MT*2_41-清河八郎(四)大川周明

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MT*2_41-清河八郎(四)大川周明

2010.5.1 第二巻 第四一号

清河八郎(四)
大川周明
 第五章 関東における八郎の活動
    一 関西の勤王と関東の攘夷
    二 東北有志の糾合
    三 大赦運動
    四 浪士組の成立
    五 京都における浪士組
    六 帰府後の浪士組



【週刊ミルクティー*第二巻 第四一号】
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定価:200円(税込)  p.182 / *99 出版
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(46項目)p.244
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 松平春嶽公は、松平主税介忠敏を抜擢して、浪士取扱いの任に当らしめることにした。それは十二月三日のことである。松平主税介は、家康の六男松平上総介忠輝の後裔である(略)。
 もと、このたびの浪士募集については激しい異論があった。その論拠とするところは、幕府は大名・旗本の力をもって攘夷をおこなうことができる、いまさら浪士の力を藉るということは幕府の勢威にかかわるというのである。しかるに春嶽公は勤王の志を抱いていたし、また勇武の徒を懐柔しておくことが幕府のために便宜となることもあろうという考えから、まず五十人の浪士をつのり、一面、関白の命令を実行し、他面、募集の結果を見てこれを善用しようと決したのである。
 さて浪士募集にあたっては、一切の策略ことごとく八郎より出で、八郎のむねを受けて石坂周造・池田徳太郎の両人が、関東八州より甲州にかけて必死に遊説を試みた。両人は才知もあり胆略もあって、浪士募集などには至極の適任であった。やがて甲州からは土橋鉞四郎が多勢の同志をひきいてくる。相馬からは西恭助・草野剛三がくる。昨秋、仙台で別れた村上俊五郎もくる。そのほか各地から続々と応募してきた。幕府の命令は五十人の浪士を募れということであったが、八郎はこの機会に乗じて尊王の素志をとげる内心であるから、集められるだけ集めるという方針であった。もっとも集まった中には必ずしも「尽忠報国」ばかりでない者もいた。山本仙之助のごときは甲州の博徒の親分であるが、二十名の子分を連れてきたので什長になった。近藤勇・芹沢鴨・土方歳三などは運よくば旗本にでもなろうという野心で応募したのであるから、もとより八郎らと志を異にしている。ただ八郎はいささかも玉石混淆をいとわなかった。
 かくて応募の浪士は総数二百数十名にのぼった。 

2_41.rm
(朗読:RealMedia 形式 484KB、3'55'')


大川周明 おおかわ しゅうめい
1886-1957(明治19.12.6-昭和32.12.24)
国家主義者。山形県生れ。東大卒。満鉄入社後、猶存(ゆうぞん)社・行地社・神武会を結成。軍部に接近、三月事件・五‐一五事件などに関与。第二次大戦後、A級戦犯。著「近世欧羅巴植民史」など。

