今村明恒 いまむら あきつね
1870-1948(明治3.5.16-昭和23.1.1)
地震学者。理学博士。鹿児島県生まれ。明治38年、統計上の見地から関東地方に大地震が起こりうると説き、大森房吉との間に大論争が起こった。大正12年、東大教授に就任。翌年、地震学科の設立とともに主任となる。昭和4年、地震学会を創設、その会長となり、機関誌『地震』の編集主任を兼ね、18年間その任にあたる。

◇参照:Wikipedia、『日本人名大事典』(平凡社)。
◇表紙絵・挿絵:恩地孝四郎。



もくじ 
地震の話(一) 今村明恒


ミルクティー*現代表記版
地震の話(一) 今村明恒
   一、はしがき
   二、地震学のあらまし
   三、地震に出会ったときの心得
    一、突差の処置
    二、屋外への避難

オリジナル版
地震の話(一) 今村明恒

地名年表人物一覧書籍
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後記次週予告

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*凡例
〈 〉:割り注、もしくは小書き。
〔 〕:編者(しだ)注。

*底本
底本:『星と雲・火山と地震』復刻版 日本児童文庫、名著普及会
   1982(昭和57)年6月20日 発行
親本:『星と雲・火山と地震』日本兒童文庫、アルス
   1930(昭和5)年2月15日 発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1578.html

NDC 分類:K450(地球科学.地学)
http://yozora.kazumi386.org/4/5/ndck450.html
NDC 分類:K453(地球科学.地学/地震学)
http://yozora.kazumi386.org/4/5/ndck453.html




地震じしんはなし(一)

今村いまむら明恒あきつね


   一、はしがき

 日本は地震国じしんこくであり、また地震学じしんがくひらけはじめた国である。これはあやまりのない事実であるけれども、もし日本は世界中で地震学がもっとも進んだ国であるなどというならば、それはいささかうぬぼれの感がある。実際じっさい、地震学のある方面では、日本の研究がもっとも進んでいる点もあるけれども、その他の方面においてはかならずしもそうでない。それゆえ著者ちょしゃらは地震学をもって世界にほころうなどとは思っていないのみならず、このごろのように、わが国民がくりかえし地震に征服せいふくせられてみると、むしろはずかしいような気持ちもする。すなわち大正十二年(一九二三)の関東大地震においては一〇万の生命と五十五億円の財産とをうしない、二年後、但馬たじまの国のケチな地震のため、四〇〇の人命と三〇〇〇万円の財産とをそんし、また二年後の丹後たんご地震によって三〇〇〇の死者と一億円の財産損失そんしつとをしょうじた。そしてこれらの損失のほとんど全部は地震後の火災によるものであって、被害民ひがいみんの努力しだいによっては大部分、まぬかられるべき損失であった。しかるに事実はそうでなく、あのような悲惨ひさんな結果の続発となったのであるが、これを遠く海外からながめてみると、日本はおそろしい地震国である。地震のたびごとに大火災をおこす国である。外国人はいのちがけでないと旅行のできない国である。国民は、ああたびたび地震火災になやまされても少しもこりないもののようである。地震によっていのちうしなうことをなんとも思っていないのかもしれないなどという結論をくだされないともかぎらぬまい。実際、これは欧米人の多数が日本の地震に対する観念である。かく観察されてみるとき、著者のごとき斯学しがく専攻者せんこうしゃは非常な恥辱ちじょくを感ぜざるをないのである。もちろん、この学問の研究が容易に進歩しないのも震災国しんさいこくたるの一因いちいんには相違そういないが、しかしながら地震に対して必要な初歩の知識がわが国民にけていることが、震災拡大の最大原因であろう。じつに著者のごときは、地震学が今日こんにち以上に進歩しなくとも、震災のほとんど全部はこれをまぬかる手段があると考えているものの一人である。
 著者ちょしゃは少年諸君しょくんに向かって、地震学の進んだ知識を紹介しようとするものでない。また、たとい卑近ひきんな部分でも、震災防止の目的に直接関係のないものまで論じようとするのでもない。ただし震災防止につき、少年諸君が現在の小国民しょうこくみんとしても、また他日たじつ、国民人物の中堅ちゅうけんとしても自衛上、はた公益上こうえきじょう必要くべからざる事項じこう叙述じょじゅつせんとするものである。

   二、地震学じしんがくのあらまし

 わが国は地震学発祥はっしょうの地といわれている。これは文化の進んだ国としては地震に見舞みまわれる機会の多いからにもよるのであるが、なお他の一因いちいんとして明治維新後、わが国の文化開発事業の補助者ほじょしゃとして招聘しょうへいした欧米人が、多くはその道において、優秀な人たちであったこともかぞえなければならぬ。こと発端ほったんは、明治十三年(一八八〇)二月二十二日、横浜ならびにその近郊きんこうにおいて、レンガ煙突えんとつならびに土壁どへき小破損しょうはそんしょうぜしめた地震にある。このとき、大学その他の官衙かんがにいた内外達識たっしき相会あいかいして、二週間目には日本地震学会を組織し、つづいて毎月の会合かいごうに有益な研究の結果を発表したが、創立そうりつ数か月ののち、当時、東京帝国大学理学部における機械工学および物理学の教授であったユーイング博士(現今げんこん、エディンバラ大学総長)は水平振子しんし地震計の発明をおおやけにし、ついで翌年には工学部大学校電気学でんきがく教授たりしグレー博士の考案を改良した上下動地震計を作り出した。これがすなわち現今の地震計の基礎の形式であって、当今とうこんおこなわれているミルン地震計、大森おおもり地震計、ガリッチン地震計、パシュウィチ水平振子しんしなど、その構造の要点はみなユーイング地震計である。じつにこの地震計の発明は、それまできわめて幼稚ようちであった地震学が本当の学問に進歩したもといであるので、単にこの一点からみても、地震学は日本においてひらけたといってもさしつかえないくらいである。それのみならず、日本地震学会から出版せられた二十冊の報告書は、当時、世界において唯一ゆいつの地震学雑誌であったのみならず、収録せられた材料、ミルン教授らによってものせられたる多くの論文、いずれも有益な資料であって、今日こんにちでも地震学について何か研究でもこころみんとするものの、かならず参考すべき古典書である。
 それやこれやの関係で、日本は地震学開発の国といわれているのであるが、しかし、その開発者のおもな人々は外国人、特にイギリス人であった。関谷せきや教授〔関谷清景せいけいか。大森おおもり〔大森房吉ふさきちか。博士などのくわわれたのは、ずっとのちのことである。
 明治二十四年(一八九一)十月二十八日の濃尾のうび大地震は、地震学にとって第二の時代を作ったものである。このころにおいて日本地震学会は解散のむなきにいたったが、あらたにわが政府事業としてこされた震災予防調査会がこれにかわった。この調査会の会員は全部日本人であって、地震学・物理学・地質学・地理学・土木工学・建築学・機械工学とう、地震学の理論ならびに応用に関した学問においてわが国第一流だいいちりゅうの専門家を網羅もうらしたものであった。したがって地震動じしんどうの性質、地震に損傷そんしょうしない土木工事や、建築の仕方しかたとうについての研究が非常に進み、木造ならびに西洋風の家屋かおくにつき耐震たいしん構造法こうぞうほうなどほとんど完全の域に進んだ。調査会が大正十三年(一九二四)廃止はいしせられるにいたるまでに発表した報告書は和文のもの百一号、欧文のもの二十六号、別に欧文紀要きよう十一冊、欧文観測録六冊は、今日こんにち世界が有する地震学参考書の中堅ちゅうけんをなすものであって、これらの事業は、日本地震学会時代において専有せんゆうしていたわが国の名声めいせいはずかしめなかったといえるであろう。
 日本における地震学のこれまでの発達は、おもに人命財産に関する方面の研究であった。しかるに最近二十年のあいだ、欧米における地震学は他の方面に発達した。それは遠方地震の観測によって、わが地球の内部の構造を推究すいきゅうする仕方しかたである。少年読者は、天文学・地理学・地質学・物理学とうの応用によって、わが地球の球体に近きこと、平均密度が五・五なること、表面に近き部分の構造、内部にたくわえられる高熱こうねつ、地球が一個の大きな磁石じしゃくであることなどを学ばれたであろう。また、これらの学問のちからによって、わが地球は鋼鉄こうてつよりも大きな剛性ごうせいゆうしていることもわかってきた。すなわちつきや太陽の引力によってわが地球が受けるひずみの分量ぶんりょうは、地球全体が鋼鉄こうてつでできていると仮定した場合の三分の二しかないのである。言葉をかえていえば地球の平均のしぶとさは鋼鉄こうてつの一倍半である。こういうふうにしてわが地球の知識はだんだん進んできたけれども、その内部のちに立ち入った知識は毛頭もうとう進んでいないといってよろしかった。実際、地質学で研究している地層ちそうの深さは地表下ちひょうか二、里内りないよこたわっているものばかりであって、医学上の皮膚科ひふかにもおよばないものである。ただし、ここに一つの研究のがかりができたというのは、地球の表面近くからほうった斥候せっこうが、地球内部にまで偵察ていさつかけ、それがふたたび地球の表面に現われてきて報告をなしつつあることがづかれたことである。この斥候せっこう何者なにものであるかというと、大地震のときにおこる地震波じしんはである。実際、地震は地球の表面に近いところに発生するものであるが、ちょうどかぜが水面に波をおこすように、また発音体はつおんたいが空気中に音波をおこすように、地震は地震波じしんはをおこすのである。そうして地震が大きければ大きいほど地震波じしんはも大きいので、これが地球の表面を沿うて四方八方にひろがり、あるいは地球を一回ひとまわりも二回ふたまわりもすることもあるが、それと同時に地震波じしんはは地球内部の方向にも進行して反対の方面に現われ、場合によっては地球の表面で反射してふたたび他の方面に向かうのもある。ただし、この斥候せっこうの報告書ともづくべきものは、単に地震波じしんはの種々の形式のみであるから、これを書き取り、そのうえにそれを読み取ることを必要とする。これは容易ならぬ仕事であるが、しかしながら単に困難であるだけであってけっして不可能ではない。
 地震波じしんは偵察ていさつした結果を書き取る器械、これを地震計とづける。前にユーイング教授が地震計を発明したことをべたが、これはじつに容易ならざる発明であったのである。読者、こころみに地震計の原理を想像してみるがよい。地上の万物は地震のときみなゆれ出すのに、自分だけ空間のもとの点から動かないというような方法を工夫しなければなるまい。これはけっしてそうやすやすと考え出せるはずのものではないのであるが、さらにその精巧せいこうなものにいたっては、人の身体にはもちろん、普通の地震計にも感じないほどの地震波じしんはまで記録することができるのである。特にそのうち、ゆっくりとした震動しんどう、たとえば一分間に一センチメートルほどをしずかに往復おうふく振動しんどうするような場合においても、これを実際のままに書きらしめることが長週期ちょうしゅうき地震計とづけるものの特色である。こういう地震計で遠方の大地震を観測すると、その記録した模様もようがきわめて規則きそく正しいものとなって現われてきて、今日こんにちでは模様もようの一つ一つについてその経路けいろがすでにあきらかにせられている。これによって地球の内部を通るときの地震波じしんはの速さは、地球を鋼鉄こうてつとした場合の幾倍いくばいにもあたることがわかり、また地球の内部は鉄のしんからり立っており、その大きさは半径二七〇〇キロメートルのきゅうであることが推定せられてきた。
 地震学の今日こんにちの進歩によって、地球の内部状態がわかりかけてきたことは右のとおりであるが、実際、地震学を除外じょがいしては、この地球内部状態の研究資料となるところのものがまったく気づかれていないのである。さればこそ欧米の地震学者の多くはこの方面の研究に興味を持ち、また主力をかたむけているのである。実際、地震のまったくこることなき国においては、生命財産に関係ある方面の研究は無意味であるけれども、適当てきとうな器械さえあれば、世界の遠隔えんかくした場所におこった地震の余波よはを観測して、前記のごとき研究がけっこうできるのである。
 前に述べたとおり地震学の研究は、便宜上べんぎじょうこれを二つの方面にけることができる。すなわち一つは人命財産に直接関係ある事項じこう、他は地球の内部状態の推究すいきゅうに関係ある事項である。わが国における地震学はむろん第一の方面にはいちじるしい発達をとげ、けっして他におくれを取ったことがないのみならず、今後においてもやはりその先頭せんとうに立って進行することができるであろうと信じている。しかるに第二の方面においては、欧州、特にドイツへんに優秀な学者が多く現われ、近年わが国はこの点についてかれに一歩をゆずっていたかの感があったが、大正十二年(一九二三)関東大地震以来いらい、研究者しだいに増加し、優秀な若い学者も出来できてきたので、最近二、三年の間においてはこの方面にもがしだいにびてきて、今日こんにちではもはやかれにおくれていようとは思われない。
 地震学の応用によって地球の内部状態がかなりにあかるくなってきたことは前にも述べたとおりであるが、本編においてはこの方面に向かって、前記以上に深入ふかいりしようとは思わない。ただし地震のこりよう、すなわち地震はいかなる場所においてどんな作用でこるかのだいたいの観念をるため、地球の表面に近き部分の構造を述べさしてもらいたい。
 わが地球には水界すいかい陸界りくかいとの区別があり、陸界は東大陸ひがしたいりく西大陸にしたいりく・オーストラリアとうかれている。この陸界と水界中すいかいちゅうにおいて特に深い海の部分とは、土地の構造、特にその地震学上から見た性質においてかなりな相違そういがある。大陸は主として花崗岩質かこうがんしつのものでできていて、だいたい十里じゅうり程度の深さを持っているようである。それは下の鉄心てっしんいたるまでは玄武岩質げんぶがんしつのもの、もしくはそれに鉄分がくわわったものでできていて、これは急速に働くちからに対してきわめてしぶとく抵抗ていこうする性質をそなえているけれども、ゆるく働くちからに対しては容易に形をえ、ちからの働くままになること、食用のあめを思い出させるようなものである。そうして深い海の底はこのしつそうが直接その表面までたっしているか、あるいは表面近く進んできていて、その上を陸界りくかいの性質のものでうすおおうているくらいにすぎぬと、こう考えられている。
 地球はそういう性質の薄皮はくひをもっておおわれており、深海床しんかいしょうまたは地下ちか深いところは、ゆるく働くちからに対してしぶとく抵抗ていこうしないので、地震をこそうというちからは大陸またはその周囲においてはしだいに蓄積ちくせきすることをゆるされても、深い海底、特に地球の内部においては、たといかようなちからが働くことがあっても、風にやなぎのたとえのとおり、すぐにそのちからのなすままに形を調節して平均がり立つため、地震力がたくわえられることをゆるされない。そこで大きな地震は、大陸またはその周囲において、十里じゅうり以内の深さのところにこることが通常であって、深い海の中央部、または数十里すうじゅうりあるいは数百里すうひゃくりの深さの地下ではおこらない。たといそこに地震がおこることがあっても、それは大きくないものにかぎるのである。

 大陸は現今のように五大州ごだいしゅうかれているけれども、地球がけていた状態から、かたまり始めたときには、単に一つのかたまりであったが、それがある作用のために数個の地塊ちかい分裂ぶんれつし、地球の自転その他の作用で、しだいにはなれ離れになって今日こんにちのようになったものと信じられている。読者もし世界地図を開かれたなら、アフリカの西沿岸にしえんがんの大きなくぼみが、大西洋をへだてた対岸の南アメリカ、特にブラジルの沿岸のでっぱりにちょうど割符わりふわせたようにつぎわされることを気づかれるであろう。このような海岸線の組合くみあわせは地球上いたるところに見い出されるが、紅海こうかい東海岸ひがしかいがん西海岸にしかいがんとのごときもいちじるしい一組ひとくみである。もし手近てぢかな例がしければ、小規模ではあるけれども、浦賀うらが海峡〔浦賀水道か。の左右両岸をあげることができる。これを熟視じゅくしされると、両対岸りょうたいがんあい接触せっしょくしていた模様もようが想像せられるであろうが、そう接続せつぞくしていたと考えてのみ説明しられる地理学上の事項が、またその中にふくまれているのである。

 大陸は、たとえばあめの海にかんでいる船である。これが浮動ふどうさまたげいるのは深海床しんかいしょうからばされたタコの手である。そしてこのタコは大陸の船縁ふなべりをつかんでいるのである。ある極限きょくげんまではかくして大陸の浮動ふどうささえているけれども、ついにささえきれなくて、あるいは手を離したりあるいは指を切ったりして平均がやぶれ、したがって急激な移動もおこるのである。この急激な移動、これがすなわち大地震の原因である。もしかような大移動が海底でおこれば津波つなみをおこすことにもなる。
 火山作用によって地震をおこすことは、別に説明を要するまでもないことである。またその作用によっても地震がおこされることがないでもないが、いずれの場合においても、大地震とは縁遠えんどおいもののみである。したがって人命財産の損失から見るとき、これらの問題は考えに入れなくともさしつかえないであろう。

 このさい一言いちげんしておく必要のあることは、地震の副原因ふくげんいんということである。すなわち地震がおこるだけの準備ができているとき、それを活動に転ぜしめる機会をあたえるところの誘因ゆういんである。たとえば鉄砲てっぽう弾丸たまを遠方へ飛ばす原因は火薬かやくの爆発力であるが、これを実現せしめる副原因は引きがねをはずす作用である。鉄砲てっぽう弾薬だんやく装填そうてんしてあれば引きがねをはずすことによって弾丸たまが遠方に飛ぶが、もし弾薬だんやく装填そうてんしてなくあるいは単に弾丸たまだけめて火薬かやくくわえなかったなら、たといいくど引きがねをはずしても弾丸たまけっして飛び出さない。地震の場合においてこの引きがねの働きに相当するものとして、気圧・しお干満かんまんなどいろいろある。たとえば相模さがみ平野におこる地震においては、その地方の北西方ほくせいほうにおいて気圧が高く、南東方なんとうほうにおいてそれが低いとその地方の地震が誘発ゆうはつされやすい。それゆえ地震の予知よち問題の研究において右のような副原因を研究することも大切であるが、しかしながら事実上の問題として引きがね空外からはずしともいうべき場合がすこぶる多いことである。つまり百千ひゃくせん空外からはずしに対してわずかに一回の実弾じつだんが飛び出すくらいのことであるから、かような副原因だけを研究していては、予知問題のほうへ一歩も進出することができないような関係になるのである。

 予知問題の研究についてもっとも大切な目標は、地震の主原因の調査である。弾薬だんやくが完全に装填そうてんされてあるかいなかを調べることである。近時きんじこの方面の研究が、わが日本においておおいに進んできた。著者は昭和二年(一九二七)九月、チェコスロバキアこく首府しゅふプラーグ〔プラハ。における地震学科の国際会議において、この問題に関するわが国最近さいきんの研究結果につき報告するところがあったが、列席の各員は著者が簡単に演述えんじゅつした大地震前徴ぜんちょうにつき、さらに詳細しょうさいな説明を求められ、すこぶる満足のていに見受けた。実際、地震の予知問題の解決は至難しなんわざであるに相違そういない。しかしながらけっして不可能のものとは思わない。著者のごときは、この問題はすでにある程度までは机上きじょうにおいて解決せられていると思っている。残るところはその考案の実施いかんという点に帰着きちゃくする。しかもその実施は一時に数十万円、年々十万円の費用にてできる程度である。
 地震の予知問題がかりにつごうよく解決されたとしても、震災防止についてはなお重大な問題が多分たぶんに残るであろう。かりに地震予報が天気予報の程度に達しても、雨天うてんにおいては雨着あまぎかさを要するように、また暴風に対しては海上の警戒けいかいはもちろん、農作物のうさくぶつ・家屋とうに対しても臨機りんきの処置が入用にゅうようであろう。そのうえ、気象上の大きな異変については単に予報ばかりで解決されないこと、昭和二年(一九二七)九月十三日、西九州における風水害の惨状さんじょうを見てもあきらかであろう。著者の想像では、かりに地震予報ができる日がきても、それは地震のおこりそうなある特別の地方を指摘してきるのみで、それがいく時間後か、はたいく日後に実現するかを知るのはさらに研究が進まねば解決できないことと考える。要するに地震学進歩の現状においては、いつ地震におそわれてもさしつかえないように平常のこころがけが必要である。建物や土木工事を耐震的たいしんてきにするというようなことは、これまた平日おこなうべきことではあるが、しかしこれはそのきょくにあたるものの注意すべき事項であって、小国民があずからずともよいことである。しかしながら地震に出会ったその瞬間においては、大小国民のこらず自分で適当な処置を取らなければならないから、この場合のこころがけは地震国の国民にとって一人のこらず必要なことである。
 わが国のごとき地震国においては、地震に出会ったときの適当な心得こころえが絶対に必要なるにもかかわらず、従来、かようなものがけていた。たとい多少それに注意したものがあっても、地震の真相を誤解ごかいしているため、適当なものになっていなかった。著者はこれに気づいたので、この数年間その編纂へんさん腐心ふしんしていたが、東京帝国大学地震学じしんがく教室における同人どうにん助言じょげんによって、大正十五年(一九二六)いたってようやくこれをおおやけにする程度にたっした。本編はおもにこの注意書に対する解釈かいしゃくしるしたものといってよいと思う。もしこの心得こころえ体得たいとくせられたならば、個人としては震災からしょうずる危難きなんまぬかれ、社会上の一人としては地震後の火災を未然に防止し、従来われわれがなやんだ震災の大部分がけられることと思う。すくなくも、そのような結果になるように期待しているものである。
 つぎに著者が編纂へんさんした注意書をかかげることにする。

   三、地震じしんに出会ったときの心得こころえ

一、最初の一瞬間において非常の地震なるかいなかを判断し、機宜きぎてきする目論見もくろみを立てること。ただし、これには多少の地震知識をようす。
二、非常の地震たるをさとるものは、みずから屋外おくがい避難ひなんせんとつとめるであろう。数秒間に広場へ出られる見込みがあらば機敏きびんに飛び出すがよい。ただし、火のもと用心を忘れざること。
三、二階建て・三階建てとうの木造家屋では、階上かいじょうほうかえって危険がすくない。高層こうそう建物の上層じょうそう居合いあわせた場合には屋外へ避難することを断念だんねんしなければなるまい。
四、屋内おくないの一時避難所としては堅牢けんろうな家屋のそばがよい。教場内きょうじょうないにおいてはつくえの下がもっとも安全である。木造家屋内にてはけたはりの下をけること、また洋風建物内にては、張壁はりかべ暖炉用だんろようレンガ・煙突えんとつとうの落ちてきそうな所をけ、むをざれば出入口の枠構わくがまえの直下にせること。
五、屋外においては屋根瓦やねがわらかべ墜落ついらく、あるいは石垣いしがき・レンガべい煙突えんとつとう倒壊とうかいしきたるおそれある区域から遠ざかること。特に石灯籠いしどうろう近寄ちかよらざること。
六、海岸においては津波つなみ襲来しゅうらい常習地じょうしゅうち警戒けいかいし、山間さんかんにおいては崖崩がけくずれ・山津波やまつなみ土石流どせきりゅう。〕に関する注意をおこたらざること。
七、大地震にあたり、およそ最初の一分間をしのぎたら、もはや危険をだっしたものとみなしられる。余震よしんおそれるにらず、地割じわれにまれることはわが国にては絶対になし。老若男女、すべてちからのあらんかぎり災害防止につとむべきである。火災の防止をまっさきにし、人命救助をそのつぎとすること。これすなわち人命財産の損失を最小にする手段である。
八、潰家かいかからの発火は地震直後におこることもあり、一、二時間の後におこることもある。油断なきことを要する。
九、大地震の場合には水道は断水だんすいするものと覚悟かくごし、機敏きびん貯水ちょすいの用意をなすこと。また、水をもちいざる消防法をも応用すべきこと。
十、余震よしんはその最大なるものも最初の大地震の十分の一以下の勢力である。最初の大地震をしのぎた木造家屋は、たとい多少の破損はそんをなしても、余震しんに対しては安全であろう。ただし、地震でなくとも壊れそうな程度にそんしたものは例外である。

