週刊ミルクティー*第11号〜

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週刊ミルクティー*第11号〜(特集 蝦夷論/考古学/博物館)


価格の改定

今号(第十一号)より、定価を210円(税込)から200円(税込)へ改定いたします。消費税を納める心配は、とうめんなさそうですので。
2008.10.5


2009.1.10 第二五号

博物館(五)浜田青陵
定価:200円(税込)  p.179 / *99 出版
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(46項目)p.258

  二、日本原史時代室
  (ト) 刀剣と甲冑
  (チ) 馬具、土器その他
  (リ) 建築、彫刻、絵画など
  (ヌ) 古瓦と古建築
  三、朝鮮・満州の古墳室
  (イ) 南朝鮮の古墳
  (ロ) 北朝鮮および満州の古墳

 むかし、雄略天皇の御時、河内の安宿郡(あすかべぐん)の人に田辺伯孫という人がありまして(略)それは月夜の晩のことでありましたが、あの応神天皇(伯孫の時から百年ほど前にあたる)の御陵の前を通りかかると、非常に立派な赤い馬に乗っている人に出会いました。自分の馬はのろくてとてもかないませんので、その馬をほしく思い、いろいろ話をして馬を取りかえてもらい、喜んで家へかえりました。ところが翌日厩へ行ってその赤馬を見ますと、おどろいたことには、それは土の馬でありました。これはへんなことだと、伯孫はゆうべの応神天皇の御陵の所へ行ってみましたら、自分の乗っていた馬は、御陵の前にある埴輪の土馬(つちうま)の間におって、主人をまっていたので、またびっくりしましたが、ようやくその馬と土馬と取りかえて家へつれて帰ったというおもしろいウソのような話であります。これはその時分河内の役人から朝廷へ報告した事実でありまして、とにかく当時馬に乗ることがおこなわれており、また埴輪の馬が御陵に立っていたことを、われわれに教えてくれる話であります。
25.rm
(rm形式:200KB、1'36秒)

週刊ミルクティー*第25号 ※ ダウンロードサイトへジャンプします。
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2009.1.3 第二四号

博物館(四)浜田青陵
定価:200円(税込)  p.166 / *99 出版
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(66項目)p.401

  二、日本原史時代室
  (イ) 日本の古墳
  (ロ) 埴輪と石人
  (ハ) 石棺と石室
  (ニ) 上古の帝陵
  (ホ) 勾玉などの玉類
  (ヘ) 古い鏡

 また埴輪(はにわ)の人形や馬と同じ形のものを、石で作ってお墓に立てたこともありました。これを石人、石馬などと申しております。しかしこれは日本のごく一部におこなわれただけで、九州の筑後や肥後などに時々見ることができます。筑後には昔継体天皇の御時、磐井という強い人がおって、朝鮮の新羅の国と同盟して、天皇の命にそむいたので、とうとう征伐されてしまいましたが、この人は生きている時分から、石でお墓を作り、石の人形などを立てて、豪勢を示していたということが、古い書物にでております。ちょうどこの磐井のおった地方に、今も石人・石馬が多く残っているのはおもしろいことです。
24.rm
(rm形式:120KB、57秒)

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2008.12.27 第二三号

博物館(三)浜田青陵
月末最終週:無料  p.205 / *99 出版
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(40項目)p.135

第三、考古博物館の巻(下)
  一、日本先史時代室
  (イ) 日本の石器時代
  (ロ) 貝塚、墓地などの遺跡
  (ハ) 石器と骨角
  (ニ) 土器と土偶
  (ホ) 朝鮮と支那の石器
  (ヘ) 青銅器と銅鐸

 それは今から五十年ほどまえに、アメリカから日本の大学の教授になって来たモールスという先生が、初めてわれわれに教えてくれたのであります。この先生は動物学者でありまして、日本へ来る前に、アメリカのフロリダという所で石器時代の貝塚を掘った経験があり、その方面の学問にもくわしい人でありました。明治十二年に船で横浜に着きまして、その頃できていました汽車で東京へ行く途中、汽車の窓からそこら辺の風景をながめておりました。ところが大森駅の付近において線路の上に白い貝殻が多く散乱しているのを見つけまして、これはきっと石器時代の貝塚があるのに違いないと思い、それから間もなくこの大森へ発掘に出かけました。はたしてそれは貝塚でありまして、石器や土器が多数に出てきたのです。これが日本において貝塚を研究するために発掘した最初であります。

