出羽三山史 第一編

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出羽三山史
[#地から1字上げ]委員 阿部正己

    第一編 出羽國夷征時代

     一 我國山嶽崇拜の根本思想

 人智未だ開けざる時には、天地間の自然現象は不可解なる神靈の力であるとして信仰することは、洋の東西を問はず何れの人種でも一度びはこの道程にあつたことは當然である。即ち天地山川を始めとして萬有悉く神として祭つたので自然萬有崇拜である。この自然崇拜は人智開くるに隨つて漸次消滅しつゝあるが、猶後世に至つても殘存するものあつて、その顯著なるは我國及び支那に於ける山嶽に神又は佛を配祀して崇拜するもの之れである。
 先史時代人種の自然崇拜は最も盛んであつて、今之を述ぶることは略すが、其後有史時代に至り各地方に英雄起りて、附近を征討して一國家を創設した。その國家創成に當りて國民を統制する一方法として舊來の信仰心を利用善導して人心を收攪した、之れが政教一致である。東洋の先進文化國は印度支那であつて、東洋諸國はその啓發を受け、我國は直接支那の文化によりて開發された、依て我國と支那との關係を述ぶるに先立つて、支那開創の信仰状態を見るに、支那開創の伏羲神農の時代は徴すべきもの無いが、堯舜禹の時代に至りて稍々明かになつて來た、その記録は即ち書經である。書經の舜典に天地間の萬象を崇拜して猶自然崇拜が盛んに行はれてゐる。
 (書經舜典)
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肆[#(ニ)]類[#(シ)][#二]于上帝[#(ヲ)][#一] ※[#「示+煙のつくり」、上p2-4][#(シ)][#二]于六宗[#(ヲ)][#一] 望[#(ン)][#二]于山川[#(ヲ)][#一] 編[#(ス)][#二]于群神[#(ヲ)][#一]
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 この字義は肆は遂ぐる意、類※[#「示+煙のつくり」]望編は何れも祭ること、上帝は天、六宗は寒暑日月星水、山川は名山大川、群神は在地の諸神である。
 以上の萬有崇拜の中で山嶽崇拜を最も重視し、國王は一ケ年中期月を定めて四方の山嶽を周りて祭祀を行ふのである。
 (同書)
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歳二月東[#(ニ)]巡守[#(シ)] 至[#二]于岱宗[#一]柴[#(シ)] 望[#二]秩[#(シ)]山川[#一](中略) 五月南[#(ニ)]巡守[#(シ)] 至[#(リ)][#二]于南嶽[#(ニ)][#一] 如[#レ]岱禮[#(シ)] 八月西[#(ニ)]巡守[#(シ)] 至[#(リ)]于西嶽[#(ニ)][#一]如[#(シ)][#レ]初[#(ノ)] 十有一月朔巡守[#(シ)] 至[#(リ)][#二]于北嶽[#(ニ)][#一]如[#レ]西禮[#(シ)] 歸[#二]格[#(シ)]于藝祖[#(ニ)][#一]用[#(フ)][#レ]特[#(ヲ)]
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 岱山は山東省泰山、南嶽は湖南省衡山、西嶽は陜西省華山、北嶽は山西省恒山であつて、國王は一ケ年中月を定めて四方の山に詣りて柴を焚いて祭祀を行ひ、最後に都に還りて先祖の廟に報告し、牲牛を供へて祭典を行ふ。堯舜の時には四嶽の崇拜であるが、周代に至りては河南省の嵩山を加へて五嶽を崇拜した。嵩山は周の都洛陽の近くにありて四嶽の中央である。高山崇拜の理由を檢するに高山は天と關係ありとするよりできたことで、天は萬物を司どり、高山は天に最も近く天の廣大無邊の功徳を受け繼ぎて萬物の生育を司どると信じたのである。五嶽の中でも泰山は東方に在りて萬物の始まり、陰陽の交代、人間の生命の長短を司どり、最も能く天徳を發揮するによりて、一名天孫と唱へ五嶽の長であるとした。
 (周禮春官)
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大宗伯以[#二]血祭[#一]祭[#二]社稷[#一] 五祀《タヒ》[#二]五嶽[#一]
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 (説苑)