 右のうち、説明をりゃくしてもよいものがある。しかしながら、一応いちおうはざっとした注釈ちゅうしゃくくわえることにする。以下、こううて進んでゆく。

    一、突差とっさの処置

 地震に出会った一瞬間、心のおちつきをうしなって狼狽ろうばいもすれば、いたずらに逃げまどう一方いっぽうのみに走るものもある。平日の心得こころえのたりない人にこれが多い。
 著者のんだ第一項は、最初の一瞬間において、それが非常の地震なるかいなかを判断せよというのである。もし、たいした地震でないという見込みがついたならば、心も自然にやすらかなはずであるから過失かしつのおこりようもない。そのうえ、危険性をおびた大地震に出会うというのは、人の一生のあいだにおいて多くて一、二回にしかないはずであるから、われわれが出会うところの地震のほとんど全部はたいしたものでないということがいえる。ただし、その一生のあいだに一、二回しか出会わないはずのものに、たまたま出会った場合がもっとも大切であるから、そういう性質の地震であるかいなかを最初の一瞬間において判定することは、地震に出会ったときの心得こころえとしてもっとも大切な一事件いちじけんである。
 地震は地表下ちひょうかにおいてあまり深くない所でおこるものである。ただし深くないといっても、それは地球の大きさに比較していうことであって、これを絶対にいうならば幾里いくり幾十いくじゅうキロメートルという程度のものである。もし震源が直下でなかったならば、震源に対して水平の方向にも距離がくわわってくるから、距離はますます遠くなるわけである。
 われわれは地震を感じた場合、その振動の緩急かんきゅうによって震源距離の概念を持つようになる。すなわち振動かんなるときは震源が遠いことを想像するが、反対に振動がきゅうなときは震源はわれわれに近いことと判断する。また地震と同時に、あるいはこれを感ずる前に地鳴じなりを聞くこともある。これは地震がわれわれにもっとも近くおこった場合である。
 地震はその根源の場所においては緩急かんきゅう各種の地震波じしんはを発生するものであって、これがあいともなって四方八方へひろがって行くのであるが、このさいきゅうな振動をなす波動はみちすがらその勢力をもっともすみやかに減殺げんさいされるから、振動のきゅうなものほどそのひろがる範囲がせまく、ゆるやかなものほどそれが広い。このことをつぎのようにもいう。すなわちきゅうな振動は、その勢力が中間の媒介物ばいかいぶつに吸収されやすく、ゆるやかなものはそれが吸収されにくい。これがわれわれの感じた地震動じしんどう緩急かんきゅうによって、地震が深くにおこったか、あるいは近くにおこったかを判断しうる理由であって、また遠方の大地震の観測に長週期ちょうしゅうき地震計が入用にゅうようなわけである。
 地震が十分じゅうぶんに近くおこった場合は、一秒間に数十回もしくばそれ以上の往復おうふく振動が現われてくるが、それは単に地鳴じなりとしてわれわれの聴覚に感ずるのみであって、一秒間に四、五回の往復おうふく振動になってようやく急激な地動ちどうとしてわれわれの身体にはっきりと感ずるようになる。しかしながら震源距離が三十里さんじゅうり以上にもなると、初動しょどうはかなり緩漫かんまんになって一秒間一、二回の往復おうふく振動になり、さらに距離が遠くなるとついには地震動の最初の部分は感じなくなって、中頃なかごろの強い部分だけを感ずるようにもなる。

 つぎに、最初の一瞬間の感覚によって地震の大小・強弱を判断することについて述べてみたい。ことわざに大風おおかぜ中頃なかごろが弱くて初めと終わりとが強く、大雪おおゆきは初めから中頃まで弱くて終わりが強く、大地震は、初めと終わりが弱くて中頃が強いということがある。これはおもしろい比較観察だと思う。大風と大雪とはさておいて、大地震についていわれた右のことわざは一般の地震に通ずるものである。われわれは最初の弱い部分を初期微動びどうづけ、中頃の強い部分を主要動しゅようどうあるいは主要部しゅようぶ、終わりの弱い部分を終期部しゅうきぶづけている。終期部は地震動の余波よはであってあまり大切なものではないが、初期微動と主要部とはきわめて大切なものである。両者ともに震源から同時に出発し、同じみちとおってくるのであるけれども、初期微動は速度大そくどだいに、主要動はそれがしょうなるためにかく前後に到着することになるのである。あたかも電光でんこう雷鳴らいめいとの関係のようなものである。
 もっと具体的にいうならば、初期微動は空気中における音波のような波動であって、振動の方向と進行の方向とが相一致あいいっちするもの、すなわち形式からいえば縦波たてなみである。主要動はそれとことなり横波よこなみである。震源の近い場合には縦波たてなみはおよそ毎秒五キロメートルの速さで進行するのに、横波よこなみは毎秒三・二キロメートルの速さで進行する。
 初期微動が到着してから主要動がくるまでの時間を、初期微動継続けいぞく時間とづける。読者は初期微動時間だけを知って震源距離を計算して出すことは、算術のたやすい問題たることを気づかれたであろう。実際、われわれはこの計算に一つの公式をもちいている。すなわち初期微動継続時間の秒数に八という係数けいすうけると、震源距離のおよそのあたいがキロメートルで出てくるのである。
 地震計の観測によるときは、初動しょどうの方向も観測せられるので、したがって震源の方向が推定せられ、また初期微動継続時間によって震源距離が計算せられるから、単に一か所の観測のみによって震源の位置が推定せられるのであるが、しかしながら身体の感覚のみにてはかような結果をることは困難である。
 東京へんでおこる普通の小地震は、たいてい四十キロメートルくらいの深さをもっているから、かような地震がわれわれの直下におこっても、初期微動継続時間は五・三秒ほどになる。東京市内に住むものは、七、八秒から十秒ぐらいまでの初期微動を有する地震を感ずることがもっとも多数である。しかしながら大正十四年(一九二五)但馬たじま地震における田結村たいむらの場合のごとく、また一昨年いっさくねん丹後たんご地震における郷村ごうむらまたは峰山みねやまの場合のごとく、初期微動びどう継続時間わずかに三秒程度なることもあるのである。ただし、これはきわめて稀有けうな場合であったといってよろしい。
 初期微動びどうは主要動に比較してだいなる速さを持っているが、しかしながら振動の大きさは、反対に主要動の方がかえってだいである。この大小の差違さいは地震の性質により、また関係地方の地形・地質とうによっても一様いちようではないが、多数の場合を平均していうならば、主要動たる横波よこなみは、初期微動たる縦波たてなみに比較しておよそ十倍の大きさを持っている。これが最初の部分に初期微動とての字がかんせられる所以ゆえんである。そうして主要動が大地震の場合において、破壊作用をなす部分たることは説明せずともすでに了得りょうとくせられたことであろう。
 読者は小地震の場合において、初期微動と主要動を明確に区別して感得かんとくせられたことがあるであろう。初期微動は通常ビリビリという言葉で形容せられるように、ややきゅうにしかも微小びしょうな振動であるが、それが数秒間あるいは十数秒間継続すると、突然、主要動たる大きな振動がくる。その振動ぶりは、最初の縦波たてなみにくらべてやや緩漫かんまん大揺おおゆれであるがため、われわれはこれをゆさゆさという言葉で形容している。しかしながら大地震になると、初期微動でもけっして微動でなく、多くの人にとってはいくぶんの脅威きょういを感ずるような大きさの振動である。たとえば、われわれが大地震の場合においてしばしば経験するとおり主要動の大きさを十センチメートルと仮定すれば、初期微動は一センチメートル程度のものであるので、もしこういう大きさの地動ちどうが、一秒間に二、三回もくりかえされるほどの急激なものであったならば、木造家屋や土蔵どぞう土壁つちかべを落とし、器物きぶつたなの上から転落せしめるくらいのことはありべきである。もし地震の初動しょどうがこの程度の強さをしめしたならば、これは非常の地震であると判断してあやまりはないであろう。
 さいわいに最初の一瞬間において、非常の地震なるかいなかの判断がついたならば、その判断の結果によって臨機りんきの処置をなすべきである。もし、それが非常の地震だと判断されたならば、自分の居所いどころのいかんによって処置方法がわらなければなるまい。それについては、以下の各項において細説さいせつするつもりである。しかしながら、それがありふれた小地震だと判断されたならば、泰然たいぜん自若じじゃくとしているのも一法いっぽうであろうけれども、これはあまりに消極的の動作であって、著者が地震国の小国民に向かって希望するところでない。著者はむしろかような場合を利用して、地震に対する実験的の知識を修養しゅうようまれるよう希望するものである。
 前に述べたとおり、初期微動びどうの継続時間は震源距離の計算に利用しられる。この継続時間の正確なるあたいは地震計の観測によってはじめてわかることであるけれども、概略がいりゃくあたいは暗算によっても出てくる。著者のごときはそれが常習じょうしゅうとなっているので、夜間熟睡じゅくすいしているときでも地震により容易に覚醒かくせいし、ゆめうつつの境涯きょうがいにありながら右の時間の暗算とうにとりかかるくせがある。これを器械的観測の結果に比較すると一割以上の誤差ごさしょうじた例はきわめて少ない。著者はさらに進んで地震動の性質をあじわい、それによって震源の位置をも判断することに利用しているけれども、これは一般の読者に望みべきことでない。とにかく、初期微動継続時間をはじめとして、発震時はっしんじその他に関するあたいを計測し、これを器械観測の結果に比較することはすこぶる興味多いことである。自分と観測所との間隔かんかくが一、以内であるならば、両方の時刻ならびに時間ともにだいたい同じあたいに出てくるべきはずである。
 右のほか、体験した地震動の大きさを器械観測の結果に比較するのもまた興味ある事柄ことがらである。しかしながら、この結果においては器械で観測せられたものと、自分の体験したものとはいちじるしき相違そういのあることが一般であって、それがむしろ至当しとうである場合が多い。たとえば東京市内でも下町したまちと山の手とで震動しんどうの大きさに非常な相違そういがある。がいして下町の方が大きく、山の手の二、三倍もしくはそれ以上にもなることがある。また、鎌倉の例をとると由比ヶ浜ゆいがはまの砂丘は、ゆきした岩盤がんばんに比較して四、五倍の大きさに出てくることもある。かような根本こんぽん相違そういがあるうえに、器械はたいてい地面そのものの震動を観測するようになっているのに、体験をもってはかっているのは家屋の振動であることが多い。もし、その家屋が丈夫じょうぶな木造平家ひらやであるならば、床上しょうじょうの振動は地面のものの三割しなることが普通であるけれども、木造二階建ての階上かいじょうは三倍程度なることが通常である。このとおりに器械観測の結果と体験の結果とは最初から一致いっちがたいものであるけれども、それを比較してみることは無益むえきわざではない。上手じょうずにやると自分の家屋の耐震率たいしんりつともづくべきものの概念がられるであろう。すなわち二階建ての二階座敷ざしき階下かいか座敷の五倍にゆれるようならば、不安定な構造と判断しなければならないが、もし僅々きんきん二倍ぐらいにしかれないならば、むしろ堅牢けんろうな建物とみなしてよいであろう。

    二、屋外おくがいへの避難


 地震に出会ってそれが非常の地震であることを意識したものは、よほど修養しゅうようんだ人でないかぎり、たとい耐震たいしん家屋内かおくないにいても、また屋外避難の不利益な場合でも、しかせんとつとめるであろう。この屋外へ避難することの不利益な場合は次項じこうに説明することとし、もし、平家建ひらやだての家屋内あるいは二階建て・三階建てとう階下かいか居合いあわせた場合には屋外へ飛び出すほうがもっとも安全であることがある。しかしながら、いずれの場合でもそうであるとはかぎらぬ。まず屋外がせまくて、もし家屋が倒壊とうかいしたならばかえってそのために圧伏あっぷくされるような危険はなきか。これが第一に考慮こうりょすべき点である。
 平家建ひらやだて小屋組こやぐみ、すなわちけたはりと屋根との部分が普通にできていれば容易にくずれるものではない。たとい家屋が倒伏とうふくすることがあっても、小屋組こやぐみだけはもとのままの形をして地上に直接の屋根を現わすことは、大地震の場合、普通に見る現象である。かような場合、下敷したじきになったものも、はりまたはけたのような大きな横木よこぎで打たれないかぎり、たいてい安全である。
 一方いっぽう、屋外に避難せんとする場合においては、まだきらないうちに家屋倒壊とうかいし、しかも入口の大きな横木よこぎ圧伏あっぷくせられる危険がともなうことがある。前に述べたとおり、初期微動の継続けいぞく時間はがいして七、八秒はあるけれども、前記の但馬たじま地震および丹後たんご地震においては、震源地の直上ちょくじょうにおいて三秒ぐらいしかなかった。かかる場合、家の倒伏前とうふくぜんに屋外の安全な場所まで逃げ出すことはなかなか容易なわざではない。実際、前記の大地震においては機敏きびんな動作をなしてかえって軒前のきさきで圧死したものが多く、逃げおくれながら小屋組こやぐみの下に安全にかれたものは屋根をやぶって助かったという。かような場合をかえりみると、屋外へ避難してなる場合は、わずかに二、三秒で軒下のきしたを離れることができるような位置にあるときにかぎるようである。もし、偶然ぐうぜんかような位置に居合いあわせたならば、機敏きびんに飛び出すが最上策さいじょうさくであることもちろんである。
 右のような条件が完全にそなわっていなくとも、たいていの人は屋外に避難せんとあせるにちがいない。これはむしろ、動物の本能であろう。目の前をなにかかすめてとおるとき、きゅうにまぶたを閉じるような行動と相似あいにている。
 安政二年(一八五五)十月二日の江戸大地震において、小石川こいしかわ水戸みと屋敷において圧死した藤田ふじた東湖とうこ先生の最後と、麹町こうじまち神田橋内かんだばしない姫路ひめじ藩邸はんていにおいて圧死した石本いしもと李蹊りけいおうの最後はまったく同じてつまれたものであった。この地震の初期微動継続時間は七、八秒ほどあったように思われる。各先生ともに地震を感得かんとくせられるやいなや、本能的に外に飛び出されたが、はっと気がついてみると老母ろうぼが屋内に取り残されてあった。とって返して助け出そうとするうち、主要動のために家屋は崩壊ほうかいしはじめたので、東湖は突差とっさ母堂ぼどうを屋外へほうり出した瞬間、家屋はまったく先生を圧伏あっぷくしてしまったが、李蹊りけい母堂ぼどうと運命をともにしたのである。東湖先生の最後のありさまはよく人に知られているが、石本いしもと李蹊りけい翁のは知る人が少ない。翁の令息れいそくに有名な石本新六男しんろくだんがあり、新六男の四男よなんに地震学で有名な巳四雄教授のあることは、李蹊りけい翁もまたもってめいするにるといわれてもよいであろう。
 われわれの崇敬すうけいする偉人いじんでも、大地震となるとわれを忘れて飛び出されるのであるから、二階建て・三階建てとう階下かいか平家建ひらやだての屋内にいた人が逃げ出すのは、もっともな動作と考えなければなるまい。前記の但馬たじま地震や丹後たんご地震のごときは初期微動びどう継続時間のもっともみじかかった稀有けうの例であるので、むしろ例外とみてしかるべきものである。それゆえに、もし数秒間で広場へ出られる見込みがあらば、もっとも機敏きびんにそうするほうが個人として最上さいじょうさくたるに相違そういない。ただひとつ、ここに考慮こうりょすべきは火の用心に関する問題である。地震にともなう火災は地震直後におこるのが通常であるけれども、地震後一、二時間の後におこることもある。避難のさい、わずかに一挙手いっきょしゅの動作によって火が消されるようならば、そういう処置は望ましきことであるが、もしその余裕なくして飛び出したならば、あとになってからでも火を消すことに注意すべきであって、特に今までいた家がつぶれたときにそうである。これ、著者がこのごろの本文ほんもんにおいて、『ただし、火のもと用心を忘れざること』とくわえた所以ゆえんである。(つづく)


底本:『星と雲・火山と地震』復刻版 日本児童文庫、名著普及会
   1982(昭和57)年6月20日 発行
親本:『星と雲・火山と地震』日本兒童文庫、アルス
   1930(昭和5)年2月15日 発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日公開
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地震《ぢしん》の話《はなし》

今村明恒

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   目次《もくじ》

地震《ぢしん》の語《はなし》
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一、はしがき
二、地震學《ぢしんがく》のあらまし
三、地震《ぢしん》に出會《であ》つた時《とき》の心得《こゝろえ》
[#ここから2字下げ]
 一、突差《とつさ》の處置《しよち》
 二、屋外《おくがい》への避難《ひなん》
 三、階下《かいか》の危險《きけん》
 四、屋内《おくない》にての避難《ひなん》
 五、屋外《おくがい》に於《お》ける避難《ひなん》
 六、津浪《つなみ》と山津浪《やまつなみ》との注意《ちゆうい》
 七、災害《さいがい》と防止《ぼうし》
 八、火災《かさい》防止《ぼうし》(一《いち》)
 九、火災《かさい》防止《ぼうし》(二《に》)
[#ここから1字下げ]
一〇、餘震《よしん》に對《たい》する處置《しよち》
[#ここで字下げ終わり]



  地震《ぢしん》の話《はなし》

   一、はしがき

 日本《につぽん》は地震國《ぢしんこく》であり、又《また》地震學《ぢしんがく》の開《ひら》け始《はじ》めた國《くに》である。これは誤《あやま》りのない事實《じじつ》であるけれども、もし日本《につぽん》は世界中《せかいじゆう》で地震學《ぢしんがく》が最《もつと》も進《すゝ》んだ國《くに》であるなどといふならば、それは聊《いさゝ》かうぬぼれの感《かん》がある。實際《じつさい》地震學《ぢしんがく》の或《ある》方面《ほうめん》では、日本《につぽん》の研究《けんきゆう》が最《もつと》も進《すゝ》んでゐる點《てん》もあるけれども、其他《そのた》の方面《ほうめん》に於《おい》ては必《かなら》ずしもさうでない。其故《それゆゑ》著者等《ちよしやら》は地震學《ぢしんがく》を以《もつ》て世界《せかい》に誇《ほこ》らうなどとは思《おも》つてゐないのみならず、此頃《このごろ》のように、わが國民《こくみん》が繰返《くりかへ》し地震《ぢしん》に征服《せいふく》せられてみると、寧《むし》ろ恥《はづ》かしいような氣持《きも》ちもする。即《すなは》ち大正《たいしよう》十二年《じゆうにねん》の關東《かんとう》大地震《だいぢしん》に於《おい》ては十萬《じゆうまん》の生命《せいめい》と五十五《ごじゆうご》億圓《おくえん》の財産《ざいさん》とを失《うしな》ひ、二年後《にねんご》但馬《たじま》の國《くに》のけちな地震《ぢしん》の爲《ため》、四百《しひやく》の人命《じんめい》と三千《さんぜん》萬圓《まんえん》の財産《ざいさん》とを損《そん》し、又《また》二年後《にねんご》の丹後《たんご》地震《ぢしん》によつて三千《さんぜん》の死者《ししや》と一億圓《いちおくえん》の財産《ざいさん》損失《そんしつ》とを生《しやう》じた。そして此等《これら》の損失《そんしつ》の殆《ほと》んど全部《ぜんぶ》は地震後《ぢしんご》の火災《かさい》に由《よ》るものであつて、被害民《ひがいみん》の努力《どりよく》次第《しだい》によつては大部分《だいぶぶん》免《まぬか》れ得《う》られるべき損失《そんしつ》であつた。然《しか》るに事實《じじつ》はさうでなく、あのような悲慘《ひさん》な結果《けつか》の續發《ぞくはつ》となつたのであるが、これを遠《とほ》く海外《かいがい》から眺《なが》めてみると、日本《につぽん》は恐《おそ》ろしい地震國《ぢしんこく》である。地震《ぢしん》の度毎《たびごと》に大火災《だいかさい》を起《おこ》す國《くに》である。外國人《がいこくじん》は命懸《いのちが》けでないと旅行《りよこう》の出來《でき》ない國《くに》である。國民《こくみん》はあゝ度々《たび/\》地震《ぢしん》火災《かさい》に惱《なや》まされても少《すこ》しも懲《こ》りないものゝようである。地震《ぢしん》に因《よ》つて命《いのち》を失《うしな》ふことをなんとも思《おも》つてゐないのかも知《し》れないなどといふ結論《けつろん》を下《くだ》されないとも限《かぎ》あるまい[#送りがなの「あるまい」は底本のまま]。實際《じつさい》これは歐米人《おうべいじん》の多數《たすう》が日本《につぽん》の地震《ぢしん》に對《たい》する觀念《かんねん》である。かく觀察《かんさつ》されてみる時《とき》、著者《ちよしや》の如《ごと》き斯學《しがく》の專攻者《せんこうしや》は非常《ひじよう》な恥辱《ちじよく》を感《かん》ぜざるを得《え》ないのである。勿論《もちろん》この學問《がくもん》の研究《けんきゆう》が容易《ようい》に進歩《しんぽ》しないのも震災國《しんさいこく》たるの一因《いちいん》には相違《そうい》ないが、然《しか》しながら地震《ぢしん》に對《たい》して必要《ひつよう》な初歩《しよほ》の知識《ちしき》がわが國民《こくみん》に缺《か》けてゐることが、震災《しんさい》擴大《かくだい》の最大《さいだい》原因《げんいん》であらう。實《じつ》に著者《ちよしや》の如《ごと》きは、地震學《ぢしんがく》が今日《こんにち》以上《いじよう》に進歩《しんぽ》しなくとも、震災《しんさい》の殆《ほと》んど全部《ぜんぶ》はこれを免《まぬか》れ得《う》る手段《しゆだん》があると考《かんが》へてゐるものゝ一人《ひとり》である。
 著者《ちよしや》は少年《しようねん》諸君《しよくん》に向《むか》つて、地震學《ぢしんがく》の進《すゝ》んだ知識《ちしき》を紹介《しようかい》しようとするものでない。又《また》たとひ卑近《ひきん》な部分《ぶぶん》でも、震災《しんさい》防止《ぼうし》の目的《もくてき》に直接《ちよくせつ》關係《かんけい》のないものまで論《ろん》じようとするのでもない。但《たゞ》し震災《しんさい》防止《ぼうし》につき、少年《しようねん》諸君《どくしや》[#ルビの「どくしや」は底本のまま]が現在《げんざい》の小國民《しようこくみん》としても、又《また》他日《たじつ》國民《こくみん》人物《じんぶつ》の中堅《ちゆうけん》としても自衞上《じえいじよう》、はた公益上《こうえきじよう》必要《ひつよう》缺《か》くべからざる事項《じこう》を叙述《じよじゆつ》せんとするものである。

