今村明恒 いまむら あきつね
1870-1948(明治3.5.16-昭和23.1.1)
地震学者。理学博士。鹿児島県生まれ。明治38年、統計上の見地から関東地方に大地震が起こりうると説き、大森房吉との間に大論争が起こった。大正12年、東大教授に就任。翌年、地震学科の設立とともに主任となる。昭和4年、地震学会を創設、その会長となり、機関誌『地震』の編集主任を兼ね、18年間その任にあたる。

◇参照:Wikipedia、『日本人名大事典』(平凡社)。
◇表紙絵・挿絵:恩地孝四郎。



もくじ 
火山の話 今村明恒


ミルクティー*現代表記版
火山の話 今村明恒
   一、はしがき
   二、火山のあらまし
   三、噴出物
   四、噴火の模様

オリジナル版
火山の話 今村明恒

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
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*凡例
〈 〉:割り注、もしくは小書き。
〔 〕:編者(しだ)注。

*底本
底本:『星と雲・火山と地震』復刻版 日本児童文庫、名著普及会
   1982(昭和57)年6月20日 発行
親本:『星と雲・火山と地震』日本兒童文庫、アルス
   1930(昭和5)年2月15日 発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1578.html

NDC 分類:K450(地球科学.地学)
http://yozora.kazumi386.org/4/5/ndck450.html
NDC 分類:K453(地球科学.地学/地震学)
http://yozora.kazumi386.org/4/5/ndck453.html




火山かざんはなし

今村いまむら明恒あきつね


   一、はしがき

 わが日本は地震じしんの国といわれている。また火山の国ともいわれている。地震や火山が多いからとておくに自慢まんにもなるまいし、強い地震やはげしい噴火ふんかがたびたびあるからとて、外国にほこるにもあたるまい。実際このごろのように地震、火災かさい、噴火などになやまされつづきでは、かえってずかしい感じもおこるのである。ただ、われわれ日本人としてはかような天災てんさいくっすることなく、むしろ人力をもってその災禍さいかをないようにしたいものである。かくするには地震や火山の何物なにものであるかをきわめることが第一である。いわゆる敵情てきじょう偵察ていさつである。敵情がことごとくわかったならば、災禍さいかをひきおこすところのかの暴力を打ちくだくことも出来できよう。この目的を達してこそ、われわれは他国人に対してずかしいという感じからはじめてまぬかられるであろう。
 火山や地震は強敵きょうてきである。強敵を見ておそれずとは戦争だけに必要な格言かくげんでもあるまい。昔の人はこれらの自然現象をかなり恐れたものである。火山の噴火ふんか鳴動めいどう神業かみわざと考えたのは日本ばかりではないが、特に日本においてはそれがかなり徹底てっていしている。まず第一に、噴火口を神の住みたまえる霊場れいじょう心得こころえたことである。たとえば阿蘇山あそさんの活動の中心たる中岳なかだけは南北に長い噴火口をゆうし、通常、熱湯ねっとうをたたえているが、これが数個に区分せられているので北の池を阿蘇あそ開祖かいそとなえられている建磐龍命たけいわたつのみことの霊場とし、なかの池、南の池を、それぞれ奥方おくがた阿蘇津妃命あそつひめのみこと長子ちょうしたる速瓶玉命はやみかたまのみことの霊場と考えられてあった。ちょうどイタリアの南方、リパリ群島ぐんとう中のいち火山島かざんとうたるヴルカーノ島をローマの鍛冶かじかみたるヴルカーノの工場と考えたのと同様である。さらに日本では、火山のぬしが霊場を俗界ぞっかいにけがされることをいとわせたまうがため、そこをきよめる目的をもってときどき爆発をおこし、あるいは鳴動によって神怒しんどのほどをらしめたまうとしたものである。それゆえにこれらの異変があるたびに、奉幣使ほうへいしつかわして祭祀さいしをおこない、あるいは神田しんでん寄進きしんし、あるいは位階いかい勲等くんとうを進めて神慮しんりょをなだめたてまつるのが、朝廷の慣例かんれいであった。たとえば阿蘇あそ建磐龍命たけいわたつのみこと正二位しょうにい勲五等くんごとうにのぼり、阿蘇津妃命あそつひめのみこと正四位しょうしいに進められたがごときである。
 天台宗てんだいしゅうの寺院は、高地こうちに多くもうけてあるが、火山もまた彼らのせんれなかった。したがってめずらしい火山現象の、これらの僧侶そうりょによって観察せられた例もすくなくない。阿蘇あその霊地からはたまが三つ飛び出たともいい、また性空しょうくう上人しょうにん霧島きりしまの頂上に参籠さんろうして神体を見届みとどけたという。それによれば周囲三じょう、長さ十余丈よじょうつの枯木こぼくのごとく、日月にちげつのごとき大蛇おろちなりきと。鳥海ちょうかいまたは阿蘇あその噴火に大蛇おろちがしばしばあらわれるのも、迷信からおこった幻影げんえいにほかならないのである。ハワイ島の火山キラウエアからは女神めがみペレーのなみだ毛髪もうはつが採集せられ、鳥海山ちょうかいさんは石の矢尻やじり噴出ふんしゅつしたといわれている。神話にある八股やまた大蛇おろちのごときもまた噴火ふんかに関係あるものかもしれぬ。
 火山に関する迷信がこのように国民の脳裏のうりを支配している間、学問がまったく進歩しなかったのは当然である。昔の雷公らいこう今日こんにちわれわれの忠実ちゅうじつ使役しえきをなすのに、火山のかみのみ頑固がんこにおわすべきはずがない。火山地方の地下熱の利用などもあることだから、使いようによっては人生に利益をあたえる時代もやがて到着とうちゃくするであろう。

   二、火山かざんのあらまし

 わが日本には火山はめずらしくないから、他国においても一両日いちりょうじつ行程内こうていないに火山のない所はあるまいなどと思われるかもしれないが、実際はそういうふうになっていない。たとえば現在活動中の火山は南北アメリカしゅうでは西の方の太平洋沿岸だけに一列にならんでおり、中部アメリカ地方では二条にじょうになって右の南北線につながっている。だいたい太平洋沿岸地方は火山の列をもって連絡れんらくを取っているので、わが国の火山列も、千島ちしま、アレウト群島ぐんとう〔アリューシャン列島。てアメリカの火山列につながっているのである。その他、欧州おうしゅうにはイタリアに四個、ギリシャに一個、有名な活火山かつかざんがあり、そのほかにはイスランド〔アイスランド。に数個あるきりで、北米の東部、あるいは欧州おうしゅうの北部にいる人には、火山現象を目撃することが容易よういでない。太平洋の中央部、特にハワイ島にはキラウエアという有名な活火山があるが、活火山にもっとも豊富ほうふな場所はジャワ島である。ここには活火山だけの数が四十個もかぞえられるといわれている。わが国も活火山にはかなりんでいるけれども、ジャワにはおよぶべくもない。
 こころみに世界においてある活火山をあげてみるならば、南米エクアドルこくにおけるコトパクシ(高さ五九四三メートル)は、円錐形えんすいけい偉大いだいな山であるが、噴火の勢力もまた偉大で、溶岩ようがん破片はへん六里ろくりの遠距離にき飛ばしたという、この点についての記録保持者ほじしゃである。またその噴火の頻々ひんぴんな点においても有名である。
 西インドの小アンチル群島ぐんとう中にあるマルチニック島の火山プレー(高さ一三五〇メートル)は、その西暦一九〇二年五月八日の噴火において、赤熱せきねつした噴出物ふんしゅつぶつをもって山麓さんろくにある小都会サンピール市〔サン・ピエール。おそい、二万六千の人口中、地下室に監禁かんきんされていた一名の囚徒しゅうとのぞくほか、こぞって死滅しめつしたことにおいて有名である。ヴェスヴィオ噴火によるポンペイ全滅ぜんめつ惨事さんじにまさるともおとることなきほどの出来事であった。このとき、噴火口内に出現した高さ二百メートルの溶岩塔ようがんとうも珍しいものであったが、それは噴火の末期においてしだいに崩壊ほうかい消失してしまった。
 ハワイのキラウエア火山(高さ一二三五メートル)は、ハワイ島の主峰しゅほうマウナ・ロア火山の側面そくめん寄生きせいしているものであるが、通常の場合、その噴火口に溶岩をたし、しかもこの溶岩が流動して種々の奇観きかんていするので、観光客をえずひきつけている。火山毛かざんもうはその産物さんぶつとしてもっとも有名である。山上に有名な火山観測所がある。また観光客のためにひらいた旅館もあり、ハワイ島の船着ふなつヒロからここまで四里よりの間、自動車にておもしろい旅行もできる。

 マウナ・ロアは四一九四メートルの高さをもっており、わが国の富士山ふじさんよりも四〇〇メートル以上高いから、読者はその山容さんようとして富士形の円錐形えんすいけいを想像せられるであろうが、じつにあらず、むしろ正月のお備餅そなえもちに近い形をしている。あるいは饅頭形まんじゅうがたとでも名づくべきであろうか。山側さんそく傾斜けいしゃはわずかに六度ないし八度にすぎない。これはその山体さんたいを作っている岩石(玄武岩げんぶがん)の性質によるものであって、そのけているさいは比較的に流動しやすいからである。昭和二年(一九二七)、大噴火をなしたときも噴火口から流れ出る溶岩ようがんが、あたかも渓水たにみずの流れのように一瀉いっしや千里せんりのいきおいをもってくだったのである。もっとも山麓さんろくに近づくにしたがい、温度もくだりついには暗黒あんこくな固体となって速さもにぶったけれども。

 スマトラとジャワとの間、スンダ海峡かいきょうにクラカトアという直径二里にりほどの小島があった。これが西暦一八八三年に大爆裂だいばくれつをなして、島の大半をき飛ばし、あとには高さわずかに八一六メートルの小火山島かざんとうを残したのみである。このときにおこった大気たいき波動はどうは世界を三週半するまで追跡ついせきられ、海水の動揺どうよう津波つなみとして全地球上ほとんどいたるところで観測せられた。また大気中に混入こんにゅうした灰塵かいじんは太陽を赤色せきしょくに見せること数週間におよんだ。じつに著者のごときも日本においてこの現象を目撃した一人である。

 ジャワ島のパパンダヤング火山は西暦一七七二年の噴火において、わずかに一夜いちやの間に二七〇〇メートルの高さから一五〇〇メートルにげんじ、き飛ばしたものによって四十か村を埋没まいぼつしたという。おそらくはこれが有史ゆうし以来のもっとも激烈げきれつな噴火であったろう。
 イタリアでもっとも著名な火山はヴェスヴィオ(高さ一二二三メートル)であるが、これが世界的にもまた著名であるのは、西暦紀元七十九年の大噴火において、ポンペイ市を降灰こうはいにて埋没まいぼつしたこと、有名な大都市ナポリに接近せっきんしているため見学に便利なこと、およそ三十年くらいにて活動の一循環いちじゅんかんをなし、噴火現象多種しゅ多様たようにて研究材料豊富ほうふなること、登山鉄道、火山観測所、旅館の設備せつび完全せるとうによるものである。著者が七年前に見たときは、つぎの大噴火は、あるいは十年以内ならんかとの意見が多かったが、この年の九月三十日に見たときは、大噴火の時機じき切迫せっぱくしているように思われた。あるいは数年内に大爆発をなすことがないともかぎらぬ。
 イタリアの地形は長靴ながぐつのようだとよくいわれていることであるが、その爪先つまさきに石ころのようにシシリー島がよこたわっており、爪先から砂を蹴飛ばしたようにリパリ火山群島ぐんとうがある。そのうち活火山かつかざんはストロムボリ(高さ九二六メートル)とヴルカーノ(高さ四九九メートル)との二個であるが、前者は有史以来まだ一日も活動を休止したことがないというので有名であり、後者は前にもしるしたとおり、火山なる外国語の起原きげんとなったくらいである。このほかイタリアにはシシリー島にエトナ火山(高さ三二七四メートル)があり、以上イタリアの四火山、いずれもわが日本郵船ゆうせん会社の航路こうろにあたっているので、甲板上かんぱんじょうから望見ぼうけんするにはすこぶる好都合こうつごうである。もし往航おうこうならばまず左舷さげんのかなたにエトナが高く屹立きつりつしているのを見るべく、六、合目ごうめ以上は無傷むきず円錐形えんすいけいをしているので富士を思い出すくらいであるが、それ以下には二百以上の寄生きせい火山が簇立ぞくりつしているので鋸歯状きょしじょう輪郭りんかくが見られる。この山は平均十年ごとに一回ぐらい爆発し、山側さんそくしょうずるのかなたこなたを中心として溶岩ようがんを流し、あるいは噴出物ふんしゅつぶつによって小円錐形えんすいけい寄生きせい火山を形作かたちづくるなどする、つぎに郵船ゆうせんがメシナ海峡かいきょう〔メッシーナ海峡。を通過すると、はるか左舷さげん鋸山式のこぎりやましきのヴルカーノが見える。さらに進むと航海者こうかいしゃには地中海の灯台とうだいとよばれ、漁猟者ぎょりょうしゃには島の晴雨計せいうけい〔気圧計の旧称。と名づけられているストロムボリが見える。この火山島は直径わずかに三キロメートルの小円錐しょうえんすいであって、その北側に人口二五〇〇の町があり、北西八合目ごうめに噴火口がある。火孔かこうは三個並立へいりつして溶岩をたたえ、数分間おきにこれをき飛ばしている。もしそこを通過するのが夜であるならば、き飛ばされた赤熱せきねつ溶岩が斜面しゃめんを流れくだって、あるいは途中とちゅうで止まり、あるいは海中まで進入するのが見られるが、日中ならば斜面を流下りゅうかする溶岩が水蒸気のをひくので、これによってそれと気づかれるのみである。この火山の噴出時における閃光せんこうは遠く百海里かいり〔一海里は一八五二メートル。らすので、そこでストロムボリが地中海の灯台とうだいとよばれる所以ゆえんである。かくてこれらの展望てんぼうをほしいままにしたわが郵船ゆうせんはナポリ港に到着とうちゃくし、ヴェスヴィオを十分に見学し機会きかいもとらえられるのである。まず頂上からえずき出す蒸気じょうきや火山灰によってすぐにそれがヴェスヴィオなることが気づかれるが、それと同時にいまひとつ左方さほう並立へいりつして見えるとがった山を見落としてはならぬ。山名さんめいはソムマといわれているが、これがソムマすなわち外輪山がいりんざんという外国語のこりである。地図で見るソムマはヴェスヴィオをなかば抱擁ほうようした形をしている。すなわち不完全な外輪山であって、もしそれが完全ならば中央にある円錐状えんすいじょうの火山を全部抱擁ほうようする形になるのである。ヴェスヴィオは西暦七十九年の大噴火だいふんか前までは、このソムマの外側を引きのばしたほどの一個の偉大いだいな円錐状の火山であったのが、あのおりの大噴火のために東南側の大半をき飛ばし、その中央に現在のヴェスヴィオを中央火口丘かこうきゅうとして残したものと想像されている。ポンペイの遺跡いせきは山の中央から南東九キロメートルの遠距離にあるが、これはそのときりつづいた降灰こうはいによって全部埋没まいぼつせられ、その後幾百年のあいだその所在地が見失みうしなわれていたが、西暦一七四八年、一農夫のうふの偶然な発見によりついに今日こんにちのようにほとんど全部発掘はっくつされることになったのである。ポンペイのほろびた原因が降灰にあることは、空中から見た写真でもわかるとおり、各家屋かおくの屋根は全部けていて、四壁しへき完備かんびしていることによってもわかるが、西暦一九〇六年の大噴火のとき、わずかに三十分間同方向どうほうこうつづいた火山灰が、山の北東にあるオッタヤーノの町に九十センチメートルもつもり、多くの屋根をいて二二〇人の死人しにんしょうじたことによっても、うなずかれるであろう。こういうふうの家屋かおく被害ひがいと、放射ほうしゃされた噴出物によって破壊はかいせられたサンピール市街しがい零落れいらくとはいちじるしい対照たいしょうである。もし昨日まで繁昌はんじょうしたサンピールの旧市街きゅうしがい零落したあとを噴出物流動の方向からながむれば、残ったかべ枯木林かれきばやしのように見え、それに直角の方向から見ると壁の正面整列せいれつが見られたという。



 ヴェスヴィオに登山した人は、通常、火口内には暗黒あんこくに見える溶岩ようがん平地へいちを見い出すであろう。これはえず蒸気じょうき、火山灰、溶岩とうき出す中央の小丘しょうきゅうからあふれ出たものであって、かかる平地を火口原かこうげんと名づけ、外輪山がいりんざんに対する中央の火山を中央火口丘かこうきゅうと名づける。わが富士山ふじさんのごとく外輪山を持たない火山は単式たんしきであるが、ヴェスヴィオのごとく外輪山をゆうするものは複式ふくしきである。

 われわれはこれまで海外の著名な火山を一巡いちじゅんしてきた。これから国内にて有名な活火山かつかざんを一巡してみたい。
 有史以前には噴火ふんかした証跡しょうせきゆうしながら、有史以来一回も噴火したことのない火山の数はなかなか多い。箱根山はこねやまのごときがその一例である。われわれはこのしゅの火山を死火山しかざんあるいは旧火山きゅうかざんと名づけて、有史以来噴火ふんかした歴史をもっている活火山と区別している。ただし、われわれの歴史は火山の寿命じゅみょうに比較すればきわめて短い時間であるから、現在、死火山と思われているものも、数百年あるいは数千年の休息きゅうそく状態をつづけたのち、突然とつぜん活動を開始するものがないともかぎらぬ。これは文化が開けてからあまり多くの年数をない場所、たとえば北海道などの死火山にはありべきことである。

 歴史年代に噴火した実例じつれいをもっていながら、現在、噴火を休止しているものと、活動中のものとあるが、前者を休火山きゅうかざんと名づけて活火山と区別している人もあるけれども、本編ほんぺんにおいては全部これを活火山と名づけて必要のあった場合にきゅうかつの区別をなすことにする。ただ、ここにことわりをようすることは噴火という言葉の使い方である。文字からいえば火をくとなるけれども、これはえる火をさすのではない。もちろん、きわめてまれな場合には噴出ふんしゅつせられたガスがえることがないでもないが、一般いっぱんに火と思われているのは赤熱せきねつした溶岩である。ただし、これが赤熱していなくとも噴火たることに変わりはない。たとえば粉末ふんまつとなった溶岩、すなわち火山灰のみをき出すときでもそうである。しかしながらたん蒸気じょうき、ガスまたは硫気りゅうき噴出ふんしゅつするだけでは噴火とはいわないで、蒸気孔じょうきこうまたは硫気孔りゅうきこうの状態にありといっている。箱根山はこねやまは形からいえば複式ふくしき火山、経歴けいれきからいえば死火山、外輪山は金時きんとき明神みようじん明星みょうじょう鞍掛くらかけ三国みくに諸山しょざん、中央火口丘は冠岳かんむりだけ駒ヶ岳こまがたけ二子山ふたごやま神山かみやまとう、そうして最後の活動場所が大涌谷おおわくだにであって、ここには今なお蒸気孔じょうきこう硫気孔りゅうきこうが残っている。
 日本における活火山の両大関りょうおおぜき、東の方を浅間山あさまやまとすれば、西は阿蘇山あそさんである。中にも阿蘇あそはその外輪山がいりんざん雄大ゆうだいなことにおいて世界第一といわれている。すなわちその直径は東西四里・南北五里におよび、ここに阿蘇あそ一郡いちぐん四万の人がまっている。ただし噴火はこの火口全体からおこったのではなく、周囲の土地の陥没かんぼつによってかくひろがったものだという。この広き外輪山の中にいくつかの中央火口丘があるが、それがいわゆる阿蘇あそ五岳ごがくである。これらはおもに東西線と南北線とに並列へいれつしているが、中央の交差点にあたる場所に現在の活火口かつかこうたる中岳なかだけ(高さ一六四〇メートル)がある。この中岳なかだけの火口は前にしるしたとおり、南北に連続れんぞくした数個の池から成立なりたち、おもなものとして、きたなかみなみの三つを区別する。阿蘇あそはこの百年ぐらいの間、平均十一年目に活動をくりかえしているが、それはその三つの池のいずれかが活気かっきていするによるものである。しかしながら、まれにはほかの場所からき出すこともある。火口の池が休息の状態にある時は、たいてい濁水だくすいをたたえているが、これが硫黄いおうふくむために乳白色にゅうはくしょくともなれば、熱湯ねっとうとなることもある。活動にさきんじて池水ちすい枯渇こかつするのが通常であるけれども、突然爆発ばくはつして池水を氾濫はんらんせしめたこともある。このために阿蘇郡あそぐん南半なんぱんたる南郷谷なんごうだにの水を集めて流れる白川しろかわが文字どおり乳白色となり、魚介ぎょかい死滅しめつせしめることがある。北方阿蘇谷あそだにの水は黒川くろかわに集まり、両方相会あいかいする所で外輪山をやぶ外方がいほうに流れ出る。すなわちこの外輪山のやぶ火口瀬かこうせである。箱根山はこねやまでこれに相当する場所は湯本もと早川はやかわ須雲川すぐもがわ相会あいかいする所である。阿蘇あその活動は右のほか、一般に火山灰を飛ばし、これが酸性さんせいをおびているので、農作物のうさくぶつがいし、これをしょくする牛馬ぎゅうばをもいためることがある。阿蘇あその火山灰はこの地方で「よな」ととなえられているが、被害ひがいたん阿蘇あそのみにとどまらずして、大分県にまでもおよぶことがある。これは空気の上層じょうそうには通常、西風があるので、下層かそうの風向きのいかんにかかわらず、こまかな火山灰はたいてい大気中の上層にり、東方に運ばれるによるからである。

 阿蘇あそは日本の活火山かつかざん中、もっとも登りやすい山であろう。国有鉄道宮地線みやじせん坊中駅ぼうじゅうえきまたは宮地駅みやじえきから緩勾配かんこうばい斜面しゃめんを登ること一里半ぐらいで山頂へ達することができる。頂上近くに茶店ちゃみせ宿屋やどや数軒すうけんあり、冬季とうきでも登攀とうはん不可能でない。ただし、ある意味における世界第一のこの火山においてひとの観測所をもゆうしないことは、外国の学者に対してもずかしく思っていたが、今は京都帝国大学の観測所がここに設立せつりつされている。
 つぎは東の大関おおぜきたる浅間山あさまやま(高さ二五四二メートル、単式たんしき火山)をのぞいて見ることにする。この山も阿蘇あそ同様に噴火の記録も古く、回数もすこぶる多いが、阿蘇あその噴火のだらだらとして女性的なるに対し、これは男性的であるといってもしかるべきである。休息きゅうそく間隔かんかくは比較的に遠いが、一度活動を始めるとなかなかはげしいことをやる。げんに明治四十一年(一九〇八)ごろから始まった活動においては溶岩を西方数十町の距離にまでき飛ばし、小諸こもろからの登山口とざんぐち、七合目にある火山観測所にまで達したこともある。特に天明三年(一七八三)の噴火は激烈げきれつであって、現在、鬼押出おにおしだしと名づけている溶岩流を出したのみならず、熱泥流ねつでいりゅう火口壁かこうへきのもっとも低い場所から一時に多量にあふれさせ、北方上野こうずけくに吾妻川あずまがわ沿うて百数十村をうずめ、一二〇〇人の死者をしょうぜしめた。最初の活動においては火口内の溶岩が、火口壁かこうへきへりまで進み、一時、流出を気づかわれたけれども、ついにそのことなくして、溶岩の水準がふたたび低下してしまったのである。

 このついでにしるしておきたいのは、飛騨ひだ信濃しなのの国境にある硫黄岳いおうだけ一名いちめい焼岳やけだけ(高さ二四五八メートル)である。この山は近時きんじ浅間山あさまやまと交代に活動するかたむきをもっているが、降灰こうはいのためにときどき災害を桑園そうえんにおよぼし、養蚕上ようさんじょう損害そんがいこうむらしめるので、土地の人に迷惑めいわくがられている。
 近ごろの噴火でもっともよく記憶きおくせられているのは桜島さくらじま(高さ一〇六〇メートル)であろう。その大正十二年(一九二三)の噴火においては、山の東側と西側とに東西に走る二条にじょう裂目さけめしょうじ、各線上かくせんじょう五、六の点から溶岩を流出した。この状態はエトナ式としょうすべきである。ただし桜島さくらじまはこういう大噴火を百年あるいは二、三百年の間隔かんかくをもってくりかえすので、したがって溶岩の流出量も多く、前回の場合は一六立方キロメートルと計算せられているが、エトナは西暦一八〇九年ないし一九一一年の十回において合計〇・六一立方キロメートルしか出していない。かくて桜島さくらじまは毎回多量の溶岩を出すので島の大きさもしだいにしてゆくが、今回は東側に出た溶岩がついに瀬戸せと海峡かいきょうをうずめ、桜島さくらじまをして大隅おおすみ一半島いちはんとうたらしめるにいたった。こうして溶岩にあらされた損害そんがいも大きいが、それよりも火山灰のために荒廃こうはいした土地の損害そんがい地盤じばん沈下ちんかによってうしなわれた付近の水田あるいは塩田えんでん損害そんがいはそれ以上であって、鹿児島かごしま県下けんかにおける全被害ぜんひがい一六〇〇万円と計上けいじょうせられた。
 桜島さくらじま噴火はいちじるしい前徴ぜんちょうそなえていた。数日前から地震じしん頻々ひんぴんにおこることは慣例かんれいであるが、今回も一日半前から始まった。また七、八十年前から土地がしだいに隆起りゅうきしつつあったが、噴火後はもとどおりに沈下ちんかしたのである。そのほか、温泉・冷泉れいせんがその温度を高め、あるいは湧出量ゆうしゅつりょうし、あるいはあらたに湧出し始めたようなこともあった。
 霧島きりしま火山群は東西五里にわたり二つの活火口かつかこうと多くの死火山しかざんとをゆうしている。その二つの活火口とはほこみね(高さ一七〇〇メートル)西腹せいふくにある御鉢おはちと、その一里ほど西にある新燃鉢しんもえばちとである。霧島きりしま火山はこの二つの活火口で交互こうごに活動するのが習慣しゅうかんのように見えるが、最近までは御鉢おはちが活動していた。ただし享保元年(一七一六)における新燃鉢しんもえばちの噴火は、霧島きりしま噴火史上においてもっともはげしく、したがって最高の損害そんがい記録をあたえたものであった。
 磐梯山ばんだいさん(高さ一八一九メートル)の明治二十一年(一八八八)六月十五日における大爆発は、当時、天下の耳目じもく聳動しょうどうせしめたものであったが、クラカトアには比較すべくもない。このときに磐梯山ばんだいさんの大部分は蒸気じょうき膨張力ぼうちょうりょくによってき飛ばされ、堆積物たいせきぶつ渓水たにみずをふさいで二、三の湖水こすいを作ったが、東側に流れ出した泥流でいりゅうのために土地のみならず、四百余の村民をもめてしまったのである。

