喜田貞吉『六十年の回顧』三五 旅行 1

※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

六十年の回顧
三五 旅行
喜田貞吉


【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)昭六、七、一四—二九《(ママ)》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから二段組、横罫線あり]


[#ここから底本凡例より]
 なお今日からすれば使用をつつしむべき差別用語が用いられているが、本著作集においては喜田貞吉の思想、史観を明らかにするうえからあえて改めず、原文のままとした。ただし限定された地名については若干の配慮をほどこした。
[#底本凡例ここまで]


       三五 旅行

 自分の好きなものは旅行、嫌いなものは酒。酒はいくら我慢しても飲めないから問題はないが、旅行は久しくしないでいるとどうも気が滅入って来る。健康の上にも善くないようだ。自分の旅行癖は、幼年時代に祖母に伴われて、お寺参りや神社詣でに連れて行かれたことから植え付けられたものらしい。しかし明治十三年、自分が十歳の時に祖母が死んで以来は、どこへも連れて行ってくれる人がなく、というよりもむしろ父兄と一緒に労働を強制せられて、「遊びに行く」というようなことはほとんどなかった。中学校へ入ってからは、みずから好んで仲間はずれになった形であって、ために団体旅行にはあまり気が進まなかったが、それでも時には二、三人の友人と行をともにして、「遠足」に出かけたこともないではなかった。三高や帝大在学時代にも、団体的の修学旅行には、たいていなんとか故障を設けて失敬したものだった。ことに三高時代の鉄砲担いでの発火演習旅行は大禁物で、在学五ヵ年半の間に、ただ一度宇治・木津方面へ行ったことがあるばかりだったと記憶する。つまり自分のわがままな性格と、自分の身体が、ことに脚が太く短くて、健脚の仲間と歩をともにすることの苦痛とから、自然自分をそうさせたのだった。しかし単独旅行はよく試みた。ことに夏冬の休暇は旅行の書き入れ時季で、いつもきまってどこかへ出かける。その習慣がついて、家庭を持ってから以来今年で三十余年間、自宅で新年を迎えたということは指を折って数えるくらい。しかし一口に旅行とは言っても、三高在学時代には、ただ景色のよい所を見てまわるとか、いわゆる名所・古蹟を訪ねてみるとかいう月並的のもので、もちろん研究的の意味はなかった。しかるに帝大在学のころからは、そこになんらかの史的意義がなければ行ってみる気にならなくなった。優美ということから全く縁離れがして、いっこうそれに興味を感ぜぬ乾燥無味な人間になってしまったのだ。青少年時代にはよく寄席や芝居見物に出かけたものだったが、それも帝大入学の明治二十六年以来、四十年間東京に住居しながら、まだ一度も歌舞伎座や帝国劇場へ脚を入れるの光栄を有しないということによっても、そのいかに無趣味な人間になったかが知られよう。したがってついでながらならばとにかく、どんな景色のよい所でも、そのためにわざわざ出かけるというようなことはほとんどなくなった。青森県下へはすでに二十三回も足を入れておりながら、誰もが行くかの十和田湖の景色を、まだ一度も探ってみたことがないのである。
