紙の歴史 utf-8 アクセント表記置換済み版

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紙の歴史 utf-8 アクセント表記置換済み版
桑原隲藏

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《》:ルビ
(例)強《あなが》ち

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(例)この時|大食《タージ》國

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(例)愷

 [#…]:返り点
 (例)簡之所[#レ]容一行字耳。

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(例)Abbâs 王家が
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(一)先秦時代の書寫の材料          (二)紙の發明
(三)マホメット教國に於ける紙の傳播(上)  (四)マホメット教國に於ける紙の傳播(下)
(五)オーストリーのライネル太公爵の古紙蒐集 (六)西本願寺所藏の古文書
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         一

 紙の發明は世界の文化に多大の貢獻をした。人智の開發と文化の促進とに大關係ある印刷術が發明されても、紙の發明が之に伴はなかつたならば、其效用の大半を沒了したであらう。紙の需要は年一年と増加して行く。紙の消費高によつて幾分その國の文化の程度が推測される。現時代を指して「紙の時代」と稱する學者もあるが、強《あなが》ち不當なる Beiname であるまい。かく人文に關係深き紙の製法は、最初支那で發明せられ、マホメット教國に傳つて改良せられ、最後にヨーロッパに入つて大に發達した事實は、最早今日では殆ど疑ふ餘地がなくなつて居る。こは格別耳新しい事ではないが、斯に前賢の所説を補綴して、紙の歴史の大要を紹介いたし、聊か『藝文』寄稿の責を塞がうと思ふ。
 支那の古代では書寫の材料として、竹と木とを使用した。竹で作つたのが簡である。簡の長さは必しも一定はして居らぬが、經書などは多く二尺四寸位から八寸位までの簡を使用した。之に普通一行に八字から三十字位の文字を書いた(1)。木で作つたのを版とも牘ともいふ。普通三尺位の大さで、形が四角であるから方とも名づけた。この版には三十字から百字位までの文字を書く。百字以上となるとさきに述べた簡を幾個となく韋で編み連ねて用を辨じた。之を策といふ。策は册と同字で、許愼の『説文解字』には正しく※[#「册」の篆書(fig42345_01.png)、70-3] に作る。之は簡を韋で編み連ねた形に象つたので、所謂象形文字である。唐の孔頴達の『左傳正義』に、
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簡之所[#レ]容一行字耳。牘乃方版。版廣[#二]於簡[#一]。可[#三]以竝[#二]容數行[#一]。凡爲[#二]書字[#一]。有[#レ]多有[#レ]少。數行可[#レ]盡者。書[#二]之於方[#一]。方所[#レ]不[#レ]容者。乃書[#二]於策[#一](2)。
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とあるのが即ち是である。先秦時代には、字數の僅なる事柄は簡に書き、法律の箇條などは版に書き、書籍は大抵策に書いた。今も一篇二篇というて書籍を數へるのはその名殘である。戰國時代から、帛も間々書寫の材料として使用さるることとなつたが、帛に書いた書籍は一卷二卷と數へた。
 兔も角も先秦時代では、書籍は大抵策に寫されたもので、重量容積多大にして不便極り、費用も嵩み、たとひ帛を使用しても、費用は一層であるから、中々一個人では書籍を所有する事が出來ぬ。清の阮元も、
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古人簡策繁重。以[#二]口耳[#一]相傳者多。以[#レ]目相傳者少(3)。
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と申して居る。『書經』や『周禮』や其他の古書に、一般の數目を擧ぐる場合が多い。例せば三徳とか、三友とか、三樂とか、四教とか、四維とか、四載とか、五福とか、五行とか、五教とか、六言六蔽とか、六官とか、七政とか、七祀とか、八蠻とか、八元八愷とか、九思とか、九疇とか、此等は皆暗記を容易にする手段である。東漢の末に出た蔡文姫が、その亡父蔡邕の著書四百篇餘を暗記して居つたのは、當時でも幾分古の諳誦風の存して居つた證據である。

