MT*2_38-清河八郎(一)大川周明

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MT*2_38-清河八郎(一)大川周明

2010.4.10 第二巻 第三八号

清河八郎(一)
大川周明
 第一章 清河八郎の家郷
 第二章 修行時代の清河八郎
    一 清川の少年、斎藤元司(もとじ)
    二 出奔および入塾
    三 上洛および九州行
    四 文武修行
    五 帰省および奉母行
    六 学問より実行への転機




【週刊ミルクティー*第二巻 第三八号】
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※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。
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(c) Copyright is public domain.

定価:200円(税込)  p.195 / *99 出版
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(47項目)p.280
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飛び出せ! 週刊ミルクティー*

オリジナル版 週刊ミルクティー*現代表記版
清河八郎(一) 清河八郎(一)
大川周明 大川周明
 清河八郎正明は莊内藩の郷士の子である。(略)  清河八郎正明は庄内藩の郷士の子である。(略)
 八郎の生家は此村の豪族齋藤氏である。遠祖齋藤外記、上國より來つて初めて清川村を開拓し、其後世々郷士であつた。傳ふる所によれば、源義經が北越を經て奧州に潜行するに當り、清川村を過ぎて齋藤家に館した時、當主齋藤外記が主從を歡待して百方便宜を圖つたので、義經深く其の芳情に感じ佩ける所の刀を解いて之を外記に遺つたとのことである。現に齋藤家が重代の家寶として秘藏する鬼王丸作の太刀、長二尺五分光芒爛々飛電の如きもの即ちそれである。其後南北朝の時には、家を擧げて鎭守府將軍北畠顯家の幕下に屬した(略)  八郎の生家はこの村の豪族斎藤氏である。遠祖斎藤外記、上国より来たってはじめて清川村を開拓し、そののち世々郷士であった。伝うるところによれば、源義経が北越をへて奥州に潜行するにあたり、清川村をすぎて斎藤家に館したとき、当主斎藤外記が主従を歓待して百方便宜をはかったので、義経深くその芳情に感じ、佩(は)けるところの刀を解いてこれを外記に遺ったとのことである。現に斎藤家が重代の家宝として秘蔵する鬼王丸作の太刀、長二尺五分光芒爛々飛電のごときものすなわちそれである。その後南北朝のときには、家をあげて鎮守府将軍北畠顕家(あきいえ)の幕下に属した(略)。
 かくて翌安政六年には、(略)神田お玉ヶ池二六横町に土藏付の家屋を買求め、之を普請して七月には此處に引移つた。  かくて翌安政六年(一八五九)には、(略)神田お玉ヶ池二六横町に土蔵付の家屋を買い求め、これを普請して七月にはここに引き移った。
 八郎は此の新居に『文武指南所』と云ふ大看板をかけた。当時は儒者は儒者、劔客は劔客と、それ/″\分れて居たことであれば、文武併せ教授する者は、江戸廣しと雖も八郎一人であつた。蓋し八郎の劔道は非尋常の上達で、千葉門下の逸足として、劔客の名を山岡鐵舟などゝ並び馳せる程になつて居たのである。彼はまた此年の暮に活字版を買求めて、自己の著作を刊行しやうとした。當時個人で活字版を買求めた者も、恐らく八郎の外に無かつたらう。彼は先づ武道篇を和譯して翌年二月之を出版した。  八郎はこの新居に「文武指南所」という大看板をかけた。当時は儒者は儒者、剣客は剣客と、それぞれ分かれていたことであれば、文武あわせ教授する者は、江戸広しといえども八郎一人であった。けだし八郎の剣道は非尋常の上達で、千葉門下の逸足として、剣客の名を山岡鉄舟などと並び馳せるほどになっていたのである。彼はまたこの年の暮に活字版を買い求めて、自己の著作を刊行しようとした。当時個人で活字版を買い求めた者も、おそらく八郎のほかになかったろう。彼はまず『武道篇』を和訳して翌年二月これを出版した。
 然るに萬延元年三月三日、井伊大老が水戸浪士によつて櫻田門外に斬られた。(略)  しかるに万延元年(一八六〇)三月三日、井伊大老が水戸浪士によって桜田門外に斬られた。

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大川周明 おおかわ しゅうめい
1886-1957(明治19.12.6-昭和32.12.24)
国家主義者。山形県生れ。東大卒。満鉄入社後、猶存(ゆうぞん)社・行地社・神武会を結成。軍部に接近、三月事件・五‐一五事件などに関与。第二次大戦後、A級戦犯。著「近世欧羅巴植民史」など。