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五嶽者何謂也 泰山東嶽也 霍山[#(ハ)]南嶽也 華山[#(ハ)]西嶽也 常山[#(ハ)]北嶽也 嵩高山[#(ハ)]中嶽也 五嶽何以視[#二]三公[#一] 能[#(ク)]大[#(ニ)]布[#二]雲雨[#一]焉 能[#(ク)]大[#(ニ)]歛雲雨[#一]焉 雲觸[#レ]石而出 膚寸而合 不[#二]崇朝[#一]而雨[#二]天下[#一] 施徳博大 故視[#(タクラブル)][#二]三公[#一]也
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 (風俗通)
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東方泰山 詩云泰山巖巖魯邦所[#二]瞻尊[#一] 曰[#二]岱宗[#一] 岱者長也 萬物之始 陰陽交代 雲觸[#レ]石而出 膚寸而合 不[#二]崇朝[#一]而※[#「彳+扁」、第3水準1-84-34][#(ク)]雨[#二]天下[#一] 其惟泰山乎 故爲[#二]五嶽之長[#一]
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 (博物志)
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泰山一曰[#二]天孫[#一] 言爲[#二]天帝孫[#一]也 主召[#二]人魂魄[#一] 東方萬物始成[#(ル)] 知[#二]人生命之長短[#一]
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以上は支那の山嶽崇拜の根本思想であつて、爾後社會の復雜[#「複雜」か]なるに伴つて崇拜觀念も多少の變化を見るだけである。
 我國は古くより支那及び朝鮮と密接なる關係を結び、大陸人種の移住は有史後にも屡々見る所である。之等の人種移動は支那文化を齎らして我國の啓蒙に資し、我國の天孫降臨の古傳説の如きは、支那の天並に高山崇拜に起因するものと思ふ。朝鮮は最も天日崇拜にして人類萬物は皆其所生でありとする。三國の開創を皆天日と關係を結んでゐるのは其根本思想に共通する所あるに依ることである。
 支那古代の山嶽崇拜は自然の山を崇拜したのであつて、山を人格化したもので無い、山靈即ち山ノ神を尊んだのである。我國開創の古傳説として最も尊重されてゐる天孫降臨、即ち天照大神が天孫瓊瓊杵尊を高天原より日向の高千穗峯に降臨せしめられたのは、支那の泰山天孫説の一段の進化にして、天孫と瓊瓊杵等と高千穗峯との天神地の融合である。又日本書紀異本に、伊弉諾尊は軻遇突智命を斬りて五段と爲し、此れ各々化して五|山祗《ノヤマツミ》と成る、首は大山祗、身は中山祗、手は麓山祗《ハヤマツミ》、腰は正勝山祗《マサカツヤマツミ》、足は※[#「酋+隹」、上p4-3]山祗《シキヤマツミ》と爲るとあり、祗《ツミ》とは山ノ神である。之れは天分れて五嶽と爲り、各天の功徳を分け備えたことを暗示したものである。日本書紀は後世に編纂されたのであれば、支那傳來の思想によりて説述されたこと多いと思ふ。

     二 平形の出羽國府と月山神

 出羽國の蝦夷征討に二途ありて、一は置賜村山最上の三郡より雄勝仙北平鹿秋田の四郡に至る仙道筋、他の一は越後より、田川郡、飽海郡、由利郡に至る海道※[#「竹/助」、第3水準1-89-65]である。前者の仙道筋は夷征は陸奧と共に行はれて其起源經過は古くして記紀に見えて居ない、後者の海道筋の夷征は大化年間以後に開始せられ、その經過は記紀に記されてあるから略々明かである。
 越後信濃川以北の夷征は、孝徳天皇大化革新の翌大化三年(皇紀一三〇七)より行はれ、同年十二月渟足柵、同四年磐舟柵を修築して北進した、然るに未だ出羽に進入しない前に當りて、齋明天皇の肅愼遠征の爲めに五十年間出羽の夷征は遷延した。文武天皇二年十二月復たび磐舟柵を修理し、同四年(一三六〇)二月三度び同柵に修理を加へて出羽方面の夷征に着手した。その後八ケ年間は國史に出羽進撃の記事を缺いてあつて、和銅元年(一三六八)九月始めて出羽郡を置いたとあれば、前八年間に王師は磐舟郡より出羽に進撃し柵を立てゝ蝦夷を征し、然る後に出羽郡を置いたのである。同五年九月越後の出羽郡と陸奧國の置賜郡、最上郡(村山郡を含む)とを合せて出羽國と爲し、始めて國守以下の赴任あつた。この最初の出羽郡衙の位置は田川郡古郡で、國府は同郡渡前村平形である。斯くの如く王師は出羽の南端に進入し夷征に着手するに當りて、最初に眼に映じた山嶽は月山であらう。鳥海山も見えたが未だ蝦夷地であれば、敵地の山を崇敬する理は無い。先づ月山を崇拜したことゝ思ふが、記紀には月山の記事は未だ見えぬ。