         二

 東漢の和帝の元興元年(西暦一〇五)に蔡倫といふ宦者が始めて紙を發明した。蔡倫は桂陽(湖北省桂陽州)の人で、尤も工藝思想に富み、尚方の令となつた。尚方とは少府の管下の、宮中の御用品を制作することを掌どる官省で、令はその長官である。蔡倫はここで寶劍其他の宮中御用の諸器を作つたが、皆精工堅緻にして、後世の法となすに足つたと傳へられて居る。『後漢書』に彼が紙を發明した事蹟を下の如く記してある。
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自[#レ]古書契多篇以[#二]竹簡[#一]。其用[#二]縑帛[#一]者。謂[#レ]之爲[#レ]紙。縑貴而簡重。竝不[#レ]便[#二]於人[#一]。倫(蔡倫)乃造[#レ]意用[#二]樹膚麻頭及敝布魚網[#一]以爲[#レ]紙。元興元年奏[#二]上之[#一]。帝(和帝)善[#二]其能[#一]。自[#レ]是莫[#レ]不[#二]從用[#一]焉。故天下咸稱[#二]蔡侯紙[#一](蔡倫のち龍亭侯に封ぜらる。故に蔡侯といふ(4))。
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 『後漢書』より遙か以前に、東漢時代に出來た『東觀漢記』にも、亦同一の記事がある(5)。范曄の『後漢書』の記事は、大體『東觀漢記』のそれを襲踏したものと見える。『東觀漢記』載する所の蔡倫の傳は、桓帝の元嘉年間(西暦一五一—一五三)即ち紙の發明時代を去る僅に四十餘年の後に編纂されたものであるから(6)、その記事は信憑して差支ない。紙といふ名稱は蔡倫以前も以後も同一ではあるが、實質は相違して、蔡倫以後は、紙といへば、專ら樹皮、麻頭、敝布、古網等を材料として製造した書寫の材料を意味することとなつた。
 許愼の『説文解字』は東漢の和帝の永元十二年(西暦一〇〇)から安帝の建光元年(西暦一二一)にかけての作で(7)、即ち大體蔡倫の在世時代に作られたもので、殊に蔡倫と許愼とは若干知り合ひの間柄であらうと想像さるべき餘地さへある。その『説文解字』に紙の字を絮《フルワタ》一|※[#「竹かんむり/沾」、71-16]《スノコ》也と解説して居る。清の段玉裁は更に之に注して、
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按造[#レ]紙昉[#二]於漂絮[#一]。其初絲絮爲[#レ]之。以[#レ]※[#「竹かんむり/沾」、72-1]《ス》荐《スキカサネテ》而成[#レ]立。今用[#二]竹質木皮[#一]爲[#レ]之。亦有[#二]緻密竹簾[#一]荐[#レ]之是也(8)。
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といふ。許愼の絮一※[#「竹かんむり/沾」、72-2]也といふ解説のうちには、製紙の原料と方法とが含まれて居る。
 さて製紙の原料として絮を使用したのは何時代のことか、許愼の解説は勿論、段玉裁の注釋を見ても不明瞭である。『説文解字』に絮敝緜也といふ。蔡倫が製紙の原料として使用せし敝布を廣義に解釋すると、その中に絮をも包括し得べきやうに思はれる。併し清初の方以智などは之とは反對で、絮を擣き之を荐きて紙を製造したのは、西漢時代若くはその以前からのことである。蔡倫は絮に代へるに樹皮、麻頭、敝布、漁網等を以てしたのみであると主張して居る(9)。Hirth 氏の「支那に於ける紙の發明」といふ論文も此點に關しては、方以智と略同樣な考を持つて居るやうに見える(10[#「10」は縦中横])。Hoernle 氏(11[#「11」は縦中横])や Jacob 氏など(12[#「12」は縦中横])は、更に一歩を進めて、古代トルコ種族の使用した氈の製法は、紙のそれと同樣である。多分古代の支那人は北狄の氈の製法に傚ひ、毛に絮を代へて紙を製造したものであらうと考へて居るが、これは想像に過ぎて、頗る信用し難い。
 Hoernle 氏や Jacob 氏の説はしばらく措き、『説文解字』は大體永元十二年即ち蔡倫が紙を製出した以前に編纂されたもので、許愼の紙の字の解説が其時の儘とすると、方以智等の説に可なりの根據が出來、從つて蔡倫はただ製紙の新原料を發見したのみで、製紙の方法を發明したものでなく、發明者としての蔡倫の聲價は幾分低落すべきこととなるが、たとひ蔡倫以前に絮を製紙の原料として、今日の樣な紙を作つたことを事實としても、植物纖維を製紙の原料に利用したのは蔡倫の功で、植物纖維を原料として使つた紙、例せば麻紙、穀紙、襤褸紙、Rag-Paper などが古今を通じて、尤も人文の發達に貢獻したのであるから蔡倫の功績はやはり廣大無邊といはねばならぬ。斯には兔角の議論を避け、しばらく『後漢書』の記事を素直に解釋して、蔡倫を製紙の發明者として置かう。

