M-Tea*4_14-庄内と日高見(三)喜田貞吉

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M-Tea*4_14-庄内と日高見(三)喜田貞吉

2011.10.29 第四巻 第一四号

庄内と日高見(三)
喜田貞吉
 館と柵および城
 広淵沼干拓
 宝ヶ峯の発掘品
 古い北村
 姉さんどこだい
 二つの飯野山神社、一王子社と嘉暦の碑
 日高見神社と安倍館——阿部氏と今野氏
 天照大神は大日如来
 茶臼山の寨(とりで)、桃生城
 貝崎の貝塚
 北上川改修工事、河道変遷の年代
 合戦谷付近の古墳
 いわゆる高道の碑——坂上当道(まさみち)と高道





月末最終号:無料  p.176 / *99 出版
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(80項目)p.295
※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。

※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。
※ JIS X 0213・ttz 形式。
※ この作品は青空文庫にて入力中です。転載・印刷・翻訳は自由です。
(c) Copyright this work is public domain.

えびひらふ、かきふらひ! 週刊おいすたー*

 しかし安倍氏の伝説はこの地方に多く、現に阿部姓を名乗る村民も少くないらしい。(略)先日、出羽庄内へ行ったときにも、かの地方に阿部氏と佐藤氏とがはなはだ多かった。このほか奥羽には、斎藤・工藤などの氏が多く、秀郷流藤原氏の繁延を思わしめるが、ことに阿部氏の多いのは土地柄もっともであるといわねばならぬ。『続日本紀』を案ずるに、奈良朝末葉・神護景雲三年(七六九)に、奥州の豪族で安倍(または阿倍)姓を賜わったものが十五人、宝亀三年(七七二)に十三人、四年に一人ある。けだし大彦命の後裔たる阿倍氏の名声が夷地に高かったためであろう。しかしてかの安倍貞任のごときも、これらの多数の安倍姓の中のものかもしれぬ。前九年の役後には、別に屋・仁土呂志・宇曽利あわして三郡の夷人安倍富忠などいう人もあった。かの日本将軍たる安東(秋田)氏のごときも、やはり安倍氏の後なのだ。もしこの安倍館がはたして安倍氏の人の拠った所であったならば、それは貞任ではない他の古い安倍氏かもしれぬ。阿部氏と並んでこの地方に今野氏の多いのもちょっと目に立った。(略)今野はけだし「金氏」であろう。前九年の役のときに気仙郡の郡司金為時が、頼義の命によって頼時を攻めたとある。また帰降者の中にも、金為行・同則行・同経永らの名が見えている。金氏はもと新羅の帰化人で、早くこの夷地にまで移って勢力を得ていたものとみえる。今野あるいは金野・紺野などともあって、やはり阿倍氏の族と称している。その金に、氏と名との間の接続詞たる「ノ」をつけてコンノというので、これは多氏をオオノ、紀氏をキノと呼ぶのと同様である。

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喜田貞吉 きた さだきち
1871-1939(明治4.5.24-昭和14.7.3)
歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。

◇参照:Wikipedia 喜田貞吉、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。

底本:『喜田貞吉著作集 第一二巻 斉東史話・紀行文』平凡社
   1980(昭和55)年8月25日 初版第1刷発行
初出:『社会史研究』第九巻第一、二号
   1923(大正12)年1、2月
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1344.html

NDC 分類:212(日本史/東北地方)
http://yozora.kazumi386.org/2/1/ndc212.html
NDC 分類:915(日本文学/日記.書簡.紀行)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc915.html

難字、求めよ

遠田君雄人 〓 郡領。
山中樵 〓 考古学者か。
古槻
屋 しきや? 人名。
矜憫
進※[#「走+多」、U+8D8D] しんしゅ?
朱寛 人名。
榎樹
奇卓忠梗
州秩
棺歛
布衾
坂上高道 さかのうえの たかみち? 大宿祢。
朝田弓槻

むしとりホイホイ

奥州観跡聞老志 → 奥羽観跡聞老志 【羽】
十貫 → 拾貫 【拾】 じゅっかん。地名。
比国 ?

スリーパーズ日記

 喜田貞吉が出羽庄内と日高見(宮城県仙台平野)を訪ねたのが一九二二(大正一一)の晩秋十一月。東北帝国大学の嘱託講師となったのが大正一三年の九月。個人雑誌『東北文化研究』を発行しはじめたのが一九二八年(昭和三)九月。

 その間、一九二三年(大正一二)九月の関東大震災を小石川東青柳町の自宅にて体験。くわしくは「震災日誌」「震災後記」に記している。うち九月九日に「阿部正己君が、わざわざ震災見舞いに東京へ来られたとて立ち寄られた」と短くある。

 思えば一八九四年(明治二七)に酒田地震があり、死者七三九人を出している。一八七九年生まれの阿部は、それを少年時代に目の当たりにした可能性が高い。酒田の二年後には明治三陸地震がつづく。東北人には、関東在住の親族や知人が多いはずだから、早々に震災後の東京を見舞ったのも理由のないことではないだろう。おそらく膨大な遺著の中には、震災の体験談もあるのかもしれない。後年、『鳥海山史』に詳細な噴火記録をまとめているのもうなずける。

 かたや喜田貞吉は一八七一年(明治三)徳島県那賀郡立江村の出身。 一八五四年の安政南海地震は伝聞でしかなかったろう。歴史地理を研究主題にしながらも、自然災害に関する喜田の著述はあっけないほど少ない。

 一〇年前、七ヶ浜菖蒲田仙台新港へ毎週のように波乗りに行っていたころがある。帰りには多賀城ジャスコ店で腹ごしらえしたり、高砂大橋近くのローソン駐車場で、田園を見ながらモナカアイスを食べた。
 石巻桃生地方も足を踏み入れたことがない。土地勘がないので、今回とくに地図作成に力を入れてみた。

 参考に歴史地図を見て気がついたのは、仙台平野の内陸部に貝塚が多いこと。貝取貝塚青島貝塚長根貝塚。海岸線からゆうに十キロ以上ある。沼地も多い。『日本歴史地名大系・宮城県』(平凡社)で確認すると、淡水系のものばかりでなく、汽水産のシジミや海水産のカキ殻が出土するという。

 北上川をはじめとする河川の氾濫や堆積作用もさることながら、縄文時代初期の温暖なころには、大きなラグーン(潟湖)がひろがっていたと考えていいのかもしれない。あるいは縄文初期ばかりでなく、平安のころまでも、その痕跡は現在以上にとどめていたのでは……と想像する。



10.24 北杜夫、没。84才。
10.26 複数の山形市立中の敷地にて、基準値こえる放射線量を観測。
2011.11.1:公開 玲瓏迷人。
2011.11.5:更新
はらこめし。
目くそ鼻くそ。しだひろし/PoorBook G3'99
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  • 河北新報社の震災記録集によれば、津波は石巻の旧北上川河口を遡上して、鹿又(鹿股、かのまた)あたりまで浸水被害がでたらしい(立ち読みなので、要確認)。仙台新港で7m、荒浜で8m高の津波。 -- しだ (2011-11-02 22:45:00)
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