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M-Tea*7_17-地球物理学(三)寺田寅彦

2014.11.15 第七巻 第一七号

地球物理学(三)寺田寅彦
  第五章 ジオイド
   第七節 エアトヴァスの重力ヴァリオメーター
   第八節 地球の形を知る星学的方法
   第九節 回転せる液体のつりあいの形
   第十節 ジオイドの変形
   第十一節 地球表面の外形
 第二編 地球の内部構造
  第六章 地球の比重分布
   第一節 地球の平均比重
   第二節 内部の比重分布
  第七章 地球の弾性
   第一節 地球内部における歪力
   第二節 地殻岩石の弾性

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税込価格:100円(本体税抜93円) p.178 / *99 出版
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(c) Copyright this work is public domain, 2014.
※ 表紙画像は、Wikipedia「地球」の「NASA Blue Marble of Eastern Hemisphere」(public domain)。

吾輩は寅彦である*

 前述のごとく地球の平均比重が、地殻表面の比重の約二倍であるというのは、畢竟、地球内部にはこの平均比重よりもはるかに大なる比重を有する物質があるためと考えるほかはないのである。しかし表面の比重と平均比重が与えられているだけでは、内部の実際の分布を決定することはできぬ。これだけの条件にあうような分布は幾様にでも考えることができるのである。ただし地球の場合には物理的や力学的の条件がこのほかにあるので、いくぶんかもっともらしい見当をつけることができるのである。
 まず第一に、内部においては比重の大なるものほど中心に近く存し、またしばらく回転ということを無視すれば、同比重の物質はまずだいたいにおいて同心球上にあると考えるはきわめて穏当なことと思われる。しかし各層の比重が内部に向かうにしたがって増す模様にいたっては、いろいろに考えられるのである。(略)
(略) 上表の第二行は内核の比重、第三行は内核と外殻との境界面が中心から半径の幾割の距離にあるかを示し、第四行はこの境界面の地表からの深さ、すなわち外殻の厚さを示すものである。仮に δ ̄=3.4 をもって最も真に近いものとすれば、境界面は中心より半径の約 3/4 のところにあり、外殻の厚さは 1600 キロメートルすなわち約四〇〇里ぐらいのものとなる。これに相応する内核の比重 8.45 が鉄やニッケル鋼また隕鉄などの比重に近似しているのははなはだ興味あることである。隕鉄が宇宙間に多量に存することや、スペクトル線の研究によって知らるるごとく太陽雰囲気〔太陽大気〕の深層に多量の鉄の存することや、また地球が一大磁石であることなどから考えてよほどもっともらしく思わるるのである。もっとも地球内部に吾人の想像するごとき高温度が支配するとすれば、たとえ鉄ありとするもこれが磁性を有するとは考えがたいから、地球磁気のことはあまりこの説の根拠にはならぬかもしれない。この説はこれだけではだいぶ漠然としたものであるが、ウィーヘルトの二層説の強味は、後条に述べる地震波伝播の状況から推定した外殻の厚さが、ここで求めた厚さとよく一致するという点にあるのである。

※ #ref(7_17.rm)
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※ お休みしまーす。


寺田寅彦 てらだ とらひこ
1878-1935(明治11.11.28-昭和10.12.31)
物理学者・随筆家。東京生れ。高知県人。東大教授。地球物理学を専攻。夏目漱石の門下、筆名は吉村冬彦。随筆・俳句に巧みで、藪柑子と号した。著「冬彦集」「藪柑子集」など。

◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、Wikipedia 日本語・オフライン版(『iP!』2009.4月号、晋遊舎)。

底本

底本:『地球物理學』文會堂書店
   1915(大正4)年2月15日発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person42.html

