現代語訳 古事記(四)txt

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現代語訳 古事記(四) 

稗田の阿礼、太の安万侶
武田祐吉(訳)

 古事記 中の巻

   五、景行(けいこう)天皇・成務(せいむ)天皇

    景行天皇の后妃(こうひ)と皇子女

 オオタラシ彦オシロワケの天皇(景行天皇)、大和の纏向(まきむく)の日代(ひしろ)の宮においでになって天下をお治(おさ)めなさいました。この天皇、吉備(きび)の臣らの祖先のワカタケキビツ彦の娘の播磨(はりま)のイナビの大郎女(おおいらつめ)と結婚してお生みになった御子(みこ)は、クシツノワケの王・オオウスの命・オウスの命またの名はヤマトオグナの命・ヤマトネコの命・カムクシの王の五王です。ヤサカノイリ彦の命の娘ヤサカノイリ姫の命と結婚してお生みになった御子(みこ)は、ワカタラシ彦の命・イオキノイリ彦の命・オシワケの命・イオキノイリ姫の命です。またの妾(みめ)の御子(みこ)は、トヨトワケの王・ヌナシロの郎女(いらつめ)、またの妾(みめ)の御子(みこ)は、ヌナキの郎女(いらつめ)・カグヨリ姫の命・ワカキノイリ彦の王・キビノエ彦の王・タカギ姫の命・オト姫の命です。また日向(ひむか)のミハカシ姫と結婚してお生みになった御子(みこ)は、トヨクニワケの王(みこ)です。またイナビの大郎女(おおいらつめ)の妹、イナビの若郎女(わかいらつめ)と結婚してお生みになった御子(みこ)は、マワカの王・ヒコヒトノオオエの王です。またヤマトタケルの命の曾孫(ひまご)のスメイロオオナカツ彦の王の娘のカグロ姫と結婚してお生みになった御子(みこ)は、オオエの王です。すべて天皇の御子(みこ)たちは、記したのは二十一王、記さないのは五十九王、あわせて八十の御子(みこ)がおいでになりました中に、ワカタラシ彦の命とヤマトタケルの命とイオキノイリ彦の命と、このお三方は、皇太子と申す御名を負(お)われ、他の七十七王はことごとく諸国の国の造(みやつこ)・別(わけ)・稲置(いなき)・県主(あがたぬし)などとしてお分(わ)けあそばされました。そこでワカタラシ彦の命〔成務天皇。〕は天下をお治(おさ)めなさいました。オウスの命は東西の乱暴な神、また服従しない人たちを平定あそばされました。つぎにクシツノワケの王は、茨田の下の連らの祖先です。つぎにオオウスの命は、守の君・太田の君・島田の君の祖先です。つぎにカムクシの王は木の国の酒部の阿比古・宇陀の酒部の祖先です。つぎにトヨクニワケの王(みこ)は、日向の国の造の祖先です。
 ここに天皇は、三野(みの)の国の造の祖先のオオネの王の娘の兄姫(えひめ)・弟姫(おとひめ)の二人の嬢子(おとめ)が美しいということをお聞きになって、その御子(みこ)のオオウスの命を遣(つか)わして、お召(め)しになりました。しかるにその遣(つか)わされたオオウスの命が召しあげないで、自分がその二人の嬢子(おとめ)と結婚して、さらに別の娘を求めて、その嬢子(おとめ)だと偽(いつわ)ってたてまつりました。そこで天皇は、それが別の娘であることをお知りになって、いつも見守らせるだけで、結婚をしないで苦しめられました。それでそのオオウスの命が兄姫(えひめ)と結婚して生んだ子がオシクロのエ彦の王で、これは三野の宇泥須(うねす)の別の祖先です。また弟姫(おとひめ)と結婚して生んだ子は、オシクロのオト彦の王で、これは牟宜都(むげつ)の君らの祖先です。この御世(みよ)に田部(たべ)をお定めになり、また東国の安房の水門(みなと)をお定めになり、また膳(かしわで)の大伴部(おおともべ)をお定めになり、また大和の役所をお定めになり、また坂手(さかて)の池を作ってその堤に竹を植えさせなさいました。

