四、伊※[#「氏/一」、第3水準1-86-47]波神社の考證

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     四 伊※[#「氏/一」、第3水準1-86-47]波神社の考證

 延喜式神名帳にある田川郡伊弖波ノ神社は羽黒山であるとの説は盛んであつて、羽黒山の記録にも伊弖波神社の額があつたとまで云つてゐる。先づこの神社の羽黒山であるや否やを考證する前に、伊弖波なる名稱の意義を檢討する必要がある。伊弖波は出羽の假名であつて何れもイデハと訓んだ。出羽なる名稱の始めて文獻に見えたのは、續日本紀和銅元年九月越後國言新建[#二]出羽郡[#一]許[#レ]之とあるのが始めてゞ、其後記紀には出羽郡の名稱は屡々見えるが、伊弖波神社の名稱は和銅元年後二百十九年を經て延喜式に始めて見えた。伊弖波又出羽の語源については古來郷土史家によりて屡々論述されたことであつて、一は鷹の羽を産出した所、二は越後より北方に出た「出て端《は》し」の義とする二説に歸する。第一説は享保九年小寺信正の著庄内物語、寶暦十二年進藤重記の著出羽風土略記の説であつて古來最も有力視されてゐる。
 (莊内物語) 小寺信正著
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一、出羽國大泉庄田川飽海兩郡を庄内といふ事 小寺文責〈○信正〉按するに 出羽國古來イツハと訓す 國中より矢の羽を産する故名付 今は羽を出す事少し 庄内にもたま/\は有るといへども、松前より渡るもの多し
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 (出羽風土略記) 進藤重記著
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神學類聚抄卷四卷ニ云 風土記ニ允恭帝の世 此國以鷲羽爲貢故號出羽 一ニ云此國白ス陸奧出ツ羽猶端 不知孰是云々出羽の辨出羽郡の下に注す 白陸奧出羽猶端と云説不可用 國名風土記ニ云 彼國中に平賀鷹千嶋抔いふに 鷲會して住也とあり 近代まで鷲鷹を土人の 待たる所 又鷹を奉りし事末文に記傳る
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 (同書)
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風土記を見るに 出羽といふは鷲鷹の羽を貢しそめたる村里より出たる名と見へたり 扨羽を貢しける始は 廿代允恭帝の御宇也 世を經て四十三代元明天皇和銅元年に郡名とは成れり
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 以上の二人は莊内人であつて、中央の著書である諸國名義考、謠曲捨葉抄葛城職原私考なとも鷹羽説であるが、何れも前記の小寺進藤の著書に據つたのである。以上の二説について私見を試みるに、出羽を越後より突出た出て端しとする説は、地形上海中に突出せる半島とも異なり該當せぬ無理な説である。次に鷹の羽説は允恭天皇の御世に鷹羽を貢としたことは正史に無いことで、且つ慶雲和銅の出羽夷征前約三百餘年に蝦夷地より鷹羽を貢進する筈が無い。又出羽を羽を出たすと訓むは漢文であつて、之をイデハと訓むことは我國の古語に無いことである。延喜式の伊弖波は此地方の古語であるを、漢字を假りて出羽としたもので漢字の意義は無いことゝ思ふ。然らば伊弖波の意義は何んであるかは不明であるが、蝦夷語であらうかと思ふ。國郡名は多く同地の地名より附與せらる。和銅六年五月二日朝廷諸國に令して國郡郷の名を好字に書き改めさせ、其後延喜式民部にも諸國の郡里等の名は二字の嘉名に改めさせたのであれば、伊弖波は土語であつたのを漢字の音を借りて出羽としたものである。
 次に栗田寛博士の説では四道將軍大彦命の弟太忍信命の子孫|出庭《イデハ》氏は、伊弖波神社の地名から出た氏であると云つてゐる。
