《ゆづ》つてゐたかの感《かん》があつたが、大正《たいしよう》十二年《じゆうにねん》關東《かんとう》大地震《だいぢしん》以來《いらい》、研究者《けんきゆうしや》次第《しだい》に増加《ぞうか》し優秀《ゆうしゆう》な若《わか》い學者《がくしや》も出來《でき》て來《き》たので、最近《さいきん》二三年《にさんねん》の間《あひだ》に於《おい》ては此《この》方面《ほうめん》にも手《て》が次第《しだい》に伸《の》びて來《き》て、今日《こんにち》では最早《もはや》彼《かれ》に後《おく》れてゐようとは思《おも》はれない。
地震學《ぢしんがく》の應用《おうよう》によつて地球《ちきゆう》の内部《ないぶ》状態《じようたい》が可《か》なりに明《あ》かるくなつて來《き》たことは前《まへ》にも述《の》べた通《とほ》りであるが、本篇《ほんぺん》に於《おい》ては此《この》方面《ほうめん》に向《むか》つて、前記《ぜんき》以上《いじよう》に深入《ふかい》りしようとは思《おも》はない。但《たゞ》し地震《ぢしん》の起《おこ》り樣《よう》、即《すなは》ち地震《ぢしん》はいかなる場所《ばしよ》に於《おい》てどんな作用《さよう》で起《おこ》るかの大體《だいたい》の觀念《かんねん》を得《う》るため、地球《ちきゆう》の表面《ひようめん》に近《ちか》き部分《ぶぶん》の構造《こうぞう》を述《の》べさして貰《もら》ひたい。
わが地球《ちきゆう》には水界《すいかい》と陸界《りくかい》との區別《くべつ》があり、陸界《りくかい》は東大陸《ひがしたいりく》、西大陸《にしたいりく》、濠洲《ごうしゆう》等《とう》に分《わか》れてゐる。此《この》陸界《りくかい》と水界中《すいかいちゆう》に於《おい》て特《とく》に深《ふか》い海《うみ》の部分《ぶぶん》とは、土地《とち》の構造《こうぞう》、特《とく》に其《その》地震學上《ぢしんがくじよう》から見《み》た性質《せいしつ》に於《おい》て可《か》なりな相違《そうい》がある。大陸《たいりく》は主《しゆ》として花崗岩質《かこうがんしつ》のもので出來《でき》てゐて、大體《だいたい》十里《じゆうり》程度《ていど》の深《ふか》さを持《も》つてゐるようである。それは下《した》の鐵心《てつしん》に至《いた》るまでは玄武岩質《げんぶがんしつ》のものもしくはそれに鐵分《てつぶん》が加《くは》はつたもので出來《でき》てゐて、これは急速《きゆうそく》に働《はたら》く力《ちから》に對《たい》して極《きは》めてしぶとく抵抗《ていこう》する性質《せいしつ》を備《そな》へてゐるけれども、緩《ゆる》く働《はたら》く力《ちから》に對《たい》しては容易《ようい》に形《かたち》を變《か》へ、力《ちから》の働《はたら》くまゝになること、食用《しよくよう》の飴《あめ》を思《おも》ひ出《だ》させるようなものである。さうして深《ふか》い海《うみ》の底《そこ》はこの質《しつ》の層《そう》が直接《ちよくせつ》其《その》表面《ひようめん》まで達《たつ》してゐるか、或《あるひ》は表面《ひようめん》近《ちか》く進《すゝ》んで來《き》てゐて、其上《そのうへ》を陸界《りくかい》の性質《せいしつ》のもので薄《うす》く被《おほ》ふてゐるくらゐにすぎぬと、かう考《かんが》へられてゐる。
地球《ちきゆう》はさういふ性質《せいしつ》の薄皮《はくひ》を以《もつ》て被《おほ》はれてをり、深海床《しんかいしよう》又《また》は地下《ちか》深《ふか》い所《ところ》は、緩《ゆる》く働《はたら》く力《ちから》に對《たい》してしぶとく抵抗《ていこう》しないので、地震《ぢしん》を起《おこ》さうといふ力《ちから》は大陸《たいりく》又《また》は其《その》周圍《しゆうい》に於《おい》ては次第《しだい》に蓄積《ちくせき》することを許《ゆる》されても、深《ふか》い海底《かいてい》特《とく》に地球《ちきゆう》の内部《ないぶ》に於《おい》ては、たとひかような力《ちから》が働《はたら》くことがあつても、風《かぜ》に柳《やなぎ》の譬《たとひ》の通《とほ》り、すぐにその力《ちから》のなすまゝに形《かたち》を調節《ちようせつ》して平均《へいきん》が成《な》り立《た》つため、地震力《ぢしんりよく》が蓄《たくは》へられることを許《ゆる》されない。そこで大《おほ》きな地震《ぢしん》は、大陸《たいりく》又《また》は其《その》周圍《しゆうい》に於《おい》て、十里《じゆうり》以内《いない》の深《ふか》さの所《ところ》に起《おこ》ることが通常《つうじよう》であつて、深《ふか》い海《うみ》の中央部《ちゆうおうぶ》、又《また》は數十里《すうじゆうり》或《あるひ》は數百里《すうひやくり》の深《ふか》さの地下《ちか》では起《おこ》らない。たとひそこに地震《ぢしん》が起《おこ》ることがあつても、それは大《おほ》きくないものに限《かぎ》るのである。
[#図版(img_01.png)、アフリカ海岸と南米東岸との符号]
大陸《たいりく》は現今《げんこん》のように五大洲《ごだいしゆう》に分《わか》れてゐるけれども、地球《ちきゆう》が融《と》けてゐた状態《じようたい》から、固《かた》まり始《はじ》めたときには、單《たん》に一《ひと》つの塊《かたまり》であつたが、それが或《ある》作用《さよう》のために數箇《すうこ》の地塊《ちかい》に分裂《ぶんれつ》し、地球《ちきゆう》の自轉《じてん》其他《そのた》の作用《さよう》で、次第《しだい》に離《はな》れ離《ばな》れになつて今日《こんにち》のようになつたものと信《しん》じられてゐる。讀者《どくしや》もし世界《せかい》地圖《ちず》を開《ひら》かれたなら、アフリカの西沿岸《にしえんがん》の大《おほ》きな凹《くぼ》みが、大西洋《たいせいよう》を隔《へだ》てた對岸《たいがん》の南《みなみ》アメリカ、特《とく》にブラジルの沿岸《えんがん》のでっぱりに丁度《ちようど》割符《わりふ》を合《あは》せたようにつぎ合《あ》はされることを氣附《きづ》かれるであらう。このような海岸線《かいがんせん》の組合《くみあは》せは地球上《ちきゆうじよう》至《いた》る所《ところ》に見出《みいだ》されるが、紅海《こうかい》の東海岸《ひがしかいがん》と西海岸《にしかいがん》との如《ごと》きも著《いちじる》しい一組《ひとくみ》である。もし手近《てぢ》かな例《れい》が欲《ほ》しければ、小規模《しようきぼ》ではあるけれども、浦賀《うらが》海峽《かいきよう》の左右《さゆう》兩岸《りようがん》を擧《あ》げることが出來《でき》る。これを熟視《じゆくし》されると、兩對岸《りようたいがん》が相《あひ》接觸《せつしよく》してゐた模樣《もよう》が想像《そう/″\》せられるであらうが、さう接續《せつぞく》してゐたと考《かんが》へてのみ説明《せつめい》し得《え》られる地理學上《ちりがくじよう》の事項《じこう》が、又《また》其中《そのなか》に含《ふく》まれてゐるのである。
[#図版(img_02.png)、紅海兩海岸の符号]
大陸《たいりく》は、譬《たと》へば飴《あめ》の海《うみ》に浮《うか》んでゐる船《ふね》である。これが浮動《ふどう》を妨《さまた》げゐるのは深海床《しんかいしよう》から伸《の》ばされた章魚《たこ》の手《て》である。そしてこの章魚《たこ》は大陸《たいりく》の船縁《ふなべり》を掴《つか》んでゐるのである。或《ある》極限《きよくげん》まではかくして大陸《たいりく》の浮動《ふどう》を支《さゝ》へてゐるけれども、遂《つひ》に支《さゝ》へ切《き》れなくて或《あるひ》は手《て》を離《はな》したり或《あるひ》は指《ゆび》を切《き》つたりして平均《へいきん》が破《やぶ》れ、隨《したが》つて急激《きゆうげき》な移動《いどう》も起《おこ》るのである。此《この》急激《きゆうげき》な移動《いどう》、これが即《すなは》ち大地震《だいぢしん》の原因《げんいん》である。もしかような大移動《だいいどう》が海底《かいてい》で起《おこ》れば津浪《つなみ》を起《おこ》すことにもなる。
火山《かざん》作用《さよう》によつて地震《ぢしん》を起《おこ》すことは、別《べつ》に説明《せつめい》を要《よう》するまでもないことである。又《また》其《その》作用《さよう》によつても地震《ぢしん》が起《おこ》されることがないでもないが、いづれの場合《ばあひ》に於《おい》ても、大地震《だいぢしん》とは縁遠《えんどほ》いものゝみである。隨《したが》つて人命《じんめい》財産《ざいさん》の損失《そんしつ》から見《み》るとき、これ等《ら》の問題《もんだい》は考《かんが》へに入《い》れなくとも差支《さしつか》へないであらう。
[#図版(img_03.png)、關東大地震の震原と地盤の移動]
この際《さい》一言《いちげん》して置《お》く必要《ひつよう》のあることは地震《ぢしん》の副原因《ふくげんいん》といふことである。即《すなは》ち地震《ぢしん》が起《おこ》るだけの準備《じゆんび》が出來《でき》てゐる時《とき》、それを活動《かつどう》に轉《てん》ぜしめる機會《きかい》を與《あた》へるところの誘因《ゆういん》である。例《たと》へば鐵砲《てつぽう》の彈丸《たま》を遠方《えんぽう》へ飛《と》ばす原因《げんいん》は火藥《かやく》の爆發力《ばくはつりよく》であるが、これを實現《じつげん》せしめる副原因《ふくげんいん》は引金《ひきがね》を外《はづ》す作用《さよう》である。鐵砲《てつぽう》に彈藥《だんやく》が裝填《そうてん》してあれば引金《ひきがね》を外《はづ》すことによつて彈丸《たま》が遠方《えんぽう》に飛《と》ぶが、もし彈藥《だんやく》が裝填《そうてん》してなく或《あるひ》は單《たん》に彈丸《たま》だけ詰《つ》めて火藥《かやく》を加《くは》へなかつたなら、たとひ幾度《いくど》引金《ひきがね》を外《はづ》しても彈丸《たま》は決《けつ》して飛《と》び出《だ》さない。地震《ぢしん》の場合《ばあひ》に於《おい》て此《この》引金《ひきがね》の働《はたら》きに相當《そうとう》するものとして、氣壓《きあつ》、潮《しほ》の干滿《かんまん》などいろ/\ある。例《たと》へば相模《さがみ》平野《へいや》に起《おこ》る地震《ぢしん》に於《おい》ては、其《その》地方《ちほう》の北西方《ほくせいほう》に於《おい》て氣壓《きあつ》が高《たか》く、南東方《なんとうほう》に於《おい》てそれが低《ひく》いと其《その》地方《ちほう》の地震《ぢしん》が誘發《ゆうはつ》され易《やす》い。其故《それゆゑ》地震《ぢしん》の豫知《よち》問題《もんだい》の研究《けんきゆう》に於《おい》て右《みぎ》のような副原因《ふくげんいん》を研究《けんきゆう》することも大切《たいせつ》であるが、然《しか》しながら事實上《じじつじよう》の問題《もんだい》として引金《ひきがね》の空外《からはづ》しともいふべき場合《ばあひ》が頗《すこぶ》る多《おほ》いことである。つまり百千《ひやくせん》の空外《からはづ》しに對《たい》して僅《わづか》に一回《いつかい》の實彈《じつだん》が飛《と》び出《だ》すくらゐの事《こと》であるから、かような副原因《ふくげんいん》だけを研究《けんきゆう》してゐては、豫知《よち》問題《もんだい》の方《ほう》へ一歩《いつぽ》も進出《しんしゆつ》することが出來《でき》ないような關係《かんけい》になるのである。