 肥前ひぜん温泉岳うんぜんだけ〔雲仙岳。(高さ一三六〇メートル)はときどき小規模しょうきぼの噴火をなし、少量の溶岩をも流出することがあるが、寛政かんせい四年四月一日(西暦一七九二年五月二十一日)噴火の場所から一里いちりほども離れている眉山まゆやま崩壊ほうかいを、右の磐梯山ばんだいさんの爆発と同じ現象のように誤解ごかいしている人がある。この崩壊ほうかいの結果、有明湾ありあけわん大津波おおつなみをおこし、沿岸地方において合計一万五千人ほどの死者をしょうじた大事件もあったので、原因を軽々かるがるしく断定だんていすることはつつしまねばならぬ。磐梯山ばんだいさん破裂はれつあとには大きな蒸気孔じょうきこうを残し、火山作用は今もなおさかんであるが、眉山まゆやまの場合にはごう右様みぎよう痕跡こんせきとどめなかったのである。
 磐梯山ばんだいさんに近く吾妻山あずまやままたの名一切経山いっさいきょうやま(高さ一九四九メートル)がある。この山が活火山かつかざんであることは明治二十六年(一八九三)いたるまで知られなかったが、この年、突然とつぜん噴火を始めたため死火山しかざんでなかったことが証拠しょうこだてられた。このさい調査に向かった農商務のうしょうむ技師ぎし三浦みうら宗次郎氏そうじろうし同技手どうぎて西山にしやま省吾氏しょうごしが噴火の犠牲ぎせいになった。少年読者は東京上野うえのの博物館におさめてある血染ちぞめの帽子ぼうし上着うわぎとを忘れないようにされたいものである。
 東北地方の活火山に鳥海山ちょうかいさん(高さ二二三〇メートル)岩手山いわてさん(高さ二〇四一メートル)岩木山いわきさん(高さ一六二五メートル)とうがある。いずれも富士形の単式火山であって、歴史年代においてあまり活発かっぱつでない噴火を数回ないし十数回くりかえした。享和きょうわ年間(一八〇一〜一八〇四)鳥海ちょうかい噴火と享保きょうほ年間(一七一六〜一七三六)岩手いわて噴火とにおいては、溶岩を流出せしめたけれども、それもきわめて少量であって、山の中腹ちゅうふくまでも達しないくらいであった。
 大島おおしまという名前の火山島が伊豆いず渡島おしまとにある。伊豆大島おおしまゆうする火山は三原山みはらやま(高さ七五五メートル)と名づけられ、噴火の古い歴史をゆうしている。爆発のちからすこぶる軽微けいびであって、活動中においても、中央火口丘かこうきゅうへ近づくことが容易よういである。渡島おしま大島おおしまも歴史年代に数回の噴火をくりかえしたが、両者ともに火山毛かざんもうさんすることは注意すべきことである。ただし、いずれも暗黒あんこく針状しんじょうのものである。
 北海道には本島ほんとうだけでも駒ヶ岳こまがたけ(高さ一一四〇メートル)十勝岳とかちだけ(高さ二〇七七メートル)有珠山うすさん(高さ七二五メートル)樽前山たるまえさん(高さ一〇二三メートル)の活火山があって、いずれも特色ある噴火をなすのである。そのうち樽前たるまえは明治四十二年(一九〇九)の噴火において、火口からプレー式の溶岩丘ようがんきゅうし出し、それが今なお存在して、時々そのかなたこなたをき飛ばすほどの小爆発をつづけている。また有珠山うすさんの明治四十三年の噴火は数日前から地震を先発せんぱつせしめたので、時の室蘭むろらん警察署長飯田いいだ警視が爆発を未然みぜんさっし、機宜きぎてきする保安上の手段を取ったことは特筆とくひつすべき事柄ことがらである。十勝岳とかちだけも近ごろまで死火山と考えられていた火山の一つであるが、大正十五年(一九二六)突然の噴火をなし、雪融ゆきどけのため氾濫はんらんをおこし、山麓さんろく村落そんらく生霊せいれい〔人々のこと。流亡りゅうぼうせしめたことは、人々の記憶きおくになおあらたなものがあるであろう。

 わが国の陸上の火山を巡見じゅんけんするにあたってどうしてもはぶくことのできないのは、富士山ふじさん(高さ三七七八メートル)であろう。この山が琵琶湖びわことともに一夜いちやにしてできたなどというのは、科学を知らなかった人のこじつけであろうが、富士が若い火山であることには間違ちがいはない。古くは貞観じょうがん年間(八五九〜八七七)、近くは宝永ほうえい四年(一七〇七)にも噴火して、火口の下手しもて堆積たいせきした噴出物ふんしゅつぶつ宝永山ほうえいざん形作かたちづくった。すなわち成長期にあった少女時代の富士も一人の子持こもちになったわけである。やがて多くの子供を持ち、複式ふくしき火山の形ともなり、ついには現在の箱根山はこねやまの状態になるときも来るであろう。
 右のほか、日本の近海きんかいにおいては、ときどき海底の噴火をみとめることがある。伊豆いず南方の洋底ようてい航海中こうかいちゅう船舶せんぱく水柱みずばしら望見ぼうけんし、あるいは鳴動にともなって黒煙くろけむりのあがるのを見ることもあり、付近の海面に軽石かるいしかんでいるのに出会うこともある。大正十三年(一九二四)琉球りゅうきゅう諸島のうち、西表島いりおもてとう北方においても同様の現象を実見じっけんしたことがあった。
 以上のとおり、われわれは内外の活火山をざっと巡見じゅんけんした。そのたがいの位置をたどってみると一つの線上にならんでいるようにも見え、あるいはがんの行列を見るようなふうに並んでいる場合も見受けられる。こういうみゃくがいわゆる火山脈かざんみゃくであって、もっとも著名な火山脈が太平洋の周囲によこたわっているしだいである。かくして見るとき、火山の火熱かねつの原因、あるいは言葉をかえていえば、火山から流出する溶岩の前身ぜんしんたる岩漿がんしょう〔マグマ。が地下に貯蔵ちょぞうせられている場所は、けっして深いものではなく、地表下ちひょうか一、二里あるいは深くて五、六里以内のへんらしく想像せられる。ふたたび火山脈をたどってみると、それが地震のおこるすじ、すなわち地震帯じしんたい一致いっちし、あるいはあい平行へいこうしている場合が多くみとめられる。しかしながら火山脈をともなっていない地震帯も多数あることを忘れてはならない。元来がんらい、地震は地層ちそうやぶ、すなわち断層線だんそうせん沿うておこるものが多数であり、そうして地下の岩漿がんしょうは右の沿うて進出することは、もっともありべきことであるから、右のように火山脈と地震帯の関係がしょうじたのであろう。

   三、噴出物ふんしゅつぶつ

 噴火ふんかによってき出されるものの本体は、第一に溶岩ようがんであり、これが前身ぜんしんたる岩漿がんしょうである。岩漿は非常な高いねつと圧力とのもとにきわめて多量の水を含有がんゆうすることができるから、外界がいかいあらわれてきた溶岩ようがんは多量の蒸気じょうきくのである。この蒸気のひろがる力が火山の爆発力となるのである。それが火口からがって出る形状は、西洋料理に使われるの花にているから菜花状さいかじょうの雲とばれる。これには溶岩の粉末がくわわっているから多少、暗黒色あんこくしょくに見える。それがすなわちけむりばれる所以ゆえんである。こういうふうに噴出がはげしいときは電気の火花ひばなあらわれる。性空しょうくう上人しょうにん霧島きりしま火山の神体しんたいみとめたものは以上の現象に相違そういなかろう。
 溶岩は種々しゅじゅの形体となって噴出せられる。まず火山灰のほかに、大小の破片はへんげ出される。もし溶融状ようゆうじょうのままのものが地上にちるさい、ある程度に冷却れいきゃくしていたならば、空中旅行中、回転運動のために取った形を維持いじし、そのまま、つむがた鰹節形かつぶしがた皿形様さらがたよう火山弾ざんだんとなり、また内部から蒸気じょうきき出すためパンがたのものとなるのである。
 溶岩の大部分は火口底かこうていからしだいに火口壁かこうへきの上部までがって、ついに外側にあふれいずるにいたることがある。あるいは外壁がいへきの上部にしょうじたからいずることもあり、また、側壁そくへきかしてそこからあふれ出ることもある。この流下りゅうかさいなお多量の蒸気をき出しつつあると、コークスのような粗面そめんの溶岩となるが、もし蒸気がたいていき出されてしまったのちならば、表面が多少なめらかに固まり、あるいはなわをなったような形ともなり、またサイかわを見るように大きなひだを作ることもある。ハワイ土人どじんはこれをパホエホエ式とんいでいる。コークス状の溶岩は中央火口丘かこうきゅうから噴出せられて、それ自身の形体をげてゆくことが多い。溶岩に無数の泡末ほうまつがふくまれたものは軽石かるいしあるいはそれに類似るいじのものとなるのであるが、その小片しょうへんはラピリと名づけられ、火山灰とともに遠方にまで運ばれる。

 火山毛かざんもう成因せいいんはいちおう説明をようする。読者は化学または物理学の実験において、ガラスくだかしながら急にきちぎると、くだはしほそい糸を引くことを実験せられたことがあるであろう。ハワイの火山のように海底からがってできたものは、溶融ようゆう状態において比較的に流動しやすい性質を持っていることは、前にもべたところであるが、こういうガラスしつの溶岩に対してこれをね飛ばすような力がくわわると火山毛ができるのである。歴史のどこかにらした記事があるが、その中のある場合は火山毛であったらしく思われる。宝暦ほうれき九年(一七五九)七月二十八日、弘前ひろさきにおいて西北方、にわかにくもはいらしたが、その中には獣毛じゅうもうのごときものもふくまれていたという。これは渡島おしま大島おおしまの噴火によったものである。ピソライトというスズメのたまごのようなものが、火山灰の中に転がっていることがある。これは雨つぶが火山灰の上に転がってできたものにすぎないのである。火山はまたどろを噴出することがある。ヴェスヴィオの山麓さんろくにあったシラキュラニウムの町は泥流でいりゅうのためにうずめられたが、このごろは開掘かいくつせられてある。天明てんめい浅間あさま噴火における泥流でいりゅう被害ひがいは前にべたとおりである。


 火山の噴出物は固体の他に多くの気体がある。水蒸気すいじょうきはもちろん、炭酸たんさんガス・水素すいそ塩素えんそ硫黄いおうからなる各種のガスがあり、あるものはえて青いひかりを出したともいわれている。またこれらのガスのあるもの凝結ぎょうけつして種々しゅじゅ塩類えんるいとなって沈積ちんせきしていることがある。外国のある火山からはヘリウムガスが採集さいしゅうされたといわれている。日本においてもこれが研究されたけれども、まだ、その実在じつざいみとめられないようである。もしこれが成功するならば、飛行船用ひこうせんようなどとしてきわめて有益ゆうえきであり、火山の利用がこの点においても実現じつげんすることになるのであろう。

   四、噴火ふんか模様もよう

 ストロムボリのようにかつて活動を休止したことのない火山や磐梯山ばんだいさんのごとくきわめてまれに、しかし突然な爆発をなす火山は特別として、一般いっぱん活火山かつかざんは、間欠的かんけつてきに活動するのが原則である。すなわち一時活動したのちは、暫時ざんじ休息きゅうそくして、あるいは硫気孔りゅうきこうの状態となり、あるいは噴気孔ふんきこうとなり、あるいはそのような噴気ふんきもまったくなくなることがある。その休息時間の長短、あるいは休眠きゅうみんからめたときの活動ぶりにも各火山にめいめいの特色があって、一概いちがいにはいえないが、平均期間よりも長く休止したのちの噴火は平均の場合よりも強く、反対に短く休息きゅうそくしたのちの場合は噴火が比較的に弱い。また平均よりも大きな噴火をなした後は休息期きゅうそくきが長く、反対に小さな噴火をなした後は休息期が短い。
 活火山かつかざんあらたに活動を開始しようとするとき、なんらかの前兆ぜんちょうをともなう場合がある。土地が噴火前ふんかまえにしだいに隆起りゅうきしたことは、大正三年(一九一四)桜島さくらじま噴火において始めて気づかれた事実である。おそらくはたいていの場合においてそうなのであろう。噴火後ふんかご実測じっそくによって一般いっぱんに土地がしだいにがってゆくことはすでに多くの場合に証拠しょうこだてられたところである。読者はもちかれるとき、これに類似るいじした現象を観察されることがあるであろう。
 噴火の間際まぎわになると、きわめてせまい範囲はんいのみに感ずる地震、すなわち局部きょくぶ微震びしん頻々ひんぴんにおこることが通常である。地表ちひょう近くに進出してきた蒸気じょうきが、地表をやぶろうとするはたらきのためにおこるものであろう。地震計をもって観察すると、こういう地下のはたらきの所在地しよざいちがわかるから、それからして岩漿がんしょう貯蔵ちょぞうされている場所の深さが想像せられる。また、そういう種類の地震と爆発にともなう地震との区別も、地震計の記録によってあきらかにされるから、地震計は噴火の診断器しんだんきとなるわけである。
 火山は地震の安全弁あんぜんべんだということわざがある。これには一めん真理しんりがあるように思う。もちろん事実として火山地方にはけっして大地震をおこさない。たとい多少強い地震をおこすことがあっても、それは中流以下のものであって、最大級の程度をはるかにくだったものである。前に噴火の前後に地盤じばんの変動が徐々じょじょにおこることをべた。最大級の地震ではかような地変ちへん急激きゅうげきにおこるのである。火山地方ではその程度の地変ちへん緩漫かんまんにおこるのであるから、それで火山が地震の安全弁あんぜんべんとなるわけであろう。
 噴火前ふんかまえには周囲の土地がもちかれてふくらむような状態になることは、すでに了解りょうかいせられたであろう。かような状態にある土地において、従来じゅうらいの温泉は湧出量ゆうしゅつりょうしたり、したがって温度ものぼることあるは当然とうぜんである。その他あらたに温泉や冷泉れいせんき始めることもあり、また炭酸たんさんガスやその他のガスを土地のから出して、鳥の地獄じごくや虫の地獄を作ることもある。
 前に内外の火山を巡見じゅんけんした場合の記事をかかげておいたが、諸君しょくんもし両方を比較せられたならば、国内の火山作用はがいしておだやかであって、海外のもっとも激烈げきれつなものに比較すればはるかにそれ以下であることを了解りょうかいせられるであろう。それで噴火の珍現象ちんげんしょう収録しゅうろくするには、いきおい海外の火山に材料をあおがざるをなくなる。もちろんそれには研究のゆきとどいているのと、そうでないとの関係もくわわっている。
 噴火の前景気まえけいきがいよいよ進んでくると、火口からの噴煙ふんえんが突然いきおいをしてくる。もし桜島さくらじまのように四合目よんごうめあたりからを作りはじめ、そこから溶岩を流す慣例かんれいを持っているものならば、そのを完全にするために、まず土砂どさき飛ばすなどのはたらきをする。いよいよ噴火が始まると菜花状さいかじょう噴煙ふんえんに大小種々しゅじゅの溶岩をまじえてき飛ばし、それが場合によっては数十町すうじっちょうにも達することがある。このさい、溶岩は水蒸気すいじょうきをひくことが目覚めざましい。また菜花煙さいかえんのかなたこなたに電光でんこうのひらめくのが見られる。このさい雷鳴らいめいは噴火の音にほうむられてしまうが、これはたん噴煙上ふんえんじょうにて放電ほうでんするのみで、地上に落雷らくらいした例がないといわれている。あるいは右のような積極的動作のかわりに、噴気ふんきあるいは噴煙ふんえんが突然やむような消極的の前徴ぜんちょうしめすものもあり、また気圧きあつ変動へんどう、特に低圧ていあつさいにおこるくせのあるものもあるから、活動中あるいは活動にてんじそうな火山に登るものは、このしゅの火山特性に注意する必要がある。
 噴火が突然におこると、それがきわめて激烈げきれつな空気波動はどうをともなうことがある。火口近くにいてこの波動に直面ちょくめんしたものは、空気の大きなつちをもってなぐられたことになるので、巨大な樹木じゅもく見事みごとれ、あるいはこぎにされて遠方へ運ばれる。もちろん家屋かおくなどはひとたまりもない。
 噴煙ふんえんくわわっててくる火山灰やラピリは、噴火の経過けいかにともなって、その形状においても内容においてもいろいろに変化する。一九〇六年のヴェスヴィオ噴火については、初日から八日目にいたるまでに噴出ふんしゅつした火山灰を日々の順序じゅんじょに並べ、これをガラスくだにつめて発売はつばいしている。正否せいひのほどは保証ほしょうしがたいが、それはとにかく、こんな些細ささい事物じぶつまで科学的に整理せいりせられていることは嘆賞たんしょうあたいするであろう。
 火口の上皮じょうひ一両日いちりょうじつの間に取りのぞかれると、噴火現象はさらに高調こうちょうしてきて、ついに溶岩を流出せしめる程度に達する。ただしこの溶岩の流出するかいなかはその火山の特性にもよるのであって、溶岩流出がかならずおこるものともかぎらない。
 けた溶岩の温度は摂氏せっし千度内外で、千二百度にも達する場合もあるが、その流動性は、この温度によってさだまることもちろんであって、同一温度でも成分によっていちじるしい相違そういがある。前にもべたとおり、深海底しんかいていからけ出た火山のさんする溶岩は流動性にんでいるが、大陸またはその近くにある火山からさんするものは、流動性にともしく、噴出物堆積たいせきして円錐形えんすいけいの高山を作るのが通常である。また溶岩がしだいに冷却れいきゃくしてくるとどんな成分のものも流動しがたくなり、そのは固形の岩塊がんかい先頭せんとうの岩塊をえて前進するのみである。
 噴煙ふんえん間欠的かんけつてきにおこると、ときどき見事みごと煙輪えんわができる。ちょうど石油発動機はつどうき煙突上えんとつじょうに見るように。

 閃弧せんこというものがある。図は一九〇六年のヴェスヴィオ噴火において、ペアレット氏の撮影さつえいにかかるものである。この現象を少年読者に向かって説明することはすこぶる難事なんじであるが、ただ噴火のさいはっせられた数回の連続的れんぞくてき爆発が写真にれたものと承知しょうちしてもらいたい。この珍現象ちんげんしょうを目撃することさえ容易よういにとらえがたい機会きかいであるのに、しかもこれを写真にとって一般いっぱんの人にもその概観がいかんを伝えたペアレット氏の功績こうせきとすべきでいる。

 ペアレット氏はストロムボリにてたまを見たとしょうしている。その大きさは直径一メートルほどであって青くひかったものであったという。これにた観察は阿蘇山あそさん嘉元かげん三年三月三十日(西暦一三〇五年五月二日)の午後四時ごろ、地中から太陽のごとき火玉ひだまが三つ出て空にのぼり、東北の方へ飛びったということがある。現象がきわめてまれであるので、正体しょうたいがよくきとめられていないが、電気作用にもとづくものだろうといわれている。ヴェスヴィオの一九〇六年の大噴火において、非常に強い電気をおびた噴煙ふんえんみとめたこともあり、そのなびいたけむりに近づいたとき、服装ふくそうにつけていた金属きんぞくの各尖端せんたんから電光でんこうはっしたことも経験せられている。
 噴火作用中でもっともおそれられているのは、赤熱せきねつした火山灰が火口から市街地しがいちに向かって発射はっしゃされることである。このことは西暦一九〇二年五月八日、マルチニック島プレー山の噴火についてしるしたとおりであるが、サンピール市二万六〇〇〇の人口中、生存者せいぞんしゃは地下室に監禁かんきんされていた一名の囚徒しゅうとのみであるので、右の現象の実際の目撃者は一人も生存せいぞんなかったわけである。しかしこの噴火についてもっとも権威けんいある調査をとげたラクロア教授は、同年十二月十六日以来、数回にわたり同現象を目撃した。同教授の計算によると、火口から打出うちだされてから山麓さんろくあるいは海面に到達とうたつして静止せいしするまでの平均の速さは、毎秒二十メートル以上であって、最大毎秒一五〇メートルにもおよび、その巨大な抛射物ほうしゃぶつからはなたれる菜花状さいかじょうの雲は、高さ四、五千メートルにも達したという。そうしてこれが通過つうかしたあとにはただに火山灰やラピリのみならず、大きな石塊せきかい混入こんにゅうしていた。かかるおそろしい現象はこれまで右のプレー噴火に経験せられたのみであって、その他の火山においてはいまだかつて経験されたことがない。

 こういう大規模だいきぼの噴火も最高調さいこうちょうに達するのは数日あるいは一週間内にあるので、その後は噴火ふんか勢力とみに減退げんたいしてゆくのが通常である。


底本:『星と雲・火山と地震』復刻版 日本児童文庫、名著普及会
   1982(昭和57)年6月20日 発行
親本:『星と雲・火山と地震』日本兒童文庫、アルス
   1930(昭和5)年2月15日 発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日公開
青空文庫作成ファイル:
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火山の話

今村明恒

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(例)火山《かざん》

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(例)一|面《めん》

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(例)[#図版(img001.jpg)、キラウヱア火山]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)度々《たび/\》
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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   もくじ 火山《かざん》の話《はなし》

一、はしがき
二、火山《かざん》のあらまし
三、噴出物《ふんしゆつぶつ》
四、噴火《ふんか》の模樣《もよう》


   一、はしがき

 わが日本《につぽん》は地震《ぢしん》の國《くに》といはれてゐる。また火山《かざん》の國《くに》ともいはれてゐる。地震《ぢしん》や火山《かざん》が多《おほ》いからとて御國《おくに》自慢《じまん》にもなるまいし、強《つよ》い地震《ぢしん》や激《はげ》しい噴火《ふんか》が度々《たび/\》あるからとて、外國《がいこく》に誇《ほこ》るにも當《あた》るまい。實際《じつさい》この頃《ごろ》のように地震《ぢしん》、火災《かさい》、噴火《ふんか》などに惱《なや》まされつゞきでは、却《かへ》つて恥《はづ》かしい感《かん》じも起《おこ》るのである。たゞわれ/\日本人《につぽんじん》としてはかような天災《てんさい》に屈《くつ》することなく、寧《むし》ろ人力《じんりよく》を以《もつ》てその災禍《さいか》をないようにしたいものである。かくするには地震《ぢしん》や火山《かざん》の何物《なにもの》であるかを究《きは》めることが第一《だいゝち》である。所謂《いはゆる》敵情《てきじよう》偵察《ていさつ》である。敵情《てきじよう》が悉《こと/″\》くわかつたならば、災禍《さいか》をひき起《おこ》すところのかの暴力《ぼうりよく》を打《う》ち碎《くだ》くことも出來《でき》よう。この目的《もくてき》を達《たつ》してこそわれ/\は他國人《たこくじん》に對《たい》して恥《はづ》かしいといふ感《かん》じから始《はじ》めて免《まぬか》れ得《え》られるであらう。
 火山《かざん》や地震《ぢしん》は強敵《きようてき》である。強敵《きようてき》を見《み》て恐《おそ》れずとは戰爭《せんそう》だけに必要《ひつよう》な格言《かくげん》でもあるまい。昔《むかし》の人《ひと》はこれらの自然《しぜん》現象《げんしよう》を可《か》なり恐《おそ》れたものである。火山《かざん》の噴火《ふんか》鳴動《めいどう》を神業《かみわざ》と考《かんが》へたのは日本《につぽん》ばかりではないが、特《とく》に日本《につぽん》においてはそれが可《か》なり徹底《てつてい》してゐる。まづ第一《だいゝち》に、噴火口《ふんかこう》を神《かみ》の住《す》み給《たま》へる靈場《れいじよう》と心得《こゝろえ》たことである。例《たと》へば阿蘇山《あそざん》の活動《かつどう》の中心《ちゆうしん》たる中岳《なかだけ》は南北《なんぼく》に長《なが》い噴火口《ふんかこう》を有《ゆう》し、通常《つうじよう》熱湯《ねつとう》を湛《たゝ》へてゐるが、これが數箇《すうこ》に區分《くぶん》せられてゐるので北《きた》の池《いけ》を阿蘇《あそ》の開祖《かいそ》と稱《とな》へられてゐる建磐龍命《たけいはたつのみこと》の靈場《れいじよう》とし、中《なか》の池《いけ》、南《みなみ》の池《いけ》を、それ/″\奧方《おくがた》の阿蘇津妃命《あそつひめのみこと》、長子《ちようし》たる速瓶玉命《はやみかたまのみこと》の靈場《れいじよう》と考《かんが》へられてあつた。丁度《ちようど》イタリーの南方《なんぱう》リパリ群島中《ぐんとうちゆう》の一《いち》火山島《かざんとう》たるヴルカーノ島《とう》をローマの鍛冶《かじ》の神《かみ》たるヴルカーノの工場《こうじよう》と考《かんが》へたのと同樣《どうよう》である。更《さら》に日本《につぽん》では、火山《かざん》の主《ぬし》が靈場《れいじよう》を俗界《ぞつかい》に穢《けが》されることを厭《いと》はせ給《たま》ふがため、其處《そこ》を潔《きよ》める目的《もくてき》を以《もつ》て時々《とき/″\》爆發《ばくはつ》を起《おこ》し、或《あるひ》は鳴動《めいどう》によつて神怒《しんど》のほどを知《し》らしめ給《たま》ふとしたものである。それ故《ゆゑ》にこれ等《ら》の異變《いへん》がある度《たび》に、奉幣使《ほうへいし》を遣《つかは》して祭祀《さいし》を行《おこな》ひ、或《あるひ》は神田《しんでん》を寄進《きしん》し、或《あるひ》は位階《いかい》勳等《くんとう》を進《すゝ》めて神慮《しんりよ》を宥《なだ》め奉《たてまつ》るのが、朝廷《ちようてい》の慣例《かんれい》であつた。例《たと》へば阿蘇《あそ》の建磐龍命《たけいはたつのみこと》は正二位《しようにい》勳五等《くんごとう》にのぼり、阿蘇津妃命《あそつひめのみこと》は正四位《しようしい》下《げ》に進《すゝ》められたが如《ごと》きである。
 天台宗《てんだいしゆう》の寺院《じいん》は、高地《こうち》に多《おほ》く設《まう》けてあるが、火山《かざん》もまた彼等《かれら》の選《せん》に漏《も》れなかつた。隨《したが》つて珍《めづら》しい火山《かざん》現象《げんしよう》の、これ等《ら》の僧侶《そうりよ》によつて觀察《かんさつ》せられた例《れい》も少《すくな》くない。阿蘇《あそ》の靈地《れいち》からは火《ひ》の玉《たま》が三《みつ》つ飛《と》び出《で》たともいひ、また性空《しようくう》上人《しようにん》は霧島《きりしま》の頂上《ちようじよう》に參籠《さんろう》して神體《しんたい》を見屆《みとゞ》けたといふ。それによれば周圍《しゆうい》三丈《さんじよう》、長《なが》さ十餘丈《じゆうよじよう》、角《つの》は枯木《こぼく》の如《ごと》く、眼《め》は日月《にちげつ》の如《ごと》き大蛇《おろち》なりきと。鳥海《ちようかい》又《また》は阿蘇《あそ》の噴火《ふんか》に大蛇《おろち》が屡《しば/\》現《あらは》れるのも、迷信《めいしん》から起《おこ》つた幻影《げんえい》に外《ほか》ならないのである。ハワイ島《とう》の火山《かざん》キラウエアからは女神《めがみ》ペレーの涙《なみだ》や毛髮《もうはつ》が採集《さいしゆう》せられ、鳥海山《ちようかいさん》は石《いし》の矢尻《やじり》を噴出《ふんしゆつ》したといはれてゐる。神話《しんわ》にある八股《やまた》の大蛇《おろち》の如《ごと》きも亦《また》噴火《ふんか》に關係《かんけい》あるものかも知《し》れぬ。
 火山《かざん》に關《かん》する迷信《めいしん》がこのように國民《こくみん》の腦裡《のうり》を支配《しはい》してゐる間《あひだ》、學問《がくもん》が全《まつた》く進歩《しんぽ》しなかつたのは當然《とうぜん》である。昔《むかし》の雷公《らいこう》が今日《こんにち》我々《われ/\》の忠實《ちゆうじつ》な使役《しえき》をなすのに、火山《かざん》の神《かみ》のみ頑固《がんこ》におはすべきはずがない。火山《かざん》地方《ちほう》の地下熱《ちかねつ》の利用《りよう》などもあることだから、使《つか》ひ樣《よう》によつては人生《じんせい》に利益《りえき》を與《あた》へる時代《じだい》もやがて到着《とうちやく》するであらう。

   二、火山《かざん》のあらまし

 わが日本《につぽん》には火山《かざん》は珍《めづら》しくないから、他國《たこく》に於《おい》ても一兩日《いちりようじつ》の行程内《こうていない》に火山《かざん》のない所《ところ》はあるまいなどと思《おも》はれるかも知《し》れないが、實際《じつさい》はさういふ風《ふう》になつてゐない。例《たと》へば現在《げんざい》活動中《かつどうちゆう》の火山《かざん》は南北《なんぼく》アメリカ洲《しゆう》では西《にし》の方《ほう》の太平洋《たいへいよう》沿岸《えんがん》だけに一列《いちれつ》に竝《なら》んでをり、中部《ちゆうぶ》アメリカ地方《ちほう》では二條《にじよう》になつて右《みぎ》の南北線《なんぼくせん》につながつてゐる。大體《だいたい》太平洋《たいへいよう》沿岸《えんがん》地方《ちほう》は火山《かざん》の列《れつ》を以《もつ》て連絡《れんらく》を取《と》つてゐるので、わが國《くに》の火山列《かざんれつ》も、千島《ちしま》、アレウト群島《ぐんとう》を經《へ》てアメリカの火山列《かざんれつ》につながつてゐるのである。その他《た》歐洲《おうしゆう》にはイタリーに四箇《しこ》、ギリシヤに一箇《いつこ》有名《ゆうめい》な活火山《かつかざん》があり、その外《ほか》にはイスランドに數箇《すうこ》あるきりで、北米《ほくべい》の東部《とうぶ》、或《あるひ》は歐洲《おうしゆう》の北部《ほくぶ》にゐる人《ひと》には、火山《かざん》現象《げんしよう》を目撃《もくげき》することが容易《ようい》でない。太平洋《たいへいよう》の中央部《ちゆうおうぶ》、特《とく》にハワイ島《とう》にはキラウエアといふ有名《ゆうめい》な活火山《かつかざん》があるが、活火山《かつかざん》に最《もつと》も豐富《ほうふ》な場所《ばしよ》はジャワ島《とう》である。こゝには活火山《かつかざん》だけの數《すう》が四十箇《しじつこ》も數《かぞ》へられるといはれてゐる。わが國《くに》も活火山《かつかざん》には可《か》なり富《と》んでゐるけれども、ジャワには及《およ》ぶべくもない。
 試《こゝろ》みに世界《せかい》に於《おい》て名《な》ある活火山《かつかざん》を擧《あ》げてみるならば、南米《なんべい》エクワドル國《こく》に於《おけ》るコトパクシ(高《たか》さ五千九百《ごせんくひやく》四十三《しじゆうさん》米《めーとる》)は、圓錐形《えんすいけい》の偉大《いだい》な山《やま》であるが、噴火《ふんか》の勢力《せいりよく》も亦《また》偉大《いだい》で、鎔岩《ようがん》の破片《はへん》を六里《ろくり》の遠距離《えんきより》に噴《ふ》き飛《と》ばしたといふ、この點《てん》に就《つい》ての記録《きろく》保持者《ほじしや》である。又《また》その噴火《ふんか》の頻々《ひんぴん》な點《てん》に於《おい》ても有名《ゆうめい》である。
 西《にし》インドの小《しよう》アンチル群島中《ぐんとうちゆう》にあるマルチニック島《とう》の火山《かざん》プレー(高《たか》き[#「き」は底本のまま]千三百《せんさんびやく》五十《ごじゆう》米《めーとる》)は、その西暦《せいれき》千九百《せんくひやく》二年《にねん》五月《ごがつ》八日《やうか》の噴火《ふんか》に於《おい》て、赤熱《せきねつ》した噴出物《ふんしゆつぶつ》を以《もつ》て山麓《さんろく》にある小都會《しようとかい》サンピール市《し》を襲《おそ》ひ、二萬《にまん》六千《ろくせん》の人口中《じんこうちゆう》、地下室《ちかしつ》に監禁《かんきん》されてゐた一名《いちめい》の囚徒《しゆうと》を除《のぞ》く外《ほか》、擧《こぞ》つて死滅《しめつ》したことに於《おい》て有名《ゆうめい》である。ヴェスヴィオ噴火《ふんか》によるポムペイ全滅《ぜんめつ》の慘事《さんじ》に勝《まさ》るとも劣《おと》ることなきほどの出來事《できごと》であつた。この時《とき》噴火口《ふんかこう》内《ない》に出現《しゆつげん》した高《たか》さ二百《にひやく》米《めーとる》の鎔岩塔《ようがんとう》も珍《めづら》しいものであつたが、それは噴火《ふんか》の末期《まつき》に於《おい》て次第《しだい》に崩壞《ほうかい》消失《しようしつ》してしまつた。
 ハワイのキラウエア火山《かざん》(高《たか》さ千二百《せんにひやく》三十五《さんじゆうご》米《めーとる》)は、ハワイ島《とう》の主峯《しゆほう》マウナ・ロア火山《かざん》の側面《そくめん》に寄生《きせい》してゐるものであるが、通常《つうじよう》の場合《ばあひ》、その噴火口《ふんかこう》に鎔岩《ようがん》を充《み》たし、しかもこの鎔岩《ようがん》が流動《りゆうどう》して種々《しゆ/″\》の奇觀《きかん》を呈《てい》するので、觀光客《かんこうきやく》を絶《た》えずひきつけてゐる。火山毛《かざんもう》はその産物《さんぶつ》として最《もつと》も有名《ゆうめい》である。山上《さんじよう》に有名《ゆうめい》な火山《かざん》觀測所《かんそくじよ》がある。又《また》觀光客《かんこうきやく》のために開《ひら》いた旅館《りよかん》もあり、ハワイ島《とう》の船着場《ふなつきば》ヒロからこゝまで四里《より》の間《あひだ》、自動車《じどうしや》にて面白《おもしろ》い旅行《りよこう》も出來《でき》る。
[#図版(img001.jpg)、キラウヱア火山]
 マウナ・ロアは四千百《しせんひやく》九十四《くじゆうし》米《めーとる》の高《たか》さを有《も》つてをり、わが國《くに》の富士山《ふじさん》よりも四百《しひやく》米《めーとる》以上《いじよう》高《たか》いから、讀者《どくしや》はその山容《さんよう》として富士形《ふじがた》の圓錐形《えんすいけい》を想像《そう/″\》せられるであらうが、實《じつ》は左《さ》にあらず、寧《むし》ろ正月《しようがつ》の御備餅《おそなへもち》に近《ちか》い形《かたち》をしてゐる。或《あるひ》は饅頭形《まんじゆうがた》とでも名《な》づくべきであらうか。山側《さんそく》の傾斜《けいしや》は僅《わづか》に六度《ろくど》乃至《ないし》八度《はちど》に過《す》ぎない。これはその山體《さんたい》を作《つく》つてゐる岩石《がんせき》(玄武岩《げんぶがん》)の性質《せいしつ》に因《よ》るものであつて、その鎔《と》けてゐる際《さい》は比較的《ひかくてき》に流動《りゆうどう》し易《やす》いからである。昭和《しようわ》二年《にねん》、大噴火《だいふんか》をなしたときも噴火口《ふんかこう》から流《なが》れ出《で》る鎔岩《ようがん》が、恰《あだか》も溪水《たにみづ》の流《なが》れのように一瀉《いつしや》千里《せんり》の勢《いきほひ》を以《もつ》て駈《か》け下《くだ》つたのである。尤《もつと》も山麓《さんろく》に近《ちか》づくに從《したが》ひ、温度《おんど》も下《くだ》り遂《つひ》には暗黒《あんこく》な固體《こたい》となつて速《はや》さも鈍《にぶ》つたけれども。
[#図版(img002.jpg)、火山毛(キラウヱア火山)]
 スマトラとジャワとの間《あひだ》、スンダ海峽《かいきよう》にクラカトアといふ直徑《ちよつけい》二里程《にりほど》の小島《こじま》があつた。これが西暦《せいれき》千八百《せんはつぴやく》八十三年《はちじゆうさんねん》に大爆裂《だいばくれつ》をなして、島《しま》の大半《たいはん》を噴《ふ》き飛《と》ばし、跡《あと》には高《たか》さ僅《わづか》に八百《はつぴやく》十六《じゆうろく》米《めーとる》の小火山島《しようかざんとう》を殘《のこ》したのみである。この時《とき》に起《おこ》つた大氣《たいき》の波動《はどう》は世界《せかい》を三週半《さんしゆうはん》する迄《まで》追跡《ついせき》し得《え》られ、海水《かいすい》の動搖《どうよう》は津浪《つなみ》として全《ぜん》地球上《ちきゆうじよう》殆《ほと》んど到《いた》る處《ところ》で觀測《かんそく》せられた。また大氣中《たいきちゆう》に混入《こんにゆう》した灰塵《かいじん》は太陽《たいよう》を赤色《せきしよく》に見《み》せること數週間《すうしゆうかん》に及《およ》んだ。實《じつ》に著者《ちよしや》の如《ごと》きも日本《につぽん》に於《おい》てこの現象《げんしよう》を目撃《もくげき》した一人《ひとり》である。
[#図版(img003.jpg)、マウナ・ロア(ハワイ島)]
 ジャワ島《とう》のパパンダヤング火山《かざん》は西暦《せいれき》千七百《せんしちひやく》七十二年《しちじゆうにねん》の噴火《ふんか》に於《おい》て、僅《わづか》に一夜《いちや》の間《あひだ》に二千七百《にせんしちひやく》米《めーとる》の高《たか》さから千五百《せんごひやく》米《めーとる》に減《げん》じ、噴《ふ》き飛《と》ばしたものによつて四十箇村《しじつかそん》を埋沒《まいぼつ》したといふ。恐《おそ》らくはこれが有史《ゆうし》以來《いらい》の最《もつと》も激烈《げきれつ》な噴火《ふんか》であつたらう。
 イタリーで最《もつと》も著名《ちよめい》な火山《かざん》はヴェスヴィオ(高《たか》さ千二百《せんにひやく》二十三《にじゆうさん》米《めーとる》)であるが、これが世界的《せかいてき》にもまた著名《ちよめい》であるのは、西暦《せいれき》紀元《きげん》七十九年《しちじゆうくねん》の大噴火《だいふんか》に於《おい》て、ポムペイ市《し》を降灰《こうはい》にて埋沒《まいぼつ》したこと、有名《ゆうめい》な大都市《だいとし》ナポリに接近《せつきん》してゐるため見學《けんがく》に便利《べんり》なこと、凡《およ》そ三十年《さんじゆうねん》位《くらゐ》にて活動《かつどう》の一循環《いちじゆんかん》をなし、噴火《ふんか》現象《げんしよう》多種《たしゆ》多樣《たよう》にて研究《けんきゆう》材料《ざいりよう》豐富《ほうふ》なること、登山《とざん》鐵道《てつどう》、火山《かざん》觀測所《かんそくじよ》、旅館《りよかん》の設備《せつび》完全《かんぜん》せる等《とう》に因《よ》るものである。著者《ちよしや》が七年前《しちねんぜん》に見《み》たときは、つぎの大噴火《だいふんか》は、或《あるひ》は十年《じゆうねん》以内《いない》ならんかとの意見《いけん》が多《おほ》かつたが、この年《とし》の九月《くがつ》三十日《さんじゆうにち》に見《み》たときは、大噴火《だいふんか》の時機《じき》切迫《せつぱく》してゐるように思《おも》はれた。或《あるひ》は數年内《すうねんない》に大爆發《だいばくはつ》をなすことがないとも限《かぎ》らぬ。
 イタリーの地形《ちけい》は長靴《ながぐつ》のようだとよくいはれてゐることであるが、その爪先《つまさき》に石《いし》ころのようにシシリー島《とう》が横《よこ》たはつてをり、爪先《つまさき》から砂《すな》を蹴飛《けと》ばしたようにリパリ火山《かざん》群島《ぐんとう》がある。其中《そのうち》活火山《かつかざん》はストロムボリ(高《たか》さ九百《くひやく》二十六《にじゆうろく》米《めーとる》)とヴルカーノ(高《たか》さ四百《しひやく》九十九《くじゆうく》米《めーとる》)との二箇《にこ》であるが、前者《ぜんしや》は有史《ゆうし》以來《いらい》未《ま》だ一日《いちにち》も活動《かつどう》を休止《きゆうし》したことがないといふので有名《ゆうめい》であり、後者《こうしや》は前《まへ》にも記《しる》した通《とほ》り、火山《かざん》なる外國語《がいこくご》の起原《きげん》となつたくらゐである。この外《ほか》イタリーにはシシリー島《とう》にエトナ火山《かざん》(高《たか》さ三千二百《さんぜんにひやく》七十四《しちじゆうし》米《めーとる》)があり、以上《いじよう》イタリーの四火山《しかざん》、いづれもわが日本《につぽん》郵船《ゆうせん》會社《かいしや》の航路《こうろ》に當《あた》つてゐるので、甲板上《かんぱんじよう》から望見《ぼうけん》するには頗《すこぶ》る好都合《こうつごう》である。もし往航《おうこう》ならば先《ま》づ左舷《さげん》の彼方《かなた》にエトナが高《たか》く屹立《きつりつ》してゐるのを見《み》るべく、六七《ろくしち》合目《ごうめ》以上《いじよう》は無疵《むきづ》の圓錐形《えんすいけい》をしてゐるので富士《ふじ》を思《おも》ひ出《だ》すくらゐであるが、それ以下《いか》には二百《にひやく》以上《いじよう》の寄生《きせい》火山《かざん》が簇立《ぞくりつ》してゐるので鋸齒状《きよしじよう》の輪廊《りんかく》[#「輪廊」は底本のまま]が見《み》られる。この山《やま》は平均《へいきん》十年《じゆうねん》毎《ごと》に一回《いつかい》ぐらゐ爆發《ばくはつ》し、山側《さんそく》に生《しよう》ずる裂《さ》け目《め》の彼方《かなた》此方《こなた》を中心《ちゆうしん》として鎔岩《ようがん》を流《なが》し、或《あるひ》は噴出物《ふんしゆつぶつ》によつて小圓錐形《しようえんすいけい》の寄生《きせい》火山《かざん》を形作《かたちづく》るなどする、つぎに郵船《ゆうせん》がメシナ海峽《かいきよう》を通過《つうか》すると、遙《はる》か左舷《さげん》に鋸山式《のこぎりやましき》のヴルカーノが見《み》える。更《さら》に進《すゝ》むと航海者《こうかいしや》には地中海《ちちゆうかい》の燈臺《とうだい》と呼《よ》ばれ、漁獵者《ぎよりようしや》には島《しま》の晴雨計《せいうけい》と名《な》づけられてゐるストロムボリが見《み》える。この火山島《かざんとう》は直徑《ちよつけい》僅《わづか》に三粁《さんきろめーとる》の小圓錐《しようえんすい》であつて、その北側《きたがは》に人口《じんこう》二千五百《にせんごひやく》の町《まち》があり、北西《ほくせい》八合目《はちごうめ》に噴火口《ふんかこう》がある。火孔《かこう》は三箇《さんこ》竝立《へいりつ》して鎔岩《ようがん》を湛《たゝ》へ、數分間《すうふんかん》おきに之《これ》を噴《ふ》き飛《と》ばしてゐる。もしそこを通過《つうか》するのが夜《よる》であるならば、吹《ふ》き飛《と》ばされた赤熱《せきねつ》鎔岩《ようがん》が斜面《しやめん》を流《なが》れ下《くだ》つて、或《あるひ》は途中《とちゆう》で止《と》まり、或《あるひ》は海中《かいちゆう》まで進入《しんにゆう》するのが見《み》られるが、日中《につちゆう》ならば斜面《しやめん》を流下《りゆうか》する鎔岩《ようがん》が水蒸氣《すいじようき》の尾《を》を曳《ひ》くので、これによつてそれと氣《き》づかれるのみである。この火山《かざん》の噴出時《ふんしゆつじ》に於《お》ける閃光《せんこう》は遠《とほ》く百海里《ひやくかいり》を照《て》らすので、そこでストロムボリが地中海《ちちゆうかい》の燈臺《とうだい》と呼《よ》ばれる所以《ゆえん》である。かくてこれ等《ら》の展望《てんぼう》をほしいまゝにしたわが郵船《ゆうせん》はナポリ港《こう》に到着《とうちやく》し、ヴェスヴィオを十分《じゆうぶん》に見學《けんがく》し得《う》る機會《きかい》も捉《とら》へられるのである。先《ま》づ頂上《ちようじよう》から絶《た》えず噴《ふ》き出《だ》す蒸氣《じようき》や火山灰《かざんばひ》によつて直《す》ぐにそれがヴェスヴィオなることが氣《き》づかれるが、それと同時《どうじ》に今一《いまひと》つ左方《さほう》に竝立《へいりつ》して見《み》える尖《とが》つた山《やま》を見落《みおと》してはならぬ。山名《さんめい》はソムマといはれてゐるが、これがソムマ即《すなは》ち外輪山《がいりんざん》といふ外國語《がいこくご》の起《おこ》りである。地圖《ちず》で見《み》るソムマはヴェスヴィオを半《なか》ば抱擁《ほうよう》した形《かたち》をしてゐる。即《すなは》ち不完全《ふかんぜん》な外輪山《がいりんざん》であつて、もしそれが完全《かんぜん》ならば中央《ちゆうおう》にある圓錐状《えんすいじよう》の火山《かざん》を全部《ぜんぶ》抱擁《ほうよう》する形《かたち》になるのである。ヴェスヴィオは西暦《せいれき》七十九年《しちじゆうくねん》の大噴火《だいふんか》前《ぜん》までは、このソムマの外側《そとがは》を引《ひ》き伸《のば》したほどの一箇《いつこ》の偉大《いだい》な圓錐状《えんすいじよう》の火山《かざん》であつたのが、あのをりの大噴火《だいふんか》のために東南側《とうなんがは》の大半《たいはん》を吹《ふ》き飛《と》ばし、その中央《ちゆうおう》に現在《げんざい》のヴェスヴィオを中央《ちゆうおう》火口丘《かこうきゆう》として殘《のこ》したものと想像《そう/″\》されてゐる。ポムペイの遺跡《いせき》は山《やま》の中央《ちゆうおう》から南東《なんとう》九粁《くきろめーとる》の遠距離《えんきより》にあるが、これはその時《とき》降《ふ》りつづいた降灰《こうはひ》によつて全部《ぜんぶ》埋沒《まいぼつ》せられ、その後《ご》幾百年《いくひやくねん》の間《あひだ》その所在地《しよざいち》が見失《みうしな》はれてゐたが、西暦《せいれき》千七百《せんしちひやく》四十八年《しじゆうはちねん》一農夫《いちのうふ》の偶然《ぐうぜん》な發見《はつけん》により遂《つひ》に今日《こんにち》のように殆《ほと》んど全部《ぜんぶ》發掘《はつくつ》されることになつたのである。ポムペイの滅《ほろ》びた原因《げんいん》が降灰《こうはひ》にあることは、空中《くうちゆう》から見《み》た寫眞《しやしん》でもわかる通《とほ》り、各《かく》家屋《かおく》の屋根《やね》は全部《ぜんぶ》拔《ぬ》けてゐて、四壁《しへき》が完備《かんび》してゐることによつてもわかるが、西暦《せいれき》千九百《せんくひやく》六年《ろくねん》の大噴火《だいふんか》のとき、僅《わづか》に三十分間《さんじつぷんかん》同方向《どうほうこう》に降《ふ》り續《つゞ》いた火山灰《かざんばひ》が、山《やま》の北東《ほくとう》にあるオッタヤーノの町《まち》に九十《くじゆう》糎《せんちめーとる》も積《つも》り、多《おほ》くの屋根《やね》を打《う》ち拔《ぬ》いて二百《にひやく》二十人《にじゆうにん》の死人《しにん》を生《しよう》じたことによつても、うなづかれるであらう。かういふ風《ふう》の家屋《かおく》被害《ひがい》と、放射《ほうしや》された噴出物《ふんしゆつぶつ》によつて破壞《はかい》せられたサンピール市街《しがい》の零落《れいらく》とは著《いちじる》しい對象《たいしよう》[#「對象」は底本のまま]である。もし昨日《きのふ》まで繁昌《はんじよう》したサンピールの舊市街《きゆうしがい》零落《れいらく》した跡《あと》を噴出物《ふんしゆつぶつ》流動《りゆうどう》の方向《ほうこう》から眺《なが》むれば、殘《のこ》つた壁《かべ》が枯木林《かれきばやし》のように見《み》え、それに直角《ちよつかく》の方向《ほうこう》から見《み》ると壁《かべ》の正面《しようめん》整列《せいれつ》が見《み》られたといふ。
[#図版(img004.jpg)、ヴェスヴィオ火山の遠景]
[#図版(img005.jpg)、ヴェスヴィオ火山平面圖]
[#図版(img006.jpg)、ポムペイ鳥瞰圖]
 ヴェスヴィオに登山《とざん》した人《ひと》は、通常《つうじよう》火口内《かこうない》には暗黒《あんこく》に見《み》える鎔岩《ようがん》の平地《へいち》を見出《みいだ》すであらう。これは絶《た》えず蒸氣《じようき》、火山灰《かざんばひ》、鎔岩《ようがん》等《とう》を噴《ふ》き出《だ》す中央《ちゆうおう》の小丘《しようきゆう》から溢《あふ》れ出《で》たものであつて、かゝる平地《へいち》を火口原《かこうげん》と名《な》づけ、外輪山《がいりんざん》に對《たい》する中央《ちゆうおう》の火山《かざん》を中央《ちゆうおう》火口丘《かこうきゆう》と名《な》づける。わが富士山《ふじさん》の如《ごと》く外輪山《がいりんざん》を持《も》たない火山《かざん》は單式《たんしき》であるが、ヴェスヴィオの如《ごと》く外輪山《がいりんざん》を有《ゆう》するものは複式《ふくしき》である。