NDC 分類:450(地球科学.地学)
http://yozora.kazumi386.org/4/5/ndc450.html

難字、求めよ

ジオイドの面
重力ヴァリオメーター エアトヴァスの天秤。(本文)
等ポテンシャル面の曲率
月の視差
地球内部の比重分布
月や太陽の引力
扁平なる場合 oblate spheroid
地球の固有振動周期
太陰ならびに太陽の引力
地球の剛性
海陸所を変える
地球の回転軸
三角四面体
重力的不安定 gravitational instability
第一次より第三次までの球関数
班岩 斑岩か。
微弱な引力
地球内部物質の圧縮係数
地軸歳差
四次の球関数
地球の扁平度 扁平率に同じか。
ウィーヘルトの二層説
磁力分布の異常
地球生成に関する仮説
地球内部構造説
地球の弾性
可驚 おどろくべき?
地殻岩石の弾性
岩石標本
古新世代 cainozoic
弾性の理論
不可圧縮性
濠太利亜 オーストラリアか
リヒャルツ Richarz ドイツ。
クリガール・メンツェル Krigal-Menzel ドイツ。
スパンダウ Spandau ベルリンの近郊。シュパンダウか(Wikipedia)
エアトヴァス J. v. E〔o:〕tv〔o:〕s → エトヴェシュ, E. R. か
プラトー Plateau ベルギーの物理学者。
バクホイゼン Van de Sande Bakhuysen
大森博士 → 大森房吉か
大森房吉 おおもり ふさきち 1868-1923 地震学者。福井県人。東大卒、同教授。大森公式の算出、地震計の発明、地震帯の研究など。
ラルマン Lallemand フランス。
ジーンス Jeans
ウワルタースハウゼン Waltershausen
ジョン・ミチェル John Michell 英国。
ローシュ Roche
スタッフ Stapff
長岡博士 → 長岡半太郎か
長岡半太郎 ながおか はんたろう 1865-1950 物理学者。長崎県生れ。阪大初代総長・学士院院長。土星型の原子模型を発表。光学・物理学に業績を残し、科学行政でも活躍。文化勲章。
日下部博士 → 日下部四郎太か
日下部四郎太 くさかべ しろうた 1875-1924 物理学者。東北帝大教授。岩石の弾性の研究、物理学、地震学に貢献。(人レ)
田中館博士 → 田中館愛橘か
田中館愛橘 たなかだて あいきつ 1856-1952 物理学者。岩手県生れ。東大教授。貴族院議員。地球物理学の研究、度量衡法の確立、光学・電磁気学の単位の研究、航空学・気象学の普及など、日本の理科系諸学の基礎を築き、また熱心なローマ字論者。文化勲章。

むしとりホイホイ

ゲルヴイン → ケルヴイン 【ケか】
排し。 → 排し、 【読点か】
前世記 → 前世紀 【紀か】
根抵 → 根柢 【柢か】
班岩 → 斑岩 【斑か】 2か所
受け續いで → 受け繼いで 【繼か】
大陽 → 太陽 【太か】
大古 → 太古 【太か】
高く。 → 高く、 【読点か】
四節第 → 第四節 【第四節か】
plastisity → plasticity 【c か】

年表

一八七八 ドイツ・ミュンヘンでヨリー、普通の天秤を使って地球の目方をはかる。

スリーパーズ日記*

書きかえメモ。
ゼオイド → ジオイド
価 → 値
函数 → 関数
明である → 明らかである
ヂー、エツチ、ダーウィン → G・H・ダーウィン
大陰 → 太陰
仏 → フランス
クーロム → クーロン
カヴエンヂツシユ → カヴェンディッシュ
ポインチング → ポインティング
方則 → 法則
リヒアルツ → リヒャルツ


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山形県埋蔵文化財センター調査報告書 第8集
木原(きはら)遺跡 第2次 (遊佐町)
山形県埋蔵文化財センター 1994(H6)3月
Y210.0:ヤ:8(天)