    ヤマトタケルの命の西征

——英雄ヤマトタケルの命(みこと)の物語ははじまる。劇的な構成に注意。——

 天皇がオウスの命におおせられるには「お前の兄はどうして朝夕のお食事に出てこないのだ? お前が引き受けて教え申せ」とおおせられました。かようにおおせられて五日たってもやはり出て来ませんでした。そこで、天皇がオウスの命におたずねになるには「どうしてお前の兄がながい間出てこないのだ? もしやまだ教えないのか?」とおたずねになったので、お答えしていうには「もう教えました」と申しました。また「どのように教えたのか?」とおおせられましたので、お答えして「朝早く厠(かわや)にお入りになったときに、待っていてつかまえてつかみひしいで、手足を折(お)って薦(こも)につつんで投げすてました」と申しました。
 そこで天皇は、その御子(みこ)の乱暴な心をおそれておおせられるには「西の方にクマソタケル二人がある。これが服従しない無礼の人たちだ。だからその人たちを殺せ」とおおせられました。この時に、その御髪(おぐし)を額で結(ゆ)っておいでになりました。そこでオウスの命は、叔母(おば)さまのヤマト姫の命のお衣装(いしょう)をいただき、剣を懐(ふところ)に入れておいでになりました。そこでクマソタケルの家に行ってご覧になりますと、その家のあたりに、軍隊が三重に囲んで守り、室(むろ)を作っていました。そこで新築の祝いをしようと言い騒いで、食物を準備しました。よってその近所を歩いて宴会(えんかい)をする日を待っておいでになりました。いよいよ宴会の日になって、結(ゆ)っておいでになる髪を嬢子(おとめ)の髪のように梳(けず)り下げ、叔母さまのお衣装をお着(つ)けになって嬢子(おとめ)の姿になって女どもの中にまじり立って、その室の中にお入りになりました。ここにクマソタケルの兄弟二人が、その嬢子(おとめ)を見て感心して、自分たちの中にいさせて盛んに遊んでおりました。その宴(うたげ)の盛んになったときに、命(みこと)は懐(ふところ)から剣を出し、クマソタケルの衣の襟(えり)を取って剣をもってその胸からお刺(さ)し通しあそばされるときに、その弟のタケルが見ておそれて逃げ出しました。そこでその室の階段のもとに追って行って、背の皮をつかんでうしろから剣で刺し通しました。ここにそのクマソタケルが申しますには、「そのお刀をお動かしあそばしますな。申し上げることがございます」と言いました。そこでしばらく押し伏(ふ)せておいでになりました。「あなた様(さま)はどなたでいらっしゃいますか?」と申しましたから、「わたしは纏向(まきむく)の日代(ひしろ)の宮においであそばされて天下をお治(おさ)めなされるオオタラシ彦オシロワケの天皇の御子(みこ)のヤマトオグナの王という者だ。お前たちクマソタケル二人が服従しないで無礼だとお聞きなされて、征伐(せいばつ)せよとおおせになって、お遣(つか)わしになったのだ」とおおせられました。そこでそのクマソタケルが、「ほんとうにそうでございましょう。西の方にわれわれ二人を除いては武勇の人間はありません。しかるに大和の国にはわれわれにまさった強い方がおいでになったのです。それではお名前を献上いたしましょう。今からはヤマトタケルの御子(みこ)と申されるがよい」と申しました。かように申し終わって、熟した瓜(うり)を裂くように裂き殺しておしまいになりました。その時からお名前をヤマトタケルの命(みこと)と申し上げるのです。そうして帰っておいでになったときに、山の神・河の神、また海峡の神をみな平定して都にお上(のぼ)りになりました。

    イヅモタケル

——『日本書紀』では、全然ヤマトタケルの命と関係のない物語になっている。種々の物語がこの英雄のこととして結びついてゆく。——

 そこで出雲の国にお入りになって、そのイヅモタケルを撃(う)とうとお思いになって、おいでになって、交りをお結びになりました。まずひそかに赤梼(いちいのき)で刀の形を作ってこれをお佩(お)びになり、イヅモタケルとともに肥(ひ)の河に水浴をなさいました。そこでヤマトタケルの命が河からまずおあがりになって、イヅモタケルが解(と)いておいた大刀(たち)をお佩(は)きになって、「大刀(たち)を換(か)えよう」とおおせられました。そこで後からイヅモタケルが河からあがって、ヤマトタケルの命の大刀(たち)を佩(は)きました。ここでヤマトタケルの命が、「さあ大刀(たち)を合わせよう」と挑(いど)まれましたので、おのおの大刀(たち)を抜くときに、イヅモタケルは大刀(たち)を抜き得ず、ヤマトタケルの命は大刀(たち)を抜いてイヅモタケルを打ち殺されました。そこでお詠(よ)みになった歌、

