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M-Tea*5_7-校註『古事記』(四)武田祐吉

2012.9.8 第五巻 第七号

校註『古事記』(四)
武田祐吉

古事記 中つ巻
 一、神武天皇
  東征
  速吸の門(と)
  五瀬(いつせ)の命
  熊野より大和へ
  久米歌(くめうた)
  大物主の神の御子
  当芸志美美(たぎしみみ)の命の変
 二、綏靖(すいぜい)天皇以後八代
  綏靖天皇
  安寧(あんねい)天皇
  懿徳(いとく)天皇
  孝昭天皇
  孝安天皇
  孝元天皇
  開化天皇

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【週刊ミルクティー*第五巻 第七号】
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(632KB)

定価:200円 p.184 / *99 出版
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(60項目)p.176
※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。

※ 現代表記版に加えてオリジナル版を同時収録。
※ JIS X 0213・ttz 形式。
※ この作品は青空文庫にて校正中です。著作権保護期間を経過したパブリック・ドメイン作品につき、引用・印刷および転載・翻訳・翻案・朗読などの二次利用は自由です。
(c) Copyright this work is public domain.

れれれのあっこちゃん! 週刊なまずねこ*

 神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ)の命〔神武天皇〕、その同母兄(いろせ)五瀬の命と二柱、高千穂の宮にましまして議りたまわく、「いずれの地にまさば、天の下の政を平けく聞しめさん。なお東のかたに、行かん」とのりたまいて、すなわち日向より発たして、筑紫に幸でましき。(略)
 かれその国より上り行でますときに、浪速の渡をへて、青雲の白肩の津に泊てたまいき。このときに、登美の那賀須泥毘古(ながすねびこ)、軍をおこして、待ち向かえて戦う。(略)
 また兄師木・弟師木を撃ちたまうときに、御軍しまし〔しばし〕疲れたり。ここに歌よみしたまいしく、

楯並めて 伊那佐の山の
樹の間よも い行きまもらい
戦えば 吾はや飢ん。
島つ鳥 鵜養が徒、
今助けに来ね。

 かれここに邇芸速日(にぎはやび)の命まい赴きて、天つ神の御子にもうさく、「天つ神の御子、天降りましぬと聞きしかば、追いてまい降り来つ」ともうして、天つ瑞(しるし)をたてまつりて仕えまつりき。かれ邇芸速日の命、登美毘古が妹登美夜毘売(とみやびめ)に娶いて生める子、宇摩志麻遅(うましまぢ)の命。〈こは物部の連、穂積の臣、※(うねめ)臣が祖なり。〉かれかくのごと、荒ぶる神どもを言向けやわし、まつろわぬ人どもを退けはらいて、畝火の白梼原(かしはら)の宮にましまして、天の下治らしめしき。

5_7.rm
(朗読:RealMedia 形式 344KB、2:47)
milk_tea_5_7.html
(html ソーステキスト版 272KB)

武田祐吉 たけだ ゆうきち
1886-1958(明治19.5.5-昭和33.3.29)
国文学者。東京都出身。小田原中学の教員を辞し、佐佐木信綱のもとで「校本万葉集」の編纂に参加。1926(昭和元)、国学院大学教授。「万葉集」を中心に上代文学の研究を進め、「万葉集全註釈」(1948-51)に結実させた。著書「上代国文学の研究」「古事記研究―帝紀攷」。「武田祐吉著作集」全8巻。

◇参照:Wikipedia 武田祐吉、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。

底本:「古事記」角川文庫、角川書店
   1956(昭和31)年5月20日初版発行
   1965(昭和40)年9月20日20版発行
底本の親本:「眞福寺本」
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1349.html

NDC 分類:164(宗教 / 神話.神話学)
http://yozora.kazumi386.org/1/6/ndc164.html
NDC 分類:210(日本史)
http://yozora.kazumi386.org/2/1/ndc210.html

難字、求めよ

こよ奥つ方 おくつかた
明し白せ あかしもうせ?
副わす たぐわす
吉野の首 えしののおびと?
宇陀の水取 うだの もいとり
十市の県主 とおちの あがたぬし
意富那毘 おおなび 尾張の連らが祖。
久米の摩伊刀比売 くめの まいとひめ
旦波の大県主 たにはの おおあがたぬし
春日の建国勝戸売 かすがの たけくにかつとめ
依網の阿毘古 よさみのあびこ?
宇陀の血原 うだのちはら? 宇陀は奈良県北東部の市。
真名子谷 まなごだに/まなこだに
高佐士野 たかさじの

むしとりホイホイ

縄伊呂泥 → 蝿伊呂泥 【蝿か】
縄伊呂杼 → 蝿伊呂杼 【蝿か】

以上2件。底本は左辺のとおり。

スリーパーズ日記*

 以下、校註古事記、本文検索の結果(割注含む。校註と章題は含まず)。

「龍」「竜」……序文に「潛龍」が一件のみ。本文にはなし。山幸彦がつりばりをなくしたあとに向かったところは「綿津見の神の宮」(「竜宮城」ではない)。
「疊」……一〇件。海驢の皮の疊八重、※疊八重、菅疊、菅疊八重、皮疊八重、※疊八重、疊薦(二件)、吾が疊ゆめ、疊と言はめ。
「鰐」……九件。稲羽の素兎に二件。海幸山幸に六件。豊玉毘売命に一件。
「馬」……二三件。
「牛」……一〇件。
「羊」……なし。
「山羊」……なし。
「鹿」……二〇件。
「猪」……二七件。
「熊」……二八件。
「蛇」……一〇件。
「巳」……一件。「己巳の年」
「龜」……一件。
「猿」……九件。
「犬」……五件。
「猫」……なし。
「鷄」……二件。
「鼠」……六件。鼠が三件、海鼠が三件。
「蠶」……一件。
「虎」……一件。序「東の國に虎のごとく歩み」
「寅」……一件。「戊寅の年」
「菟」……一七件。