 (新撰姓氏録考證)
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出庭臣《イデハノオミ》孝元天皇|皇子彦太忍信命《ミコヒコフトオシノマコトノ》之後也
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出庭は神名式に出羽國田川郡伊弖波神社とある地にて 是より出し氏なるべし 出羽國は和銅五年九月に陸奧越後を割て置れし國名なれば いかゝとも云ふべけれと 國を置しは和銅にこそあれ 伊弖波神社はそれより古くありて 國號も神號より起りしなるべし 崇神天皇の御世既く大毘古命父子をして北陸東山をことむけしめたまひしかば 其御由縁によりて大毘古の弟彦太忍信命の子孫をして出庭臣と任したまひて 其地方を治めしめむも知るべからす この氏人は東大寺正倉院文書天平五年右京三條三坊手寶帳に 戸主出庭徳麻呂男出庭人麻呂 出庭|家足女《ノイヘタリノメ》出庭|御比賣《ノミヒメ》 出庭|小黒女《ノヲクロメ》 出庭|眞黒女《ノマクロメ》 弟出庭|小虫《ノコムシ》 男《コ》出庭|君麻呂《ノキミマロ》 出庭ノ※[#「糸+原」、上p19-13]麻呂(※[#「糸+原」、上p19-13]は縁または綜の誤か)女《メ》出庭ノ橘女 小蟲※[#「女+弟」、第3水準1-15-82]出庭刀自賣女紀朝臣蟲女(こは紀氏の族なるを以て紀氏に養はれしものとみゆ 出庭臣の紀氏族なる證とすべし)妹出庭家蟲女 姑出庭麻須賣とある 未た中務史生出庭臣て麻呂とみえたれは この族は多く大和の京に住しなるべし
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 此説によれば伊弖波神社は和銅年間より古くありて、和銅より約八百年前の崇神天皇十年 四道將軍の大彦命の北陸東山の夷征の時に大彦命の弟太忍信命の子孫を出庭臣に任して出羽を治めしめたかも知れない。それで出庭を姓とすることゝなつたであらう。伊弖波神社は古くより此地の神で、出庭の姓も國郡名も神社名よりできたのである。之について私見を述べんに、出羽郡は後ちの田川郡・飽海郡を合せた一地域であつて、後ちに戸口増加するに及んで二郡に分けたらしい。大彦命の夷征は北陸より會津に至りて父子相會つたから會津といふ地名ができたのであれば、命は出羽には進入しなかつたことは明かである。會津より置賜・最上より雄勝地方に至る仙道筋は進撃したかも知れぬが、置賜・最上(村山を含む)地方は此時は陸奧である。出羽地方が大彦命又は弟彦太忍信命の夷征あつて子孫を出庭臣に任じて治めしめたならば、出羽郡又は出羽國が數百年前に既に在つたことである。然るに越後より此地方の夷征あつたのは大化以後の慶雲和銅年間であつて、和銅元年始めて出羽郡を置き、同五年に始めて出羽國を置いた。此前に夷征あるべき筈が無い。隨つて夷征以前に伊弖波神社あるべき理由無く、又鷹羽を貢とした筈も無い、只此地方がイデハといふ地名で多分夷語であらう。之を出羽又出庭なる漢字の音を借りて好字又は嘉名に書いた。大彦命の子孫は長く越後に留まりて阿部氏とも稱したので「イデハ」に至りて出庭臣に任じたものもありそうなことである。「イデハ」を出羽とも出庭とも書いたのであれば出羽の鷹羽を産した説は信ぜられぬことで漢字の意義は無いのである。
 延喜式の伊弖波神社は羽黒神社であるや否やは解決至難のことで、先づ古人の諸説を揚げて根據の所在を探つて見る。
 (莊内物語)
  一伊底波神社
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在所しれず又一説に羽黒山大權現也と云實否をしらず
土俗云百年巳前迄は羽黒本堂の額イデハノ神社と有しといへり 信正案するに東鑑義經記の類其外野史等に羽黒と稱してイテハノ神社といふ事なし 是又據をしらず
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 (出羽風土略記)