雲(くも)のむらがり立つ出雲(いづも)のタケルが腰にした大刀(たち)は、
蔓(つる)をたくさんまいて刀の身がなくて、気のどくだ。

 かように平定して、朝廷に帰ってご返事申し上げました。

    ヤマトタケルの命の東征

——諸氏の物語が結合したと見えるが、よくまとまって、美しい物語になっている。——

 ここに天皇は、また続いてヤマトタケルの命(みこと)に、「東の方の諸国の悪い神や従わない人たちを平定せよ」とおおせになって、吉備(きび)の臣らの祖先のミスキトモミミタケ彦という人を副(そ)えておつかわしになった時に、ヒイラギの長い矛(ほこ)をたまわりました。よってご命令を受けておいでになったときに、伊勢の神宮に参拝して、そこに奉仕しておいでになった叔母さまのヤマト姫の命(みこと)に申されるには、「父上はわたくしを死ねと思っていらっしゃるのでしょうか? どうして西の方の従わない人たちを征伐(せいばつ)におつかわしになって、帰ってまいりましてまだ間もないのに、軍卒(ぐんそつ)もくださらないで、さらに東方諸国の悪い人たちを征伐するためにおつかわしになるのでしょう? こういうことによって思えば、やはりわたくしを早く死ねと思っておいでになるのです」と申して、心憂(こころう)く思って泣いてお出ましになるときに、ヤマト姫の命(みこと)が、草薙(くさなぎ)の剣(つるぎ)をお授(さず)けになり、また袋(ふくろ)をお授けになって、「もし急のことがあったなら、この袋の口をおあけなさい」とおおせられました。
 かくて尾張の国においでになって、尾張の国の造(みやつこ)の祖先のミヤズ姫の家へお入りになりました。そこで結婚なされようとお思いになりましたけれども、また帰ってきた時にしようとお思いになって、約束をなさって東の国においでになって、山や河の乱暴な神たちまたは従わない人たちをことごとく平定あそばされました。ここに相模(さがみ)の国においであそばされたときに、その国の造(みやつこ)が詐(いつわ)って言いますには、「この野の中に大きな沼があります。その沼の中に住んでいる神はひどく乱暴な神です」と申しました。よってその神をご覧になりに、その野においでになりましたら、国の造(みやつこ)が野に火をつけました。そこであざむかれたとお知りになって、叔母さまのヤマト姫の命のお授けになった袋の口をといて開けてご覧になりましたところ、その中に火打(ひうち)がありました。そこでまず御刀をもって草を刈(か)りはらい、その火打(ひうち)をもって火を打ち出して、こちらからも火をつけて焼き退(そ)けて帰っておいでになる時に、その国の造(みやつこ)どもをみな切り滅(ほろ)ぼし、火をつけてお焼きなさいました。そこで今でも焼津(やいづ)といっております。
 そこからおいでになって、走水(はしりみず)の海をお渡りになった時にその渡(わたり)の神が波を立てて御船(みふね)がただよって進むことができませんでした。そのときにお妃(きさき)のオトタチバナ姫の命が申されますには、「わたくしが御子(みこ)にかわって海に入りましょう。御子(みこ)は命ぜられた任務をはたしてご返事を申し上げあそばせ」と申して海にお入りになろうとする時に、スゲの畳八枚、皮の畳八枚、絹の畳八枚を波の上にしいて、その上におおりあそばされました。そこでその荒い波が自然に凪(な)いで、御船(みふね)が進むことができました。そこでその妃(きさき)のお歌いになった歌は、

