喜田貞吉『六十年の回顧』後記

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六十年の回顧
後記
喜田貞吉


【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)徒歩《かちある》き


       後記

○本書の原稿の一部を印刷所に交附して、いよいよ校正刷が出始めたのは三月の十日であった。しかもまだ植字の一番面倒な論文著作年譜が容易に脱稿せず、一方には引続き校正に従事しつつ、一方には原稿の整見を急ぐという始末で、随分忙しい思いをしながらも、二十九日に至って、やっと最後の頁まで初校を了することが出来たので、後始末は総て次男に一任して即夜出立、帰省の途に上った。三十一日に郷里で亡兄の三回忌を執行し、引続き四月三日から、東北大学学生の近畿史蹟見学を指導する予定になっているのである。
○ところがあいにくなことに、東京出立の前日に風邪を引いて、重い頭を持ち廻っての旅行なのだ。悪い時には悪いことが重なって、船が小松島港に着く前から雨が降り出し、阿波としてはこのころに珍しい寒さの中を、田舎道の徒歩《かちある》きにすっかり風邪を引き添えて、実家に着くとそのまま寝床を伸べて貰ってもぐり込む。東京からはるばる阿波まで寝に来たようなものだ。平素ならば押しても通せる程度のものながら、前途に責任ある旅行を控えているので、特に大事を取って、久し振りの親類の人達にもあまり挨拶もせずに絶対安静だ。
○明くれば四月一日、昨日に引かえて天気がよい。一昼夜静養したお蔭で今日は熱もなさそうだ。気分がよい。この分ならば明後三日からの学生指導も大丈夫と安心しつつ、なお念のために今日一日は静養して、寝床にもぐってこの「後記」に筆を執ることにした。
○自分がこの回顧録の執筆に着手したのは昨年十二月の初めだった。当時の考えでは、年内に脱稿して一月二十四日の誕辰までには印刷を了し、還暦祝賀の御配慮に預った方々に贈呈し、また年始状を賜わった方々に対しても、御挨拶代りの誕辰状に代えたいつもりであった。
○この機会に、簡単に自分の誕辰状なるものの主張を申述べたい。自分は数年前から形式的の年始状を廃して、その代りに誕辰を機として御挨拶することにしているのである。平素音信を通ずる機会のなかった懇意な人々の間において、せめて一年一度なんらかの機会をもって、お互いに無事を祝し合い、懇親を重ねるということは確かに有意義である。しかしながら、これを新年という一時に限るとなってみると、それがお互いに片便りの形式的なものとなるのみならず、多数を取り扱う者にとっては、年末の心忙しいさいや、新年のノンビリしたいさいをこれがために忙殺されて、実際上かなりの苦痛であるうえに、せっかく心を込められた意味深長な芳書を戴いた場合にも、それをゆっくり味いつつ拝見する余袷がなく、また先方にはもはや儀礼交換の意志のないところへさし上げて、かえって御迷惑をおかけしたり、当方からは怠っていた先から頂戴して、ために恐縮するというような、種々遺憾な場合が多い。そこで自分は考えた。各自が年始の代りに誕辰の機会をもって挨拶を交換したならば、ために一時に込み合うという心配もなく、過去一年間の経歴や感想をゆっくり述べることも出来れば、貰った方でもゆっくりこれを味うことが出来る。またこれに対して各自が答礼を出す習慣ともならば、そう大きな苦痛なしに二度までも、真に消息を通じ合うことが出来る訳だと考えたのであった。
○この意味から自分は今年も年始状の御答礼をさし控えて、本書をもって誕辰の御挨拶に代えたい考えであったが、事予期に反して、ついにこんなに後れてしまった。この点厚く年始状を賜わった諸賢に対してお詫びする次第である。
○なお自分はこの機会をもって、平素御懇情を賜わる諸賢の芳名簿を整理したいと思っている。ついてははなはだ御迷惑の次第ながら、本書を御落手くださった諸賢におかせられては、なにとぞその旨御一報賜わりたく、万一御通知を得ることが出来なかった場合には、あるいは将来御交際を賜わる御意志なきことと誤認して、新芳名簿から削除するというような失礼な結果となる場合がないとも申し難く、この点あらかじめ御諒承のほどをお願いする。なおそのおついでをもって、本書の内容について、誤謬その他お心付きの点を御示教賜わりたい。それによって自分は、他日重ねて訂正再版の機あらんことを期待しているのである。
(昭和八・四・一、郷里にて、貞吉記)


底本:『喜田貞吉著作集 第一四巻 六十年の回顧・日誌』平凡社
   1982(昭和57)年11月25日発行
初出:『還暦記念 六十年の回顧』
   1933(昭和8)年4月発行 (底本 p622、書誌一覧より)
入力:しだひろし
校正:2008年6月12日現在、未登録・校正待ち
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