         三

 支那の製紙法がマホメット教國へ傳つたのは、唐の玄宗時代のことである。當時西域に石國といふのがあつた。今の Tashkend(元時代の塔什元《タシユケンド》)が即ち唐代の石國である。Tashkend といふ名自身がトルコ語で石國の意味である。西暦八世紀の初頃から、石國を始め其附近の諸胡國は、或時は唐に或時は大食《タージ》に、國威の盛なる方に羈縻《きび》される姿となつた。玄宗の天寶九載(西暦七五〇)に安西四鎭の節度使の高仙芝が、或る事情の下に石國を征伐した。高仙芝はもと高麗人で唐に仕へ、當時に聞えた名將であつたが、僞つて石國王に和を許しながら、其不意を襲うて之を擒にし、大虐殺、大掠奪をやつたのみならず、石國王を遠く都の長安に送つて、闕下に切り捨てた。この不埒《ふらち》の行爲に石國の王子は非常に憤慨いたし、四隣の諸胡國も之に同情を寄せ、相倶に大食《タージ》國の援兵を乞うて、唐軍に復仇せん計畫をした。
 この時|大食《タージ》國(多氏國又は大寔國)即ちマホメット教國では Ommeya 王家已に倒れて、Abbâs 王家が方に興つて來て居る。この大革命の舞臺に立つて、尤も主要なる役目を務めたのは、有名な Abû Muslim 即ち『唐書』の竝波悉林《アブムスリム》その人である。彼は Abbâs 王家の Abul Abbâs(『唐書』の阿蒲羅拔《アブルアバス》)を擁して Ommeya 王家の王 Merwân(『唐書』の末換《メルワン》)を殺したのは、西暦七百五十年に當る。かくて所謂黒衣大食が白衣大食に代つて間もなく、石國以下の諸胡國との交渉が開始された。
 Abû Muslim は當時 Khorâsân(『唐書』の呼羅珊《ホラサン》)地方の總督であつたが、野心滿々たる彼は、大支那の威力を摧くは是時こそと、直に部將 Ziyâd ibn Sâlih を派遣して石國を助けることとなつた。之に對して高仙芝は天寶十載(西暦七五一)に葛邏禄《カルルク》(Karluk)、拔汗那《フエルガナ》(Ferghâna)以下諸國の援兵を併せて、怛羅斯《タラス》川(今の中央アジアの Tarâz 川)の附近に大食《タージ》を撃つたが、反つて Ziyâd ibn Sâlih の爲に大敗を蒙つた。この時の戰況は、支那方面の材料では『資治通鑑』が尤も詳細で、次の如く記載してある。
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高仙芝(中略)撃[#二]大食[#一]。深入七百餘里。至[#二]恒羅斯城[#一]。與[#二]大食[#一]相持五日。葛羅禄《カルルク》部衆叛。與[#二]大食[#一]夾[#二]攻唐軍[#一]。仙芝大敗。士卒死亡略盡。所[#レ]餘纔數千人。右威衞將軍李嗣業。勸[#二]仙芝[#一]宵遁。道路阻隘。拔汗那《フエルガナ》部衆在[#レ]前。人畜塞[#レ]路。嗣業前驅奮[#二]大梃[#一]撃[#レ]之。人馬倶斃。仙芝乃得[#レ]過(13[#「13」は縦中横])。
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 この本文に恒羅斯城とあるのは、勿論怛羅斯城の誤である。怛羅斯城は怛羅斯川の畔で、大抵今の Aulieh-Ata に當る(14[#「14」は縦中横])。唐の杜佑の傳ふる所によると、この時高仙芝の軍はすべて七萬人を失つた(15[#「15」は縦中横])。尤もその多數は捕虜となつたものと見える。『經行記』の作者の杜環の如きも、この時捕虜となつた一人で、彼は約十年間大食國に拘留せられ、代宗の寶應元年(西暦七六二)に南海を經て、廣東に歸着いたし、その見聞に本づきて『經行記』を作つた(16[#「16」は縦中横])。『經行記』その物は今日已に佚亡したけれども、その幾分は杜佑の『通典』以下に引用されて今日に傳はり、唐代の西域研究に必要なる材料を供給して居る。
 怛羅斯城の戰のことは勿論マホメット教國の記録にも載せられて、よく支那の史料と一致して居る(17[#「17」は縦中横])。マホメット教國の材料では、この戰を囘暦《ヘジラ》百三十三年の十二月(Dsûl-Hiddscha 月)に繋けてある。西暦に換算すると七百五十一年の六月三十日から七月二十九日に當る(18[#「18」は縦中横])。支那の史料では『唐書』の玄宗本紀の天寶十載の條に、
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七月。高仙芝及[#二]大食[#一]。戰[#二]于恒《タ》(怛の誤)邏斯《ラス》城[#一]敗績。
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とあるのみで、『舊唐書』始め何れも月を記してない。天寶十載七月は西暦で七百五十一年の七月二十七日から八月二十五日に當る(19[#「19」は縦中横])。即ち東西の史料は年月に於て一致せしめ得べき望みがある。東西の史料が正しく會戰の月を傳へたものとすれば怛羅斯《タラス》城の戰は囘暦百三十三年十二月の末、天寶十載七月の初の出來事と認定せなければならぬ。
 マホメット教國の慣習で、戰場の捕虜となつた異教徒は皆奴隷にする。この時奴隷となつた支那兵士の中に、もと紙灑職工のものがあつたから、Ziyâd は之を使役して Samarkand 市(『唐書』の薩末※[#「革+建」、75-4]《サマルカンド》又は颯秣建《サマルカンド》)に製紙所を創設した。之がマホメット教國に於ける製紙の起源である。