高い山の立つ相模(さがみ)の国の野原で、
燃え立つ火の、その火の中に立って
わたくしをおたずねになったわが君。

 かくして七日すぎての後に、そのお妃(きさき)のお櫛(ぐし)が海浜に寄(よ)りました。その櫛(くし)を取って、お墓を作って収(おさ)めておきました。
 それから入っておいでになって、ことごとく悪い蝦夷(えぞ)どもをたいらげ、また山河の悪い神たちを平定して、帰っておのぼりになる時に、足柄(あしがら)の坂本にいたって食物をおあがりになる時に、その坂の神が白い鹿になってまいりました。そこで召しあがり残りの蒜(ひる)の片端(かたはし)をもってお打ちになりましたところ、その目にあたって打ち殺されました。かくてその坂にお登りになって非常におなげきになって、「わたしの妻はなあ」とおおせられました。それからこの国を吾妻(あずま)とはいうのです。
 その国から越えて甲斐に出て、酒折(さかおり)の宮においでになった時に、お歌いなされるには、

常陸の新治(にいはり)・筑波(つくば)をすぎて幾夜(いくよ)寝(ね)たか。

 ここにその火を焼(た)いている老人が続いて、

日数(ひかず)かさねて、夜(よ)は九夜(ここのよ)で日(ひ)は十日(とおか)でございます。

と歌いました。そこでその老人をほめて、吾妻(あずま)の国の造(みやつこ)になさいました。
 かくてその国から信濃の国にお越えになって、そこで信濃の坂の神をたいらげ、尾張の国に帰っておいでになって、先に約束しておかれたミヤズ姫のもとにお入りになりました。ここでごちそうをたてまつる時に、ミヤズ姫がお酒盃(しゅはい)をささげてたてまつりました。しかるにミヤズ姫の打掛(うちかけ)の裾(すそ)に月の物がついておりました。それをご覧になってお詠(よ)みあそばされた歌は、

仰(あお)ぎ見る天(あめ)の香具山(かぐやま)
鋭(するど)い鎌(かま)のように横(よこ)ぎる白鳥(はくちょう)。
そのようなたおやかな弱腕(よわうで)を
抱(だ)こうとはわたしはするが、
寝(ね)ようとはわたしは思うが、
あなたの着(き)ている打掛(うちかけ)の裾(すそ)に
月(つき)が出ているよ。

 そこでミヤズ姫が、お歌にお答えしてお歌いなさいました。

照(て)り輝(かがや)く日のような御子(みこ)さま
ご威光すぐれた、わたしの大君さま。
新しい年がきて、すぎて行けば、
新しい月はきて、すぎて行きます。
ほんとうにまあ、あなたさまをお待ちいたしかねて
わたくしの着ております打掛(うちかけ)の裾(すそ)に
月も出るでございましょうよ。

 そこでご結婚あそばされて、その佩(お)びておいでになった草薙(くさなぎ)の剣(つるぎ)をミヤズ姫のもとに置いて、イブキの山の神を撃ちにおいでになりました。

    望郷(ぼうきょう)の歌

——クニシノビ歌の歌曲(かきょく)を中心として、英雄の悲壮な最後を語る。——

 そこで「この山の神は空手(からて)で取ってみせる」とおおせになって、その山にお登りになったときに、山のほとりで白いイノシシに会(あ)いました。その大きさは牛ほどもありました。そこで大言(たいげん)して、「この白いイノシシになったものは神の従者だろう。今、殺さないでも帰るときに殺して帰ろう」とおおせられて、お登りになりました。そこで山の神が大氷雨(だいひょうう)を降(ふ)らしてヤマトタケルの命(みこと)を打ち惑(まど)わしました。この白いイノシシに化(ば)けたものは、この神の従者ではなくして、正体であったのですが、命(みこと)が大言されたので惑(まど)わされたのです。かくて帰っておいでになって、玉倉部(たまくらべ)の清水にいたってお休みになったときに、御心(みこころ)がややすこしお寤(さ)めになりました。そこでその清水を居寤(いさめ)の清水というのです。
 そこからお立ちになって当芸(たぎ)の野の上においでになった時におおせられますには、「わたしの心はいつも空を飛んで行くと思っていたが、今は歩くことができなくなって、足がギクギクする」とおおせられました。よってそこを当芸(たぎ)といいます。そこからなお少しおいでになりますのに、非常にお疲れなさいましたので、杖(つえ)をおつきになってゆるゆるとお歩きになりました。そこでその地を杖衝(つえつき)坂といいます。尾津(おつ)の埼(さき)の一本松のもとにおいでになりましたところ、先に食事をなさった時にそこにお忘れになった大刀(たち)がなくならないでありました。そこでお詠(よ)みあそばされたお歌、