[#図版(img_04.png)、丹後地震に伴へる郷村断層]
豫知《よち》問題《もんだい》の研究《けんきゆう》について最《もつと》も大切《たいせつ》な目標《もくひよう》は、地震《ぢしん》の主原因《しゆげんいん》の調査《ちようさ》である。彈藥《だんやく》が完全《かんぜん》に裝填《そうてん》されてあるか、否《いな》かを調《しら》べることである。近時《きんじ》此《この》方面《ほうめん》の研究《けんきゆう》がわが日本《につぽん》に於《おい》て大《おほ》いに進《すゝ》んで來《き》た。著者《ちよしや》は昭和《しようわ》二年《にねん》九月《くがつ》チェッコスロバキア國《こく》の首府《しゆふ》プラーグに於《お》ける地震《ぢしん》學科《がつか》の國際《こくさい》會議《かいぎ》に於《おい》て、此《この》問題《もんだい》に關《かん》するわが國《くに》最近《さいきん》の研究《けんきゆう》結果《けつか》につき報告《ほうこく》するところがあつたが、列席《れつせき》の各員《かくいん》は著者《ちよしや》が簡單《かんたん》に演述《えんじゆつ》した大地震《だいぢしん》前徴《ぜんちよう》につき更《さら》に詳細《しようさい》な説明《せつめい》を求《もと》められ、頗《すこぶ》る滿足《まんぞく》の態《てい》に見受《みう》けた。實際《じつさい》地震《ぢしん》の豫知《よち》問題《もんだい》の解決《かいけつ》は至難《しなん》の業《わざ》であるに相違《そうい》ない。然《しか》しながら決《けつ》して不可能《ふかのう》のものとは思《おも》はない。著者《ちよしや》の如《ごと》きは、此《この》問題《もんだい》は既《すで》にある程度《ていど》までは机上《きじよう》に於《おい》て解決《かいけつ》せられてゐると思《おも》つてゐる。殘《のこ》るところは其《その》考案《こうあん》の實施《じつし》如何《いかん》といふ點《てん》に歸着《きちやく》する。而《しか》も其《その》實施《じつし》は一時《いちじ》に數十《すうじゆう》萬圓《まんえん》、年々《ねん/\》十萬圓《じゆうまんえん》の費用《ひよう》にて出來《でき》る程度《ていど》である。
地震《ぢしん》の豫知《よち》問題《もんだい》が假《かり》に都合《つごう》よく解決《かいけつ》されたとしても、震災《しんさい》防止《ぼうし》については猶《なほ》重大《じゆうだい》な問題《もんだい》が多分《たぶん》に殘《のこ》るであらう。假《かり》に地震《ぢしん》豫報《よほう》が天氣《てんき》豫報《よほう》の程度《ていど》に達《たつ》しても、雨天《うてん》に於《おい》ては雨着《あまぎ》や傘《かさ》を要《よう》するように、又《また》暴風《ぼうふう》に對《たい》しては海上《かいじよう》の警戒《けいかい》は勿論《もちろん》、農作物《のうさくぶつ》、家屋《かおく》等《とう》に對《たい》しても臨機《りんき》の處置《しよち》が入用《にゆうよう》であらう。其上《そのうへ》、氣象上《きしようじよう》の大《おほ》きな異變《いへん》については單《たん》に豫報《よほう》ばかりで解決《かいけつ》されないこと、昭和《しようわ》二年《にねん》九月《くがつ》十三日《じゆうさんにち》、西九州《にしきゆうしゆう》に於《お》ける風水害《ふうすいがい》の慘状《さんじよう》を見《み》ても明《あき》らかであらう。著者《ちよしや》の想像《そう/″\》では、假《かり》に地震《ぢしん》豫報《よほう》が出來《でき》る日《ひ》が來《き》ても、それは地震《ぢしん》の起《おこ》りそうな或《ある》特別《とくべつ》の地方《ちほう》を指摘《してき》し得《う》るのみで、それが幾時間後《いくじかんご》か將《は》た幾日後《いくにちご》に實現《じつげん》するかを知《し》るのは更《さら》に研究《けんきゆう》が進《すゝ》まねば解決《かいけつ》出來《でき》ないことゝ考《かんが》へる。要《よう》するに地震學《ぢしんがく》進歩《しんぽ》の現状《げんじよう》に於《おい》ては、何時《いつ》地震《ぢしん》に襲《おそ》はれても差支《さしつか》へないように平常《へいじよう》の心懸《こゝろが》けが必要《ひつよう》である。建物《たてもの》や土木《どぼく》工事《こうじ》を耐震的《たいしんてき》にするといふようなことは、これ亦《また》平日《へいじつ》行《おこな》ふべきことではあるが、しかしこれは其局《そのきよく》に當《あた》るものゝ注意《ちゆうい》すべき事項《じこう》であつて、小國民《しようこくみん》が與《あづか》らずともよい事《こと》である。然《しか》しながら地震《ぢしん》に出會《であ》つた其《その》瞬間《しゆんかん》に於《おい》ては、大小《だいしよう》國民《こくみん》殘《のこ》らず自分《じしん》[#ルビの「じしん」は底本のまま]で適當《てきとう》な處置《しよち》を取《と》らなければならないから、此《この》場合《ばあひ》の心懸《こゝろが》けは地震國《ぢしんこく》の國民《こくみん》に取《と》つて一人《ひとり》殘《のこ》らず必要《ひつよう》なことである。
わが國《くに》の如《ごと》き地震國《ぢしんこく》に於《おい》ては、地震《ぢしん》に出會《であ》つたときの適當《てきとう》な心得《こゝろえ》が絶對《ぜつたい》に必要《ひつよう》なるにも拘《かゝ》[#ルビの「かゝ」は底本のまま]らず、從來《じゆうらい》かようなものが缺《か》けてゐた。たとひ多少《たしよう》それに注意《ちゆうい》したものがあつても、地震《ぢしん》の眞相《しんそう》を誤解《ごかい》してゐるため、適當《てきとう》なものになつてゐなかつた。著者《ちよしや》はこれに氣附《きづ》いたので、此《この》數年間《すうねんかん》其《その》編纂《へんさん》に腐心《ふしん》してゐたが、東京《とうきよう》帝國《ていこく》大學《だいがく》地震學《ぢしんがく》教室《きようしつ》に於《お》ける同人《どうにん》の助言《じよげん》によつて、大正《たいしよう》十五年《じゆうごねん》に至《いた》つて漸《やうや》く之《これ》を公《おほやけ》にする程度《ていど》に達《たつ》した。本篇《ほんぺん》は主《おも》にこの注意書《ちゆういしよ》に對《たい》する解釋《かいしやく》を誌《しる》したものといつてよいと思《おも》ふ。もし此《この》心得《こゝろえ》を體得《たいとく》せられたならば、個人《こじん》としては震災《しんさい》から生《しよう》ずる危難《きなん》を免《まぬか》れ、社會上《しやかいじよう》の一人《ひとり》としては地震後《ぢしんご》の火災《かさい》を未然《みぜん》に防止《ぼうし》し、從來《じゆうらい》われ/\が惱《なや》んだ震災《しんさい》の大部分《だいぶぶん》が避《さ》けられることゝ思《おも》ふ。少《すくな》くもそのような結果《けつか》になるように期待《きたい》してゐるものである。
つぎに著者《ちよしや》が編纂《へんさん》した注意書《ちゆういしよ》を掲《かゝ》げることにする。
三、地震《ぢしん》に出會《であ》つたときの心得《こゝろえ》
一、 最初《さいしよ》の一瞬間《いつしゆんかん》に於《おい》て非常《ひじよう》の地震《ぢしん》なるか否《いな》かを判斷《はんだん》し、機宜《きゞ》に適《てき》する目論見《もくろみ》を立《た》てること、但《たゞ》しこれには多少《たしよう》の地震《ぢしん》知識《ちしき》を要《よう》す。
二、 非常《ひじよう》の地震《ぢしん》たるを覺《さと》るものは自《みづか》ら屋外《おくがい》に避難《ひなん》せんと力《つと》めるであらう。數秒間《すうびようかん》に廣場《ひろば》へ出《で》られる見込《みこ》みがあらば機敏《きびん》に飛《と》び出《だ》すがよい。但《たゞ》し火《ひ》の元《もと》用心《ようじん》を忘《わす》れざること。
三、 二階建《にかいだて》、三階建《さんがいだて》等《とう》の木造《もくぞう》家屋《かおく》では、階上《かいじよう》の方《ほう》却《かへ》つて危險《きけん》が少《すくな》い、高層《こうそう》建物《たてもの》の上層《じようそう》に居合《ゐあは》せた場合《ばあひ》には屋外《おくがい》へ避難《ひなん》することを斷念《だんねん》しなければなるまい。
四、 屋内《おくない》の一時《いちじ》避難所《ひなんじよ》としては堅牢《けんろう》な家屋《かおく》の傍《そば》がよい。教場内《きようじようない》に於《おい》ては机《つくゑ》の下《した》が最《もつと》も安全《あんぜん》である。木造《もくぞう》家屋内《かおくない》にては桁《けた》、梁《はり》の下《した》を避《さ》けること、又《また》洋風《ようふう》建物内《たてものない》にては、張壁《はりかべ》、煖爐用《だんろよう》煉瓦《れんが》、煙突《えんとつ》等《とう》の落《お》ちて來《き》さうな所《ところ》を避《さ》け、止《や》むを得《え》ざれば出入口《でいりぐち》の枠構《わくがま》への直下《ちよくか》に身《み》を寄《よ》せること。
五、 屋外《おくがい》に於《おい》ては屋根瓦《やねがはら》、壁《かべ》の墜落《ついらい》[#ルビの「ついらい」は底本のまま]、或《あるひ》は石垣《いしがき》、煉瓦塀《れんがべい》、煙突《えんとつ》等《とう》の倒潰《とうかい》し來《きた》る虞《おそれ》ある區域《くいき》から遠《とほ》ざかること。特《とく》に石燈籠《いしどうろう》に近寄《ちかよ》らざること。
六、 海岸《かいがん》に於《おい》ては津浪《つなみ》襲來《しゆうらい》の常習地《じようしゆうち》を警戒《けいかい》し、山間《さんかん》に於《おい》ては崖崩《がけくづ》れ、山津浪《やまつなみ》に關《かん》する注意《ちゆうい》を怠《おこた》らざること。
七、 大地震《だいぢしん》に當《あた》り凡《およ》そ最初《さいしよ》の一分間《いつぷんかん》を凌《しの》ぎ得《え》たら、最早《もはや》危險《きけん》を脱《だつ》したものと見做《みな》し得《え》られる。餘震《よしん》恐《おそ》れるに足《た》らず、地割《ぢわ》れに吸《す》ひ込《こ》まれる事《こと》はわが國《くに》にては絶對《ぜつたい》になし。老若《ろうじやく》男女《だんじよ》、總《すべ》て力《ちから》のあらん限《かぎ》り災害《さいがい》防止《ぼうし》に力《つと》むべきである。火災《かさい》の防止《ぼうし》を眞先《まつさき》にし、人命《じんめい》救助《きゆうじよ》をそのつぎとすること。これ即《すなは》ち人命《じんめい》財産《ざいさん》の損失《そんしつ》を最小《さいしよう》にする手段《しゆだん》である。