 記紀所載の各國の山嶽其他の諸神を見るに、多くは何々神とありて宮又は社とあるものは甚だ少ない。されど又所々に七道諸社とあれば單に何々神とあつても神社を有するものもあつたに相違無い。出羽國の記紀所載の神は悉く何々神であつて、何々神社又は何々宮とあるものは全く無い、之について少しく左に私見を述ぶ。
 慶雲和銅年間に始めて出羽郡の蝦夷地に進撃した時に當りて、出羽郡山野は原生林を以て覆はれ道路無く田畠も無く、毛人蝦夷が河湖の岸に集團を爲して住居するのみで、實に荒寥たるものであつた。王師は之等の蝦夷を征討し柵を建て農民を移し、斯くして漸次北進したのである、此時に當りて先づ蝦夷の降伏を祈つたのは月山を外にして他に無いであらう。斯る山嶽崇拜は前に述べた如く上古の支那日本に於ける通有の信仰思想である。この山嶽崇拜は自然崇拜であつて、山靈を神として崇拜した。そこで國守以下月山を月山神として尊崇したことであつて、時々夷狄降伏の祈願祭典を行つたらしいが、月山の山頂に登つて祭典を行つたものとは思はれない。續日本後紀天平元年(一三八九)八月諸國天神地祇者宜[#下]令[#中二]長官[#一]致[#上レ]祭、若有[#二]限外應[#レ]祭山川[#一]者聽[#レ]祭 とありて、月山神も天神地祗の一つであつて長官即ち國守の主祭である。殊に出羽の如く蝦夷降伏を月山神に祈願するに當りては國守の主祭たるべきは當然である。國守が天神地祗を祭るに如何にして祭つたかといふに、國府の郊外に祭壇を設けて國内の山川を神として祭つた、月山神を祭るも同じであつて、山が神であれば神像も御靈代も無く、隨つて社殿も無かつた、遙かに月山に向つて祈願を爲したのである。記紀に載つてゐる出羽國の諸神は何々神とありて神社とあるものは一つも無いのを見るに、悉く天神地祗であつて人格の神では無いから神像を安置する社殿は無いので、隨つて神社と云はなかつたであらう。
 我が國で神社を建つることゝなつた所以を考ふるに、天神地祗を祭る自然崇拜には社殿の必要は無いと思はるゝが、神器の八咫鏡を奉安した倭笠縫又伊勢神宮は社殿の必要がある。又我國神代の諸神を祭るにも御靈代を安置する神社を建てた。然るに出羽國の初期の神々は神代の神は一切無く、悉く名山大川温泉などで自然崇拜である。自然の山或は川などを神体としたのであれば之に向つて崇拜すれば能いので、靈代の必要なく社殿の必要も無いことである。記紀に見ゆる出羽國の神は月山神・大物忌神・白磐神・酢川温泉神・矢向神は皆山川温泉であり高泉神は瀧である。又城輪神は出羽柵の柵を神としたらしい。
 次に延喜式所載の神名を見るも、以上の外に小物忌神社・伊※[#「氏/一」、第3水準1-86-47]波神社・波宇志別神社は山で、由豆佐賣神社・鹽湯産神社は温泉、副川神社は川、遠賀神社は明かで無いが山らしい。延喜式に神社となつたことについては後に述ふるが、最初は皆神とありて神社は無かつたものである。
 和銅五年始めて國府を平形に置かれた後ち、同七年(一三七四)閏六月戊寅詔曰頃者陰陽殊謬氣序乖違、南畝方興膏澤未[#レ]降、百姓田囿徃損傷、宜[#下]以[#二]幣帛[#一]奉[#二]諸社[#一]祈[#中レ]雨于名山大川[#上]、庶致嘉※[#「澎」の彡にかえて「寸」、第3水準1-87-17]勿[#レ]虧[#二]農桑[#一]とあり、又靈龜元年(一三七五)六月癸亥詔遣[#レ]使奉[#二]幣帛于諸社祈[#二レ]兩于名山大川[#一]、於[#レ]是未[#レ]經[#二]數日[#一]※[#「澎」の彡にかえて「寸」、第3水準1-87-17]兩滂沱、時人以爲[#二]聖徳感通所[#一レ]致焉とあり、之が出羽國府創設後の詔に據る諸社名山大川の奉幣奠祭の初めである。此頃出羽には神社は無いのであれば、名山大川に對して祭祀を行つたであらう。蝦夷地の名山大川を祭る理無ければ河南の田川郡内に限られたと思はれるが、國守は月山其他の山に登ることはできないことで、國府郡府附近の外は道路も無く蝦夷野獸は近地に横行して居つたであらう。