 しかしいかに旅行が好きであるからと言っても、それには相当暇と費用とのかかる事業であるがために、そうたびたびは出かける訳にも行かぬ。三高時代で記憶に残っているものは、たしか明治二十五年から六年へかけての冬休みに、伊勢参宮のついでに志摩の鳥羽へ廻り、今の真珠王御木本幸吉氏の親類という学友故御酒本三之助君に伴われて、当時まだやっと同氏が養殖真珠を始められたころのうどん屋へ行って、たくさんの真珠を見せられてその夥しいのに驚いたことや、これも同じ明治二十六年の春休みに、須磨・明石・高砂の松から、尾上の鐘、別府の手枕松、石の宝殿などいう、いわゆる播州名所を巡覧し、岡山・玉島を経て、汽船で讃岐へ渡り、多度津・丸亀・高松などを見物して、阿波へ帰ったことくらい。ただしこの播州巡りでは、今の京城大学法文学部の速見滉博士が、まだ岡山中学の生徒として、ほか一名の学友とともに、これも播州名所見物に来ておられたのと、偶然明石城で一緒になって、終日行を共にしたことで、さて一同加古川駅からいざ汽車に乗ろうという時になって、両君岡山までの汽車賃が足らぬという一大珍事を発見し、自分がお立てかえしたという景物があったことから、今にありありと当時の状況を記憶している。帝大在学中にも、むろん一年三度の休暇以外には、あまり遠あるきは出来なかった。今記憶に残っているのは、明治二十七年の夏休みに、帰省の途次讃岐を一周して、当時金刀比羅宮の禰宜を勤めておられた国学の老大家故松岡調翁をお尋ねして、同翁多年蒐集の夥しい考古品や、古文書などを、志度の多和文庫に就いて見せて貰ったこと、また同年の十月ころに、両親の案内をして、日光見物から仙台・松島まで脚をのばしたことくらいに過ぎない。そのほかのことは、当時の日記も遺っておらず、記憶も朦朧としていて今たずぬるに由がない。明治二十九年帝大卒業後のことは、断続しながら日記もあり、ことに明治三十九年ころからは、一日も欠かさぬ「随録日誌」が整っていて、ほぼそのあとをたどることが出来る。しかし卒業後の約五年間は、何分にも例の学士肩書の切売に忙しく、また文部省就職後も、前記のごとく公務に追われていたので、史蹟調査などいう暢気なことはあまり出来なかった。自分が実際暇にあかして各地を見てまわることの出来るようになったのは、明治四十四年二月文部編修が休職となり、京大講師専任となった後のことであった。しかしたとい講師とは言っても、一年を通じて教務を担当していた間は、そう好きに出あるいてばかりもいられなかったが、大正十三年教授を辞して、恩給生活に入って以来は、京大と東北大学とに一学期ずつを担当して、しかも京大では一学期分の講義を一ヵ月に約め、東北大学では一学期分を一年に引延ばしてやってよいという、きわめて都合のよい優待を受け、また斎藤報恩会や文部省などから、研究費の補助までが与えられて、家庭のことは全然妻に一任し、一年中の大半はいつでも好きに旅行が出来るという、きわめて仕合せな身分となった。しかしあまりに旅行に時を費し過ぎた結果、いたずらに材料の蓄積のみに走って、それを整理することが出来ず、順々に黴がはえつつあるのは遺憾である。今座右の日誌から明治二十五年末以来の旅行年譜を編成して、自分の過去がどんな方面に動いて行ったかを回想するの料とする。中にはわずかに半日の出張もあれば、足跡数府県に渉り、一ヵ月近くに及んだものもあり、その日誌に記されたもの実に七百余回、その中から左に取出したもの五百六十余回、ただし明治三十五年以前のものは、記録不完全で脱漏が多いが、今これをいかんともすることが出来ぬ。なおこれらの旅行については、その紀行の一部をすでに新聞雑誌上に発表したのもあるが、その以外のものについても、いつかは重《おも》なるものを整理して、遺しておきたいと思っている。