八、 潰家《かいか》からの發火《はつか》は地震《ぢしん》直後《ちよくご》に起《おこ》ることもあり、一二《いちに》時間《じかん》の後《のち》に起《おこ》ることもある。油斷《ゆだん》なきことを要《よう》する。
九、 大地震《だいぢしん》の場合《ばあひ》には水道《すいどう》は斷水《だんすい》するものと覺悟《かくご》し、機敏《きびん》に貯水《ちよすい》の用意《ようい》をなすこと。又《また》水《みづ》を用《もち》ひざる消防法《しようぼうほう》をも應用《おうよう》すべきこと。
十、 餘震《よしん》は其《その》最大《さいだい》なるものも最初《さいしよ》の大地震《だいぢしん》の十分《じゆうぶん》の一《いち》以下《いか》の勢力《せいりよく》である。最初《さいしよ》の大地震《だいぢしん》を凌《しの》ぎ得《え》た木造《もくぞう》家屋《かおく》は、たとひ多少《たしよう》の破損《はそん》をなしても、餘震《よしん》に對《たい》しては安全《あんぜん》であらう。但《たゞ》し地震《ぢしん》でなくとも壞《こわ》れそうな程度《ていど》に損《そん》したものは例外《れいがい》である。
右《みぎ》の中《うち》、説明《せつめい》を略《りやく》してもよいものがある。然《しか》しながら、一應《いさおう》[#ルビの「いさおう」は底本のまま]はざっとした註釋《ちゆうしやく》を加《く》はへることにする。以下《いか》項《こう》を追《お》うて進《すゝ》んで行《ゆ》く。
一、突差《とつさ》の處置《しよち》
地震《ぢしん》に出會《であ》つた一瞬間《いつしゆんかん》、心《こゝろ》の落着《おちつき》を失《うしな》つて狼狽《ろうばい》もすれば、徒《いたづ》らに逃《に》げ惑《まど》ふ一方《いつぽう》のみに走《はし》るものもある。平日《へいじつ》の心得《こゝろえ》の足《た》りない人《ひと》にこれが多《おほ》い。
著者《ちよしや》の編《あ》んだ第一項《だいゝつこう》は、最初《さいしよ》の一瞬間《いつしゆんかん》に於《おい》て、それが非常《ひじよう》の地震《ぢしん》なるか否《いな》かを判斷《はんだん》せよといふのである。もし大《たい》した地震《ぢしん》でないといふ見込《みこみ》がついたならば、心《こゝろ》も自然《しぜん》に安《やす》らかなはずであるから過失《かしつ》の起《おこ》りようもない。其上《そのうへ》危險性《きけんせい》を帶《お》びた大地震《だいぢしん》に出會《であ》ふといふのは、人《ひと》の一生《いつしよう》の間《あひだ》に於《おい》て多《おほ》くて一二回《いちにかい》にしかないはずであるから、われ/\が出會《であ》ふ所《ところ》の地震《ぢしん》の殆《ほと》んど全部《ぜんぶ》は大《たい》したものでないといふことがいへる。但《たゞ》し其《その》一生《いつしよう》の間《あひだ》に一二回《いちにかい》しか出會《であ》はないはずのものに、偶《たま/\》出會《であ》つた場合《ばあひ》が最《もつと》も大切《たいせつ》であるから、さういふ性質《せいしつ》の地震《ぢしん》であるか否《いな》かを最初《さいしよ》の一瞬間《いつしゆんかん》に於《おい》て判定《はんてい》することは、地震《ぢしん》に出會《であ》つたときの心得《こゝろえ》として最《もつと》も大切《たいせつ》な一事件《いちじけん》である。
地震《ぢしん》は地表下《ちひようか》に於《おい》て餘《あま》り深《ふか》くない所《ところ》で起《おこ》るものである。但《たゞ》し深《ふか》くないといつても、それは地球《ちきゆう》の大《おほ》きさに比較《ひかく》していふことであつて、これを絶對《ぜつたい》にいふならば幾里《いくり》・幾十《いくじゆう》粁《きろめーとる》といふ程度《ていど》のものである。もし震原《しんげん》が直下《ちよつか》でなかつたならば、震原《しんげん》に對《たい》して水平《すいへい》の方向《ほうこう》にも距離《きより》が加《くは》はつて來《く》るから、距離《きより》は益《ます/\》遠《とほ》くなるわけである。
われ/\は地震《ぢしん》を感《かん》じた場合《ばあひ》、其《その》振動《しんどう》の緩急《かんきゆう》によつて震原《しんげん》距離《きより》の概念《がいねん》を有《も》つようになる。即《すなは》ち振動《しんどう》緩《かん》なるときは震原《しんげん》が遠《とほ》いことを想像《そう/″\》するが、反對《はんたい》に振動《しんどう》が急《きゆう》なときは震原《しんげん》はわれわれに近《ちか》いことゝ判斷《はんだん》する。又《また》地震《ぢしん》と同時《どうじ》に、或《あるひ》はこれを感《かん》ずる前《まへ》に地鳴《ぢな》りを聞《き》くこともある。これは地震《ぢしん》がわれ/\に最《もつと》も近《ちか》く起《おこ》つた場合《ばあひ》である。
地震《ぢしん》は其《その》根源《こんげん》の場所《ばしよ》に於《おい》ては緩急《かんきゆう》各種《かくしゆ》の地震波《ぢしんぱ》を發生《はつせい》するものであつて、これが相伴《あひともな》つて四方《しほう》八方《はつぽう》へ擴《ひろ》がつて行《ゆ》くのであるが、此際《このさい》急《きゆう》な振動《しんどう》をなす波動《はどう》は途《みち》すがら其《その》勢力《せいりよく》を最《もつと》も速《すみや》かに減殺《げんさい》されるから、振動《しんどう》の急《きゆう》なもの程《ほど》其《その》擴《ひろ》がる範圍《はんい》が狹《せま》く、緩《ゆるや》かなもの程《ほど》それが廣《ひろ》い。此事《このこと》をつぎのようにもいふ。即《すなは》ち急《きゆう》な振動《しんどう》は、其《その》勢力《せいりよく》が中間《ちゆうかん》の媒介物《ばいかいぶつ》に吸收《きゆうしゆう》され易《やす》く、緩《ゆるや》かなものはそれが吸收《きゆうしゆう》され惡《にく》い。これがわれ/\の感《かん》じた地震動《ぢしんどう》の緩急《かんきゆう》によつて、地震《ぢしん》が深《ふか》くに起《おこ》つたか或《あるひ》は近《ちか》くに起《おこ》つたかを判斷《はんだん》し得《う》る理由《りゆう》であつて、又《また》遠方《えんぽう》の大地震《だいぢしん》の觀測《かんそく》に長週期《ちようしゆうき》地震計《じしんけい》が入用《にゆうよう》なわけである。
地震《ぢしん》が十分《じゆうぶん》に近《ちか》く起《おこ》つた場合《ばあひ》は、一秒間《いちびようかん》に數十回《すうじつかい》若《も》しくばそれ以上《いじよう》の往復《おうふく》振動《しんどう》が現《あらは》れて來《く》るが、それは單《たん》に地鳴《ちな》りとしてわれ/\の聽覺《ちようかく》に感《かん》ずるのみであつて、一秒間《いちびようかん》に四五回《しごかい》の往復《おうふく》振動《しんどう》になつて漸《やうや》く急激《きゆうげき》な地動《ちどう》としてわれ/\の身體《しんたい》にはっきりと感《かん》ずるようになる。然《しか》しながら震原《しんげん》距離《きより》が三十里《さんじゆうり》以上《いじよう》にもなると、初動《しよどう》は可《か》なり緩漫《かんまん》になつて一秒間《いちびようかん》一二回《いちにかい》の往復《おうふく》振動《しんどう》になり、更《さら》に距離《きより》が遠《とほ》くなると終《つひ》には地震動《ぢしんどう》の最初《さいしよ》の部分《ぶぶん》は感《かん》じなくなつて、中頃《なかごろ》の強《つよ》い部分《ぶぶん》だけを感《かん》ずるようにもなる。
[#図版(img_05.png)、初期微動と主要動との區別]
つぎに、最初《さいしよ》の一瞬間《いつしゆんかん》の感覺《かんかく》によつて地震《ぢしん》の大小《だいしよう》強弱《きようじやく》を判斷《はんだん》する事《こと》について述《の》べて見《み》たい。諺《ことわざ》に大風《おほかぜ》は中頃《なかごろ》が弱《よわ》くて初《はじ》めと終《をは》りとが強《つよ》く、大雪《おほゆき》は初《はじ》めから中頃《なかごろ》まで弱《よわ》くて終《をは》りが強《つよ》く、大地震《だいぢしん》は、初《はじ》めと終《をは》りが弱《よわ》くて中頃《なかごろ》が強《つよ》いといふことがある。これは面白《おもしろ》い比較《ひかく》觀察《かんさつ》だと思《おも》ふ。大風《おほかぜ》と大雪《おほゆき》とはさて置《お》いて、大地震《だいぢしん》についていはれた右《みぎ》の諺《ことわざ》は一般《いつぱん》の地震《ぢしん》に通《つう》ずるものである。われ/\は最初《さいしよ》の弱《よわ》い部分《ぶぶん》を初期《しよき》微動《びどう》と名《な》づけ、中頃《なかごろ》の強《つよ》い部分《ぶぶん》を主要動《しゆようどう》或《あるひ》は主要部《しゆようぶ》、終《をは》りの弱《よわ》い部分《ぶぶん》を終期部《しゆうきぶ》と名《な》づけてゐる。終期部《しゆうきぶ》は地震動《ぢしんどう》の餘波《よは》であつて餘《あま》り大切《たいせつ》なものではないが、初期《しよき》微動《びどう》と主要部《しゆようぶ》とは極《きは》めて大切《たいせつ》なものである。兩者《りようしや》ともに震原《しんげん》から同時《どうじ》に出發《しゆつぱつ》し、同《おな》じ途《みち》を通《とほ》つて來《く》るのであるけれども、初期《しよき》微動《びどう》は速度大《そくどだい》に、主要動《しゆようどう》はそれが小《しよう》なるために斯《か》く前後《ぜんご》に到着《とうちやく》することになるのである。恰《あだか》も電光《でんこう》と雷鳴《らいめい》との關係《かんけい》のようなものである。
もっと具體的《ぐたいてき》にいふならば、初期《しよき》微動《びどう》は空氣中《くうきちゆう》に於《お》ける音波《おんぱ》のような波動《はどう》であつて、振動《しんどう》の方向《ほうこう》と進行《しんこう》の方向《ほうこう》とが相一致《あひいつち》するもの、即《すなは》ち形式《けいしき》からいへば縱波《たてなみ》である。主要動《しゆようどう》はそれと異《こと》なり横波《よこなみ》である。震原《しんげん》の近《ちか》い場合《ばあひ》には縱波《たてなみ》は凡《およ》そ毎秒《まいびよう》五粁《ごきろめーとる》の速《はや》さで進行《しんこう》するのに、横波《よこなみ》は毎秒《まいびよう》三・二|粁《きろめーとる》の速《はや》さで進行《しんこう》する。
初期《しよき》微動《びどう》が到着《とうちやく》してから主要動《しゆようどう》が來《く》るまでの時間《じかん》を、初期《しよき》微動《びどう》繼續《けいぞく》時間《じかん》と名《な》づける。讀者《どくしや》は初期《しよき》微動《びどう》時間《じかん》だけを知《し》つて震原《しんげん》距離《きより》を計算《けいさん》して出《だ》すことは、算術《さんじゆつ》のたやすい問題《もんだい》たることを氣附《きづ》かれたであらう。實際《じつさい》われ/\はこの計算《けいさん》に一《ひと》つの公式《こうしき》を用《もち》ひてゐる。即《すなは》ち初期《しよき》微動《びどう》繼續《けいぞく》時間《じかん》の秒數《びようすう》に八《はち》といふ係數《けいすう》を掛《か》けると、震原《しんげん》距離《きより》の凡《およ》その値《あたひ》が粁《きろめーとる》で出《で》て來《く》るのである。
