M-Tea*5_23-クリスマスの贈り物/街の子/少年・春 竹久夢二

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M-Tea*5_23-クリスマスの贈り物/街の子/少年・春 竹久夢二

2012.12.29 第五巻 第二三号

クリスマスの贈り物
街の子
少年・春
 竹久夢二



月末最終号:無料  p.124 / *99 出版
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(5項目)p.48
※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。

※ 現代表記版に加えてオリジナル版を同時収録。
※ JIS X 0213・ttz 形式。
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けんちゃなぺこぽん。週刊おきゅぱい水軍。


「い」とあなたがいうと
「それから」と母(かあ)さまはおっしゃった。
「ろ」
「それから」
「は」
 あなたは母(かあ)さまのひざに抱(だ)っこされていた。外(そと)では凩(こがらし)がおそろしくほえ狂(くる)うので、地上(ちじょう)のありとあらゆる草も木も悲(かな)しげに泣(な)きさけんでいる。
 そのときあなたは慄(ふる)えながら、母(かあ)さまの首(くび)へしっかりとしがみつくのでした。
 凩(こがらし)がすさまじくほえ狂(くる)うと、ランプの光(ひかり)が明(あか)るくなって、テーブルの上のリンゴはいよいよ紅(あか)く、暖炉(だんろ)の火はだんだん暖(あたた)かくなった。
 あなたのひざの上には絵本(えほん)が置(お)かれ、悲(かな)しい話(はなし)のところが開(ひら)かれてあった。それを母(かあ)さまは読(よ)んでくださる。――それは、もうまえに百(ひゃっ)ぺんも読んでくださった物語(ものがたり)であった。――そのときの母(かあ)さまの顔色(かおいろ)の眼(め)はしずんで、声は低(ひく)く悲(かな)しかった。あなたは呼吸(いき)をころして一心(いっしん)に聞(き)き入(い)るのでした。

 誰(た)ぞ、コマドリを殺(ころ)せしは?
 スズメはいいぬ、われこそ! と
 わがこの弓(ゆみ)と矢(や)をもちて
 わがコマドリを殺(ころ)しけり。

(「少年・春」より)

5_23.rm
(朗読:RealMedia 形式 248KB、2:00)
milk_tea_5_23.html
(html ソーステキスト版 184KB)

竹久夢二 たけひさ ゆめじ
1884-1934(明治17.9.16-昭和9.9.1)
画家・詩人。本名、茂次郎。岡山県生れ。挿絵画家として夢二式と称される女性像を創作し人気を博した。グラフィック‐デザインにもすぐれたものがある。詩画集「夢二画集」など。

◇参照:Wikipedia 竹久夢二、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。

底本:「童話集 春」小学館文庫、小学館
   2004(平成16)年8月1日初版第1刷発行
底本の親本:「童話 春」研究社
   1926(大正15)年12月
http://www.aozora.gr.jp/cards/000212/card46421.html
http://www.aozora.gr.jp/cards/000212/card46441.html
http://www.aozora.gr.jp/cards/000212/card46451.html

NDC 分類:K913(日本文学 / 小説.物語)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndck913.html

難字、求めよ

光る児 ひかるこ
断乎して きっとして
帆走る ほばしる
なぶらせ

むしとりホイホイ

語《はなし》 → 話《はなし》 【話か】
大切《だいじ》 → 大切《たいせつ》 【たいせつ、か】

以上2件。異本(『竹久夢二文学館 第9巻 童謡童話集 II』日本図書センター、1993.12)にて確認。異本は左辺のとおり。

正面(しょうめん)にすわって
どうしたろう

スリーパーズ日記*

 西行。俗名、佐藤義清(のりきよ)。
 奥羽へは二度旅したらしく、最初は天養元年(1144)ごろ。つぎが文治2年(1186)東大寺勧進のため。清盛の没年は1181年。
 Wikipedia の「西行」には記載がないが、出自が気になって図書館の別冊太陽『西行』を見ると、西行は藤原秀郷(俵藤太)の息子・千常の末裔であり、奥州藤原氏と近い関係になる。

「奥州における藤原基衡・秀衡らが夷狄・匈奴として認められたことは、上文引ける公家の日記によっても明白な事実である。しからば彼らははたして俘囚すなわち熟蝦夷(にぎえみし)の種であったのであろうか。系図の伝うるところによれば、彼らは正しく田原藤太秀郷の後裔であったという(略)西行法師が秀郷の後裔であることは、『吾妻鏡』(文治二年(一一八六)八月十五日条)に、彼の言として、「弓馬のことは在俗の当初愁に家風を伝うといえども、保延三年(一一三七)八月遁世之時、秀郷朝臣以来九代嫡家相承の兵法焼失す」とあるによってあきらかで、しかも同書に、「陸奥守秀衡入道は上人(西行)の一族なり」とあってみれば、当時すでに秀衡が秀郷の後裔であることが、認められていたに疑いはない。」(週刊ミルクティー* 第一巻第十五号 喜田貞吉「奥州における御館藤原氏」より)

 義経にしたがった継信・忠信兄弟。父は佐藤基治。奥州藤原氏のもと信夫郡、現在の福島県福島市飯坂町を所領。所伝によれば佐藤氏は奥州藤原氏との近親であることが示唆されている。西行(佐藤義清)と奥州佐藤氏……。
 ところで藤原秀衡の妻は、陸奥守として下向した院近臣・藤原基成(もとなり)の娘。基成の異母兄弟は平治の乱の首魁であった“裸の大将”藤原信頼。好演・怪演が記憶に新しい。
 基成は1143年に陸奥守・鎮守府将軍兼任で奥州平泉へ下向。1153年に帰洛するが、1159年の平治の乱で敗れた兄・藤原信頼に縁座によって陸奥に流された。以降、秀衡の岳父として衣川館に住む。1189年の奥州合戦で3人の息子とともに降伏し捕縛。後に釈放され帰京しているが、以後の消息は不明。(以上、Wikipedia「藤原基成」)
 このあたり、『炎立つ』『義経』に見た記憶がなく、今回の大河の中でいよいよ平家・清盛と奥州との関係、朝廷藤原氏と奥州との関係が描かれるかと期待していた点、かえすがえすも残念。東日本震災と平泉の世界遺産登録とあったわけだから……。清盛や頼朝らにとって、奥州とは俗にいわれるような「蝦夷・夷狄の住む土地」だけの存在だったのか。それとも。。。



じんさいで、ごめんなさい。
かんがえないひと。
2012.12.29:公開 おきゅぱい迷人。
目くそ鼻くそ、しだひろし/PoorBook G3'99
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