[#ここから二段組、横罫線あり]

     旅行年譜

明二五、一二—二六、一 伊勢参宮、鳥羽
明二六、三—四 播州名所巡覧、岡山、玉島、丸亀、高松
明二六、七 (三高卒業、帝大国史科入学)
明二七、七—八 讃岐一周—白峯、善通寺、その他
明二七、一〇 日光、仙台、松島
明二七、一一 箱根(帝大文科遠足)
明二九、七 (帝大国史科卒業)
明二九、八、一—一〇 阿波祖谷山踏査(堀田璋左右君ら同行)
明三〇、一一、二—三 日光、湯元(真宗中学遠足)
明三一、二、九—一三 鎌倉(帝大国史科学生修学旅行参加)
明三一、三、三〇—四、一二 京都、田辺、木津、奈良、平城京址、法隆寺、吉野、高野山、大阪
明三一、八、七—二一 阿波各地(丈六寺その他)
明三一、一〇、一六—一八 箱根(成田中学校遠足)
明三一、一二、二九—三二、一、一 銚子、佐原、香取(藤田明君同行)
明三二、二、一三 武蔵国分寺、府中
明三二、三、三〇—四、一〇 阿波各地
明三二、六、二〇—二一 下総吉岡大慈恩寺、滑川横穴、小御門
明三二、九 武蔵吉見百穴
明三二、一二、三一—三三、一、九 笠置、和歌山、和歌浦、阿波各地
明三三、三 足利(帝大同窓丙申会遠足)
明三三、四、二九—三〇 下総守谷、土浦、筑波登山
明三三、七 川越喜多院その他(藤田、堀田両君同行)
明三三、八、一—九 信濃、越後行—浅間登山、上田、長野、高田、直江津、五智国分(藤田君同行)
明三三、八、一〇—二六 東海道、畿内旅行—静岡、久能山、御穂、京都、山崎、桜井駅址、大阪、堺、仁徳陵その他、河内応神陵その他、太子叡福寺、大和畝傍、桜井、初瀬その他(藤田君同行)
明三三、一二 京都(南禅寺畔忠仁公墓というもの調査、その他)
明三四、四 (文部省図書検定嘱託、翌月文部省図書審査官任官)
明三四、一一、九—一〇 妙義登山(文部省図書課員遠足)
明三四、一二、二八—三五、一、二 河内六万寺(小楠公墳墓調査)その他
明三五、三、一—二八 福岡、佐賀、大分三県出張—姫路城、福山城、下関、福岡、佐賀、多久聖廟、唐津、呼子、名護屋、波多、伊万里、有田、長崎、太宰府、観世音寺、水城、元寇遺蹟、周船寺、雷山神籠石、高祖、深江、長糸、一貴山、今宿、久留米、高良山神籠石、石人山、石戸山その他、熊本、水前寺、名島、箱崎、宇佐、日出、別府、鉄輪、大分、耶馬渓その他
明三五、八 富士登山
明三六、五、七 大阪(第六回内国勧業博覧会)、大山陵その他
明三七、一一、三—一二、五 鳥取、島根、広島三県出張—京都、姫路、城崎、玄武洞、(但馬海岸徒歩)、香住、余部、浜坂、鳥取、東郷、淀江、米子、境、美保、隠岐、松江、今市、大社、大森、浜田、津和野、三田尻、広島、厳島、福山、京都
明三八、五、二三—六、一六 日露戦役戦地見学—広島、字品、(丹後丸にて大連へ)大連、南山、金州、旅順、(加賀丸にて宇品へ)—帰途法隆寺、京都
明三八、一〇、一四—一五 箱根(文部省図書課員遠足)
明三八、一二、三〇—三九、一、七 奈良博物館、平城京址、法降寺その他(北畠男爵訪問)、阿波、宇治、木幡、山科、京都
明三九、五、一二—六、一三 高知、香川、愛媛三県出張—徳島、脇町、辻、杉、土佐国分寺、高知、赤岡、奈半利、浮津、室戸、佐川、須崎、中村、宿毛、宇和島、三浦、大洲、松山、道後、西条、新居浜、四坂島、別子銅山、観音寺、本山、坂出、丸亀、高松、多度津、善通寺、撫養、徳島
明三九、一〇、五—七 筑波登山、その他
明三九、一〇 振天府拝観
明三九、一〇、二〇—二二 成田、佐原(伊能家訪問)、その他
明四〇、七、二八—八、二三 福岡県各地—直方、小倉、久留米、女山神籠石、太宰府、観世音寺その他、雷山、一貴山その他、兵庫、阿波
明四〇、一二、二六—四一、一、六 前橋、磯部
明四一、二、二五 (京大文科大学講師嘱託)
明四一、五、一〇—一一 大和巡り(畝傍その他)(谷井済一君同行)
明四一、五、一七 奈良(東大寺大仏殿発掘品視察)
明四一、五、一八 京都将軍塚(古墳調査)
明四一、五、三一—六、二 大和巡り、奈良、西の京各地(以上京大生指導)、飛鳥檜隈地方各地(小田省吾君東道)
明四一、六、八—一〇 大阪、天王寺、阿部野、兵庫
明四一、六、一三 大津、滋賀里(大津京址踏査)
明四一、七、二〇—三一 長府、下関、阿波
明四一、八、二—三 大和額田、八木その他(条里調査)