地震計《ぢしんけい》の觀測《かんそく》によるときは、初動《しよどう》の方向《ほうこう》も觀測《かんそく》せられるので、隨《したが》つて震原《しんげん》の方向《ほうこう》が推定《すいてい》せられ、又《また》初期《しよき》微動《びどう》繼續《けいぞく》時間《じかん》によつて震原《しんげん》距離《きより》が計算《けいさん》せられるから、單《たん》に一箇所《いつかしよ》の觀測《かんそく》のみによつて震原《しんげん》の位置《いち》が推定《すいてい》せられるのであるが、しかしながら身體《しんたい》の感覺《かんかく》のみにてはかような結果《けつか》を得《う》ることは困難《こんなん》である。
東京邊《とうきようへん》で起《おこ》る普通《ふつう》の小地震《しようぢしん》は、大抵《たいてい》四十《しじゆう》粁《きろめーとる》位《くらゐ》の深《ふか》さをもつてゐるから、かような地震《ぢしん》がわれ/\の直下《ちよつか》に起《おこ》つても、初期《しよき》微動《びどう》繼續《けいぞく》時間《じかん》は五・三|秒程《びようほど》になる。東京《とうきよう》市内《しない》に住《す》むものは、七八秒《しちはちびよう》から十秒《じゆうびよう》位《ぐらゐ》までの初期《しよき》微動《びどう》を有《ゆう》する地震《ぢしん》を感《かん》ずることが最《もつと》も多數《たすう》である。然《しか》しながら大正《たいしよう》十四年《じゆうよねん》の但馬《たじま》地震《ぢしん》に於《お》ける田結村《たいむら》の場合《ばあひ》の如《ごと》く、又《また》一昨年《いつさくねん》の丹後《たんご》地震《ぢしん》に於《お》ける郷村《ごうむら》又《また》は峰山《みねやま》の場合《ばあひ》の如《ごと》く、初期《しよき》微動《びどう》繼續《けいぞく》時間《じかん》僅《わづか》に三秒《さんびよう》程度《ていど》なることもあるのである。但《たゞ》しこれは極《きは》めて稀有《けう》な場合《ばあひ》であつたといつてよろしい。
初期《しよき》微動《びどう》は主要動《しゆようどう》に比較《ひかく》して大《だい》なる速《はや》さを持《も》つてゐるが、然《しか》しながら振動《しんどう》の大《おほ》いさは、反對《はんたい》に主要動《しゆようどう》の方《ほう》が却《かへ》つて大《だい》である。この大小《だいしよう》の差違《さい》は地震《ぢしん》の性質《せいしつ》により、又《また》關係《かんけい》地方《ちほう》の地形《ちけい》地質《ちしつ》等《とう》によつても一樣《いちよう》ではないが、多數《たすう》の場合《ばあひ》を平均《へいきん》していふならば、主要動《しゆようどう》たる横波《よこなみ》は、初期《しよき》微動《びどう》たる縱波《たてなみ》に比較《ひかく》して凡《およ》そ十倍《じゆうばい》の大《おほ》いさを持《も》つてゐる。これが最初《さいしよ》の部分《ぶぶん》に初期《しよき》微動《びどう》とて微《び》の字《じ》が冠《かん》せられる所以《ゆえん》である。さうして主要動《しゆようどう》が大地震《だいぢしん》の場合《ばあひ》に於《おい》て、破壞《はかい》作用《さよう》をなす部分《ぶぶん》たることは説明《せつめい》せずとも既《すで》に了得《りようとく》せられたことであらう。
讀者《どくしや》は小地震《しようぢしん》の場合《ばあひ》に於《おい》て、初期《しよき》微動《びどう》と主要動《しゆようどう》を明確《めいかく》に區別《くべつ》して感得《かんとく》せられたことがあるであらう。初期《しよき》微動《びどう》は通常《つうじよう》びり/\といふ言葉《ことば》で形容《けいよう》せられるように、稍《やゝ》急《きゆう》にしかも微小《びしよう》な振動《しんどう》であるが、それが數秒間《すうびようかん》或《あるひ》は十數秒間《じゆうすうびようかん》繼續《けいぞく》すると、突然《とつぜん》主要動《しゆようどう》たる大《おほ》きな振動《しんどう》が來《く》る。其《その》振動《しんどう》ぶりは、最初《さいしよ》の縱波《たてなみ》に比《くら》べて稍《やゝ》緩漫《かんまん》な大搖《おほゆ》れであるがため、われ/\はこれをゆさ/\といふ言葉《ことば》で形容《けいよう》している。然《しか》しながら大地震《だいぢしん》になると、初期《しよき》微動《びどう》でも決《けつ》して微動《びどう》でなく、多《おほ》くの人《ひと》にとつては幾分《いくぶん》の脅威《きようい》を感《かん》ずるような大《おほ》いさの振動《しんどう》である。例《たと》へばわれ/\が大地震《だいぢしん》の場合《ばあひ》に於《おい》て屡《しば/\》經驗《けいけん》する通《とほ》り主要動《しゆようどう》の大《おほ》いさを十糎《じゆうせんちめーとる》と假定《かてい》すれば、初期《しよき》微動《びどう》は一糎《いちせんちめーとる》程度《ていど》のものであるので、もしかういふ大《おほ》いさの地動《ちどう》が、一秒間《いちびようかん》に二三回《にさんかい》も繰返《くりかへ》されるほどの急激《きゆうげき》なものであつたならば、木造《もくぞう》家屋《かおく》や土藏《どぞう》の土壁《つちかべ》を落《おと》し、器物《きぶつ》を棚《たな》の上《うへ》から轉落《てんらく》せしめる位《くらゐ》のことはあり得《う》べきである。もし地震《ぢしん》の初動《しよどう》がこの程度《ていど》の強《つよ》さを示《しめ》したならば、これは非常《ひじよう》の地震《ぢしん》であると判斷《はんだん》して誤《あやま》りはないであらう。
幸《さいはひ》に最初《さいしよ》の一瞬間《いつしゆんかん》に於《おい》て、非常《ひじよう》の地震《ぢしん》なるか否《いな》かの判斷《はんだん》がついたならば、其《その》判斷《はんだん》の結果《けつか》によつて臨機《りんき》の處置《しよち》をなすべきである。もしそれが非常《ひじよう》の地震《ぢしん》だと判斷《はんだん》されたならば、自分《じぶん》の居所《ゐどころ》の如何《いかん》によつて處置《しよち》方法《ほう/\》が變《かは》られなければなるまい。それについては、以下《いか》の各項《かくこう》に於《おい》て細説《さいせつ》するつもりである。然《しか》しながら、それがありふれた小地震《しようぢしん》だと判斷《はんだん》されたならば、泰然《たいぜん》自若《じじやく》としてゐるのも一法《いつぽう》であらうけれども、これは餘《あま》りに消極的《しようきよくてき》の動作《どうさ》であつて、著者《ちよしや》が地震國《ぢしんこく》の小國民《しようこくみん》に向《むか》つて希望《きぼう》する所《ところ》でない。著者《ちよしや》は寧《むし》ろかような場合《ばあひ》を利用《りよう》して、地震《ぢしん》に對《たい》する實驗的《じつけんてき》の知識《ちしき》を得《え》、修養《しゆうよう》を積《つ》まれるよう希望《きぼう》するものである。
前《まへ》に述《の》べた通《とほ》り、初期《しよき》微動《びどう》の繼續《けいぞく》時間《じかん》は震原《しんげん》距離《きより》の計算《けいさん》に利用《りよう》し得《え》られる。この繼續《けいぞく》時間《じかん》の正確《せいかく》なる値《あたひ》は地震計《ぢしんけい》の觀測《かんそく》によつて始《はじ》めて分《わか》ることであるけれども、概略《がいりやく》の値《あたひ》は暗算《あんざん》によつても出《で》て來《く》る。著者《ちよしや》の如《ごと》きはそれが常習《じようしゆう》となつてゐるので、夜間《やかん》熟睡《じゆくすい》してゐるときでも地震《ぢしん》により容易《ようい》に覺醒《かくせい》し、夢《ゆめ》うつゝの境涯《きようがい》にありながら右《みぎ》の時間《じかん》の暗算《あんざん》等《とう》にとりかかる癖《くせ》がある。これを器械的《きかいてき》觀測《かんそく》の結果《けつか》に比較《ひかく》すると一割《いちわり》以上《いじよう》の誤差《ごさ》を生《しやう》じた例《れい》は極《きは》めて少《すくな》い。著者《ちよしや》は更《さら》に進《すゝ》んで地震動《ぢしんどう》の性質《せいしつ》を味《あぢ》はひ、それによつて震原《しんげん》の位置《いち》をも判斷《はんだん》することに利用《りよう》してゐるけれども、これは一般《いつぱん》の讀者《どくしや》に望《のぞ》み得《う》べきことでない。とに角《かく》、初期《しよき》微動《びどう》繼續《けいぞく》時間《じかん》を始《はじ》めとして、發震時《はつしんじ》其他《そのた》に關《かん》する値《あたひ》を計測《けいそく》し、これを器械《きかい》觀測《かんそく》の結果《けつか》に比較《ひかく》する事《こと》は頗《すこぶ》る興味《きようみ》多《おほ》いことである。自分《じぶん》と觀測所《かんそくじよ》との間隔《かんかく》が一二里《いちにり》以内《いない》であるならば、兩方《りようほう》の時刻《じこく》竝《ならび》に時間共《じかんとも》に大體《だいたい》同《おな》じ値《あたひ》に出《で》て來《く》るべきはずである。
右《みぎ》の外《ほか》、體驗《たいけん》した地震動《ぢしんどう》の大《おほ》いさを器械《きかい》觀測《かんそく》の結果《けつか》に比較《ひかく》するのも亦《また》興味《きようみ》ある事柄《ことがら》である。然《しか》しながらこの結果《けつか》に於《おい》ては器械《きかい》で觀測《かんそく》せられたものと、自分《じぶん》の體驗《たいけん》したものとは著《いちじる》しき相違《そうい》のあることが一般《いつぱん》であつて、それが寧《むし》ろ至當《しとう》である場合《ばあひ》が多《おほ》い。例《たと》へば東京《とうきよう》市内《しない》でも下町《したまち》と山《やま》の手《て》とで震動《しんどう》の大《おほ》いさに非常《ひじよう》な相違《そうい》がある。概《がい》して下町《したまち》の方《ほう》が大《おほ》きく、山《やま》の手《て》の二三倍《にさんばい》若《も》しくはそれ以上《いじよう》にもなることがある。又《また》鎌倉《かまくら》の例《れい》を取《と》ると由比ケ濱《ゆひがはま》の砂丘《さきゆう》は、雪《ゆき》の下《した》の岩盤《がんばん》に比較《ひかく》して四五倍《しごばい》の大《おほ》いさに出《で》て來《く》ることもある。かような根本《こんぽん》の相違《そうい》がある上《うへ》に、器械《きかい》は大抵《たいてい》地面《ぢめん》其物《そのもの》の震動《しんどう》を觀測《かんそく》する樣《よう》になつてゐるのに、體驗《たいけん》を以《もつ》て測《はか》つてゐるのは家屋《かおく》の振動《しんどう》であることが多《おほ》い、もし其《その》家屋《かおく》が丈夫《じようぶ》な木造《もくぞう》平家《ひらや》であるならば、床上《しようじよう》の振動《しんどう》は地面《ぢめん》のものゝ三割《さんわり》増《ま》しなることが普通《ふつう》であるけれども、木造《もくぞう》二階建《にかいだて》の階上《かいじよう》は三倍《さんばい》程度《ていど》なることが通常《つうじよう》である。この通《とほ》りに器械《きかい》觀測《かんそく》の結果《けつか》と體驗《たいけん》の結果《けつか》とは最初《さいしよ》から一致《いつち》し難《がた》いものであるけれども、それを比較《ひかく》してみることは無益《むえき》の業《わざ》ではない。上手《じようず》にやると自分《じぶん》の家屋《かおく》の耐震率《たいしんりつ》とも名《な》づくべきものゝ概念《がいねん》が得《え》られるであらう。即《すなは》ち二階建《にかいだて》の二階《にかい》座敷《ざしき》は階下《かいか》座敷《ざしき》の五倍《ごばい》に搖《ゆ》れるようならば、不安定《ふあんてい》な構造《こうぞう》と判斷《はんだん》しなければならないが、もし僅々《きん/\》二倍《にばい》位《ぐらゐ》にしか搖《ゆ》れないならば、寧《むし》ろ堅牢《けんろう》な建物《たてもの》と見做《みな》してよいであらう。