 われ/\はこれまで海外《かいがい》の著名《ちよめい》な火山《かざん》を一巡《いちじゆん》して來《き》た。これから國内《こくない》にて有名《ゆうめい》な活火山《かつかざん》を一巡《いちじゆん》して見《み》たい。
 有史《ゆうし》以前《いぜん》には噴火《ふんか》した證跡《しようせき》を有《ゆう》しながら、有史《ゆうし》以來《いらい》一回《いつかい》も噴火《ふんか》したことのない火山《かざん》の數《かず》はなか/\多《おほ》い。箱根山《はこねやま》の如《ごと》きがその一例《いちれい》である。われ/\はこの種《しゆ》の火山《かざん》を死火山《しかざん》或《あるひ》は舊火山《きゆうかざん》と名《な》づけて、有史《ゆうし》以來《いらい》噴火《ふんか》した歴史《れきし》を有《も》つてゐる活火山《かつかざん》と區別《くべつ》してゐる。但《たゞ》しわれわれの歴史《れきし》は火山《かざん》の壽命《じゆみよう》に比較《ひかく》すれば極《きは》めて短《みじか》い時間《じかん》であるから、現在《げんざい》死火山《しかざん》と思《おも》はれてゐるものも、數百年《すうひやくねん》或《あるひ》は數千年《すうせんねん》の休息《きゆうそく》状態《じようたい》をつゞけた後《のち》、突然《とつぜん》活動《かつどう》を開始《かいし》するものがないとも限《かぎ》らぬ。これは文化《ぶんか》が開《ひら》けてから餘《あま》り多《おほ》くの年數《ねんすう》を經《へ》ない場所《ばしよ》、例《たと》へば北海道《ほつかいどう》などの死火山《しかざん》にはあり得《う》べきことである。
[#図版(img007.jpg)、日本火山分布]
 歴史《れきし》年代《ねんだい》に噴火《ふんか》した實例《じつれい》を有《も》つてゐながら、現在《げんざい》噴火《ふんか》を休止《きゆうし》してゐるものと、活動中《かつどうちゆう》のものとあるが、前者《ぜんしや》を休火山《きゆうかざん》と名《な》づけて活火山《かつかざん》と區別《くべつ》してゐる人《ひと》もあるけれども、本篇《ほんぺん》に於《おい》ては全部《ぜんぶ》これを活火山《かつかざん》と名《な》づけて必要《ひつよう》のあつた場合《ばあひ》に休活《きゆうかつ》の區別《くべつ》をなすことにする。唯《たゞ》こゝに斷《ことわ》りを要《よう》することは噴火《ふんか》といふ言葉《ことば》の使《つか》ひ方《かた》である。文字《もんじ》からいへば火《ひ》を噴《ふ》くとなるけれども、これは燃《も》える火《ひ》を指《さ》すのではない。勿論《もちろん》極《きは》めて稀《まれ》な場合《ばあひ》には噴出《ふんしゆつ》せられた瓦斯《がす》が燃《も》えることがないでもないが、一般《いつぱん》に火《ひ》と思《おも》はれてゐるのは赤熱《せきねつ》した鎔岩《ようがん》である。但《たゞ》しこれが赤熱《せきねつ》してゐなくとも噴火《ふんか》たることに變《かは》りはない。例《たと》へば粉末《ふんまつ》となつた鎔岩《ようがん》、即《すなは》ち火山灰《かざんばひ》のみを噴《ふ》き出《だ》す時《とき》でもさうである。然《しか》しながら單《たん》に蒸氣《じようき》、瓦斯《がす》又《また》は硫氣《りゆうき》を噴出《ふんしゆつ》するだけでは噴火《ふんか》とはいはないで、蒸氣孔《じようきこう》又《また》は硫氣孔《りゆうきこう》の状態《じようたい》にありといつてゐる。箱根山《はこねやま》は形《かたち》からいへば複式《ふくしき》火山《かざん》、經歴《けいれき》からいへば死火山《しかざん》、外輪山《がいりんざん》は金時《きんとき》、明神《みようじん》、明星《みようじよう》、鞍掛《くらかけ》、三國《みくに》の諸山《しよざん》、中央《ちゆうおう》火口丘《かこうきゆう》は冠岳《かんむりだけ》、駒ケ岳《こまがだけ》、二子山《ふたこやま》、神山《かみやま》等《とう》、さうして最後《さいご》の活動《かつどう》場所《ばしよ》が大涌谷《おほわくだに》であつて、こゝには今《いま》なほ蒸氣孔《じようきこう》、硫氣孔《りゆうきこう》が殘《のこ》つてゐる。
 日本《につぽん》に於《お》ける活火山《かつかざん》の兩大關《りようおほぜき》、東《ひがし》の方《ほう》を淺間山《あさまやま》とすれば、西《にし》は阿蘇山《あそざん》である。中《なか》にも阿蘇《あそ》はその外輪山《がいりんざん》の雄大《ゆうだい》なことに於《おい》て世界《せかい》第一《だいゝち》といはれてゐる。即《すなは》ちその直徑《ちよつけい》は東西《とうざい》四里《より》南北《なんぼく》五里《ごり》に及《およ》び、こゝに阿蘇《あそ》一郡《いちぐん》四萬《しまん》の人《ひと》が住《す》まつてゐる。但《たゞ》し噴火《ふんか》はこの火口《かこう》全體《ぜんたい》から起《おこ》つたのではなく、周圍《しゆうい》の土地《とち》の陷沒《かんぼつ》によつて斯《か》く擴《ひろ》がつたものだといふ。この廣《ひろ》き外輪山《がいりんざん》の中《なか》に幾《いく》つかの中央《ちゆうおう》火口丘《かこうきゆう》があるが、それが所謂《いはゆる》阿蘇《あそ》の五岳《ごがく》である。これ等《ら》は重《おも》に東西線《とうざいせん》と南北線《なんぼくせん》とに竝列《へいれつ》してゐるが、中央《ちゆうおう》の交叉點《こうさてん》に當《あた》る場所《ばしよ》に現在《げんざい》の活火口《かつかこう》たる中岳《なかだけ》(高《たか》さ千六百《せんろつぴやく》四十《しじゆう》米《めーとる》)がある。この中岳《なかたけ》の火口《かこう》は前《まへ》に記《しる》した通《とほ》り、南北《なんぼく》に連續《れんぞく》した數箇《すうこ》の池《いけ》から成立《なりた》ち、重《おも》なものとして、北中南《きたなかみなみ》の三《みつ》つを區別《くべつ》する。阿蘇《あそ》はこの百年《ひやくねん》ぐらゐの間《あひだ》、平均《へいきん》十一《じゆういち》年目《ねんめ》に活動《かつどう》を繰返《くりかへ》してゐるが、それはその三《みつ》つの池《いけ》のいづれかゞ活氣《かつき》を呈《てい》するに因《よ》るものである。然《しか》しながら、稀《まれ》には外《ほか》の場所《ばしよ》から噴《ふ》き出《だ》すこともある。火口《かこう》の池《いけ》が休息《きゆうそく》の状態《じようたい》にある時《とき》は、大抵《たいてい》濁水《だくすい》を湛《たゝ》へてゐるが、これが硫黄《いおう》を含《ふく》むために乳白色《にゆうはくしよく》ともなれば、熱湯《ねつとう》となることもある。活動《かつどう》に先《さき》んじて池水《ちすい》涸渇《こかつ》するのが通常《つうじよう》であるけれども、突然《とつぜん》爆發《ばくはつ》して池水《ちすい》を氾濫《はんらん》せしめたこともある。このために阿蘇郡《あそぐん》の南半《なんぱん》たる南郷谷《なんごうだに》の水《みづ》を集《あつ》めて流《なが》れる白川《しろかは》が文字《もじ》通《どほ》り乳白色《にゆうはくしよく》となり、魚介《ぎよかい》を死滅《しめつ》せしめることがある。北方《ほつぽう》阿蘇谷《あそだに》の水《みづ》は黒川《くろかは》に集《あつま》り、兩方《りようほう》相會《あひかい》する所《ところ》で外輪山《がいりんざん》を破《やぶ》り外方《がいほう》に流《なが》れ出《で》る。即《すなは》ちこの外輪山《がいりんざん》の破《やぶ》れ目《め》が火口瀬《かこうせ》である。箱根山《はこねやま》でこれに相當《そうとう》する場所《ばしよ》は湯本《ゆもと》の早川《はやかは》と須雲川《すぐもがは》の相會《あひかい》する所《ところ》である。阿蘇《あそ》の活動《かつどう》は右《みぎ》の外《ほか》、一般《いつぱん》に火山灰《かざんばひ》を飛《と》ばし、これが酸性《さんせい》を帶《お》びてゐるので、農作物《のうさくぶつ》を害《がい》し、これを食《しよく》する牛馬《ぎゆうば》をも傷《いた》めることがある。阿蘇《あそ》の火山灰《かざんばひ》はこの地方《ちほう》で『よな』と稱《とな》へられてゐるが、被害《ひがい》は單《たん》に阿蘇《あそ》のみに止《とゞ》まらずして、大分縣《おほいたけん》にまでも及《およ》ぶことがある。これは空氣《くうき》の上層《じようそう》には通常《つうじよう》西風《にしかぜ》があるので、下層《かそう》の風向《かざむ》きの如何《いかん》に拘《かゝは》らず、細《こま》かな火山灰《かざんばひ》は大抵《たいてい》大氣中《たいきちゆう》の上層《じようそう》に入《い》り、東方《とうほう》に運《はこ》ばれるに因《よ》るからである。
[#図版(img008.jpg)、阿蘇火口の平面圖]
 阿蘇《あそ》は日本《につぽん》の活火山《かつかざん》中《ちゆう》、最《もつと》も登《のぼ》り易《やす》い山《やま》であらう。國有《こくゆう》鐵道《てつどう》宮地線《みやぢせん》の坊中驛《ぼうぢゆうえき》又《また》は宮地驛《みやぢえき》から緩勾配《かんこうばい》の斜面《しやめん》を登《のぼ》ること一里半《いちりはん》ぐらゐで山頂《さんちよう》へ達《たつ》することが出來《でき》る。頂上《ちようじよう》近《ちか》くに茶店《ちやみせ》、宿屋《やどや》數軒《すうけん》あり、冬季《とうき》でも登攀《とうはん》不可能《ふかのう》でない。但《たゞ》しある意味《いみ》に於《お》ける世界《せかい》第一《だいゝち》のこの火山《かざん》に於《おい》て一《ひと》の觀測所《かんそくじよ》をも有《ゆう》しないことは、外國《がいこく》の學者《がくしや》に對《たい》しても恥《はづ》かしく思《おも》つてゐたが、今《いま》は京都《きようと》帝國《ていこく》大學《だいがく》の觀測所《かんそくじよ》がこゝに設立《せつりつ》されてゐる。
 つぎは東《ひがし》の大關《おほぜき》たる淺間山《あさまやま》(高《たか》さ二千五百《にせんごひやく》四十二《しじゆうに》米《めーとる》、單式《たんしき》火山《かざん》)を覗《のぞ》いて見《み》ることにする。この山《やま》も阿蘇《あそ》同樣《どうよう》に噴火《ふんか》の記録《きろく》も古《ふる》く、回數《かいすう》も頗《すこぶ》る多《おほ》いが、阿蘇《あそ》の噴火《ふんか》のだら/\として女性的《じよせいてき》なるに對《たい》し、これは男性的《だんせいてき》であるといつても然《しか》るべきである。休息《きゆうそく》の間隔《かんかく》は比較的《ひかくてき》に遠《とほ》いが、一度《いちど》活動《かつどう》を始《はじ》めるとなか/\激《はげ》しいことをやる。現《げん》に明治《めいじ》四十一年《しじゆういちねん》頃《ごろ》から始《はじ》まつた活動《かつどう》に於《おい》ては鎔岩《ようがん》を西方《せいほう》數十町《すうじつちよう》の距離《きより》にまで吹《ふ》き飛《と》ばし、小諸《こもろ》からの登山口《とざんぐち》、七合目《しちごうめ》にある火山《かざん》觀測所《かんそくじよ》にまで達《たつ》したこともある。特《とく》に天明《てんめい》三年《さんねん》(西暦《せいれき》千七百《せんしちひやく》八十三年《はちじゆうさんねん》)の噴火《ふんか》は激烈《げきれつ》であつて、現在《げんざい》鬼押出《おにおしだ》しと名《な》づけてゐる鎔岩流《ようがんりゆう》を出《だ》したのみならず、熱泥流《ねつでいりゆう》を火口壁《かこうへき》の最《もつと》も低《ひく》い場所《ばしよ》から一時《いちじ》に多量《たりよう》に溢《あふ》れさせ、北方《ほつぽう》上野《かうづけ》の國《くに》吾妻川《あづまがは》に沿《そ》うて百數十村《ひやくすうじつそん》を埋《うづ》め、千二百人《せんにひやくにん》の死者《ししや》を生《しよう》ぜしめた。最初《さいしよ》の活動《かつどう》に於《おい》ては火口内《かこうない》の鎔岩《ようがん》が、火口壁《かこうへき》の縁《へり》まで進《すゝ》み、一時《いちじ》流出《りゆうしゆつ》を氣遣《きづかは》れたけれども、つひにそのことなくして、鎔岩《ようがん》の水準《すいじゆん》が再《ふたゝ》び低下《ていか》してしまつたのである。
[#図版(img009.jpg)、淺間の噴火(菜花煙)]
 このついでに記《しる》して置《お》きたいのは、飛騨《ひだ》信濃《しなの》の國境《こつきよう》にある硫黄嶽《いおうだけ》、一名《いちめい》燒岳《やけだけ》(高《たか》さ二千四百《にせんしひやく》五十八《ごじゆうはち》米《めーとる》)である。この山《やま》は近時《きんじ》淺間山《あさまやま》と交代《こうたい》に活動《かつどう》する傾《かたむ》きを有《も》つてゐるが、降灰《こうはひ》のために時々《とき/″\》災害《さいがい》を桑園《そうえん》に及《およ》ぼし、養蠶上《ようさんじよう》の損害《そんがい》を被《かうむ》らしめるので、土地《とち》の人《ひと》に迷惑《めいわく》がられてゐる。
 近頃《ちかごろ》の噴火《ふんか》で最《もつと》もよく記憶《きおく》せられてゐるのは櫻島《さくらじま》(高《たか》さ一千《いつせん》六十《ろくじゆう》米《めーとる》)であらう。その大正《たいしよう》十二年《じゆうにねん》の噴火《ふんか》に於《おい》ては、山《やま》の東側《ひがしがは》と西側《にしがは》とに東西《とうざい》に走《はし》る二條《にじよう》の裂目《さけめ》を生《しよう》じ、各線上《かくせんじよう》五六《ごろく》の點《てん》から鎔岩《ようがん》を流出《りゆうしゆつ》した。この状態《じようたい》はエトナ式《しき》と稱《しよう》すべきである。但《たゞ》し櫻島《さくらじま》はかういふ大噴火《だいふんか》を百年《ひやくねん》或《あるひ》は二三百年《にさんびやくねん》の間隔《かんかく》を以《もつ》て繰返《くりかへ》すので、隨《したが》つて鎔岩《ようがん》の流出量《りゆうしゆつりよう》も多《おほ》く、前回《ぜんかい》の場合《ばあひ》は一《いち》・六《ろく》立方《りつぽう》粁《きろめーとる》と計算《けいさん》せられてゐるが、エトナは西暦《せいれき》千八百《せんはつぴやく》九年《くねん》乃至《ないし》千九百《せんくひやく》十一年《じゆういちねん》の十回《じつかい》に於《おい》て合計《ごうけい》〇・六一立方《りつぽう》粁《きろめーとる》しか出《だ》してゐない。かくて櫻島《さくらじま》は毎回《まいかい》多量《たりよう》の鎔岩《ようがん》を出《だ》すので島《しま》の大《おほ》きさも次第《しだい》に増《ま》して行《ゆ》くが、今回《こんかい》は東側《ひがしがは》に出《で》た鎔岩《ようがん》が遂《つひ》に瀬戸《せと》海峽《かいきよう》を埋《うづ》め、櫻島《さくらじま》をして大隅《おほすみ》の一半島《いちはんとう》たらしめるに至《いた》つた。かうして鎔岩《ようがん》に荒《あら》された損害《そんがい》も大《おほ》きいが、それよりも火山灰《かざんばひ》のために荒廢《こうはい》した土地《とち》の損害《そんがい》、地盤《じばん》沈下《ちんか》によつて失《うしな》はれた附近《ふきん》の水田《すいでん》或《あるひ》は鹽田《えんでん》の損害《そんがい》はそれ以上《いじよう》であつて、鹿兒島《かごしま》縣下《けんか》に於《お》ける全被害《ぜんひがい》千六百萬圓《せんろつぴやくまんえん》と計上《けいじよう》せられた。
 櫻島《さくらじま》噴火《ふんか》は著《いちじる》しい前徴《ぜんちよう》を備《そな》へてゐた。數日前《すうにちぜん》から地震《ぢしん》が頻々《ひんぴん》に起《おこ》ることは慣例《かんれい》であるが、今回《こんかい》も一日半《いちにちはん》前《ぜん》から始《はじ》まつた。又《また》七八十年《しちはちじゆうねん》前《ぜん》から土地《とち》が次第《しだい》に隆起《りゆうき》しつゝあつたが、噴火後《ふんかご》は元《もと》どほりに沈下《ちんか》したのである。その外《ほか》温泉《おんせん》、冷泉《れいせん》がその温度《おんど》を高《たか》め、或《あるひ》は湧出量《ゆうしゆつりよう》を増《ま》し、或《あるひ》は新《あら》たに湧出《ゆうしゆつ》し始《はじ》めたようなこともあつた。
 霧島《きりしま》火山群《かざんぐん》は東西《とうざい》五里《ごり》に亙《わた》り二《ふた》つの活火口《かつかこう》と多《おほ》くの死火山《しかざん》とを有《ゆう》してゐる。その二《ふた》つの活火口《かつかこう》とは矛《ほこ》の峯《みね》(高《たか》さ千七百《せんしちひやく》米《めーとる》)の西腹《せいふく》にある御鉢《おはち》と、その一里《いちり》ほど西《にし》にある新燃鉢《しんもえばち》とである。霧島《きりしま》火山《かざん》はこの二《ふた》つの活火口《かつかこう》で交互《こうご》に活動《かつどう》するのが習慣《しゆうかん》のように見《み》えるが、最近《さいきん》までは御鉢《おはち》が活動《かつどう》してゐた。但《たゞ》し享保《きようほ》元年《がんねん》(西暦《せいれき》千七百《せんしちひやく》十六年《じゆうろくねん》)に於《お》ける新燃鉢《しんもえばち》の噴火《ふんか》は、霧島《きりしま》噴火《ふんか》史上《しじよう》に於《おい》て最《もつと》も激《はげ》しく、隨《したが》つて最高《さいこう》の損害《そんがい》記録《きろく》を與《あた》へたものであつた。
 磐梯山《ばんだいざん》(高《たか》さ千八百《せんはつぴやく》十九《じゆうく》米《めーとる》)の明治《めいじ》二十一年《にじゆういちねん》六月《ろくがつ》十五日《じゆうごにち》に於《お》ける大爆發《だいばくはつ》は、當時《とうじ》天下《てんか》の耳目《じもく》を聳動《しようどう》せしめたものであつたが、クラカトアには比較《ひかく》すべくもない。この時《とき》に磐梯山《ばんだいざん》の大部分《だいぶぶん》は蒸氣《じようき》の膨脹力《ぼうちようりよく》によつて吹《ふ》き飛《と》ばされ、堆積物《たいせきぶつ》が溪水《たにみづ》を塞《ふさ》いで二三《にさん》の湖水《こすい》を作《つく》つたが、東側《ひがしがは》に流《なが》れ出《だ》した泥流《でいりゆう》のために土地《とち》のみならず、四百餘《しひやくよ》の村民《そんみん》をも埋《う》めてしまつたのである。
[#図版(img010.jpg)、磐梯山の爆發(平面竝に斷面圖)]
 肥前《ひぜん》の温泉岳《うんぜんだけ》(高《たか》さ千三百《せんさんびやく》六十《ろくじゆう》米《めーとる》)は時々《とき/″\》小規模《しようきぼ》の噴火《ふんか》をなし、少量《しようりよう》の鎔岩《ようがん》をも流出《りゆうしゆつ》することがあるが、寛政《かんせい》四年《よねん》四月《しがつ》一日《いちにち》(西暦《せいれき》千七百《せんしちひやく》九十二年《くじゆうにねん》五月《ごがつ》二十一日《にじゆういちにち》)噴火《ふんか》の場所《ばしよ》から一里程《いちりほど》も離《はな》れてゐる眉山《まゆやま》の崩壞《ほうかい》を、右《みぎ》の磐梯山《ばんだいざん》の爆發《ばくはつ》と同《おな》じ現象《げんしよう》のように誤解《ごかい》してゐる人《ひと》がある。この崩壞《ほうかい》の結果《けつか》、有明灣《ありあけわん》に大津浪《おほつなみ》を起《おこ》し、沿岸《えんがん》地方《ちほう》に於《おい》て合計《ごうけい》一萬《いちまん》五千人《ごせんにん》ほどの死者《ししや》を生《しよう》じた大事件《だんじけん》[#「だんじけん」は底本のまま]もあつたので、原因《げんいん》を輕々《かる/″\》しく斷定《だんてい》することは愼《つゝし》まねばならぬ。磐梯山《ばんだいざん》破裂《はれつ》の跡《あと》には大《おほ》きな蒸氣孔《じようきこう》を殘《のこ》し、火山《かざん》作用《さよう》は今《いま》もなほ盛《さか》んであるが、眉山《まゆやま》の場合《ばあひ》には毫《ごう》も右樣《みぎよう》の痕跡《こんせき》を止《とゞ》めなかつたのである。
 磐梯山《ばんだいざん》に近《ちか》く吾妻山《あづまやま》又《また》の名《な》一切經山《いつさいきようやま》(高《たか》さ千九百《せんくひやく》四十九《しじゆうく》米《めーとる》)がある。この山《やま》が活火山《かつかざん》であることは明治《めいじ》二十六年《にじゆうろくねん》に至《いた》るまで知《し》られなかつたが、この年《とし》突然《とつぜん》噴火《ふんか》を始《はじ》めたゝめ死火山《しかざん》でなかつたことが證據立《しようこだ》てられた。この際《さい》調査《ちようさ》に向《むか》つた農商務《のうしようむ》技師《ぎし》三浦《みうら》宗次郎氏《そうじろうし》と同技手《どうぎて》西山《にしやま》省吾氏《しようごし》が噴火《ふんか》の犧牲《ぎせい》になつた。少年《しようねん》讀者《どくしや》は東京《とうきよう》上野《うへの》の博物館《はくぶつかん》に收《をさ》めてある血染《ちぞ》めの帽子《ぼうし》と上着《うはぎ》とを忘《わす》れないようにされたいものである。
 東北《とうほく》地方《ちほう》の活火山《かつかざん》に鳥海山《ちようかいざん》(高《たか》さ二千二百《にせんにひやく》三十《さんじゆう》米《めーとる》)、岩手山《いはてさん》(高《たか》さ二千《にせん》四十一《しじゆういち》米《めーとる》)、岩木山《いはきさん》(高《たか》さ千六百《せんろつぴやく》二十五《にじゆうご》米《めーとる》)等《とう》がある。いづれも富士形《ふじがた》の單式《たんしき》火山《かざん》であつて、歴史《れきし》年代《ねんだい》に於《おい》て餘《あま》り活溌《かつぱつ》でない噴火《ふんか》を數回《すうかい》乃至《ないし》十數回《じゆうすうかい》繰返《くりかへ》した。享和《きようわ》年間《ねんかん》の鳥海《ちようかい》噴火《ふんか》と享保《きようほ》年間《ねんかん》の岩手《いはて》噴火《ふんか》とに於《おい》ては、鎔岩《ようがん》を流出《りゆうしゆつ》せしめたけれども、それも極《きは》めて少量《しようりよう》であつて、山《やま》の中腹《ちゆうふく》までも達《たつ》しないくらゐであつた。
 大島《おほしま》といふ名前《なまへ》の火山島《かざんとう》か[#「か」は底本のまま]伊豆《いづ》と渡島《おしま》とにある。伊豆《いづ》の大島《おほしま》の有《ゆう》する火山《かざん》は三原山《みはらやま》(高《たか》さ七百《しちひやく》五十五《ごじゆうご》米《めーとる》)と名《な》づけられ、噴火《ふんか》の古《ふる》い歴史《れきし》を有《ゆう》してゐる。爆發《ばくはつ》の力《ちから》頗《すこぶ》る輕微《けいび》であつて、活動中《かつどうちゆう》に於《おい》ても、中央《ちゆうおう》火口丘《かこうきゆう》へ近《ちか》づくことが容易《ようい》である。渡島《おしま》の大島《おほしま》も歴史《れきし》年代《ねんだい》に數回《すうかい》の噴火《ふんか》を繰返《くりかへ》したが、兩者《りようしや》共《とも》に火山毛《かざんもう》を産《さん》することは注意《ちゆうい》すべきことである。但《たゞ》しいづれも暗黒《あんこく》針状《しんじよう》のものである。
 北海道《ほつかいどう》には本島《ほんとう》だけでも駒ケ岳《こまがたけ》(高《たか》さ千百《せんひやく》四十《しじゆう》米《めーとる》)、十勝岳《とかちだけ》(高《たか》さ二千《にせん》七十七《しちじゆうしち》米《めーとる》)、有珠山《うすさん》(高《たか》さ七百《しちひやく》二十五《にじゆうご》米《めーとる》)、樽前山《たるまへさん》(高《たか》さ一千《いつせん》二十三《にじゆうさん》米《めーとる》)の活火山《かつかざん》があつて、いづれも特色《とくしよく》ある噴火《ふんか》をなすのである。その中《うち》樽前《たるまへ》は明治《めいじ》四十二年《しじゆうにねん》の噴火《ふんか》に於《おい》て、火口《かこう》からプレー式《しき》の鎔岩丘《ようがんきゆう》を押《お》し出《だ》し、それが今《いま》なほ存在《そんざい》して時々《とき/″\》その彼方《かなた》此方《こなた》を吹《ふ》き飛《と》ばす程《ほど》の小爆發《しようばくはつ》をつゞけてゐる。また有珠山《うすさん》の明治《めいじ》四十三年《しじゆうさんねん》の噴火《ふんか》は數日前《すうじつぜん》から地震《ぢしん》を先發《せんぱつ》せしめたので、時《とき》の室蘭《むろらん》警察《けいさつ》署長《しよちよう》飯田《いひだ》警視《けいし》が爆發《ばくはつ》を未然《みぜん》に察《さつ》し、機宜《きゞ》に適《てき》する保安上《ほあんじよう》の手段《しゆだん》を取《と》つたことは特筆《とくひつ》すべき事柄《ことがら》である。十勝岳《とかちだけ》も近頃《ちかごろ》まで死火山《しかざん》と考《かんが》へられてゐた火山《かざん》の一《ひと》つであるが、大正《たいしよう》十五年《じゆうごねん》突然《とつぜん》の噴火《ふんか》をなし、雪融《きゆど》け[#「きゆ」は底本のまま]のため氾濫《はんらん》を起《おこ》し、山麗《さんろく》[#「山麗」は底本のまま]の村落《そんらく》生靈《せいれい》を流亡《りゆうばう》せしめたことは、人々《ひと/″\》の記憶《きおく》になほ新《あら》たなものがあるであらう。
[#図版(img011.jpg)、樽前岳の鎔岩丘]
 わが國《くに》の陸上《りくじよう》の火山《かざん》を巡見《じゆんけん》するに當《あた》つてどうしても省《はぶ》くことの出來《でき》ないのは、富士山《ふじさん》(高《たか》さ三千七百《さんぜんしちひやく》七十八《しちじゆうはち》米《めーとる》)であらう。この山《やま》が琵琶湖《びはこ》と共《とも》に一夜《いちや》にして出來《でき》たなどといふのは、科學《かがく》を知《し》らなかつた人《ひと》のこじつけであらうが、富士《ふじ》が若《わか》い火山《かざん》であることには間違《まちが》ひはない。古《ふる》くは貞觀《じようかん》[#「じようかん」は底本のまま]年間《ねんかん》、近《ちか》くは寶永《ほうえい》四年《よねん》にも噴火《ふんか》して、火口《かこう》の下手《しもて》に堆積《たいせき》した噴出物《ふんしゆつぶつ》で寳永山《ほうえいざん》を形作《かたちづく》つた。即《すなは》ち成長期《せいちようき》にあつた少女《しようじよ》時代《じだい》の富士《ふじ》も一人《ひとり》の子持《こも》ちになつたわけである。やがて多《おほ》くの子供《こども》を持《も》ち複式《ふくしき》火山《かざん》の形《かたち》ともなり、遂《つひ》には現在《げんざい》の箱根山《はこねやま》の状態《じようたい》になる時《とき》も來《く》るであらう。
 右《みぎ》の外《ほか》、日本《につぽん》の近海《きんかい》に於《おい》ては、時々《とき/″\》海底《かいてい》の噴火《ふんか》を認《みと》めることがある。伊豆《いづ》南方《なんぽう》の洋底《ようてい》は航海中《こうかいちゆう》の船舶《せんぱく》が水柱《みづばしら》を望見《ぼうけん》し、或《あるひ》は鳴動《めいどう》に伴《ともな》つて黒煙《くろけむり》のあがるのを見《み》ることもあり、附近《ふきん》の海面《かいめん》に輕石《かるいし》の浮《うか》んでゐるのに出會《であ》ふこともある。大正《たいしよう》十三年《じゆうさんねん》琉球《りゆうきゆう》諸島《しよとう》の中《うち》、西表島《いりおもてとう》北方《ほつぽう》に於《おい》ても同樣《どうよう》の現象《げんしよう》を實見《じつけん》したことがあつた。
 以上《いじよう》の通《とほ》り、われ/\は内外《ないがい》の活火山《かつかざん》をざつと巡見《じゆんけん》した。その互《たがひ》の位置《いち》を辿《たど》つてみると一《ひと》つの線上《せんじよう》に竝《なら》んでゐるようにも見《み》え、或《あるひ》は雁《がん》の行列《ぎようれつ》を見《み》るようなふうに竝《なら》んでゐる場合《ばあひ》も見受《みう》けられる。かういふ脈《みやく》が所謂《いはゆる》火山脈《かざんみやく》であつて、最《もつと》も著名《ちよめい》な火山脈《かざんみやく》が太平洋《たいへいよう》の周圍《しゆうい》に横《よこ》たはつてゐる次第《しだい》である。かくして見《み》る時《とき》、火山《かざん》の火熱《かねつ》の原因《げんいん》、或《あるひ》は言葉《ことば》を換《か》へていへば、火山《かざん》から流出《りゆうしゆつ》する鎔岩《ようがん》の前身《ぜんしん》たる岩漿《がんしよう》が地下《ちか》に貯藏《ちよぞう》せられてゐる場所《ばしよ》は、決《けつ》して深《ふか》いものではなく、地表下《ちひようか》一二里《いちにり》或《あるひ》は深《ふか》くて五六里《ごろくり》以内《いない》の邊《へん》らしく想像《そう/″\》せられる。再《ふたゝ》び火山脈《かざんみやく》を辿《たど》つてみると、それが地震《ぢしん》の起《おこ》る筋《すぢ》、即《すなは》ち地震帶《ぢしんたい》と一致《いつち》し、或《あるひ》は相《あひ》竝行《へいこう》してゐる場合《ばあひ》が多《おほ》く認《みと》められる。然《しか》しながら火山脈《かざんみやく》を伴《ともな》つてゐない地震帶《ぢしんたい》も多數《たすう》あることを忘《わす》れてはならない。元來《がんらい》地震《ぢしん》は地層《ちそう》の破《やぶ》れ目《め》、即《すなは》ち斷層線《だんそうせん》に沿《そ》うて起《おこ》るものが多數《たすう》であり、さうして地下《ちか》の岩漿《がんしよう》は右《みぎ》の裂《さ》け目《め》に沿《そ》うて進出《しんしゆつ》することは、最《もつと》もあり得《う》べきことであるから、右《みぎ》のように火山脈《かざんみやく》と地震帶《ぢしんたい》の關係《かんけい》が生《しよう》じたのであらう。