明四一、八、一四—一七 鎌倉(歴史地理夏期講演会)
明四一、一〇、八 鶴見(お穴様横穴視察)
明四二、四、二四—二六 奈良(北浦義十郎氏訪問)、元明陵その他、法隆寺、安倍文珠(一部分京大文科学友会同行)
明四二、五、一—二 京都史蹟視察—神泉苑、大谷、東福寺、九条家月輪墓、東寺、お土居、壬生(壬生狂言)
明四二、五、八 長岡京址踏査—唐橋、西寺、粟生、向日町
明四二、五、一五—一六 大和巡り—東大寺、不退寺、大山守墓、郡山、帯解、三島その他
明四二、五、二三 天部視察(竹中庄右衛門翁訪問)
明四二、五、二五 大津、膳所、茶臼山その他
明四二、五、二九 横浜(開港史料展覧会)
明四二、七、一 芝公園丸山古墳調査
明四二、七、三〇—八、五 興津、小田原(歴史地理夏期講演会)、箱根
明四二、八、六—一四 大分、別府
明四二、八、一五—二四 高松、徳島(夏期講習)、阿波国分寺その他
明四二、一一、五—一一 名古屋、京都、阿波
明四二、一二、二八—四三、一、五 周防石城山、三田尻、下関、小倉、中津、豊前御所谷、武蔵温泉、太宰府、肥前坊住山(神籠石調査)
明四三、一、二二—二八 伊勢参宮—皇学館、徴古館
明四三、二、一三 浦和
明四三、五、一—三 御所、離宮拝観
明四三、五、三—六 阿波、飯尾
明四三、五、八 大津
明四三、五、二五 山科、大津
明四三、七、二〇—二八 下関
明四三、七、二九—三一 豊津、小倉、久留米その他
明四三、八、一—九 長府(歴史地理夏期講演会)
明四三、八、一一—一九 讃岐行—観音寺、高松、屋島、讃岐国府、城山、阿波
明四三、一一、二〇 佐原
明四三、一二、二九—四四、一、五 箱根
明四四、二、二七 (文部編修休職)
明四四、四、一五—一七 大阪城、天王寺その他、阿波、河内樟葉
明四四、四、二三 京都東山、山科
明四四、五、三—四 大阪、神戸
明四四、五、一七—一八 宇治、田辺、神奈備山
明四四、七、二五—二八 三浦三崎、逗子
明四四、八、二七—三〇 三浦三崎、葉山、横須賀
明四四、九、一〇 秩父、寄居
明四四、一〇、一四 長岡京址視察—乙訓寺、光明寺、鏡山古墳
明四四、一〇、二〇 大和—正倉院拝観、桜井、忍坂、多武峯、飛鳥(桜井以下梅原、岩井両君同行)
明四四、一一、五 上賀茂、小町寺、鞍馬その他
明四四、一一、九—一二 阿波
明四四、一一、一三 御所、離宮拝観
明四四、一一、一九 太秦、天塚、広隆寺、その他
明四四、一一、二二—二三 恭仁京址視察—椿井、上狛、泉橋寺、高麗寺、海住山寺、国分寺その他
明四四、一一、二四—二五 南葛城地方踏査—今木双墓、阿吽寺、巨勢寺、樋野、稲宿、室、その他(梅原君同行)
明四四、一二、九—一〇 南河内および大和踏査—軽墓、久米皇子墓、野中寺、誉田、長持山、道明寺、安福寺、国分、高井田、巨勢寺、檜前寺、鬼の厠俎、五条野丸山、軽寺、石川、豊浦、忍海、笛吹、山口千塚等(梅原君同行)
明四四、一二、一九 伏見稲荷山経塚発掘品調査
明四四、一二、二八—四五、一、一五 大分、福岡、両県史蹟視察—近江山津照神社、醒井砦址、宇佐神宮、鉄輪、別府、庄原古墳、上片面古墳、国東各地、鹿垣、伝乗寺、富貴寺、田原、灰土山古墳、雷横穴、入津原古墳、太宰府※[#「學」の「子」にかえて「鳥」、p205下-8]換、大城山、都督府址、大善寺古墳、石人山石棺(突起の破片発見)、ジードン山、石戸山、奈良山、権現塚、鬼塚、日ノ岡、月ノ岡、椿子村重定古墳、二川村楠田石人山、熊本、本妙寺
明四五、一、二五—二九 南河内各地—徳楽山石棺、応神陵陪塚その他、道明寺、野中寺、上ノ太子、山田麻呂の塚、通法寺、杜本神社、国分神社(鏡)、高井田横穴(梅原・岩井両君同行)
明四五、三、七—九 鎌倉(各地横穴視察、覚園寺秀文師案内)
明四五、三、二三 武蔵府中、立川、国分寺(考古学会遠足)
明四五、三、三〇—四、一 鎌倉
明四五、五、二六—三一 鎌倉
明四五、六、二三 岩槻、真福寺貝塚
明四五、六、二六 鎌倉
明四五、六、二七—三〇 伊豆史蹟視察—韮山、平井養徳寺、江間横穴、長岡温泉、三島寺院址、珍場横穴、長岡石棺、蛭ヶ島、百八岩屋、三島神社、国分寺址その他
明四五、七、二二—二三 鎌倉

(つづく)



2010.3.31:更新 ※ カウンタを設置、編集モードを変更。
しだひろし/PoorBook G3'99
翻訳・朗読・転載は自由です。
カウンタ: -

名前:
コメント: