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M-Tea*4_48-東洋歴史物語(三)藤田豊八

2012.6.23 第四巻 第四八号

東洋歴史物語(三)藤田豊八
 一四、漢(かん)・楚(そ)のあらそい
 一五、武帝の功業(こうぎよう)
 一六、王莽(おうもう)の纂奪(さんだつ)
 一七、後漢(ごかん)の興隆(こうりゅう)

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【週刊ミルクティー*第四巻 第四八号】
http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/199095
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(1MB)

定価:200円 p.143 / *99 出版
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(170項目)p.926
※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。

※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。
※ JIS X 0213・ttz 形式。
※ この作品は青空文庫にて入力中です。著作権保護期間を経過したパブリック・ドメイン作品につき、引用・印刷および転載・翻訳・翻案・朗読などの二次利用は自由です。
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♪スードラら、ズードラらら。週刊スードラ節*

 秦代においては、始皇帝の文教圧迫政策によって文教は衰えましたが、漢が興(おこ)るとまた諸種の学術も芽をふきかえし、秦代に隠されていた書物もあちらこちらから現われてくるというありさまでした。そこで武帝は、標準の学術を定めて思想の統一をしようといたしまして、董(とう)仲舒(ちゅうじょ)という人の建議にしたがって、儒教をもって政教の基準といたしました。(略)後世の儒教流行、儒学尊崇の風は、この武帝によってはじめられたということができます。なお、武帝はおおいに文学を奨励したもので、武帝の朝廷には文学の士も多く、詞賦の司馬相如(そうぎょ)、文の司馬遷は有名であります。(略)
 武帝はこうやって五十四年の長い在位のあいだ、たえず四方の計略にしたがっていたため、漢の威は四方にふるったものの、このため国費を費やすことが多く、文帝・景帝以後、充実していた国庫もそのため空っぽになってしまうありさまでした。ことに武帝のように功成り名とげた人の最後の欲望というものは、とこしなえ〔とこしえ。永遠〕に生きたいということです。不老不死を願うということです。シナには古くから不老不死の生活をする神仙という考えがありました。そして方士というものは、ある特殊の薬を練り、その薬をさえ用いれば神仙になれるというのです。前に話した秦の始皇帝も死ぬ前には、この方士の言を信じて不老不死の薬を得ようと望みました。狡猾〔わるがしこい〕な方士どもは、今たちまちに武帝の心をとりこにいたしました。神仙をまねくための楼台、長生不死の薬の材料を得るための特別な建築、こうしておびただしい土木の乱費がおこなわれました。こうした多くの乱費のうめあわせをするためには、国民に対する重税、鉄・塩・酒などに対する専売がおこなわれるの止むなきに至りました。(略)こうした乱費と国民に対する重き負担とが、民力を疲弊せしめ、民衆のうらみを買ったのはいうまでもありませんでした。
 武帝はおのれを責める追悔の詔を出して国民に謝して、漢が秦となってしまう運命をわずかに免れたのでした。(「一五、武帝の功業」より)

4_48.rm
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(html ソーステキスト版 196KB)

藤田豊八 ふじた とよはち
1869-1929(明治2.9.15-昭和4.7.15)
東洋史学者。徳島生れ。号は剣峰。東大教授をへて台北帝大教授。著「東西交渉史の研究」「剣峰遺草」。

恩地孝四郎 おんち こうしろう
1891-1955(明治24.7.2-昭和30.6.3)
版画家。東京生れ。日本の抽象木版画の先駆けで、創作版画運動に尽力。装丁美術家としても著名。

水島爾保布 みずしま におう
1884-1958(明治17.12.8-昭和33.12.30)
画家、小説家、漫画家、随筆家。本名は爾保有。東京都下谷根岸生まれ。父は水島慎次郎(鳶魚斎)。1913年、長谷川如是閑に招かれて大阪朝日新聞において、挿絵を描き始める。長男の行衛は、日本SF界の長老、今日泊亜蘭。

◇参照:Wikipedia 藤田豊八恩地孝四郎水島爾保布、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。

底本:『東洋歴史物語』復刻版 日本児童文庫 No.7、名著普及会
   1981(昭和56)年6月20日発行
親本:『東洋歴史物語』日本兒童文庫、アルス
   1929(昭和4)年11月5日発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1679.html

NDC 分類:220(アジア史.東洋史)
http://yozora.kazumi386.org/2/2/ndc220.html

難字、求めよ

康呉 こうご 西域の地名。
右渠 うきょ 衛氏朝鮮の祖、衛満の孫。
孔僅 こうきん 武帝の臣。経済政策を画策。
石顕 せきけん 宦官。
弘恭 こうきょう 宦官。
成帝 せいてい
王鳳 おうほう 成帝の外戚。
平帝 へいてい

むしとりホイホイ

粛何《しゅくか》 → 蕭何《しょうか》 【蕭、しょう】
かつ きょへい → かく きょへい 【かく】霍去病
趙陀 → 趙佗 【佗】ちょうだ
苜宿 → 苜蓿 【蓿】ツメクサ
支那《しし》 → 支那《しな》 【な】
※[#「至+おおざと」、第3水準1-92-67]支《しつし》 → ちつし【ち?】
大傅 → 太傅 【太か】たいふ
郡雄 → 群雄 【群か】

以上8件、底本は左辺のとおり。本文は右辺にあらためた。

スリーパーズ日記*

 図版は前回と同様、『学研新漢和大字典』(2005.5)を参照。

「シナは古来しばしば大地震に見舞われるところから、まがりなりにも一つの地震観を有していたため、わが国がその影響をこうむらないはずはないのである。これに反して、かの国には噴火現象というものが見られないため、火山噴火に関する思想については、大陸文化の影響をこうむることなく、わが国独自の発展をとげたのである」(今村明恒『地震の国』「地震および火山噴火に関する思想の変遷」より)

 Wikipedia によれば、藤田豊八は1869年(明治2)の生まれ。1909年以来中国へわたり、1923年(大正12)に帰国とある。関東大震災が54歳のとき。本作品の出版は1929(昭和4)年。
 本文中、洪水については「五、大洪水」がある。入力作業を終えたかぎりでは、残念ながら地震も火山噴火の記述も見あたらなかった。
 始皇帝から前漢の武帝の時代、儒教にくわえて道教を重用した形跡がある。時代が大きく変わる背景には、しばしばそれをとりまく自然環境の大きな変化が先行することがあり、そういう時代に新しい思想や宗教が誕生することがままある。

 小林達雄『縄文の思考』(ちくま新書、2008.4)、同『縄文人の世界』(朝日選書、1996.7)、石川日出志『農耕社会の成立』(岩波新書、2010.10)読了。いずれも、姶良カルデラ噴火の広域降灰(約2万2000年前)や縄文海進(約6500年前がピーク)については記述があるが、それ以外の地震や噴火活動については記していない。



6.20 新月。台風4号。夏至。
2012.7.3:公開 玲瓏迷人。
目くそ鼻くそ。しだひろし/PoorBook G3'99
たんかん、たんかん、べりーぐー。
持ち歌交換、歌合戦。
小沢さんのほうがまっとうに見える。ふしぎだ……。
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最終更新:2012年07月03日 15:45