二、屋外《おくがい》への避難《ひなん》
[#図版(img_06.png)、耐震的構造]
地震《ぢしん》に出會《であ》つてそれが非常《ひじよう》の地震《ぢしん》であることを意識《いしき》したものは、餘程《よほど》修養《しゆうよう》を積《つ》んだ人《ひと》でない限《かぎ》り、たとひ耐震《たいしん》家屋内《かおくない》にゐても、又《また》屋外《おくがい》避難《ひなん》の不利益《ふりえき》な場合《ばあひ》でも、しかせんと力《つと》めるであらう。この屋外《おくがい》へ避難《ひなん》することの不利益《ふりえき》な場合《ばあひ》は次項《じこう》に説明《せつめい》することゝし、もし平家建《ひらやだて》の家屋内《かおくない》或《あるひ》は二階建《にかいだて》、三階建《さんがいだて》等《とう》の階下《かいか》に居合《ゐあは》せた場合《ばあひ》には屋外《おくがい》へ飛《と》び出《だ》す方《ほう》が最《もつと》も安全《あんぜん》であることがある。然《しか》しながらいづれの場合《ばあひ》でもさうであるとは限《かぎ》らぬ。先《ま》づ屋外《おくがい》が狹《せま》くて、もし家屋《かおく》が倒潰《とうかい》したならば却《かへ》つて其《その》ために壓伏《あつぷく》されるような危險《きけん》はなきか。これが第一《だいゝち》に考慮《こうりよ》すべき點《てん》である。
平家建《ひらやだて》の小屋組《こやぐみ》、即《すなは》ち桁《けた》や梁《はり》と屋根《やね》との部分《ぶぶん》が普通《ふつう》に出來《でき》てゐれば容易《ようい》に崩《くづ》れるものではない。たとひ家屋《かおく》が倒伏《とうふく》することがあつても、小屋組《こやぐみ》だけは元《もと》のまゝの形《かたち》をして地上《ちじよう》に直接《ちよくせつ》の屋根《やね》を現《あらは》すことは、大地震《だいぢしん》の場合《ばあひ》普通《ふつう》に見《み》る現象《げんしよう》である。かような場合《ばあひ》、下敷《したじき》になつたものも、梁《はり》又《また》は桁《けた》のような大《おほ》きな横木《よこぎ》で打《う》たれない限《かぎ》り大抵《たいてい》安全《あんぜん》である。
一方《いつぽう》屋外《おくがい》に避難《ひなん》せんとする場合《ばあひ》に於《おい》ては、まだ出《で》きらない内《うち》に家屋《かおく》倒潰《とうかい》し、而《しか》も入口《いりぐち》の大《おほ》きな横木《よこぎ》に壓伏《あつぷく》せられる危險《きけん》が伴《ともな》ふことがある。前《まへ》に述《の》べた通《とほ》り、初期《しよき》微動《びどう》の繼續《けいぞく》時間《じかん》は概《がい》して七八秒《しちはちびよう》はあるけれども、前記《ぜんき》の但馬《たじま》地震《ぢしん》及《およ》び丹後《たんご》地震《ぢしん》に於《おい》ては、震原地《しんげんち》の直上《ちよくじよう》に於《おい》て三秒《さんびよう》位《ぐらゐ》しかなかつた。かゝる場合《ばあひ》、家《いへ》の倒伏前《とうふくぜん》に屋外《おくがい》の安全《あんぜん》な場所《ばしよ》迄《まで》逃《に》げ出《だ》すことは中々《なか/\》容易《ようい》な業《わざ》ではない。實際《じつさい》前記《ぜんき》の大地震《だいぢしん》に於《おい》ては機敏《きびん》な動作《どうさ》をなして却《かへ》つて軒前《のきさき》で壓死《あつし》したものが多《おほ》く、逃《に》げ後《おく》れながら小屋組《こやぐみ》の下《した》に安全《あんぜん》に敷《し》かれたものは屋根《やね》を破《やぶ》つて助《たす》かつたといふ。かような場合《ばあひ》を省《かへり》みると、屋外《おくがい》へ避難《ひなん》して可《か》なる場合《ばあひ》は、僅《わづか》に二三秒《にさんびよう》で軒下《のきした》を離《はな》れることが出來《でき》るような位置《いち》にあるときに限《かぎ》るようである。もし偶然《ぐうぜん》かような位置《いち》に居合《ゐあは》せたならば、機敏《きびん》に飛出《とびだ》すが最上策《さいじようさく》であること勿論《もちろん》である。
右《みぎ》のような條件《じようけん》が完全《かんぜん》に備《そな》はつてゐなくとも、大抵《たいてい》の人《ひと》は屋外《おくがい》に避難《ひなん》せんとあせるに違《ちが》ひない。これは寧《むし》ろ動物《どうぶつ》の本能《ほんのう》であらう。目《め》の前《まへ》を何《なに》か掠《かす》めて通《とほ》るとき急《きゆう》に瞼《まぶた》を閉《と》ぢるような行動《こうどう》と相似《あひに》てゐる。
安政《あんせい》二年《にねん》十月《じゆうがつ》二日《ふつか》の江戸《えど》大地震《だいぢしん》に於《おい》て、小石川《こいしかは》の水戸《みと》屋敷《やしき》に於《おい》て壓死《あつし》した藤田《ふぢた》東湖《とうこ》先生《せんせい》の最後《さいご》と、麹町《かうじまち》神田橋内《かんだばしない》の姫路《ひめぢ》藩邸《はんてい》に於《おい》て壓死《あつし》した石本《いしもと》李蹊《りけい》翁《おう》の最後《さいご》は全《まつた》く同《おな》じ轍《てつ》を踏《ふ》まれたものであつた。此《この》地震《ぢしん》の初期《しよき》微動《びどう》繼續《けいぞく》時間《じかん》は七八秒《しちはちびよう》程《ほど》あつたように思《おも》はれる。各《かく》先生《せんせい》共《とも》に地震《ぢしん》を感得《かんとく》せられるや否《いな》や、本能的《ほんのうてき》に外《そと》に飛《と》び出《だ》されたが、はっと氣《き》が付《つ》いてみると老母《ろうぼ》が屋内《おくない》に取《と》り殘《のこ》されてあつた。とつて返《かへ》して助《たす》け出《だ》さうとする中《うち》、主要動《しゆようどう》のために家屋《かおく》は崩壞《ほうかい》し始《はじ》めたので、東湖《とうこ》は突差《とつさ》に母堂《ぼどう》を屋外《おくがい》へ抛《はう》り出《だ》した瞬間《しゆんかん》、家屋《かおく》は全《まつた》く先生《せんせい》を壓伏《あつぷく》してしまつたが、李蹊《りけい》は母堂《ぼどう》と運命《うんめい》を共《とも》にしたのである。東湖《とうこ》先生《せんせい》の最後《さいご》のありさまはよく人《ひと》に知《し》られてゐるが、石本《いしもと》李蹊《りけい》翁《おう》のは知《し》る人《ひと》が少《すくな》い。翁《おう》の令息《れいそく》に有名《ゆうめい》な石本《いしもと》新六男《しんろくだん》があり、新六男《しんろくだん》の四男《よなん》に地震學《ぢしんがく》で有名《ゆうめい》な巳四雄《みしを》教授《きようじゆ》のあることは、李蹊《りけい》翁《おう》も又《また》以《もつ》て瞑《めい》するに足《た》るといはれてもよいであらう。
われ/\の崇敬《すうけい》する偉人《いじん》でも、大地震《だいぢしん》となると我《われ》を忘《わす》れて飛《と》び出《だ》されるのであるから、二階建《にかいだて》、三階建《さんがいだて》等《とう》の階下《かいか》や平家建《ひらやだて》の屋内《おくない》にゐた人《ひと》が逃《に》げ出《だ》すのは、尤《もつと》もな動作《どうさ》と考《かんが》へなければなるまい。前記《ぜんき》の但馬《たじま》地震《ぢしん》や丹後《たんご》地震《ぢしん》の如《ごと》きは初期《しよき》微動《びどう》繼續《けいぞく》時間《じかん》の最《もつと》も短《みじか》かつた稀有《けう》の例《れい》であるので、寧《むし》ろ例外《れいがい》とみて然《しか》るべきものである。それ故《ゆゑ》に若《も》し數秒間《すうびようかん》で廣場《ひろば》へ出《だ》[#ルビの「だ」は底本のまま]られる見込《みこ》みがあらば、最《もつと》も機敏《きびん》にさうする方《ほう》が個人《こじん》として最上《さいじよう》の策《さく》たるに相違《そうい》ない。唯一《たゞひと》つ茲《こゝ》に考慮《こうりよ》すべきは火《ひ》の用心《ようじん》に關《かん》する問題《もんだい》である。地震《ぢしん》に伴《ともな》ふ火災《かさい》は地震《ぢしん》直後《ちよくご》に起《おこ》るのが通常《つうじよう》であるけれども、地震後《ぢしんご》一二時間《いちにじかん》の後《のち》に起《おこ》ることもある。避難《ひなん》の際《さい》、僅《わづか》に一擧手《いつきよしゆ》の動作《どうさ》によつて火《ひ》が消《け》されるようならば、さういふ處置《しよち》は望《のぞ》ましきことであるが、もし其《その》餘裕《よゆう》なくして飛出《とびだ》したならば、後《あと》になつてからでも火《ひ》を消《け》こと[#送りがなの「こと」は底本のまま]に注意《ちゆうい》すべきであつて、特《とく》に今迄《いままで》ゐた家《いへ》が潰《つぶ》れたときにさうである。これ著者《ちよしや》がこの項《ごろ》の本文《ほんもん》に於《おい》て、『但《たゞ》し火《ひ》の元《もと》用心《ようじん》を忘《わす》れざること』と附《つ》け加《くは》へた所以《ゆえん》である。
(つづく)
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【テキスト中、置きかえた漢字】
[第3水準1-89-3]→ 研
[第3水準1-14-48]→ 免
[第3水準1-86-35]→ 歩
[第3水準1-89-29]→ 祥
[第3水準1-86-16]→ 横
[第3水準1-89-49]→ 突
[第3水準1-14-81]→ 即
[第3水準1-93-21]→ 録