◇参照:Wikipedia 大川周明、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。


底本

底本:『清河八郎』行地社出版部
   1927(昭和2)年2月11日 発行

NDC 分類:289(伝記:個人伝記)
http://yozora.kazumi386.org/2/8/ndc289.html


年表

延文年中(一三五六〜一三六一)
顕家戦没。畑谷城主春風治次、藤島城主・土佐道俊を招ぎ、襲うてこれを殺す。さらに兵を卒いて藤島城を攻める。斎藤外記、土佐民部の求援に応じ敵軍を衝き、春風治次を敗走せしめて藤島城を保たしめる。

文化五(一八〇八)
清川に大火ありて一村延焼。菩提寺また烏有に帰す。

天保元(一八三〇)
八月四日、吉田松陰、生まれる。
一〇月一〇日 八郎、生まれる。この年、大久保甲東が薩摩に生まれ、吉田松陰が長州に生まれる。

天保六(一八三六)
一月三日、龍馬、土佐に生まれる。

弘化三(一八四六)
初夏 藤本鉄石、数日を雷山の書斎楽水楼に安居。

弘化四(一八四七)
五月二日深夜 八郎、六十里越の山道を通って出奔。
五月一七日 江戸着。
五月二五日 深川堀江町の米屋喜七へおもむく。
八月一日 東条一堂の塾に入る。

弘化五(一八四八)十九歳
一月三日 伯父弥兵衛および金治の両人が商用をかねて関西に旅行するに連れ立ち、江戸を発し、京阪より中国に出で、岩国に至りて錦帯橋へ行く。
四月二四日 江戸に帰る。
七月二一日 弟熊二郎病死の報。いったん帰郷。

嘉永三(一八五〇)
一月二五日 行李を収めて家を出で、鶴岡に至りて伯父金治に投じ、一書を父に送って回すべからざるの志を示し、切に遊学を許されんことを請う。
一月二九日 『耕雲録』条。
二月三日 鶴岡を発。路を越後に取り、信州より木曽路に入る。
三月一一日 京都着。
三月一二日 画家横山華谿をたずね、ついて学ぶべき師を相談。
三月一三日 梁川星巌をたずねる。
七月三日 九州旅行をくわだて、京都を発した。
七月六日 大阪から船に乗り、瀬戸内海を西に向かって走る。
七月一一日 暴風にあい、助かる。
七月一四日 下ノ関につく。
七月一五日 小倉に渡り、福岡・佐賀をへる。
七月二二日 長崎についた。
八月二日 長崎を発し、温泉岳をこえて島原に出で、船で熊本にわたり、清正公廟に参詣し沢村九門をたずねる。ついで再び佐賀に迂回して草場佩川をたずね、久留米から筑後川に沿うて豊後に入り、豆田にいたりて広瀬淡窓をたずねる。
八月一六日 九州を離れて下ノ関に入る。
八月二〇日 船に乗じて東に向かう。
八月二九日 大阪に上陸
八月三〇日 帰洛。
九月八日 東行の途につく。
九月二一日 江戸着。
※ 松陰、九州に遊学する。また江戸に出て佐久間象山の師事を受けた。

嘉永四(一八五一)二十二歳
一月一二日 再び東条塾に入る。
二月一日 千葉周作の門に入る。
一〇月一五日 日記「余八月よりして夜は丑にあらずばあえて寝ねず、今日に至りはじめて夜は子に寝ねて寅に起きんことを期す」。

嘉永五(一八五二)二十三歳
二月一日 安積艮斎の塾に転じる。寄宿の塾生十五名。土佐の間崎哲馬、南部の江田大之進などと意気投合。
六月二二日付 書簡を父に送る。
※ 生年よりこの春まで『旦起私乗』『耕雲録』両日記がある。ここまでの書中には、言いまだかつて時事におよんだものがない。
※ 松陰、長州藩に無許可の形で宮部鼎蔵らと東北の会津藩などを旅行。

嘉永六(一八五三)
一月一七日付 書簡ではじめて時事に言及。
三月 帰郷。
四月 松前に渡って蝦夷地を視察。
八月 家に帰る。翌年二月まで楽水楼に起臥して静かに読書。
※ 松陰、ペリーが浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を視察。
※ 龍馬、剣術修行のため江戸に出て、千葉定吉の桶町千葉道場に入門。12月には佐久間象山の私塾にも通っている。

