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DL-MARKET 被災地支援チャリティー終了のおしらせ

  • DL-MARKET 被災地支援チャリティーは2011年6月30日にて終了、7月5日に日本赤十字社あてに振込が完了とのことです。ご協力、ありがとうございました。
  • リンク先をチャリティー用から、通常購入用へ変更します。

2011.8.2:追記

電子本を読んで、被災地を支援しよう! 一日一偽善!

DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品


M-Tea*3_45-ヴェスヴィオ山/日本大地震(他)斎藤茂吉

2011.6.4 第三巻 第四五号

ヴェスヴィオ山/日本媼/南京虫日記
日本大地震/イーサル川
斎藤茂吉

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【週刊ミルクティー*第三巻 第四五号】
http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/142424
※ クリックするとダウンロードサイトへジャンプします。
(600KB)

定価:200円 p.207 / *99 出版
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(32項目)p.304
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。
※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。


※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。
※ JIS X 0213・ttz 形式。
※ この作品は青空文庫にて入力中です。転載・印刷・翻訳は自由です。
(c) Copyright this work is public domain.

はみだせ! 週刊ペテンだっく*


 新聞の報告はみなほとんど同一であった。上海電報によると、地震は九月一日の早朝におこり、東京・横浜の住民は十万人死んだ。東京の砲兵工廠は空中に舞い上がり、数千の職工が死んだ。熱海・伊東の町は全くなくなった。富士山の頂が飛び、大島は海中に没した。云々である。
 私はしばらく息をつめてこれらの文句を読んだが、どうも現実の出来事のような気がしない。ただし私は急いでそこを出で、新しく間借りしようとする家へ行った。部屋は綺麗に調えてあったので私は床上に新聞紙と座布団とをしき、尻をペタリとおろした。それからふたたび新聞の日本震災記事を読むに、これは容易ならぬことである。私の意識はようやく家族の身上に移っていった。不安と驚愕とがしだいに私の心を領するようになってくる。私は眠り薬を服してベッドの上に身を横たえた。
 暁になり南京虫におそわれ、この部屋も不幸にして私の居間ときめることができなかった。九月四日の朝、朝食もせずそこを出て日本媼のところに急ぐ途中N君に会った。N君も日本のことが心配でたまらぬので、やはり朝食もせずに日本媼のところに来た途中なのであった。N君の持っている今日の朝刊新聞の記事を読むと、昨日の夕刊よりもややくわしく出ている。コレア丸からの無線電報によるに、東京はすでに戒厳令が敷かれて戦時状態に入った。横浜の住民二十万は住む家なく食う食がない。(略)
 九月五日。日本の惨事は非常である。部屋の中に沈黙していても何ごとも手につかない。九月六日。思いきって、Thorwalsen(トールワルゼン) Str.(シュトラセ) 六番地に引っ越してしまった。ここには南京虫はいなかった。教室まで遠くて不便であるが、日本の状態がこんなであってみれば、私自身、今後どう身を所決せねばならんか今のところまったく不明である。そこでせめて南京虫のいないところにおちつこうと決心したのであった。

3_45.rm
(朗読:RealMedia 形式 524KB、4'16'')
milk_tea_3_45.html
(html ソーステキスト版 264KB)

斎藤茂吉 さいとう もきち
1882-1953(明治15.5.14-昭和28.2.25)
歌人・精神科医。山形県生れ。東大医科出身。伊藤左千夫に師事、雑誌「アララギ」を編集。長崎医専教授としてドイツなどに留学、のち青山脳病院長。作歌1万7000余、「赤光」以下「つきかげ」に至る歌集17冊のほか、「柿本人麿」をはじめ評論・随筆も多い。文化勲章。

◇参照:Wikipedia 斎藤茂吉、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。

底本

ヴェスヴィオ山
底本:『斎藤茂吉選集 第九巻 随筆』岩波書店
   1981(昭和56)年2月27日 第一刷発行
初出:『思想』
   1929(昭和4)年5月

日本媼
底本:『斎藤茂吉選集 第九巻 随筆』岩波書店
   1981(昭和56)年2月27日 第一刷発行
初出:『改造』
   1929(昭和4)年10月

南京虫日記
底本:『斎藤茂吉選集 第九巻 随筆』岩波書店
   1981(昭和56)年2月27日 第一刷発行
初出:『改造』
   1929(昭和4)年10月

日本大地震
底本:『斎藤茂吉選集 第九巻 随筆』岩波書店
   1981(昭和56)年2月27日 第一刷発行
初出:『改造』
   1929(昭和4)年10月

イーサル川
底本:『斎藤茂吉選集 第九巻 随筆』岩波書店
   1981(昭和56)年2月27日 第一刷発行
初出:『改造』
   1929(昭和4)年10月


NDC 分類:914(日本文学/評論.エッセイ.随筆)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc914.html

