M-Tea*4_27-ユタの歴史的研究 伊波普猷
2012.1.28 第四巻 第二七号
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月末最終号:無料 p.186 / *99 出版
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(85項目)p.376
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※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。
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もくだよのかね、週刊んちゃんてぃー*
(略)おおよそ古代において国家団結の要素としては権力・腕力のほかに重大な勢力を有するのは血液と信仰であります。すなわち、古代の国家なるものはみな祖先を同じうせる者の相集まって組織せる家族団体であって、同時にまた、神を同じうせる者の相集まって組織せる宗教団体であります。いったい、物には進化してはじめて分化があります。そこで今日においてこそ、政治的団体、宗教的団体などおのおの相分かれて互いに別種の形式内容を保っているものの、これら各種の団体は、古代にさかのぼるとしだいに相寄り相重なり、ついにまったくその範囲を同じうして、政治的団体たる国家は同時に家族的団体たり、宗教的団体たりしもので、古来の国家がはじめて歴史にあらわれた時代にはみなそうであったのであります(略)。わたしは沖縄の歴史においても、かくのごとき事実のあることを発見するのであります。
(略)さて、政治の方面において国王が国民最高の機官であるごとく、宗教の方面においては
聞得大君が国民最高の神官でありました。(略)それは
伊勢神宮に奉仕した
斎女王のようなもので、昔は未婚の王女(沖縄では昔は、王女は降嫁しなかった)がこれに任ぜられたのであります。(略)聞得大君の下には、前に申し上げた
三殿内(三神社)の神官なる
大アムシラレがあります。これには
首里の身分のよい家の女子が任ぜられるのであります。もちろん昔は、未婚の女子が任ぜられたのであります。さてこの「あむ」という語は母ということで、「しられ」という語は治めるまたは支配するということであるから、大アムシラレには政治的の意味のあることがよくわかります。そして大アムシラレの下には三〇〇人以上の
ノロクモイという田舎の神官がありまして、これには地方の豪族の女子(もちろん昔は未婚の女子)が任ぜられたのであります(ノロクモイの中で格式のよいのは、大アムととなえられています)。(略)そしてこれらのノロクモイの任免の時分には、銘々の監督たる大アムシラレの所に行って辞令を受けるのであります(これらの神官はいずれも世襲であります)。
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伊波普猷 いは ふゆう
1876-1947(明治9.3.15-昭和22.8.13)
言語学者・民俗学者。沖縄生れ。東大卒。琉球の言語・歴史・民俗を研究。編著「南島方言史攷」「校訂
おもろさうし」など。
◇参照:Wikipedia
伊波普猷、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。
難字、求めよ
三十三君
白巾 しろざし
神コデ
酒香酢脯
神衣
巫婦
尸 し?
今帰仁拝み なきじん おがみ
東回り あがりまわり
仮容 仮用(かよう)か?
トキ
世謡 ユーウテー
ヴァーテス
巫道 ふどう?
ムルチてる池
神のみすずり
窃惟 せつゆい?
五形五倫
首里森 〓 首里の御いべ。首里杜。下之御庭にある。首里城十嶽の一で、城内第一の御岳であり、首里大君(神女名ナヨカサ)の管轄だった。
東方 あがりかた
神道談話会
武久田大時 むくだ おおとき
きやのうぬきまる 俗にチャヌチ。
陳侃 ちんかん 琉球に使した
冊封使。
加那志 がなし 御主。
石嶺 いしみね 文者。
尚図 〓
尚温の叔父の浦添王子。摂政となるや否や、首里城中の無数の神棚を破壊して多くの
トキユタを罰す。
与那城王子 よなぐすく おうじ 摂政。
クンパタグワー 小禄のユタ。
垣花蔵の前 かちぬはなくらの めー ユタ。
トーのパアーパアー ユタ。
前東江 めーあがりー ユタ。
周の天子
「マグダ」 ズーダーマン。演劇。
「忠孝婦人」 戯曲。
『聞得大君御殿並御城御規式之御次第』
『王代記』 → 『
球陽』か
『中山王府官制』
『教条』 きょうじょう
蔡温の著。
年表
享禄元/嘉靖七(一五二八)
尚清王(
尚真王の子)のとき、
冊封使・
陳侃、琉球に使する。著『
使琉球録』。
慶長年間(一五九六〜一六一五)
琉球征伐のころ、日本僧
袋中、琉球を見舞う。著『
琉球神道記』。
慶安三/順治七(一六五〇)
向象賢『
中山世鑑』編纂。五穀の祭神のことを書く。昔は二月には久高の行幸があり、四月にも知念・玉城の行幸があって「是報本返始之大祭可敬々々五朝神願と申すはこれらの事によりてなり」。
寛文七/康煕六(一六六七) 「聞得大君、この大君は三十三君の最上なり、昔は女性の極位にて御座ししに大清康煕六年丁未、王妃につぐ御位に改めたまうなり」『
女官御双紙』。
延宝元/康煕一二(一六七三)三月 向象賢、執筆『
仕置』。
時之大屋子を政治上から駆逐、
トキユタを社会から排斥してから七、八年後のこと。
享保二/康煕五六(一七一七)
御初地入を挙行することについて政治家と聞得大君御殿との間に大衝突がおこる。
天明八/乾隆五三(一七八八)
尚穆の世子
尚哲、死去。
寛政六/乾隆五九(一七九四)
尚敬王についで王位についた子尚穆王、死去。
寛政七/乾隆六〇(一七九五) 王孫
尚温、王位につく。このとき、尚温のお母さんがトキユタを信ぜられて、
首里城内には多くの神々が生まれることになり、民間でもトキユタが大繁昌をきたす。
寛政七/乾隆六〇(一七九五)四月二五日 評定所の方から令達。尚温の叔父の
浦添王子尚図、首里城中の無数の神棚を破壊して多くのトキユタを罰す。
明治初年(一八六八)ごろ 今まで個人的に活動していたユタが結社をする傾向生じる。特に
天理教の輸入以来、これをまねて
オモチ教(御母前一派の
巫道)のようなもののできる。
明治四五(一九一二)三月 伊波普猷「古琉球の政教一致」『沖縄毎日新聞』。
大正二(一九一三)一月一八日夜 那覇の大火。
大正二(一九一三)三月一一日〜二〇日 伊波普猷「ユタの歴史的研究」『琉球新報』。
◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。
スリーパーズ日記
1909年8月29日 沖縄本島付近で地震。M 6.2、死者2人。
2010年2月27日
沖縄本島近海地震。M7.2。糸満市で震度5弱。沖縄本島での震度5以上の地震発生は1909年の地震以来101年ぶり。うるま市では震度4の揺れが観測され、世界遺産に登録されている勝連城跡の石垣が一部崩落した。この地震の約10時間後に
チリ地震が発生。
伊波普猷は1876年(明治9)生まれで、Wikipedia によれば「1906年に東京帝国大学を卒業し帰郷」「1910年に沖縄県立図書館長(嘱託)に任命される」とある。1909年の
沖縄地震のときには33才で、ちょうど沖縄にもどっていた時期にあたる。1924年、図書館長を辞任しふたたび上京。こちらは
関東大地震の翌年のこと。「追遠記」「わたしの子ども時分」「ユタの歴史的研究」には地震や津波の記述はない。
2012.1.31:公開 玲瓏迷人、呵呵大笑。
2012.2.2:更新
おもろねやがりぎや、トーのパアーパアー。
目くそ鼻くそ。しだひろし/PoorBook G3'99
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最終更新:2012年02月02日 22:25