   二、地震學《ぢしんがく》のあらまし

 わが國《くに》は地震學《ぢしんがく》發祥《はつしよう》の地《ち》といはれてゐる。これは文化《ぶんか》の進《すゝ》んだ國《くに》としては地震《ぢしん》に見舞《みま》はれる機會《きかい》の多《おほ》いからにもよるのであるが、なほ他《た》の一因《いちいん》として明治《めいじ》維新後《いしんご》、わが國《くに》の文化《ぶんか》開發《かいはつ》事業《じぎよう》の補助者《ほじよしや》として招聘《しようへい》した歐米人《おうべいじん》が、多《おほ》くは其道《そのみち》に於《おい》て、優秀《ゆうしゆう》な人達《ひとたち》であつたことも數《かぞ》へなければならぬ。事《こと》の發端《ほつたん》は、明治《めいじ》十三年《じゆうさんねん》二月《にがつ》二十二日《にちじゆうににち》横濱《よこはま》並《ならび》にその近郊《きんこう》に於《おい》て、煉瓦《れんが》煙突《えんとつ》並《ならび》に土壁《どへき》に小破損《しようはそん》を生《しよう》ぜしめた地震《ぢしん》にある。この時《とき》大學《だいがく》其他《そのた》の官衙《かんが》にゐた内外《ないがい》達識《たつしき》の士《し》が相會《あひかい》して、二週間目《にしゆうかんめ》には日本《につぽん》地震《ぢしん》學會《がつかい》を組織《そしき》し、つゞいて毎月《まいげつ》の會合《かいごう》に有益《ゆうえき》な研究《けんきゆう》の結果《けつか》を發表《はつぴよう》したが、創立《そうりつ》數箇月《すうかげつ》の後《のち》、當時《とうじ》東京《とうきよう》帝國《ていこく》大學《だいがく》理學部《りがくぶ》に於《お》ける機械《きかい》工學《こうがく》及《およ》び物理學《ぶつりがく》の教授《きようじゆ》であつたユーイング博士《はかせ》(現今《げんこん》エヂンバラ大學《だいがく》總長《そうちよう》)は水平《すいへい》振子《しんし》地震計《ぢしんけい》の發明《はつめい》を公《おほやけ》にし、ついで翌年《よくねん》には工學部《こうがくぶ》大學校《だいがつこう》電氣學《でんきがく》教授《きようじゆ》たりしグレー博士《はかせ》の考案《こうあん》を改良《かいりよう》した上下動《じようげどう》地震計《ぢしんけい》を作《つく》り出《だ》した。これが即《すなは》ち現今《げんこん》の地震計《ぢしんけい》の基礎《きそ》の形式《けいしき》であつて、當今《とうこん》行《おこな》はれてゐるミルン地震計《ぢしんけい》、大森《おほもり》地震計《ぢしんけい》、ガリッチン地震計《ぢしんけい》、パシュウィチ水平《すいへい》振子《しんし》など、其《その》構造《こうぞう》の要點《ようてん》は皆《みな》ユーイング地震計《ぢしんけい》である。實《じつ》にこの地震計《ぢしんけい》の發明《はつめい》は、それまで極《きは》めて幼稚《ようち》であつた地震學《ぢしんがく》が本當《ほんとう》の學問《がくもん》に進歩《しんぽ》した基《もとゐ》であるので、單《たん》に此《この》一點《いつてん》からみても、地震學《ぢしんがく》は日本《につぽん》に於《おい》て開《ひら》けたといつても差支《さしつか》へないくらゐである。それのみならず日本《につぽん》地震《ぢしん》學會《がつかい》から出版《しゆつぱん》せられた二十册《にじつさつ》の報告書《ほうこくしよ》は、當時《とうじ》世界《せかい》に於《おい》て唯一《ゆいつ》の地震學《ぢしんがく》雜誌《ざつし》であつたのみならず、收録《しゆうろく》せられた材料《ざいりよう》、ミルン教授《きようじゆ》等《ら》によつて物《もつ》せられたる多《おほ》くの論文《ろんぶん》、いづれも有益《ゆうえき》な資料《しりよう》であつて、今日《こんにち》でも地震學《ぢしんがく》について何《なに》か研究《けんきゆう》でも試《こゝろ》みんとするものゝ、必《かなら》ず參考《さんこう》すべき古典書《こてんしよ》である。
 それやこれやの關係《かんけい》で、日本《につぽん》は地震學《ぢしんがく》開發《かいはつ》の國《くに》といはれてゐるのであるが、然《しか》し其《その》開發者《かいはつしや》の重《おも》な人々《じんこう》[#ルビの「じんこう」は底本のまま]は外國人《がいこくじん》、特《とく》にイギリス人《じん》であつた。關谷《せきや》教授《きようじゆ》、大森《おほもり》博士《はかせ》などの加《くは》はれたのはずっと後《のち》のことである。
 明治《めいじ》二十四年《にじゆうよねん》十月《じゆうがつ》二十八日《にじゆうはちにち》の濃尾《のうび》大地震《だいぢしん》は、地震學《ぢしんがく》にとつて第二《だいに》の時代《じだい》を作《つく》つたものである。此頃《このごろ》に於《おい》て日本《につぽん》地震《ぢしん》學界《がつかい》[#「學界」は底本のまま]は解散《かいさん》の止《や》むなきに至《いた》つたが、新《あら》たにわが政府《せいふ》事業《じぎよう》として起《おこ》された震災《しんさい》豫防《よぼう》調査會《ちようさかい》が之《これ》に代《かは》つた。此《この》調査會《ちようさかい》の會員《かいいん》は全部《ぜんぶ》日本人《につぽんじん》であつて、地震學《ぢしんがく》、物理學《ぶつりがく》、地質學《じしつがく》、地理學《ちりがく》、土木《どぼく》工學《こうがく》、建築學《けんちくがく》、機械《きかい》工學《こうがく》等《とう》、地震學《ぢしんがく》の理論《りろん》並《ならび》に應用《おうよう》に關《かん》した學問《がくもん》に於《おい》てわが國《くに》第一流《だいゝちりゆう》の專門家《せんもんか》を網羅《もうら》したものであつた。隨《したが》つて地震動《ぢしんどう》の性質《せいしつ》、地震《ぢしん》に損傷《そんしよう》しない土木《どぼく》工事《こうじ》や、建築《けんちく》の仕方《しかた》等《とう》についての研究《けんきゆう》が非常《ひじよう》に進《すゝ》み、木造《もくぞう》竝《ならび》に西洋風《せいようふう》の家屋《かおく》につき耐震《たいしん》構造法《こうぞうほう》など殆《ほと》んど完全《かんぜん》の域《いき》に進《すゝ》んだ。調査會《ちようさかい》が大正《たいしよう》十三年《じゆうさんねん》廢止《はいし》せられるに至《いた》るまでに發表《はつぴよう》した報告書《ほうこくしよ》は和文《わぶん》のもの百一號《ひやくいちごう》、歐文《おうぶん》のもの二十六號《にじゆうろくごう》、別《べつ》に歐文《おうぶん》紀要《きよう》十一册《じゆういつさつ》、歐文《おうぶん》觀測録《かんそくろく》六册《ろくさつ》は、今日《こんにち》世界《せかい》が有《ゆう》する地震學《ぢしんがく》參考書《さんこうしよ》の中堅《ちゆうけん》をなすものであつて、これ等《ら》の事業《じぎよう》は、日本《につぽん》地震《ぢしん》學會《がつかい》時代《じだい》に於《おい》て專有《せんゆう》してゐたわが國《くに》の名聲《めいせい》を辱《はづ》かしめなかつたといへるであらう。
 日本《につぽん》に於《お》ける地震學《ぢしんがく》のこれまでの發達《はつたつ》は主《おも》に人命《じんめい》財産《ざいさん》に關《かん》する方面《ほうめん》の研究《けんきゆう》であつた。然《しか》るに最近《さいきん》二十年《にじゆうねん》の間《あひだ》、歐米《おうべい》に於《お》ける地震學《ぢしんがく》は他《た》の方面《ほうめん》に發達《はつたつ》した。それは遠方《えんぽう》地震《ぢしん》の觀測《かんそく》によつて、わが地球《ちきゆう》の内部《ないぶ》の構造《こうぞう》を推究《すいきゆう》する仕方《しかた》である。少年《しようねん》讀者《どくしや》は、天文學《てんもんがく》、地理學《ちりがく》、地質學《ちしつがく》、物理學《ぶつりがく》等《とう》の應用《おうよう》によつて、わが地球《ちきゆう》の球體《きゆうたい》に近《ちか》きこと、平均《へいきん》密度《みつど》が五・五なること、表面《ひようめん》に近《ちか》き部分《ぶぶん》の構造《こうぞう》、内部《ないぶ》に蓄《たくは》へられる高熱《こうねつ》、地球《ちきゆう》が一箇《いつこ》の大《おほ》きな磁石《じしやく》であることなどを學《まな》ばれたであらう。又《また》此等《これら》の學問《がくもん》の力《ちから》によつて、わが地球《ちきゆう》は鋼鐵《こうてつ》よりも大《おほ》きな剛性《ごうせい》を有《ゆう》してゐることも分《わか》つて來《き》た。即《すなは》ち月《つき》や太陽《たいよう》の引力《いんりよく》によつてわが地球《ちきゆう》が受《う》けるひづみの分量《ぶんりよう》は、地球《ちきゆう》全體《ぜんたい》が鋼鐵《こうてつ》で出來《でき》てゐると假定《かてい》した場合《ばあひ》の三分《さんぶん》の二《に》しかないのである。言葉《ことば》をかへていへば地球《ちきゆう》の平均《へいきん》のしぶとさは鋼鐵《こうてつ》の一倍半《いちばいはん》である。かういふ風《ふう》にしてわが地球《ちきゆう》の知識《ちしき》はだん/\進《すゝ》んで來《き》たけれども、其《その》内部《ないぶ》の成立《なりた》ちに立入《たちい》つた知識《ちしき》は毛頭《もうとう》進《すゝ》んでゐないといつて宜《よろ》しかつた。實際《じつさい》地質學《ちしつがく》で研究《けんきゆう》してゐる地層《ちそう》の深《ふか》さは地表下《ちひようか》二三里内《にさんりない》に横《よこ》たはつてゐるもの許《ばか》りであつて、醫學上《いがくじよう》の皮膚科《ひふか》にも及《およ》ばないものである。但《たゞ》し茲《こゝ》に一《ひと》つの研究《けんきゆう》の手懸《てがか》りが出來《でき》たといふのは、地球《ちきゆう》の表面《ひようめん》近《ちか》くから放《はふ》つた斥候《せつこう》が、地球《ちきゆう》内部《ないぶ》にまで偵察《ていさつ》に出掛《でか》けそれが再《ふたゝ》び地球《ちきゆう》の表面《ひようめん》に現《あらは》れて來《き》て報告《ほうこく》をなしつゝあることが氣附《きづ》かれたことである。此《この》斥候《せつこう》は何者《なにもの》であるかといふと、大地震《だいぢしん》のときに起《おこ》る地震波《ぢしんぱ》である。實際《じつさい》地震《ぢしん》は、地球《ちきゆう》の表面《ひようめん》に近《ちか》い所《ところ》に發生《はつせい》するものであるが、ちょうど風《かぜ》が水面《すいめん》に波《なみ》を起《おこ》すように、又《また》發音體《はつおんたい》が空氣中《くうきちゆう》に音波《おんぱ》を起《おこ》すように、地震《ぢしん》は地震波《ぢしんぱ》を起《おこ》すのである。さうして地震《ぢしん》が大《おほ》きければ大《おほ》きい程《ほど》地震波《ぢくんぱ》[#ルビの「ぢくんぱ」は底本のまま]も大《おほ》きいので、これが地球《ちきゆう》の表面《ひようめん》を沿《そ》うて四方《しほう》八方《はつぽう》に擴《ひろ》がり、或《あるひ》は地球《ちきゆう》を一廻《ひとまは》りも二廻《ふたまは》りもすることもあるが、それと同時《どうじ》に地震波《ぢしんぱ》は地球《ちきゆう》内部《ないぶ》の方向《ほうこう》にも進行《しんこう》して反對《はんたい》の方面《ほうめん》に現《あらは》れ、場合《ばあひ》によつては地球《ちきゆう》の表面《ひようめん》で反射《はんしや》して再《ふたゝ》び他《た》の方面《ほうめん》に向《むか》うのもある。但《たゞ》し此《この》斥候《せつこう》の報告書《ほうこくしよ》とも名《な》づくべきものは、單《たん》に地震波《ぢしんぱ》の種々《しゆ/″\》の形式《けいしき》のみであるから、これを書取《かきと》り其上《そのうへ》にそれを讀《よ》み取《と》ることを必要《ひつよう》とする。これは容易《ようい》ならぬ爲事《しごと》であるが、しかしながら單《たん》に困難《こんなん》であるだけであつて決《けつ》して不可能《ふかのう》ではない。
 地震波《ぢしんぱ》の偵察《ていさつ》した結果《けつか》を書《か》き取《と》る器械《きかい》、これを地震計《ぢしんけい》と名《な》づける。前《まへ》にユーイング教授《きようじゆ》が地震計《ぢしんけい》を發明《はつめい》したことを述《の》べたが、これは實《じつ》に容易《ようい》ならざる發明《はつめい》であつたのである。讀者《どくしや》試《こゝろ》みに地震計《ぢしんけい》の原理《げんり》を想像《そう/″\》してみるがよい。地上《ちじよう》の萬物《ばんぶつ》は地震《ぢしん》のとき皆《みな》搖《ゆ》れ出《だ》すのに、自分《じぶん》だけ空間《くうかん》の元《もと》の點《てん》から動《うご》かないといふような方法《ほう/\》を工夫《くふう》しなければなるまい。これは決《けつ》してさう安々《やす/\》と考《かんが》へ出《だ》せるはずのものではないのであるが、更《さら》に其《その》精巧《せいこう》なものに至《いた》つては、人《ひと》の身體《しんたい》には勿論《もちろん》、普通《ふつう》の地震計《ぢしんけい》にも感《かん》じない程《ほど》の地震波《ぢしんぱ》まで記録《きろく》することが出來《でき》るのである。特《とく》に其中《そのうち》、ゆっくりとした震動《しんどう》、例《たと》へば一分間《いつぷんかん》に一糎《いちせんちめーとる》程《ほど》を靜《しづ》かに往復《おうふく》振動《しんどう》するような場合《ばあひ》に於《おい》ても、これを實際《じつさい》のまゝに書取《かきと》らしめることが長週期《ちようしゆうき》地震計《ぢしんけい》と名《な》づけるものゝ特色《とくしよく》である。かういふ地震計《ぢしんけい》で遠方《えんぽう》の大地震《だいぢしん》を觀測《かんそく》すると、その記録《きろく》した模樣《もよう》が極《きは》めて規則《きそく》正《たゞ》しいものとなつて現《あらは》れて來《き》て、今日《こんにち》では模樣《もよう》の一《ひと》つ/\について其《その》經路《けいろ》が既《すで》に明《あきら》かにせられてゐる。これによつて地球《ちきゆう》の内部《ないぶ》を通《とほ》るときの地震波《ぢしんぱ》の速《はや》さは、地球《ちきゆう》を鋼鐵《こうてつ》とした場合《ばあひ》の幾倍《いくばい》にも當《あた》ることが分《わか》り、又《また》地球《ちきゆう》の内部《ないぶ》は鐵《てつ》の心《しん》から成《か》[#ルビの「か」は底本のまま]り立《た》つてをり、その大《おほ》きさは半徑《はんけい》二千七百《にせんしちひやく》粁《きろめーとる》の球《きゆう》であることが推定《すいてい》せられて來《き》た。
 地震學《ぢしんがく》の今日《こんにち》の進歩《しんぽ》によつて、地球《ちきゆう》の内部《ないぶ》状態《じようたい》が分《わか》りかけて來《き》たことは右《みぎ》の通《とほ》りであるが、實際《じつさい》地震學《ぢしんがく》を除外《じよがい》しては、此《この》地球《ちきゆう》内部《ないぶ》状態《じようたい》の研究《けんきゆう》資料《しりよう》となるところのものが全《まつた》く氣《き》づかれてゐないのである。さればこそ歐米《おうべい》の地震《ぢしん》學者《がくしや》の多《おほ》くは此《この》方面《ほうめん》の研究《けんきゆう》に興味《きようみ》を持《も》ち、また主力《しゆりよく》を傾《かたむ》けてゐるのである。實際《じつさい》地震《ぢしん》の全《まつた》く起《おこ》ることなき國《くに》に於《おい》ては、生命《せいめい》財産《ざいさん》に關係《かんけい》ある方面《ほうめん》の研究《けんきゆう》は無意味《むいみ》であるけれども、適當《てきとう》な器械《きかい》さへあれば、世界《せかい》の遠隔《えんかく》した場所《ばしよ》に起《おこ》つた地震《ぢしん》の餘波《よは》を觀測《かんそく》して、前記《ぜんき》の如《ごと》き研究《けんきゆう》が結構《けつこう》出來《でき》るのである。
 前《まへ》に述《の》べた通《とほ》り地震學《ぢしんがく》の研究《けんきゆう》は、便宜上《べんぎじよう》これを二《ふた》つの方面《ほうめん》に分《わ》けることが出來《でき》る。即《すなは》ち一《ひと》つは人命《じんめい》財産《ざいさん》に直接《ちよくせつ》關係《かんけい》ある事項《じこう》、他《た》は地球《ちきゆう》の内部《ないぶ》状態《じようたい》の推究《すいきゆう》に關係《かんけい》ある事項《じこう》である。わが國《くに》に於《お》ける地震學《ぢしんがく》は無論《むろん》第一《だいゝち》の方面《ほうめん》には著《いちじる》しい發達《はつたつ》を遂《と》げ、決《けつ》して他《た》に後《おく》れを取《と》つたことがないのみならず、今後《こんご》に於《おい》てもやはり其《その》先頭《せんとう》に立《た》つて進行《しんこう》することが出來《でき》るであらうと信《しん》じてゐる。然《しか》るに第二《だいに》の方面《ほうめん》に於《おい》ては、歐洲《おうしゆう》特《とく》にドイツ邊《へん》に優秀《ゆうしゆう》な學者《がくしや》が多《おほ》く現《あらは》れ、近年《きんねん》わが國《くに》は此點《このてん》について彼《かれ》に一歩《いつぽ》を讓《ゆづ》つてゐたかの感《かん》があつたが、大正《たいしよう》十二年《じゆうにねん》關東《かんとう》大地震《だいぢしん》以來《いらい》、研究者《けんきゆうしや》次第《しだい》に増加《ぞうか》し優秀《ゆうしゆう》な若《わか》い學者《がくしや》も出來《でき》て來《き》たので、最近《さいきん》二三年《にさんねん》の間《あひだ》に於《おい》ては此《この》方面《ほうめん》にも手《て》が次第《しだい》に伸《の》びて來《き》て、今日《こんにち》では最早《もはや》彼《かれ》に後《おく》れてゐようとは思《おも》はれない。
 地震學《ぢしんがく》の應用《おうよう》によつて地球《ちきゆう》の内部《ないぶ》状態《じようたい》が可《か》なりに明《あ》かるくなつて來《き》たことは前《まへ》にも述《の》べた通《とほ》りであるが、本篇《ほんぺん》に於《おい》ては此《この》方面《ほうめん》に向《むか》つて、前記《ぜんき》以上《いじよう》に深入《ふかい》りしようとは思《おも》はない。但《たゞ》し地震《ぢしん》の起《おこ》り樣《よう》、即《すなは》ち地震《ぢしん》はいかなる場所《ばしよ》に於《おい》てどんな作用《さよう》で起《おこ》るかの大體《だいたい》の觀念《かんねん》を得《う》るため、地球《ちきゆう》の表面《ひようめん》に近《ちか》き部分《ぶぶん》の構造《こうぞう》を述《の》べさして貰《もら》ひたい。
 わが地球《ちきゆう》には水界《すいかい》と陸界《りくかい》との區別《くべつ》があり、陸界《りくかい》は東大陸《ひがしたいりく》、西大陸《にしたいりく》、濠洲《ごうしゆう》等《とう》に分《わか》れてゐる。此《この》陸界《りくかい》と水界中《すいかいちゆう》に於《おい》て特《とく》に深《ふか》い海《うみ》の部分《ぶぶん》とは、土地《とち》の構造《こうぞう》、特《とく》に其《その》地震學上《ぢしんがくじよう》から見《み》た性質《せいしつ》に於《おい》て可《か》なりな相違《そうい》がある。大陸《たいりく》は主《しゆ》として花崗岩質《かこうがんしつ》のもので出來《でき》てゐて、大體《だいたい》十里《じゆうり》程度《ていど》の深《ふか》さを持《も》つてゐるようである。それは下《した》の鐵心《てつしん》に至《いた》るまでは玄武岩質《げんぶがんしつ》のものもしくはそれに鐵分《てつぶん》が加《くは》はつたもので出來《でき》てゐて、これは急速《きゆうそく》に働《はたら》く力《ちから》に對《たい》して極《きは》めてしぶとく抵抗《ていこう》する性質《せいしつ》を備《そな》へてゐるけれども、緩《ゆる》く働《はたら》く力《ちから》に對《たい》しては容易《ようい》に形《かたち》を變《か》へ、力《ちから》の働《はたら》くまゝになること、食用《しよくよう》の飴《あめ》を思《おも》ひ出《だ》させるようなものである。さうして深《ふか》い海《うみ》の底《そこ》はこの質《しつ》の層《そう》が直接《ちよくせつ》其《その》表面《ひようめん》まで達《たつ》してゐるか、或《あるひ》は表面《ひようめん》近《ちか》く進《すゝ》んで來《き》てゐて、其上《そのうへ》を陸界《りくかい》の性質《せいしつ》のもので薄《うす》く被《おほ》ふてゐるくらゐにすぎぬと、かう考《かんが》へられてゐる。
 地球《ちきゆう》はさういふ性質《せいしつ》の薄皮《はくひ》を以《もつ》て被《おほ》はれてをり、深海床《しんかいしよう》又《また》は地下《ちか》深《ふか》い所《ところ》は、緩《ゆる》く働《はたら》く力《ちから》に對《たい》してしぶとく抵抗《ていこう》しないので、地震《ぢしん》を起《おこ》さうといふ力《ちから》は大陸《たいりく》又《また》は其《その》周圍《しゆうい》に於《おい》ては次第《しだい》に蓄積《ちくせき》することを許《ゆる》されても、深《ふか》い海底《かいてい》特《とく》に地球《ちきゆう》の内部《ないぶ》に於《おい》ては、たとひかような力《ちから》が働《はたら》くことがあつても、風《かぜ》に柳《やなぎ》の譬《たとひ》の通《とほ》り、すぐにその力《ちから》のなすまゝに形《かたち》を調節《ちようせつ》して平均《へいきん》が成《な》り立《た》つため、地震力《ぢしんりよく》が蓄《たくは》へられることを許《ゆる》されない。そこで大《おほ》きな地震《ぢしん》は、大陸《たいりく》又《また》は其《その》周圍《しゆうい》に於《おい》て、十里《じゆうり》以内《いない》の深《ふか》さの所《ところ》に起《おこ》ることが通常《つうじよう》であつて、深《ふか》い海《うみ》の中央部《ちゆうおうぶ》、又《また》は數十里《すうじゆうり》或《あるひ》は數百里《すうひやくり》の深《ふか》さの地下《ちか》では起《おこ》らない。たとひそこに地震《ぢしん》が起《おこ》ることがあつても、それは大《おほ》きくないものに限《かぎ》るのである。
[#図版(img_01.png)、アフリカ海岸と南米東岸との符号]
 大陸《たいりく》は現今《げんこん》のように五大洲《ごだいしゆう》に分《わか》れてゐるけれども、地球《ちきゆう》が融《と》けてゐた状態《じようたい》から、固《かた》まり始《はじ》めたときには、單《たん》に一《ひと》つの塊《かたまり》であつたが、それが或《ある》作用《さよう》のために數箇《すうこ》の地塊《ちかい》に分裂《ぶんれつ》し、地球《ちきゆう》の自轉《じてん》其他《そのた》の作用《さよう》で、次第《しだい》に離《はな》れ離《ばな》れになつて今日《こんにち》のようになつたものと信《しん》じられてゐる。讀者《どくしや》もし世界《せかい》地圖《ちず》を開《ひら》かれたなら、アフリカの西沿岸《にしえんがん》の大《おほ》きな凹《くぼ》みが、大西洋《たいせいよう》を隔《へだ》てた對岸《たいがん》の南《みなみ》アメリカ、特《とく》にブラジルの沿岸《えんがん》のでっぱりに丁度《ちようど》割符《わりふ》を合《あは》せたようにつぎ合《あ》はされることを氣附《きづ》かれるであらう。このような海岸線《かいがんせん》の組合《くみあは》せは地球上《ちきゆうじよう》至《いた》る所《ところ》に見出《みいだ》されるが、紅海《こうかい》の東海岸《ひがしかいがん》と西海岸《にしかいがん》との如《ごと》きも著《いちじる》しい一組《ひとくみ》である。もし手近《てぢ》かな例《れい》が欲《ほ》しければ、小規模《しようきぼ》ではあるけれども、浦賀《うらが》海峽《かいきよう》の左右《さゆう》兩岸《りようがん》を擧《あ》げることが出來《でき》る。これを熟視《じゆくし》されると、兩對岸《りようたいがん》が相《あひ》接觸《せつしよく》してゐた模樣《もよう》が想像《そう/″\》せられるであらうが、さう接續《せつぞく》してゐたと考《かんが》へてのみ説明《せつめい》し得《え》られる地理學上《ちりがくじよう》の事項《じこう》が、又《また》其中《そのなか》に含《ふく》まれてゐるのである。
[#図版(img_02.png)、紅海兩海岸の符号]
 大陸《たいりく》は、譬《たと》へば飴《あめ》の海《うみ》に浮《うか》んでゐる船《ふね》である。これが浮動《ふどう》を妨《さまた》げゐるのは深海床《しんかいしよう》から伸《の》ばされた章魚《たこ》の手《て》である。そしてこの章魚《たこ》は大陸《たいりく》の船縁《ふなべり》を掴《つか》んでゐるのである。或《ある》極限《きよくげん》まではかくして大陸《たいりく》の浮動《ふどう》を支《さゝ》へてゐるけれども、遂《つひ》に支《さゝ》へ切《き》れなくて或《あるひ》は手《て》を離《はな》したり或《あるひ》は指《ゆび》を切《き》つたりして平均《へいきん》が破《やぶ》れ、隨《したが》つて急激《きゆうげき》な移動《いどう》も起《おこ》るのである。此《この》急激《きゆうげき》な移動《いどう》、これが即《すなは》ち大地震《だいぢしん》の原因《げんいん》である。もしかような大移動《だいいどう》が海底《かいてい》で起《おこ》れば津浪《つなみ》を起《おこ》すことにもなる。
 火山《かざん》作用《さよう》によつて地震《ぢしん》を起《おこ》すことは、別《べつ》に説明《せつめい》を要《よう》するまでもないことである。又《また》其《その》作用《さよう》によつても地震《ぢしん》が起《おこ》されることがないでもないが、いづれの場合《ばあひ》に於《おい》ても、大地震《だいぢしん》とは縁遠《えんどほ》いものゝみである。隨《したが》つて人命《じんめい》財産《ざいさん》の損失《そんしつ》から見《み》るとき、これ等《ら》の問題《もんだい》は考《かんが》へに入《い》れなくとも差支《さしつか》へないであらう。
[#図版(img_03.png)、關東大地震の震原と地盤の移動]
 この際《さい》一言《いちげん》して置《お》く必要《ひつよう》のあることは地震《ぢしん》の副原因《ふくげんいん》といふことである。即《すなは》ち地震《ぢしん》が起《おこ》るだけの準備《じゆんび》が出來《でき》てゐる時《とき》、それを活動《かつどう》に轉《てん》ぜしめる機會《きかい》を與《あた》へるところの誘因《ゆういん》である。例《たと》へば鐵砲《てつぽう》の彈丸《たま》を遠方《えんぽう》へ飛《と》ばす原因《げんいん》は火藥《かやく》の爆發力《ばくはつりよく》であるが、これを實現《じつげん》せしめる副原因《ふくげんいん》は引金《ひきがね》を外《はづ》す作用《さよう》である。鐵砲《てつぽう》に彈藥《だんやく》が裝填《そうてん》してあれば引金《ひきがね》を外《はづ》すことによつて彈丸《たま》が遠方《えんぽう》に飛《と》ぶが、もし彈藥《だんやく》が裝填《そうてん》してなく或《あるひ》は單《たん》に彈丸《たま》だけ詰《つ》めて火藥《かやく》を加《くは》へなかつたなら、たとひ幾度《いくど》引金《ひきがね》を外《はづ》しても彈丸《たま》は決《けつ》して飛《と》び出《だ》さない。地震《ぢしん》の場合《ばあひ》に於《おい》て此《この》引金《ひきがね》の働《はたら》きに相當《そうとう》するものとして、氣壓《きあつ》、潮《しほ》の干滿《かんまん》などいろ/\ある。例《たと》へば相模《さがみ》平野《へいや》に起《おこ》る地震《ぢしん》に於《おい》ては、其《その》地方《ちほう》の北西方《ほくせいほう》に於《おい》て氣壓《きあつ》が高《たか》く、南東方《なんとうほう》に於《おい》てそれが低《ひく》いと其《その》地方《ちほう》の地震《ぢしん》が誘發《ゆうはつ》され易《やす》い。其故《それゆゑ》地震《ぢしん》の豫知《よち》問題《もんだい》の研究《けんきゆう》に於《おい》て右《みぎ》のような副原因《ふくげんいん》を研究《けんきゆう》することも大切《たいせつ》であるが、然《しか》しながら事實上《じじつじよう》の問題《もんだい》として引金《ひきがね》の空外《からはづ》しともいふべき場合《ばあひ》が頗《すこぶ》る多《おほ》いことである。つまり百千《ひやくせん》の空外《からはづ》しに對《たい》して僅《わづか》に一回《いつかい》の實彈《じつだん》が飛《と》び出《だ》すくらゐの事《こと》であるから、かような副原因《ふくげんいん》だけを研究《けんきゆう》してゐては、豫知《よち》問題《もんだい》の方《ほう》へ一歩《いつぽ》も進出《しんしゆつ》することが出來《でき》ないような關係《かんけい》になるのである。
[#図版(img_04.png)、丹後地震に伴へる郷村断層]
 豫知《よち》問題《もんだい》の研究《けんきゆう》について最《もつと》も大切《たいせつ》な目標《もくひよう》は、地震《ぢしん》の主原因《しゆげんいん》の調査《ちようさ》である。彈藥《だんやく》が完全《かんぜん》に裝填《そうてん》されてあるか、否《いな》かを調《しら》べることである。近時《きんじ》此《この》方面《ほうめん》の研究《けんきゆう》がわが日本《につぽん》に於《おい》て大《おほ》いに進《すゝ》んで來《き》た。著者《ちよしや》は昭和《しようわ》二年《にねん》九月《くがつ》チェッコスロバキア國《こく》の首府《しゆふ》プラーグに於《お》ける地震《ぢしん》學科《がつか》の國際《こくさい》會議《かいぎ》に於《おい》て、此《この》問題《もんだい》に關《かん》するわが國《くに》最近《さいきん》の研究《けんきゆう》結果《けつか》につき報告《ほうこく》するところがあつたが、列席《れつせき》の各員《かくいん》は著者《ちよしや》が簡單《かんたん》に演述《えんじゆつ》した大地震《だいぢしん》前徴《ぜんちよう》につき更《さら》に詳細《しようさい》な説明《せつめい》を求《もと》められ、頗《すこぶ》る滿足《まんぞく》の態《てい》に見受《みう》けた。實際《じつさい》地震《ぢしん》の豫知《よち》問題《もんだい》の解決《かいけつ》は至難《しなん》の業《わざ》であるに相違《そうい》ない。然《しか》しながら決《けつ》して不可能《ふかのう》のものとは思《おも》はない。著者《ちよしや》の如《ごと》きは、此《この》問題《もんだい》は既《すで》にある程度《ていど》までは机上《きじよう》に於《おい》て解決《かいけつ》せられてゐると思《おも》つてゐる。殘《のこ》るところは其《その》考案《こうあん》の實施《じつし》如何《いかん》といふ點《てん》に歸着《きちやく》する。而《しか》も其《その》實施《じつし》は一時《いちじ》に數十《すうじゆう》萬圓《まんえん》、年々《ねん/\》十萬圓《じゆうまんえん》の費用《ひよう》にて出來《でき》る程度《ていど》である。
 地震《ぢしん》の豫知《よち》問題《もんだい》が假《かり》に都合《つごう》よく解決《かいけつ》されたとしても、震災《しんさい》防止《ぼうし》については猶《なほ》重大《じゆうだい》な問題《もんだい》が多分《たぶん》に殘《のこ》るであらう。假《かり》に地震《ぢしん》豫報《よほう》が天氣《てんき》豫報《よほう》の程度《ていど》に達《たつ》しても、雨天《うてん》に於《おい》ては雨着《あまぎ》や傘《かさ》を要《よう》するように、又《また》暴風《ぼうふう》に對《たい》しては海上《かいじよう》の警戒《けいかい》は勿論《もちろん》、農作物《のうさくぶつ》、家屋《かおく》等《とう》に對《たい》しても臨機《りんき》の處置《しよち》が入用《にゆうよう》であらう。其上《そのうへ》、氣象上《きしようじよう》の大《おほ》きな異變《いへん》については單《たん》に豫報《よほう》ばかりで解決《かいけつ》されないこと、昭和《しようわ》二年《にねん》九月《くがつ》十三日《じゆうさんにち》、西九州《にしきゆうしゆう》に於《お》ける風水害《ふうすいがい》の慘状《さんじよう》を見《み》ても明《あき》らかであらう。著者《ちよしや》の想像《そう/″\》では、假《かり》に地震《ぢしん》豫報《よほう》が出來《でき》る日《ひ》が來《き》ても、それは地震《ぢしん》の起《おこ》りそうな或《ある》特別《とくべつ》の地方《ちほう》を指摘《してき》し得《う》るのみで、それが幾時間後《いくじかんご》か將《は》た幾日後《いくにちご》に實現《じつげん》するかを知《し》るのは更《さら》に研究《けんきゆう》が進《すゝ》まねば解決《かいけつ》出來《でき》ないことゝ考《かんが》へる。要《よう》するに地震學《ぢしんがく》進歩《しんぽ》の現状《げんじよう》に於《おい》ては、何時《いつ》地震《ぢしん》に襲《おそ》はれても差支《さしつか》へないように平常《へいじよう》の心懸《こゝろが》けが必要《ひつよう》である。建物《たてもの》や土木《どぼく》工事《こうじ》を耐震的《たいしんてき》にするといふようなことは、これ亦《また》平日《へいじつ》行《おこな》ふべきことではあるが、しかしこれは其局《そのきよく》に當《あた》るものゝ注意《ちゆうい》すべき事項《じこう》であつて、小國民《しようこくみん》が與《あづか》らずともよい事《こと》である。然《しか》しながら地震《ぢしん》に出會《であ》つた其《その》瞬間《しゆんかん》に於《おい》ては、大小《だいしよう》國民《こくみん》殘《のこ》らず自分《じしん》[#ルビの「じしん」は底本のまま]で適當《てきとう》な處置《しよち》を取《と》らなければならないから、此《この》場合《ばあひ》の心懸《こゝろが》けは地震國《ぢしんこく》の國民《こくみん》に取《と》つて一人《ひとり》殘《のこ》らず必要《ひつよう》なことである。
 わが國《くに》の如《ごと》き地震國《ぢしんこく》に於《おい》ては、地震《ぢしん》に出會《であ》つたときの適當《てきとう》な心得《こゝろえ》が絶對《ぜつたい》に必要《ひつよう》なるにも拘《かゝ》[#ルビの「かゝ」は底本のまま]らず、從來《じゆうらい》かようなものが缺《か》けてゐた。たとひ多少《たしよう》それに注意《ちゆうい》したものがあつても、地震《ぢしん》の眞相《しんそう》を誤解《ごかい》してゐるため、適當《てきとう》なものになつてゐなかつた。著者《ちよしや》はこれに氣附《きづ》いたので、此《この》數年間《すうねんかん》其《その》編纂《へんさん》に腐心《ふしん》してゐたが、東京《とうきよう》帝國《ていこく》大學《だいがく》地震學《ぢしんがく》教室《きようしつ》に於《お》ける同人《どうにん》の助言《じよげん》によつて、大正《たいしよう》十五年《じゆうごねん》に至《いた》つて漸《やうや》く之《これ》を公《おほやけ》にする程度《ていど》に達《たつ》した。本篇《ほんぺん》は主《おも》にこの注意書《ちゆういしよ》に對《たい》する解釋《かいしやく》を誌《しる》したものといつてよいと思《おも》ふ。もし此《この》心得《こゝろえ》を體得《たいとく》せられたならば、個人《こじん》としては震災《しんさい》から生《しよう》ずる危難《きなん》を免《まぬか》れ、社會上《しやかいじよう》の一人《ひとり》としては地震後《ぢしんご》の火災《かさい》を未然《みぜん》に防止《ぼうし》し、從來《じゆうらい》われ/\が惱《なや》んだ震災《しんさい》の大部分《だいぶぶん》が避《さ》けられることゝ思《おも》ふ。少《すくな》くもそのような結果《けつか》になるように期待《きたい》してゐるものである。
 つぎに著者《ちよしや》が編纂《へんさん》した注意書《ちゆういしよ》を掲《かゝ》げることにする。