[第3水準1-47-65]→ 層
[第3水準1-87-74]→ 状
[第3水準1-15-61]→ 増
[第3水準1-89-68]→ 節
[第3水準1-86-73]→ 海
[第3水準1-91-89]→ 視
[第3水準1-90-13]→ 縁
[第3水準1-84-89]→ 掴
[第3水準1-15-56]→ 填
[第3水準1-84-36]→ 徴
[第3水準1-93-67]→ 難
[第3水準1-89-19]→ 社
[第3水準1-86-42]→ 毎
[第3水準1-92-76]→ 郷
[第3水準1-47-64]→ 屡
[第3水準1-86-4]→ 概
[第3水準1-85-8]→ 敏
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底本:『星と雲・火山と地震』復刻版 日本兒童文庫、名著普及会
1982(昭和57)年6月20日 発行
親本:『星と雲・火山と地震』日本兒童文庫、アルス
1930(昭和5)年2月15日 発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日公開
青空文庫作成ファイル:
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*地名
丹後地震 たんご じしん 丹後半島を中心に1927年3月7日に起こった地震。マグニチュード7.3、死者2925人、1万戸以上の建物が全壊。半島の付け根の郷村断層の3メートルに達する左ずれが震源。北丹後地震。
濃尾地震 のうび じしん 1891年(明治24)10月28日、岐阜・愛知両県を中心として起こった大地震。マグニチュード8.0。激震地域は濃尾平野一帯から福井県に及び、死者7200人余、負傷者1万7000人余、全壊家屋14万余。また、根尾谷(岐阜県本巣市根尾付近)を通る大断層を生じた。
五大州・五大洲 ごだいしゅう アジア州・アフリカ州・ヨーロッパ州・アメリカ州・オセアニア州の総称。
浦賀海峡 → 浦賀水道か
浦賀水道 うらが すいどう 東京湾の入口、三浦半島と房総半島との間の海峡。幅約7キロメートル。
チェコスロバキア Czech and Slovakia 中部ヨーロッパに位置し、1918〜93年に存在した連邦共和国。スラヴ系のチェコ人・スロヴァキア人が1918年オーストリア‐ハンガリー帝国からチェコスロヴァキア共和国として独立。39年ナチス‐ドイツに占領されたが、第二次大戦末期に解放、48年社会主義国、68年の政変を経て、69年チェコとスロヴァキアとの連邦制。東欧民主化のなかで、89年共産党政権が崩壊。90年、国名から「社会主義」を削り、さらに「チェコ‐スロヴァキア」と変更。93年、チェコ共和国とスロヴァキア共和国とに分離、独立。
プラーグ → プラハ
プラハ Praha チェコ共和国の首都。ヴルタヴァ川に沿い、ボヘミア盆地の中心に位置する交通・文化の中心地。自動車・織物・化学工業が行われ、ガラス工芸品も有名。中世の面影を色濃く残す歴史地区は世界遺産。人口116万6千(2004)。英語名プラーグ。
田結村 たいむら 現在の兵庫県豊岡市田結。北は日本海に面する。豊岡市は県北但馬地方の北東部。豊岡盆地を中心市域とする。大正14年(1925)、港村田結沖を震源地とする北但馬大震災が発生。
郷村 ごうむら 現、京都府竹野郡網野町字郷。竹野郡は丹後半島に位置。網野町は郡の最西部に位置し、北は日本海に面する。昭和2年(1927)の北丹後地震は、旧網野町と旧郷村地域が震源。郷村北部に天然記念物の郷村断層がある。
峰山 みねやま 京都府峰山町か。京都府の北部、丹後半島の付け根に位置し、『天女の羽衣伝説』で知られる町。
鎌倉 かまくら 神奈川県南東部の市。横浜市の南に隣接。鎌倉幕府跡・源頼朝屋敷址・鎌倉宮・鶴岡八幡宮・建長寺・円覚寺・長谷の大仏・長谷観音などの史跡・社寺に富む。風致にすぐれ、京浜の住宅地。人口17万1千。
由比ヶ浜 ゆいがはま 神奈川県鎌倉市の海岸、西は稲村ヶ崎から東は飯島ヶ崎に至る約2キロメートルの砂浜。特に、滑川河口より西をいう。相模湾に臨む避暑・避寒地。また、海水浴場。
雪の下 ゆきのした 現、鎌倉市雪ノ下。鶴岡八幡宮から大倉の幕府跡を含む一帯に位置する。
◇参照:Wikipedia、
*年表
一八五五(安政二)一〇月二日 江戸大地震。小石川の水戸屋敷において藤田東湖、圧死。麹町神田橋内の姫路藩邸において石本李蹊、圧死。
一八八〇(明治一三)二月二二日 横浜ならびにその近郊において地震、レンガ煙突ならびに土壁に小破損を生じる。二週間後、日本地震学会を組織。毎月の会合に研究結果を発表。数か月ののちユーイング博士、水平振子地震計を発明。
一八八一(明治一四) グレー博士の考案を改良した上下動地震計を作り出す。
一八九一(明治二四)一〇月二八日 濃尾大地震。
一九二三(大正一二)九月一日 関東大地震。一〇万の生命と五十五億円の財産とを失う。
一九二四(大正一三) 震災予防調査会、廃止。発表した報告書は和文のもの百一号、欧文のもの二十六号、別に欧文紀要十一冊、欧文観測録六冊。
一九二五(大正一四)五月二三日 但馬地震。四〇〇の人命と三〇〇〇万円の財産とを損す。
一九二六(大正一五) 今村明恒、東京帝国大学地震学教室における同人の助言によって地震の注意書を編纂、公にする。
一九二七(昭和二)三月七日 丹後地震。三〇〇〇の死者と一億円の財産損失とを生じる。
一九二七(昭和二)九月 今村明恒、チェコスロバキア、プラーグにおける地震学科の国際会議において、わが国最近の研究結果につき報告。
一九二七(昭和二)九月一三日 西九州における風水害。
◇参照:Wikipedia、
*人物一覧
(人名、および組織・団体名・神名)今村明恒 いまむら あきつね 1870-1948 地震学者。理学博士。鹿児島県生まれ。明治38年、統計上の見地から関東地方に大地震が起こりうると説き、大森房吉との間に大論争が起こった。大正12年、東大教授に就任。翌年、地震学科の設立とともに主任となる。昭和4年、地震学会を創設、その会長となり、機関誌『地震』の編集主任を兼ね、18年間その任にあたる(人名)。
ユーイング James Alfred Ewing 1855-1935 イギリスの物理学者・工学者。御雇外国人として、機械工学を教授。日本地震学会を創設。エディンバラ大学総長。
グレー博士 電気学。上下動地震計を考案。
ミルン教授 → ジョン・ミルンか
ジョン・ミルン John Milne 1850-1913 イギリスリバプール出身の鉱山技師、地震学者、人類学者、考古学者。東京帝国大学名誉教授。北海道函館市船見町26番地に、ジョン・ミルン夫妻の墓がある。
関谷教授 せきや → 関谷清景か
関谷清景 せきや せいけい 1854-1896 大垣市に生まれ、東京大学の前身大学南校に1870年入学。76〜77年英国留学、81年、東京大学理学部助教授となる。88年、菊地安とともに磐梯山の爆発を調査。翌年の熊本地震には病身をおして調査に参加した。このときの余震調査は日本に近代地震学が誕生して初の調査。(地学)
大森博士 おおもり → 大森房吉か
大森房吉 おおもり ふさきち 1868-1923 地震学者。福井県人。東大卒、同教授。大森公式の算出、地震計の発明、地震帯の研究など。
藤田東湖 ふじた とうこ 1806-1855 幕末の儒学者。名は彪(たけし)。幽谷の子。水戸藩士。藩主徳川斉昭を補佐して、天保の改革を推進し、側用人となる。交友範囲も広く、激烈な尊攘論者として知られる。安政の江戸大地震に母を助けて自分は圧死。著「回天詩史」「弘道館記述義」など。
石本李蹊 いしもと りけい
石本新六男 いしもと しんろくだん
石本巳四雄 いしもと みしを 1893-1940 東京小石川生まれ。新六男の四男。地震学者。理学博士。東京帝国大学の地震研究所の末広恭二のもとで地震学の研究につとめる。シリカ傾斜計、華族土地震計、周期分析器などを考案。昭和8年から14年まで地震研究所長をつとめた。著『地震とその研究』『科学への道』など。病没。(現代人名)
日本地震学会 にほん じしんがっかい (1) 1880年、ジョン・ミルンにより創立。日本に在留していた外国人が中心となり、日本人学者も参加して樹立された世界初の近代地震学会。英文・和文の雑誌を出し活発な活動をしたが、外国人が日本を去るとともに92年消滅した。(2) 1929年、今村明恒の提唱により地震学会が発足した。機関誌は『地震』。93年(?)から日本地震学会と称し今日に至る。(地学)
震災予防調査会 しんさい よぼう ちょうさかい 明治・大正時代の文部省所轄の地震研究機関。明治24年(1891)濃尾大地震のあと建議され発足。活動は明治25年より大正14年(1925)の34年間。大森房吉が精力的に活動。大正12年、関東大地震が発生し、この被害にかんがみ委員制ではなく独自の研究員と予算をもつ常設研究所設置の必要がさけばれ、大正14年、研究所発足とともに調査会は発展解消された。(国史)
◇参照:Wikipedia、
*難字、求めよ
ミルン地震計 機械式。1894年頃にジョン・ミルンが日本で開発。記録方式は光学式。制振器を持っていない。
大森地震計 おおもり じしんけい 大森式地震計。機械式。変位計。1898年頃に大森房吉(東京大学)が開発。固有周期は10秒程度。倍率は20倍程度。記録方式は煤書式。当時は広く使用されていた。
ガリッチン地震計 世界初の電磁式地震計。速度計。1907年にボリス・ガリチン(ロシア)が開発。水平動用はツェルナー吊り型水平振子、上下動用はユーイング型上下振子を使用。倍率は1000倍以上。記録方式は光学式。/最も古い電磁式地震計で、B. Galitzin の考案。のちに Wilip が改良を加える。(地学)
パシュウィチ水平振子
ユーイング地震計
物(もつ)せられたる もの?
しかせんと
◇参照:Wikipedia、
*後記(工作員 日記)
33号・34号を当面欠番としてあつかい、35号(今号)より再開します。それでもまだ出版日が一週間ずれていますが、これは早々に挽回(の予定)。月末最終号(無料)のほうが手にとってもらえる機会がふえることをもくろんでみました。メール、ブログ、ツイッター、新聞・雑誌・テレビ・ラジオなどでの紹介歓迎。よろしく、お願いします。
*次週予告
第三巻 第三六号
地震の話
第三巻 第三六号は、
四月二日(土)発行予定です。
定価:200円
T-Time マガジン 週刊ミルクティー* 第三巻 第三五号
地震の話
発行:二〇一一年三月二六日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。