依て國守は國府の郊外に祭壇を設けて主として月山に向つて奉幣奠祭を行つた、此郊祭を行つた所が即ち渡前村上藤嶋六所神社の地である。此地は平形國府址より十一二町の南々東方にて藤嶋川の西岸に在り、月山を名山とし藤嶋川を大川と爲して、其岸に祭壇を築き祈雨の祭りを行つたらしい。恰かも此六所神社の地は平形國府址と月山々頂とが一直線上にあることは最も注意を要する所である。現在の六所神社は南向きに立つてゐるが後世の建立であり、其位置も川缺の爲めに多少異動した。徃時の祭壇と六所神社の關係は後に述ぶることゝする。神武紀に天皇は大和の丹生川の上りに天神地祗を祭り多くの平瓮嚴瓮を造つて之に供物を入れて供へ、又嚴瓮を丹生川に沈めたとあり、朝廷ではこの神武紀の故事に倣つて諸國をして名山大川を祭らしめたものである。上藤嶋の六所神社に先年藤嶋川缺壞の時に地中より出た祝瓮の小壺を所藏してある。之は徃時の祭器であらう。神武天皇の丹生川の上りにて天神地祗を祭つたのは、社殿を建てたもので無いので祭場を設けた郊祭であつたに相違無い。之れが後に丹生川上神社となり祭神も後ちに定められた。
 上藤嶋の名山大川を祭つた祭壇又祭場は其後に至りて祈雨又は夷敵攘伏の祗祭を詔によりて行ひ、河北の蝦夷討伐も追々北進して由利秋田に移れば、大物忌神を始めとして其他の名山、大川をも合せて此祭壇にて祭ることゝなつたであらう。斯くの如く長い間に屡々同一祭壇にて祭事を行ふことゝなれば祭壇の上に屋蓋の必要ができ、後ちには社殿の建立となつた。之が總社又は六所神社の起原である。然るに總社又六所の名稱のできたのは何時であるかは頗る明かでないのである。記紀には之等の名稱が無ければ此頃には此名稱は無いのであり、又總社とか六所神社は國守主祭の重大なる神社であるならば、延喜式に載せられる筈であるに、之にも無い、依て案ずるに祭壇に社殿を建てたのは國府時代であらうが、之に祭神を安置して神社としたのは藤原期であらう。總社或は六所社の名稱は加賀の白山記東鑑に載つてゐるのが最古である。
 平形國府は天平中に詔によりて國分寺を建てた、其位置は下平形の南郊である。國府とは下平形部落を挾んで五六町を隔てゝゐる。國分寺は國守主管の祈祷所で華美を盡くした壯麗なる建築で、之に本尊佛を始めとして諸佛像を安置し、之に對して夷狄降伏を始めとして盛大に祈祷を行ふことゝなつた。又秋田の出羽柵にも四天王寺を建てた。之に伴つて所々に寺院の建立を見たことであらう。然るに此國の神は悉く名山大川であつて神社は無く單に祭壇を設けて郊祭を行ふに過ぎなかつた。其神は名山大川であれば神像も無く靈代も無く簡素なものであつた。そこで國分寺其他の佛寺に刺戟を受けて郊祭の祭壇に社殿が無くしては權衡が取れぬことゝなつたであらう。國守主祭の祈願に佛寺では壯麗なる寺院にて行ひ、神祭には野外の屋蓋も無い所で行ふに當りては、風雨などの恐れもありて、權衡を失ふことは當然である。依て郊祭にも社殿を造ることゝなり、又國内平定し漸次移民増加するに及びて各地の名山大川の神にも社殿を建立することゝなつたであらう。されど月山神とか大物忌神とかの高山では山上に登ることは勿論山頂に神社を建てることもできない。又國守は各神各社を廻ることできないから、藤嶋川の上りの祭場にて各神の奠祭を行つた。斯く國内各地の神を祭ることゝなれば、各神に代るべき靈代の如きものを安置して、之に對して祭事を行ふことも必然に起つたであらう。
 我國天平中に至りて諸國の神社並に佛寺は漸く整備したものゝ如く、朝延[#「朝廷」か]にて祈雨其他の祈祷は七道諸社又は國分寺などに行はしめ、天神地祗又は名山大川に祈祭を行はしめたことが天平の初め頃より記紀に見え無いことになつた。天平九年五月詔して疫旱行はるに付山川を祈祷し神祗を奠祭せしめたのが最後で無いかと思ふ。其後は多く七道諸社に行はしめてゐる。斯く各國では七道諸社に祭事を行はしむるに當りても、出羽國守は藤嶋川の上《ホト》りの祭場にて行つたので、寶龜六年の遷府まで續いたであらう。