   三、地震《ぢしん》に出會《であ》つたときの心得《こゝろえ》

一、  最初《さいしよ》の一瞬間《いつしゆんかん》に於《おい》て非常《ひじよう》の地震《ぢしん》なるか否《いな》かを判斷《はんだん》し、機宜《きゞ》に適《てき》する目論見《もくろみ》を立《た》てること、但《たゞ》しこれには多少《たしよう》の地震《ぢしん》知識《ちしき》を要《よう》す。
二、  非常《ひじよう》の地震《ぢしん》たるを覺《さと》るものは自《みづか》ら屋外《おくがい》に避難《ひなん》せんと力《つと》めるであらう。數秒間《すうびようかん》に廣場《ひろば》へ出《で》られる見込《みこ》みがあらば機敏《きびん》に飛《と》び出《だ》すがよい。但《たゞ》し火《ひ》の元《もと》用心《ようじん》を忘《わす》れざること。
三、  二階建《にかいだて》、三階建《さんがいだて》等《とう》の木造《もくぞう》家屋《かおく》では、階上《かいじよう》の方《ほう》却《かへ》つて危險《きけん》が少《すくな》い、高層《こうそう》建物《たてもの》の上層《じようそう》に居合《ゐあは》せた場合《ばあひ》には屋外《おくがい》へ避難《ひなん》することを斷念《だんねん》しなければなるまい。
四、  屋内《おくない》の一時《いちじ》避難所《ひなんじよ》としては堅牢《けんろう》な家屋《かおく》の傍《そば》がよい。教場内《きようじようない》に於《おい》ては机《つくゑ》の下《した》が最《もつと》も安全《あんぜん》である。木造《もくぞう》家屋内《かおくない》にては桁《けた》、梁《はり》の下《した》を避《さ》けること、又《また》洋風《ようふう》建物内《たてものない》にては、張壁《はりかべ》、煖爐用《だんろよう》煉瓦《れんが》、煙突《えんとつ》等《とう》の落《お》ちて來《き》さうな所《ところ》を避《さ》け、止《や》むを得《え》ざれば出入口《でいりぐち》の枠構《わくがま》への直下《ちよくか》に身《み》を寄《よ》せること。
五、  屋外《おくがい》に於《おい》ては屋根瓦《やねがはら》、壁《かべ》の墜落《ついらい》[#ルビの「ついらい」は底本のまま]、或《あるひ》は石垣《いしがき》、煉瓦塀《れんがべい》、煙突《えんとつ》等《とう》の倒潰《とうかい》し來《きた》る虞《おそれ》ある區域《くいき》から遠《とほ》ざかること。特《とく》に石燈籠《いしどうろう》に近寄《ちかよ》らざること。
六、  海岸《かいがん》に於《おい》ては津浪《つなみ》襲來《しゆうらい》の常習地《じようしゆうち》を警戒《けいかい》し、山間《さんかん》に於《おい》ては崖崩《がけくづ》れ、山津浪《やまつなみ》に關《かん》する注意《ちゆうい》を怠《おこた》らざること。
七、  大地震《だいぢしん》に當《あた》り凡《およ》そ最初《さいしよ》の一分間《いつぷんかん》を凌《しの》ぎ得《え》たら、最早《もはや》危險《きけん》を脱《だつ》したものと見做《みな》し得《え》られる。餘震《よしん》恐《おそ》れるに足《た》らず、地割《ぢわ》れに吸《す》ひ込《こ》まれる事《こと》はわが國《くに》にては絶對《ぜつたい》になし。老若《ろうじやく》男女《だんじよ》、總《すべ》て力《ちから》のあらん限《かぎ》り災害《さいがい》防止《ぼうし》に力《つと》むべきである。火災《かさい》の防止《ぼうし》を眞先《まつさき》にし、人命《じんめい》救助《きゆうじよ》をそのつぎとすること。これ即《すなは》ち人命《じんめい》財産《ざいさん》の損失《そんしつ》を最小《さいしよう》にする手段《しゆだん》である。
八、  潰家《かいか》からの發火《はつか》は地震《ぢしん》直後《ちよくご》に起《おこ》ることもあり、一二《いちに》時間《じかん》の後《のち》に起《おこ》ることもある。油斷《ゆだん》なきことを要《よう》する。
九、  大地震《だいぢしん》の場合《ばあひ》には水道《すいどう》は斷水《だんすい》するものと覺悟《かくご》し、機敏《きびん》に貯水《ちよすい》の用意《ようい》をなすこと。又《また》水《みづ》を用《もち》ひざる消防法《しようぼうほう》をも應用《おうよう》すべきこと。
十、  餘震《よしん》は其《その》最大《さいだい》なるものも最初《さいしよ》の大地震《だいぢしん》の十分《じゆうぶん》の一《いち》以下《いか》の勢力《せいりよく》である。最初《さいしよ》の大地震《だいぢしん》を凌《しの》ぎ得《え》た木造《もくぞう》家屋《かおく》は、たとひ多少《たしよう》の破損《はそん》をなしても、餘震《よしん》に對《たい》しては安全《あんぜん》であらう。但《たゞ》し地震《ぢしん》でなくとも壞《こわ》れそうな程度《ていど》に損《そん》したものは例外《れいがい》である。

 右《みぎ》の中《うち》、説明《せつめい》を略《りやく》してもよいものがある。然《しか》しながら、一應《いさおう》[#ルビの「いさおう」は底本のまま]はざっとした註釋《ちゆうしやく》を加《く》はへることにする。以下《いか》項《こう》を追《お》うて進《すゝ》んで行《ゆ》く。