尾張の国に真直(まっすぐ)に向かっている
尾津(おつ)の埼の
一本松よ。お前。
一本松が人だったら
大刀(たち)を佩(は)かせようもの、着物を着せようもの、
一本松よ。お前。

 そこからおいでになって、三重(みえ)の村においでになった時に、また「わたしの足は、三重に曲がった餅のようになって非常に疲れた」とおおせられました。そこでその地を三重といいます。
 そこからおいでになって、能煩野(のぼの)に行かれました時に、故郷をお思いになってお歌いになりましたお歌、

大和は国の中の国だ。
重(かさ)なり合っている青い垣、
山に囲まれている大和は美しいなあ。

命が無事だった人は、
大和の国の平群(へぐり)の山の
りっぱなカシの木の葉を
頭挿(かんざし)にお挿(さ)しなさい。お前たち。

と、お歌いになりました。この歌は思国歌(くにしのびうた)という名の歌です。また、お歌いあそばされました。

なつかしのわが家(や)の方(ほう)から雲が立ち昇(のぼ)ってくるわい。

 これは片歌(かたうた)でございます。この時に、ご病気が非常に重くなりました。そこで、御歌(みうた)を、

嬢子(おとめ)の床(とこ)のほとりに
わたしの置いてきた良く切れる大刀(たち)、
あの大刀(たち)はなあ。

と歌い終わって、お隠(かく)れになりました。そこで急使(きゅうし)をのぼらせて朝廷に申し上げました。

    白鳥(しらとり)の陵(みささぎ)

——大葬に歌われる歌曲(かきょく)を中心としている。白鳥には、神霊を感じている。——

 ここに大和においでになるお妃(きさき)たちまた御子(みこ)たちが、みな下(くだ)っておいでになって、お墓を作ってそのほとりの田に這(は)い回ってお泣きになってお歌いになりました。

周(まわ)りの田の稲の茎(くき)に、
稲の茎(くき)に、
這(は)いめぐっているツルイモの蔓(つる)です。

 しかるにそこから大きな白鳥になって天に飛んで、浜に向いて飛んでおいでになりましたから、そのお妃(きさき)たちや御子(みこ)たちは、そこの篠竹(しのだけ)の刈株(かりくい)に御足が切り破れるけれども、痛いのも忘れて泣く泣く追っておいでになりました。そのときの御歌(みうた)は、

小篠(こざさ)が原を行き悩(なや)む、
空中からは行かずに、歩(ある)いて行くのです。

 また、海水に入って、海水の中を骨を折(お)っておいでになったときの御歌(みうた)、

海の方(ほう)から行けば行き悩(なや)む。
大河原(おおかわら)の草のように、
海や河(かわ)をさまよい行く。

 また飛んで、そこの磯においであそばされたときの御歌(みうた)、

浜の千鳥(ちどり)、浜からは行かずに磯づたいをする。

 この四首の歌はみな、そのお葬式に歌いました。それで今でもその歌は天皇のお葬式に歌うのです。そこでその国から飛び翔(た)っておいでになって、河内の志幾(しき)にお留(と)まりなさいました。そこでそこにお墓を作って、お鎮(しず)まりあそばされました。しかしながら、また、そこからさらに空を飛んでおいでになりました。すべてこのヤマトタケルの命(みこと)が諸国を平定するために回っておいでになったときに、久米(くめ)の直(あたえ)の祖先のナナツカハギという者がいつもお料理人としてお仕(つか)え申しました。