         四

 マホメット教國の勃興以前は勿論、その初起時代でも、パミール以西の諸國では、書寫の材料として、普通にカヤツリ紙即ち Papyrus か殊に革紙即ち Parchment を使用した。『史記』の大宛傳及び『漢書』西域傳に安息國(Parthia)のことを記して、「畫[#レ]革旁行爲[#二]書記[#一]」といひ、『梁書』諸夷傳に滑國即ち厭帶夷栗陁(Ephthalites)のことを記して、「羊皮爲[#レ]紙」とあるのは當時革紙の使用された證據である。便利で徳用な支那紙が使用され始めてから、カヤツリ紙も革紙も次第にその影を潛むるに至つた。
 マホメット教國の製紙法は支那のそれを傳へたものであるといふことは、可なり以前から知られて居つたが、その製紙法傳來の年代はやや不明瞭であつた。Casiri 氏は囘暦の三十年(西暦六五〇—六五一)を、Hammer-Purgstall 氏は囘暦の五十六年(西暦六七五—六七六)を製紙法傳來の年代に當てて居る(20[#「20」は縦中横])。其他西暦七百四年傳來説も普通であつた(21[#「21」は縦中横])。オーストリーの Karabacek 教授ははじめてマホメット教國の材料により Hirth 氏は支那の史料によつて之を助け、Ziyâd が支那の捕虜を使役して、薩末※[#「革+建」、75-16]《サマルカンド》に製紙工場を起したのは、西暦の七百五十一年に當ることを確實にした(22[#「22」は縦中横])。
 Karabacek 教授の著書には Taâlibî や Qazwînî などいふマホメット教徒の記録を引用して、薩末※[#「革+建」、76-1]《サマルカンド》に製紙工場の創設された當時の有樣を述べて居る。今その著書を參考することが出來ぬけれども、その大要は他に引用されて居るから、之を抄譯すると次の如くである。
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薩末※[#「革+建」、76-4]市に就いては、特に紙を記載せねばならぬ。薩末※[#「革+建」、76-4]の紙はその美麗と便利と廉價の諸點で、遙に從來のカヤツリ紙及び革紙に優つたから、容易に後者を市場より驅逐した。この紙はただ薩末※[#「革+建」、76-5]及び支那に於てのみ産出される。『國及び路』の著者によると、紙は戰爭の捕虜によつて、支那から薩末※[#「革+建」、76-6]へ傳へられたもので、かく支那人を捕虜となし、その捕虜の中より經驗ある者を求めて、製紙業に從事せしめたのは Sâlih の子なる Ziyâd 其人である。かくて紙の製造は次第に發達し、遂に薩末※[#「革+建」、76-8]の重要なる産物となつた。又之によつて世界の國々の人類に利益を與へた(23[#「23」は縦中横])。
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 一體支那紙は後くも囘暦三十年(西暦六五〇—六五一)の頃からマホメット教國へ輸入されて居る(24[#「24」は縦中横])。さきに製紙法傳來の年代に關する一説として紹介した Casiri 氏の説は實は、支那紙輸入の年代と見るべきものであらう。薩末※[#「革+建」、76-11]の製紙業が發達すると共に、マホメット教國への支那紙の輸入は次第に杜絶せられ、薩末※[#「革+建」、76-12]製の紙を以てその需要を充たすこととなり、薩末※[#「革+建」、76-13]は紙の産地として全マホメット教國に聞えた。西暦十世紀の初に出た Ibn Haukal なども薩末※[#「革+建」、76-14]の紙は世界無比と賞讚して居る(25[#「25」は縦中横])。
 Abbâs 家第五のカリフ Hârun al Rashîd(『唐書』の訶論《ハルン》)の時、呼羅珊《ホラサン》の總督 Al Fazl 始めて薩末※[#「革+建」、76-15]の製紙業をマホメット教國の首都 Baghdad(『唐書』の縛達《バグダツト》)に傳へ、囘暦百七十八年(西暦七九四—七九五)ここに新に製紙工場を建てた。引き續きてペルシア、アラビア、エヂプト、シリア、スペイン等當時マホメット教の勢力範圍であつた國々に、至る處製紙工場が建設せられ、製紙業の隆興と共にカヤツリ紙や革紙の需要は減じ、西暦十世紀の半頃となると、マホメット教國では殆どカヤツリ紙の使用を絶つに至つた。
 ヨーロッパ諸國も西暦十二三世紀の頃迄は西方アジアと同樣で、普通にカヤツリ紙や革紙を書寫の材料としたが(26[#「26」は縦中横])、マホメット教國に製紙業が隆興するに從ひ、その製紙はヨーロッパ諸國へ輸入された。フランス、イタリー等の南歐諸國は十二世紀の頃から、ドイツはやや後くれて何れもマホメット教徒から紙の製造を傳へたといふ(27[#「27」は縦中横])。ヨーロッパの中世紀に紙は普通にバンビク紙(Charta Bambycina)、若くはダマスク紙(Charta Damascus)と呼ばれて居る。Bambyce とは Euphrates 河(『唐書』の弗利剌河)の右岸にあつた一都會である。Damascus(元代の的迷失吉《ダマスク》)は申す迄もなく Syria 地方の名都會である。當時マホメット教國からヨーロッパへ輸入した紙は多くこの地方の産であることが察知される。今日ヨーロッパ諸國の紙に關係ある言葉で、アラビア語から派生して居るものもある。一例を擧げると、英語で紙一|束《しめ》を Ream といふが、之はスペイン語の Resma イタリー語の Risma ドイツ語の Ries フランス語の Rame と等しく、何れもその語源をアラビア語の Rezma に求むべきである(28[#「28」は縦中横])。Rezma とは元來小包の意味である。