第二巻
第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン 月末最終号:無料
第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン 定価:200円
第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 定価:200円
第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 定価:200円
第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 定価:200円
第六号 新羅人の武士的精神について 池内宏 月末最終号:無料
第七号 新羅の花郎について 池内宏 定価:200円
第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉 定価:200円
第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治 定価:200円
第十号 風の又三郎 宮沢賢治 月末最終号:無料
第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎 定価:200円
第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎 定価:200円
第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎 定価:200円
第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎 定価:200円
第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル 定価:200円
第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル 定価:200円
第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル 月末最終号:無料
第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル 定価:200円
第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉 定価:200円
第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉 定価:200円
第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太 月末最終号:無料
第二四号 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫 定価:200円
第二五号 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉 定価:200円
第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎 定価:200円
第二七号 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治 定価:200円
第二八号 翁の発生/鬼の話 折口信夫 月末最終号:無料
第二九号 生物の歴史(一)石川千代松 定価:200円
第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松 定価:200円
第三一号 生物の歴史(三)石川千代松 定価:200円
第三二号 生物の歴史(四)石川千代松 月末最終号:無料
第三三号 特集 ひなまつり 定価:200円 雛 芥川龍之介
雛がたり 泉鏡花
ひなまつりの話 折口信夫
第三四号 特集 ひなまつり 定価:200円 人形の話 折口信夫
偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
第三五号 右大臣実朝(一)太宰治 定価:200円
第三六号 右大臣実朝(二)太宰治 月末最終号:無料
第三七号 右大臣実朝(三)太宰治 定価:200円
第三八号 清河八郎(一)大川周明 定価:200円
第三九号 清河八郎(二)大川周明 定価:200円
第四〇号 清河八郎(三)大川周明 月末最終号:無料
第四一号 清河八郎(四)大川周明 定価:200円
第四二号 清河八郎(五)大川周明 定価:200円
第四三号 清河八郎(六)大川周明 定価:200円
第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉 定価:200円
第四五号 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉 月末最終号:無料
第四六号 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉 定価:200円
第四七号
第四八号 若草物語(一)L. M. オルコット 定価:200円
第四九号 若草物語(二)L. M. オルコット 月末最終号:無料
第五〇号 若草物語(三)L. M. オルコット 定価:200円
第五一号 若草物語(四)L. M. オルコット 定価:200円
第五二号 若草物語(五)L. M. オルコット 定価:200円
第五三号 二人の女歌人/東北の家 片山広子 定価:200円
第三巻 第一号 星と空の話(一)山本一清 月末最終号:無料
一、星座(せいざ)の星
二、月(つき)
(略)殊にこの「ベガ」は、わが日本や支那では「七夕」の祭りにちなむ「織(お)り女(ひめ)
第三巻 第二号 星と空の話(二)山本一清 定価:200円
三、太陽
四、日食と月食
五、水星
六、金星
七、火星
八、木星
太陽の黒点というものは誠におもしろいものです。黒点の一つ一つは、太陽の大きさにくらべると小さい点々のように見えますが、じつはみな、いずれもなかなか大きいものであって、
太陽の黒点からは、あらゆる気体の熱風とともに、いろいろなものを四方へ散らしますが、そのうちで最も強く地球に影響をあたえるものは電子が放射されることです。あらゆる電流の原因である電子が太陽黒点から放射されて、わが地球に達しますと、地球では、北極や南極付近に、美しいオーロラ(極光(きょっこう))が現われたり、
太陽の表面に、いつも同じ黒点が長い間見えているのではありません。一つ一つの黒点はずいぶん短命なものです。なかには一日か二日ぐらいで消えるのがありますし、普通のものは一、二週間ぐらいの寿命のものです。特に大きいものは二、三か月も、七、八か月も長く見えるのがありますけれど、一年以上長く見えるということはほとんどありません。
しかし、黒点は、一つのものがまったく消えない前に、他の黒点が二つも三つも現われてきたりして、ついには一時に三十も四十も、たくさんの黒点が同じ太陽面に見えることがあります。
こうした黒点の数は、毎年、毎日、まったく無茶苦茶というわけではありません。だいたいにおいて十一年ごとに増したり減ったりします。
第三巻 第三号 星と空の話(三)山本一清 定価:200円
九、土星
一〇、天王星
一一、海王星
一二、小遊星
一三、彗星
一四、流星
一五、太陽系
一六、恒星と宇宙
晴れた美しい夜の空を、しばらく家の外に出てながめてごらんなさい。ときどき三分間に一つか、五分間に一つぐらい星が飛ぶように見えるものがあります。あれが流星です。流星は、平常、天に輝いている多くの星のうちの一つ二つが飛ぶのだと思っている人もありますが、そうではありません。流星はみな、今までまったく見えなかった星が、急に光り出して、そしてすぐまた消えてしまうものなのです。
しかし、流星のうちには、はじめから稀(まれ)によほど形の大きいものもあります。そんなものは空気中を何百キロメートルも飛んでいるうちに、燃えつきてしまわず、熱したまま、地上まで落下してきます。これが隕石というものです。隕石のうちには、ほとんど全部が鉄のものもあります。これを隕鉄(いんてつ)といいます。
流星は一年じゅう、たいていの夜に見えますが、しかし、全体からいえば、冬や春よりは、夏や秋の夜にたくさん見えます。ことに七、八月ごろや十月、十一月ごろは、一時間に百以上も流星が飛ぶことがあります。
八月十二、三日ごろの夜明け前、午前二時ごろ、多くの流星がペルセウス星座から四方八方へ放射的に飛びます。これらは、みな、ペルセウス星座の方向から、地球の方向へ、列を作ってぶっつかってくるものでありまして、これを「ペルセウス流星群」と呼びます。
十一月十四、五日ごろにも、夜明け前の二時、三時ごろ、しし星座から飛び出してくるように見える一群の流星があります。これは「しし座流星群」と呼ばれます。
この二つがもっとも有名な流星群ですが、なおこの他には、一月のはじめにカドラント流星群、四月二十日ごろに、こと座流星群、十月にはオリオン流星群などあります。
第三巻 第四号 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎 定価:200円
獅子舞雑考
一、枯(か)れ木も山の賑(にぎ)やかし
二、獅子舞に関する先輩の研究
三、獅子頭に角(つの)のある理由
四、獅子頭と狛犬(こまいぬ)との関係
五、鹿踊(ししおど)りと獅子舞との区別は何か
六、獅子舞は寺院から神社へ
七、仏事にもちいた獅子舞の源流
八、獅子舞について関心すべき点
九、獅子頭の鼻毛と馬の尻尾(しっぽ)
穀神としての牛に関する民俗
牛を穀神とするは世界共通の信仰
土牛(どぎゅう)を立て寒気を送る信仰と追儺(ついな)
わが国の家畜の分布と牛飼神の地位
牛をもって神をまつるは、わが国の古俗
田遊(たあそ)びの牛の役と雨乞いの牛の首
全体、わが国の獅子舞については、従来これに関する発生、目的、変遷など、かなり詳細なる研究が発表されている。
そこで、今度は管見を記すべき順序となったが、これは私も小寺氏と同じく、柳田先生のご説をそのまま拝借する者であって、べつだんに奇説も異論も有しているわけではない。ただ、しいて言えば、わが国の鹿舞と支那からきた獅子舞とは、その目的において全然別個のものがあったという点が、相違しているのである。ことに小寺氏のトーテム説にいたっては、あれだけの研究では、にわかに左袒(さたん)することのできぬのはもちろんである。
