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MT*2_44-道鏡皇胤論について 喜田貞吉

2010.5.22 第二巻 第四四号

道鏡皇胤論について
喜田貞吉
    一 序言
    二 道鏡問題に関する幾多の疑問
    三 右の疑問の解決と皇統の尊厳
    四 道鏡の暴悪と清麻呂の正義
    五 事実の真相
    六 結語

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【週刊ミルクティー*第二巻 第四四号】
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(432KB)

定価:200円(税込) p.104 / *99 出版
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(34項目)p.138
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飛び出せ! 週刊ミルクティー*


(略)まずもって自分のもっとも解し難しとするところのものは、帝権のもっとも隆盛であったかの奈良朝時代において、いかに天皇のご親任が厚く、また天皇が当時出家の天子にておわしたと云え、何ら皇室に因縁のない臣民出身の一僧侶を推して、仮にも天子に戴いてはとの大それた説があらわれてみたり、また天皇がそれにお迷いになられたり、道鏡自身もそれを聞いて、なるほどそうかとはじめて野心を起こしてみたりしたというところにある。当時にあってそんな思想が起こりえたということが、自分にとって不思議でならぬのである。(略)
 しかるにこれらの多くの疑問のすべては、道鏡が皇胤であったとの旧説を是認することによりて、ともかくもある程度まではことごとく解釈しえらるるのである。(略)
 このことは、じつは自分の創見ではない。去る明治二十年代において故田口卯吉博士が、その経営の雑誌『史海』の誌上ですでに多少の解決を試みられかけたのであった。
(略)道鏡素性に関する問題は、その時代に往々実例を見るがごとく、一皇族が母方の姓をついで臣籍に下ったものであったと解して、容易に通ずべきものなのである。彼はじつに多くの旧説のひとしく言うがごとく、施基(しきの)親王の王子で、おそらく河内の弓削氏の腹に生まれた者であったであろう。したがってそれが河内の弓削氏の人であり、その先祖に弓削(物部)の守屋の大臣(大連)があってもさしつかえはないではないか。彼が皇胤であることを隠さんとした史筆の陰に、そんなことがあっても一向さしつかえはないではなかろうか。 


2_44.rm
(朗読:RealMedia 形式 392KB、3'11'')


喜田貞吉 きた さだきち
1871-1939(明治4.5.24- 昭和14.7.3)
歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。

◇参照:Wikipedia 喜田貞吉、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。


底本

底本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社
   2008(平成20)年1月30日初版発行
底本の親本:「斎東史話」立命館出版部
   1935(昭和10)年10月

NDC 分類:210(日本史)
http://yozora.kazumi386.org/2/1/ndc210.html



2010.5.23:公開
目くそ鼻くそまみれ。/PoorBook G3'99
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最終更新:2010年05月23日 22:36