M-Tea*5_21-日本歴史物語〈上〉(六)喜田貞吉
2012.12.15 第五巻 第二一号
日本歴史物語〈上〉(六)
喜田貞吉
五十、蝦夷地(えぞち)の経営
五十一、前九年の役(一)
五十二、前九年の役(二)
五十三、後三年の役
五十四、平泉の隆盛(りゅうせい)
五十五、古代史の回顧(かいこ)
先生や父兄の方々に
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定価:200円 p.159 / *99 出版
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(103項目)p.740
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※ 現代表記版に加えてオリジナル版を同時収録。
※ JIS X 0213・ttz 形式。
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けんちゃなぺこぽん。週刊おきゅぱい宇宙軍。
平安朝のはじめのころは、朝廷のご威光が盛んで、坂上田村麻呂や文室(ぶんやの)綿麻呂の蝦夷征伐があり、これがために蝦夷の地がおおいに開けてまいり、蝦夷人もだんだん日本民族の仲間になってきましたことは、前に申したようなしだいでありましたが、なにぶんにも国の政治が乱れて、地方が騒々しくなり、武士や海賊が盛んにおこるという時代になりましては、蝦夷のいた奥羽地方だとて、その影響を受けないではいられません。第五十七代陽成(ようぜい)天皇の御代(在位八七六~八八四)には、今の秋田県あたりにいる蝦夷がそむきまして大騒ぎがおこりました。しかしこれというのも、もともと国司の政治が悪いからであります。はじめは蝦夷のいきおいがつよく、官軍も容易にこれをしずめることができなかったのですが、藤原保則(やすのり)という人が新たに国司になって、よくこれを諭し、よい政治をおこないますと、かれらはことごとく降参して、おとなしくなりましたのを見ても、その罪がおもに国司にあったことがわかりましょう。(略)(「五十一、前九年の役(一)」より)
そのうちに、いよいよ頼義(よりよし)二度目の国司の任期がすみまして、新しい国司がやってまいりました。しかしこんな騒ぎの最中でやって来たもののなんともしてみようがありませぬ。さっそく都へ逃げて帰りました。そこで頼義は、今はどうでも自分の手で安倍氏を滅ぼして、自分の命ぜられたつとめを完(まっと)うして、新しい国司に引きわたさなければならぬと、しきりに清原氏の助けを催促します。武則(たけのり)も頼義の誠意に感じて、一万余人という大勢の仲間をつれてやってまいりました。こうなってはさすがの貞任も、とてもかないっこはありません。(略)最後に今の盛岡市の近所の、厨川(くりやがわ)の館までも攻め落とされ、貞任は殺されて、弟の宗任(むねとう)らは降参しました。頼義が国司となってから十二年かかって、やっと安倍氏征伐の目的を達することができたのです。世間でこれを奥州十二年の合戦と申しました。奥州とは今の福島・宮城・岩手・青森の四県の地方のことで、むかしはこれを陸奥といい、出羽とあわせて奥羽地方というのです。(「五十二、前九年の役(二)」より)
※ 蝦夷=「えぞ」の読みは底本のとおり。
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喜田貞吉 きた さだきち
1871-1939(明治4.5.24-昭和14.7.3)
歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。
◇表紙:恩地孝四郎 おんち こうしろう
◇図版:小村雪岱 こむら せったい
◇参照:Wikipedia
喜田貞吉、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『日本人名大事典』(平凡社)。
難字、求めよ
藤原経清 ふじわらの つねきよ
三浦平次郎為次 みうら へいじろう ためつぐ
天下大赦 てんか たいしゃ
希婦の細布 けふの ほそぬの
※『日本史広辞苑』『国史大辞典』『日本人名辞典』いずれも「藤原経清」の項なし。
むしとりホイホイ
頼義《よりいへ》 → 頼義《よりよし》 【「よし」か】
雲慶 → 運慶 【運か】 ※『吾妻鑑』に「雲慶」あり(国史)
糠部《ぬかべ》 → 糠部《ぬかのぶ》 【「のぶ」か】
ところから → ところから、 【、】
以上4件。底本は左辺のとおり。
スリーパーズ日記*
- 九州の松浦党(肥前松浦) 渡辺氏=松浦氏、安倍氏。
- 村上水軍(瀬戸内海)
- 熊野水軍(紀州) → 九鬼水軍
大河『平清盛』で加藤浩次扮する海賊・兎丸が登場したものの、当時の実在する水軍との関係描写が希薄だったのが、かえすがえすも残念。現在の歴史学では謎のままということなんだろうか。
清盛、平家と親しかったのは、どの水軍か。複数の水軍との親密度のちがいや確執があったはず。位置的には村上水軍が最も近いだろうけれども……。
馬と弓と養蚕の源氏に対し、船と交易の平氏のイメージがある。とくにこの時代、長い平安の世から乱世への転換期、馬具や武具・刀剣の需要が急激に増大したはず。加えて、造船・社寺建築・仏像作製などがさかんだったことを考えると、時代をあらわすキーワードの上位に「鉄製品」があげられるんじゃないだろうか。
木造船、木造建築、製鉄、鉄製品……、ここから推測できるのは、当時の西日本、平家の領有地では急激に山林が伐採されただろうということ。東日本、鎌倉に政権が移った背景のひとつに、山林の疲弊度合いの差があった可能性。どちらが優れていたか、、、ということではなく、どちらの山林が余力を有していたか。
もうひとつ。
飛鳥時代に船団を組んで蝦夷・粛慎討伐にあたったのが阿倍比羅夫。平安中期、奥州で源頼義・義家親子に討たれたのが安倍一族。そのさいに筑前宗像に配流されたのが安倍貞任の弟、宗任。
「山」のイメージの強い奥州安倍氏だけれども、勢力を持っていたのが奧六郡から北上川沿いであったこと、ついで奥州藤原氏が都とひんぱんに交流していたこと、宗任の子孫が松浦水軍に加わったことなどを考えあわせると、九州松浦党、奥州安倍氏、あべ、あんべ、あまべ、海部・海人部、阿倍比羅夫……「海」の類推説は強烈に捨てがたい。
12.18 米長邦雄、死去。69才。
2012.12.15:公開 おきゅぱい迷人。
目くそ鼻くそ、しだひろし/PoorBook G3'99
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最終更新:2013年01月31日 14:57