M-Tea*4_40-大地震調査日記(二)今村明恒

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週刊ミルクティー*第四巻 第四〇号 0円

M-Tea*4_40-大地震調査日記(二)今村明恒



月末最終号:無料  p.133 / *99 出版
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(63項目)p.371
※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。

キンタマであふれかえっている……週刊、夜あそび!*

九月二十四日
 加藤委員ら、伊豆半島ならびに三浦半島の調査を終えて帰られた。同氏らは初島(はつしま)まで調査におもむかれ、その隆起せること五、六尺〔一五〇~一八〇センチメートル〕なることを認め得られた。そのほか湘南一帯・三浦半島の隆起は、これまで報道せられたものと大差なく、また地変としては小田原と熱海との間、ことに根府川(ねぶかわ)付近がもっともはなはだしいことなどから推測して、震源は大島と大磯(おおいそ)との間であろうかと断ぜられた。ただ、自分としては最も期待しておった土地の低下せる場所が同委員の報告にもその存在を認められなかったことを不思議とし、陸地測量部の水準測量の結果を静かに待つことにした。つまり、この測量あるいは水路部の水深測量が数か月をへて完結するまでは、起震帯(きしんたい)に関する正確なる推定はむつかしいことではあるまいか。

九月二十五日
 待ちに待ったる油壷(あぶらつぼ)験潮儀記録の写し三角(みすみ)課長より送り越された。取る手もおそしと披見(ひけん)すると自分の期待はことごとく裏切られ、地震前には何らの地変も記しおらぬのみか、大地震開始後、幾秒間の後には時計も止まり、これと同時に陸地隆起のあったことを示すだけであった。ただ、基準点の実測から陸地の隆起一・四四四メートルすなわち四尺八寸であることを確かに証明されたのみである。なお、陸地測量部においてわが国の沿岸各地に散布された験潮儀の示す一年平均水位を比較してみると、油壷のみはこの最近二年間において、ある異状をあらわしているように見える。すなわち前の二年間においてすべての場所が水位の下降を示し、ただ、日向細島(ほそしま)のみが一昨年度においてのみ僅少(きんしょう)なる上昇を示しているのみなるに反して、油壷のみは最近二か年間は著しき上昇を示しているのである。これは見様(みよう)によっては、三浦半島がこの二年間、地盤が下がりつつあったことを意味している。なお後日の研究を要する問題である。



加藤委員 → 加藤武夫
加藤武夫 かとう たけお 1883-1949 地質学者、理学博士。山形県に生まれる。東京帝大理科大学地質学科卒業。同講師をへて欧米諸国に留学。大正9(1920)東京帝大教授に任ぜられて鉱床地質学講座を担任。足跡は世界各地に及び、その豊富な見聞のもとに著した『鉱床地質学』は長く新進学徒の好指針となった。このほか『岡山県棚原鉱山の研究』『本邦に於ける火成活動と鉱床生成時代の総括』『本邦硫黄鉱床の総括』などがある。(日本人名)/帝大地震学教授、震災予防調査会委員。
細島 ほそしま 宮崎県日向市にある字の名称。古くは江戸時代以前から江戸や大阪と東九州を結ぶ交易の中継地として発達した。

4_40.rm
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今村明恒 いまむら あきつね
1870-1948(明治3.5.16-昭和23.1.1)
地震学者。理学博士。鹿児島県生まれ。明治38年、統計上の見地から関東地方に大地震が起こりうると説き、大森房吉との間に大論争が起こった。大正12年、東大教授に就任。翌年、地震学科の設立とともに主任となる。昭和4年、地震学会を創設、その会長となり、機関誌『地震』の編集主任を兼ね、18年間その任にあたる。

◇参照:Wikipedia 今村明恒、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。

底本:『手記で読む関東大震災』シリーズ日本の歴史災害 第5巻、古今書院
   2005(平成17)年11月11日 初版第1刷発行
初出:「大地震調査日記」『科学知識』科学知識普及会
   1923(大正12)年10月号
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1578.html

NDC 分類:453(地球科学.地学 / 地震学)
http://yozora.kazumi386.org/4/5/ndc453.html

難字、求めよ

蝋燭石 ろうそくせき 蝋石?
街衛 がいえ
流止水
曽根 人名。
ジャッガー Dr. Jaggar 
後藤子爵 市政調査会長。
柳町
根室地震
三輪化学研究所
地質調査所
銀行集会所
ハワイ火山観測所
ワルパライソ 南米。

むしとりホイホイ

網代《あじろ》町 → 網代《あみしろ》町 【あみしろ、か?】2か所
鑑《かがみ》み → 鑑《かんが》み 【かんが、か?】

以上2件。底本は左辺のとおり。

スリーパーズ日記*

 サッカーボール、バレーボール、アラスカへ漂着。住民が発見。
 遠き島より流れよる椰子の実ひとつ。
 ボール、空気、球形、浮遊、シェルター、エアバッグ……

 明治二七年(一八九四)。
 三月二二日に根室沖大地震、六月一五日に三陸大地震、おなじく六月二〇日に明治東京地震。
 明治東京地震の震源は東京湾。大正一二年(一九二三)関東大震災の震源は相模湾北西沖。ふたつの間は二十九年間。関東大震災から今年でちょうど八十九年。

 『図説 福島県の歴史』(河出書房新社、1989.10)読了。以下「南奥州の武士団」(p100~)より。
 文治五年(一一八九)八月七日、源頼朝の軍は陸奥国伊達郡の国見宿に到着(『吾妻鑑』)。翌八日から阿津賀志山の合戦が始まる。
 合戦の論功行賞で、東海道大将軍をつとめた下総の豪族、千葉常胤の一族は、街道の好島庄・行方郡と亘理郡および宮城郡・黒川郡(以上、現宮城県)にわたる郡庄の地頭職を与えられた。常胤の次男相馬師常が行方郡(現、相馬郡)を与えられて奥州相馬氏の祖となり、また常胤とその四男大須賀胤信はあいついで好島庄の預所職となる。
 好島庄(よしまのしょう)とはいわき市の平(たいら)市街以北の広大な地域の鎌倉期の呼称。庄園領主は山城国の石清水八幡。事実上は、鎌倉将軍家の所領=関東御領。相馬氏初代当主、師常(もろつね)の子孫が行方郡に移るのは鎌倉期すえのころ(Wikipedia「相馬氏」によれば6代重胤のとき)。

 ここからが問題。以来、徳川幕末までおよそ七〇〇年間、相馬氏が陸奥相馬を所領していたわけだけれども、その間、大地震や大津波を経験したことはなかったのだろうかということ。
 仮に今回のような震災と津波を経験したとすれば、家伝として記録がないほうが不自然。記録はあったけれども津波や戦災などで失ったのか。それとも、記録は現存するけれども人知れず埋もれたままなのか。それとも、七〇〇年間ほんとうに地震や津波に見舞われたことがなかったということなのか。



4.23 山形、桜開花。
4.30 硫黄島、海底噴火か。
公開:2012.5.1
2012.5.31:更新 玲瓏迷人。
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