 國府が河北に移轉後の藤嶋川岸の祭場は如何になつたかを檢討するに、此祭場は平形國府六十餘年間の國守主祭の靈場であつて、最初には河南の山川即ち月山神其他を祭り、次第に河北の大物忌神其他の神をも合せて祭つた。然るに此二郡内の國史所載の神と延喜式所載の神社を合すれば八神となる。其中にて六神が延喜式神名帳に載せられてあれば、神名帳に載つてゐる神社は官社と云ふべきものであらう。藤嶋川上の祭場に後世神社を建てゝ六所神社と云つてゐる。其祭神は社記によるに二説ありて、一は國常立尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊・素盞嗚尊・大已貴命・事代主神の神代六神、二は大物忌神社・遠賀神社・由豆佐賣神社・伊※[#「氏/一」、第3水準1-86-47]波神社・月山神社の六社とした。二説の六社は延喜式所載出羽國九社の内田川・飽海二郡以外の神社を除いたものである。六所神社の創建は何處とも年代不明であつて、皆國府の附近に國分寺と共に必ず鎭座し、之を總社とも云つてゐる。各國の六所神社の祭神も神代六神もあり、又國内六神又は數神の所もある。此總社及び六所社は記紀又は延喜式には一切見えぬ神社であれば、其後に甞て天神地祗又は國内諸神を祭つた祭場跡に神社を建てゝ總社又は六所神社と唱へたもので、各國一樣に總社又六所神社と唱ふるを見るに藤原期に朝廷にて唱へしめたものであらう。常陸小田系圖及び寛永日記に「嵯峨天皇之時代ヨリ於諸國五月五日敕國司等天神地祗六神ノ祭禮アリ (中略) 中古以來ハ於國々ハ天神地祗六神ヲソノ國ノ府中ニ一所ニ勸請申號總社并八幡宮ヲ勸請シテ號府ノ八幡今猶國々ニ總社アリ八幡アリ」とあり、藤嶋川上の六所神社々記には同社の創建を延暦十三年又は同十八年としてゐるのは、出羽國府の遷つてからで、小田系圖寛永日記の記事と年代を同じくするのである。然れども著者の私見では國守司祭の神社を記紀又は延喜式に載せないことは不合理であつて、延喜以後にできた神社であらうと思ふのである。
 藤嶋川上の六所神社は總社とは云つてゐない、出羽風土略記には六所權現とあつて「藤嶋の村はづれ橋をわたりて西にあり、或人の云、大物忌・月山・小物忌・遠賀・由豆佐比※[#「口+羊」、第3水準1-15-1]・伊※[#「氏/一」、第3水準1-86-47]波の六所也といふ。又一説に鹽釜六所は陸奧鹽竈神社であつて、古くは六所大明神と呼び陸奧國府の六所社であるとのことである。其祭神は神代の武甕槌神經津主神である。藤嶋川上の六所神社を總社であると判定したのは鶴岡國學者照井長柄にして、其著五百津※[#「金+且」、第3水準1-93-12]安政六年に和訓栞の古者國府必建[#二]總社[#一]有[#レ]事[#二]于國内官社[#一]則國司率[#二]僚屬[#一]先修[#二]典禮於此[#一]其儀如[#二]京師神祗官[#一] とあるを引用して總社であるとし、國府は藤嶋なる可しと思ふと述べてゐる。藤嶋を國府とするは誤りであつて其對岸の平形が國府である。藤嶋は南北朝の時に吉野朝方の國府であつた。羽黒山の末社に六所神社ありて諸神集合の靈場としてゐるのは後ちの建造で同一視すべきもので無い。

     三 月山神社大物忌神社を飽海郡吹浦に建つ

 平形國府は寶龜六年(一四三五)河北に移つた、其位置は飽海郡上田村中吉田字井口である。依て平形に國府の在つた期間は六十三年である。國分寺も間も無く河北に移され、藤嶋川上の祭場も河北に別に設置されたのであらうが明かでない。國府の河北移轉後約三十年を經て井口に永久的の國府廳舍を建て、秋田城を移して秋田郡府としたのは延暦二十三年であって。[#「。」は「、」か]此頃には蝦夷は秋田の北端に至るまで平定した。隨つて出羽國の民治の見るべきものあるは之れからであつて、神佛に關する記事の見へたのも延暦以降である。佛教では天長七年(一四九〇)一月秋田四天王寺地震の爲め大破したのが初見であり。[#「。」は「、」か]神道では承和五年(一四九八)六月大物忌神が正五位下を授けられたのが初見で、月山神は之より二十六年後の貞觀六年(一五二四)二月從三位を授けられたのが初見である。其後は神佛に關する記事が多く見へた。國分寺は城輪の出羽柵跡に遷され圓柱古瓦を出してゐる所は其跡である。其東方一里の一條村八幡神社は其祭禮日記を見るに總社のやうな行事を行つてゐる。同八幡社の末社に六所神社ありて神代六神を祭神としてゐる。
 左に陸奧出羽二國の山嶽神の授位を掲く、
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承和五年六月丁卯奉[#レ]授[#二]出羽國從五位上勳五等大物忌神正五位下[#一]餘如[#レ]故 (續日本後紀)
同 七年七月巳亥奉[#レ]授[#二]出羽國飽海郡正五位下勳五等大物忌神從四位下[#一]餘如[#レ]故兼宛[#二]神封二戸[#一] (同上)