佐藤庄一、阿部明彦

p.3 1 調査区の層序
「III層の中位から低面にかけて遺物の包含が認められ、遺構の検出面はIV層直上であった。また、一部の遺構覆土中に火山灰の堆積が顕著に見られたことも指摘すべき事項である。第1次調査や、近隣の石田遺跡、袋冷遺跡、あるいは浮橋・下長橋遺跡他でも検出された火山灰に同一と推定できるもので、後に詳しく述べるが、本遺跡の具体的遺構とすればSK40土壙や畑の畝跡と考えられるD-8グリット周辺の小溝跡群(SD119他)が埋積の過程に当たっていた。遺構全体から見れば数的に限られ、ごく少ないようにも思われるが、上半を削り取られてしまった遺構の存在も考慮すべきであろう。本遺跡の営まれた時代に降灰があったとすれば絶対年代や周辺遺跡との関連を探る上で特筆される。」

p.17 3 土壙
「SK43土壙、C-9グリットのほぼ中央部に単独で位置している。平面形は小判形で、長径170cm・短径100cm、深さ22~50cmの規模があり、南寄りに丸い落ち込みが認められた。覆土は三枚の層序からなり、F1層は火山灰の小ブロックを含んでいる。遺物には完形に近いあかやき土器坏や人面とも見て取れる墨描をもつものがあり、斎串等の出土品を含めて祭祀具の一括的廃棄状況と窺えた。なお、土壙の構築は降灰以後のことと考えられる。」

p.20 「SK11土壙、(略)覆土は双方で4層を認め、最も新しい埋め土(F4層)中に火山灰の混入が確認される。遺物はこのF4層に係わって出土したものが多く、(略)」

「SK40土壙、(略)深さ16cm内外(略)覆土は1~5層よりなり、最上部に灰色火山灰層の純層が堆積している。(略)」

4 畝(畑)跡
「幅20~30cm、深さ10cm内外(略)なお、前者に帰属するSD122・133・134・136他の覆土中には火山灰の小塊や粒子等が散見される。(略)」

p.24 V 出土遺物 1土器
(プリントあり)

p.37 VI まとめ
(プリントあり)

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山形県埋蔵文化財センター調査報告書 第23集
大坪(おおつぼ)遺跡 第2次 (遊佐町)
山形県埋蔵文化財センター 1995.3月
Y210.0:ヤ:23(天)

斎藤俊一、渡辺薫、黒沼幹男

(例言)5 「現地において採取した火山灰等の自然科学分析はパリノ・サーヴェイ株式会社に委託して報告を受けたものである。」

p.4 「『三代実録』仁和3年(887)5月20日条に所見する延暦年中の「出羽国井口地」への国府移転であろう。酒田市にある城輪柵跡がこの国府に比定されているが、時期的には9世紀初頭から前半が当てられる。」

p.5 「また、9世紀前半からは記録類にこの地域での自然災害(噴火や地震等)の記事とその被害が多く所見される。それは見方を変えれば、この地域の政治的重要性及び居住人口の増加に対応するものである。」

p.6 III 検出遺構と出土遺物
1 遺構・遺物の分布
「また、この河川跡は上層に斑状に火山灰を含むが、理化学分析では周辺遺跡においても広くその降灰が確認されている青森十和田aという結果が出ており、『扶桑略記』延喜15(915)年7月13日条に所見する出羽国への降灰二寸と合致する。つまり、河川が埋没し湿地化して数10センチの泥炭層が形成された後に、この火山灰は降り積もったのである。先掲捨て場の土器はこの泥炭層下から出土した。土器は火山灰の降下年=A.D.915年を下限とし、泥炭の発達期間が分析・照合できれば更にこれら土器群の使用年代が限定される。と共に各捨て場周辺の建物の使用年代も明白になると考えられる。」