         五

 オーストリーのウイーンに Rainer 太公といふ貴族があつて、古紙の蒐集で世間に聞えて居る。今より三十餘年前たしか西暦千八百七十七八年の交に、エジプトの Faiyûm 地方其他二三の地方で、澤山の古文書が發掘された。この古文書の大部は千八百八十四年以來 Rainer 太公の所有に歸した。その古文書の總數は十萬以上に達し、その年代古きは西暦前十四世紀より、新しきは西暦後十四世紀まで、約二千七百年間に跨つて居る。中にはカヤツリ紙もあれば革紙もあるが、併し襤褸紙(Rag-Paper)も中々多い。Rainer 太公はただに古紙を蒐集するのみでは滿足せず、蒐集した古紙を科學的に研究することを企てた。この研究の爲に多くの學者を依頼したが、その中で特別にこの研究に深き關係をもつた學者が二人ある。一人はウイーン大學の Karabacek 教授で主として古文書の調査と紙の歴史の研究を擔當して居る。一人は同じくウイーン大學の Wiesner 教授で專ら顯微鏡調査と化學試驗とで、古代の紙の成分及びその製法などを研究して居る。此等の人々の研究調査の結果は數囘の報告書となつて世に公にされた(29[#「29」は縦中横])。この報告書が公にされてから世界の紙の歴史は始めて明瞭となつたのである。吾が輩は直接その報告書を見たことはないが、その大要は Hoernle 氏の論文(30[#「30」は縦中横])に引用されてあるから、Hoernle 氏のを更に節約して古紙研究の結果概略を下に紹介いたさう。
 Rainer 太公の手許に蒐集された古紙のうちには、薩末※[#「革+建」、78-8]《サマルカンド》を始めマホメット教國で製造された紙が澤山ある。年代が古くて確實な方では、西暦八百七十四年、九百年、九百九年の文書がある。年代は明記されてないけれども他の理由によつて、西暦七百九十一年若くば二年と認定すべき文書もある。この最後の文書は薩末※[#「革+建」、78-10]で支那人の捕虜が紙を製造し始めてから、丁度四十年に當つて居る。Wiesner 教授はこのマホメット教國製造の古紙に就いて顯微鏡調査を試みた結果、此等の古紙は何れも純然たるリンネンの敝布《ふるぎれ》を原料として、決して樹皮などの生纖維を混和して居らぬことが判明した。
 併し一方ではマホメット教國の史家等は、最初薩末※[#「革+建」、78-14]で紙を製造した時に、草木即ち生の植物纖維を原料としたと傳へて居る。尚ほ又、ペルシア語及びアラビア語で紙を Kâghaz 又は Kâghad といふ。之は印度の Kaghaz といふ言葉と同じく、何れも支那の穀紙(Kuchih 古音 Kok-dz)を訛つたものである(31[#「31」は縦中横])。古傳説が草木を製紙の原料としたと傳へて居り、またマホメット教國へ最初輸入された紙が、穀紙を訛つた Kâghaz 又は Kâghad といふ名稱で知られて居る事實を併せ考へると、當初|薩末※[#「革+建」、79-1]《サマルカンド》で支那人の捕虜によつて製造された紙は、主として樹皮を原料に用ひたであらうといふことは、殆ど疑ふ餘地がないやうに思はれる。
 支那の新疆の探檢が行はれると共に、この地方から古文書が發掘された。英國の Stein 氏が天山南路で發掘した古文書は隨分あるが、その中に唐の代宗から徳宗時代にかけての古文書で、年代の明記されて居るものが都合七種ほどある。即ち代宗の大暦三年(西暦七六八)、徳宗の大暦十六年(實は建中二年、西暦七八一)、大暦十七年(實は建中三年、西暦七八二)、建中三年(西暦七八二)、建中七年(實は貞元二年、西暦七八六)、建中八年(實は貞元三年、西暦七八七)、貞元六年(西暦七九〇)の古文書である(32[#「32」は縦中横])。此等の古文書は何れも薩末※[#「革+建」、79-7]で製紙工場が創設された時代から、Rainer 太公所藏のマホメット教國産の尤も古き紙の時代にかけて、約四十年間に當つて居る。此等の古文書はその紙質調査の爲め、大抵 Wiesner 教授の手許に送られ、例の顯微鏡調査の結果、此等の古文書の紙には、幾分の敝布も混じて居るが、その大部分は桑、桂及びラミイ即ち China-grass 等の皮を原料として居ることが判明した。唐の中世に西域地方で使用されて居つた紙の主要成分が、桑其他の草木の皮であるとすると、薩末※[#「革+建」、79-11]で支那人の手によつて始めて製造されたマホメット教國の紙も亦同樣であつたであらうと想像すべき餘地が甚だ多い。マホメット教國の史家が薩末※[#「革+建」、79-13]の産紙は最初草木を原料としたと傳へて居るのは、此點から推しても、大體上信憑すべきやうに思はれる。