こういうと、なんだか柳田先生のご説に、反対するように聞こえるが、角(つの)の有無をもって鹿と獅子の区別をすることは、再考の余地があるように思われる。
第三巻 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉 月末最終号:無料
鹿踊りのはじまり 宮沢賢治
奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
一 緒言
二 シシ踊りは鹿踊り
三 伊予宇和島地方の鹿の子踊り
四 アイヌのクマ祭りと捕獲物供養
五 付記
奥羽地方には各地にシシ踊りと呼ばるる一種の民間舞踊がある。地方によって多少の相違はあるが、だいたいにおいて獅子頭を頭につけた青年が、数人立ちまじって古めかしい歌謡を歌いつつ、太鼓の音に和して勇壮なる舞踊を演ずるという点において一致している。したがって普通には獅子舞あるいは越後獅子などのたぐいで、獅子奮迅・踊躍の状を表象したものとして解せられているが、奇態なことにはその旧仙台領地方におこなわるるものが、その獅子頭に鹿の角(つの)を有し、他の地方のものにも、またそれぞれ短い二本の角がはえているのである。
楽舞用具の一種として獅子頭のわが国に伝わったことは、すでに奈良朝のころからであった。くだって鎌倉時代以後には、民間舞踊の一つとして獅子舞の各地におこなわれたことが少なからず文献に見えている。そしてかの越後獅子のごときは、その名残りの地方的に発達・保存されたものであろう。獅子頭はいうまでもなくライオンをあらわしたもので、本来、角があってはならぬはずである。もちろんそれが理想化し、霊獣化して、彫刻家の意匠により、ことさらにそれに角を付加するということは考えられぬでもない。武蔵南多摩郡元八王子村なる諏訪神社の獅子頭は、古来、龍頭とよばれて二本の長い角が斜めにはえているので有名である。しかしながら、仙台領において特にそれが鹿の角であるということは、これを霊獣化したとだけでは解釈されない。けだし、もと鹿供養の意味からおこった一種の田楽的舞踊で、それがシシ踊りと呼ばるることからついに獅子頭とまで転訛するに至り、しかもなお原始の鹿角を保存して、今日におよんでいるものであろう。
第三巻 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝 定価:200円
魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝
倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。漢時有朝見者、今使訳所通三十国。従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千余里。始度一海千余里、至対馬国、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島、方可四百余里(略)。又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国〔一支国か〕
第三巻 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南 定価:200円
一、本文の選択
二、本文の記事に関するわが邦(くに)最旧の見解
三、旧説に対する異論
卑弥呼の記事を載せたる支那史書のうち、
次には本文のうち、各本に字句の異同あることを考えざるべからず。
第三巻 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南 定価:200円
四、本文の考証
帯方 / 旧百余国。漢時有朝見者。今使訳所通三十国。 / 到其北岸狗邪韓国 / 対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国 / 南至投馬國。水行二十日。/ 南至邪馬壹國。水行十日。陸行一月。/ 斯馬国 / 已百支国 / 伊邪国 / 郡支国 / 弥奴国 / 好古都国 / 不呼国 / 姐奴国 / 対蘇国 / 蘇奴国 / 呼邑国 / 華奴蘇奴国 / 鬼国 / 為吾国 / 鬼奴国 / 邪馬国 / 躬臣国 / 巴利国 / 支惟国 / 烏奴国 / 奴国 / 此女王境界所盡。其南有狗奴國 / 会稽東治
南至投馬國。水行二十日。
第三巻 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南 月末最終号:無料
四、本文の考証(つづき)
爾支 / 泄謨觚、柄渠觚、�馬觚 / 多模 / 弥弥、弥弥那利 / 伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳� / 狗古智卑狗
卑弥呼 / 難升米 / 伊声耆掖邪狗 / 都市牛利 / 載斯烏越 / 卑弥弓呼素 / 壱与
五、結論
付記
次に人名を考証せんに、その主なる者はすなわち、
付記 余がこの編を出せる直後、すでに自説の欠陥を発見せしものあり、すなわち「卑弥呼」の名を考証せる条中に『古事記』神代巻にある火之戸幡姫児(ヒノトバタヒメコ)
第三巻 第一〇号 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫 定価:200円
最古日本の女性生活の根底
一 万葉びと―
二 君主―
三 女軍(めいくさ)
四 結婚―
五 女の家
稲むらの陰にて
古代の歴史は、事実の記憶から編み出されたものではない。神人(かみびと)に神憑(がか)りした神の、物語った叙事詩から生まれてきたのである。いわば夢語りともいうべき部分の多い伝えの、世をへて後、筆録せられたものにすぎない。
(略)村々の君主の下になった巫女が、かつては村々の君主自身であったこともあるのである。
沖縄では、明治の前までは国王の下に、王族の女子あるいは寡婦が斎女王(いつきのみこ)同様の仕事をして、聞得大君(きこえうふきみ)
第三巻 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦 定価:200円
瀬戸内海の潮と潮流
コーヒー哲学序説
神話と地球物理学
ウジの効用
一体、海の面はどこでも一昼夜に二度ずつ上がり下がりをするもので、それを潮の満干といいます。これは月と太陽との引力のためにおこるもので、月や太陽がたえず東から西へまわるにつれて、地球上の海面の高くふくれた満潮の部分と低くなった干潮の部分もまた、だいたいにおいて東から西へ向かって大洋の上を進んで行きます。このような潮の波が内海のようなところへ入って行きますと、いろいろに変わったことがおこります。ことに瀬戸内海のように外洋との通路がいくつもあり、内海の中にもまた瀬戸がたくさんあって、いくつもの灘に分かれているところでは、潮の満干もなかなか込み入ってきて、これをくわしく調べるのはなかなか難しいのです。しかし、航海の頻繁なところであるから潮の調査は非常に必要なので、海軍の水路部などではたくさんな費用と時日を費やしてこれを調べておられます。東京あたりと四国の南側の海岸とでは満潮の時刻は一時間くらいしか違わないし、満干の高さもそんなに違いませんが、四国の南側とその北側とでは満潮の時刻はたいへんに違って、ところによっては六時間も違い、一方の満潮の時に他のほうは干潮になることもあります。また、内海では満干の高さが外海の倍にもなるところがあります。このように、あるところでは満潮であるのに他のところでは干潮になったり、内海の満干の高さが外海の満干の高さの倍になるところのあるのは、潮の流れがせまい海峡を入るためにおくれ、また、方々の入口から入り乱れ、重なり合うためであります。
第三巻 第一二号 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦 定価:200円
日本人の自然観
緒言
日本の自然
日本人の日常生活
日本人の精神生活
結語
天文と俳句
もしも自然というものが、地球上どこでも同じ相貌(そうぼう)をあらわしているものとしたら、日本の自然も外国の自然も同じであるはずであって、したがって上記のごとき問題の内容吟味は不必要であるが、しかし実際には、自然の相貌がいたるところむしろ驚くべき多様多彩の変化を示していて、ひと口に自然と言ってしまうにはあまりに複雑な変化を見せているのである。こういう意味からすると、同じように、
こう考えてくると、今度はまた「日本人」という言葉の内容が、かなり空疎な散漫なものに思われてくる。九州人と東北人とくらべると各個人の個性を超越するとしても、その上にそれぞれの地方的特性の支配が歴然と認められる。それで九州人の自然観や、東北人の自然観といったようなものもそれぞれ立派に存立しうるわけである。
われわれは通例、便宜上、自然と人間とを対立させ、両方別々の存在のように考える。これが現代の科学的方法の長所であると同時に短所である。この両者は、じつは合わして一つの有機体を構成しているのであって、究極的には独立に切り離して考えることのできないものである。
日本人の先祖がどこに生まれ、どこから渡ってきたかは別問題として、有史以来二千有余年、この土地に土着してしまった日本人が、たとえいかなる遺伝的記憶をもっているとしても、その上層を大部分掩蔽(えんぺい)するだけの経験の収穫をこの日本の環境から受け取り、それにできるだけしっくり適応するように努力し、また少なくも、部分的にはそれに成効してきたものであることには疑いがないであろうと思われる。
第三巻 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉 定価:200円
倭人の名は『山海経』
それすでに里数をもってこれを測るも、また日数をもってこれを稽(かんが)うるも、女王国の位置を的確に知ることあたわずとせば、はたしていかなる事実をかとらえてこの問題を解決すべき。余輩は幾度か『魏志』の文面を通読玩索(がんさく)し、しかして後、ようやくここに確乎動かすべからざる三個の目標を認め得たり。しからばすなわち、いわゆる三個の目標とは何ぞや。いわく邪馬台国は不弥国より南方に位すること、いわく不弥国より女王国に至るには有明の内海を航行せしこと、いわく女王国の南に狗奴国と称する大国の存在せしこと、すなわちこれなり。さて、このうち第一・第二の二点は『魏志』の文面を精読して、たちまち了解せらるるのみならず、先輩すでにこれを説明したれば、しばらくこれを措(お)かん。しかれども第三点にいたりては、