    ヤマトタケルの命(みこと)の系譜

——実際あり得ない関係も記されている。——

 このヤマトタケルの命が、垂仁(すいにん)天皇の娘、フタジノイリ姫の命と結婚してお生みになった御子(みこ)は、タラシナカツ彦の命〔仲哀天皇。〕お一方です。また、かの海にお入りになったオトタチバナ姫の命と結婚してお生みになった御子(みこ)はワカタケルの王お一方です。また近江の安(やす)の国の造(みやつこ)の祖先のオオタムワケの娘のフタジ姫と結婚してお生みになった御子(みこ)はイナヨリワケの王(みこ)お一方です。また吉備の臣タケ彦の妹の大吉備のタケ姫と結婚してお生みになった御子(みこ)は、タケカイコの王お一方です。また山代(やましろ)のククマモリ姫と結婚してお生みになった御子(みこ)はアシカガミワケの王お一方です。またある妻の子は、オキナガタワケの王です。すべてこのヤマトタケルの命(みこと)の御子(みこ)たちはあわせて六人ありました。
 それでタラシナカツ彦の命は天下をお治(おさ)めなさいました。つぎにイナヨリワケの王は、犬上(いぬかみ)の君・建部(たけべ)の君らの祖先です。つぎにタケカイコの王は、讃岐(さぬき)の綾の君・伊勢の別・登袁(とお)の別・麻佐の首(おびと)・宮の首の別らの祖先です。アシカガミワケの王は、鎌倉の別・小津の石代(いわしろ)の別・漁田(すなきだ)の別の祖先です。つぎにオキナガタワケの王の子、クイマタナガ彦の王、この王の子、イイノノマクロ姫の命・オキナガマワカナカツ姫・弟姫(おとひめ)のお三方です。そこで上に出たワカタケルの王が、イイノノマクロ姫と結婚して生んだ子はスメイロオオナカツ彦の王、この王が、近江のシバノイリキの娘のシバノ姫と結婚して生んだ子はカグロ姫の命です。オオタラシ彦の天皇〔景行天皇。〕がこのカグロ姫の命と結婚してお生みになった御子(みこ)はオオエの王のお一方です。この王が庶妹(ままいも)シロガネの王と結婚して生んだ子はオオナガタの王とオオナカツ姫のお二方です。そこでこのオオナカツ姫の命は、カゴサカの王・オシクマの王の母君です。
 このオオタラシ彦の天皇の御年百三十七歳、御陵(ごりょう)は山の辺の道の上にあります。

    成務天皇

——国県の堺を定め、国の造、県主(あがたぬし)を定め、地方行政の基礎が定められた。——

 ワカタラシ彦の天皇(成務天皇)、近江の国の志賀(しが)の高穴穂(たかあなほ)の宮においでになって天下をお治(おさ)めなさいました。この天皇は穂積(ほづみ)の臣の祖先、タケオシヤマタリネの娘のオトタカラの郎女(いらつめ)と結婚してお生みになった御子(みこ)はワカヌケの王お一方です。そこでタケシウチの宿祢(すくね)を大臣(おおおみ)となされ、大小国々の国の造(みやつこ)をお定めになり、また国々の堺、また大小の県の県主(あがたぬし)をお定めになりました。天皇は御年九十五歳、乙卯(きのとう)の年の三月十五日にお隠(かく)れになりました。御陵(ごりょう)は沙紀(さき)の多他那美(たたなみ)にあります。

   六、仲哀天皇

    后妃(こうひ)と皇子女

 タラシナカツ彦の天皇(仲哀天皇)、穴門(あなと)の豊浦(とよら)の宮また筑紫(つくし)の香椎(かしい)の宮においでになって天下をお治(おさ)めなさいました。この天皇、オオエの王の娘のオオナカツ姫の命と結婚してお生みになった御子(みこ)は、カゴサカの王とオシクマの王お二方です。またオキナガタラシ姫の命〔神功皇后。〕と結婚なさいました。この皇后のお生みになった御子(みこ)はホムヤワケの命・オオトモワケの命、またの名はホムダワケの命〔応神天皇。〕とお二方です。この皇太子の御名をオオトモワケの命と申しあげるわけは、はじめお生まれになったときに腕に鞆(とも)の形をした肉がありましたから、このお名前をおつけ申しました。そこで腹の中においでになって天下をお治(おさ)めなさいました。この御世(みよ)に淡路の役所を定めました。