   三、噴出物《ふんしゆつぶつ》

 噴火《ふんか》によつて噴《ふ》き出《だ》されるものゝ本體《ほんたい》は、第一《だいゝち》に鎔岩《ようがん》であり、これが前身《ぜんしん》たる岩漿《がんしよう》である。岩漿《がんしよう》は非常《ひじよう》な高《たか》い熱《ねつ》と壓力《あつりよく》との下《もと》に極《きは》めて多量《たりよう》の水《みづ》を含有《がんゆう》することが出來《でき》るから、外界《がいかい》に現《あらは》れて來《き》た鎔岩《ようがん》は多量《たりよう》の蒸氣《じようき》を吐《は》くのである。この蒸氣《じようき》の擴《ひろ》がる力《ちから》が火山《かざん》の爆發力《ばくはつりよく》となるのである。それが火口《かこう》から盛《も》り上《あが》つて出《で》る形状《けいじよう》は、西洋《せいよう》料理《りようり》に使《つか》はれる菜《な》の花《はな》に似《に》てゐるから菜花状《さいかじよう》の雲《くも》と呼《よ》ばれる。これには鎔岩《ようがん》の粉末《ふんまつ》が加《くは》はつてゐるから多少《たしよう》暗黒色《あんこくしよく》に見《み》える。それが即《すなは》ち煙《けむり》と呼《よ》ばれる以所《ゆえん》[#「以所」は底本のまま]である。かういふふうに噴出《ふんしゆつ》が烈《はげ》しい時《とき》は電氣《でんき》の火花《ひばな》が現《あらは》れる。性空《しようくう》上人《しようにん》が霧島《きりしま》火山《かざん》の神體《しんたい》と認《みと》めたものは以上《いじよう》の現象《げんしよう》に相違《そうい》なからう。
 鎔岩《ようがん》は種々《しゆ/″\》の形體《けいたい》となつて噴出《ふんしゆつ》せられる。先《ま》づ火山灰《かざんばひ》の外《ほか》に、大小《だいしよう》の破片《はへん》が抛《な》げ出《だ》される。もし鎔融状《ようゆうじよう》のまゝのものが地上《ちじよう》に落《お》ちる際《さい》、ある程度《ていど》に冷却《れいきやく》してゐたならば、空中《くうちゆう》旅行中《りよこうちゆう》回轉《かいてん》運動《うんどう》のために取《と》つた形《かたち》を維持《いじ》し、そのまゝ、つむ形《がた》、鰹節形《かつぶしがた》、皿形樣《さらがたよう》の火山彈《かざんだん》となり、また内部《ないぶ》から蒸氣《じようき》を吐《は》き出《だ》すためぱん[#「ぱん」に傍点]形《がた》のものとなるのである。
 鎔岩《ようがん》の大部分《だいぶぶん》は火口底《かこうてい》から次第《しだい》に火口壁《かこうへき》の上部《じようぶ》まで盛《も》り上《あが》つて遂《つひ》に外側《そとがは》に溢《あふ》れ出《いづ》るに至《いた》ることがある。或《あるひ》は外壁《がいへき》の上部《じようぶ》に生《しよう》じた裂《さ》け目《め》から出《いづ》ることもあり、又《また》側壁《そくへき》を融《と》かしてそこから溢《あふ》れ出《で》ることもある。この流下《りゆうか》の際《さい》なほ多量《たりよう》の蒸氣《じようき》を吐《は》き出《だ》しつゝあると、こーくす[#「こーくす」に傍点]のような粗面《そめん》の鎔岩《ようがん》となるが、もし蒸氣《じようき》が大抵《たいてい》吐《は》き出《だ》されてしまつた後《のち》ならば、表面《ひようめん》が多少《たしよう》滑《なめら》かに固《かた》まり、或《あるひ》は繩《なは》をなつたような形《かたち》ともなり、又《また》犀《さい》の皮《かは》を見《み》るように大《おほ》きな襞《ひだ》を作《つく》ることもある。ハワイ土人《どじん》はこれをパホエホエ式《しき》と呼《よ》んゐでゐる。こーくす[#「こーくす」に傍点]状《じよう》の鎔岩《ようがん》は中央《ちゆうおう》火口丘《かこうきゆう》から噴出《ふんしゆつ》せられて、それ自身《じしん》の形體《けいたい》を積《つ》み上《あ》げて行《ゆ》くことが多《おほ》い。鎔岩《ようがん》に無數《むすう》の泡末《ほうまつ》が含《ふく》まれたものは輕石《かるいし》或《あるひ》はそれに類似《るいじ》のものとなるのであるが、その小片《しようへん》はらぴり[#「らぴり」に傍点]と名《な》づけられ、火山灰《かざんばひ》と共《とも》に遠方《えんぽう》にまで運《はこ》ばれる。
[#図版(img012.jpg)、火山彈(伊豆大島)]
 火山毛《かざんもう》の成因《せいゝん》は一應《いちおう》説明《せつめい》を要《よう》する。讀者《どくしや》は化學《かがく》又《また》は物理學《ぶつりがく》の實驗《じつけん》に於《おい》て、硝子管《がらすくだ》を融《と》かしながら急《きゆう》に引《ひ》きちぎると、管《くだ》の端《はし》が細《ほそ》い絲《いと》を引《ひ》くことを實驗《じつけん》せられたことがあるであらう。ハワイの火山《かざん》のように海底《かいてい》から盛《も》り上《あが》つて出來《でき》たものは、鎔融《ようゆう》状態《じようたい》に於《おい》て比較的《ひかくてき》に流動《りゆうどう》し易《やす》い性質《せいしつ》を持《も》つてゐることは、前《まへ》にも述《の》べた所《ところ》であるが、かういふ硝子質《がらすしつ》の鎔岩《ようがん》に對《たい》してこれを跳《は》ね飛《と》ばすような力《ちから》が加《くは》はると火山毛《かざんもう》が出來《でき》るのである。歴史《れきし》のどこかに毛《け》を降《ふ》らした記事《きじ》があるが、その中《なか》の或《ある》場合《ばあひ》は火山毛《かざんもう》であつたらしく思《おも》はれる。寶暦《ほうれき》九年《くねん》七月《しちがつ》二十八日《にじゆうはちにち》弘前《ひろさき》に於《おい》て西北方《せいほくほう》遽《にはか》に曇《くも》り灰《はひ》を降《ふ》らしたが、その中《なか》には獸毛《じゆうもう》の如《ごと》きものも含《ふく》まれてゐたといふ。これは渡島《おしま》大島《おほしま》の噴火《ふんか》に因《よ》つたものである。ピソライトといふ雀《すゞめ》の卵《たまご》のようなものが、火山灰《かざんばひ》の中《なか》に轉《ころが》つてゐることがある。これは雨粒《あめつぶ》が火山灰《かざんばひ》の上《うへ》に轉《ころが》つて出來《でき》たものに過《す》ぎないのである。火山《かざん》はまた泥《どろ》を噴出《ふんしゆつ》することがある。ヴェスヴィオの山麓《さんろく》にあつたシラキュラニウムの町《まち》は泥流《でいりゆう》のために埋《うづ》められたが、この頃《ごろ》は開掘《かいくつ》せられてある。天明《てんめい》の淺間《あさま》噴火《ふんか》に於《お》ける泥流《でいりゆう》の被害《ひがい》は前《まへ》に述《の》べた通《とほ》りである。
[#図版(img013.jpg)、こーくす状鎔岩]
[#図版(img014.jpg)、犀皮状鎔岩]
 火山《かざん》の噴出物《ふんしゆつぶつ》は固體《こたい》の他《ほか》に多《おほ》くの氣體《きたい》がある。水蒸氣《すいじようき》は勿論《もちろん》、炭酸《たんさん》瓦斯《がす》、水素《すいそ》、鹽素《えんそ》、硫黄《いおう》からなる各種《かくしゆ》の瓦斯《がす》があり、或《ある》ものは燃《も》えて青《あを》い光《ひかり》を出《だ》したともいはれてゐる。又《また》これ等《ら》の瓦斯《がす》の或物《あるもの》は凝結《ぎようけつ》して種々《しゆ/″\》の鹽類《えんるい》となつて沈積《ちんせき》してゐることがある。外國《がいこく》の或《ある》火山《かざん》からはヘリウム瓦斯《がす》が採集《さいしゆう》されたといはれてゐる。日本《につぽん》に於《おい》てもこれが研究《けんきゆう》されたけれども未《ま》だその實在《じつざい》が認《みと》められないようである。もしこれが成功《せいこう》するならば、飛行船用《ひかうせんよう》などとして極《きは》めて有益《ゆうえき》であり、火山《かざん》の利用《りよう》がこの點《てん》に於《おい》ても實現《じつげん》することになるのであらう。

   四、噴火《ふんか》の模樣《もよう》

 ストロムボリのようにかつて活動《かつどう》を休止《きゆうし》したことのない火山《かざん》や磐梯山《ばんだいざん》の如《ごと》く極《きは》めて稀《まれ》に、しかし突然《とつぜん》な爆發《ばくはつ》をなす火山《かざん》は特別《とくべつ》として、一般《いつぱん》の活火山《かつかざん》は、間歇的《かんけつてき》に活動《かつどう》するのが原則《げんそく》である。即《すなは》ち一時《いちじ》活動《かつどう》した後《のち》は、暫時《ざんじ》休息《きゆうそく》して、或《あるひ》は硫氣孔《りゆうきこう》の状態《じようたい》となり、或《あるひ》は噴氣孔《ふんきこう》となり、或《あるひ》はそのような噴氣《ふんき》も全《まつた》くなくなることがある。その休息《きゆうそく》時間《じかん》の長短《ちようたん》、或《あるひ》は休眠《きゆうみん》から覺《さ》めたときの活動《かつどう》ぶりにも各火山《かくかざん》にめい/\の特色《とくしよく》があつて、一概《いちがい》にはいへないが、平均《へいきん》期間《きかん》よりも長《なが》く休止《きゆうし》した後《のち》の噴火《ふんか》は平均《へいきん》の場合《ばあひ》よりも強《つよ》く、反對《はんたい》に短《みじか》く休息《きゆうそく》した後《のち》の場合《ばあひ》は噴火《ふんか》が比較的《ひかくてき》に弱《よわ》い。また平均《へいきん》よりも大《おほ》きな噴火《ふんか》をなした後《のち》は休息期《きゆうそくき》が長《なが》く、反對《はんたい》に小《ちい》さな噴火《ふんか》をなした後《のち》は休息期《きゆうそくき》が短《みじか》い。
 活火山《かつかざん》が新《あら》たに活動《かつどう》を開始《かいし》しようとする時《とき》、何等《なんら》かの前兆《ぜんちよう》を伴《ともな》ふ場合《ばあひ》がある。土地《とち》が噴火前《ふんかぜん》に次第《しだい》に隆起《りゆうき》したことは、大正《たいしよう》三年《さんねん》の櫻島《さくらじま》噴火《ふんか》に於《おい》て始《はじ》めて氣《き》づかれた事實《じじつ》である。恐《おそ》らくは大抵《たいてい》の場合《ばあひ》に於《おい》てさうなのであらう。噴火後《ふんかご》の實測《じつそく》によつて一般《いつぱん》に土地《とち》が次第《しだい》に下《さが》つて行《ゆ》くことは既《すで》に多《おほ》くの場合《ばあひ》に證據立《しようこだ》てられたところである。讀者《どくしや》は餅《もち》を燒《や》かれるとき、これに類似《るいじ》した現象《げんしよう》を觀察《かんさつ》されることがあるであらう。
 噴火《ふんか》の間際《まぎは》になると、極《きは》めて狹《せま》い範圍《はんい》のみに感《かん》ずる地震《ぢしん》、即《すなは》ち局部《きよくぶ》の微震《びしん》が頻々《ひんぴん》に起《おこ》ることが通常《つうじよう》である。地表《ちひよう》近《ちか》くに進出《しんしゆつ》して來《き》た蒸氣《じようき》が、地表《ちひよう》を破《やぶ》らうとする働《はたら》きのために起《おこ》るものであらう。地震計《ぢしんけい》を以《もつ》て觀察《かんさつ》すると、かういふ地下《ちか》の働《はたら》きの所在地《しよざいち》が分《わか》るから、それからして岩漿《がんしよう》の貯藏《ちよぞう》されてゐる場所《ばしよ》の深《ふか》さが想像《そう/″\》せられる。又《また》さういふ種類《しゆるい》の地震《ぢしん》と爆發《ばくはつ》に伴《ともな》ふ地震《ぢしん》との區別《くべつ》も、地震計《ぢしんけい》の記録《きろく》によつて明《あき》らかにされるから、地震計《ぢしんけい》は噴火《ふんか》の診斷器《しんだんき》となるわけである。
 火山《かざん》は地震《ぢしん》の安全瓣《あんぜんべん》だといふ諺《ことわざ》がある。これには一|面《めん》の眞理《しんり》があるように思《おも》ふ。勿論《もちろん》事實《じじつ》として火山《かざん》地方《ちほう》には決《けつ》して大地震《だいぢしん》を起《おこ》さない。たとひ多少《たしよう》強《つよ》い地震《ぢしん》を起《おこ》すことがあつても、それは中流《ちゆうりゆう》以下《いか》のものであつて、最大級《さいだいきゆう》の程度《ていど》を遙《はる》かに下《くだ》つたものである。前《まへ》に噴火《ふんか》の前後《ぜんご》に地盤《ぢばん》の變動《へんどう》が徐々《じよ/\》に起《おこ》ることを述《の》べた。最大級《さいだいきゆう》の地震《ぢしん》ではかような地變《ちへん》が急激《きゆうげき》に起《おこ》るのである。火山《かざん》地方《ちほう》ではその程度《ていど》の地變《ちへん》が緩漫《かんまん》に起《おこ》るのであるから、それで火山《かざん》が地震《ぢしん》の安全瓣《あんぜんべん》となるわけであらう。
 噴火前《ふんかぜん》には周圍《しゆうい》の土地《とち》が餅《もち》の燒《や》かれてふくらむような状態《じようたい》になることは、既《すで》に了解《りようかい》せられたであらう。かような状態《じようたい》にある土地《とち》に於《おい》て、從來《じゆうらい》の温泉《おんせん》は湧出量《ゆうしゆつりよう》が増《ま》したり、隨《したが》つて温度《おんど》も上《のぼ》ることあるは當然《とうぜん》である。其他《そのた》新《あら》たに温泉《おんせん》や冷泉《れいせん》が湧《わ》き始《はじ》めることもあり、又《また》炭酸《たんさん》瓦斯《がす》や其他《そのた》の瓦斯《がす》を土地《とち》の裂《さ》け目《め》から出《だ》して、鳥《とり》の地獄《じごく》や蟲《むし》の地獄《じごく》を作《つく》ることもある。
 前《まへ》に内外《ないがい》の火山《かざん》を巡見《じゆんけん》した場合《ばあひ》の記事《きじ》を掲《かゝ》げて置《お》いたが、諸君《しよくん》若《も》し兩方《りようほう》を比較《ひかく》せられたならば、國内《こくない》の火山《かざん》作用《さよう》は概《がい》して穩《おだや》かであつて、海外《かいがい》の最《もつと》も激烈《げきれつ》なものに比較《ひかく》すれば遙《はる》かにそれ以下《いか》であることを了解《りようかい》せられるであらう。それで噴火《ふんか》の珍現象《ちんげんしよう》を收録《しゆうろく》するには、勢《いきほひ》海外《かいがい》の火山《かざん》に材料《ざいりよう》を仰《あふ》がざるを得《え》なくなる。勿論《もちろん》それには研究《けんきゆう》の行屆《ゆきとゞ》いてゐるのと、さうでないとの關係《かんけい》も加《くは》はつてゐる。
 噴火《ふんか》の前景氣《まへけいき》が愈《いよ/\》進《すゝ》んで來《く》ると、火口《かこう》からの噴煙《ふんえん》が突然《とつぜん》勢《いきほひ》を増《ま》して來《く》る。もし櫻島《さくらじま》のように四合目《しごうめ》邊《あた》りから裂《さ》け目《め》を作《つく》り始《はじ》め、そこから鎔岩《ようがん》を流《なが》す慣例《かんれい》を持《も》つてゐるものならば、其《その》裂《さ》け目《め》を完全《かんぜん》にするために、先《ま》づ土砂《どさ》を吹《ふ》き飛《と》ばす等《など》の働《はたら》きをする。愈《いよ/\》噴火《ふんか》が始《はじ》まると菜花状《さいかじよう》の噴煙《ふんえん》に大小《だいしよう》種々《しゆ/″\》の鎔岩《ようがん》を交《まじ》へて吹《ふ》き飛《と》ばし、それが場合《ばあひ》によつては數十町《すうじつちよう》にも達《たつ》することがある。この際《さい》鎔岩《ようがん》は水蒸氣《すいじようき》の尾《を》を曳《ひ》くことが目覺《めざ》ましい。又《また》菜花煙《さいかえん》の彼方《かなた》此方《こなた》に電光《でんこう》の閃《ひらめ》くのが見《み》られる。この際《さい》の雷鳴《らいめい》は噴火《ふんか》の音《おと》に葬《はうむ》られてしまふが、これは單《たん》に噴煙上《ふんえんじよう》にて放電《ほうでん》するのみで、地上《ちじよう》に落雷《らくらい》した例《れい》がないといはれてゐる。或《あるひ》は右《みぎ》のような積極的《せききよくてき》動作《どうさ》の代《かは》りに、噴氣《ふんき》或《あるひ》は噴煙《ふんえん》が突然《とつぜん》やむような消極的《しようきよくてき》の前徴《ぜんちよう》を示《しめ》すものもあり、又《また》氣壓《きあつ》の變動《へんどう》特《とく》に低壓《ていあつ》の際《さい》に起《おこ》る癖《くせ》のあるものもあるから、活動中《かつどうちゆう》或《あるひ》は活動《かつどう》に轉《てん》じそうな火山《かざん》に登《のぼ》るものは、この種《しゆ》の火山《かざん》特性《とくせい》に注意《ちゆうい》する必要《ひつよう》がある。
 噴火《ふんか》が突然《とつぜん》に起《おこ》ると、それが極《きは》めて激烈《げきれつ》な空氣《くうき》波動《はどう》を伴《ともな》ふことがある。火口《かこう》近《ちか》くにゐてこの波動《はどう》に直面《ちよくめん》したものは、空氣《くうき》の大《おほ》きな槌《つち》を以《もつ》て擲《なぐ》られたことになるので、巨大《きよだい》な樹木《じゆもく》が見事《みごと》に折《を》れ、或《あるひ》は根《ね》こぎにされて遠方《えんぽう》へ運《はこ》ばれる。勿論《もちろん》家屋《かおく》などは一溜《ひとたま》りもない。
 噴煙《ふんえん》に加《くは》はつて出《で》て來《く》る火山灰《かざんばひ》やラピリは、噴火《ふんか》の經過《けいか》に伴《ともな》つて、其《その》形状《けいじよう》に於《おい》ても内容《ないよう》に於《おい》ても色々《いろ/\》に變化《へんか》する。千九百《せんくひやく》六年《ろくねん》のヴェスヴィオ噴火《ふんか》については、初日《しよにち》から八日目《やうかめ》に至《いた》るまでに噴出《ふんしゆつ》した火山灰《かざんばひ》を日々《ひゞ》の順序《じゆんじよ》に竝《なら》べ、これを硝子管《がらすくだ》につめて發賣《はつばい》してゐる。正否《せいひ》のほどは保證《ほしよう》し難《がた》いが、それはとに角《かく》こんな些細《ささい》な事物《じぶつ》まで科學的《かがくてき》に整理《せいり》せられてゐることは歎賞《たんしよう》に價《あたひ》するであらう。
 火口《かこう》の上皮《じようひ》が一兩日《いちりようじつ》の間《あひだ》に取《と》り除《のぞ》かれると、噴火《ふんか》現象《げんしよう》は更《さら》に高調《こうちよう》して來《き》て、遂《つひ》に鎔岩《ようがん》を流出《りゆうしゆつ》せしめる程度《ていど》に達《たつ》する。但《たゞ》しこの鎔岩《ようがん》の流出《りゆうしゆつ》するか否《いな》かはその火山《かざん》の特性《とくせい》にも依《よ》るのであつて、鎔岩《ようがん》流出《りゆうしゆつ》が必《かなら》ず起《おこ》るものとも限《かぎ》らない。
 融《と》けた鎔岩《ようがん》の温度《おんど》は攝氏《せつし》千度《せんど》内外《ないがい》で、千二百度《せんにひやくど》にも達《たつ》する場合《ばあひ》もあるが、其《その》流動性《りゆうどうせい》は、この温度《おんど》に因《よ》つて定《さだ》まること勿論《もちろん》であつて、同一《どういち》[#「どういち」は底本のまま]温度《おんど》でも成分《せいぶん》によつて著《いちじる》しい相違《そうい》がある。前《まへ》にも述《の》べた通《とほ》り、深海底《しんかいてい》から拔《ぬ》け出《で》た火山《かざん》の産《さん》する鎔岩《ようがん》は流動性《りゆうどうせい》に富《と》んでゐるが、大陸《たいりく》又《また》はその近《ちか》くにある火山《かざん》から産《さん》するものは、流動性《りゆうどうせい》に乏《とも》しく、噴出物《ふんしゆつぶつ》堆積《たいせき》して圓錐形《えんすいけい》の高山《こうざん》を作《つく》るのが通常《つうじよう》である。又《また》鎔岩《ようがん》が次第《しだい》に冷却《れいきやく》して來《く》るとどんな成分《せいぶん》のものも流動《りゆうどう》し難《がた》くなり、其後《そのご》は固形《こけい》の岩塊《がんかい》が先頭《せんとう》の岩塊《がんかい》を踏《ふ》み越《こ》えて前進《ぜんしん》するのみである。
 噴煙《ふんえん》が間歇的《かんけつてき》に起《おこ》ると、時々《とき/″\》見事《みごと》な煙輪《えんわ》が出來《でき》る。丁度《ちようど》石油《せきゆ》發動機《はつどうき》の煙突上《えんとつじよう》に見《み》るように。
[#図版(img015.jpg)、煙輪(エトナ)]
 閃弧《せんこ》といふものがある。圖《ず》は千九百《せんくひやく》六年《ろくねん》のヴェスヴィオ噴火《ふんか》に於《おい》て、ペアレット氏《し》の撮影《さつえい》に係《かゝ》るものである。この現象《げんしよう》を少年《しようねん》讀者《どくしや》に向《むか》つて説明《せつめい》することは頗《すこぶ》る難事《なんじ》であるが、唯《たゞ》噴火《ふんか》の際《さい》、發《はつ》せられた數回《すうかい》の連續的《れんぞくてき》爆發《ばくはつ》が寫眞《しやしん》に撮《と》れたものと承知《しようち》して貰《もら》ひたい。この珍現象《ちんげんしよう》を目撃《もくげき》することさへ容易《ようい》に捉《とら》へ難《がた》い機會《きかい》であるのに、しかもこれを寫眞《しやしん》にとつて一般《いつぱん》の人《ひと》にもその概觀《がいかん》を傳《つた》へたペアレット氏《し》の功績《こうせき》は偉《い》とすべきでゐる[#「ゐる」は底本のまま]。
[#図版(img016.jpg)、閃弧]
 ペアレット氏《し》はストロムボリにて火《ひ》の玉《たま》を見《み》たと稱《しよう》してゐる。その大《おほ》いさは直徑《ちよつけい》一米《いちめーとる》程《ほど》であつて青《あを》く光《ひか》つたものであつたといふ。これに似《に》た觀察《かんさつ》は阿蘇山《あそざん》の嘉元《かげん》三年《さんねん》三月《さんがつ》三十日《さんじゆうにち》(西暦《せいれき》千三百《せんさんびやく》五年《ごねん》五月《ごがつ》二日《ふつか》)の午後《ごご》四時《よじ》頃《ごろ》、地中《ちちゆう》から太陽《たいよう》の如《ごと》き火玉《ひだま》が三《みつ》つ出《で》て空《そら》に上《のぼ》り、東北《とうほく》の方《ほう》へ飛《と》び去《さ》つたといふことがある。現象《げんしよう》が極《きは》めて稀《まれ》であるので、正體《しようたい》がよく突《つ》き留《と》められてゐないが、電氣《でんき》作用《さよう》に基《もと》づくものだらうといはれてゐる。ヴェスヴィオの千九百《せんくひやく》六年《ろくねん》の大噴火《だいふんか》に於《おい》て、非常《ひじよう》に強《つよ》い電氣《でんき》を帶《お》びた噴煙《ふんえん》を認《みと》めたこともあり、その靡《なび》いた煙《けむり》に近《ちか》づいた時《とき》、服裝《ふくそう》につけてゐた金屬《きんぞく》の各尖端《かくせんたん》から電光《でんこう》を發《はつ》したことも經驗《けいけん》せられてゐる。
 噴火《ふんか》作用中《さようちゆう》で最《もつと》も恐《おそ》れられてゐるのは、赤熱《せきねつ》した火山灰《かざんばひ》が火口《かこう》から市街地《しがいち》に向《むか》つて發射《はつしや》されることである。この事は西暦《せいれき》千九百《せんくひやく》二年《にねん》五月《ごがつ》八日《やうか》マルチニック島《とう》プレー山《さん》の噴火《ふんか》に就《つい》て記《しる》した通《とほ》りであるが、サンピール市《し》二萬《にまん》六千《ろくせん》の人口中《じんこうちゆう》、生存者《せいぞんしや》は地下室《ちかしつ》に監禁《かんきん》されてゐた一名《いちめい》の囚徒《しゆうと》のみであるので、右《みぎ》の現象《げんしよう》の實際《じつさい》の目撃者《もくげきしや》は一人《ひとり》も生存《せいぞん》し得《え》なかつたわけである。然《しか》しこの噴火《ふんか》に就《つ》いて最《もつと》も權威《けんい》ある調査《ちようさ》を遂《と》げたラクロア教授《きようじゆ》は、同年《どうねん》十二月《じゆうにがつ》十六日《じゆうろくにち》以來《いらい》數回《すうかい》に亙《わた》り同現象《どうげんしよう》を目撃《もくげき》した。同教授《どうきようじゆ》の計算《けいさん》によると、火口《かこう》から打出《うちだ》されてから山麓《さんろく》或《あるひ》は海面《かいめん》に到達《とうたつ》して靜止《せいし》するまでの平均《へいきん》の速《はや》さは、毎秒《まいびよう》二十《にじゆう》米《めーとる》以上《いじよう》であつて、最大《さいだい》毎秒《まいびよう》百五十《ひやくごじゆう》米《めーとる》にも及《およ》び、其《その》巨大《きよだい》な抛射物《ほうしやぶつ》から放《はな》たれる菜花状《さいかじよう》の雲《くも》は、高《たか》さ四五千《しごせん》米《めーとる》にも達《たつ》したといふ。さうしてこれが通過《つうか》した跡《あと》には啻《たゞ》に火山灰《かざんばひ》やラピリ[#「ラピリ」に傍点]のみならず、大《おほ》きな石塊《せきかい》も混入《こんにゆう》してゐた。かゝる恐《おそ》ろしい現象《げんしよう》はこれ迄《まで》右《みぎ》のプレー噴火《ふんか》に經驗《けいけん》せられたのみであつて、其他《そのた》の火山《かざん》に於《おい》ては未《いま》だかつて經驗《けいけん》されたことがない。
[#図版(img017.jpg)、白熱灰の抛射]
 かういふ大規模《おほきぼ》の噴火《ふんか》も最高調《さいこうちよう》に達《たつ》するのは數日《すうじつ》或《あるひ》は一週間内《いつしゆうかんない》にあるので、その後《ご》は噴火《ふんか》勢力《せいりよく》とみに減退《げんたい》して行《ゆ》くのが通常《つうじよう》である。

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【テキスト中、置きかえた漢字】

[第3水準1-89-31]→ 禍
[第3水準1-14-48]→ 免
[第3水準1-89-28]→ 神
[第3水準1-89-25]→ 祖
[第3水準1-14-41]→ 僧
[第3水準1-47-64]→ 屡
[第3水準1-86-83]→ 涙
[第3水準1-85-2]→ 撃
[第3水準1-93-21]→ 録
[第3水準1-86-92]→ 温
[第3水準1-94-82]→ 黒
[第3水準1-89-3]→ 研
[第3水準1-87-74]→ 状
[第3水準1-14-81]→ 即
[第3水準1-94-20]→ 騨
[第3水準1-15-61]→ 増
[第3水準1-87-30]→ 瀬
[第3水準1-84-36]→ 徴
[第3水準1-87-9]→ 溌
[第3水準1-91-89]→ 視
[第3水準1-47-65]→ 層
[第3水準1-89-68]→ 節
[第3水準1-85-39]→ 暦
[第3水準1-94-4]→ 類
[第3水準1-89-49]→ 突
[第3水準1-86-4]→ 概
[第3水準1-93-61]→ 隆
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※「あそざん」と「あそさん」、「ちようかいさん」と「ちようかいざん」、台と臺、岳と嶽の混用は底本のとおりです。

底本:『星と雲・火山と地震』復刻版 日本児童文庫、名著普及会
   1982(昭和57)年6月20日 発行
親本:『星と雲・火山と地震』日本兒童文庫、アルス
   1930(昭和5)年2月15日 発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日公開
青空文庫作成ファイル:
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*地名


千島 ちしま → 千島列島
千島列島 ちしま れっとう 北海道本島東端からカムチャツカ半島の南端に達する弧状の列島。国後・択捉(以上南千島)、得撫・新知・計吐夷・羅処和・松輪・捨子古丹・温祢古丹(以上中千島)、幌筵・占守・阿頼度(以上北千島)など。第二次大戦後ロシア(旧ソ連)の管理下にある。クリル列島。

[北海道]
渡島大島 おしま おおしま 北海道松前郡松前町(渡島国)の西方沖50kmにある無人島。他の大島と区別するため便宜的に渡島大島或いは松前大島と呼ばれる。
駒ヶ岳 こまがだけ 北海道渡島半島東側、内浦湾南岸の活火山。標高1131メートル。
十勝岳 とかちだけ 北海道中央部の活火山。十勝・石狩の境上にそびえ、標高2077メートル。複式火山。頂上は外輪山の溶岩円頂丘。
有珠山 うすさん/うすざん 北海道南西部、洞爺湖の南にある二重式活火山。標高733メートル。2000年に大規模な水蒸気爆発を観測。
樽前山 たるまえさん/たるまえざん 標高1,041m。北海道南西部、支笏湖の南、苫小牧市と千歳市にまたがる活火山。支笏洞爺国立公園に属する。

[青森県]
岩木山 いわきさん 青森県弘前市の北西にそびえる円錐状の二重式火山。標高1625メートル。南東麓に岩木山神社があり、江戸時代建立の社殿は壮麗。津軽富士。
弘前 ひろさき 青森県の南西部、津軽平野の中心都市。リンゴ・米などを集散し、津軽塗・あけび細工を特産。もと津軽氏10万石の城下町。ねぷた祭は有名。人口18万9千。

[岩手県]
岩手山 いわてさん 岩手県盛岡市の北西方にある成層火山。標高2038メートル。南麓に小岩井農場・網張温泉がある。岩手富士。南部富士。

[秋田県・山形県]
鳥海山 ちょうかいさん 秋田・山形県境に位置する二重式成層火山。山頂は旧火山の笙ガ岳(1635メートル)などと新火山の新山(2236メートル)とから成る。中央火口丘は鈍円錐形で、火口には鳥海湖を形成。出羽富士。