    一、突差《とつさ》の處置《しよち》

 地震《ぢしん》に出會《であ》つた一瞬間《いつしゆんかん》、心《こゝろ》の落着《おちつき》を失《うしな》つて狼狽《ろうばい》もすれば、徒《いたづ》らに逃《に》げ惑《まど》ふ一方《いつぽう》のみに走《はし》るものもある。平日《へいじつ》の心得《こゝろえ》の足《た》りない人《ひと》にこれが多《おほ》い。
 著者《ちよしや》の編《あ》んだ第一項《だいゝつこう》は、最初《さいしよ》の一瞬間《いつしゆんかん》に於《おい》て、それが非常《ひじよう》の地震《ぢしん》なるか否《いな》かを判斷《はんだん》せよといふのである。もし大《たい》した地震《ぢしん》でないといふ見込《みこみ》がついたならば、心《こゝろ》も自然《しぜん》に安《やす》らかなはずであるから過失《かしつ》の起《おこ》りようもない。其上《そのうへ》危險性《きけんせい》を帶《お》びた大地震《だいぢしん》に出會《であ》ふといふのは、人《ひと》の一生《いつしよう》の間《あひだ》に於《おい》て多《おほ》くて一二回《いちにかい》にしかないはずであるから、われ/\が出會《であ》ふ所《ところ》の地震《ぢしん》の殆《ほと》んど全部《ぜんぶ》は大《たい》したものでないといふことがいへる。但《たゞ》し其《その》一生《いつしよう》の間《あひだ》に一二回《いちにかい》しか出會《であ》はないはずのものに、偶《たま/\》出會《であ》つた場合《ばあひ》が最《もつと》も大切《たいせつ》であるから、さういふ性質《せいしつ》の地震《ぢしん》であるか否《いな》かを最初《さいしよ》の一瞬間《いつしゆんかん》に於《おい》て判定《はんてい》することは、地震《ぢしん》に出會《であ》つたときの心得《こゝろえ》として最《もつと》も大切《たいせつ》な一事件《いちじけん》である。
 地震《ぢしん》は地表下《ちひようか》に於《おい》て餘《あま》り深《ふか》くない所《ところ》で起《おこ》るものである。但《たゞ》し深《ふか》くないといつても、それは地球《ちきゆう》の大《おほ》きさに比較《ひかく》していふことであつて、これを絶對《ぜつたい》にいふならば幾里《いくり》・幾十《いくじゆう》粁《きろめーとる》といふ程度《ていど》のものである。もし震原《しんげん》が直下《ちよつか》でなかつたならば、震原《しんげん》に對《たい》して水平《すいへい》の方向《ほうこう》にも距離《きより》が加《くは》はつて來《く》るから、距離《きより》は益《ます/\》遠《とほ》くなるわけである。
 われ/\は地震《ぢしん》を感《かん》じた場合《ばあひ》、其《その》振動《しんどう》の緩急《かんきゆう》によつて震原《しんげん》距離《きより》の概念《がいねん》を有《も》つようになる。即《すなは》ち振動《しんどう》緩《かん》なるときは震原《しんげん》が遠《とほ》いことを想像《そう/″\》するが、反對《はんたい》に振動《しんどう》が急《きゆう》なときは震原《しんげん》はわれわれに近《ちか》いことゝ判斷《はんだん》する。又《また》地震《ぢしん》と同時《どうじ》に、或《あるひ》はこれを感《かん》ずる前《まへ》に地鳴《ぢな》りを聞《き》くこともある。これは地震《ぢしん》がわれ/\に最《もつと》も近《ちか》く起《おこ》つた場合《ばあひ》である。
 地震《ぢしん》は其《その》根源《こんげん》の場所《ばしよ》に於《おい》ては緩急《かんきゆう》各種《かくしゆ》の地震波《ぢしんぱ》を發生《はつせい》するものであつて、これが相伴《あひともな》つて四方《しほう》八方《はつぽう》へ擴《ひろ》がつて行《ゆ》くのであるが、此際《このさい》急《きゆう》な振動《しんどう》をなす波動《はどう》は途《みち》すがら其《その》勢力《せいりよく》を最《もつと》も速《すみや》かに減殺《げんさい》されるから、振動《しんどう》の急《きゆう》なもの程《ほど》其《その》擴《ひろ》がる範圍《はんい》が狹《せま》く、緩《ゆるや》かなもの程《ほど》それが廣《ひろ》い。此事《このこと》をつぎのようにもいふ。即《すなは》ち急《きゆう》な振動《しんどう》は、其《その》勢力《せいりよく》が中間《ちゆうかん》の媒介物《ばいかいぶつ》に吸收《きゆうしゆう》され易《やす》く、緩《ゆるや》かなものはそれが吸收《きゆうしゆう》され惡《にく》い。これがわれ/\の感《かん》じた地震動《ぢしんどう》の緩急《かんきゆう》によつて、地震《ぢしん》が深《ふか》くに起《おこ》つたか或《あるひ》は近《ちか》くに起《おこ》つたかを判斷《はんだん》し得《う》る理由《りゆう》であつて、又《また》遠方《えんぽう》の大地震《だいぢしん》の觀測《かんそく》に長週期《ちようしゆうき》地震計《じしんけい》が入用《にゆうよう》なわけである。
 地震《ぢしん》が十分《じゆうぶん》に近《ちか》く起《おこ》つた場合《ばあひ》は、一秒間《いちびようかん》に數十回《すうじつかい》若《も》しくばそれ以上《いじよう》の往復《おうふく》振動《しんどう》が現《あらは》れて來《く》るが、それは單《たん》に地鳴《ちな》りとしてわれ/\の聽覺《ちようかく》に感《かん》ずるのみであつて、一秒間《いちびようかん》に四五回《しごかい》の往復《おうふく》振動《しんどう》になつて漸《やうや》く急激《きゆうげき》な地動《ちどう》としてわれ/\の身體《しんたい》にはっきりと感《かん》ずるようになる。然《しか》しながら震原《しんげん》距離《きより》が三十里《さんじゆうり》以上《いじよう》にもなると、初動《しよどう》は可《か》なり緩漫《かんまん》になつて一秒間《いちびようかん》一二回《いちにかい》の往復《おうふく》振動《しんどう》になり、更《さら》に距離《きより》が遠《とほ》くなると終《つひ》には地震動《ぢしんどう》の最初《さいしよ》の部分《ぶぶん》は感《かん》じなくなつて、中頃《なかごろ》の強《つよ》い部分《ぶぶん》だけを感《かん》ずるようにもなる。
[#図版(img_05.png)、初期微動と主要動との區別]
 つぎに、最初《さいしよ》の一瞬間《いつしゆんかん》の感覺《かんかく》によつて地震《ぢしん》の大小《だいしよう》強弱《きようじやく》を判斷《はんだん》する事《こと》について述《の》べて見《み》たい。諺《ことわざ》に大風《おほかぜ》は中頃《なかごろ》が弱《よわ》くて初《はじ》めと終《をは》りとが強《つよ》く、大雪《おほゆき》は初《はじ》めから中頃《なかごろ》まで弱《よわ》くて終《をは》りが強《つよ》く、大地震《だいぢしん》は、初《はじ》めと終《をは》りが弱《よわ》くて中頃《なかごろ》が強《つよ》いといふことがある。これは面白《おもしろ》い比較《ひかく》觀察《かんさつ》だと思《おも》ふ。大風《おほかぜ》と大雪《おほゆき》とはさて置《お》いて、大地震《だいぢしん》についていはれた右《みぎ》の諺《ことわざ》は一般《いつぱん》の地震《ぢしん》に通《つう》ずるものである。われ/\は最初《さいしよ》の弱《よわ》い部分《ぶぶん》を初期《しよき》微動《びどう》と名《な》づけ、中頃《なかごろ》の強《つよ》い部分《ぶぶん》を主要動《しゆようどう》或《あるひ》は主要部《しゆようぶ》、終《をは》りの弱《よわ》い部分《ぶぶん》を終期部《しゆうきぶ》と名《な》づけてゐる。終期部《しゆうきぶ》は地震動《ぢしんどう》の餘波《よは》であつて餘《あま》り大切《たいせつ》なものではないが、初期《しよき》微動《びどう》と主要部《しゆようぶ》とは極《きは》めて大切《たいせつ》なものである。兩者《りようしや》ともに震原《しんげん》から同時《どうじ》に出發《しゆつぱつ》し、同《おな》じ途《みち》を通《とほ》つて來《く》るのであるけれども、初期《しよき》微動《びどう》は速度大《そくどだい》に、主要動《しゆようどう》はそれが小《しよう》なるために斯《か》く前後《ぜんご》に到着《とうちやく》することになるのである。恰《あだか》も電光《でんこう》と雷鳴《らいめい》との關係《かんけい》のようなものである。
 もっと具體的《ぐたいてき》にいふならば、初期《しよき》微動《びどう》は空氣中《くうきちゆう》に於《お》ける音波《おんぱ》のような波動《はどう》であつて、振動《しんどう》の方向《ほうこう》と進行《しんこう》の方向《ほうこう》とが相一致《あひいつち》するもの、即《すなは》ち形式《けいしき》からいへば縱波《たてなみ》である。主要動《しゆようどう》はそれと異《こと》なり横波《よこなみ》である。震原《しんげん》の近《ちか》い場合《ばあひ》には縱波《たてなみ》は凡《およ》そ毎秒《まいびよう》五粁《ごきろめーとる》の速《はや》さで進行《しんこう》するのに、横波《よこなみ》は毎秒《まいびよう》三・二|粁《きろめーとる》の速《はや》さで進行《しんこう》する。
 初期《しよき》微動《びどう》が到着《とうちやく》してから主要動《しゆようどう》が來《く》るまでの時間《じかん》を、初期《しよき》微動《びどう》繼續《けいぞく》時間《じかん》と名《な》づける。讀者《どくしや》は初期《しよき》微動《びどう》時間《じかん》だけを知《し》つて震原《しんげん》距離《きより》を計算《けいさん》して出《だ》すことは、算術《さんじゆつ》のたやすい問題《もんだい》たることを氣附《きづ》かれたであらう。實際《じつさい》われ/\はこの計算《けいさん》に一《ひと》つの公式《こうしき》を用《もち》ひてゐる。即《すなは》ち初期《しよき》微動《びどう》繼續《けいぞく》時間《じかん》の秒數《びようすう》に八《はち》といふ係數《けいすう》を掛《か》けると、震原《しんげん》距離《きより》の凡《およ》その値《あたひ》が粁《きろめーとる》で出《で》て來《く》るのである。
 地震計《ぢしんけい》の觀測《かんそく》によるときは、初動《しよどう》の方向《ほうこう》も觀測《かんそく》せられるので、隨《したが》つて震原《しんげん》の方向《ほうこう》が推定《すいてい》せられ、又《また》初期《しよき》微動《びどう》繼續《けいぞく》時間《じかん》によつて震原《しんげん》距離《きより》が計算《けいさん》せられるから、單《たん》に一箇所《いつかしよ》の觀測《かんそく》のみによつて震原《しんげん》の位置《いち》が推定《すいてい》せられるのであるが、しかしながら身體《しんたい》の感覺《かんかく》のみにてはかような結果《けつか》を得《う》ることは困難《こんなん》である。
 東京邊《とうきようへん》で起《おこ》る普通《ふつう》の小地震《しようぢしん》は、大抵《たいてい》四十《しじゆう》粁《きろめーとる》位《くらゐ》の深《ふか》さをもつてゐるから、かような地震《ぢしん》がわれ/\の直下《ちよつか》に起《おこ》つても、初期《しよき》微動《びどう》繼續《けいぞく》時間《じかん》は五・三|秒程《びようほど》になる。東京《とうきよう》市内《しない》に住《す》むものは、七八秒《しちはちびよう》から十秒《じゆうびよう》位《ぐらゐ》までの初期《しよき》微動《びどう》を有《ゆう》する地震《ぢしん》を感《かん》ずることが最《もつと》も多數《たすう》である。然《しか》しながら大正《たいしよう》十四年《じゆうよねん》の但馬《たじま》地震《ぢしん》に於《お》ける田結村《たいむら》の場合《ばあひ》の如《ごと》く、又《また》一昨年《いつさくねん》の丹後《たんご》地震《ぢしん》に於《お》ける郷村《ごうむら》又《また》は峰山《みねやま》の場合《ばあひ》の如《ごと》く、初期《しよき》微動《びどう》繼續《けいぞく》時間《じかん》僅《わづか》に三秒《さんびよう》程度《ていど》なることもあるのである。但《たゞ》しこれは極《きは》めて稀有《けう》な場合《ばあひ》であつたといつてよろしい。
 初期《しよき》微動《びどう》は主要動《しゆようどう》に比較《ひかく》して大《だい》なる速《はや》さを持《も》つてゐるが、然《しか》しながら振動《しんどう》の大《おほ》いさは、反對《はんたい》に主要動《しゆようどう》の方《ほう》が却《かへ》つて大《だい》である。この大小《だいしよう》の差違《さい》は地震《ぢしん》の性質《せいしつ》により、又《また》關係《かんけい》地方《ちほう》の地形《ちけい》地質《ちしつ》等《とう》によつても一樣《いちよう》ではないが、多數《たすう》の場合《ばあひ》を平均《へいきん》していふならば、主要動《しゆようどう》たる横波《よこなみ》は、初期《しよき》微動《びどう》たる縱波《たてなみ》に比較《ひかく》して凡《およ》そ十倍《じゆうばい》の大《おほ》いさを持《も》つてゐる。これが最初《さいしよ》の部分《ぶぶん》に初期《しよき》微動《びどう》とて微《び》の字《じ》が冠《かん》せられる所以《ゆえん》である。さうして主要動《しゆようどう》が大地震《だいぢしん》の場合《ばあひ》に於《おい》て、破壞《はかい》作用《さよう》をなす部分《ぶぶん》たることは説明《せつめい》せずとも既《すで》に了得《りようとく》せられたことであらう。
 讀者《どくしや》は小地震《しようぢしん》の場合《ばあひ》に於《おい》て、初期《しよき》微動《びどう》と主要動《しゆようどう》を明確《めいかく》に區別《くべつ》して感得《かんとく》せられたことがあるであらう。初期《しよき》微動《びどう》は通常《つうじよう》びり/\といふ言葉《ことば》で形容《けいよう》せられるように、稍《やゝ》急《きゆう》にしかも微小《びしよう》な振動《しんどう》であるが、それが數秒間《すうびようかん》或《あるひ》は十數秒間《じゆうすうびようかん》繼續《けいぞく》すると、突然《とつぜん》主要動《しゆようどう》たる大《おほ》きな振動《しんどう》が來《く》る。其《その》振動《しんどう》ぶりは、最初《さいしよ》の縱波《たてなみ》に比《くら》べて稍《やゝ》緩漫《かんまん》な大搖《おほゆ》れであるがため、われ/\はこれをゆさ/\といふ言葉《ことば》で形容《けいよう》している。然《しか》しながら大地震《だいぢしん》になると、初期《しよき》微動《びどう》でも決《けつ》して微動《びどう》でなく、多《おほ》くの人《ひと》にとつては幾分《いくぶん》の脅威《きようい》を感《かん》ずるような大《おほ》いさの振動《しんどう》である。例《たと》へばわれ/\が大地震《だいぢしん》の場合《ばあひ》に於《おい》て屡《しば/\》經驗《けいけん》する通《とほ》り主要動《しゆようどう》の大《おほ》いさを十糎《じゆうせんちめーとる》と假定《かてい》すれば、初期《しよき》微動《びどう》は一糎《いちせんちめーとる》程度《ていど》のものであるので、もしかういふ大《おほ》いさの地動《ちどう》が、一秒間《いちびようかん》に二三回《にさんかい》も繰返《くりかへ》されるほどの急激《きゆうげき》なものであつたならば、木造《もくぞう》家屋《かおく》や土藏《どぞう》の土壁《つちかべ》を落《おと》し、器物《きぶつ》を棚《たな》の上《うへ》から轉落《てんらく》せしめる位《くらゐ》のことはあり得《う》べきである。もし地震《ぢしん》の初動《しよどう》がこの程度《ていど》の強《つよ》さを示《しめ》したならば、これは非常《ひじよう》の地震《ぢしん》であると判斷《はんだん》して誤《あやま》りはないであらう。
 幸《さいはひ》に最初《さいしよ》の一瞬間《いつしゆんかん》に於《おい》て、非常《ひじよう》の地震《ぢしん》なるか否《いな》かの判斷《はんだん》がついたならば、其《その》判斷《はんだん》の結果《けつか》によつて臨機《りんき》の處置《しよち》をなすべきである。もしそれが非常《ひじよう》の地震《ぢしん》だと判斷《はんだん》されたならば、自分《じぶん》の居所《ゐどころ》の如何《いかん》によつて處置《しよち》方法《ほう/\》が變《かは》られなければなるまい。それについては、以下《いか》の各項《かくこう》に於《おい》て細説《さいせつ》するつもりである。然《しか》しながら、それがありふれた小地震《しようぢしん》だと判斷《はんだん》されたならば、泰然《たいぜん》自若《じじやく》としてゐるのも一法《いつぽう》であらうけれども、これは餘《あま》りに消極的《しようきよくてき》の動作《どうさ》であつて、著者《ちよしや》が地震國《ぢしんこく》の小國民《しようこくみん》に向《むか》つて希望《きぼう》する所《ところ》でない。著者《ちよしや》は寧《むし》ろかような場合《ばあひ》を利用《りよう》して、地震《ぢしん》に對《たい》する實驗的《じつけんてき》の知識《ちしき》を得《え》、修養《しゆうよう》を積《つ》まれるよう希望《きぼう》するものである。
 前《まへ》に述《の》べた通《とほ》り、初期《しよき》微動《びどう》の繼續《けいぞく》時間《じかん》は震原《しんげん》距離《きより》の計算《けいさん》に利用《りよう》し得《え》られる。この繼續《けいぞく》時間《じかん》の正確《せいかく》なる値《あたひ》は地震計《ぢしんけい》の觀測《かんそく》によつて始《はじ》めて分《わか》ることであるけれども、概略《がいりやく》の値《あたひ》は暗算《あんざん》によつても出《で》て來《く》る。著者《ちよしや》の如《ごと》きはそれが常習《じようしゆう》となつてゐるので、夜間《やかん》熟睡《じゆくすい》してゐるときでも地震《ぢしん》により容易《ようい》に覺醒《かくせい》し、夢《ゆめ》うつゝの境涯《きようがい》にありながら右《みぎ》の時間《じかん》の暗算《あんざん》等《とう》にとりかかる癖《くせ》がある。これを器械的《きかいてき》觀測《かんそく》の結果《けつか》に比較《ひかく》すると一割《いちわり》以上《いじよう》の誤差《ごさ》を生《しやう》じた例《れい》は極《きは》めて少《すくな》い。著者《ちよしや》は更《さら》に進《すゝ》んで地震動《ぢしんどう》の性質《せいしつ》を味《あぢ》はひ、それによつて震原《しんげん》の位置《いち》をも判斷《はんだん》することに利用《りよう》してゐるけれども、これは一般《いつぱん》の讀者《どくしや》に望《のぞ》み得《う》べきことでない。とに角《かく》、初期《しよき》微動《びどう》繼續《けいぞく》時間《じかん》を始《はじ》めとして、發震時《はつしんじ》其他《そのた》に關《かん》する値《あたひ》を計測《けいそく》し、これを器械《きかい》觀測《かんそく》の結果《けつか》に比較《ひかく》する事《こと》は頗《すこぶ》る興味《きようみ》多《おほ》いことである。自分《じぶん》と觀測所《かんそくじよ》との間隔《かんかく》が一二里《いちにり》以内《いない》であるならば、兩方《りようほう》の時刻《じこく》竝《ならび》に時間共《じかんとも》に大體《だいたい》同《おな》じ値《あたひ》に出《で》て來《く》るべきはずである。
 右《みぎ》の外《ほか》、體驗《たいけん》した地震動《ぢしんどう》の大《おほ》いさを器械《きかい》觀測《かんそく》の結果《けつか》に比較《ひかく》するのも亦《また》興味《きようみ》ある事柄《ことがら》である。然《しか》しながらこの結果《けつか》に於《おい》ては器械《きかい》で觀測《かんそく》せられたものと、自分《じぶん》の體驗《たいけん》したものとは著《いちじる》しき相違《そうい》のあることが一般《いつぱん》であつて、それが寧《むし》ろ至當《しとう》である場合《ばあひ》が多《おほ》い。例《たと》へば東京《とうきよう》市内《しない》でも下町《したまち》と山《やま》の手《て》とで震動《しんどう》の大《おほ》いさに非常《ひじよう》な相違《そうい》がある。概《がい》して下町《したまち》の方《ほう》が大《おほ》きく、山《やま》の手《て》の二三倍《にさんばい》若《も》しくはそれ以上《いじよう》にもなることがある。又《また》鎌倉《かまくら》の例《れい》を取《と》ると由比ケ濱《ゆひがはま》の砂丘《さきゆう》は、雪《ゆき》の下《した》の岩盤《がんばん》に比較《ひかく》して四五倍《しごばい》の大《おほ》いさに出《で》て來《く》ることもある。かような根本《こんぽん》の相違《そうい》がある上《うへ》に、器械《きかい》は大抵《たいてい》地面《ぢめん》其物《そのもの》の震動《しんどう》を觀測《かんそく》する樣《よう》になつてゐるのに、體驗《たいけん》を以《もつ》て測《はか》つてゐるのは家屋《かおく》の振動《しんどう》であることが多《おほ》い、もし其《その》家屋《かおく》が丈夫《じようぶ》な木造《もくぞう》平家《ひらや》であるならば、床上《しようじよう》の振動《しんどう》は地面《ぢめん》のものゝ三割《さんわり》増《ま》しなることが普通《ふつう》であるけれども、木造《もくぞう》二階建《にかいだて》の階上《かいじよう》は三倍《さんばい》程度《ていど》なることが通常《つうじよう》である。この通《とほ》りに器械《きかい》觀測《かんそく》の結果《けつか》と體驗《たいけん》の結果《けつか》とは最初《さいしよ》から一致《いつち》し難《がた》いものであるけれども、それを比較《ひかく》してみることは無益《むえき》の業《わざ》ではない。上手《じようず》にやると自分《じぶん》の家屋《かおく》の耐震率《たいしんりつ》とも名《な》づくべきものゝ概念《がいねん》が得《え》られるであらう。即《すなは》ち二階建《にかいだて》の二階《にかい》座敷《ざしき》は階下《かいか》座敷《ざしき》の五倍《ごばい》に搖《ゆ》れるようならば、不安定《ふあんてい》な構造《こうぞう》と判斷《はんだん》しなければならないが、もし僅々《きん/\》二倍《にばい》位《ぐらゐ》にしか搖《ゆ》れないならば、寧《むし》ろ堅牢《けんろう》な建物《たてもの》と見做《みな》してよいであらう。

    二、屋外《おくがい》への避難《ひなん》

[#図版(img_06.png)、耐震的構造]
 地震《ぢしん》に出會《であ》つてそれが非常《ひじよう》の地震《ぢしん》であることを意識《いしき》したものは、餘程《よほど》修養《しゆうよう》を積《つ》んだ人《ひと》でない限《かぎ》り、たとひ耐震《たいしん》家屋内《かおくない》にゐても、又《また》屋外《おくがい》避難《ひなん》の不利益《ふりえき》な場合《ばあひ》でも、しかせんと力《つと》めるであらう。この屋外《おくがい》へ避難《ひなん》することの不利益《ふりえき》な場合《ばあひ》は次項《じこう》に説明《せつめい》することゝし、もし平家建《ひらやだて》の家屋内《かおくない》或《あるひ》は二階建《にかいだて》、三階建《さんがいだて》等《とう》の階下《かいか》に居合《ゐあは》せた場合《ばあひ》には屋外《おくがい》へ飛《と》び出《だ》す方《ほう》が最《もつと》も安全《あんぜん》であることがある。然《しか》しながらいづれの場合《ばあひ》でもさうであるとは限《かぎ》らぬ。先《ま》づ屋外《おくがい》が狹《せま》くて、もし家屋《かおく》が倒潰《とうかい》したならば却《かへ》つて其《その》ために壓伏《あつぷく》されるような危險《きけん》はなきか。これが第一《だいゝち》に考慮《こうりよ》すべき點《てん》である。
 平家建《ひらやだて》の小屋組《こやぐみ》、即《すなは》ち桁《けた》や梁《はり》と屋根《やね》との部分《ぶぶん》が普通《ふつう》に出來《でき》てゐれば容易《ようい》に崩《くづ》れるものではない。たとひ家屋《かおく》が倒伏《とうふく》することがあつても、小屋組《こやぐみ》だけは元《もと》のまゝの形《かたち》をして地上《ちじよう》に直接《ちよくせつ》の屋根《やね》を現《あらは》すことは、大地震《だいぢしん》の場合《ばあひ》普通《ふつう》に見《み》る現象《げんしよう》である。かような場合《ばあひ》、下敷《したじき》になつたものも、梁《はり》又《また》は桁《けた》のような大《おほ》きな横木《よこぎ》で打《う》たれない限《かぎ》り大抵《たいてい》安全《あんぜん》である。
 一方《いつぽう》屋外《おくがい》に避難《ひなん》せんとする場合《ばあひ》に於《おい》ては、まだ出《で》きらない内《うち》に家屋《かおく》倒潰《とうかい》し、而《しか》も入口《いりぐち》の大《おほ》きな横木《よこぎ》に壓伏《あつぷく》せられる危險《きけん》が伴《ともな》ふことがある。前《まへ》に述《の》べた通《とほ》り、初期《しよき》微動《びどう》の繼續《けいぞく》時間《じかん》は概《がい》して七八秒《しちはちびよう》はあるけれども、前記《ぜんき》の但馬《たじま》地震《ぢしん》及《およ》び丹後《たんご》地震《ぢしん》に於《おい》ては、震原地《しんげんち》の直上《ちよくじよう》に於《おい》て三秒《さんびよう》位《ぐらゐ》しかなかつた。かゝる場合《ばあひ》、家《いへ》の倒伏前《とうふくぜん》に屋外《おくがい》の安全《あんぜん》な場所《ばしよ》迄《まで》逃《に》げ出《だ》すことは中々《なか/\》容易《ようい》な業《わざ》ではない。實際《じつさい》前記《ぜんき》の大地震《だいぢしん》に於《おい》ては機敏《きびん》な動作《どうさ》をなして却《かへ》つて軒前《のきさき》で壓死《あつし》したものが多《おほ》く、逃《に》げ後《おく》れながら小屋組《こやぐみ》の下《した》に安全《あんぜん》に敷《し》かれたものは屋根《やね》を破《やぶ》つて助《たす》かつたといふ。かような場合《ばあひ》を省《かへり》みると、屋外《おくがい》へ避難《ひなん》して可《か》なる場合《ばあひ》は、僅《わづか》に二三秒《にさんびよう》で軒下《のきした》を離《はな》れることが出來《でき》るような位置《いち》にあるときに限《かぎ》るようである。もし偶然《ぐうぜん》かような位置《いち》に居合《ゐあは》せたならば、機敏《きびん》に飛出《とびだ》すが最上策《さいじようさく》であること勿論《もちろん》である。
 右《みぎ》のような條件《じようけん》が完全《かんぜん》に備《そな》はつてゐなくとも、大抵《たいてい》の人《ひと》は屋外《おくがい》に避難《ひなん》せんとあせるに違《ちが》ひない。これは寧《むし》ろ動物《どうぶつ》の本能《ほんのう》であらう。目《め》の前《まへ》を何《なに》か掠《かす》めて通《とほ》るとき急《きゆう》に瞼《まぶた》を閉《と》ぢるような行動《こうどう》と相似《あひに》てゐる。
 安政《あんせい》二年《にねん》十月《じゆうがつ》二日《ふつか》の江戸《えど》大地震《だいぢしん》に於《おい》て、小石川《こいしかは》の水戸《みと》屋敷《やしき》に於《おい》て壓死《あつし》した藤田《ふぢた》東湖《とうこ》先生《せんせい》の最後《さいご》と、麹町《かうじまち》神田橋内《かんだばしない》の姫路《ひめぢ》藩邸《はんてい》に於《おい》て壓死《あつし》した石本《いしもと》李蹊《りけい》翁《おう》の最後《さいご》は全《まつた》く同《おな》じ轍《てつ》を踏《ふ》まれたものであつた。此《この》地震《ぢしん》の初期《しよき》微動《びどう》繼續《けいぞく》時間《じかん》は七八秒《しちはちびよう》程《ほど》あつたように思《おも》はれる。各《かく》先生《せんせい》共《とも》に地震《ぢしん》を感得《かんとく》せられるや否《いな》や、本能的《ほんのうてき》に外《そと》に飛《と》び出《だ》されたが、はっと氣《き》が付《つ》いてみると老母《ろうぼ》が屋内《おくない》に取《と》り殘《のこ》されてあつた。とつて返《かへ》して助《たす》け出《だ》さうとする中《うち》、主要動《しゆようどう》のために家屋《かおく》は崩壞《ほうかい》し始《はじ》めたので、東湖《とうこ》は突差《とつさ》に母堂《ぼどう》を屋外《おくがい》へ抛《はう》り出《だ》した瞬間《しゆんかん》、家屋《かおく》は全《まつた》く先生《せんせい》を壓伏《あつぷく》してしまつたが、李蹊《りけい》は母堂《ぼどう》と運命《うんめい》を共《とも》にしたのである。東湖《とうこ》先生《せんせい》の最後《さいご》のありさまはよく人《ひと》に知《し》られてゐるが、石本《いしもと》李蹊《りけい》翁《おう》のは知《し》る人《ひと》が少《すくな》い。翁《おう》の令息《れいそく》に有名《ゆうめい》な石本《いしもと》新六男《しんろくだん》があり、新六男《しんろくだん》の四男《よなん》に地震學《ぢしんがく》で有名《ゆうめい》な巳四雄《みしを》教授《きようじゆ》のあることは、李蹊《りけい》翁《おう》も又《また》以《もつ》て瞑《めい》するに足《た》るといはれてもよいであらう。
 われ/\の崇敬《すうけい》する偉人《いじん》でも、大地震《だいぢしん》となると我《われ》を忘《わす》れて飛《と》び出《だ》されるのであるから、二階建《にかいだて》、三階建《さんがいだて》等《とう》の階下《かいか》や平家建《ひらやだて》の屋内《おくない》にゐた人《ひと》が逃《に》げ出《だ》すのは、尤《もつと》もな動作《どうさ》と考《かんが》へなければなるまい。前記《ぜんき》の但馬《たじま》地震《ぢしん》や丹後《たんご》地震《ぢしん》の如《ごと》きは初期《しよき》微動《びどう》繼續《けいぞく》時間《じかん》の最《もつと》も短《みじか》かつた稀有《けう》の例《れい》であるので、寧《むし》ろ例外《れいがい》とみて然《しか》るべきものである。それ故《ゆゑ》に若《も》し數秒間《すうびようかん》で廣場《ひろば》へ出《だ》[#ルビの「だ」は底本のまま]られる見込《みこ》みがあらば、最《もつと》も機敏《きびん》にさうする方《ほう》が個人《こじん》として最上《さいじよう》の策《さく》たるに相違《そうい》ない。唯一《たゞひと》つ茲《こゝ》に考慮《こうりよ》すべきは火《ひ》の用心《ようじん》に關《かん》する問題《もんだい》である。地震《ぢしん》に伴《ともな》ふ火災《かさい》は地震《ぢしん》直後《ちよくご》に起《おこ》るのが通常《つうじよう》であるけれども、地震後《ぢしんご》一二時間《いちにじかん》の後《のち》に起《おこ》ることもある。避難《ひなん》の際《さい》、僅《わづか》に一擧手《いつきよしゆ》の動作《どうさ》によつて火《ひ》が消《け》されるようならば、さういふ處置《しよち》は望《のぞ》ましきことであるが、もし其《その》餘裕《よゆう》なくして飛出《とびだ》したならば、後《あと》になつてからでも火《ひ》を消《け》こと[#送りがなの「こと」は底本のまま]に注意《ちゆうい》すべきであつて、特《とく》に今迄《いままで》ゐた家《いへ》が潰《つぶ》れたときにさうである。これ著者《ちよしや》がこの項《ごろ》の本文《ほんもん》に於《おい》て、『但《たゞ》し火《ひ》の元《もと》用心《ようじん》を忘《わす》れざること』と附《つ》け加《くは》へた所以《ゆえん》である。
(つづく)