同 十一年八月丁酉奉授陸奧國無位勳九等刈田嶺神無位鼻節神並從五位下縁[#レ]有靈驗也 (同上)
嘉祥元年五月辛未奉[#レ]授[#二]陸奧國從五位下勳九等刈田嶺名神正五位下[#一]餘如[#レ]故 (同上)
貞觀四年十一月乙丑奏詔以[#二]出羽國正四位上勳五等大物忌神[#一]預[#二]之官社[#一] (三代實録)
同 六年二月五日壬戌授[#二]出羽國正四位上勳六等月山神從三位 正四位下勳五等大物忌神正四位上[#一] (同上)
同  年十一月五日壬子授[#二]出羽國正四位上勳五等大物忌神從三位[#一] (同上)
同 十三年五月十六日辛酉先[#レ]是出羽國司言從三位勳五等大物忌神社在[#二]飽海郡山上[#一]巖石壁立人跡稀致夏冬戴雪禿無草木去四月八日山上有火燒土石又有聲如雷自山所出之河泥水溢其色青黒臭氣充滿人不堪聞 (下略)(同上)
同 十五年四月五日巳卯授[#二]出羽國從三位勳五等大物忌神正三位[#一] (同上)
同 十八年八月二日丙午授[#二]出羽國從三位勳六等月山神正三位[#一] (同上)
元慶二年七月十日癸卯出羽國正三位勳五等大物忌神正三位勳六等月山神並益封各二戸與[#レ]本并各四戸毎[#レ]發[#二]軍使[#一]國司祈祷故有[#二]此加増[#一]也 (同上)
元慶二年八月四日丁卯 是日彼國正三位勳五等大物忌神進勳三等正三位勳六等月山神四等從五位下勳九等小物忌神七等
同 四年二月廿七日辛亥出羽國正三位勳四等月山神正三位勳三等大物忌神並授從二位從五位下勳七等小物忌神城輪神並從五位上
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 以上は記紀四十三年間に於ける山嶽神の位階陛進にして、最初の承和五年六月には從五位上勳五等大物忌神を正五位下に陛せ餘は故の如しとあるを見るに、大物忌神は之より先きに授位あつたのであるが、記紀に漏れたものである。次に餘如故は大物忌神以外の山嶽其の他の神は位階元の如くであるといふ義にして、其他の神々も前に位階を授けられたが、記録に漏れた。其他の神々は何んであるかといふに、月山神は其一である。元慶二年七月大物忌神・月山神に二戸の神領を寄進し、前の二戸と合せて四戸となつた。大物忌神の始めて二戸を寄進されたのは承和七年七月にして、月山神の初封は記紀に漏れた。四戸とは百姓四戸と田であるが、大寶令によれば一戸の課田は其家族の數と老幼によりて差あれば、四戸の神領の高は明かで無い。然るに天平十九年五月の太政官奏によれば、一戸は正丁五六人中男一人を以て率と爲し男一人は二段、中男は其半分位であるらしい。仁和元年には正丁四段、中男二段とあり、之によれば一戸の班田は二町半位であつて四戸の神領は約十町位で神領は不輸租である。神戸《かんべ》は年貢を納むる外に社殿の修造其他の雜事に封丁を出した。次に元慶四年二月從五位下勳七等小物忌神・同城輪神を從五位に陛せたのを見るに之より前に授位あつたのである。此地方の夷征は最初に越後より田川郡に行はれたのであれば、月山神は最も早く授位あつたことゝ思ふ。或は國府が田川郡平形に置いた後に數次の授位あつたかも知れぬ。次に月山神の始めて記紀に見えたのは貞觀六年であつて、正四位上勳六等月山神を從三位に、正四位下勳五等大物忌神を正四位上に陛せた。此時には月山神は大物忌神より一級の上位であつた。之れは夷征が南方より行はれて最初に月山神の授位あつた證據であつて、大物忌神の授位は月山神より後ちであることは當然であらう。然るに大物忌神は飽海郡の北邊に聳へ且つ時々噴火鳴動する。この噴火鳴動は山の神が世の變亂を豫め知りて憤りを發するものであると國人は信じた。恰かも蝦夷は北方に於て屡々叛亂を爲すので、國守は屡々大物忌神に祭祀を行つて夷亂の鎭靜を祈願し、又位階の陛進を朝廷に奏請したことは記紀に見える。月山は噴火してゐないが始めて王師が田川郡の平野に進撃した時には、屡々蝦夷平定の祈願を爲して奇驗あつたことは、三代實録元慶二年八月四日の條に明かである。其原文は後に抄録する。依て月山神は出羽國夷征の始めより尊崇授位されたものであるが、記紀に漏れて記事が無いのであらう。
 國府は南より北に移つたのが、其舊新國府の距離は五里以内であつて、國府を挾んで南に月ノ山、北に大物忌の山聳え、月の山は平和の神であり大物忌神は荒らぶる神で、殊に大物忌神は蝦夷地の方向にあれば漸次位階の昇つた所以である。延喜式に出羽國九社の中大物忌神社と月山神社を大社とした理由も自ら分明するであらう。