[福島県]
磐梯山 ばんだいさん 福島県の北部、猪苗代湖の北にそびえる活火山。標高1819メートル。1888年(明治21)に爆発し、岩屑流が北麓の集落を埋没、渓流をせきとめて桧原・小野川・秋元の桧原三湖と五色沼その他大小百余の池や沼を作った。会津嶺。会津富士。
吾妻山 あずまやま 福島市の西方、福島・山形の県境をなす火山群。最高峰は西吾妻山で、標高2035メートル。磐梯朝日国立公園に属する。

[長野県・群馬県]
浅間山 あさまやま 長野・群馬両県にまたがる三重式の活火山。標高2568メートル。しばしば噴火、1783年(天明3)には大爆発し死者約2000人を出した。斜面は酪農や高冷地野菜栽培に利用され、南麓に避暑地の軽井沢高原が展開。浅間岳。(歌枕)
小諸 こもろ 長野県東部、浅間山南西麓の市。もと牧野氏1万5000石の城下町、北国街道の宿駅。城址は懐古園という。島崎藤村の「千曲川旅情の歌」で名高い。人口4万5千。
鬼押出 おにおしだし 群馬県西端、長野県境の浅間山北斜面の溶岩流地域。1783年(天明3)の大爆発時に噴出し、多数の死者を出した。

[上野の国] こうずけのくに (カミツケノ(上毛野)の略カミツケの転)旧国名。今の群馬県。上州。
吾妻川 あずまがわ 群馬県を流れる一級河川。利根川の支流。群馬県吾妻郡嬬恋村大字田代の長野県との境界に位置する鳥居峠に源を発する。吾妻郡内を東に流れ、渋川市白井と渋川市渋川の境界で利根川に合流する。

[神奈川県・静岡県]
箱根山 はこねやま 伊豆半島の基部にあり、神奈川・静岡両県にまたがる三重式の火山。最高峰は中央火口丘の一つ、神山で標高1438メートル。火口原に芦ノ湖があり、また多数の温泉がある。交通網の整備により観光開発が進む。
金時山 きんときさん/きんときやま 神奈川県・静岡県境にあり、箱根山の北部に位置する標高1,213mの山。富士箱根伊豆国立公園に指定されている。山の形から別名、猪鼻山(いのはなやま)や猪鼻岳(いのはなだけ)とも呼ばれる。金太郎伝説発祥の山。
明神 みようじん → 明神ヶ岳か
明神ヶ岳 みょうじんがたけ 神奈川県南足柄市と箱根町の境にある標高1,169mの山で、箱根山の古期外輪山の一峰。富士箱根伊豆国立公園に指定されている。
明星 みょうじょう → 明星ヶ岳か
明星ヶ岳 みょうじょうがたけ 神奈川県小田原市と箱根町の境にある標高924mの山で、箱根山の古期外輪山の一峰。富士箱根伊豆国立公園に指定されている。
鞍掛 くらかけ → 鞍掛山か
鞍掛山 くらかけやま 神奈川県箱根町と静岡県函南町の境にある山。標高1004.3m。
三国 みくに → 三国山か
三国山 みくにやま 甲駿相三国の境に位置する標高1,343メートル余りの峰である。三国の境は山頂より東に500メートル許り、標高1,320m余りの所にある。当山の北西は甲州南都留郡平野(現山梨県山中湖村)、南は駿州駿東郡中日向(現静岡県小山町)、北東は相州足柄上郡世附(現神奈川県山北町)に係る。
冠岳 かんむりだけ
駒ヶ岳 こまがだけ
二子山 ふたこやま → ふたごやま、か
二子山 ふたごやま 神奈川県南西部、箱根火山中央火口丘の一つ。元箱根の北方にある溶岩円頂丘で、双峰が並ぶ。標高1091メートル。
神山 かみやま 神奈川県箱根山中央火口丘の最高峰。標高1438メートル。
大涌谷 おおわくだに 神奈川県南西部、箱根火山の中央火口丘である神山の北部中腹にある、硫気噴孔を有する谷。箱根火山の最も新しい爆発口。強羅・仙石原に温泉水を供給。おおわきだに。
湯本 ゆもと 村名。現、足柄下郡箱根町湯本。箱根山の東麓、村の西で早川が須雲川を合して北東に流れる。
早川 はやかわ 神奈川県足柄下郡箱根町および小田原市を流れる河川。二級水系早川の本流。箱根町の芦ノ湖に源を発し東に流れ、小田原市南町と小田原市早川の境界から相模湾に注ぐ。
須雲川 すぐもがわ 大観山(だいかんやま、標高1015.2m、かつての箱根外輪山のひとつ)を水源とし、箱根湯本で早川に合流する本流と、二子山を源流とする支流などからなる、早川水系の二級河川であり、現在はほぼその流路に沿って箱根新道が通っている。

[伊豆]
伊豆大島 いず おおしま 伊豆諸島北部に位置する伊豆諸島最大の島。本州で最も近い伊豆半島からは南東方約25kmに位置する。大島と名のつく島は日本各地にあるが国土地理院では伊豆大島と表記する。
三原山 みはらやま 伊豆大島にある中央火口丘。標高764メートル。その噴火・噴煙は御神火(ごじんか)といい、大島節で有名。

富士山 ふじさん (不二山・不尽山とも書く)静岡・山梨両県の境にそびえる日本第一の高山。富士火山帯にある典型的な円錐状成層火山で、美しい裾野を引き、頂上には深さ220メートルほどの火口があり、火口壁上では剣ヶ峰が最も高く3776メートル。史上たびたび噴火し、1707年(宝永4)爆裂して宝永山を南東中腹につくってから静止。箱根・伊豆を含んで国立公園に指定。立山・白山と共に日本三霊山の一つ。芙蓉峰(ふようほう)。富士。
宝永山 ほうえいざん 富士山南東側の中腹にある寄生火山。宝永4年(1707)爆裂のため一山峰を形成したもの。標高2693メートル。

[飛騨] ひだ 旧国名。今の岐阜県の北部。飛州。
[信濃] しなの 旧国名。いまの長野県。科野。信州。
硫黄岳 いおうだけ 岐阜県高山市と長野県松本市の境にある。標高2554m(?)。
焼岳 やけだけ 飛騨山脈南部の、長野・岐阜県境にある活火山。標高2455メートル。頂上は溶岩円頂丘。直径約400メートルの火口がある。1915年(大正4)の爆発の結果、堰止湖大正池が出現。飛騨では硫黄岳と呼ぶ。

[滋賀県]
琵琶湖 びわこ 滋賀県中央部にある断層湖。面積670.3平方キロメートルで、日本第一。湖面標高85メートル。最大深度104メートル。風光明媚。受水区域が広く、上水道・灌漑・交通・発電・水産などに利用価値大。湖中に沖島・竹生島・多景島・沖の白石などの島がある。近江の海。鳰(にお)の海。

[肥前] ひぜん 旧国名。一部は今の佐賀県、一部は長崎県。
温泉岳 うんぜんだけ → 雲仙岳
雲仙岳 うんぜんだけ 長崎県島原半島にある火山群の総称。標高1486メートルの普賢岳を主峰とする。南西の山麓に硫黄泉の雲仙温泉がある。ミヤマキリシマ・霧氷などは有名。1990年、普賢岳が噴火。
眉山 まゆやま 長崎県島原市にあり、雲仙岳の一部をなす山。1792年、山体崩壊発生し、有明海に流れ込んだことにより島原大変肥後迷惑発生。
有明湾 ありあけわん 志布志湾の別称。
志布志湾 しぶしわん 宮崎県都井岬と鹿児島県火崎との間の湾。湾内に枇榔島があり、亜熱帯性植物が繁茂。湾岸は日南海岸国定公園。有明湾。

[熊本県]
阿蘇 あそ 熊本県北東部、阿蘇山の北麓に位置する市。稲作と高原野菜栽培、牛の放牧が盛ん。観光資源にも富む。人口3万。
阿蘇山 あそさん 熊本県北東部、外輪山と数個の中央火口丘(阿蘇五岳という)から成る活火山。外輪山に囲まれた楕円形陥没カルデラは世界最大級。最高峰の高岳は標高1592メートル。
中岳 なかだけ 熊本県にある阿蘇山を構成する山の一つ。標高1506メートル。中岳には主に第一火口があり阿蘇山測候所などの観測機器がある。火口周辺は火山ガスにより規制がある。
北の池 きたのいけ
中の池 なかのいけ
南の池 みなみのいけ
阿蘇郡 あそぐん 熊本県の東北部に位置する。阿蘇山とその外輪山が当地方のすべてを規定。
南郷谷 なんごうだに 火口原の南部。阿蘇谷に比べ、古代・中世に地域の政治的・経済的中心が育たず、本郷の所在も確認できない。
阿蘇谷 あそだに 火口原の北部。東部の一の宮町宮地・手野・坂梨に囲まれた地域が開発の中心地域。
坊中駅 ぼうじゅうえき
坊中町 ぼうちゅうまち 現、熊本県阿蘇市黒川。県東北部、阿蘇カルデラ中に位置する。町の南側に阿蘇山がそびえる。
宮地駅 みやじえき 熊本県阿蘇市一の宮町宮地に所在する九州旅客鉄道(JR九州)豊肥本線の駅。

[鹿児島県・宮崎県]
霧島 きりしま (1) 鹿児島県中北部の市。北部に霧島山系を有し、南は錦江湾に臨む。薩摩地方と大隅地方を結ぶ交通の要衝。人口12万7千。(2) 霧島山の略。
霧島山 きりしまやま 鹿児島・宮崎両県にまたがる、霧島山系中の火山群。高千穂峰(東霧島)は標高1574メートル、韓国岳(西霧島)は1700メートル。
霧島火山群 → 霧島火山帯
霧島火山帯 きりしま かざんたい 阿蘇火山を北端とし、桜島・開聞岳・南西諸島を経て台湾北端にいたる火山帯をいった語。琉球火山帯ともいう。
矛の峰 ほこのみね
御鉢 おはち 九州南部に連なる霧島山の高千穂峰に付随する側火山であり、有史以降も噴火を繰り返している活火山である。古くから噴火を繰り返していたため江戸時代以前は火常峰と呼ばれていたが、火口の形状が飯櫃に似ていることから俗に御鉢とも呼ばれており、明治以降は御鉢の呼称が一般的となった。火口内と西斜面は鹿児島県霧島市、北斜面は宮崎県小林市、南斜面は宮崎県都城市に属する。
新燃鉢 しんもえばち → 新燃岳
新燃岳 しんもえだけ 九州南部の霧島山中央部に位置し、有史以降も噴火を繰り返している活火山である。鹿児島県霧島市と宮崎県小林市にまたがる。

[鹿児島県]
桜島 さくらじま 鹿児島湾内の活火山島。北岳・中岳・南岳の3火山体から成り、面積77平方キロメートル。しばしば噴火し、1475〜76年(文明7〜8)、1779年(安永8)および1914年(大正3)の噴火は有名。1914年の噴火で大隅半島と陸続きとなる。
[大隅] おおすみ 旧国名。今の鹿児島県の東部、大隅半島および種子島・屋久島などの大隅諸島、奄美大島を含む。

[沖縄県]
琉球諸島 りゅうきゅう しょとう 南西諸島の南半部、北緯27度以南の沖縄諸島・先島諸島の総称。
西表島 いりおもてとう/いりおもてじま 沖縄県八重山郡竹富町の島であり、八重山諸島最大の島である。沖縄県内では沖縄本島に次いで広く、日本では北方領土の色丹島よりやや大きく、12番目の面積を持つ (国立天文台(編) 平成19年 理科年表 p.565 ISBN 4621077635) 。島の人口は約2000人。


[アラスカ]
アレウト群島 → アリューシャン列島
アリューシャン列島 Aleutian アメリカ合衆国アラスカ州に属する列島。アラスカ半島とロシア領コマンドル諸島との間に弧状に連なる。アッツ島・キスカ島などを含み、中心はウナラスカ島のダッチ‐ハーバー。アレウト列島。

[イタリア]
リパリ諸島 リーパリ諸島。エオリア諸島またはエオリエ諸島 (Isole Eolie)。シチリア島北方、ティレニア海南部にY字型に並んで浮かぶ島々。
ヴルカーノ島 Isola Vulcano エオリア諸島に属する面積21平方キロの島で、行政上はイタリアシチリア州メッシーナ県に所属する。シチリア島の20km北のティレニア海のパッティ湾に位置する。ボッケ・ディ・ヴルカーノは、幅750m程の海峡で対岸にリーパリ島がある。島は、それと同名のヴルカーノ火山(Vulcano)の存在によって形作られている。
ヴェスヴィオ Vesuvio イタリア南部の活火山。ナポリ湾の東側、ナポリの南東16キロメートルにある。標高1281メートル。二重式火山で、古来しばしば大噴火をなし、西暦79年8月ポンペイ・ヘルクラネウムを噴出物で埋めた。英語名ヴェスヴィアス。
ポンペイ Pompeii イタリア南部、ナポリ湾に臨むカンパーニア地方にあった古代都市。前4世紀以来繁栄し、のち一時ローマに反抗、最盛期の西暦79年、ヴェスヴィオ火山の大噴火で埋没。18世紀半ば以来の発掘により、当時の建造物・生活様式・美術工芸などを知る史跡となった。
ナポリ Napoli イタリア南部の都市。ナポリ湾に臨み、ローマの南東約220キロメートル。古代ギリシア・ローマ以来栄え、1282年以後ナポリ王国を形成、ルネサンス文化の一中心。南東方にヴェスヴィオ火山がそびえ、風光明媚。カーポディモンテの王宮や古城などがある。人口99万8千(2004)。英語名ネープルズ。
シシリー島 → シチリア
シチリア Sicilia イタリア半島の南端にある地中海最大の島。古代にはフェニキア・ギリシア・カルタゴ・ローマに占領され、中世にはヴァンダル・ビザンチン・イスラム教徒・ノルマンに征服され、12世紀に両シチリア王国が成立。1861年イタリアに帰属、1948年自治州。面積2万6千平方キロメートル。中心都市はパレルモ。英語名シシリー。
エトナ火山 Etna イタリア、シチリア島の東岸にそびえる活火山。標高3323メートル。
ストロムボリ → ストロンボリ
ストロンボリ島 Isola di Stromboli 地中海のティレニア海エオリエ諸島に属する島で、行政的にはシチリア州メッシーナ県リーパリに属する。活火山が海底から突き出た形になっている島で、400人近くの住民が居る。海面下の火山体は2000mにも達する。
シラキュラニウム ヴェスヴィオ山麓の町。
メシナ海峡 → メッシーナ海峡
メッシーナ海峡 Stretto di Messina シチリア島とイタリア本土(カラブリア州)の間にある海峡。海峡の西はティレニア海、東はイオニア海。いちばん狭い箇所は約3km。
ソムマ ソンマ山(1,132m)。ヴェスヴィオ火山に並立する山。外輪山の意。
オッタヤーノの町

[アイスランド]
イスランド → アイスランドか
アイスランド Iceland 大西洋北極圏付近の大きな火山島。共和国。1918年デンマークの主権下に自治国家となり、44年完全に独立。面積10万3000平方キロメートル。人口28万9千(2003)。住民は主に新教徒(ルター派)。首都はレイキャヴィク。アイスランド語名イースラント。氷州。

[ハワイ]
ハワイ島 The Island of Hawai‘i アメリカ合衆国ハワイ州(ハワイ諸島)の島。ハワイ諸島で最大の島であることからBig Islandとも呼ばれ、その面積は10,432.5 km^2、日本の四国の約半分程度、岐阜県ほどの大きさである。島の人口は148,677人(2000年国勢調査)と、ハワイ州の島としてはオアフ島に次ぐ。
キラウエア Kilauea ハワイ島南東部の活火山。標高1222メートル。山頂に直径4〜6キロメートルのカルデラがあり、その中央部の噴火口ハレマウマウは常時活動し、玄武岩の溶岩でみたされ、溶岩湖を形成する。
マウナ・ロア Mauna Loa ハワイ島中央西部にある火山。標高4170メートル。活動中の楯状火山として有名。ハワイ国立公園中にあり、マウナケア山・キラウエア山とともにハワイ島を構成する。
ヒロ Hilo アメリカ合衆国ハワイ州の沿岸都市で、ハワイ島で最大の地方自治体地域。ハワイ郡の郡庁所在地であり、南ヒロ地区に位置。ホノルルに次ぐハワイ諸島第二の港湾都市であり、リゾート地としても知られている。

[インドネシア]
スマトラ Sumatra 東南アジア、大スンダ列島の北西端にある島。シュリーヴィジャヤなど多くの王国が興亡、のちオランダ領。1945年独立を宣言、インドネシア共和国の一部となった。面積43万平方キロメートル。主な都市はメダン・パレンバン。
ジャワ Java・爪哇・闍婆 東南アジア大スンダ列島南東部の島。インドネシア共和国の中心をなし、首都ジャカルタがある。17世紀オランダによる植民地化が始まり、1945年まで同国領。面積は属島マドゥラを合わせて13万平方キロメートル。ジャヴァ。
スンダ海峡 Selat Sunda スマトラ島とジャワ島との間の海峡。ジャワ海とインド洋を繋ぐ。海峡の東側が狭くなっており、最狭部は約24km。海峡の中には火山島のクラカタウなど、多くの島がある。マラッカ海峡と並んで南シナ海とインド洋との間の主要な航路。
クラカトア Krakatoa → クラカタウ
クラカタウ Krakatau インドネシアのジャワ島とスマトラ島の中間、スンダ海峡にある火山島の総称であり、ランプン州に属する。全体がウジュンクーロン国立公園の一部である。
パパンダヤング火山 → パパンダヤン火山
パパンダヤン火山 Papandajan volcano インドネシア、ジャワ島西部の複合成層火山。東西に連なる同島の35の活火山のうち、最も南(海溝)寄りに位置する。海抜2665m。山頂域に径1km以上の火口が4つ並ぶ。1923〜25年に水蒸気爆発、以後、硫気活動が続いている。(地学)

[エクアドル]
エクワドル国 → エクアドル
エクアドル Ecuador (赤道の意)南米北西部、太平洋岸の赤道上にある共和国。1822年スペインから独立。先住民が多く、言語はスペイン語。面積28万3000平方キロメートル。人口1303万(2004)。首都キト。
コトパクシ山 Cotopaxi エクアドル中央部、アンデス山脈中にある活火山。コトパヒ山ともいい、世界の活火山の中でもっとも高く、標高は5897m。エクアドル国内ではチンボラソに次いで二番目の標高。火口は東西500m以上、南北700mと推定されている。

[西インド]
小アンチル群島 → 小アンティル諸島
小アンティル諸島 en:Lesser Antilles カリブ海の東端から東南端にかけて分布する諸島。西インド諸島・アンティル諸島の一部である。カリブ海と大西洋の境界となっている。
マルチニック島 → マルティニク
マルティニク Martinique カリブ海、小アンティル諸島中の島。フランスの海外県。面積1102平方キロメートル。中心都市フォール‐ド‐フランス。
プレー山 ペレ山、ペレー山、モンプレ 西インド諸島のなかのウィンドワード諸島に属するマルティニーク島にある活火山。名称は『はげ山』の意味。1902年に大噴火を起こし、当時の県庁所在地だったサン・ピエールを全滅させた。これによる死者数は2万4,000人とも、3万人ないし4万人とも言われる。20世紀の火山災害中最大。
サンピール市 → サン・ピエール
サン・ピエール Saint Pierre 西インド諸島のフランス領マルティニークにある村。かつてはマルティニークの県庁所在地だったが、1902年プレー山の火山噴火で壊滅的打撃を受けた。

農商務省 のうしょうむしょう 農林・商工行政を管理する中央官庁。1881年(明治14)設置。1925年(大正14)農林省と商工省とに分割。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『新版 地学事典』(平凡社、2005.5)。




*年表


七九 イタリア、ヴェスヴィオ大噴火。ポンペイ市を降灰にて埋没。

八五九〜八七七(貞観年間) 富士山噴火。

一三〇五年五月二日(嘉元三年三月三〇日) 阿蘇山、午後四時ごろ、地中から太陽のごとき火玉が三つ出て空に上り、東北の方へ飛び去ったという。

一七〇七(宝永四) 富士山噴火して、火口の下手に堆積した噴出物で宝永山を形作る。
一七一六(享保元) 新燃鉢の噴火。霧島噴火史上においてもっとも激しく、最高の損害記録をあたえたもの。
一七一六〜一七三六(享保年間) 岩手山噴火。
一七四八 ポンペイ遺跡、一農夫の偶然な発見によりほとんど全部発掘される。
一七七二 ジャワ島のパパンダヤング火山、噴火。わずかに一夜の間に二七〇〇メートルの高さから一五〇〇メートルに減じ、噴き飛ばしたものによって四十か村を埋没。おそらく有史以来のもっとも激烈な噴火。
一七五九(宝暦九)七月二八日 弘前において西北方、にわかに曇り灰を降らしたが、その中には獣毛のごときものも含まれていたという。これは渡島大島の噴火によったもの。
一七八三(天明三) 浅間山噴火。現在、鬼押出しと名づけている溶岩流を出したのみならず、熱泥流を火口壁のもっとも低い場所から一時に多量にあふれさせ、北方上野の国吾妻川に沿うて百数十村をうずめ、一二〇〇人の死者を生ぜしめる。
一七九二年五月二一日(寛政四年四月一日) 肥前の温泉岳噴火。一里ほども離れている眉山が崩壊、有明湾に大津波をおこし、沿岸地方において合計一万五千人ほどの死者を生じる。

一八〇一〜一八〇四(享和年間) 鳥海山噴火。
※ 西暦一八〇九年ないし一九一一年の十回においてエトナ火山、合計〇・六一立方キロメートルの溶岩の流出量。
一八八三 クラカトア、大爆裂をなして島の大半を噴き飛ばし、跡には高さわずかに八一六メートルの小火山島を残す。
一八八八(明治二一)六月一五日 磐梯山、大爆発。大部分は蒸気の膨張力によって吹き飛ばされ、堆積物が渓水をふさいで二、三の湖水を作ったが、東側に流れ出した泥流のために土地のみならず、四百余の村民をも埋める。
一八九三(明治二六) 吾妻山、突然噴火。調査に向かった三浦宗次郎・西山省吾が犠牲となる。

一九〇二年五月八日 マルチニック島プレー山の噴火。山麓にあるサンピール市を襲い、二万六千の人口中、地下室に監禁されていた一名の囚徒を除くほか、こぞって死滅。
一九〇二年一二月一六日〜 ラクロア教授、赤熱した火山灰がプレー火口から市街地に向かって発射されるのを数回にわたり目撃。
一九〇六 ヴェスヴィオ大噴火。わずかに三十分間同方向に降り続いた火山灰が、山の北東にあるオッタヤーノの町に九十センチメートルも積り、多くの屋根を打ち抜いて二二〇人の死人を生じる。
一九〇八(明治四一) 浅間山、このころから始まった活動において溶岩を西方数十町の距離にまで吹き飛ばし、小諸からの登山口、七合目にある火山観測所にまで達する。
一九〇九(明治四二) 北海道樽前山、噴火。
一九一〇(明治四三) 有珠山噴火。数日前から地震を先発せしめたので、時の室蘭警察署長飯田警視が爆発を未然に察し、機宜に適する保安上の手段を取る。

一九一四(大正三) 桜島噴火。土地が噴火前にしだいに隆起したこと、始めて気づかれる。
一九二三(大正一二) 桜島、噴火。
一九二四(大正一三) 琉球諸島のうち、西表島北方において海底噴火。水柱あるいは鳴動にともなって黒煙を実見。
一九二六(大正一五) 十勝岳、近ごろまで死火山と考えられていたが、突然の噴火をなし、雪融けのため氾濫をおこし、山麓の村落生霊を流亡。
一九二七(昭和二) ハワイ島のマウナ・ロア、大噴火。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)

今村明恒 いまむら あきつね 1870-1948 地震学者。理学博士。鹿児島県生まれ。明治38年、統計上の見地から関東地方に大地震が起こりうると説き、大森房吉との間に大論争が起こった。大正12年、東大教授に就任。翌年、地震学科の設立とともに主任となる。昭和4年、地震学会を創設、その会長となり、機関誌『地震』の編集主任を兼ね、18年間その任にあたる(人名)。
建磐龍命 たけいわたつのみこと → 健磐龍命
健磐龍命 たけいわたつのみこと 日本神話に登場する人物で、阿蘇神社の主祭神。神武天皇の子である神八井命の子として皇統に組み込まれているが、元々は阿蘇で信仰されていた阿蘇山の神とみられる。
阿蘇津妃命 あそつひめのみこと 阿蘇都彦(あそつひこ、健磐龍命)の妃神。(神名)
速瓶玉命 はやみかたまのみこと 建磐龍命の子。母は阿蘇都媛。神八井耳命の孫にあたる。崇神天皇の時に阿蘇国造となる(旧事紀、神名)。
性空 しょうくう 917頃-1007 平安中期の僧。京都の人。播磨の書写山に円教寺を開創。多くの貴紳僧俗の帰依を得る。書写上人。播磨の聖。
三浦宗次郎 みうら そうじろう 農商務省技師。
西山省吾 にしやま しょうご 農商務省技手。
飯田警視 いいだ けいし 室蘭警察署長。
ペアレット
ラクロア Lacroix, Francois Antoine Alfred 1863-1948 フランスの鉱物・岩石・火山学者。1893年、パリ博物館教授。各種岩石の分類と成因論も名高い。1902年におきたマルチニク島のプレー火山の噴火の際は派遣されて詳しい報告を出版し、熱雲という噴火現象を初めて明らかにした。国際火山学会の創設に尽力した。(地学)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『日本人名大事典』(平凡社)、『新版 地学事典』(平凡社、2005.5)、『日本神名辞典 第二版』(神社新報社、1995.6)。