難字、求めよ

何向き
沈厳
バヴアリア ババリアか。バイエルン(Bayern)の英名(Bavaria)。
グレコ
Hitler 事件 ヒットレル事件 → ミュンヘン一揆か
ミュンヘン一揆 1923年11月8〜9日、政権奪取をめざしてヒトラーがミュンヘンで起こした一揆。蜂起は鎮圧。ヒトラーは逮捕、投獄。

むしとりホイホイ

集めて読んだ、 → 集めて読んだ。 【。か】

左辺は底本のとおり。

年表

六三年 ヴェスヴィオ山、噴火。大地震をも伴って、そのあたり一帯の都市を滅亡。
七九年 ヴェスヴィオ山、噴火。ヘルクラネウムポンペイが全くわからなくなる。

一八四四 カール・マルクス「宗教は国民のアヘンである」(Religion ist das Opium des Volks.)。
一八七二 ヴェスヴィオ山、噴火。
一九〇六 ヴェスヴィオ山、四月四日からひどい爆発があり四、五、六、七、八日あたりまで爆発。
一九一四(大正三) 大戦が勃発。
一九一七 ロシア革命
一九二二(大正一一)一月 茂吉、ベルリンに着いてミュンヘンの事情をさぐると、当時、ミュンヘンはただひとりの日本人が特別の許可を得て研究しているにすぎず、ここへの入国は厳重でできなかった。
一九二三 七月一九日 茂吉、ミュンヘンにつく。
一九二三 茂吉、七月から丸一年ミュンヘンにいるうち、いろいろ媼から世話になる。後半の七か月あまりを媼の家に起居し、ミュンヘンを去るときも媼の家から立つ。
一九二三 八月一三日 茂吉、Rothmund(ロートムント) 街八番地に貸し間があるというので日本媼の息子が案内。
一九二三 八月二九日 朝便の配達のとき長兄から、午後便の配達のとき妻から、実父伝右衛門の死を報じる。
一九二三 九月三日 茂吉、夕刊で日本大地震の記事を読む。
一九二三 九月六日〜一二月一五日 Thorwalsen(トールワルゼン) Str.(シュトラセ) 六番地におちつく。
一九二三 九月一三日 夕がた、ベルリンのMから電報が届く。
一九二三 九月二七日 十四ばかりおこなわれるはずの国民党の集会が禁ぜられ、集会所や大きなビール店をば軍隊と警官とで厳しく固めた。
一九二三 一〇月一四日 はじめて『大阪毎日新聞』九月三日の号外を手に入れる。
一九二三 一一月八〜九日 Hitler(ヒットレル) 事件(ミュンヘン一揆)。政権奪取をめざしてヒトラーがミュンヘンで起こした一揆。蜂起は鎮圧。ヒトラーは逮捕、投獄。
一九二三 一二月一三日 雑誌『大正大震災大火災』を借りる。
一九二四 六月一日、Spetech(シュペテッヒ) というミュンヘンの図書館員とともに、汽車でイーサルに沿うてさかのぼる。

スリーパーズ日記


「思うに、日本のような特殊な天然の敵を四面にひかえた国では、陸軍・海軍のほかにもう一つ科学的国防の常備軍を設け、日常の研究と訓練によって非常時にそなえるのが当然ではないかと思われる。」(寺田寅彦「天災と国防」より)。

「陸軍・海軍のほかにもう一つ」と寺田寅彦がいっているのは、「空軍を」ということではないだろう。army や navy とは別に、自然災害に特化した防災対応能力を持つ集団を、ということだろう。ラプターオスプレイよりも、チヌークの方がいいなあ。
 ところで、松島の航空自衛隊基地をがれきの仮置場にするとか、もしくは、基地臨海に埋立台場を作れないものだろうか。

 にしても茂吉は、ミュンヘンでヒトラーの登場をまのあたりにしていたわけか……。



2011.6.5:公開 八面玲瓏。
2011.8.2:更新
ぺだんてっく、れーむだっく。
目くそ鼻くそ。しだひろし/PoorBook G3'99
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  • うう、のどがペテンだっく…… -- しだ (2011-06-05 15:13:45)
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最終更新:2011年08月02日 00:05