 元慶仁和の頃に至りて月山神を飽海郡に移した。之れは三代實録並に延喜式に記載されてあるので明かである。其事實は後に述ぶることゝして、先づ何故に何時頃田川郡月山神を飽海郡に移したかを檢討するに、記紀には田川郡月山神とは無くして單に出羽國月山神とあるばかりであるが、月山は田川郡であることは疑ふ餘地の無いことである。元慶二年の秋田蝦夷の叛亂は陸奧出羽に於ける最後の大反亂にして、同年三月秋田城郡衙民家等悉く燒き拂はれ、城司以下は御物川を渡りて辛うじて遁れた。是に於て陸奧出羽の兵を發して討伐せんとしたるも賊勢盛んにして當ることできない。朝廷では小野春風を陸奧鎭守將軍に任して赴援せしめたが、官軍畏懦逃亡した。この報朝廷に達したれば六月二十八日詔して大元帥法阿闍梨傳燈大法師位寵壽を出羽國に遣はし、七僧を率ひて降賊法を修せしめた。この降賊法は保護國家の大修法であつて、國分寺か或は吹浦兩所神宮寺にて盛大に行つたであらう。次に七月十日正三位勳五等大物忌神・正三位勳六等月山神に各封二戸を増加し、各四戸となつたことは前に述べた。そこで大物忌神・月山神は同國内の諸神中の大神であつて、同年三月來の大夷亂には國守は二神に降賊の祈願を屡々行ひ、軍使を發する毎に國司祈祷を行ふが故に此の加増あつたのである。八月四日正三位勳五等大物忌神を勳三等、正二位勳六等月山神を勳四等、從五位下勳九等小物忌神を勳七等に進め、大物忌神月山神は古より征戰に方り奇驗を表はした。
 (三代實録)
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元慶二年八月四日 (中略) 是日彼國正三位勳五等大物忌神進勳三等 正二位勳六等月山神四等 從五位下勳九等小物忌神七等 先是右中辨兼權守藤原朝臣保則奏言此二神自[#二]上古時[#一]方有[#二]征戰[#一]標[#二]奇驗[#一] 去五月賊徒襲來挑[#二]戰官軍[#一] 當[#二]此之時[#一]雲霧晦合對坐不[#二]相見[#一] 營中擾亂官軍敗績 求[#二レ]之耆龜[#一]神氣歸[#レ]賊 我祈無[#レ]感 増[#二]其爵級必有靈應[#一] 國宰齋戒祈請慇懃望請加進位階將[#二]答神聖[#一] 仍増[#二]此等級[#一]
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 之によれば月山神は大物忌神と共に出羽國夷征の初めより降賊を祈願したことを知るに足るものであつて、隨つて之迄屡々授位あつたことも推知される。依て元慶二年の大夷亂には特に此二神に降賊を祈願した所以である。然るに月山神は國府の南方に聳へ、大物忌神の北方は即ち秋田の夷亂強盛であれば、月山神社・大物忌神社を飽海郡吹浦に建立して國守の戰勝祈願に便にした、之が兩神の神社を建てた最初であらう。此兩社は大物忌神即ち鳥海山の西麓には相違ないが、鳥海山を背景としたもので無い、兩社は月山の西麓に正しく南向きに建てられ、鳥海山は兩社の東側方に聳へてゐる。之を見るに兩社は秋田夷狄の方向に建てゝ、國守は之に向つて夷狄降伏を祈つたものである。十月に至りて秋田蝦夷は平定し津輕及び渡嶋蝦夷までも來降した。隨つて兩神社の崇敬は益々盛んとなつたであらう。
 斯くの如く吹浦大物忌神社は秋田夷狄の方向に建てられたものであるが、若しも大物忌神即ち鳥海山を祭神として、之に對して建てられたものとせば、恰かも大和の三輪神社の如く樹木繁れる山を祭神とし其前に拜殿を建てたのと同し形式でなければならぬ。之とは全然形式を異にして月山神社と共に秋田の方向に對して建てられたのである。然る時は兩神社には祭神は何を安置したか、又吹浦に神宮寺を建立したのも此頃にして、延喜式に神宮寺科一千束とあれば國守の祈祷所であつて、主として兩神社と共に秋田夷狄の降伏を祈つたらしい。そこで神宮寺には大物忌・月山兩神社の本地佛を安置して之に向つて祈祷を行つたので、大物忌神の本地佛は藥師、月山神の本地佛は阿彌陀である。依て兩神社でも何かを安置して靈代としたであらう。或は佛寺に傚つて神像を安置したかといふに、天然の山が祭神であれば神像あるべき理けが無い。又後世の如く勸請とか分靈とかいふ名稱は無いと思ふが、兩山の神靈を兩神社に遷したもので無いかと思ふ。或は又本地佛を安置したでは無いかの疑も濃厚に存在することである。