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2008.12.20 第二二号

博物館(二)浜田青陵
定価:200円(税込)  p.215 / *99 出版
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(59項目)p.298

  第二、考古博物館の巻(上)
   一、考古学とはどういう学問ですか
   二、旧石器時代室
   三、新石器時代室

 私は七、八歳の少年時代から、昔の人の作った石の矢の根などを集めて喜んだのでありましたが、そのころ私は石の矢の根は人間の作ったものではなくて、水晶や何かと同じように自然にできた石だとばかり信じておりました。またある人は石の矢の根は天狗の作ったものだと話してくれました。しかしそれは、今日から四十年ほどまえのことでありまして、そのころには日本のどこへ行っても考古学の博物館というものは一つもなく、また石の矢の根のようなものについても、説明した書物がなかったのであります。もしそのころ考古学の博物館があったならば、石の矢の根は自然にできたものでもなく、また天狗の作ったものでもなくて、古い時代に人間が作ったものであるということがわかったことでありましょう。

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2008.12.13 第二一号

新連載・博物館(一)浜田青陵
定価:200円(税込)  p.136 / *99 出版
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(25項目)p.164

  はしがき
  第一、序の巻
   一、博物館とはどういう所ですか
   二、世界各国の大博物館

 博物館は、最初にも申したとおり、ただ珍しいものや美しいものをたくさんに並べるというところではなくて、それらがあるいは年代の順に、あるいは地方の別にというふうに、品物を順序よく系統を立てて並べ、これを見る人が知識を広め学問をするために作られたものでありますから、博物館の良い悪いということはその所に並べてあるものが多いか、少ないとかいうことよりも、また珍しいものがあるとかないとかいうよりも、その並べ方が良くできているかいないかというのできまるのであります。

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浜田青陵 はまだ せいりょう
1881-1938(明治14.2.22-昭和13.7.25)
濱田 耕作(はまだ こうさく)。大阪府岸和田市生まれ。考古学者。東京帝国大学で美術史を専攻し、卒業後、ヨーロッパに留学して考古学の研究を続ける。帰国後は京都帝国大学考古学研究室の初代教授に就任。梅原末治、末永雅雄、小林行雄らを見出し、考古学における京都学派を形成する。従来の日本の考古学の手法にヨーロッパの考古学研究方法を取り入れ、更には中国及び朝鮮半島を含むアジアの遺跡を調査。
◇参照:Wikipedia


2008.12.6 第二〇号

特集・考古学(五)喜田貞吉
「鐵」の字の古体と古代の文化
石上神宮の神宝七枝刀
八坂瓊之曲玉考
定価:200円(税込)  p.162 / *99 出版
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(69項目)p.264

「鐵」の字の古体と古代の文化 
「鐵」の字古く「銕」また「※[#「金+截」、p262-1]」に作る。「銕」の字は旁(つくり)が「夷」に従っている。夷は東方異族の称で、「銕」はすなわち東夷の金の義である。東方の国早くこの金属を産し、シナに輸入したものと見える。『魏志』に「国鐵を出す、韓・※[#「さんずい+歳」、第3水準1-87-24]・倭皆従ひて之を取る。諸市買ふに皆鉄を用ふ」とある。「神功紀」に、百済谷那(こくな)の鉄山(てつむれ)の事もある。わが国にも随処砂鉄を産する地多く、鉄を採るの術早く開けて、いわゆる青銅器時代を経ずして、太古の石器時代から、ただちに鉄器時代に移った場合が多かったようである。これは石器時代の遺蹟から、ただちに鉄※[#「金+宰」、p262-5](かなくそ)の出る遺蹟に続いている場所の少からぬによっても察せられる。

石上神宮の神宝七枝刀 
 昨秋十月大和に遊び、石上神宮(いそのかみじんぐう)に参拝して、有名なる神宝六叉鉾と称する異形の古武器を拝観することを得た。茎(くき)一つにして、左右に各三枝、都合六個の枝を生じて、切尖とともに七鋒をなしている。その切尖以外、六叉あるので、これを鉾(ほこ)と見立てて、六叉鉾の称を得たと察せられる。しかしこれが六叉鉾ではなく、七枝刀(ななつさやのたち)と称するものであることは、銘文に、「□陽造百錬□七支刀」とあるのであきらかである。