「建物跡は20棟検出したが何れも掘立柱であり、大きくは南北棟と東西棟に分けられる。先掲F-4G捨て場周辺に見られるのは東西棟である。確認している東西棟は左岸の西方及び右岸北に位置する。南北棟建物跡は左岸南において規模の大きいものが検出されている。その大部分の柱穴1層目に先掲火山灰が二次堆積しており、須恵器の出土割合も低いことから東西棟建物よりは時期的に新しいと考えられる。」

p.9 表-1 火山灰検出遺構一覧
※番号は理化学分析を行い、何れもTo-a(青森十和田a)の結果を得ている。

p.10 2 掘立柱建物跡(第4~7図)
「SB16・17、SB18・19は柱穴覆土から火山灰が検出されていることから、より接近した時期の建物跡であることが推測される。柱穴掘り方に火山灰を含む建物跡SB15~20は左岸南半部に集中するという特色がある。」

p.11 「約半数の柱穴覆土1層からは二次堆積による火山灰が検出されている。」

p.17 4 土壙(9~11図)
「SK25(9図):I-3 グリッドに位置し、長径 1.56m・短径 1.29m の略楕円形を呈する。深さは 28cm である。覆土の最下層より厚さ 2cm 程の灰白色火山灰が検出され、2層目から赤焼土器や口縁部が片口状につまみだされ、燈明皿に使用されたと考えられる底部ヘラ切り須恵器坏(9-5)が二つに割れた状態で出土した。この須恵器坏は先の火山灰よりは層位的に上層である。」

「SK32(9図):J-3 グリッドに位置し、東西 1.15m・南北 1.33m を測り、略円形を呈する。覆土は黒褐色シルトを基調とし、3層に灰白色火山灰が点状に含まれる。深さは 29cm である。1・3層から、赤焼土器坏(9-6~9)が出土した。」

「SK78(9図):河川跡右岸、H-10 グリッドに位置する。東西 0.82m・南北 0.96m の不整円形を呈する。深さは 24cm で、3層に火山灰(灰カ)が多量に含まれる。1層上面に焼土が確認され、体部下半にタタキ後にヘラ削り成形が認められる赤焼土器甕(9-13)の体部が平たく敷かれており、その甕を転用した炉跡のようにも推測される。」

「SK69(11図):C-7 グリッドに位置し、東西 0.98m・南北 1.36m の楕円形を呈する。覆土は6層からなり、横縞状に堆積する。深さ 26cm を測る。1層には灰白色火山灰が点状に含まれる。内黒及び両黒土師器坏、須恵器、赤焼土器が出土した。」

「SK1590(11図):河川跡右岸、G-8 グリッドに位置し、南北 1.04m で東端を暗渠に切られ、略円形を呈する。深さ約 18cm で、覆土の第2層が火山灰層である。」

p.18 「以上主要な土壙について概観したが、河川跡の3つの捨て場出土土器を基準として比較した場合、大方の土壙は9世紀後半から10世紀前後の時期に比定される。しかし、土壙覆土中には火山灰を層やブロックで含むものも所見され、構築・使用については時期的な相異が考えられる。火山灰分析の報告書では、その堆積の段階ではこれら土壙は使用されていなかったと結論づけられている。」

p.22 5 溝跡(第12図)
「調査で検出した溝跡は 70 条以上あり、その内集中しているのは河川右岸の F-10 グリッド、左岸では C-8~9 グリッド及び G~I-2~3 グリッドである。(略)」

SD100(12図):「北側a-a’の土層は基本的には3層、南側b-b’で2層に分かれ、何れも褐灰色シルトを基調とするが、高い地点から低い地点に流れたかのように灰白色火山灰がブロック状に含まれる。」