◇参照:Wikipedia 大川周明、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。


底本

底本:『清河八郎』行地社出版部
   1927(昭和2)年2月11日 発行

NDC 分類:289(伝記:個人伝記)
http://yozora.kazumi386.org/2/8/ndc289.html


年表

安政年間(一八五四〜一八六〇)
松平主税介、家督を弟にゆずり、江戸に出て剣道の師範となる。

文久二年(一八六二)
四月一日 龍馬、下関、白石正一郎邸に入る。
六月六日 八郎、東下の途につく。
六月一〇日 八郎、伊勢に出でて、山田に至り、早朝大廟に参拝。午後、旧知山田大路を訪いて、村上俊五郎と行き違いになったことを知る。八郎、ただちに引き返して後を追い、関駅で邂逅。村上とともに再び京都に引き返す。その夜は飯居簡平の家に泊まる。
六月一一日 龍馬、 大坂 で沢村惣之丞と会う。
六月一六日 八郎ら、 大坂 におもむく。島田左近討ち取りを相談。村上、同意。
六月一九日 京都に入り、夕闇に乗じて島田の家を襲うたが、留守のために意をはたさず。島田を襲える証拠として一刀を奪取して引き上げる。京都を去る。
七月二二日 小河弥右衛門、藤井・本多・井上・田中の諸同志と謀り、島田を血祭りにあげる。京都においてしきりに「天誅」がおこなわれだしたのは、じつにこの時からのこと。
※ 公武一和派の中堅岩倉具視が、辞官蟄居を命ぜられ、ついで京都市内居住を禁ぜられる。
七月二二日 八郎・村上、和歌山に出で、高野山にのぼり吉野を探る。
七月二九日 八郎、ふたたび山田に至りて山田大路を訪う。去冬以来の芳情に酬ゆるため、おびたる双刀を彼に贈りて新たに大小を求め、かつ金若干を寄付して諸藩の志士六十余人の姓名を刻める石灯篭を奉献。
※ 山田に滞在中、安積が後を追い来たり、その後の京都の形勢を告げる。八郎は彼の士気を鼓舞して帰らしめたが、これが両人の永別となる。
七月一〇日* 八郎・村上、山田を発して東に向かう。途に静岡に留まること四日。ついで大宮口より富士山に登りて甲州吉田にくだり、甲府に出で土橋鉞四郎をたずねる。
※ 鰍沢に出る。大雨のために船が止まっているので数日滞留。
八月一日 八郎、富士川を下りて東海道吉原に出で、伊豆に入りて修善寺・熱海・伊豆山の諸温泉に浴して英気をやしなう。
八月二一日 小田原に出る。
八月二二日 小田原を発して平塚を通るとき、島津久光公の西還するに遇う。益満新八郎と再会。前日、生麦事件。
八月二二日 龍馬、 江戸 間崎哲馬 と会う。
八月二四日 八郎、無事 江戸 につく。まず山岡鉄舟・松岡万の両友に会う。獄中同志の消息を聞く。いること三日。
八月二七日 八郎、村上とともに江戸を去る。

※ 久光公の上洛、ついで勅使大原三位を奉じての江戸下向を一転期として、幕府の態度はあきらかに従来とは一変し、有識者の信頼を負える一橋慶喜公をもって将軍を補佐せしめ、天下の輿望を負える松平春嶽をもって幕府の政事総裁に任じ、安藤対馬守を辞職せしめ、かつ青蓮院宮をはじめ近衛・鷹司諸公の幽囚を解き、所司代・酒井若狭守をも辞職せしめた。
※ 尊王攘夷論者に対する取り締まりもきわめて寛大となり、水戸および江戸の諸門戸、関所を廃する。八郎の今度の東北遊説は、この前とは違って、何の恐るるところもなく往来ができた。

八月二七日 八郎・村上、江戸を出で、夜は板橋に泊まる。
※ 岩槻より結城をへて水戸領に入り、野田より二里を隔つる山間の小村小瀬〔上小瀬村か〕に井樋政之允をたずねる。七日間ここに足をとめる。
閏八月九日 薄暮、那珂川を下りて水戸につく。住谷寅之助、下野準二郎〔隼二郎か〕・山口徳之進・宮本辰之助らに会う。
※ 水戸の諸同志と交遊すること数日、二十日再会を約して袂をわかつ。
閏八月  松平春嶽 、土方楠左衛門に龍馬が勝海舟、横井小楠への紹介状が欲しいと来訪と手紙に書く。
閏八月 龍馬、岡本健三郎と横井小楠を訪問。
閏八月二二日 龍馬、千葉道場に入る。
閏八月二三日 河原〔河原子村か〕に至り、三泊して潮湯に浴す。
閏八月二四日 かつて伊牟田が潜居した田尻浜の空窪寺に至り、かねて起稿中なりし同志の大赦を請う上書を飛脚を立てて水戸の住谷に送り、住谷から江戸の山岡鉄舟・ 間崎哲馬 に届け、 松平春嶽公 にたてまつるよう頼む。
※ 八郎・村上、田尻浜から沿海の諸駅をへて相馬中村にいたり、岡部正蔵を訪ねるが幽閉の身。八郎、一詩を贈りて彼をなぐさめる。
※ 中村に留まること二日。
閏八月二六日 龍馬、 間崎哲馬 に会う。
九月七日 八郎、仙台につく。桜田父子および戸津がよろこび迎える。仙台の形勢、頓に一変。
※ ついで、川度温泉に浴して心身を休める。『潜行紀事』『潜中紀略』をこの静養中に脱稿。
※ 郷里からの書面あり。八郎もまた長文の書面を送る。
九月二四日付 土佐藩邸の 間崎 から書簡。
九月三〇日 龍馬、京で久坂玄瑞と会見。
一〇月七日 八郎、仙台を発し、相馬中村で松平五郎太夫・戸田某・西恭助らと会見。西、義盟を結ぶ。それから湯本温泉に浴し、ふたたび水戸に来る。
一〇月四日付 山岡の手紙。弟熊三郎・池田・石坂の両人がすでに出獄。
一〇月二八日 京都から攘夷の勅使三条・姉小路両卿の東下あり、春嶽公が将軍代理としてこれを品川まで出迎える。
一一月一日 夜、八郎、水戸の諸友と別盃を酌む。
一一月二日 未明、八郎、住谷寅之助・下野準二郎とともに水戸を去る。