八坂瓊之曲玉考
   一 緒言
   二 タマという名称
   三 マガタマという名称
   四 琉球の女巫佩用の玉
   五 今のいわゆる曲玉の古称
   六 八坂瓊之曲玉という名称
   七 結語
 (略)本来タマなる名称は、孔を有して緒を通ずべき個々の物体そのもののことではなく、それはむしろ第二次的転用の名辞であって、当初はこれらの多くの個々の物体を、いわゆる「タマの緒」をもって連絡したものの名称であったと考える。古語にかかる連珠を、しばしば五百箇(いおつ)御統玉(みすまるのたま)、あるいは八坂瓊珠(やさかにのたま)などという。(略)「すまる」は「しめる」の義で、多数の有孔物体を、緒をもって締め連ねたものの称、また八坂瓊とは、八尺のタマで、その緒にとおした形の長きを呼んだ称である。しかしてそれをともに「タマ」と呼んでいるのである。

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2008.11.29 第十九号

特集・考古学(四)喜田貞吉
本邦における一種の古代文明 ——銅鐸に関する管見——
銅鐸民族研究の一断片
月末最終週・無料  p.144 / *99 出版
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(51項目)p.266

本邦における一種の古代文明 ——銅鐸に関する管見—— 
 自分はこの東海の楽土へ大陸から移民のあったのは、出雲民族や天孫種族や、任那(みまな)の王子蘇那曷叱知(そなかしち)渡来以来の韓人や、弓月君(ゆつきのきみ)、阿知使主(あちのおみ)以後のシナ人のみとは思わない。ずっとずっと前から、いくどにもいくどにも、この低気圧の好地を求めて渡来したものがあったであろうと考えている。(略)出雲民族のごときは畢竟その多くの渡来者中の優なるもので、大国主神が生太刀、生弓矢をもって荒振神達を平げ、出雲を中心とした国家を建設したのであったものと思う。

銅鐸民族研究の一断片
   一 序言
   二 天日槍伝説の再検討
   三 気比神宮祭神問題
   四 牛を殺して漢神を祭るの風習と銅鐸分布区域
   五 結語
 私の銅鐸秦人説はきわめて簡単なものである。わが歴史時代にはなはだ多数の族を有したかの秦人なるものは、古伝いうごとく応神天皇の御代に弓月君にしたがって渡来したものではなく、それよりもはるかに遠い以前、おそらく天孫民族のまだそう繁延せぬ以前において、朝鮮半島東南部なる後の新羅の地に住した秦韓人が、祖国の文化のあるものをたずさえてわれに大挙移民したものであり、新羅王子天日槍(あめのひぼこ)帰化の伝説はおそらくその事跡の片影を示すもので、それが畿内を中心とせる四近の地方にひろがって、問題の銅鐸を製作したのであったであろうというのである。

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2008.11.22 第十八号

特集・考古学(三) 喜田貞吉
日本石器時代の終末期について
「あばた」も「えくぼ」、「えくぼ」も「あばた」
——日本石器時代終末期——
定価:200円(税込)  p.134 / *99 出版
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia p.66

日本石器時代の終末期について 
   一 緒言
   二 石器時代遺跡から宋銭発見の事実(一)
   三 石器時代遺跡から宋銭発見の事実(二)
   四 石器時代遺跡から鉄製品発見の事実
   五 いわゆる土器の型式の編年的研究について
   六 石鏃の脚の有無と石器時代の新古
   七 弥生式と縄文式との年代的関係
   八 結語
『ミネルヴア』創刊号の座談会記事は、近ごろ興味を持って読んだ有益な記事だった。しかして余輩がこれを見て第一感じたことは、近ごろの新進考古学者の中に、わが石器時代の実年代に関してわれわれ老人の思いもよらぬ見解があるということであった。

「あばた」も「えくぼ」、「えくぼ」も「あばた」——日本石器時代終末期—— 山内君はご自分達で組織せられたいわゆる「日本考古学の秩序」なるものによって、あいかわらず石器時代の文化状態は全国各地ほぼ並行し、その終末期もほぼ相似たものであるとの持説を固執せられて、それに都合のよくない余輩の提示した石鏃の脚有無の問題などは、まったく閑却に付せられているのである。しかしこの問題はたしかにわが石器時代文化のいちじるしい一現象なのだから、そう手軽に閑却してもらっては困る。

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2008.11.15 第十七号

特集・考古学(二)
喜田貞吉
「遺物・遺蹟と歴史研究」
「日本における史前時代の歴史研究について」
「奥羽北部の石器時代文化における古代シナ文化の影響について」
定価:200円(税込)  p.158 / *99 出版
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia p.158