 以下、松岡正剛の千夜千冊、第1209夜・関裕二『物部氏の正体』より。
「和銅3年(710)の平城京遷都のおりに、石上(物部)朝臣麻呂が藤原京の留守役にのこされてからというもの、物部一族は日本の表舞台からすっかり消されてしまった」
「とくに神武東征以前における物部の祖にあたるニギハヤヒ(饒速日命)の一族の活躍は、古代日本の本質的な謎を暗示する。」
「やはりそこにはフツノミタマを奉じる一族がいたであろうし、石上神宮の呪術を司る一族がいたはずなのだ。そして、その祖をニギハヤヒと認めることを打擲するわけにはいかないはずなのだ。(略)端的にいえば、神武やヤマトタケルの東征に先立って、すでに「物部の祖」たるニギハヤヒのヤマト君臨があったのだろうということになる。」
「長髄彦「すでにこの地には天神(あまつかみ)のクシタマニギハヤヒノミコト(櫛玉饒速日命)が降りてこられ、わが妹のミカシギヤヒメ(三炊屋媛)を娶り、ウマシマジノミコト(宇摩志麻治命=可美真手命)をお生みになり、この地をヤマトと名付けられました。そこで私はニギハヤヒを主君として仕えているのです。いったい天神はお二人いるのでしょうか。」」
「ニギハヤヒは事態がねじれていくのをおそれて、長髄彦を殺してしまった。/神武はニギハヤヒのこの処置を見て、ニギハヤヒが自分に忠誠を誓っていると判断し、和睦し、寵愛することにした。かくしてニギハヤヒは物部氏の祖となった。神武は、初代天皇ハツクニシラススメラミコトとして即位した。」
「これが、『日本書紀』が伝えている物部氏の物語の発端のあらましである。(略)(ちなみに『古事記』にもニギハヤヒの一族が神武に恭順を示した話は載っているが、長髄彦の誅殺にはまったくふれていない)。」
「『日本書記』神武紀は、ニギハヤヒの貢献をあえて重視したわけだ。物部氏の祖が初代天皇即位にあずかっていることは、認めたのである。/いいかえれば、古代日本の中央に君臨する記紀テキストと、傍系にすぎない物部氏の記述とは、互いに不備でありながら、互いに補完しあっていると言わざるをえないのだ。ただし、そこには奇妙な「ねじれ」がおこっている。」
「この「ねじれ」を暗示する出来事に関裕二が着目していたからだった。その着目点は一首の「歌」と「弓」にかかわっていた。」
「元明天皇が和銅元年(708)に詠んだ歌がある。(略)「ますらをの鞆(とも)の音(ね)すなり もののふの大臣(おほまへつきみ)楯立つらしも」。」
「「もののふの大臣」とは、石上朝臣麻呂のことなのである。/ 石上は物部の主流の家系にあたる。石上神宮は物部氏を祀っている。」
「元明天皇のあと、平城京の遷都がおこる。これによって不比等の一族の繁栄が確立する。一方逆に、石上麻呂は、この歌の2年後に平城京が遷都されたときは、藤原京に置き去りにされた。」
「オオモノヌシは「わが子の太田田根子を祭主として祀れ」と言ってきた。/ (略)オオモノヌシによって大和が安泰になったので、崇神は次には、各地に四道将軍を派遣した。」
「 その“オオモノ氏”の一族は、それでは最初から大和にいたのかというと、どうもそうではなく、出雲か山陰か山陽から来て大和の三輪山周辺に落ち着いたのであろう。そのことを暗示するひとつの例が、崇神による四道将軍・吉備津彦の派遣になっていく。」
「ニギハヤヒは神武のように西からやってきたか(天のアマ)、そうでなければ朝鮮半島や南方からやってきた(海のアマ)という想定になる。いったい物部はどこからヤマトに入ってきたというのだろうか。/ そのひとつの候補が、出雲や吉備に先行していた物語だったのではないか」
「このことについては、すでに原田常治の『古代日本正史』という本がセンセーショナルに予告していた。「ニギハヤヒは出雲から大和にやってきたオオモノヌシだ」という仮説だった。/その出雲や吉備よりもさらに先行する出来事があるとも予想されてくる。神武がそうであったように、すべての物語は実は九州あるいは北九州から始まっていた。」
「邪馬台国のモデルが、いつ、どのように、誰によってヤマトに持ち込まれたのかという話が、根底でからんでくることになる。(略)/その仮説の大略は、邪馬台国を北九州の久留米付近の御井郡や山門郡あたりに想定し、そこにある高良山と物部氏のルーツを筑後流域に重ねようというものである。」
「おそらく正史『日本書紀』が大問題なのだ。もとより『日本書記』は不備だらけなのであるが、この不備は、もともとは意図的だったかもしれないのだ。その意図を誰が完遂しようとしたかといえば、これはいうまでもなく、藤原氏だった。」



9.7 はくろ。
2012.9.10:公開 玲瓏迷人。
目くそ鼻くそ、しらひろし/PoorBook G3'99
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最終更新:2012年10月02日 14:52