※ 江戸に着いてまず訪ねたのは山岡の家。
※ 石坂は馬喰町宿に、池田は外舅の家に、斎藤は国屋敷にあずけられ、一般の大赦についてはなお相談中とのこと。
※ 山岡、ひとまず水戸に帰って赦を待つがよいとすすめ、八郎もこれに同意。その前に三条公にしたがって東下した旧同志・杉浦八郎に会い、爾後の京都の形勢や同志の消息をつまびらかにするを得る。

一一月一二日 八郎、ふたたび 春嶽公 に上書、急務三策を献じる。山岡・ 間崎 にたくす。
一一月一二日 龍馬、武市半平太、高杉晋作、久坂玄瑞と会見。
一一月二三日 住谷・下野とともに水戸に帰り、江戸からの吉左右を待つ。
※ これより先、伝馬町の獄にありし池田徳太郎・石坂周造、たくみに獄吏を懐柔。
一二月三日  松平春嶽 、松平主税介忠敏を抜擢して、浪士取扱いの任に当らしめる。
※ 浪士を募集するにあたっては、まず八郎を客分として招聘したがよかろうという 春嶽公 の意を受けて、松平主税介から水戸の八郎に使者が来る。
一二月四日 龍馬、 間崎哲馬 、近藤長次郎、江戸呉服橋福井藩邸を訪問し 松平春嶽 に面会を要請。
一二月五日 龍馬、 間崎哲馬 、近藤長次郎、江戸呉服橋福井藩邸で 松平春嶽 に謁見し大坂近海の防衛策などを述べ勝海舟への紹介を依頼する。
一二月九日 龍馬、門田為之助、近藤長次郎、福井藩邸で紹介状を貰い赤坂氷川の勝海舟を訪問弟子入りする。
一二月一〇日 八郎、出府して山岡に寄寓。
一二月一七日 龍馬、幕府軍艦「順動丸」で勝海舟と兵庫に入る。
一二月一九日 幕府から正式に浪士募集の命令が出る。ついで鵜殿鳩翁も浪士取扱いに任ぜられる。
一二月二五日ごろ 池田・石坂・弟熊三郎が公然赦免。
一二月三〇日 閣老会議で、清河八郎の名前で正式に召し出すことに決する。

文久三年(一八六三)
一月一日 龍馬、京に入る。
一月八日 龍馬、高松太郎、千屋寅之助、望月亀弥太、沢村惣之丞、安岡金馬らを勝海舟に入門させる。
一月一三日 幕府「順動丸」江戸に向う。海舟、龍馬乗船。
一月一五日 海舟、下田宝福寺で山内容堂と会見。龍馬の脱藩罪を解かせる。
一月一六日 龍馬、品川の勝海舟邸に入る。
一月一八日 八郎、幕府の指図にしたがい、国屋敷留守居・黒川一郎たちあいをもって、麻裃にて町奉行所に無礼人斬殺のむねを届け出で、奉行浅野備前守からその場で公然赦免、同時に浪人取扱いに引き渡される。
※ 浪士募集にあたっては、一切の策略ことごとく八郎より出で、八郎のむねを受けて石坂周造・池田徳太郎の両人、関東八州より甲州にかけて遊説。