 以上敍述した要點を約すると、西暦七百五十一年薩末※[#「革+建」、79-14]で製紙工場の創設された當時は、製紙の原料として草木を使用したといふ傳説は疑ふべき餘地がないが、同時に西暦七百九十一二年の交の薩末※[#「革+建」、79-15]産の紙を調査すると、純然たる襤褸《ぼろ》紙で樹皮などの生纖維は毫も混和されて居らぬ事實も亦信用せねばならぬといふに歸着する。從つて製紙の原料にかく顯著なる相違のある原因は、西暦七百五十一年から七百九十一二年にかけて約四十年間に、マホメット教國内に起つたものと認定せなければならぬ。
 Wiesner 教授はマホメット教國の産紙と天山南路で發掘された支那紙とに對して綿密なる化學試驗、顯微鏡調査を行ひ、この二國の紙を比較して、大要次の如き斷案を下して居る。
[#ここから2字下げ]
唐時代の支那紙は幾分の敝布を混じて居るけれども、その主要なる原料は桑其他の雙子葉植物の皮である。支那人は製紙法をマホメット教國に傳へたが、薩末※[#「革+建」、80-5]《サマルカンド》附近には第一の原料ともいふべき桑樹が缺乏して居るから、必要上次第に敝布の分量を増加し、それでも製紙の目的を達し得ることを經驗すると、最後には敝布——マホメット教國に豐富なるリンネン襤褸——のみで紙を製造することとなつた。紙は支那から傳つたが、その原料を變へて今日一般に使用さるる純粹の襤褸紙(Pure Rag-Paper)を産出するに至つたのは、マホメット教徒の功といはねばならぬ。
支那紙の原料の樹皮は、最初は石臼にて人力で擣き碎いたものであるが、これでは纖維組織を損すること多く、從つて出來上つた紙質も粗鬆《そしよう》で、字を書くと※[#「さんずい+念」、80-11]《ち》る恐がある。やや後世——西暦七八世紀頃——となると、化學作用で樹皮の纖維組織を餘り損ぜぬやうになつた。從つて紙質も一段改良された。併し敝布は依然石臼で擣き碎いた儘である。所がマホメット教國の産紙を調査するとその原料たる敝布から化學作用で、手際よく纖維を抽出した痕が歴々として認められる。マホメット教徒は原料取扱について、支那人よりも一層の改良進歩を遂げたといはねばならぬ。
原料の變更原料取扱の改良この二點を除くと、マホメット教徒の製紙の方法は——原料に糊を混加し、又は紙面に澱粉末を塗布して紙質を良好にする方法まで——大體支那人のそれと同一である。
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 以上の斷案が今日の學界に證典として公認されて居る。併し多少の疑惑を挾むべき餘地がないでもない。第一 Wiesner 教授の調査した支那紙の數は決して多くない。年代の確實なるものは僅か六七種に過ぎぬ筈である。然も此等は多く唐代のもので、何れも和闐《コータン》の東北約百マイル許の Wandân-Uiliq 地方から發掘されたものである。一地方から發掘された少數の支那紙の調査のみでは、決して支那紙全般の原料や製法を確實に推斷する譯にはいかぬ。
 第二に東漢時代から已に麻紙、穀紙、網紙の區別があつた。『東觀漢記』の一本に、
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倫(蔡倫)典[#二]尚方[#一]作[#レ]紙。用[#二]故麻[#一]名[#二]麻紙[#一]。木皮名[#二]穀紙[#一]。魚網名[#二]網紙[#一]。
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と記してある。故麻といふと麻|襤褸《ぼろ》のことであらう。すると網紙は勿論、麻紙もたとひ純粹の襤褸紙でなくても、その主要成分は熟纖維(Textile Fibres)であつたと想像される。少くとも天山南路で發掘された支那紙——Wiesner 教授によれば樹皮を主要原料とせる——と同一の成分ではなかつたであらうと思はれる。併しこの問題を解決するには、成るべく多くの古代の支那紙を蒐集して、之を Wiesner 教授と同樣の方法で調査する外はない。事實は最後の解決である。