遺物・遺蹟と歴史研究 従来歴史家が史料としてとりあつかったところは、通例文字をもってその事跡を記録してある時代以降のことのみであった。なんら記録の徴すべきものなく、もっぱら遺物・遺跡のみによって当時の事跡を知るを得るというがごとき時代のことは、これをあげて考古学者に委任し、自家の研究範囲以外のこととして、かえりみなかった場合が多い。

日本における史前時代の歴史研究について 北見国からおそらく奈良朝時代のものと思われる蕨手刀(わらびてとう)が出た。しかしてそこには一方で土製の刀剣が模造されておった。日高国から室町時代のものと思われる腰刀が出た。しかしてそこにはなお石銛(もり)・石鏃(せきぞく)などが作られていた。陸中国からは先秦の刀貨が出たと言われ、羽後からは漢代の半両銭・五銖銭がぞくぞく発掘されている。近くは陸奥国是川村なる石器時代の遺跡から、種々の漆器や木製品が出土して学界の大問題をひきおこしている。かくのごとく一方には史前時代と、他方には有史時代とが、かすかながらに、あるえにしの糸で結びつけられているような現象も少なくはないのである。

奥羽北部の石器時代文化における古代シナ文化の影響について さきに自分が本誌において、奥羽地方のアイヌ族がすでに先秦時代にさいして、大陸と交通したのではなかろうかというような、とっぴな説を担ぎ出すに至ったのは、主として津軽半島の北端に近い宇鉄から発見せられた石刀が、先秦時代のシナの刀貨と類似しているところにヒントを得たためであった。

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2008.11.8 第十六号

特集・考古学(一)
喜田貞吉「考古学と古代史」
定価:200円(税込)  p.139 / *99 出版
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia p.91

 私がわれわれの祖先の遺跡として最も興味をもって研究したいと思っておりますのは、すなわちこの神籠石のことであります。神籠石というものが学者によって注意されたのはごく新しいことで、私どもがその名を始めて聞いたのは明治三十二、三年(一八九九、一九〇〇)ころであったと信じております。それまでは多くの学者によってその存在すら認められておらなかった。昔の人はこれをもって城址である、神さまが戦争した城址であるというくらいの説明をしておったのでありまして、いっこう研究ができていない。じつは今日まで何人にもじゅうぶん研究されておらぬといってよいほどの状態にあるのであります。数年前からこの神籠石として知られておったものは四か所あって、いずれも福岡県下にかぎられている。

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2008.11.1 第十五号

特集・蝦夷論(五)
喜田貞吉「奥州における御館藤原氏」
 一 緒言
 二 御館藤原氏の富強と王地押領の事実
 三 御館藤原氏とその部下
 四 頼朝奥州征伐の顛末
 五 役後の処分
定価:200円(税込)  p.164 / *99 出版
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia p.440

 奥州における藤原基衡・秀衡らが夷狄・匈奴として認められたことは、上文引ける公家の日記によっても明白な事実である。しからば彼らははたして俘囚すなわち熟蝦夷(にぎえみし)の種であったのであろうか。系図の伝うるところによれば、彼らは正しく田原藤太秀郷(ひでさと)の後裔であったという(略)西行法師が秀郷の後裔であることは、『吾妻鏡』(文治二年(一一八六)八月十五日条)に、彼の言として、「弓馬のことは在俗の当初愁に家風を伝うといえども、保延三年(一一三七)八月遁世之時、秀郷朝臣以来九代嫡家相承の兵法焼失す」とあるによってあきらかで、しかも同書に、「陸奥守秀衡入道は上人(西行)の一族なり」とあってみれば、当時すでに秀衡が秀郷の後裔であることが、認められていたに疑いはない。

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2008.10.25 第十四号

特集・蝦夷論(四)
喜田貞吉「東人考」
 一 緒言
 二 東人という名、付毛人という名
 三 従者または護衛の兵士などとして任ぜられたる東人の先例
 四 聖武天皇が東人をもって組織し給いし禁衛隊とはなんぞ
 五 太古における東国の住民と東人
 六 東人と防人
 七 東人と武士
 八 東人の武勇
 九 東人と文芸
毎月最終号・無料  p.590 / *99 出版

 東人(あずまびと)とはその文字の示すがごとく、また称徳天皇のあきらかにおおせ給いしがごとく、諸の東国人なり。諸の東国人何がゆえに特に忠勇の名誉を有し、天皇の近き護(まも)りとして抜擢(ばってき)せらるるの栄をこうむりしか。また、そのいわゆる近き護りとして編成せられたる部隊とははたしていかなるものなりしか。(略)奈良朝は、すなわち東人が防人(さきもり)として徴発せられ、あるいは聖武天皇がこれをもって禁衛隊を組織し、とくにその忠勇を賞美し給いし時代なり。