SD101(12図):「覆土は基本的に2層からなっており、2層目には灰白色火山灰がブロック状に含まれる。(略)」

SD217(12図):「(略)床面は平坦であり、深さは確認面から約5cmを測る。覆土は褐灰色シルト単一層で火山灰が点状に含まれる。(略)」

p.24 6 河川跡(第13~37図)
(1) 土層について
「 調査区中央部で南から北に蛇行して流れる河川跡を検出した。近くには庄内高瀬川が西流しているが、水系としては周辺部の標高等から月光川水系と考えられる。
 調査は埋土状況を探るために 1m×5m の6本のトレンチ No.1~6 を岸から河川中央に設定し、土層を観察した。その結果土層は上から暗褐色シルト-褐色シルトー黒褐色泥炭層ー黒褐色及び褐灰色砂質・粘質シルトの遺物包含層ー河底部の砂礫層という堆積が共通してみられた。遺物は全て泥炭層の下=砂泥層から出土している。火山灰がこの泥炭層直上の褐色シルト層からと遺物包含層から検出された。上は流動した痕跡を残す斑状に、下は直径 2cm 程度のブロック状に所見され何れも二次堆積と考えられるが、この2層の間には厚い泥炭層が見られ、両者は隔絶され、本来的には上層の火山灰は下層には混入しないと推測される。
 当初別々に設定していた G-5 グリッドの No.1 トレンチと G-7 グリッドの No.2 トレンチの間を通した結果、このトレンチ間=河川中央部において長さ 8.8m・厚さ 30~40cm の火山灰の堆積があることが判明した。検出直後は灰白色であるが、時間を経過して酸化すると濃いオリーブ色に変色する。分析の結果では庄内で広範囲にわたり検出されている915年の広域火山灰十和田aであった。が、後述の如く出土土器からして、下層のものを915年のものとすることには矛盾が生じてくる。この厚い火山灰層は中央部にのみ検出され、左右岸近くでは見られず土層も変化していることからある時期に両岸寄りに流れが復活したと考えられ、それにより厚く堆積していた火山灰は流散したと推定されるのである。
 つまり、河川中央部にのみ遺存したのは、そこが流れをもたない窪地状の湿地であることに起因すると推測される。泥炭層直上の火山灰が915年以後のものとすれば、かかる泥炭層の堆積にはどれくらいの期間を費やしたのだろうか。深さ1.5m前後で20mもの川幅をもつ河川が全体として機能しなくなる時期と深く関わってくる問題である。」

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山形県埋蔵文化財センター 第24集
北目長田・橇待・堂田遺跡 (遊佐町)
きためながた・そりまち・どうでん
県埋文センター、平成7年(1995)3月
Y210.0:ヤ:24(天)

(現場主任)阿部明彦

(例言) 6 委託業務
  • 北目長田 資料の理化学分析 パリノ・サーヴェイ(株)

III 北目長田遺跡

p.6 2.遺跡の層序
「調査区西側の土層状況(第4図)をみると、遺構検出面はIII層の上面で、地表面からの深さは30cm前後である。」

「(略)また、一部の遺構の覆土に火山灰の堆積がみられたが、すべて十和田aテフラに由来するとの分析結果であった。多くの混入物が存在することから、一時的に降下堆積した火山灰である可能性は低いとされる。したがって、降灰の時期と遺構が営まれた時期との関連を明確に結びつけるまでには至らなかったが、大方の遺構は降灰以前のものと判断される。」

p.10 土壙
「SK6(第10図左上)、B-4~5グリッドに位置し、北側をSK5と接している。略円形で、長径155cm・短径130cm、深さ40cmの規模を有す。覆土は、炭化粒を含む5層からなり、4層中央部に火山灰を含む。底面近くから出土した糸切り須恵器坏と1層で出土したあかやき土器坏等との時期差は認められず、短期間で埋没した土壙と考えられる。」

p.27 土器群の年代
「組成3はほぼ箆切り手法の払拭される9世紀第3四半期を中心として第4四半期にかかる頃までの間と想定でき、須恵器坏類の主体が坏G・坏H・坏Iに移行していると判断される。なお、この段階では既に集落としての機能が低下しており、所謂十和田aに比定される白色火山灰降下以前の段階で遺構の大方は既に埋没していたと判断できる状況があった。」