         六

 Stein 氏が天山南路の探檢に着手して以來、ヨーロッパ諸國の探檢者は陸續この方面に出掛けた。ドイツからは最初に Grünwedel 氏(西暦一九〇二—一九〇三)次に Le Coq 氏(西暦一九〇四—一九〇六)第三囘には Grünwedel 及び Le Coq 二氏(西暦一九〇六—一九〇七)が出掛けて、幾多の古文書を發掘した。英國からは Stein 氏が再び天山南路に出掛け(西暦一九〇六—一九〇八)敦煌で幾多の遺籍、文書を發見した。フランスの Pelliot 氏も亦この方面に出掛け(西暦一九〇六—一九〇九)敦煌で大發見をやつたことは、我が國人の耳に猶ほ新なる所である。此等の探檢によつて得た成績は、多くは未だ發表にならぬけれども、其うちに唐代若くばその以前の文書——吾が輩が前項に述べた支那紙の原料及び製法問題を解決するに屈竟なる材料が少くないことだけは確實である。
 わが國の西本願寺の大谷伯爵も亦去る明治三十五年以來この方面に探檢隊を派遣して居る。第一囘第二囘の探檢は已に終を告げ、今は第三囘探檢中である。第一囘第二囘の探檢の獲物のうちに、唐の玄宗の天寶五載(西暦七四六)の牒状がある。之は怛邏斯《タラス》城の戰役前正に五年のもので、マホメット教國の産紙と支那紙との原料相違如何を調査するに當つて、有力の材料たるべきものである。其他年號によつて若くは書體より推して、南北朝若くばその以前と認定すべき古寫經、古文書頗る多くして一々列擧するに暇ないが、中に就いて尤も注意に價するもの一二を擧げると次の如きものがある
 第一が西晉の元康六年(西暦二九六)の古寫經である。松本文三郎博士が已に紹介された通り(33[#「33」は縦中横])この古寫經は西晉の竺法護譯の『諸佛要集經』である。寫經や書道の方面から觀ても隨分珍とすべきではあるが、支那紙研究の材料として一層貴重すべきである。元康六年は蔡倫が紙を發明した元興元年を距ること僅に百九十一年、即ちこの古寫經の用紙は支那で紙が發明されてから、後くも百九十二年目のものである。恐くは今日に傳はれる支那紙の最古のものであらう、古紙研究の屈竟の材料たるべきは申す迄もない。之に續くが李栢文書である。この文書は年號を缺いて居るけれども羽田學士の研究によると、東晉の咸和三年乃至五年(西暦三二八—三三〇)の間のものと認定される(34[#「34」は縦中横])。果して然りとすれば、之も亦古代の支那紙を研究するに見逃すべからざる材料である。
 昨年清國へ出張されたわが京都文科大學教授諸君の調査によると、學部若くば個人の所藏に歸した敦煌の遺書中に、南北朝隋唐時代の古寫經が頗る多い。年號の備はつて居るものも少くない。何れも支那紙研究の材料に供すべきであるが、殊に唐の至徳二載(西暦七五七)の『十戒經』は怛邏斯《タラス》城の戰役後六年目のもので、西本願寺所藏の天寶五載の牒状と共に支那紙西傳時代に關係ある重要の材料である。
 要するに最近數年間に古代の支那紙を研究すべき新材料が多數に蒐集された。此等の材料殊に西本願寺所藏の古文書——が Wiesner 教授と同樣の方法によつて、科學的に研究された曉に、始めて世界の製紙史上に於ける支那紙の位置が確定される譯である。吾が輩はかかる時期の一日も早く到來せんことを希望するのである。