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延喜式神名帳に田川郡伊※[#「氏/一」、第3水準1-86-47]波神社とあるは是なり 羽黒山の寺家より出たる羽源記三山雅集等の諸説を合せて考るに、祭神玉依姫命にして 景行天皇廿一年六月十五日始めて皇野に祠り 其後阿久谷と云所に鎭座し 後世に至り今の大堂に移る (中略) 由利郡龜田の領繋村に伊※[#「氏/一」、第3水準1-86-47]波の神社を勸請したる所あり 是又今は羽黒權現とも云 中古羽黒山伏彼地ニ下り繋村の社家を宿として 近郷ニ牛王の卷數を引 六百八十七年前承保元年に下たる山伏所勞と成りしに 後は九死一生の大病と成りて醫術を盡して祈りければ 不日ニ平癒せり 至誠感神の事を仰き謝禮の爲持下りたる牛王の板木を社家に附與して 羽黒山伏の代々引來る所の牛王の旦那は向後社家より牛王の卷數を引て初穗を收納すべきよし誓約之 其趣の後證として牛王板木に裏書せり 數百年を經けれは前後の文字は皆虫喰となり 爲謝禮如是承保元年出羽神社と云文字のみ今わつかに殘れり 神號の下には山伏の名有けるとぞ (下略)
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 出羽風土略記の著者進藤重記は吹浦兩所宮の祠官にして、強固なる神道家にして、同地神宮寺僧徒と對抗して讓らざるを以て、吹浦を追放された中に著はしたのが此書である。依て羽黒を伊弖波神社であると力説してゐるが、其根據は薄弱にして之を以て伊弖波神社説を肯定することはできぬ。神道家は神道に傾き、佛教家は佛教に傾き、互に他を排除するのが常であれば、兩家の記録は容易に信ずることできぬ所以である。莊内藩士杉山宜袁の説は妥當であるが不明説である。
 (莊内事跡考) 杉山宜袁著
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伊※[#「氏/一」、第3水準1-86-47]波の神社は羽黒なりと云事ハ 國人の古くより云繼たる事なり 小寺信正〈享保の頃の人なり〉云百年はかり以前迄伊底波神社と云額羽黒本社に掛しよし 土人の語れりなといふのみにて 凡て據なし 又羽黒一山にては伊※[#「氏/一」、第3水準1-86-47]波神社と云事を嫌ひぬれハ羽源記三山雅集なとにも 其事見へす 義經記辨慶の詞に羽黒權現の御正体觀音のおはしますにと有ハ 此社の觀音と成給へたるも久しき事なり。古は禰宜抔も有しをいつしか絶て今は僅に藤嶋村抔に下社人殘なるのみなれハ 神社の云傳へもなきなり。進藤和泉ハ風土略記に云 由利郡龜田領に繋村といふに、羽黒を勸請の社有 伊※[#「氏/一」、第3水準1-86-47]波の神社なりとて禰宜守るなり〈齋藤豊前といふとそ〉此社に有牛王板木ののいと古く朽虫喰ミて 前後の文字はたしかならぬと 承保之出羽神社といふもしかすかに殘りたると云なり (中略) 出羽の神社の名ありしにや 凡て據はなけれと人の云事を記して後の考を待のみ
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 之を要するに延喜式の田川郡伊弖波神社を羽黒山とするには確固たる資料が無いこと歸着する。然らば田川郡内に伊弖波神社と認めらるべき神社は有るかといふに一切之に該當する所が無いのである。故を以て羽黒修驗等は伊弖波神社を羽黒と爲さんとするもの、或は羽黒を伊弖波神社と爲すことを喜ばぬ時代もあつたやうだ。拾塊集に九頭龍王著[#二][#(ハレ)]油良涯窟[#一]白[#二]伊※[#「氏/一」、第3水準1-86-47]波神[#一]とあるは後者であつて、西田川郡由良の白山嶋の洞窟を伊※[#「氏/一」、第3水準1-86-47]波神とした。依て伊弖波神社の位置は不明の外無いが、その祭神はイデハの國土を神としたものであらう。
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