甲州からは土橋鉞四郎が多勢の同志をひきいてくる。
相馬からは西恭助・草野剛三がくる。
昨秋、仙台で別れた村上俊五郎もくる。
幕府の命令は五十人の浪士を募れということであったが、八郎はこの機会に乗じて尊王の素志をとげる内心であるから、集められるだけ集めるという方針。応募の浪士は総数二百数十名にのぼった。

一月二五日 龍馬、大久保一翁に合う。
二月四日 松平、応募浪士一同が小石川伝通院に参集当日、辞職。鵜殿鳩翁がもっぱら浪人取扱いに任じ、山岡鉄舟・松岡万の両人が浪人取り締まりに任ぜられる。
二月六日 浪士組の編成が終わる。幕府は浪士組に対して、京都警衛のために至急上洛すべしとの命を発する。
二月八日 江戸を発し、木曽路をへる。
二月二〇日 龍馬、京土佐藩邸で7日間の謹慎。
二月二三日 京都郊外につき、本部事務所を壬生の新徳寺に置き、各隊を付近の寺院・役場・農家などに分宿。即夜、八郎は一同を新徳寺に集合。御所への上書を読み上げる。一同ことごとく連判。池田徳太郎のみ連名をこばみ脱退。
二月二四日付 上書。浪士一同、連判。
二月二五日 早朝、八郎は浪士中より六人を選抜。学習院に出頭して上書を奉呈。六人、目的をとげて帰る。
二月二五日 龍馬に脱藩罪放免状交付。
二月二九日 勅宣をたまわる。即夜、新徳寺において盛大なる祝宴を開く。
二月三〇日 八郎、ふたたび国策を上書し、関東において攘夷の先鋒をつとめたきむねを披瀝。
三月一日 龍馬、新宮馬之助と大坂の勝海舟を訪問。
三月三日 関白から東下の命が浪士組にくだる。
三月五日 八郎、三たび建白。
三月六日 龍馬、安岡金馬と土佐藩より航海術修行の命を受ける。
三月七日 龍馬、岡田以蔵を勝海舟の警護につける。
三月九日 八郎、さらに山岡の名をもって、幕府御目付・池田修理にあて、攘夷の号令をすみやかに天下に布告すべしと勧告。
三月一二日 新徳寺において東下の披露会。八郎から一同に向かって、関白の命によって攘夷の先鋒となるむねを言い渡す。近藤勇・土方歳三・芹沢鴨の一党、これに対して不服を申し立てる。八郎、嚇怒。彼らと全然絶縁するということで、ひとまずおさまる。このとき近藤らと共に脱退、十三名。
※ はじめ浪士組東下のこと定まるや、そのうち三十名は京都に留まりて鵜殿これを統べ、もって京都の警護に任じ、新たに高橋泥舟が浪士取扱いを拝命し、二百名の浪士をひきいて東帰すべき命があった。
※ しかるに数日の後、浪士残留のことは沙汰やみとなり、一同帰府することになる。しかして高橋の任命とそれに、講武所師範の速見又四郎・佐々木只三郎・高久保二郎・依田哲二郎・永井寅之助、広瀬六兵衛が浪士出役に任ぜられたが、公然披露になったのは出発当日の朝、間際。

三月一三日 朝、出発。一同はまた木曽路を取って江戸に向かう。
三月二〇日 龍馬、姉乙女に勝海舟の弟子になったと手紙を書く。
三月二八日 浪士一同が江戸につく。
※ 江戸に参集した浪士が約百六十名を算し、窪田治部右衛門・中条金之助などがその取扱いに任命。本所三笠町の小笠原加賀守の空屋敷が、浪士組の屯所にあてられる。石坂・村上は馬喰町大松屋、八郎は山岡鉄舟の家に寓して、いろいろ密議をこらす。
四月一日 朝廷から幕府に勅して、外国応接のことを水戸の徳川慶篤公に委任せしめ、かつ攘夷の期限を五月十日とすべき旨をも諸藩に布告せしめた。
四月二日 龍馬、江戸で大久保一翁訪問、松平春嶽宛ての親書を受け取る。
四月三日 龍馬、「順動丸」で大坂に向う。