參照
(1)清の李惇の『群經識小』(『皇清經解』卷七百二十二)。
(2)晉の杜預の『春秋左氏傳』序の註。
(3)清の劉寶楠の『論語正義』卷一所引。
(4)『後漢書』卷一百八、宦者列傳。
(5)『東觀漢記』卷二十(『武英殿聚珍版全書』所收)。
(6)『欽定四庫全書總目提要』卷五十。
(7)許愼の『説文解字』敍及びその子、許沖の「進『説文解字』上書」。
(8)『段注説文解字』第十三篇上。
(9)『通雅』卷之三十二。
(10[#「10」は縦中横])"Die Erfindung des Papiers in China" S. 7 (T'oung Pao, 1890).
(11[#「11」は縦中横])"Who was the Inventor of Rag-Paper?" p. 680 (J.R.A.S. 1903).
(12[#「12」は縦中横])"Oriental Elements of Culture in the Occident" p. 522.
(13[#「13」は縦中横])『資治通鑑』卷二百十六。
(14[#「14」は縦中横])Le Strange; "The Lands of the Eastern Caliphate" p. 486.
(15[#「15」は縦中横])『通典』卷一百八十五。
(16[#「16」は縦中横])Hirth; "Nachworte zur Geschrift des Tonjukuk" S. 3.
(17[#「17」は縦中横])┌Hoernle; "Who was the Inventor of Rag-Paper?" p. 668.
   └Chavannes; "Documents sur les Tou-Kiue Occidentaux" p. 297.
(18[#「18」は縦中横])┌Wüstenfeld; "Vergleichungs-Tabellen der m. und ch. Zeitrechung" S. 6.
   └『三正綜覽』九十七丁(但しヴェステンフェルド氏と一日の相違あり。しばらくヴ氏に從ふ。)
(19[#「19」は縦中横])┌『三正綜覽』九十七丁。
   └Brumsen; "Japanese Chronological Tables" p. 57.
(20[#「20」は縦中横])Hammer-Purgstall; "Auszüge aus SaalebĹs Buche der Stützen des sich Beziehenden und dessen worauf es sich bezieht" S. 529 (D.M.G. 1854).
(21[#「21」は縦中横])Hoernle; "Who was the Inventor of Rag-paper?" p. 664.
(22[#「22」は縦中横])Hirth; "Die Erfindung des Papiers in China" S. 13.
(23[#「23」は縦中横])Chavannes; "Documents sur les Tou-Kiue Occidentaux" pp. 297, 298.
(24[#「24」は縦中横])Hoernle; "Who was the Inventor of Rag-paper?" p. 670.
(25[#「25」は縦中横])William Ouseley; "Ibn Haukal" p. 233.
(26[#「26」は縦中横])坪井博士『史學研究法』百十四—百二十一頁。
(27[#「27」は縦中横])Jacob; "Oriental Elements of Culture in the Occident" p. 524.
(28[#「28」は縦中横])Jacob; 同右書 p. 524.
(29[#「29」は縦中横])"Mitteilungen aus der Sammlung des Papyrus Erzherzog Rainer"
(30[#「30」は縦中横])Hoernle; "Who was the Inventor of Rag-paper?" (J.R.A.S. 1903).
(31[#「31」は縦中横])Hirth; "Die Erfindung des Papiersin China" S. 12 (T'oung Pao, 1890).
(32[#「32」は縦中横])Stein; "Ancient Khotan" Vol. I, pp. 523-533; Vol. II, p. cxv, cxvi.
(33[#「33」は縦中横])『中央亞細亞發掘の古寫經に就いて』(『藝文』第二年第一號)。
(34[#「34」は縦中横])大谷伯爵所藏新疆史料解説』(『東洋學報』第一卷第二號)。
[#地から3字上げ](明治四十四年九・十月『藝文』第二年第九・一〇號所載)



底本:「桑原隲藏全集 第二卷」岩波書店
   1968(昭和43)年3月13日発行
初出:「藝文 第二年第九、一〇號」
   1911(明治44)年9、10月
※(1)〜(34[#「34」は縦中横])は注釈番号です。底本では、直前の文字の右横に、ルビのように付いています。
※二行にわたる始め波括弧は、けい線素片の組み合わせに置き換えました。
入力:はまなかひとし
校正:染川隆俊
2006年8月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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