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M-Tea*6_37-風土記物語(一)武田祐吉

2014.4.5 第六巻 第三七号

風土記物語(一)
武田祐吉
 一 奈良時代の地誌として
 二 出雲国風土記
    八束水臣津野の命
    大穴持の命
    阿遅須枳高日子の命
    和加布都努志の命
    須佐能袁の命
    神魂の命
    佐太の大神
    黄泉の穴
    鬼

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税込価格:100円(本体税抜93円) p.111 / *99 出版
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※ PDF 形式、六インチ判。Mac OS X 10.4・Acorbat Reader 5.0、Windows 7・Adobe Reader X および SONY Reader(PRS-T2)にて確認済み。
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パブリックドメインマガジン 週刊ミルクティー*

 意宇(おう)と名づけるわけは、国を引いておいでになった八束水臣津野の命がおおせられたには、「八雲立つ出雲の国は、若い国であるなあ。はじめの国を小さくお作りになった。だからもっと縫いつけて作ろうと思う」といわれて、「かなたはるかに新羅の三埼を、国のあまりがあるかと見れば、国のあまりがある」とおおせられて、少女の胸のような鋤をお取りになって、大きな魚の鰭を衝くように衝きわけて、幡薄(はたすすき)の穂が振れるように振りわけて、丈夫によった綱を打ちかけて、ツルクサを繰り引くように、河船のようにしずしずと、「国来い、国来い」と引いてきて縫った国は、去豆の切間からしてかなた、杵築(きづき)の御崎である。(略)また、「北の入口の佐伎の国を、国のあまりがあるかと見れば、国のあまりがある」とおおせられて、鋤を取って衝きわけて、振りわけて、綱をかけてそろそろと繰りよせて、「国来い、国来い」とおおせられて引いてきた国は、多久の絶間からして前の、狭田の国である。(略)また、「高志の都々の三崎を、国のあまりがあるかと見れば、国のあまりがある」とおおせられて鋤を取って衝きわけて、振りわけて、綱をかけてそろそろと繰りよせて「国来い、国来い」と引いてきて縫った国は、三穂の崎である。持って引いた綱は夜見の島である。衝き固めた棒は、伯耆の国の大神の山である。「もう国は引き終わった」とおおせられて、意宇の森に杖を衝き立てて「おう」とおおせになった。それで意宇というのである。(略)(「意宇の郡」より)

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※ お休みしまーす。

武田祐吉 たけだ ゆうきち
1886-1958(明治19.5.5-昭和33.3.29)
国文学者。東京都出身。小田原中学の教員を辞し、佐佐木信綱のもとで「校本万葉集」の編纂に参加。1926(昭和元)、国学院大学教授。「万葉集」を中心に上代文学の研究を進め、「万葉集全註釈」(1948-51)に結実させた。著書「上代国文学の研究」「古事記研究―帝紀攷」。「武田祐吉著作集」全8巻。

◇参照:『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)。

底本

底本:『物語日本文學 風土記・靈異記』至文堂
   1954(昭和29)年4月15日発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1349.html

NDC 分類:217(日本史 / 中国地方)
http://yozora.kazumi386.org/2/1/ndc217.html

難字、求めよ

樹叢 じゅそう
佐世の木の葉 させのこのは
語臣 かたりのおみ
角の弓矢 つのの ゆみや
目一つの鬼 めひとつのおに

新羅の三埼 しらぎのみさき
去豆の切間 こづのきれま
多久の絶間 たくの たえま 島根県平田市多久町。
手縫の絶間 たぬいの たえま
高志の都々の三崎 こしの つつの みさき 古志郷は現、出雲市。
意宇の森 おうのもり 意宇郡は現在、松江市・八束郡。
三津の郷 みつのさと
大須佐田 おおすさだ
小須佐田 おすさだ
加賀の神崎 かがの かむさき 島根町加賀か。
脳の磯 なずきのいそ
良波の国 よなみのくに
闇見の国 くらみのくに
伯耆の国の大神の山 ほうきのくにの おおかみのやま → 大山(だいせん)か
熊野加武呂の命 くまのかむろのみこと イザナギの命の子。事跡不詳。(神名)
語臣猪麻呂 かたりのおみ いまろ 出雲国、天武天皇の時の人。(神名)
『画本古鏡』

むしとりホイホイ


スリーパーズ日記*

書きかえメモ。
佐比賣山《ひさめやま》 →  佐比売山《さひめやま》


汗まみれ。対談、倉本聰。
日本人の埋葬の習慣は室町以降のもの、と鈴木さん。
たしか、そんな内容の主張。

青空でも誰かが、「ほふる、はふる(屠る)」の語源は「放る」だろうとコメントしていた。埋葬せずに谷や川へ放っていたのだろうと。

たしかに、それもあるだろう。
しかし、ちょっと考えると、そうばかりともいえない。国内にかぎっても甕棺(かめかん)の出土は縄文後期から弥生時代にかけて、東北から九州まで各地で見つかっている。

伊波普猷の琉球の洗骨習慣、
中山太郎の安達ヶ原伝承、
喜田貞吉の散骨・大蔵。

たぶん洗骨や散骨・再葬を解くキーワードは「犬とイノシシ」なんじゃないだろうか。単に土葬しただけだと、嗅覚の鋭い犬やイノシシが掘り起こしてしまうということがあったんじゃないか。親しかった肉親の屍がそんなふうに掘り起こされて無残に食い散らかされたとしたら。

もし、この仮説が間違っていないとすれば、犬やイノシシの分布地域と埋葬習慣には相関があるかもしれない。

たとえば離島、大河や急流による隔たり、繁殖に充分な食料確保、冬期間の積雪量。北海道や東北・北陸・佐渡。岩盤質で地中を掘り起こせない地域。旧石器時代の寒冷期、縄文時代の温暖期による地域変動。

チベットに鳥葬があるように、黒龍江以北の厳冬地域、シベリアなどのツンドラ地域ではオオカミや野犬など獣による葬法があったとしてもよさそうな気がする。

例によって、すべて思いつきの仮説・妄想です。



2014.4.5 公開
目くそ鼻くそ、しだひろし/PoorBook G3'99
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最終更新:2014年06月17日 11:14