※ 八郎、山岡・高橋の両人に説き、板倉閣老にせまって攘夷の決行をうながさせたが、窪田治部右衛門・佐々木只三郎らは八郎の主張に反対し、ひそかに板倉閣老に向かって、山岡・高橋の説は国家に害ありと説き立てた。
※ あたかもこのごろ、水戸の藤田小四郎・田中愿三〔愿蔵か〕らも、また八郎と気脈を通じ、藩主にせまりて攘夷の断行のうながすあり。
※ 八郎、幕府と手を絶ち、独立大挙して攘夷を決行する覚悟をきめた。山岡・高橋・石坂・村上の諸盟友に向かい、熱心に決挙の必要を説き、ついに彼らを同意させた。
※ まず大挙横浜におもむき、火箭をもって市街を焼き、日本刀を揮いて外人を斬り、石油をそそいで黒船を焼き払い、ただちに神奈川の本営を略し、その金穀をうばって軍資にあて、厚木街道より甲州街道に出で、一挙甲府をおとしいれて本拠をここに定め、勤王攘夷の義旗をかかげて広く天下の有志を募り、しかるのち京都に対して、先に建議せる趣意に違わず勅旨を実行せる旨を上申し、その指揮をあおいで将来の策を定めようという。
※ 夜盗は中止したけれど豪商からの徴発は実行。石坂・村上、松沢良策・和田理一郎・藤本昇ら、浅草蔵前の札差から金品を強要。

四月九日 龍馬、「順動丸」で大坂に入る。
四月一〇日 龍馬、和歌山滞在中の勝海舟訪問。
四月一〇日 八郎・その弟斎藤熊三郎・西恭輔とともに横浜におもむき、要所要所の視察をとげる。
四月一一日 帰り、横浜の討伐はなはだ容易であり、かつ急務であることを告げる。衆議ついに四月十五日をもって断行することに決す。
四月一三日 夕刻、八郎、幕吏のために暗殺。


七月一〇日*  ……「一〇日」は底本のまま。三〇日か。

◇参照:baku 幕末年表 matu(http://www.eonet.ne.jp/~kazusin/tosa/sakamotoryoma.htm)。典拠不明。


スリーパーズ日記

 五月一日(土)晴れ。山形へゆく。月山は雲がかかって見えない。前日、月山で遭難騒ぎ。今朝、男性一名、無事保護。線路沿いの田んぼは、まだ耕起が始まらず。霞城公園の北側堀水面には桜の花びらのふきだまり。昼下がり高野寛を聞きながら、徒歩にて図書館のはしご。ゴールデンウイーク初日、裏通りは車がこころなし少ない。本を借りてくるのも今が一番いい時期。寒気が去れば、これから一気に暑くなるかもしれない。



2010.5.3:公開
2010.5.6:更新
ふんふんふん、青豆よ。
ハゲ保険とかハゲ手当てとか希望(泣)/PoorBook G3'99条の会。
翻訳・朗読・転載は自由です。
カウンタ: -

  • 「baku 幕末年表 matu」より龍馬関連の年表を引用。典拠不明なのでちょっとこわいが(そのまま信じると)、龍馬が間崎とともに春嶽と出会ったのと同じころ、八郎は間崎を介して春嶽から無礼人斬殺の件をゆるされ、正式に浪士募集の命令が出る。かたや浪士組を集めたころ、かたや勝の海軍塾に入る。八郎と龍馬のあいだにシンクロする松平春嶽と間崎哲馬……。 -- しだ (2010-05-05 05:27:44)
  • いかーん、いかーん、いかーん。……朗読中、読み不明の人名は、てきとうに読んでみました。 -- しだ (2010-05-06 03:30:06)
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