p.47 まとめ
「 最後に本遺跡の調査によって検出された資料の理化学的分析結果(分析はパリノ・サーヴェイ株式会社に委託して行ったものである。)について列記しておく。
 分析は樹種同定10点、C14年代測定3点、火山灰分析5点、骨同定の4項目であった。樹種同定を行った10点の資料は柱根や板材であったが、これらはスギ(SD616、SK50、SD289)、クリ(SD492、SP614、SP171、SKS6)、ケヤキ(SK36S、SD592)、ヤマグワ(SD577)の4種に同定された。火山灰分析では、分析資料5点(SP615、SP624、SK16F1、SK670、SK16F)共に10世紀初頭に降下したとされる十和田a起源との結果であり、本質物質でない混入物の存在から一次的降灰そのものではなく、異質な砕屑物との混在化進行や遺構周囲からの流れ込みが考えられる二次堆積と推定された。年代測定ではSK36のケヤキが670±120BP、SP614のクリ板材が960±80BP、SD289のスギ柱根が1260±690・・・

との測定結果である。また、SP211内の堆積土中から採取された骨は細片化した成人の火葬人骨で、上腕骨近位骨端の骨頭破片などがかろうじてかたちを保っていたと分析される。」

IV 橇待遺跡

p.49 検出された遺構と遺物
「覆土は大別2層で、1層の中程から上位にかけて10世紀前葉(西暦915)に降灰したと考えられる火山灰(十和田a)のレンズ状堆積が認められた。遺物はこの火山灰層より下位にまとまっており、やや歪のあるあかやき土器坏類主体である(4~8)。」

VI 総括

p.77 「(略)橇待遺跡では溝跡での古手の須恵器や井戸跡の火山灰下層の一括などが注目される。」

(堂田遺跡、図版25)
火山灰検出状況(B-4)、(左断面)

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山形県埋蔵文化財センター 第25集
上高田・木戸下遺跡 (遊佐町)
かみたかだ・きどした
県埋文センター、平成7年(1995)3月
Y210.0:ヤ:25(天)

(現場主任)阿部明彦、佐藤庄一

(例言)6 「出土品の資料理化学分析はパリノ・サーヴェイ株式会社に委託して報告を受けたものである。」

III 上高田遺跡

p.4 2 遺構の分布
「一方B~D区では、SG1~SG6と登録された河川跡が検出された。土層の堆積状況や川幅、深さ等の観察から同一の河川であると判断でき、第3図に示したような河道が推定される。河川跡は、川幅10~15m、深さ1.5m程度の規模で、所々で蛇行を繰り返しながら、南東から北西方向に流入していたと考えられる。川底部分に見られる砂礫層、中間層の泥炭(植物腐植土)」や混入した火山灰等からは、河跡が埋没していく時間的経過や水流の変化が推察できる。さらに、出土した遺物の分布状況からも、長い年月にわたって遺物の流入と堆積を繰り返しながら川跡が埋没していく様子が窺えた。」

 3 遺構 SG1河川跡(第4図・第5図上)
「なお、SG1Rは、SG1Lの下流にあたると推定される。中間層に植物腐植土が含まれるなど、土層の堆積状況に類似した点が多い。ただし、その下層にあたる砂質シルトの層にSG1Lには見られなかった火山灰の混入が認められた。SG1R南ではごく少量であったが、SG1R北では層全体に含まれていた。また、遺物はSG1R南・北ともごくわずかしか出土せず、SG1Lとは異なった様相を呈していると判断される。」

p.5 SG3河川跡(第5図下)
「SG3は、左岸にあたる部分のみが検出されているので、川幅を確定することはできないが、SG1や後述のSG6の川幅から考えると概ね15m幅と考えられる。地表面から川底までの深さは1.2m程であった。土層の断面を観察すると、中間に植物腐植土の層が存在し、SG1と同様の堆積状況を示していた。しかし、SG1では植物腐植土の下層に混入していた火山灰が、ここでは植物腐植土の上層に含まれている。おそらく降灰後にある時間の間隔をもって、より上流や周辺より流れ込んで、河道内に堆積したものと思われる。」