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【テキスト中、置きかえた漢字】

[第3水準1-89-3]→ 研
[第3水準1-14-48]→ 免
[第3水準1-86-35]→ 歩
[第3水準1-89-29]→ 祥
[第3水準1-86-16]→ 横
[第3水準1-89-49]→ 突
[第3水準1-14-81]→ 即
[第3水準1-93-21]→ 録
[第3水準1-47-65]→ 層
[第3水準1-87-74]→ 状
[第3水準1-15-61]→ 増
[第3水準1-89-68]→ 節
[第3水準1-86-73]→ 海
[第3水準1-91-89]→ 視
[第3水準1-90-13]→ 縁
[第3水準1-84-89]→ 掴
[第3水準1-15-56]→ 填
[第3水準1-84-36]→ 徴
[第3水準1-93-67]→ 難
[第3水準1-89-19]→ 社
[第3水準1-86-42]→ 毎
[第3水準1-92-76]→ 郷
[第3水準1-47-64]→ 屡
[第3水準1-86-4]→ 概
[第3水準1-85-8]→ 敏
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底本:『星と雲・火山と地震』復刻版 日本兒童文庫、名著普及会
   1982(昭和57)年6月20日 発行
親本:『星と雲・火山と地震』日本兒童文庫、アルス
   1930(昭和5)年2月15日 発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日公開
青空文庫作成ファイル:
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*地名


丹後地震 たんご じしん 丹後半島を中心に1927年3月7日に起こった地震。マグニチュード7.3、死者2925人、1万戸以上の建物が全壊。半島の付け根の郷村断層の3メートルに達する左ずれが震源。北丹後地震。
濃尾地震 のうび じしん 1891年(明治24)10月28日、岐阜・愛知両県を中心として起こった大地震。マグニチュード8.0。激震地域は濃尾平野一帯から福井県に及び、死者7200人余、負傷者1万7000人余、全壊家屋14万余。また、根尾谷(岐阜県本巣市根尾付近)を通る大断層を生じた。

五大州・五大洲 ごだいしゅう アジア州・アフリカ州・ヨーロッパ州・アメリカ州・オセアニア州の総称。
浦賀海峡 → 浦賀水道か
浦賀水道 うらが すいどう 東京湾の入口、三浦半島と房総半島との間の海峡。幅約7キロメートル。

チェコスロバキア Czech and Slovakia 中部ヨーロッパに位置し、1918〜93年に存在した連邦共和国。スラヴ系のチェコ人・スロヴァキア人が1918年オーストリア‐ハンガリー帝国からチェコスロヴァキア共和国として独立。39年ナチス‐ドイツに占領されたが、第二次大戦末期に解放、48年社会主義国、68年の政変を経て、69年チェコとスロヴァキアとの連邦制。東欧民主化のなかで、89年共産党政権が崩壊。90年、国名から「社会主義」を削り、さらに「チェコ‐スロヴァキア」と変更。93年、チェコ共和国とスロヴァキア共和国とに分離、独立。
プラーグ → プラハ
プラハ Praha チェコ共和国の首都。ヴルタヴァ川に沿い、ボヘミア盆地の中心に位置する交通・文化の中心地。自動車・織物・化学工業が行われ、ガラス工芸品も有名。中世の面影を色濃く残す歴史地区は世界遺産。人口116万6千(2004)。英語名プラーグ。

田結村 たいむら 現在の兵庫県豊岡市田結。北は日本海に面する。豊岡市は県北但馬地方の北東部。豊岡盆地を中心市域とする。大正14年(1925)、港村田結沖を震源地とする北但馬大震災が発生。
郷村 ごうむら 現、京都府竹野郡網野町字郷。竹野郡は丹後半島に位置。網野町は郡の最西部に位置し、北は日本海に面する。昭和2年(1927)の北丹後地震は、旧網野町と旧郷村地域が震源。郷村北部に天然記念物の郷村断層がある。
峰山 みねやま 京都府峰山町か。京都府の北部、丹後半島の付け根に位置し、『天女の羽衣伝説』で知られる町。

鎌倉 かまくら 神奈川県南東部の市。横浜市の南に隣接。鎌倉幕府跡・源頼朝屋敷址・鎌倉宮・鶴岡八幡宮・建長寺・円覚寺・長谷の大仏・長谷観音などの史跡・社寺に富む。風致にすぐれ、京浜の住宅地。人口17万1千。
由比ヶ浜 ゆいがはま 神奈川県鎌倉市の海岸、西は稲村ヶ崎から東は飯島ヶ崎に至る約2キロメートルの砂浜。特に、滑川河口より西をいう。相模湾に臨む避暑・避寒地。また、海水浴場。
雪の下 ゆきのした 現、鎌倉市雪ノ下。鶴岡八幡宮から大倉の幕府跡を含む一帯に位置する。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『日本歴史地名大系』(平凡社)。




*年表


一八五五(安政二)一〇月二日 江戸大地震。小石川の水戸屋敷において藤田東湖、圧死。麹町神田橋内の姫路藩邸において石本李蹊、圧死。
一八八〇(明治一三)二月二二日 横浜ならびにその近郊において地震、レンガ煙突ならびに土壁に小破損を生じる。二週間後、日本地震学会を組織。毎月の会合に研究結果を発表。数か月ののちユーイング博士、水平振子地震計を発明。
一八八一(明治一四) グレー博士の考案を改良した上下動地震計を作り出す。
一八九一(明治二四)一〇月二八日 濃尾大地震。
一九二三(大正一二)九月一日 関東大地震。一〇万の生命と五十五億円の財産とを失う。
一九二四(大正一三) 震災予防調査会、廃止。発表した報告書は和文のもの百一号、欧文のもの二十六号、別に欧文紀要十一冊、欧文観測録六冊。
一九二五(大正一四)五月二三日 但馬地震。四〇〇の人命と三〇〇〇万円の財産とを損す。
一九二六(大正一五) 今村明恒、東京帝国大学地震学教室における同人の助言によって地震の注意書を編纂、公にする。
一九二七(昭和二)三月七日 丹後地震。三〇〇〇の死者と一億円の財産損失とを生じる。
一九二七(昭和二)九月 今村明恒、チェコスロバキア、プラーグにおける地震学科の国際会議において、わが国最近の研究結果につき報告。
一九二七(昭和二)九月一三日 西九州における風水害。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)

今村明恒 いまむら あきつね 1870-1948 地震学者。理学博士。鹿児島県生まれ。明治38年、統計上の見地から関東地方に大地震が起こりうると説き、大森房吉との間に大論争が起こった。大正12年、東大教授に就任。翌年、地震学科の設立とともに主任となる。昭和4年、地震学会を創設、その会長となり、機関誌『地震』の編集主任を兼ね、18年間その任にあたる(人名)。
ユーイング James Alfred Ewing 1855-1935 イギリスの物理学者・工学者。御雇外国人として、機械工学を教授。日本地震学会を創設。エディンバラ大学総長。
グレー博士 電気学。上下動地震計を考案。
ミルン教授 → ジョン・ミルンか
ジョン・ミルン John Milne 1850-1913 イギリスリバプール出身の鉱山技師、地震学者、人類学者、考古学者。東京帝国大学名誉教授。北海道函館市船見町26番地に、ジョン・ミルン夫妻の墓がある。
関谷教授 せきや → 関谷清景か
関谷清景 せきや せいけい 1854-1896 大垣市に生まれ、東京大学の前身大学南校に1870年入学。76〜77年英国留学、81年、東京大学理学部助教授となる。88年、菊地安とともに磐梯山の爆発を調査。翌年の熊本地震には病身をおして調査に参加した。このときの余震調査は日本に近代地震学が誕生して初の調査。(地学)
大森博士 おおもり → 大森房吉か
大森房吉 おおもり ふさきち 1868-1923 地震学者。福井県人。東大卒、同教授。大森公式の算出、地震計の発明、地震帯の研究など。

藤田東湖 ふじた とうこ 1806-1855 幕末の儒学者。名は彪(たけし)。幽谷の子。水戸藩士。藩主徳川斉昭を補佐して、天保の改革を推進し、側用人となる。交友範囲も広く、激烈な尊攘論者として知られる。安政の江戸大地震に母を助けて自分は圧死。著「回天詩史」「弘道館記述義」など。
石本李蹊 いしもと りけい
石本新六男 いしもと しんろくだん
石本巳四雄 いしもと みしを 1893-1940 東京小石川生まれ。新六男の四男。地震学者。理学博士。東京帝国大学の地震研究所の末広恭二のもとで地震学の研究につとめる。シリカ傾斜計、華族土地震計、周期分析器などを考案。昭和8年から14年まで地震研究所長をつとめた。著『地震とその研究』『科学への道』など。病没。(現代人名)

日本地震学会 にほん じしんがっかい (1) 1880年、ジョン・ミルンにより創立。日本に在留していた外国人が中心となり、日本人学者も参加して樹立された世界初の近代地震学会。英文・和文の雑誌を出し活発な活動をしたが、外国人が日本を去るとともに92年消滅した。(2) 1929年、今村明恒の提唱により地震学会が発足した。機関誌は『地震』。93年(?)から日本地震学会と称し今日に至る。(地学)
震災予防調査会 しんさい よぼう ちょうさかい 明治・大正時代の文部省所轄の地震研究機関。明治24年(1891)濃尾大地震のあと建議され発足。活動は明治25年より大正14年(1925)の34年間。大森房吉が精力的に活動。大正12年、関東大地震が発生し、この被害にかんがみ委員制ではなく独自の研究員と予算をもつ常設研究所設置の必要がさけばれ、大正14年、研究所発足とともに調査会は発展解消された。(国史)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『日本人名大事典』(平凡社)、『新版 地学事典』(平凡社、2005.5)、『国史大辞典』(吉川弘文館)。



*難字、求めよ


ミルン地震計 機械式。1894年頃にジョン・ミルンが日本で開発。記録方式は光学式。制振器を持っていない。
大森地震計 おおもり じしんけい 大森式地震計。機械式。変位計。1898年頃に大森房吉(東京大学)が開発。固有周期は10秒程度。倍率は20倍程度。記録方式は煤書式。当時は広く使用されていた。
ガリッチン地震計 世界初の電磁式地震計。速度計。1907年にボリス・ガリチン(ロシア)が開発。水平動用はツェルナー吊り型水平振子、上下動用はユーイング型上下振子を使用。倍率は1000倍以上。記録方式は光学式。/最も古い電磁式地震計で、B. Galitzin の考案。のちに Wilip が改良を加える。(地学)
パシュウィチ水平振子
ユーイング地震計
物(もつ)せられたる もの?
しかせんと


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『新版 地学事典』(平凡社、2005.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 33号・34号を当面欠番としてあつかい、35号(今号)より再開します。それでもまだ出版日が一週間ずれていますが、これは早々に挽回(の予定)。月末最終号(無料)のほうが手にとってもらえる機会がふえることをもくろんでみました。メール、ブログ、ツイッター、新聞・雑誌・テレビ・ラジオなどでの紹介歓迎。よろしく、お願いします。




*次週予告


第三巻 第三六号 
地震の話(二) 今村明恒


第三巻 第三六号は、
四月二日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第三巻 第三五号
地震の話(一) 今村明恒
発行:二〇一一年三月二六日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



T-Time マガジン 週刊ミルクティー*99 出版

第二巻

第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン 月末最終号:無料
第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン 定価:200円
第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 定価:200円
第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 定価:200円
第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 定価:200円
第六号 新羅人の武士的精神について 池内宏 月末最終号:無料
第七号 新羅の花郎について 池内宏 定価:200円
第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉 定価:200円
第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治 定価:200円
第十号 風の又三郎 宮沢賢治 月末最終号:無料
第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎 定価:200円
第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎 定価:200円
第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎 定価:200円
第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎 定価:200円
第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル 定価:200円
第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル 定価:200円
第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル 月末最終号:無料
第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル 定価:200円
第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉 定価:200円
第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉 定価:200円
第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太 月末最終号:無料
第二四号 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫 定価:200円
第二五号 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉 定価:200円
第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎 定価:200円
第二七号 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治 定価:200円
第二八号 翁の発生/鬼の話 折口信夫  月末最終号:無料
第二九号 生物の歴史(一)石川千代松  定価:200円
第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松  定価:200円
第三一号 生物の歴史(三)石川千代松  定価:200円
第三二号 生物の歴史(四)石川千代松  月末最終号:無料
第三三号 特集 ひなまつり  定価:200円  雛 芥川龍之介
 雛がたり 泉鏡花
 ひなまつりの話 折口信夫

第三四号 特集 ひなまつり  定価:200円  人形の話 折口信夫
 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫

第三五号 右大臣実朝(一)太宰治  定価:200円
第三六号 右大臣実朝(二)太宰治 月末最終号:無料
第三七号 右大臣実朝(三)太宰治 定価:200円
第三八号 清河八郎(一)大川周明 定価:200円
第三九号 清河八郎(二)大川周明  定価:200円
第四〇号 清河八郎(三)大川周明  月末最終号:無料
第四一号 清河八郎(四)大川周明  定価:200円
第四二号 清河八郎(五)大川周明  定価:200円
第四三号 清河八郎(六)大川周明  定価:200円
第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉  定価:200円
第四五号 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉  月末最終号:無料
第四六号 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉  定価:200円
第四七号 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉  定価:200円
第四八号 若草物語(一)L. M. オルコット  定価:200円
第四九号 若草物語(二)L. M. オルコット  月末最終号:無料
第五〇号 若草物語(三)L. M. オルコット  定価:200円
第五一号 若草物語(四)L. M. オルコット  定価:200円
第五二号 若草物語(五)L. M. オルコット  定価:200円
第五三号 二人の女歌人/東北の家 片山広子  定価:200円
第三巻 第一号 星と空の話(一)山本一清  月末最終号:無料
  一、星座(せいざ)の星
  二、月(つき)
(略)殊にこの「ベガ」は、わが日本や支那では「七夕」の祭りにちなむ「織(お)り女(ひめ)」ですから、誰でも皆、幼い時からおなじみの星です。「七夕」の祭りとは、毎年旧暦七月七日の夜に「織り女」と「牽牛(ひこぼし)〔彦星〕」とが「天の川」を渡って会合するという伝説の祭りですが、その「天の川」は「こと」星座のすぐ東側を南北に流れていますし、また、「牽牛」は「天の川」の向かい岸(東岸)に白く輝いています。「牽牛」とその周囲の星々を、星座では「わし」の星座といい、「牽牛」を昔のアラビア人たちは、「アルタイル」と呼びました。「アルタイル」の南と北とに一つずつ小さい星が光っています。あれは「わし」の両翼を拡げている姿なのです。ところが「ベガ」の付近を見ますと、その東側に小さい星が二つ集まっています。昔の人はこれを見て、一羽の鳥が両翼をたたんで地に舞いくだる姿だと思いました。それで、「こと」をまた「舞いくだる鳥」と呼びました。

 「こと」の東隣り「天の川」の中に、「はくちょう」という星座があります。このあたりは大星や小星が非常に多くて、天が白い布のように光に満ちています。

第三巻 第二号 星と空の話(二)山本一清  定価:200円
  三、太陽
  四、日食と月食
  五、水星
  六、金星
  七、火星
  八、木星
 太陽の黒点というものは誠におもしろいものです。黒点の一つ一つは、太陽の大きさにくらべると小さい点々のように見えますが、じつはみな、いずれもなかなか大きいものであって、(略)最も大きいのは地球の十倍以上のものがときどき現われます。そして同じ黒点を毎日見ていますと、毎日すこしずつ西の方へ流れていって、ついに太陽の西の端(はし)でかくれてしまいますが、二週間ばかりすると、こんどは東の端から現われてきます。こんなにして、黒点の位置が規則正しく変わるのは、太陽全体が、黒点を乗せたまま、自転しているからなのです。太陽は、こうして、約二十五日間に一回、自転をします。(略)
 太陽の黒点からは、あらゆる気体の熱風とともに、いろいろなものを四方へ散らしますが、そのうちで最も強く地球に影響をあたえるものは電子が放射されることです。あらゆる電流の原因である電子が太陽黒点から放射されて、わが地球に達しますと、地球では、北極や南極付近に、美しいオーロラ(極光(きょっこう))が現われたり、「磁気嵐(じきあらし)」といって、磁石の針が狂い出して盛んに左右にふれたりします。また、この太陽黒点からやってくる電波や熱波や電子などのために、地球上では、気温や気圧の変動がおこったり、天気が狂ったりすることもあります。(略)
 太陽の表面に、いつも同じ黒点が長い間見えているのではありません。一つ一つの黒点はずいぶん短命なものです。なかには一日か二日ぐらいで消えるのがありますし、普通のものは一、二週間ぐらいの寿命のものです。特に大きいものは二、三か月も、七、八か月も長く見えるのがありますけれど、一年以上長く見えるということはほとんどありません。
 しかし、黒点は、一つのものがまったく消えない前に、他の黒点が二つも三つも現われてきたりして、ついには一時に三十も四十も、たくさんの黒点が同じ太陽面に見えることがあります。
 こうした黒点の数は、毎年、毎日、まったく無茶苦茶というわけではありません。だいたいにおいて十一年ごとに増したり減ったりします。

第三巻 第三号 星と空の話(三)山本一清  定価:200円
   九、土星
  一〇、天王星
  一一、海王星
  一二、小遊星
  一三、彗星
  一四、流星
  一五、太陽系
  一六、恒星と宇宙
 晴れた美しい夜の空を、しばらく家の外に出てながめてごらんなさい。ときどき三分間に一つか、五分間に一つぐらい星が飛ぶように見えるものがあります。あれが流星です。流星は、平常、天に輝いている多くの星のうちの一つ二つが飛ぶのだと思っている人もありますが、そうではありません。流星はみな、今までまったく見えなかった星が、急に光り出して、そしてすぐまた消えてしまうものなのです。(略)
 しかし、流星のうちには、はじめから稀(まれ)によほど形の大きいものもあります。そんなものは空気中を何百キロメートルも飛んでいるうちに、燃えつきてしまわず、熱したまま、地上まで落下してきます。これが隕石というものです。隕石のうちには、ほとんど全部が鉄のものもあります。これを隕鉄(いんてつ)といいます。(略)
 流星は一年じゅう、たいていの夜に見えますが、しかし、全体からいえば、冬や春よりは、夏や秋の夜にたくさん見えます。ことに七、八月ごろや十月、十一月ごろは、一時間に百以上も流星が飛ぶことがあります。
 八月十二、三日ごろの夜明け前、午前二時ごろ、多くの流星がペルセウス星座から四方八方へ放射的に飛びます。これらは、みな、ペルセウス星座の方向から、地球の方向へ、列を作ってぶっつかってくるものでありまして、これを「ペルセウス流星群」と呼びます。
 十一月十四、五日ごろにも、夜明け前の二時、三時ごろ、しし星座から飛び出してくるように見える一群の流星があります。これは「しし座流星群」と呼ばれます。
 この二つがもっとも有名な流星群ですが、なおこの他には、一月のはじめにカドラント流星群、四月二十日ごろに、こと座流星群、十月にはオリオン流星群などあります。

第三巻 第四号 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎  定価:200円
獅子舞雑考
  一、枯(か)れ木も山の賑(にぎ)やかし
  二、獅子舞に関する先輩の研究
  三、獅子頭に角(つの)のある理由
  四、獅子頭と狛犬(こまいぬ)との関係
  五、鹿踊(ししおど)りと獅子舞との区別は何か
  六、獅子舞は寺院から神社へ
  七、仏事にもちいた獅子舞の源流
  八、獅子舞について関心すべき点
  九、獅子頭の鼻毛と馬の尻尾(しっぽ)

穀神としての牛に関する民俗
  牛を穀神とするは世界共通の信仰
  土牛(どぎゅう)を立て寒気を送る信仰と追儺(ついな)
  わが国の家畜の分布と牛飼神の地位
  牛をもって神をまつるは、わが国の古俗
  田遊(たあそ)びの牛の役と雨乞いの牛の首

 全体、わが国の獅子舞については、従来これに関する発生、目的、変遷など、かなり詳細なる研究が発表されている。(略)喜多村翁の所説は、獅子舞は西域の亀茲(きじ)国の舞楽が、支那の文化とともに、わが国に渡来したのであるという、純乎たる輸入説である。柳田先生の所論は、わが国には古く鹿舞(ししまい)というものがあって、しかもそれが広くおこなわれていたところへ、後に支那から渡来した獅子舞が、国音の相通から付会(ふかい)したものである。その証拠には、わが国の各地において、古風を伝えているものに、角(つの)のある獅子頭があり、これに加うるのに鹿を歌ったものを、獅子舞にもちいているという、いわば固有説とも見るべき考証である。さらに小寺氏の観察は、だいたいにおいて柳田先生の固有説をうけ、別にこれに対して、わが国の鹿舞の起こったのは、トーテム崇拝に由来するのであると、付け加えている。
 そこで、今度は管見を記すべき順序となったが、これは私も小寺氏と同じく、柳田先生のご説をそのまま拝借する者であって、べつだんに奇説も異論も有しているわけではない。ただ、しいて言えば、わが国の鹿舞と支那からきた獅子舞とは、その目的において全然別個のものがあったという点が、相違しているのである。ことに小寺氏のトーテム説にいたっては、あれだけの研究では、にわかに左袒(さたん)することのできぬのはもちろんである。

 こういうと、なんだか柳田先生のご説に、反対するように聞こえるが、角(つの)の有無をもって鹿と獅子の区別をすることは、再考の余地があるように思われる。

第三巻 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉  月末最終号:無料
鹿踊りのはじまり 宮沢賢治
奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  一 緒言
  二 シシ踊りは鹿踊り
  三 伊予宇和島地方の鹿の子踊り
  四 アイヌのクマ祭りと捕獲物供養
  五 付記