    神功皇后

——御母はシラギ人・天(あめ)の日矛(ひぼこ)の系統で、シラギのことを知っておられたのだろうという。——

 皇后のオキナガタラシ姫の命(神功皇后)は神懸(かみがか)りをなさった方でありました。天皇が筑紫の香椎(かしい)の宮においでになって熊曽(くまそ)の国を撃(う)とうとなさいますときに、天皇が琴(こと)をお弾(ひ)きになり、タケシウチの宿祢が祭の庭にいて神のおおせをうかがいました。ここに皇后に神懸(かみがか)りして神さまがお教えなさいましたことは、「西の方に国があります。金銀をはじめ目の輝くたくさんの宝物がその国に多くあるが、わたしが今、その国をお授(さず)け申そう」とおおせられました。しかるに天皇がお答え申されるには、「高いところに登って西の方を見ても、国が見えないで、ただ大海のみだ」といわれて、詐(いつわり)をする神だとお思いになって、お琴(こと)を押しのけてお弾(ひ)きにならず、だまっておいでになりました。そこで神さまがたいへんお怒りになって「すべてこの国はあなたの治(おさ)むべき国ではないのだ。あなたは一本道にお進みなさい」とおおせられました。そこでタケシウチの宿祢が申しますには、「おそれ多いことです。陛下、やはりそのお琴(こと)をお弾(ひ)きあそばせ」と申しました。そこで、すこしその琴(こと)をお寄(よ)せになって生々(なまなま)にお弾(ひ)きになっておいでになったところ、まもなく琴(こと)の音が聞こえなくなりました。そこで火をともして見ますと、すでにお隠(かく)れになっていました。
 そこで、おどろき恐懼(きょうく)してご大葬の宮殿にお移し申し上げて、さらにその国内から幣帛(へいはく)を取って、生剥(いけはぎ)・逆剥(さかはぎ)・畦離(あはな)ち・溝埋(みぞう)め・屎戸(くそへ)・不倫の結婚の罪のたぐいを求めて大祓(おおばらえ)してこれを清め、またタケシウチの宿祢が祭の庭にいて神のおおせを願いました。そこで神のお教えになることはことごとく前のとおりで、「すべてこの国は皇后さまのお腹においでになる御子(みこ)の治(おさ)むべき国である」とお教えになりました。
 そこでタケシウチの宿祢が、「神さま、おそれ多いことですが、その皇后さまのお腹(はら)においでになる御子(みこ)は何の御子でございますか?」と申しましたところ、「男の御子(みこ)だ」とおおせられました。そこでさらにお願い申し上げたことは、「今、かようにお教えになる神さまは何という神さまですか?」と申しましたところ、お答えあそばされるには「これはアマテラス大神の御心(みこころ)だ。またソコツツノオ・ナカツツノオ・ウワツツノオの三神だ。今、まことにあの国を求めようと思われるなら、天地の神たち、また山の神、海河の神たちにことごとく幣帛(へいはく)をたてまつり、わたしの御魂(みたま)を御船(みふね)の上におまつり申し上げ、木の灰を瓠(ひさご)に入れ、また箸(はし)と皿とをたくさんに作って、ことごとく大海に散(ち)らし浮(う)かべてお渡(わた)りなさるがよい」とおおせなさいました。
 そこで、ことごとく神の教えたとおりにして軍隊を整え、多くの船をならべて海をお渡りになりましたときに、海中の魚どもは大小となくすべて出て、御船(みふね)を背負(せお)って渡りました。順風がさかんに吹(ふ)いて御船は波のまにまに行きました。その御船の波が新羅(しらぎ)の国に押しのぼって国の半(なか)ばにまでいたりました。よってその国王が畏(お)じ恐(おそ)れて、「今から後は天皇のご命令のままに馬飼(うまかい)として、毎年多くの船の腹を乾(かわ)かさず、柁�(かじさお)を乾(かわ)かさずに、天地のあらんかぎり、止(や)まずにお仕(つか)え申し上げましょう」と申しました。かようなしだいで新羅の国をば馬飼(うまかい)とお定めあそばされ、百済(くだら)の国をば船渡(ふなわた)りの役所とお定めになりました。そこでお杖(つえ)を新羅の国主の門におつき立てあそばされ、住吉の大神の荒い御魂を、国をお守りになる神としてまつってお帰りあそばされました。