SG6河川跡(第7図、第8図)
「第7図で示すように、中央ベルトの両側および北側の3地点の土層の堆積状況から、両者共に植物腐植土層と火山灰を含む層が確認できる。火山灰は、植物腐植土の下層にブロック状のものが多く含まれているが、植物腐植土の直上あるいは同一レベルにも混入が認められた。分析の結果、これらの火山灰は、いずれも十和田aテフラに由来するものであるとの結果がでている。SG3、後述のSG4で採取した火山灰についても同様の結果と判断される(分析:パリノ・サーヴェイ株式会社)。このことは、SG3でも述べたように、降灰後に時間をおいて上流や周辺からから[#ママ]火山灰が繰り返し流入したことを示すものであると考えられた。特に、植物腐植土の下層では、洪水により大量の土器や木製品、部材等が流れこんだ形跡が窺える。川底部分の細砂に粗砂や小石が混在する層は、河川が本来の機能を果たしていた時期のものと考えられる。それが、洪水や氾濫によって河道や流速、あるいは水量等が少しずつ変化し、河川としての機能が低下していったと推測される。(略)」

p.34 5 まとめ
「(略) 特に本遺跡での川跡SG6の調査からは、層位毎に様相を異にする遺物群が検出され、土器他の遺物群の変遷を探る上では当該地域における基本的資料と認識される。
 例えば、SG6川跡最下層での古相を示す須恵器群とそれらに伴ったと考えられる削り調整の施されるあかやき土器坏類の抽出(Ia期)あるいは火山灰の混入から二次堆積層と推測されるものながら、十和田aテフラに関連する時期の所産とは考え難いIb期の土器群および豊富な挽物容器他の木製品、施釉陶器類の普及に起因したと考えられる黒色土器の量的増大と質的変容の窺えるII期中層段階での諸相、そして古代終末の土器群に位置づけられる小形皿類をはじめとした柱状高台の出現段階頃と位置づけられるIII期の検出とそれらの分布的広がりの追認等である。
 一方、課題としてこれからも検証の必要がある問題は、泥炭層(4層)の形成時期と火山灰の降灰時期の確定、およびこれらと遺物群との相関関係の把握等と思われた。
 ちなみに、火山灰の含まれる層準は4層(SG6中央南面セクション)の植物腐植土(泥炭)を挟んで2枚(回)はあり、SG6の堆積土が一部開析されて後に2層として再堆積(6・7層中の火山灰と同一かどうかは不明)する状況も把握される。従って、火山灰の降灰後しかも時間的に大部経過した時点でIII期の遺物相が展開したことは明らかながら、泥炭層下の6・7層等に含まれる火山灰を如何に理解するかがここでは大きな問題として浮上しよう。少なくとも土器群の年代観はIb期が9世紀の第2~第3四半期(後者が主体か)、II期が9世紀第4四半期を中心として10世紀第1四半期にかかる頃と考えられることからすれば、西暦915年と見られる降灰時期との年代観は新しくなりすぎるのではないかとの疑念も生じる。あるいは、あかやき土器坏での外反タイプを捉えて、Ib期とII期は二次堆積による混在相との理解が正しければ何等支障がないかもしれないのだが。
 最後に本遺跡出土資料の理化学的分析結果を列記しておく。
 SG6およびSG4から採取された火山灰はいずれも十和田aに由来し、各資料ともに本質物質でない長石や石英などの混ぜものの混在から二次堆積によるものと分析された。(略)」

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2014.11.15 公開
2015.2.20 更新
目くそ鼻くそ、しだひろし/PoorBook G3'99
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最終更新:2015年02月20日 21:59