 奥羽地方には各地にシシ踊りと呼ばるる一種の民間舞踊がある。地方によって多少の相違はあるが、だいたいにおいて獅子頭を頭につけた青年が、数人立ちまじって古めかしい歌謡を歌いつつ、太鼓の音に和して勇壮なる舞踊を演ずるという点において一致している。したがって普通には獅子舞あるいは越後獅子などのたぐいで、獅子奮迅・踊躍の状を表象したものとして解せられているが、奇態なことにはその旧仙台領地方におこなわるるものが、その獅子頭に鹿の角(つの)を有し、他の地方のものにも、またそれぞれ短い二本の角がはえているのである。
 楽舞用具の一種として獅子頭のわが国に伝わったことは、すでに奈良朝のころからであった。くだって鎌倉時代以後には、民間舞踊の一つとして獅子舞の各地におこなわれたことが少なからず文献に見えている。そしてかの越後獅子のごときは、その名残りの地方的に発達・保存されたものであろう。獅子頭はいうまでもなくライオンをあらわしたもので、本来、角があってはならぬはずである。もちろんそれが理想化し、霊獣化して、彫刻家の意匠により、ことさらにそれに角を付加するということは考えられぬでもない。武蔵南多摩郡元八王子村なる諏訪神社の獅子頭は、古来、龍頭とよばれて二本の長い角が斜めにはえているので有名である。しかしながら、仙台領において特にそれが鹿の角であるということは、これを霊獣化したとだけでは解釈されない。けだし、もと鹿供養の意味からおこった一種の田楽的舞踊で、それがシシ踊りと呼ばるることからついに獅子頭とまで転訛するに至り、しかもなお原始の鹿角を保存して、今日におよんでいるものであろう。

第三巻 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝  定価:200円
魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝

倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。漢時有朝見者、今使訳所通三十国。従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千余里。始度一海千余里、至対馬国、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島、方可四百余里(略)。又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国〔一支国か〕(略)。又渡一海千余里、至末盧国(略)。東南陸行五百里、到伊都国(略)。東南至奴国百里(略)。東行至不弥国百里(略)。南至投馬国水行二十日、官曰弥弥、副曰弥弥那利、可五万余戸。南至邪馬壱国〔邪馬台国〕、女王之所都、水行十日・陸行一月、官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰奴佳�、可七万余戸。(略)其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟、佐治国、自為王以来、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、伝辞出入居処。宮室・楼観・城柵厳設、常有人持兵守衛。

第三巻 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南  定価:200円
  一、本文の選択
  二、本文の記事に関するわが邦(くに)最旧の見解
  三、旧説に対する異論
 『後漢書』『三国志』『晋書』『北史』などに出でたる倭国女王卑弥呼のことに関しては、従来、史家の考証はなはだ繁く、あるいはこれをもってわが神功皇后とし、あるいはもって筑紫の一女酋とし、紛々として帰一するところなきが如くなるも、近時においてはたいてい後説を取る者多きに似たり。(略)
 卑弥呼の記事を載せたる支那史書のうち、『晋書』『北史』のごときは、もとより『後漢書』『三国志』に拠りたること疑いなければ、これは論を費やすことをもちいざれども、『後漢書』と『三国志』との間に存する�異(きい)の点に関しては、史家の疑惑をひく者なくばあらず。『三国志』は晋代になりて、今の范曄の『後漢書』は、劉宋の代になれる晩出の書なれども、両書が同一事を記するにあたりて、『後漢書』の取れる史料が、『三国志』の所載以外におよぶこと、東夷伝中にすら一、二にして止まらざれば、その倭国伝の記事もしかる者あるにあらずやとは、史家のどうもすれば疑惑をはさみしところなりき。この疑惑を決せんことは、すなわち本文選択の第一要件なり。
 次には本文のうち、各本に字句の異同あることを考えざるべからず。『三国志』について言わんに、余はいまだ宋板本を見ざるも、元槧明修本、明南監本、乾隆殿板本、汲古閣本などを対照し、さらに『北史』『通典』『太平御覧』『冊府元亀』など、この記事を引用せる諸書を参考してその異同の少なからざるに驚きたり。その�異を決せんことは、すなわち本文選択の第二要件なり。

第三巻 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南  定価:200円
  四、本文の考証
帯方 / 旧百余国。漢時有朝見者。今使訳所通三十国。 / 到其北岸狗邪韓国 / 対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国 / 南至投馬國。水行二十日。/ 南至邪馬壹國。水行十日。陸行一月。/ 斯馬国 / 已百支国 / 伊邪国 / 郡支国 / 弥奴国 / 好古都国 / 不呼国 / 姐奴国 / 対蘇国 / 蘇奴国 / 呼邑国 / 華奴蘇奴国 / 鬼国 / 為吾国 / 鬼奴国 / 邪馬国 / 躬臣国 / 巴利国 / 支惟国 / 烏奴国 / 奴国 / 此女王境界所盡。其南有狗奴國 / 会稽東治
南至投馬國。水行二十日。  これには数説あり、本居氏は日向国児湯郡に都万神社ありて、『続日本後紀』『三代実録』『延喜式』などに見ゆ、此所にてもあらんかといえり。鶴峰氏は『和名鈔』に筑後国上妻郡、加牟豆万、下妻郡、准上とある妻なるべしといえり。ただし、その水行二十日を投馬より邪馬台に至る日程と解したるは著しき誤謬なり。黒川氏は三説をあげ、一つは鶴峰説に同じく、二つは「投」を「殺」の譌りとみて、薩摩国とし、三つは『和名鈔』、薩摩国麑島郡に都万郷ありて、声近しとし、さらに「投」を「敏」の譌りとしてミヌマと訓み、三潴郡とする説をもあげたるが、いずれも穏当ならずといえり。『国史眼』は設馬の譌りとして、すなわち薩摩なりとし、吉田氏はこれを取りて、さらに『和名鈔』の高城郡托摩郷をもあげ、菅氏は本居氏に従えり。これを要するに、みな邪馬台を筑紫に求むる先入の見に出で、「南至」といえる方向に拘束せられたり。しかれども支那の古書が方向をいう時、東と南と相兼ね、西と北と相兼ぬるは、その常例ともいうべく、またその発程のはじめ、もしくは途中のいちじるしき土地の位置などより、方向の混雑を生ずることも珍しからず。『後魏書』勿吉伝に太魯水、すなわち今の�児河より勿吉、すなわち今の松花江上流に至るによろしく東南行すべきを東北行十八日とせるがごとき、陸上におけるすらかくのごとくなれば海上の方向はなおさら誤り易かるべし。ゆえに余はこの南を東と解して投馬国を『和名鈔』の周防国佐婆郡〔佐波郡か。〕玉祖郷〈多萬乃於也〉にあてんとす。この地は玉祖宿祢の祖たる玉祖命、またの名、天明玉命、天櫛明玉命をまつれるところにして周防の一宮と称せられ、今の三田尻の海港をひかえ、内海の衝要にあたれり。その古代において、玉作を職とせる名族に拠有せられて、五万余戸の集落をなせしことも想像し得べし。日向・薩摩のごとき僻陬とも異なり、また筑後のごとく、路程の合いがたき地にもあらず、これ、余がかく定めたる理由なり。

第三巻 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南  月末最終号:無料
  四、本文の考証(つづき)
爾支 / 泄謨觚、柄渠觚、�馬觚 / 多模 / 弥弥、弥弥那利 / 伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳� / 狗古智卑狗
卑弥呼 / 難升米 / 伊声耆掖邪狗 / 都市牛利 / 載斯烏越 / 卑弥弓呼素 / 壱与
  五、結論
    付記
 次に人名を考証せんに、その主なる者はすなわち、「卑弥呼」なり。余はこれをもって倭姫命に擬定す。その故は前にあげたる官名に「伊支馬」「弥馬獲支」あるによりて、その崇神・垂仁二朝を去ること遠からざるべきことを知る、一つなり。「事二鬼道一、能惑レ衆」といえるは、垂仁紀二十五年の記事ならびにその細注、『延暦儀式帳』『倭姫命世記』などの所伝を総合して、もっともこの命(みこと)の行事に適当せるを見る。その天照大神の教えにしたがいて、大和より近江・美濃・伊勢諸国を遍歴し、〈『倭姫世記』によれば尾張・丹波・紀伊・吉備にもおよびしが如し〉いたるところにその土豪より神戸・神田・神地を徴して神領とせるは、神道設教の上古を離るること久しき魏人より鬼道をもって衆を惑わすと見えしも怪しむに足らざるべし、二つなり。余が邪馬台の旁国の地名を擬定せるは、もとより務めて大和の付近にして、倭姫命が遍歴せる地方より選び出したれども、その多数がはなはだしき付会におちいらずして、伊勢を基点とせる地方に限定することを得たるは、また一証とすべし、三つなり。(略)「卑弥呼」の語解は本居氏がヒメコの義とするは可なれども、神代巻に火之戸幡姫児千々姫ノ命、また万幡姫児玉依姫ノ命などある「姫児(ヒメコ)」に同じとあるは非にして、この二つの「姫児」は平田篤胤のいえるごとく姫の子の義なり。「弥」を「メ」と訓(よ)む例は黒川氏の『北史国号考』に「上宮聖徳法王帝説、繍張文の吉多斯比弥乃弥己等(キタシヒメノミコト)、また等已弥居加斯支移比弥乃弥己等(トヨミケカシキヤヒメノミコト)、注云 弥字或当二売音一也」とあるを引けるなどに従うべし。
付記 余がこの編を出せる直後、すでに自説の欠陥を発見せしものあり、すなわち「卑弥呼」の名を考証せる条中に『古事記』神代巻にある火之戸幡姫児(ヒノトバタヒメコ)、および万幡姫児(ヨロヅハタヒメコ)の二つの「姫児」の字を本居氏にしたがいて、ヒメコと読みしは誤りにして、平田氏のヒメノコと読みしが正しきことを認めたれば、今の版にはこれを改めたり。

第三巻 第一〇号 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫  定価:200円
最古日本の女性生活の根底
  一 万葉びと――琉球人
  二 君主――巫女
  三 女軍(めいくさ)
  四 結婚――女の名
  五 女の家
稲むらの陰にて
 古代の歴史は、事実の記憶から編み出されたものではない。神人(かみびと)に神憑(がか)りした神の、物語った叙事詩から生まれてきたのである。いわば夢語りともいうべき部分の多い伝えの、世をへて後、筆録せられたものにすぎない。(略)神々の色彩を持たない事実などの、後世に伝わりようはあるべきはずがないのだ。(略)女として神事にあずからなかった者はなく、神事に関係せなかった女の身の上が、物語の上に伝誦せられるわけがなかったのである。
(略)村々の君主の下になった巫女が、かつては村々の君主自身であったこともあるのである。『魏志』倭人伝の邪馬台(ヤマト)国の君主卑弥呼は女性であり、彼の後継者も女児であった。巫女として、呪術をもって、村人の上に臨んでいたのである。が、こうした女君制度は、九州の辺土には限らなかった。卑弥呼と混同せられていた神功皇后も、最高巫女としての教権をもって、民を統べていられた様子は、『日本紀』を見れば知られることである。(略)
 沖縄では、明治の前までは国王の下に、王族の女子あるいは寡婦が斎女王(いつきのみこ)同様の仕事をして、聞得大君(きこえうふきみ)(ちふいぢん)と言うた。尚家の中途で、皇后の下に位どられることになったが、以前は沖縄最高の女性であった。その下に三十三君というて、神事関係の女性がある。それは地方地方の神職の元締めのような位置にいる者であった。その下にあたるノロ(祝女)という、地方の神事官吏なる女性は今もいる。そのまた下にその地方の家々の神につかえる女の神人がいる。この様子は、内地の昔を髣髴(ほうふつ)させるではないか。沖縄本島では聞得大君を君主と同格に見た史実がない。が、島々の旧記にはその痕跡が残っている。(「最古日本の女性生活の根底」より)

第三巻 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦  定価:200円
瀬戸内海の潮と潮流
コーヒー哲学序説
神話と地球物理学
ウジの効用
 一体、海の面はどこでも一昼夜に二度ずつ上がり下がりをするもので、それを潮の満干といいます。これは月と太陽との引力のためにおこるもので、月や太陽がたえず東から西へまわるにつれて、地球上の海面の高くふくれた満潮の部分と低くなった干潮の部分もまた、だいたいにおいて東から西へ向かって大洋の上を進んで行きます。このような潮の波が内海のようなところへ入って行きますと、いろいろに変わったことがおこります。ことに瀬戸内海のように外洋との通路がいくつもあり、内海の中にもまた瀬戸がたくさんあって、いくつもの灘に分かれているところでは、潮の満干もなかなか込み入ってきて、これをくわしく調べるのはなかなか難しいのです。しかし、航海の頻繁なところであるから潮の調査は非常に必要なので、海軍の水路部などではたくさんな費用と時日を費やしてこれを調べておられます。東京あたりと四国の南側の海岸とでは満潮の時刻は一時間くらいしか違わないし、満干の高さもそんなに違いませんが、四国の南側とその北側とでは満潮の時刻はたいへんに違って、ところによっては六時間も違い、一方の満潮の時に他のほうは干潮になることもあります。また、内海では満干の高さが外海の倍にもなるところがあります。このように、あるところでは満潮であるのに他のところでは干潮になったり、内海の満干の高さが外海の満干の高さの倍になるところのあるのは、潮の流れがせまい海峡を入るためにおくれ、また、方々の入口から入り乱れ、重なり合うためであります。(「瀬戸内海の潮と潮流」より)

第三巻 第一二号 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦  定価:200円
日本人の自然観
 緒言
 日本の自然
 日本人の日常生活
 日本人の精神生活
 結語
天文と俳句
 もしも自然というものが、地球上どこでも同じ相貌(そうぼう)をあらわしているものとしたら、日本の自然も外国の自然も同じであるはずであって、したがって上記のごとき問題の内容吟味は不必要であるが、しかし実際には、自然の相貌がいたるところむしろ驚くべき多様多彩の変化を示していて、ひと口に自然と言ってしまうにはあまりに複雑な変化を見せているのである。こういう意味からすると、同じように、「日本の自然」という言葉ですらも、じつはあまりに漠然としすぎた言葉である。(略)
 こう考えてくると、今度はまた「日本人」という言葉の内容が、かなり空疎な散漫なものに思われてくる。九州人と東北人とくらべると各個人の個性を超越するとしても、その上にそれぞれの地方的特性の支配が歴然と認められる。それで九州人の自然観や、東北人の自然観といったようなものもそれぞれ立派に存立しうるわけである。(略)
 われわれは通例、便宜上、自然と人間とを対立させ、両方別々の存在のように考える。これが現代の科学的方法の長所であると同時に短所である。この両者は、じつは合わして一つの有機体を構成しているのであって、究極的には独立に切り離して考えることのできないものである。(略)
 日本人の先祖がどこに生まれ、どこから渡ってきたかは別問題として、有史以来二千有余年、この土地に土着してしまった日本人が、たとえいかなる遺伝的記憶をもっているとしても、その上層を大部分掩蔽(えんぺい)するだけの経験の収穫をこの日本の環境から受け取り、それにできるだけしっくり適応するように努力し、また少なくも、部分的にはそれに成効してきたものであることには疑いがないであろうと思われる。(「日本人の自然観」より)

第三巻 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉  定価:200円
 倭人の名は『山海経』『漢書』『論衡』などの古書に散見すれども、その記事いずれも簡単にして、これによりては、いまだ上代における倭国の状態をうかがうに足(た)らず。しかるにひとり『魏志』の「倭人伝」に至りては、倭国のことを叙することすこぶる詳密にして、しかも伝中の主人公たる卑弥呼女王の人物は、赫灼(かくしゃく)として紙上に輝き、読者をしてあたかも暗黒の裡に光明を認むるがごとき感あらしむ。(略)
 それすでに里数をもってこれを測るも、また日数をもってこれを稽(かんが)うるも、女王国の位置を的確に知ることあたわずとせば、はたしていかなる事実をかとらえてこの問題を解決すべき。余輩は幾度か『魏志』の文面を通読玩索(がんさく)し、しかして後、ようやくここに確乎動かすべからざる三個の目標を認め得たり。しからばすなわち、いわゆる三個の目標とは何ぞや。いわく邪馬台国は不弥国より南方に位すること、いわく不弥国より女王国に至るには有明の内海を航行せしこと、いわく女王国の南に狗奴国と称する大国の存在せしこと、すなわちこれなり。さて、このうち第一・第二の二点は『魏志』の文面を精読して、たちまち了解せらるるのみならず、先輩すでにこれを説明したれば、しばらくこれを措(お)かん。しかれども第三点にいたりては、『魏志』の文中明瞭の記載あるにもかかわらず、余輩が日本学会においてこれを述べたる時までは、何人もかつてここに思い至らざりしがゆえに、また、この点は本論起草の主眼なるがゆえに、余輩は狗奴国の所在をもって、この問題解決の端緒を開かんとす。

第三巻 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉  月末最終号:無料
 九州の西海岸は潮汐満乾の差はなはだしきをもって有名なれば、上に記せる塩盈珠(しおみつたま)・塩乾珠(しおひるたま)の伝説は、この自然的現象に原因しておこれるものならん。ゆえに神典に見えたる彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と火闌降命(ほのすそりのみこと)との争闘は、『魏志』によりて伝われる倭女王と狗奴(くな)男王との争闘に類せる政治的状態の反映とみなすべきものなり。
 『魏志』の記すところによれば、邪馬台国はもと男子をもって王となししが、そののち国中混乱して相攻伐し、ついに一女子を立てて王位につかしむ。これを卑弥呼となす。この女王登位の年代は詳らかならざれども、そのはじめて魏国に使者を遣わしたるは、景初二年すなわち西暦二三八年なり。しかして正始八年すなわち西暦二四七年には、女王、狗奴国の男王と戦闘して、その乱中に没したれば、女王はけだし後漢の末葉よりこの時まで九州の北部を統治せしなり。女王死してのち国中また乱れしが、その宗女壱与(いよ)なる一小女を擁立するにおよんで国乱定まりぬ。卑弥呼の仇敵狗奴国の男王卑弓弥呼(ヒコミコ)は何年に即位し何年まで在位せしか、『魏志』に伝わらざれば、またこれを知るに由なし。しかれども正始八年(二四七)にこの王は女王卑弥呼と戦って勝利を得たれば、女王の嗣者壱与(いよ)の代におよんでも、依然として九州の南部に拠りて、暴威を逞(たくま)しうせしに相違なし。

第三巻 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉  定価:200円
倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う
倭奴国および邪馬台国に関する誤解
 考古界の重鎮高橋健自君逝(い)かれて、考古学会長三宅先生〔三宅米吉。〕の名をもって追悼の文をもとめられた。しかもまだ自分がその文に筆を染めぬ間にその三宅先生がまた突然逝かれた。本当に突然逝かれたのだった。青天の霹靂というのはまさにこれで、茫然自失これを久しうすということは、自分がこの訃報に接した時にまことに体験したところであった。
 自分が三宅先生とご懇意を願うようになったのは、明治三十七、八年(一九〇四・一九〇五)戦役のさい、一緒に戦地見学に出かけた時であった。十数日間いわゆる同舟の好みを結び、あるいは冷たいアンペラの上に御同様南京虫を恐がらされたのであったが、その間にもあの沈黙そのもののごときお口から、ポツリポツリと識見の高邁なところをうけたまわるの機会を得て、その博覧強記と卓見とは心から敬服したことであった。今度考古学会から、先生のご研究を記念すべき論文を募集せられるというので、倭奴国および邪馬台国に関する小篇をあらわして、もって先生の学界における功績を追懐するの料とする。
 史学界、考古学界における先生の遺された功績はすこぶる多い。しかしその中において、直接自分の研究にピンときたのは漢委奴国王の問題の解決であった。うけたまわってみればなんの不思議もないことで、それを心づかなかった方がかえって不思議なくらいであるが、そこがいわゆるコロンブスの卵で、それまで普通にそれを怡土国王のことと解して不思議としなかったのであった。さらに唐人らの輩にいたっては、それをもって邪馬台国のことなりとし、あるいはただちに倭国全体の称呼であるとまで誤解していたのだった。

第三巻 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)  定価:200円
 長いクロワゼットの散歩路が、あおあおとした海に沿うて、ゆるやかな弧を描いている。はるか右のほうにあたって、エストゥレルの山塊がながく海のなかに突き出て眼界をさえぎり、一望千里のながめはないが、奇々妙々を極めた嶺岑(みね)をいくつとなく擁するその山姿は、いかにも南国へ来たことを思わせる、うつくしいながめであった。
 頭をめぐらして右のほうを望むと、サント・マルグリット島とサント・オノラ島が、波のうえにぽっかり浮かび、樅(もみ)の木におおわれたその島の背を二つ見せている。
 この広い入江のほとりや、カンヌの町を三方から囲んで屹立(きつりつ)している高い山々に沿うて、数知れず建っている白亜の別荘は、おりからの陽ざしをさんさんと浴びて、うつらうつら眠っているように見えた。そしてはるか彼方には、明るい家々が深緑の山肌を、その頂から麓のあたりまで、はだれ雪のように、まだらに点綴(てんてい)しているのが望まれた。
 海岸通りにたちならんでいる家では、その柵のところに鉄の格子戸がひろい散歩路のほうに開くようにつけてある。その路のはしには、もう静かな波がうちよせてきて、ザ、ザアッとそれを洗っていた。――うらうらと晴れわたった、暖かい日だった。冬とは思われない陽ざしの降りそそぐ、なまあたたかい小春日和である。輪を回して遊んでいる子供を連れたり、男となにやら語らいながら、足どりもゆるやかに散歩路の砂のうえを歩いてゆく女の姿が、そこにもここにも見えた。

第三巻 第一七号 高山の雪 小島烏水  定価:200円
 古い雪の上に新雪が加わると、その翌る朝などは、新雪が一段と光輝を放ってまばゆく見える。雪は古くなるほど、結晶形を失って、粒形に変化するもので、粒形になると、純白ではなくなる。また粒形にならないまでも、古い雪に白い輝きがなくなるのは、一部は空気を含むことが少ないからで、一部は鉱物の分子だの、塵芥(じんかい)泥土だのが加わって、黄色、灰色、またはトビ色に変わってしまうからだ。ことに日本北アルプスの飛騨山脈南部などでは、硫黄岳という活火山の降灰のために、雪のおもてが、瀝青(チャン)を塗ったように黒くなることがある。「黒い雪」というものは、私ははじめて、その硫黄岳のとなりの、穂高岳で見た。黒い雪ばかりじゃない、「赤い雪」も槍ヶ岳で私の実見したところである。私は『日本アルプス』第二巻で、それを「色が桃紅なので、水晶のような氷の脈にも血管が通っているようだ」と書いて、原因を花崗岩の※爛(ばいらん)した砂に帰したが、これは誤っている。赤い雪は南方熊楠氏の示教せられたところによれば、スファエレラ・ニヴァリス Sphaerella Nivalis という単細胞の藻で、二本のひげがある。水中を泳ぎまわっているが、またひげを失ってまるい顆粒となり、静止してしまう。それが紅色を呈するため、雪が紅になるので、あまり珍しいものではないそうである。ただし槍ヶ岳で見たのも、同種のものであるや否やは、断言できないが、要するに細胞の藻類であることは、たしかであろうと信ずる。ラボックの『スイス風景論』中、アルプス地方に見る紅雪として、あげてあるのも、やはり同一な細胞藻であった。このほかにアンシロネマ Ancylonema という藻がはえて、雪を青色またはスミレ色に染めることもあるそうであるが、日本アルプス地方では、私はいまだそういう雪を見たことはない。

第三巻 第一八号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(一)徳永 直  月末最終号:無料
 昭和十八年(一九四三)三月のある日、私は“嘉平の活字”をさがすため、東京発鹿児島行きの急行に乗っていた。伴(つ)れがあって、七歳になる甥と、その母親の弟嫁とが、むかいあってこしかけているが、厚狭、小月あたりから、海岸線の防備を見せまいためか、窓をおろしてある車内も、ようやく白んできた。戦備で、すっかり形相のかわった下関構内にはいったころは、乗客たちも洗面の水もない不自由さながら、それぞれに身づくろいして、朝らしく生きかえった顔色になっている……。
 と、私はこの小説だか何だかわからない文章の冒頭をはじめるが、これを書いているのは昭和二十三年(一九四八)夏である。読者のうちには、昭和十八年に出版した同題の、これの上巻を読まれた方もあるかと思うが、私が「日本の活字」の歴史をさがしはじめたのは昭和十四年(一九三九)からだから、まもなくひと昔になろうとしているわけだ。歴史などいう仕事にとっては、十年という月日はちょっとも永くないものだと、素人の私にもちかごろわかってきているが、それでも、鉄カブトに巻ゲートルで、サイレンが鳴っても空襲サイレンにならないうちは、これのノートや下書きをとる仕事をつづけていたころとくらべると、いまは現実の角度がずいぶん変わってきている。弱い歴史の書物など、この変化の関所で、どっかへふっとんだ。いまの私は半そでシャツにサルマタで机のまえにあぐらでいるけれど、上巻を読みかえしてみると、やはり天皇と軍閥におされた多くのひずみを見出さないわけにはゆかない。歴史の真実をえがくということも、階級のある社会では、つねにはげしい抵抗をうける。変わったとはいえ、戦後三年たって、ちがった黒雲がますます大きくなってきているし、新しい抵抗を最初の数行から感じずにいられぬが、はたして、私の努力がどれくらい、歴史の真実をえがき得るだろうか?

第三巻 第一九号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(二)徳永 直  定価:200円
 「江戸期の印刷工場」が近代的な印刷工場に飛躍するためには、活字のほかにいくつかの条件が必要である。第一にはバレンでこするかわりに、鉄のハンドでしめつけるプレスである。第二に、速度のある鋳造機である。第三に、バレン刷りにはふさわしくても金属活字に不向きな「和紙」の改良である。そして第四は、もっともっと重要だが、近代印刷術による印刷物の大衆化を見とおし、これを開拓してゆくところのイデオロギーである。特定の顧客であった大名や貴族、文人や墨客から離脱して、開国以後の新空気に胎動する平民のなかへゆこうとする思想であった。
 苦心の電胎字母による日本の活字がつくれても、それが容易に大衆化されたわけではない。のちに見るように「長崎の活字」は、はるばる「東京」にのぼってきても買い手がなくて、昌造の後継者平野富二は大童(おおわらわ)になって、その使用法や効能を宣伝しなければならなかったし、和製のプレスをつくって売り広めなければならなかったのである。つまり日本の近代的印刷工場が誕生するためには、総合的な科学の力と、それにもまして新しい印刷物を印刷したい、印刷することで大衆的におのれの意志を表現しようとする中味が必要であった。たとえばこれを昌造の例に見ると、彼は蒸汽船をつくり、これを運転し、また鉄を製煉し、石鹸をつくり、はやり眼を治し、痘瘡をうえた。活字をつくると同時に活字のボディに化合すべきアンチモンを求めて、日本の鉱山の半分くらいは探しまわったし、失敗に終わったけれど、いくたびか舶来のプレスを手にいれて、これの操作に熟練しようとした。これらの事実は、ガンブルがくる以前、嘉永から慶応までのことであるが、同時に、昌造が活字をつくったとき最初の目的が、まずおのれの欲する中味の本を印刷刊行したいことであった。印刷して、大名や貴族、文人や墨客ではない大衆に読ませたいということであった。それは前編で見たように、彼が幕府から捕らわれる原因ともなった流し込み活字で印刷した『蘭語通弁』〔蘭和通弁か〕や、電胎活字で印刷した『新塾余談』によっても明らかである。

第三巻 第二〇号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(三)徳永 直  定価:200円
 第一に、ダイアはアルファベット活字製法の流儀にしたがって鋼鉄パンチをつくった。凹型銅字母から凸型活字の再生まで嘉平や昌造と同様であるが、字画の複雑な漢字を「流しこみ」による鋳造では、やさしくないということを自覚していること。自覚していること自体が、アルファベット活字製法の伝統でそれがすぐわかるほど、逆にいえば自信がある。
 第二は、ダイアはたとえば嘉平などにくらべると、後に見るように活字製法では「素人」である。嘉平も昌造も自分でパンチを彫ったが、そのダイアは「労働者を使用し」た。(略)
 第三に、ダイアの苦心は活字つくりの実際にもあるが、もっと大きなことは、漢字の世界を分析し、システムをつくろうとしていることである。アルファベット人のダイアは、漢字活字をつくる前に漢字を習得しなければならなかった。(略)
 さて、ペナンで発生したダイア活字は、これから先、どう発展し成功していったかは、のちに見るところだけれど、いまやパンチによる漢字活字が実際的に誕生したことはあきらかであった。そして、嘉平や昌造よりも三十年早く。日本では昌造・嘉平の苦心にかかわらず、パンチでは成功しなかった漢字活字が、ダイアによっては成功したということ。それが、アルファベット人におけるアルファベット活字製法の伝統と技術とが成功させたものであるということもあきらかであった。そして、それなら、この眼玉の青い連中は、なんで世界でいちばん難しい漢字をおぼえ、活字までつくろうとするのか? いったい、サミュエル・ダイアなる人物は何者か? 世界の同志によびかけて拠金をつのり、世界三分の一の人類の幸福のために、と、彼らは、なんでさけぶのか? 私はそれを知らねばならない。それを知らねば、ダイア活字の、世界で最初の漢字鉛活字の誕生したその根拠がわからぬ、と考えた。

第三巻 第二一号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(四)徳永 直  定価:200円
 アジアには十六世紀を前後して銅活字の時代があり、朝鮮でも日本でもおこなわれている。秀吉の朝鮮侵略のみやげものに端を発している家康・家光時代の銅活字印刷があるけれど、それにくらべると、このさし絵に見る康熙帝の印刷局ははるかに大規模で組織的であることがわかる。しかし、日本でも『お湯殿日記』に見るような最初の文選工は「お公卿たち」であったが、支那でもあごひげの長い官人たちであった。明治になって印刷術が近代化されてからでも、印刷工業をおこした人々の多くが、武家など文字になじみのある階級だったように、私の徒弟だったころの先輩の印刷工の多くが、やはり士族くずれだったことを思い出す。(略)
 武英殿の銅活字は康熙帝の孫、高宗〔乾隆帝〕の代になるとつぶされて銅貨となった。日本でも家康時代の銅活字は同じ運命をたどっているけれど、支那のばあいは銅貨の不足が原因といわれている。しかし、もっと大きな原因は金属活字にあって、漢字組織ができないならば、またプレス式の印刷機もないとするならば、むしろ手わざの発達による木版の方が容易であり便利であった。ボディが銅であれ鉛であれ、それが彫刻に過ぎないならば、むしろ木版にしくはない。銅活字がほろびて再び木版術が栄え、極彩色の芸術的な印刷物もできるようになった。康熙・乾隆の時代に見られるこの傾向は、十七世紀の終わりから十八世紀のなかほどまでであるが、江戸中期から木版術が再興し、世界にたぐいない木版印刷術を生み出した日本と時間的にもほぼ一致している――ということも、漢字が持つ共通の宿命がするわざであったろう。

第三巻 第二二号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(五)徳永 直  月末最終号:無料
 『東洋文化史上におけるキリスト教』(三六二ページ)で溝口靖夫氏は、前に述べたメドハーストが(Ibid, P.366)自分の当時の経験を追懐した文章を根拠にして、つぎのように述べているところがある。――第五の困難は、アヘン問題と宣教師の関係であった。メドハーストが広東に着いた一八三五年は、アヘン戦争の直前であり、支那と英国のあいだに険悪な空気がみなぎっていた。このときにあたって宣教師たちは、きわめて困難なる立場に置かれた。宣教師たちは、しばしばアヘンを積んだ船に乗ってきた。しかも、メドハーストらは切符は買っているが、積荷について容嘴(ようし)する権利はなかった。……宣教師は、英国人と支那人との間に立って、しばしば通訳の労をとらねばならなかったが、こんなとき支那人はアヘン貿易は正義にかなえるものなりや否や? をただすのであった。……ゆえに当時、宣教師たちのこいねがったのは、一艘の伝道用船を得ることであった。これによりアヘンの罪悪からまぬがるることであった。――一艘の伝道船で、アヘンから逃れることはできないけれど、一口にいって「インドからの手紙」は、英国議会をして宣教師らの活動を保証させる決議案をパスさせながら、こんどは「信教の自由憲章」を勝ち取らねばならぬほどそれが首かせになったことを示している。つまり、産業革命が生み出したアルファベット人種の革命的進歩性は、おなじ産業革命が生み出した「アヘンの罪悪」と衝突しなければならなかったが、この矛盾こそ資本主義の矛盾の中味であり、限界であった。

第三巻 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治  定価:200円
「ですから、もしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを大きな乳の流れと考えるなら、もっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油(あぶら)の球にもあたるのです。(略)」
 先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズをさしました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶが、みんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いので、わずかの光る粒、すなわち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒すなわち星がたくさん見え、その遠いのはボウッと白く見えるという、これがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、また、その中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この次の理科の時間にお話しします。では今日はその銀河のお祭りなのですから、みなさんは外へ出て、よく空をごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。
 そして教室じゅうはしばらく机のふたをあけたりしめたり本をかさねたりする音がいっぱいでしたが、まもなく、みんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。 

第三巻 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治  定価:200円
 そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルと転轍器(てんてつき)の灯をすぎ、小さな停車場に止まりました。
 その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示し、その振子は、風もなくなり汽車も動かずしずかなしずかな野原のなかに、カチッカチッと正しく時をきざんで行くのでした。
 そしてまったくその振子の音の間から遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れてくるのでした。「新世界交響楽だわ。」むこうの席の姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言いました。まったくもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。
(こんなしずかないいところで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい。僕といっしょに汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかり話しているんだもの。僕はほんとうにつらい。)
 ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして、むこうの窓の外を見つめていました。
 透きとおったガラスのような笛が鳴って、汽車はしずかに動き出し、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛をふきました。

第三巻 第二五号 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治  定価:200円
 空が青くすみわたり、ドングリはピカピカしてじつにきれいでした。
「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山ねこが、すこし心配そうに、それでもむりに威張(いば)って言いますと、ドングリどもは口々にさけびました。
「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」もうみんな、ガヤガヤガヤガヤ言って、なにがなんだか、まるで蜂の巣をつっついたようで、わけがわからなくなりました。そこで山猫がさけびました。
「やかましい! ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ!」

第三巻 第二六号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(六)徳永 直  定価:200円
 活字が日本に渡るには、他の条件が必要であった。そして、その他の条件のうちもっとも大きなものは、やはり文久二年・一八六二年の日本幕府がはじめてやった貿易船千歳丸の上海入港であったろう。(略)経済的にいえばこの貿易は失敗したけれど、不馴れな幕府の役人たちは積荷をそのまま持ち戻るはめにもなったけれど、オランダの役人につれられて各国の領事たちにあったり、諸外国人の活動ぶりを見てびっくりした。たとえばこれを便乗者・高杉一人の場合に見てもあきらかである。(略)その後二年あまりで、攘夷の中心長州藩が領民に洋品使用の禁を解き、薩摩や佐賀と前後して海外貿易を営なんだ急角度の転回も、したがって「薩長締盟」を可能にした思想的背景も、このときの千歳丸便乗によって彼が上海で感得したものによるところ、はなはだ多いといわれている。
 (略)第一回の千歳丸のときは高杉のほかに中牟田や五代〔五代友厚か。〕や浜松藩の名倉(なぐら)予可人(あなと)などあったが、第二回の健順丸のときは、前巻でなじみの昌造の同僚で長崎通詞、安政開港に功労のあった森山多吉郎、先の栄之助がいまは外国奉行支配調役として乗り組んでいたし、第三回目、慶応三年(一八六七)の同じく幕府船ガンジス号のときは、佐倉藩士高橋作之助〔猪之助か。(のちの由一)ら多数があり、たび重なるにつれて上海渡航者の数は急速に増えていった。(略)
 また、官船以外の密航者、あるいは藩所有の船修理と称して渡航する者もたくさんあった。(略)さては中浜万次郎を案内に立てて汽船を買いに来た土佐藩の後藤象次郎などと、千歳丸以後は「きびす相ついで」いる(略)。

第三巻 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫  月末最終号:無料
黒川能・観点の置き所
 特殊の舞台構造
 五流の親族
 能楽史をかえりみたい
 黒川の能役者へ
村で見た黒川能
能舞台の解説
春日若宮御祭の研究
 おん祭りの今と昔と
 祭りのお練り
 公人の梅の白枝(ずはえ)
 若宮の祭神
 大和猿楽・翁
 影向松・鏡板・風流・開口
 細男(せいのお)・高足・呪師

 山形県には、秋田県へかけて室町時代の芸能に関した民俗芸術が多く残っております。黒川能は、その中でも著しいものの一つで、これと鳥海山の下のひやま舞い〔杉沢比山舞か。〕との二つは、特に皆さまに見ていただきたいものであります。この黒川能が二十数年ぶりでのぼってくるのであります。世話をしてくださった斎藤氏〔斎藤香村か。〕に感謝しなければならないと思います。
 特にこの能で注意しなければならないのは、舞台構造であります。京都の壬生念仏を思わせるような舞台で、上下の廊下が橋掛りになっており、舞台の正面には春日神社の神殿をひかえているのであります。(略)奉仕する役者はというと、上座と下座が二部落にわかれており、ここで能をするときは、上座は左橋掛り(正面から見て)から出て舞い、下座は右橋掛りから出て舞うことになっている。これはもっとも大きな特徴で、今度の公演にいくぶんでも実現できれば結構だと思います。この神前演奏の形は、春日の若宮祭りの第一日の式と同形式といっていいと思います。しかも、黒川ではつねにその形式をくり返しているわけで、見物人よりも神に対する法楽を主としていることがわかります。
(略)おもしろいのは狂言です。表情にも言語にも必ず多少の驚きを受けられるでしょう。ことに方言的な言い回しなどには、つい、われわれも見ていて釣りこまれるものがありました。(「黒川能・観点の置き所」より)

第三巻 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎  定価:200円
面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
能面の様式 / 人物埴輪の眼
(略)しかし「意味ある形」、たとえば「甲冑」を円筒上の人物に着せたとなると、その甲冑は、四肢などに対するとはまったく段ちがいの細かな注意をもって表現されている。(略)それはこの鉄の武器が、人体などよりもはるかに強い関心の対象であったことを示すものであって、いかにも古墳時代の感じ方らしい。(略)
(略)埴輪(はにわ)人形を近くからでなく、三間、五間、あるいはそれ以上に、ときには二、三十間の距離を置いて、ながめてみる必要があると思う。それによって埴輪人形の眼はじつに異様な生気をあらわしてくるのである。もし、この眼が写実的に形作られていたならば、すこし遠のけば、はっきりとは見えなくなるであろう。しかるにこの眼は、そういう形づけを受けず、そばで見れば粗雑に裏までくりぬいた空洞の穴にすぎないのであるが、遠のけば遠のくほど、その粗雑さが見えなくなり、魂の窓としての眼の働きが表面へ出てくる。それが異様な生気を現わしてくるゆえんなのである。眼にそういう働きがあらわれれば、顔面は生気をおび、埴輪人形全体が生きてくるのはもちろんである。古墳時代の人々はそういうふうにして埴輪の人形を見、また、そういうふうに見えるものとして埴輪の人形を作ったのであった。

第三巻 第二九号 火山の話 今村明恒  定価:200円
 桜島噴火はいちじるしい前徴を備えていた。数日前から地震が頻々(ひんぴん)におこることは慣例であるが、今回も一日半前から始まった。また七、八十年前から土地がしだいに隆起しつつあったが、噴火後は元どおりに沈下したのである。そのほか、温泉・冷泉がその温度を高め、あるいは湧出量を増し、あるいは新たに湧出し始めたようなこともあった。
 霧島火山群は東西五里にわたり二つの活火口と多くの死火山とを有している。その二つの活火口とは矛の峰(高さ一七〇〇メートル)の西腹にある御鉢(おはち)と、その一里ほど西にある新燃鉢(しんもえばち)とである。霧島火山はこの二つの活火口で交互に活動するのが習慣のように見えるが、最近までは御鉢が活動していた。ただし享保元年(一七一六)における新燃鉢の噴火は、霧島噴火史上においてもっとも激しく、したがって最高の損害記録をあたえたものであった。
 磐梯山(高さ一八一九メートル)の明治二十一年(一八八八)六月十五日における大爆発は、当時、天下の耳目を聳動(しょうどう)せしめたものであったが、クラカトアには比較すべくもない。このときに磐梯山の大部分は蒸気の膨張力によって吹き飛ばされ、堆積物が渓水をふさいで二、三の湖水を作ったが、東側に流れ出した泥流のために土地のみならず、四百余の村民をも埋めてしまったのである。

第三巻 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 上の巻
   序文
    過去の時代(序文の第一段)
    『古事記』の企画(序文の第二段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
   一、イザナギの命とイザナミの命
    天地のはじめ
    島々の生成
    神々の生成
    黄泉の国
    身禊
   二、アマテラス大神とスサノオの命
    誓約
    天の岩戸
   三、スサノオの命
    穀物の種
    八俣の大蛇
    系譜
 スサノオの命は、かようにして天の世界から逐(お)われて、下界へ下っておいでになり、まず食物をオオゲツ姫の神にお求めになりました。そこでオオゲツ姫が鼻や口、また尻からいろいろのごちそうを出して、いろいろお料理をしてさしあげました。この時にスサノオの命はそのしわざをのぞいて見て、きたないことをして食べさせるとお思いになって、そのオオゲツ姫の神を殺してしまいました。殺された神の身体にいろいろの物ができました。頭にカイコができ、二つの目に稲種ができ、二つの耳にアワができ、鼻にアズキができ、股の間にムギができ、尻にマメができました。カムムスビの命が、これをお取りになって種となさいました。
 かくてスサノオの命は逐いはらわれて出雲の国の肥(ひ)の川上、鳥髪(とりかみ)という所におくだりになりました。このときに箸(はし)がその河から流れてきました。それで川上に人が住んでいるとお思いになってたずねて上っておいでになりますと、老翁と老女と二人があって少女を中において泣いております。そこで「あなたは誰ですか?」とおたずねになったので、その老翁が、「わたくしはこの国の神のオオヤマツミの神の子でアシナヅチといい、妻の名はテナヅチ、娘の名はクシナダ姫といいます」と申しました。また「あなたの泣くわけはどういう次第ですか?」とおたずねになったので「わたくしの女(むすめ)はもとは八人ありました。それを高志(コシ)の八俣の大蛇(おろち)が毎年きて食べてしまいます。今また、それの来る時期ですから泣いています」と申しました。

第三巻 第三一号 現代語訳『古事記』(二)武田祐吉(訳)  月末最終号:無料
 古事記 上の巻
   四、大国主の命
    兎と鰐
    赤貝姫と蛤貝姫
    根の堅州国(かたすくに)
    ヤチホコの神の歌物語
    系譜
    スクナビコナの神
    御諸山の神
    大年の神の系譜
   五、アマテラス大神と大国主の命
    天若日子(あめわかひこ)
    国譲り
   六、ニニギの命
    天降り
    猿女の君
    木の花の咲くや姫
   七、ヒコホホデミの命
    海幸と山幸
    トヨタマ姫
スクナビコナの神 そこで大国主の命が出雲の御大(みほ)の御埼(みさき)においでになった時に、波の上をツルイモのさやを割って船にして、蛾(が)の皮をそっくりはいで着物にして寄ってくる神さまがあります。その名を聞きましたけれども答えません。また、御従者(おとも)の神たちにおたずねになったけれども、みな知りませんでした。ところがヒキガエルが言うことには、「これはクエ彦がきっと知っているでしょう」と申しましたから、そのクエ彦を呼んでおたずねになると、「これはカムムスビの神の御子でスクナビコナの神です」と申しました。よってカムムスビの神に申し上げたところ、「ほんとにわたしの子だ。子どもの中でも、わたしの手の股からこぼれて落ちた子どもです。あなた、アシハラシコオの命と兄弟となってこの国を作り固めなさい」とおおせられました。それで、それから大国主とスクナビコナとお二人が並んでこの国を作り固めたのです。後にはそのスクナビコナの神は、海のあちらへ渡って行ってしまいました。このスクナビコナの神のことを申し上げたクエ彦というのは、今いう山田のカカシのことです。この神は足は歩きませんが、天下のことをすっかり知っている神さまです。
御諸山の神 そこで大国主の命が心憂く思っておおせられたことは、「わたしはひとりではどのようにしてこの国を作り得ましょう。どの神さまといっしょにわたしはこの国を作りましょうか?」とおおせられました。この時に、海上を照らして寄ってくる神さまがあります。その神のおおせられることには、「わたしに対してよくおまつりをしたら、わたしがいっしょになって国を作りましょう。そうしなければ国はできにくいでしょう」とおおせられました。そこで大国主の命が申されたことには、「それなら、どのようにしておまつりをいたしましょう?」と申されましたら、「わたしを大和の国の青々と取り囲んでいる東の山の上におまつりなさい」とおおせられました。これは御諸(みもろ)の山においでになる神さまです。

第三巻 第三二号 現代語訳『古事記』(三)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 中の巻
   一、神武天皇
    東征
    速吸の門
    イツセの命
    熊野から大和へ
    久米歌
    神の御子
    タギシミミの命の変
   二、綏靖天皇以後八代
    綏靖天皇
    安寧天皇
    懿徳天皇
    孝昭天皇
    孝安天皇
    孝霊天皇
    孝元天皇
    開化天皇
   三、崇神天皇
    后妃と皇子女
    美和の大物主
    将軍の派遣
   四、垂仁天皇
    后妃と皇子女
    サホ彦の反乱
    ホムチワケの御子
    丹波の四女王
    時じくの香の木の実
 この天皇〔崇神天皇〕の御世に、流行病がさかんにおこって、人民がほとんどつきようとしました。ここに天皇は、ご憂慮あそばされて、神をまつってお寝みになった晩に、オオモノヌシの大神がお夢にあらわれておおせになるには、「かように病気がはやるのは、わたしの心である。これはオオタタネコをもってわたしを祭らしめたならば、神のたたりが起こらずに国も平和になるだろう」とおおせられました。そこで急使を四方に出してオオタタネコという人を求めたときに、河内の国の美努(みの)の村でその人を探し出してたてまつりました。(略)そこで天皇が非常にお歓びになっておおせられるには、「天下が平らぎ人民が栄えるであろう」とおおせられて、このオオタタネコを神主として御諸山(みもろやま)でオオモノヌシの神をおまつり申し上げました。(略)これによって疫病がやんで国家が平安になりました。
 このオオタタネコを神の子と知ったしだいは、上に述べたイクタマヨリ姫は美しいお方でありました。ところが形姿・威儀並びなき一人の男が夜中にたちまち来ました。そこでたがいに愛でて結婚して住んでいるうちに、何ほどもないのにその嬢子(おとめ)が妊(はら)みました。そこで父母が妊娠したことを怪しんで、その娘に、「お前は自然に妊娠した。夫がないのにどうして妊娠したのか?」とたずねましたから、答えて言うには「名も知らないりっぱな男が夜ごとに来て住むほどに、自然に妊みました」と言いました。そこでその父母が、その人を知りたいと思って、その娘に教えましたのは、「赤土を床のほとりに散らし麻糸を針につらぬいてその着物の裾(すそ)に刺せ」と教えました。よって教えたとおりにして、朝になって見れば、針をつけた麻は戸の鉤穴から貫けとおって、残った麻はただ三輪だけでした。そこで鉤穴から出たことを知って糸をたよりにたずねて行きましたら、三輪山に行って神の社にとまりました。そこで神の御子であるとは知ったのです。その麻の三輪残ったのによってそこを三輪というのです。このオオタタネコの命は、神(みわ)の君・鴨(かも)の君の祖先です。 

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