*難字、求めよ


奉幣使 ほうへいし 勅命によって幣帛を山陵・神宮・神社に奉献する使者。
参籠 さんろう 神社・仏寺などに昼夜こもって祈願すること。おこもり。
火山毛 かざんもう 火山から噴出した流動性の溶岩滴がガラス質の毛髪状をなすもの。ペレーの毛。
一瀉千里 いっしゃ せんり [韓愈、貞女峡詩](一たび流れ出ると一気に千里も流れ去る水の勢いの意) (1) 物事が速やかにはかどり進むこと。(2) 文章や弁舌のよどみないことのたとえ。
ストロンボリ式噴火 -しき ふんか (Strombolian eruption)溶岩の破片や火山弾を周期的に空中に放出する噴火。玄武岩溶岩を噴出する火山に多い。イタリアのストロンボリ火山の噴火がその典型。日本では伊豆大島の三原山で見られることがある。
簇立 ぞくりつ 群がり立っていること。密集して立っていること。群立していること。
火孔 かこう 火山の火口内に新しくできたさらに小さい火口。
火口原 かこうげん 外輪山と中央火口丘との間に広がる平地。箱根仙石原の類。
硫気 りゅうき 硫黄分を含んだガス。
硫気孔 りゅうきこう 火山活動によって、水蒸気・硫化水素などを噴出する噴気孔。
複式火山 ふくしき かざん ほぼ同じ火道から相異なる単式火山を生成させ、できた二重式・三重式火山の総称。時には四重式・五重式になることもある。二重式は通常、外輪山と中央火口丘とから成り、例が多い。三重式は二重の外輪山と中央火口丘とから成り、箱根山などに見られる。
中央火口丘 ちゅうおう かこうきゅう 旧火山の火口内またはカルデラ内に新たに小さい噴火が起こって生じた小火山。
火口瀬 かこうせ 火口またはカルデラの縁の一部が浸食され、内部の水が外へ流出するようになった谷。箱根山の早川、阿蘇山の白川の類。かこうらい。
単式火山 たんしき かざん 成層火山など単純な地形と構造の火山。富士山・日光男体山など。←→複式火山。
火口壁 かこうへき 火口を囲む急な崖状の地形。
菜花煙 さいかえん
エトナ式 → 参照、エトナ火山
プレー式 → 参照、プレー山
溶岩丘 ようがんきゅう 粘性の高い溶岩が噴火口上に盛り上がって丘のようになったもの。
生霊 せいれい (1) 生物の霊長である人類。人民。生民。(2) いのち。生命。(3) 生きている人のたましい。いきりょう。
火山脈 かざんみゃく 火山が列状をなしてつらなるもの。火山の山脈。火山帯のこと。
岩漿 がんしょう マグマのこと。
マグマ magma 溶融した造岩物質(メルト)を主体とする、地下に存在する流動物体。メルト中に結晶を含み、水などの揮発成分が融けこんでいるのが普通。地上に出れば火山ガスと溶岩流などになる。固結したものが火成岩。岩漿。
地震帯 じしんたい 細長い帯状をなす、震源の分布地域。
断層線 だんそうせん 断層面と地表面との交線。
火山弾 かざんだん 溶岩の砕片で、球形・楕円形・紡錘形をなすもの。火口から噴出する際、流動性を保持し、空中で固結したもの。また、粘性の大きな溶岩の場合は一度できた皮が破れて表皮に割れ目をもつパン皮火山弾となる。
コークス coke 石炭を高温で乾留し、揮発分を除いた灰黒色、金属性光沢のある多孔質の固体。炭素を75〜85パーセント含む。点火しにくいが、火をつければ無煙燃焼し、火力が強い。冶金(やきん)コークス・ガス‐コークスなどがある。骸炭。
パホエホエ → パホイホイ溶岩
パホイホイ溶岩 (pahoehoe lava)流れやすい玄武岩質の溶岩で、表面が平らで丸みを帯びているもの。波状あるいは縄状に固まる。
ラピリ ラピリスト−ン(lapilli stone)か。火砕岩(火山砕屑物)の一種。/2〜64mmの火山礫に分類される。(地学)
火山礫 かざんれき 噴火の際に放出される溶岩の砕片で、大豆または胡桃(くるみ)大のもの。
火山砕屑物 かざん さいせつぶつ 噴火によってもたらされた固体物質、火山灰・軽石・スコリア・火山弾などの総称。火山岩の砕けた破片も含む。火砕物。
ピソライト pisolite (1) ウーライト。(2) 火山豆石。
火山豆石 かざん まめいし 火山灰が球状に固結したもの。pisolite ともいう。直径1cm以下のものが多いが数cmのものもある。(地学)
ヘリウム helium (ギリシア語で太陽の意のheliosに因む)希ガス元素の一種。元素記号He 原子番号2。原子量4.003。1868年皆既日食のときの太陽紅炎のスペクトル観測から太陽に存在すると推定され、地上では1894年クレーベ石から得た気体中に発見された。空気中にごく少量含まれているが、工業的には天然ガスより分離する。無色・無臭。化学的に不活性で、水素に次いで軽い気体。液体ヘリウムは極低温物性研究に不可欠。
噴気孔 ふんきこう 火山活動によって、水蒸気その他のガスをふき出す孔。水蒸気孔・硫気孔・炭酸気孔などがある。噴気口。
地震計 じしんけい 地震による地表上の一点の振動状態を記録する装置。その原理は振子の地震動に対する相対運動を記録するもので、大別すると上下動地震計と水平動地震計とに分かれる。
緩漫 かんまん 緩慢。
地変 ちへん 土地の変動。海岸線の移動、土地の陥没、火山の噴火または地震などの地殻変動。地異。
煙輪 えんわ
閃弧 せんこ
抛射 ほうしゃ なげとばすこと。なげうつこと。

丈 じょう 長さの単位。(1) 尺の10倍。約3メートル。(2) 周尺で、約1.7メートル。成人男子の身長。
海里・浬 かいり (sea mile; nautical mile)緯度1分の子午線弧長に基づいて定めた距離の単位で、1海里は1852メートル。航海に用いる。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『新版 地学事典』(平凡社、2005.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


あそざん → あそさん
こまがだけ → こまがたけ
ふたこやま → ふたごやま
なかたけ → なかだけ
ばんだいざん → ばんだいさん
ちょうかいざん → ちょうかいさん

 底本は左辺のとおり、もしくは混用。現代表記版は一般的と思われる右辺の読みに変更・統一してみた。山の標高は底本のままにした。たとえば阿蘇山の中岳は、底本では「1640m」、Wikipedia は「1506m」、『広辞苑』にはない。岐阜・長野県境の硫黄岳(焼岳)は底本が「2458m」、Wikipedia が「2554m」、『広辞苑』は「2455m」とある。
 底本には誤記・誤写・誤植の可能性がつねにありうるし、『広辞苑』も100% 信頼できるとはいえない。Wikipedia に限らず、できることといえば情報ソースを複数に求めてクロスチェックの機会をふやすことと、ソースの手がかりを残しておいて次の走者へバトンタッチすること。『日本国語』と『歴史地名』と『国史』と『日本人名』が串刺し検索できたらなあ……。

 安田喜憲『気候変動の文明史』(NTT出版、2004.12)読了。あいかわらず鼻につくような記述はあるし我田引水の感もなくはない。ローレンタイド氷床(大陸氷河)融解から、稲作渡来民ボートピ−プル説、古墳寒冷期、大仏温暖期、マヤ文明の崩壊、魔女狩り……と、やりたい放題、言いたい放題、やりすぎ都市伝説、関のフリーメーソン陰謀論といい勝負。東西の人類史を一冊、二五〇ページで概観しているので、かけ足気味、つっこみ不足でもある。が、たたかれるのを覚悟で数々の仮説を提示している姿勢は良。
 いくつか認識をあらためる。関西の百舌鳥古墳群・仁徳陵に見るように、沿岸近くの古墳は少なくない。作った当時は、もっと海岸線が近かったのではないかと想像していたのだが、安田は山本武夫の朝鮮『三国史記』をよりどころに、日本の古墳製作時期(430〜520ごろ)は寒冷で湿潤な時代だったとしている。
 また、ポリネシア人の大民族移動は2800年前の著しい寒冷期だったという(片山一道を参照)。南方民族の到来は、温暖期の海進によって居住地を失った者たちの移動かと想像していたのだが、ハズレらしい。

 六日(日)晴れ。山寺公民館にて講演と発掘調査報告を聞く。二〇〇名くらいか。六〇〜七〇代男性が八割ぐらい。終了後、『峯の浦発掘通信』なるものを見せてもらおうと事務所に。保管・設置分はないとのことで、自宅あてに送ってもらう。八日、着。




*次週予告


第三巻 第三〇号 
現代語訳『古事記』(一)武田祐吉


第三巻 第三〇号は、
二月一九日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第三巻 第二九号
火山の話 今村明恒
発行:二〇一一年二月一二日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



T-Time マガジン 週刊ミルクティー*99 出版

第二巻

第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン 月末最終号:無料
第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン 定価:200円
第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 定価:200円
第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 定価:200円
第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 定価:200円
第六号 新羅人の武士的精神について 池内宏 月末最終号:無料
第七号 新羅の花郎について 池内宏 定価:200円
第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉 定価:200円
第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治 定価:200円
第十号 風の又三郎 宮沢賢治 月末最終号:無料
第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎 定価:200円
第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎 定価:200円
第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎 定価:200円
第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎 定価:200円
第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル 定価:200円
第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル 定価:200円
第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル 月末最終号:無料
第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル 定価:200円
第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉 定価:200円
第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉 定価:200円
第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太 月末最終号:無料
第二四号 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫 定価:200円
第二五号 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉 定価:200円
第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎 定価:200円
第二七号 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治 定価:200円
第二八号 翁の発生/鬼の話 折口信夫  月末最終号:無料
第二九号 生物の歴史(一)石川千代松  定価:200円
第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松  定価:200円
第三一号 生物の歴史(三)石川千代松  定価:200円
第三二号 生物の歴史(四)石川千代松  月末最終号:無料
第三三号 特集 ひなまつり  定価:200円
 雛 芥川龍之介
 雛がたり 泉鏡花
 ひなまつりの話 折口信夫

第三四号 特集 ひなまつり  定価:200円
 人形の話 折口信夫
 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫

第三五号 右大臣実朝(一)太宰治  定価:200円
第三六号 右大臣実朝(二)太宰治 月末最終号:無料
第三七号 右大臣実朝(三)太宰治 定価:200円
第三八号 清河八郎(一)大川周明 定価:200円
第三九号 清河八郎(二)大川周明  定価:200円
第四〇号 清河八郎(三)大川周明  月末最終号:無料
第四一号 清河八郎(四)大川周明  定価:200円
第四二号 清河八郎(五)大川周明  定価:200円
第四三号 清河八郎(六)大川周明  定価:200円
第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉  定価:200円
第四五号 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉  月末最終号:無料
第四六号 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉  定価:200円
第四七号 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉  定価:200円
第四八号 若草物語(一)L. M. オルコット  定価:200円
第四九号 若草物語(二)L. M. オルコット  月末最終号:無料
第五〇号 若草物語(三)L. M. オルコット  定価:200円
第五一号 若草物語(四)L. M. オルコット  定価:200円
第五二号 若草物語(五)L. M. オルコット  定価:200円
第五三号 二人の女歌人/東北の家 片山広子  定価:200円
第三巻 第一号 星と空の話(一)山本一清  月末最終号:無料
  一、星座(せいざ)の星
  二、月(つき)
(略)殊にこの「ベガ」は、わが日本や支那では「七夕」の祭りにちなむ「織(お)り女(ひめ)」ですから、誰でも皆、幼い時からおなじみの星です。「七夕」の祭りとは、毎年旧暦七月七日の夜に「織り女」と「牽牛(ひこぼし)〔彦星〕」とが「天の川」を渡って会合するという伝説の祭りですが、その「天の川」は「こと」星座のすぐ東側を南北に流れていますし、また、「牽牛」は「天の川」の向かい岸(東岸)に白く輝いています。「牽牛」とその周囲の星々を、星座では「わし」の星座といい、「牽牛」を昔のアラビア人たちは、「アルタイル」と呼びました。「アルタイル」の南と北とに一つずつ小さい星が光っています。あれは「わし」の両翼を拡げている姿なのです。ところが「ベガ」の付近を見ますと、その東側に小さい星が二つ集まっています。昔の人はこれを見て、一羽の鳥が両翼をたたんで地に舞いくだる姿だと思いました。それで、「こと」をまた「舞いくだる鳥」と呼びました。

 「こと」の東隣り「天の川」の中に、「はくちょう」という星座があります。このあたりは大星や小星が非常に多くて、天が白い布のように光に満ちています。

第三巻 第二号 星と空の話(二)山本一清  定価:200円
  三、太陽
  四、日食と月食
  五、水星
  六、金星
  七、火星
  八、木星
 太陽の黒点というものは誠におもしろいものです。黒点の一つ一つは、太陽の大きさにくらべると小さい点々のように見えますが、じつはみな、いずれもなかなか大きいものであって、(略)最も大きいのは地球の十倍以上のものがときどき現われます。そして同じ黒点を毎日見ていますと、毎日すこしずつ西の方へ流れていって、ついに太陽の西の端(はし)でかくれてしまいますが、二週間ばかりすると、こんどは東の端から現われてきます。こんなにして、黒点の位置が規則正しく変わるのは、太陽全体が、黒点を乗せたまま、自転しているからなのです。太陽は、こうして、約二十五日間に一回、自転をします。(略)
 太陽の黒点からは、あらゆる気体の熱風とともに、いろいろなものを四方へ散らしますが、そのうちで最も強く地球に影響をあたえるものは電子が放射されることです。あらゆる電流の原因である電子が太陽黒点から放射されて、わが地球に達しますと、地球では、北極や南極付近に、美しいオーロラ(極光(きょっこう))が現われたり、「磁気嵐(じきあらし)」といって、磁石の針が狂い出して盛んに左右にふれたりします。また、この太陽黒点からやってくる電波や熱波や電子などのために、地球上では、気温や気圧の変動がおこったり、天気が狂ったりすることもあります。(略)
 太陽の表面に、いつも同じ黒点が長い間見えているのではありません。一つ一つの黒点はずいぶん短命なものです。なかには一日か二日ぐらいで消えるのがありますし、普通のものは一、二週間ぐらいの寿命のものです。特に大きいものは二、三か月も、七、八か月も長く見えるのがありますけれど、一年以上長く見えるということはほとんどありません。
 しかし、黒点は、一つのものがまったく消えない前に、他の黒点が二つも三つも現われてきたりして、ついには一時に三十も四十も、たくさんの黒点が同じ太陽面に見えることがあります。
 こうした黒点の数は、毎年、毎日、まったく無茶苦茶というわけではありません。だいたいにおいて十一年ごとに増したり減ったりします。

第三巻 第三号 星と空の話(三)山本一清  定価:200円
   九、土星
  一〇、天王星
  一一、海王星
  一二、小遊星
  一三、彗星
  一四、流星
  一五、太陽系
  一六、恒星と宇宙
 晴れた美しい夜の空を、しばらく家の外に出てながめてごらんなさい。ときどき三分間に一つか、五分間に一つぐらい星が飛ぶように見えるものがあります。あれが流星です。流星は、平常、天に輝いている多くの星のうちの一つ二つが飛ぶのだと思っている人もありますが、そうではありません。流星はみな、今までまったく見えなかった星が、急に光り出して、そしてすぐまた消えてしまうものなのです。(略)
 しかし、流星のうちには、はじめから稀(まれ)によほど形の大きいものもあります。そんなものは空気中を何百キロメートルも飛んでいるうちに、燃えつきてしまわず、熱したまま、地上まで落下してきます。これが隕石というものです。隕石のうちには、ほとんど全部が鉄のものもあります。これを隕鉄(いんてつ)といいます。(略)
 流星は一年じゅう、たいていの夜に見えますが、しかし、全体からいえば、冬や春よりは、夏や秋の夜にたくさん見えます。ことに七、八月ごろや十月、十一月ごろは、一時間に百以上も流星が飛ぶことがあります。
 八月十二、三日ごろの夜明け前、午前二時ごろ、多くの流星がペルセウス星座から四方八方へ放射的に飛びます。これらは、みな、ペルセウス星座の方向から、地球の方向へ、列を作ってぶっつかってくるものでありまして、これを「ペルセウス流星群」と呼びます。
 十一月十四、五日ごろにも、夜明け前の二時、三時ごろ、しし星座から飛び出してくるように見える一群の流星があります。これは「しし座流星群」と呼ばれます。
 この二つがもっとも有名な流星群ですが、なおこの他には、一月のはじめにカドラント流星群、四月二十日ごろに、こと座流星群、十月にはオリオン流星群などあります。

第三巻 第四号 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎  定価:200円
獅子舞雑考
  一、枯(か)れ木も山の賑(にぎ)やかし
  二、獅子舞に関する先輩の研究
  三、獅子頭に角(つの)のある理由
  四、獅子頭と狛犬(こまいぬ)との関係
  五、鹿踊(ししおど)りと獅子舞との区別は何か
  六、獅子舞は寺院から神社へ
  七、仏事にもちいた獅子舞の源流
  八、獅子舞について関心すべき点
  九、獅子頭の鼻毛と馬の尻尾(しっぽ)

穀神としての牛に関する民俗
  牛を穀神とするは世界共通の信仰
  土牛(どぎゅう)を立て寒気を送る信仰と追儺(ついな)
  わが国の家畜の分布と牛飼神の地位
  牛をもって神をまつるは、わが国の古俗
  田遊(たあそ)びの牛の役と雨乞いの牛の首

 全体、わが国の獅子舞については、従来これに関する発生、目的、変遷など、かなり詳細なる研究が発表されている。(略)喜多村翁の所説は、獅子舞は西域の亀茲(きじ)国の舞楽が、支那の文化とともに、わが国に渡来したのであるという、純乎たる輸入説である。柳田先生の所論は、わが国には古く鹿舞(ししまい)というものがあって、しかもそれが広くおこなわれていたところへ、後に支那から渡来した獅子舞が、国音の相通から付会(ふかい)したものである。その証拠には、わが国の各地において、古風を伝えているものに、角(つの)のある獅子頭があり、これに加うるのに鹿を歌ったものを、獅子舞にもちいているという、いわば固有説とも見るべき考証である。さらに小寺氏の観察は、だいたいにおいて柳田先生の固有説をうけ、別にこれに対して、わが国の鹿舞の起こったのは、トーテム崇拝に由来するのであると、付け加えている。
 そこで、今度は管見を記すべき順序となったが、これは私も小寺氏と同じく、柳田先生のご説をそのまま拝借する者であって、べつだんに奇説も異論も有しているわけではない。ただ、しいて言えば、わが国の鹿舞と支那からきた獅子舞とは、その目的において全然別個のものがあったという点が、相違しているのである。ことに小寺氏のトーテム説にいたっては、あれだけの研究では、にわかに左袒(さたん)することのできぬのはもちろんである。

 こういうと、なんだか柳田先生のご説に、反対するように聞こえるが、角(つの)の有無をもって鹿と獅子の区別をすることは、再考の余地があるように思われる。

第三巻 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉  月末最終号:無料
鹿踊りのはじまり 宮沢賢治
奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  一 緒言
  二 シシ踊りは鹿踊り
  三 伊予宇和島地方の鹿の子踊り
  四 アイヌのクマ祭りと捕獲物供養
  五 付記

 奥羽地方には各地にシシ踊りと呼ばるる一種の民間舞踊がある。地方によって多少の相違はあるが、だいたいにおいて獅子頭を頭につけた青年が、数人立ちまじって古めかしい歌謡を歌いつつ、太鼓の音に和して勇壮なる舞踊を演ずるという点において一致している。したがって普通には獅子舞あるいは越後獅子などのたぐいで、獅子奮迅・踊躍の状を表象したものとして解せられているが、奇態なことにはその旧仙台領地方におこなわるるものが、その獅子頭に鹿の角(つの)を有し、他の地方のものにも、またそれぞれ短い二本の角がはえているのである。
 楽舞用具の一種として獅子頭のわが国に伝わったことは、すでに奈良朝のころからであった。くだって鎌倉時代以後には、民間舞踊の一つとして獅子舞の各地におこなわれたことが少なからず文献に見えている。そしてかの越後獅子のごときは、その名残りの地方的に発達・保存されたものであろう。獅子頭はいうまでもなくライオンをあらわしたもので、本来、角があってはならぬはずである。もちろんそれが理想化し、霊獣化して、彫刻家の意匠により、ことさらにそれに角を付加するということは考えられぬでもない。武蔵南多摩郡元八王子村なる諏訪神社の獅子頭は、古来、龍頭とよばれて二本の長い角が斜めにはえているので有名である。しかしながら、仙台領において特にそれが鹿の角であるということは、これを霊獣化したとだけでは解釈されない。けだし、もと鹿供養の意味からおこった一種の田楽的舞踊で、それがシシ踊りと呼ばるることからついに獅子頭とまで転訛するに至り、しかもなお原始の鹿角を保存して、今日におよんでいるものであろう。

第三巻 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝  定価:200円
魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝

倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。漢時有朝見者、今使訳所通三十国。従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千余里。始度一海千余里、至対馬国、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島、方可四百余里(略)。又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国〔一支国か〕(略)。又渡一海千余里、至末盧国(略)。東南陸行五百里、到伊都国(略)。東南至奴国百里(略)。東行至不弥国百里(略)。南至投馬国水行二十日、官曰弥弥、副曰弥弥那利、可五万余戸。南至邪馬壱国〔邪馬台国〕、女王之所都、水行十日・陸行一月、官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰奴佳�、可七万余戸。(略)其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟、佐治国、自為王以来、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、伝辞出入居処。宮室・楼観・城柵厳設、常有人持兵守衛。

第三巻 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南  定価:200円
  一、本文の選択
  二、本文の記事に関するわが邦(くに)最旧の見解
  三、旧説に対する異論
 『後漢書』『三国志』『晋書』『北史』などに出でたる倭国女王卑弥呼のことに関しては、従来、史家の考証はなはだ繁く、あるいはこれをもってわが神功皇后とし、あるいはもって筑紫の一女酋とし、紛々として帰一するところなきが如くなるも、近時においてはたいてい後説を取る者多きに似たり。(略)
 卑弥呼の記事を載せたる支那史書のうち、『晋書』『北史』のごときは、もとより『後漢書』『三国志』に拠りたること疑いなければ、これは論を費やすことをもちいざれども、『後漢書』と『三国志』との間に存する�異(きい)の点に関しては、史家の疑惑をひく者なくばあらず。『三国志』は晋代になりて、今の范曄の『後漢書』は、劉宋の代になれる晩出の書なれども、両書が同一事を記するにあたりて、『後漢書』の取れる史料が、『三国志』の所載以外におよぶこと、東夷伝中にすら一、二にして止まらざれば、その倭国伝の記事もしかる者あるにあらずやとは、史家のどうもすれば疑惑をはさみしところなりき。この疑惑を決せんことは、すなわち本文選択の第一要件なり。
 次には本文のうち、各本に字句の異同あることを考えざるべからず。『三国志』について言わんに、余はいまだ宋板本を見ざるも、元槧明修本、明南監本、乾隆殿板本、汲古閣本などを対照し、さらに『北史』『通典』『太平御覧』『冊府元亀』など、この記事を引用せる諸書を参考してその異同の少なからざるに驚きたり。その�異を決せんことは、すなわち本文選択の第二要件なり。

第三巻 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南  定価:200円
  四、本文の考証
帯方 / 旧百余国。漢時有朝見者。今使訳所通三十国。 / 到其北岸狗邪韓国 / 対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国 / 南至投馬國。水行二十日。/ 南至邪馬壹國。水行十日。陸行一月。/ 斯馬国 / 已百支国 / 伊邪国 / 郡支国 / 弥奴国 / 好古都国 / 不呼国 / 姐奴国 / 対蘇国 / 蘇奴国 / 呼邑国 / 華奴蘇奴国 / 鬼国 / 為吾国 / 鬼奴国 / 邪馬国 / 躬臣国 / 巴利国 / 支惟国 / 烏奴国 / 奴国 / 此女王境界所盡。其南有狗奴國 / 会稽東治
南至投馬國。水行二十日。  これには数説あり、本居氏は日向国児湯郡に都万神社ありて、『続日本後紀』『三代実録』『延喜式』などに見ゆ、此所にてもあらんかといえり。鶴峰氏は『和名鈔』に筑後国上妻郡、加牟豆万、下妻郡、准上とある妻なるべしといえり。ただし、その水行二十日を投馬より邪馬台に至る日程と解したるは著しき誤謬なり。黒川氏は三説をあげ、一つは鶴峰説に同じく、二つは「投」を「殺」の譌りとみて、薩摩国とし、三つは『和名鈔』、薩摩国麑島郡に都万郷ありて、声近しとし、さらに「投」を「敏」の譌りとしてミヌマと訓み、三潴郡とする説をもあげたるが、いずれも穏当ならずといえり。『国史眼』は設馬の譌りとして、すなわち薩摩なりとし、吉田氏はこれを取りて、さらに『和名鈔』の高城郡托摩郷をもあげ、菅氏は本居氏に従えり。これを要するに、みな邪馬台を筑紫に求むる先入の見に出で、「南至」といえる方向に拘束せられたり。しかれども支那の古書が方向をいう時、東と南と相兼ね、西と北と相兼ぬるは、その常例ともいうべく、またその発程のはじめ、もしくは途中のいちじるしき土地の位置などより、方向の混雑を生ずることも珍しからず。『後魏書』勿吉伝に太魯水、すなわち今の�児河より勿吉、すなわち今の松花江上流に至るによろしく東南行すべきを東北行十八日とせるがごとき、陸上におけるすらかくのごとくなれば海上の方向はなおさら誤り易かるべし。ゆえに余はこの南を東と解して投馬国を『和名鈔』の周防国佐婆郡〔佐波郡か。〕玉祖郷〈多萬乃於也〉にあてんとす。この地は玉祖宿祢の祖たる玉祖命、またの名、天明玉命、天櫛明玉命をまつれるところにして周防の一宮と称せられ、今の三田尻の海港をひかえ、内海の衝要にあたれり。その古代において、玉作を職とせる名族に拠有せられて、五万余戸の集落をなせしことも想像し得べし。日向・薩摩のごとき僻陬とも異なり、また筑後のごとく、路程の合いがたき地にもあらず、これ、余がかく定めたる理由なり。

第三巻 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南  月末最終号:無料
  四、本文の考証(つづき)
爾支 / 泄謨觚、柄渠觚、�馬觚 / 多模 / 弥弥、弥弥那利 / 伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳� / 狗古智卑狗
卑弥呼 / 難升米 / 伊声耆掖邪狗 / 都市牛利 / 載斯烏越 / 卑弥弓呼素 / 壱与
  五、結論
    付記
 次に人名を考証せんに、その主なる者はすなわち、「卑弥呼」なり。余はこれをもって倭姫命に擬定す。その故は前にあげたる官名に「伊支馬」「弥馬獲支」あるによりて、その崇神・垂仁二朝を去ること遠からざるべきことを知る、一つなり。「事二鬼道一、能惑レ衆」といえるは、垂仁紀二十五年の記事ならびにその細注、『延暦儀式帳』『倭姫命世記』などの所伝を総合して、もっともこの命(みこと)の行事に適当せるを見る。その天照大神の教えにしたがいて、大和より近江・美濃・伊勢諸国を遍歴し、〈『倭姫世記』によれば尾張・丹波・紀伊・吉備にもおよびしが如し〉いたるところにその土豪より神戸・神田・神地を徴して神領とせるは、神道設教の上古を離るること久しき魏人より鬼道をもって衆を惑わすと見えしも怪しむに足らざるべし、二つなり。余が邪馬台の旁国の地名を擬定せるは、もとより務めて大和の付近にして、倭姫命が遍歴せる地方より選び出したれども、その多数がはなはだしき付会におちいらずして、伊勢を基点とせる地方に限定することを得たるは、また一証とすべし、三つなり。(略)「卑弥呼」の語解は本居氏がヒメコの義とするは可なれども、神代巻に火之戸幡姫児千々姫ノ命、また万幡姫児玉依姫ノ命などある「姫児(ヒメコ)」に同じとあるは非にして、この二つの「姫児」は平田篤胤のいえるごとく姫の子の義なり。「弥」を「メ」と訓(よ)む例は黒川氏の『北史国号考』に「上宮聖徳法王帝説、繍張文の吉多斯比弥乃弥己等(キタシヒメノミコト)、また等已弥居加斯支移比弥乃弥己等(トヨミケカシキヤヒメノミコト)、注云 弥字或当二売音一也」とあるを引けるなどに従うべし。
付記 余がこの編を出せる直後、すでに自説の欠陥を発見せしものあり、すなわち「卑弥呼」の名を考証せる条中に『古事記』神代巻にある火之戸幡姫児(ヒノトバタヒメコ)、および万幡姫児(ヨロヅハタヒメコ)の二つの「姫児」の字を本居氏にしたがいて、ヒメコと読みしは誤りにして、平田氏のヒメノコと読みしが正しきことを認めたれば、今の版にはこれを改めたり。

第三巻 第一〇号 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫  定価:200円
最古日本の女性生活の根底
  一 万葉びと――琉球人
  二 君主――巫女
  三 女軍(めいくさ)
  四 結婚――女の名
  五 女の家
稲むらの陰にて
 古代の歴史は、事実の記憶から編み出されたものではない。神人(かみびと)に神憑(がか)りした神の、物語った叙事詩から生まれてきたのである。いわば夢語りともいうべき部分の多い伝えの、世をへて後、筆録せられたものにすぎない。(略)神々の色彩を持たない事実などの、後世に伝わりようはあるべきはずがないのだ。(略)女として神事にあずからなかった者はなく、神事に関係せなかった女の身の上が、物語の上に伝誦せられるわけがなかったのである。
(略)村々の君主の下になった巫女が、かつては村々の君主自身であったこともあるのである。『魏志』倭人伝の邪馬台(ヤマト)国の君主卑弥呼は女性であり、彼の後継者も女児であった。巫女として、呪術をもって、村人の上に臨んでいたのである。が、こうした女君制度は、九州の辺土には限らなかった。卑弥呼と混同せられていた神功皇后も、最高巫女としての教権をもって、民を統べていられた様子は、『日本紀』を見れば知られることである。(略)
 沖縄では、明治の前までは国王の下に、王族の女子あるいは寡婦が斎女王(いつきのみこ)同様の仕事をして、聞得大君(きこえうふきみ)(ちふいぢん)と言うた。尚家の中途で、皇后の下に位どられることになったが、以前は沖縄最高の女性であった。その下に三十三君というて、神事関係の女性がある。それは地方地方の神職の元締めのような位置にいる者であった。その下にあたるノロ(祝女)という、地方の神事官吏なる女性は今もいる。そのまた下にその地方の家々の神につかえる女の神人がいる。この様子は、内地の昔を髣髴(ほうふつ)させるではないか。沖縄本島では聞得大君を君主と同格に見た史実がない。が、島々の旧記にはその痕跡が残っている。(「最古日本の女性生活の根底」より)