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2008.10.18 第十三号

特集・蝦夷論(三)
喜田貞吉「夷俘・俘囚の考」
 一 緒言
 二 蝦夷と佐伯部
 三 俘囚は夷種にあらずとの説
 四 右の諸説に対する弁解
 五 熟蝦夷と俘囚と渡党
 六 麁蝦夷と夷俘、付夷俘・俘囚の語の混用
 七 日の本蝦夷と唐子、付津軽およびカラフト名義考
定価:200円(税込)  p.486 / *99 出版

 藤原氏ほろびて後は、その鎌倉の治下にあるを喜ばざりしものは、北海道に渡りていわゆる渡党(わたりとう)となり、その内地に残留せしものはまったく邦人と融和混同して、ついには他よりもその異種なることを忘れられ、自己また夷の後裔たることを忘れ、ぜんぜん夷人としての存在を内地に失するに至りき。(略)夷俘とは(略)麁蝦夷にして、これに対する俘囚とは、蝦夷の熟蕃すなわち博徳のいわゆる熟蝦夷(にぎえみし)なり。

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2008.10.11 第十二号

特集・蝦夷論(二)
喜田貞吉「日高見国の研究」
定価:200円(税込)  p.188 / *99 出版

 信太郡の地が異民族の日高見国であったといわれたことは、『常陸風土記』茨城郡の条に、昔この国に山の佐伯(さえき)、野の佐伯、すなわち山夷、野夷がいたとの古老伝を記し、また国内各地に佐伯すなわち蝦夷がいたとの逸話を伝えているのによっても知られるが、その中にも特にこの信太の地は、もと信太の流海と榎浦の流海との間にはさまれた丘陵地で、他とほとんど隔離せられ、狩猟、漁業の利がはなはだ多かったがために、他の地方の蝦夷がつとに日本化して、その民族的独立をうしなった後までも、ここにはひさしく固有の生活を継続し得て、ために隣人から夷狄の国、すなわち日高見の国として認められたのであったと解せられる。

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2008.10.4 第十一号

特集・蝦夷論(一)
喜田貞吉
「東北民族研究序論」
「猪名部と佐伯部」
「吉野の国巣と国樔部」
定価:200円(税込)  p.200 / *99 出版

東北民族研究序論 人口少なくして土地の比較的はなはだ広かった時代においては、ひとり先住民族を誘掖(ゆうえき)同化して、これを日本民族中に抱擁せんと努力したばかりでなく、これら帰化の人々をも歓迎したものであった。平安朝初期の『古語拾遺』には、当時諸蕃の数のはなはだ多かったことを述べて、「秦漢百済の民各万をもって数ふ、褒賞すべきに足れり」とある。その人口増殖を賞美すべしというのである。

猪名部と佐伯部 『和名抄』と申して、平安朝なかごろの源順という人のこしらえました字引きの国郡記事の部には、川辺郡に猪名郷というのがある、のちには猪名という名前は、川辺郡に保存されているようなことになっております。(略)佐伯部はそも何者であるか(略)わが先住民たる蝦夷人である。常陸国の一番古い地誌として伝わっている『常陸風土記』を見ると、昔山の佐伯、野の佐伯がおったとある。

吉野の国巣と国樔部 井光の地またこれを飯貝に求むべしとすれば、残るところはただ「記紀」その地点所在の順序を異にする国巣の地のみとなる。(略)『日本紀』に、応神天皇十九年十月、天皇吉野宮に行幸あり、このとき国樔人来朝して醴酒(れいしゅ)を献じ、歌を奏したとある(略)はじめて朝廷との間に縁故を生じ、いわゆる国栖奏として土毛(くにつもの)を献じ、風俗の歌舞を演ずるの例が始まったのである。


喜田貞吉 きた さだきち
1871-1939(明治4.5.24-昭和14.7.3)
徳島県生まれ。歴史学者、文学博士。考古学、民俗学。
◇参照:『国史大辞典』、Wikipedia

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公開:2008.10.5
更新:2009.1.10
しだひろし/PoorBook G3'99
翻訳・朗読・転載は自由です。
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  • 著者名リストの整合性のため、姓名を半角スペースで分かち書きしていたのを修正。 -- しだ (2011-07-25 14:43:09)
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