 以上は田川郡の月山神社を飽海郡に建てた年代や其理由について私見を述べたのであるが、記紀には仁和元年(一五四五)十一月の條に飽海郡大物忌神月山神田川郡由豆佐乃賣神とあるのが最初である。
 (三代實録)
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仁和元年十一月廿一日辛丑去六月二十一日出羽國秋田城中及飽海郡神宮寺西濱雨石[#二]鏃[#一] 陰陽寮言當有[#二]凶狄陰謀兵亂之事[#一] 神砥官[#「神祇官」か]言 彼國飽海郡大物忌神月山神田川郡由豆佐乃賣神倶成[#二]此怪[#一] 崇在[#二]不敬[#一] 敕令[#下]國宰恭[#二]祀諸神[#一]兼愼警[#上]
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 この時には既に月山神社は飽海郡に建てられてあれば、その建立した時期は之より前元慶二年の大夷亂の時であらう。石鏃は先住民の使用した利器であつて、先住民の住居跡に發見せらる。その住居した所は多く平野又河川に臨んだ丘陵の上であつて、後世神社は多く此地に建てられた。吹浦の大物忌神月山神の社殿のあつた所にも石鏃を出した。兩社の位置は山上でないことは之れを見ても明かである。次に飽海郡神宮寺の西濱にも石鏃を雨ふらしたとあるは、吹浦村の東部の臺地を神宮寺山と唱へ、その西濱とは飽海郡の海濱であつて、石鏃を後世にも多く出した所である。この神宮寺は神佛習合の結果佛教を以て神に奉仕する爲めにできた寺院であつて、吹浦の神宮寺は同地の大物忌神・月山神の佛寺で、之も元慶二年の大夷亂に建てられたらしいことは前にも述べた。此頃に至つては本地垂跡の盛んな時であれば、神宮寺では大物忌神並に月山神の本地佛を安置して、秋田夷亂の鎭定を最初に祈つたであらう。猶出羽國に於ける兩部習合については後編に述ぶ。
 記紀の月山神に關する記事は、前記の三代實録仁和元年(一五四五)十一月を以て最終とする。次に正史に見えたのは延長五年(一五八七)十二月完成した延喜式である。
 (延喜式)
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  神祗  第三
大物忌神社一座  月山神社一座 己上出羽國
  神名帳下
出羽國九社 〈大二座/小七座〉
飽海郡三座 〈大二座/小一座〉
  大物忌神社 〈名神/大〉  小物忌神社  月山神社 〈名神/大〉
田川郡三座 〈並/小〉
  遠賀神社  由豆佐賣神社  伊弖波神社
平鹿郡一座 〈並/小〉
  鹽湯彦神社  波宇志別神社
 山本郡
   副川神社
主税 上
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出羽國正税 廿萬束  公廨 卅四萬束  月山大物忌神祭料 二千束  文殊會料 二千束  四天王修法僧供養并法服料 二千六百八十束  神宮寺料 一千束  五大尊常燈節供料 五千三百束 (以下略)
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 之を見るに、大物忌神社月山神社は飽海郡に在つて、主税式の祭料二千束は兩社を合併してあるのを見るも、同一地に在ることが明瞭である。九社の中兩社は大社二座であつて、他の神社は小社である。大社には神領四戸づつあつて更に祭料二千束とあれば、主として國守の祈願する所で、同一地で且つ國府に近い所にあるを便とした。吹浦兩所宮は井口國府を距る北方二里に在り、次に神宮寺も吹浦に在つて、延喜式に神宮寺料一千束とあれば、兩神社と同じく國守の兩山神に對する祈祷寺である。神宮寺の位置は吹浦東方臺地上で直に大物忌神山の麓で、南方には月山を望み、寺内に本地佛即ち大物忌神の本地佛は藥師、月山神の本地佛は阿彌陀を安置し、この本地佛に祈祷を行つたもので、兩神社とは別に行はれたと思ふ。
 延喜式の諸社は中世亂れて、延喜の制度は廢頽したれば、後世には其所在位置も不明のもの多い。出羽國の神社を見るに、大物忌神社と月山神社だけは明かであるが、其他七社は皆異論がある。



2010.7.31:更新 編集モードを変更、カウンタを設置。
しだひろし/PoorBook G3'99
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