第三巻 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦  定価:200円
瀬戸内海の潮と潮流
コーヒー哲学序説
神話と地球物理学
ウジの効用
 一体、海の面はどこでも一昼夜に二度ずつ上がり下がりをするもので、それを潮の満干といいます。これは月と太陽との引力のためにおこるもので、月や太陽がたえず東から西へまわるにつれて、地球上の海面の高くふくれた満潮の部分と低くなった干潮の部分もまた、だいたいにおいて東から西へ向かって大洋の上を進んで行きます。このような潮の波が内海のようなところへ入って行きますと、いろいろに変わったことがおこります。ことに瀬戸内海のように外洋との通路がいくつもあり、内海の中にもまた瀬戸がたくさんあって、いくつもの灘に分かれているところでは、潮の満干もなかなか込み入ってきて、これをくわしく調べるのはなかなか難しいのです。しかし、航海の頻繁なところであるから潮の調査は非常に必要なので、海軍の水路部などではたくさんな費用と時日を費やしてこれを調べておられます。東京あたりと四国の南側の海岸とでは満潮の時刻は一時間くらいしか違わないし、満干の高さもそんなに違いませんが、四国の南側とその北側とでは満潮の時刻はたいへんに違って、ところによっては六時間も違い、一方の満潮の時に他のほうは干潮になることもあります。また、内海では満干の高さが外海の倍にもなるところがあります。このように、あるところでは満潮であるのに他のところでは干潮になったり、内海の満干の高さが外海の満干の高さの倍になるところのあるのは、潮の流れがせまい海峡を入るためにおくれ、また、方々の入口から入り乱れ、重なり合うためであります。(「瀬戸内海の潮と潮流」より)

第三巻 第一二号 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦  定価:200円
日本人の自然観
 緒言
 日本の自然
 日本人の日常生活
 日本人の精神生活
 結語
天文と俳句
 もしも自然というものが、地球上どこでも同じ相貌(そうぼう)をあらわしているものとしたら、日本の自然も外国の自然も同じであるはずであって、したがって上記のごとき問題の内容吟味は不必要であるが、しかし実際には、自然の相貌がいたるところむしろ驚くべき多様多彩の変化を示していて、ひと口に自然と言ってしまうにはあまりに複雑な変化を見せているのである。こういう意味からすると、同じように、「日本の自然」という言葉ですらも、じつはあまりに漠然としすぎた言葉である。(略)
 こう考えてくると、今度はまた「日本人」という言葉の内容が、かなり空疎な散漫なものに思われてくる。九州人と東北人とくらべると各個人の個性を超越するとしても、その上にそれぞれの地方的特性の支配が歴然と認められる。それで九州人の自然観や、東北人の自然観といったようなものもそれぞれ立派に存立しうるわけである。(略)
 われわれは通例、便宜上、自然と人間とを対立させ、両方別々の存在のように考える。これが現代の科学的方法の長所であると同時に短所である。この両者は、じつは合わして一つの有機体を構成しているのであって、究極的には独立に切り離して考えることのできないものである。(略)
 日本人の先祖がどこに生まれ、どこから渡ってきたかは別問題として、有史以来二千有余年、この土地に土着してしまった日本人が、たとえいかなる遺伝的記憶をもっているとしても、その上層を大部分掩蔽(えんぺい)するだけの経験の収穫をこの日本の環境から受け取り、それにできるだけしっくり適応するように努力し、また少なくも、部分的にはそれに成効してきたものであることには疑いがないであろうと思われる。(「日本人の自然観」より)

第三巻 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉  定価:200円
 倭人の名は『山海経』『漢書』『論衡』などの古書に散見すれども、その記事いずれも簡単にして、これによりては、いまだ上代における倭国の状態をうかがうに足(た)らず。しかるにひとり『魏志』の「倭人伝」に至りては、倭国のことを叙することすこぶる詳密にして、しかも伝中の主人公たる卑弥呼女王の人物は、赫灼(かくしゃく)として紙上に輝き、読者をしてあたかも暗黒の裡に光明を認むるがごとき感あらしむ。(略)
 それすでに里数をもってこれを測るも、また日数をもってこれを稽(かんが)うるも、女王国の位置を的確に知ることあたわずとせば、はたしていかなる事実をかとらえてこの問題を解決すべき。余輩は幾度か『魏志』の文面を通読玩索(がんさく)し、しかして後、ようやくここに確乎動かすべからざる三個の目標を認め得たり。しからばすなわち、いわゆる三個の目標とは何ぞや。いわく邪馬台国は不弥国より南方に位すること、いわく不弥国より女王国に至るには有明の内海を航行せしこと、いわく女王国の南に狗奴国と称する大国の存在せしこと、すなわちこれなり。さて、このうち第一・第二の二点は『魏志』の文面を精読して、たちまち了解せらるるのみならず、先輩すでにこれを説明したれば、しばらくこれを措(お)かん。しかれども第三点にいたりては、『魏志』の文中明瞭の記載あるにもかかわらず、余輩が日本学会においてこれを述べたる時までは、何人もかつてここに思い至らざりしがゆえに、また、この点は本論起草の主眼なるがゆえに、余輩は狗奴国の所在をもって、この問題解決の端緒を開かんとす。

第三巻 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉  月末最終号:無料
 九州の西海岸は潮汐満乾の差はなはだしきをもって有名なれば、上に記せる塩盈珠(しおみつたま)・塩乾珠(しおひるたま)の伝説は、この自然的現象に原因しておこれるものならん。ゆえに神典に見えたる彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と火闌降命(ほのすそりのみこと)との争闘は、『魏志』によりて伝われる倭女王と狗奴(くな)男王との争闘に類せる政治的状態の反映とみなすべきものなり。
 『魏志』の記すところによれば、邪馬台国はもと男子をもって王となししが、そののち国中混乱して相攻伐し、ついに一女子を立てて王位につかしむ。これを卑弥呼となす。この女王登位の年代は詳らかならざれども、そのはじめて魏国に使者を遣わしたるは、景初二年すなわち西暦二三八年なり。しかして正始八年すなわち西暦二四七年には、女王、狗奴国の男王と戦闘して、その乱中に没したれば、女王はけだし後漢の末葉よりこの時まで九州の北部を統治せしなり。女王死してのち国中また乱れしが、その宗女壱与(いよ)なる一小女を擁立するにおよんで国乱定まりぬ。卑弥呼の仇敵狗奴国の男王卑弓弥呼(ヒコミコ)は何年に即位し何年まで在位せしか、『魏志』に伝わらざれば、またこれを知るに由なし。しかれども正始八年(二四七)にこの王は女王卑弥呼と戦って勝利を得たれば、女王の嗣者壱与(いよ)の代におよんでも、依然として九州の南部に拠りて、暴威を逞(たくま)しうせしに相違なし。

第三巻 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉  定価:200円
倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う
倭奴国および邪馬台国に関する誤解
 考古界の重鎮高橋健自君逝(い)かれて、考古学会長三宅先生〔三宅米吉。〕の名をもって追悼の文をもとめられた。しかもまだ自分がその文に筆を染めぬ間にその三宅先生がまた突然逝かれた。本当に突然逝かれたのだった。青天の霹靂というのはまさにこれで、茫然自失これを久しうすということは、自分がこの訃報に接した時にまことに体験したところであった。
 自分が三宅先生とご懇意を願うようになったのは、明治三十七、八年(一九〇四・一九〇五)戦役のさい、一緒に戦地見学に出かけた時であった。十数日間いわゆる同舟の好みを結び、あるいは冷たいアンペラの上に御同様南京虫を恐がらされたのであったが、その間にもあの沈黙そのもののごときお口から、ポツリポツリと識見の高邁なところをうけたまわるの機会を得て、その博覧強記と卓見とは心から敬服したことであった。今度考古学会から、先生のご研究を記念すべき論文を募集せられるというので、倭奴国および邪馬台国に関する小篇をあらわして、もって先生の学界における功績を追懐するの料とする。
 史学界、考古学界における先生の遺された功績はすこぶる多い。しかしその中において、直接自分の研究にピンときたのは漢委奴国王の問題の解決であった。うけたまわってみればなんの不思議もないことで、それを心づかなかった方がかえって不思議なくらいであるが、そこがいわゆるコロンブスの卵で、それまで普通にそれを怡土国王のことと解して不思議としなかったのであった。さらに唐人らの輩にいたっては、それをもって邪馬台国のことなりとし、あるいはただちに倭国全体の称呼であるとまで誤解していたのだった。

第三巻 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)  定価:200円
 長いクロワゼットの散歩路が、あおあおとした海に沿うて、ゆるやかな弧を描いている。はるか右のほうにあたって、エストゥレルの山塊がながく海のなかに突き出て眼界をさえぎり、一望千里のながめはないが、奇々妙々を極めた嶺岑(みね)をいくつとなく擁するその山姿は、いかにも南国へ来たことを思わせる、うつくしいながめであった。
 頭をめぐらして右のほうを望むと、サント・マルグリット島とサント・オノラ島が、波のうえにぽっかり浮かび、樅(もみ)の木におおわれたその島の背を二つ見せている。
 この広い入江のほとりや、カンヌの町を三方から囲んで屹立(きつりつ)している高い山々に沿うて、数知れず建っている白亜の別荘は、おりからの陽ざしをさんさんと浴びて、うつらうつら眠っているように見えた。そしてはるか彼方には、明るい家々が深緑の山肌を、その頂から麓のあたりまで、はだれ雪のように、まだらに点綴(てんてい)しているのが望まれた。
 海岸通りにたちならんでいる家では、その柵のところに鉄の格子戸がひろい散歩路のほうに開くようにつけてある。その路のはしには、もう静かな波がうちよせてきて、ザ、ザアッとそれを洗っていた。――うらうらと晴れわたった、暖かい日だった。冬とは思われない陽ざしの降りそそぐ、なまあたたかい小春日和である。輪を回して遊んでいる子供を連れたり、男となにやら語らいながら、足どりもゆるやかに散歩路の砂のうえを歩いてゆく女の姿が、そこにもここにも見えた。

第三巻 第一七号 高山の雪 小島烏水  定価:200円
 古い雪の上に新雪が加わると、その翌る朝などは、新雪が一段と光輝を放ってまばゆく見える。雪は古くなるほど、結晶形を失って、粒形に変化するもので、粒形になると、純白ではなくなる。また粒形にならないまでも、古い雪に白い輝きがなくなるのは、一部は空気を含むことが少ないからで、一部は鉱物の分子だの、塵芥(じんかい)泥土だのが加わって、黄色、灰色、またはトビ色に変わってしまうからだ。ことに日本北アルプスの飛騨山脈南部などでは、硫黄岳という活火山の降灰のために、雪のおもてが、瀝青(チャン)を塗ったように黒くなることがある。「黒い雪」というものは、私ははじめて、その硫黄岳のとなりの、穂高岳で見た。黒い雪ばかりじゃない、「赤い雪」も槍ヶ岳で私の実見したところである。私は『日本アルプス』第二巻で、それを「色が桃紅なので、水晶のような氷の脈にも血管が通っているようだ」と書いて、原因を花崗岩の※爛(ばいらん)した砂に帰したが、これは誤っている。赤い雪は南方熊楠氏の示教せられたところによれば、スファエレラ・ニヴァリス Sphaerella Nivalis という単細胞の藻で、二本のひげがある。水中を泳ぎまわっているが、またひげを失ってまるい顆粒となり、静止してしまう。それが紅色を呈するため、雪が紅になるので、あまり珍しいものではないそうである。ただし槍ヶ岳で見たのも、同種のものであるや否やは、断言できないが、要するに細胞の藻類であることは、たしかであろうと信ずる。ラボックの『スイス風景論』中、アルプス地方に見る紅雪として、あげてあるのも、やはり同一な細胞藻であった。このほかにアンシロネマ Ancylonema という藻がはえて、雪を青色またはスミレ色に染めることもあるそうであるが、日本アルプス地方では、私はいまだそういう雪を見たことはない。

第三巻 第一八号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(一)徳永 直  月末最終号:無料
 昭和十八年(一九四三)三月のある日、私は“嘉平の活字”をさがすため、東京発鹿児島行きの急行に乗っていた。伴(つ)れがあって、七歳になる甥と、その母親の弟嫁とが、むかいあってこしかけているが、厚狭、小月あたりから、海岸線の防備を見せまいためか、窓をおろしてある車内も、ようやく白んできた。戦備で、すっかり形相のかわった下関構内にはいったころは、乗客たちも洗面の水もない不自由さながら、それぞれに身づくろいして、朝らしく生きかえった顔色になっている……。
 と、私はこの小説だか何だかわからない文章の冒頭をはじめるが、これを書いているのは昭和二十三年(一九四八)夏である。読者のうちには、昭和十八年に出版した同題の、これの上巻を読まれた方もあるかと思うが、私が「日本の活字」の歴史をさがしはじめたのは昭和十四年(一九三九)からだから、まもなくひと昔になろうとしているわけだ。歴史などいう仕事にとっては、十年という月日はちょっとも永くないものだと、素人の私にもちかごろわかってきているが、それでも、鉄カブトに巻ゲートルで、サイレンが鳴っても空襲サイレンにならないうちは、これのノートや下書きをとる仕事をつづけていたころとくらべると、いまは現実の角度がずいぶん変わってきている。弱い歴史の書物など、この変化の関所で、どっかへふっとんだ。いまの私は半そでシャツにサルマタで机のまえにあぐらでいるけれど、上巻を読みかえしてみると、やはり天皇と軍閥におされた多くのひずみを見出さないわけにはゆかない。歴史の真実をえがくということも、階級のある社会では、つねにはげしい抵抗をうける。変わったとはいえ、戦後三年たって、ちがった黒雲がますます大きくなってきているし、新しい抵抗を最初の数行から感じずにいられぬが、はたして、私の努力がどれくらい、歴史の真実をえがき得るだろうか?

第三巻 第一九号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(二)徳永 直  定価:200円
 「江戸期の印刷工場」が近代的な印刷工場に飛躍するためには、活字のほかにいくつかの条件が必要である。第一にはバレンでこするかわりに、鉄のハンドでしめつけるプレスである。第二に、速度のある鋳造機である。第三に、バレン刷りにはふさわしくても金属活字に不向きな「和紙」の改良である。そして第四は、もっともっと重要だが、近代印刷術による印刷物の大衆化を見とおし、これを開拓してゆくところのイデオロギーである。特定の顧客であった大名や貴族、文人や墨客から離脱して、開国以後の新空気に胎動する平民のなかへゆこうとする思想であった。
 苦心の電胎字母による日本の活字がつくれても、それが容易に大衆化されたわけではない。のちに見るように「長崎の活字」は、はるばる「東京」にのぼってきても買い手がなくて、昌造の後継者平野富二は大童(おおわらわ)になって、その使用法や効能を宣伝しなければならなかったし、和製のプレスをつくって売り広めなければならなかったのである。つまり日本の近代的印刷工場が誕生するためには、総合的な科学の力と、それにもまして新しい印刷物を印刷したい、印刷することで大衆的におのれの意志を表現しようとする中味が必要であった。たとえばこれを昌造の例に見ると、彼は蒸汽船をつくり、これを運転し、また鉄を製煉し、石鹸をつくり、はやり眼を治し、痘瘡をうえた。活字をつくると同時に活字のボディに化合すべきアンチモンを求めて、日本の鉱山の半分くらいは探しまわったし、失敗に終わったけれど、いくたびか舶来のプレスを手にいれて、これの操作に熟練しようとした。これらの事実は、ガンブルがくる以前、嘉永から慶応までのことであるが、同時に、昌造が活字をつくったとき最初の目的が、まずおのれの欲する中味の本を印刷刊行したいことであった。印刷して、大名や貴族、文人や墨客ではない大衆に読ませたいということであった。それは前編で見たように、彼が幕府から捕らわれる原因ともなった流し込み活字で印刷した『蘭語通弁』〔蘭和通弁か〕や、電胎活字で印刷した『新塾余談』によっても明らかである。

第三巻 第二〇号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(三)徳永 直  定価:200円
 第一に、ダイアはアルファベット活字製法の流儀にしたがって鋼鉄パンチをつくった。凹型銅字母から凸型活字の再生まで嘉平や昌造と同様であるが、字画の複雑な漢字を「流しこみ」による鋳造では、やさしくないということを自覚していること。自覚していること自体が、アルファベット活字製法の伝統でそれがすぐわかるほど、逆にいえば自信がある。
 第二は、ダイアはたとえば嘉平などにくらべると、後に見るように活字製法では「素人」である。嘉平も昌造も自分でパンチを彫ったが、そのダイアは「労働者を使用し」た。(略)
 第三に、ダイアの苦心は活字つくりの実際にもあるが、もっと大きなことは、漢字の世界を分析し、システムをつくろうとしていることである。アルファベット人のダイアは、漢字活字をつくる前に漢字を習得しなければならなかった。(略)
 さて、ペナンで発生したダイア活字は、これから先、どう発展し成功していったかは、のちに見るところだけれど、いまやパンチによる漢字活字が実際的に誕生したことはあきらかであった。そして、嘉平や昌造よりも三十年早く。日本では昌造・嘉平の苦心にかかわらず、パンチでは成功しなかった漢字活字が、ダイアによっては成功したということ。それが、アルファベット人におけるアルファベット活字製法の伝統と技術とが成功させたものであるということもあきらかであった。そして、それなら、この眼玉の青い連中は、なんで世界でいちばん難しい漢字をおぼえ、活字までつくろうとするのか? いったい、サミュエル・ダイアなる人物は何者か? 世界の同志によびかけて拠金をつのり、世界三分の一の人類の幸福のために、と、彼らは、なんでさけぶのか? 私はそれを知らねばならない。それを知らねば、ダイア活字の、世界で最初の漢字鉛活字の誕生したその根拠がわからぬ、と考えた。

第三巻 第二一号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(四)徳永 直  定価:200円
 アジアには十六世紀を前後して銅活字の時代があり、朝鮮でも日本でもおこなわれている。秀吉の朝鮮侵略のみやげものに端を発している家康・家光時代の銅活字印刷があるけれど、それにくらべると、このさし絵に見る康熙帝の印刷局ははるかに大規模で組織的であることがわかる。しかし、日本でも『お湯殿日記』に見るような最初の文選工は「お公卿たち」であったが、支那でもあごひげの長い官人たちであった。明治になって印刷術が近代化されてからでも、印刷工業をおこした人々の多くが、武家など文字になじみのある階級だったように、私の徒弟だったころの先輩の印刷工の多くが、やはり士族くずれだったことを思い出す。(略)
 武英殿の銅活字は康熙帝の孫、高宗〔乾隆帝〕の代になるとつぶされて銅貨となった。日本でも家康時代の銅活字は同じ運命をたどっているけれど、支那のばあいは銅貨の不足が原因といわれている。しかし、もっと大きな原因は金属活字にあって、漢字組織ができないならば、またプレス式の印刷機もないとするならば、むしろ手わざの発達による木版の方が容易であり便利であった。ボディが銅であれ鉛であれ、それが彫刻に過ぎないならば、むしろ木版にしくはない。銅活字がほろびて再び木版術が栄え、極彩色の芸術的な印刷物もできるようになった。康熙・乾隆の時代に見られるこの傾向は、十七世紀の終わりから十八世紀のなかほどまでであるが、江戸中期から木版術が再興し、世界にたぐいない木版印刷術を生み出した日本と時間的にもほぼ一致している――ということも、漢字が持つ共通の宿命がするわざであったろう。

第三巻 第二二号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(五)徳永 直  月末最終号:無料
 『東洋文化史上におけるキリスト教』(三六二ページ)で溝口靖夫氏は、前に述べたメドハーストが(Ibid, P.366)自分の当時の経験を追懐した文章を根拠にして、つぎのように述べているところがある。――第五の困難は、アヘン問題と宣教師の関係であった。メドハーストが広東に着いた一八三五年は、アヘン戦争の直前であり、支那と英国のあいだに険悪な空気がみなぎっていた。このときにあたって宣教師たちは、きわめて困難なる立場に置かれた。宣教師たちは、しばしばアヘンを積んだ船に乗ってきた。しかも、メドハーストらは切符は買っているが、積荷について容嘴(ようし)する権利はなかった。……宣教師は、英国人と支那人との間に立って、しばしば通訳の労をとらねばならなかったが、こんなとき支那人はアヘン貿易は正義にかなえるものなりや否や? をただすのであった。……ゆえに当時、宣教師たちのこいねがったのは、一艘の伝道用船を得ることであった。これによりアヘンの罪悪からまぬがるることであった。――一艘の伝道船で、アヘンから逃れることはできないけれど、一口にいって「インドからの手紙」は、英国議会をして宣教師らの活動を保証させる決議案をパスさせながら、こんどは「信教の自由憲章」を勝ち取らねばならぬほどそれが首かせになったことを示している。つまり、産業革命が生み出したアルファベット人種の革命的進歩性は、おなじ産業革命が生み出した「アヘンの罪悪」と衝突しなければならなかったが、この矛盾こそ資本主義の矛盾の中味であり、限界であった。

第三巻 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治  定価:200円
「ですから、もしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを大きな乳の流れと考えるなら、もっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油(あぶら)の球にもあたるのです。(略)」
 先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズをさしました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶが、みんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いので、わずかの光る粒、すなわち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒すなわち星がたくさん見え、その遠いのはボウッと白く見えるという、これがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、また、その中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この次の理科の時間にお話しします。では今日はその銀河のお祭りなのですから、みなさんは外へ出て、よく空をごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。
 そして教室じゅうはしばらく机のふたをあけたりしめたり本をかさねたりする音がいっぱいでしたが、まもなく、みんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。 

第三巻 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治  定価:200円
 そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルと転轍器(てんてつき)の灯をすぎ、小さな停車場に止まりました。
 その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示し、その振子は、風もなくなり汽車も動かずしずかなしずかな野原のなかに、カチッカチッと正しく時をきざんで行くのでした。
 そしてまったくその振子の音の間から遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れてくるのでした。「新世界交響楽だわ。」むこうの席の姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言いました。まったくもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。
(こんなしずかないいところで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい。僕といっしょに汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかり話しているんだもの。僕はほんとうにつらい。)
 ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして、むこうの窓の外を見つめていました。
 透きとおったガラスのような笛が鳴って、汽車はしずかに動き出し、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛をふきました。

第三巻 第二五号 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治  定価:200円
 空が青くすみわたり、ドングリはピカピカしてじつにきれいでした。
「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山ねこが、すこし心配そうに、それでもむりに威張(いば)って言いますと、ドングリどもは口々にさけびました。
「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」もうみんな、ガヤガヤガヤガヤ言って、なにがなんだか、まるで蜂の巣をつっついたようで、わけがわからなくなりました。そこで山猫がさけびました。
「やかましい! ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ!」

第三巻 第二六号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(六)徳永 直  定価:200円
 活字が日本に渡るには、他の条件が必要であった。そして、その他の条件のうちもっとも大きなものは、やはり文久二年・一八六二年の日本幕府がはじめてやった貿易船千歳丸の上海入港であったろう。(略)経済的にいえばこの貿易は失敗したけれど、不馴れな幕府の役人たちは積荷をそのまま持ち戻るはめにもなったけれど、オランダの役人につれられて各国の領事たちにあったり、諸外国人の活動ぶりを見てびっくりした。たとえばこれを便乗者・高杉一人の場合に見てもあきらかである。(略)その後二年あまりで、攘夷の中心長州藩が領民に洋品使用の禁を解き、薩摩や佐賀と前後して海外貿易を営なんだ急角度の転回も、したがって「薩長締盟」を可能にした思想的背景も、このときの千歳丸便乗によって彼が上海で感得したものによるところ、はなはだ多いといわれている。
 (略)第一回の千歳丸のときは高杉のほかに中牟田や五代〔五代友厚か。〕や浜松藩の名倉(なぐら)予可人(あなと)などあったが、第二回の健順丸のときは、前巻でなじみの昌造の同僚で長崎通詞、安政開港に功労のあった森山多吉郎、先の栄之助がいまは外国奉行支配調役として乗り組んでいたし、第三回目、慶応三年(一八六七)の同じく幕府船ガンジス号のときは、佐倉藩士高橋作之助〔猪之助か。(のちの由一)ら多数があり、たび重なるにつれて上海渡航者の数は急速に増えていった。(略)
 また、官船以外の密航者、あるいは藩所有の船修理と称して渡航する者もたくさんあった。(略)さては中浜万次郎を案内に立てて汽船を買いに来た土佐藩の後藤象次郎などと、千歳丸以後は「きびす相ついで」いる(略)。

第三巻 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫  月末最終号:無料
黒川能・観点の置き所
 特殊の舞台構造
 五流の親族
 能楽史をかえりみたい
 黒川の能役者へ
村で見た黒川能
能舞台の解説
春日若宮御祭の研究
 おん祭りの今と昔と
 祭りのお練り
 公人の梅の白枝(ずはえ)
 若宮の祭神
 大和猿楽・翁
 影向松・鏡板・風流・開口
 細男(せいのお)・高足・呪師

 山形県には、秋田県へかけて室町時代の芸能に関した民俗芸術が多く残っております。黒川能は、その中でも著しいものの一つで、これと鳥海山の下のひやま舞い〔杉沢比山舞か。〕との二つは、特に皆さまに見ていただきたいものであります。この黒川能が二十数年ぶりでのぼってくるのであります。世話をしてくださった斎藤氏〔斎藤香村か。〕に感謝しなければならないと思います。
 特にこの能で注意しなければならないのは、舞台構造であります。京都の壬生念仏を思わせるような舞台で、上下の廊下が橋掛りになっており、舞台の正面には春日神社の神殿をひかえているのであります。(略)奉仕する役者はというと、上座と下座が二部落にわかれており、ここで能をするときは、上座は左橋掛り(正面から見て)から出て舞い、下座は右橋掛りから出て舞うことになっている。これはもっとも大きな特徴で、今度の公演にいくぶんでも実現できれば結構だと思います。この神前演奏の形は、春日の若宮祭りの第一日の式と同形式といっていいと思います。しかも、黒川ではつねにその形式をくり返しているわけで、見物人よりも神に対する法楽を主としていることがわかります。
(略)おもしろいのは狂言です。表情にも言語にも必ず多少の驚きを受けられるでしょう。ことに方言的な言い回しなどには、つい、われわれも見ていて釣りこまれるものがありました。(「黒川能・観点の置き所」より)

第三巻 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎  定価:200円
面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
能面の様式 / 人物埴輪の眼
(略)しかし「意味ある形」、たとえば「甲冑」を円筒上の人物に着せたとなると、その甲冑は、四肢などに対するとはまったく段ちがいの細かな注意をもって表現されている。(略)それはこの鉄の武器が、人体などよりもはるかに強い関心の対象であったことを示すものであって、いかにも古墳時代の感じ方らしい。(略)
(略)埴輪(はにわ)人形を近くからでなく、三間、五間、あるいはそれ以上に、ときには二、三十間の距離を置いて、ながめてみる必要があると思う。それによって埴輪人形の眼はじつに異様な生気をあらわしてくるのである。もし、この眼が写実的に形作られていたならば、すこし遠のけば、はっきりとは見えなくなるであろう。しかるにこの眼は、そういう形づけを受けず、そばで見れば粗雑に裏までくりぬいた空洞の穴にすぎないのであるが、遠のけば遠のくほど、その粗雑さが見えなくなり、魂の窓としての眼の働きが表面へ出てくる。それが異様な生気を現わしてくるゆえんなのである。眼にそういう働きがあらわれれば、顔面は生気をおび、埴輪人形全体が生きてくるのはもちろんである。古墳時代の人々はそういうふうにして埴輪の人形を見、また、そういうふうに見えるものとして埴輪の人形を作ったのであった。

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