嘉永七(一八五四)
二月 再度、江戸にのぼる。
二月一一日ごろ 異国船、神奈川沖へ追々乗り込み。
二月二四日 江戸着。その日ただちに神奈川におもむき、外人の仕打ちを目撃。
二月二九日付 父宛書簡。
五月一一日付 父宛書簡。
九月 神田三河町二丁目新道に一軒の家を新築。普請に取りかかる。
一〇月二一日 引き移る。
一〇月二六日付 父宛書簡。
一一月四日 地震。九州・四国より東海道の太平洋岸一帯に津波を生じ、海陸の被害はなはだしかった。
一二月 安政と改元。姓名を清河八郎とあらためる。
一二月 水野行蔵、本名、上野禎蔵、庄内藩を脱して国事に奔走。
一二月八日付 父宛書簡。
一二月二九日夜 神田連雀町より失火して大火。八郎の家も新築後三か月で類焼。
一二月三〇日 父宛書簡。
※ 松陰、浦賀に再来航していたペリーの艦隊に対してアメリカ密航を望んで拒絶されて送還。
※ 龍馬、土佐に帰郷。画家の川田小龍から西洋事情を学ぶ。

安政二(一八五五)
春 後事を安積五郎にたくして帰郷。
三月二〇日 奉母行に出立。新潟より長岡に出で、信州善光寺に詣り、木曽路をとりて京都に出で、京阪の見物を終えて四国に渡り、四国より安芸にいたり、巌島・錦帯橋を見て引き返し、中国をへて京都にかえる。
七月二六日 東海道をくだって江戸につく。
九月一五日 日光そのほか関東の名所を残るところなく見物。やがてまた上府のさいに住むべき家をも両国薬研堀に求め、安積五郎をともないて帰郷。『西遊草』を記す。
一〇月二日夜 江戸、大地震。
一〇月下旬 安積とともに江戸に出る。両国の家は火災はまぬがれたけれど非常な破損。ふたたび故山に帰って静かに勤学することに決する。
一〇月二八日付 父宛書簡。
※ 大部の書籍を買い求めて江戸を去り、途中最上の瀬見温泉に滞留すること数旬。
※ 松陰、出獄を許されたが、杉家に幽閉の身分に処された。

安政三(一八五六)
一月 郷里に帰る。
※ 龍馬、再び江戸・小千葉道場に遊学。

安政四(一八五七)二十八歳
四月まで、楽水楼上に潜心読書。
四月 妾・蓮をともなって郷里を去る。路を仙台にとり、桜田良佐の門に剣道を学んでいた弟熊三郎をも伴いて江戸にいたる。しばらく下谷和泉橋通加藤侯門前に一家を求めて住まう。
八月 昌平橋内の神田淡路坂に家を求めて塾を開く。
一一月二日付 父宛書簡。
※ 龍馬、盗みを働き切腹沙汰となった仲間の山本琢磨を逃がす。
※ 松陰、叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。

安政五(一八五八)
※ 井伊大老が朝廷のご趣旨と民間志士の希望にそむいて外国と通商条約を結ぶ。安政の大獄をおこし、尊王攘夷の志士に大弾圧を加える。
※ この年、コレラの流行猖獗をきわめ、死者算なきありさま。
一〇月二九日付 父宛書簡。
※ 龍馬、剣術修行を終えて帰国。
※ 松陰、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画。計画は頓挫し、自首して老中暗殺を自供。

安政六(一八五九)
二月中旬 武者修行を志し、弟子小栗篤三郎をともない、江戸を発す。関宿・古河・宇都宮・大田原・白河諸藩の道場に仕合いを試みる。
三月八日 仙台において桜田良佐と手をあわせる。
三月一四日付 江戸に留守居せる弟熊三郎から父宛書簡。昨夜、隣家より出火。
三月二六日 山形に出で、最上の諸剣客を風靡して天童につく。この日に神田淡路坂の家塾またまた火災にあったという凶報を受け取る。その日に安積五郎にあてて、門弟笠井伊蔵、弟熊三郎および蓮のことを頼む。
三月二八日 郷里に帰る。
五月下旬 家を出でて路を北越にとり、越後ならびに上州諸藩の道場に武を試みる。
六月一一日 着府。しばらく安積の家に寄寓。そのうち神田お玉ヶ池二六横町に土蔵付の家屋を買い求め、これを普請。
七月 ここに引き移る。新居に「文武指南所」という大看板をかける。
一〇月二七日 松陰、斬刑に処される。

万延元(一八六〇)
二月 『武道篇』を和訳して出版。
三月三日 井伊大老、水戸浪士によって桜田門外に斬られる。
※ 祖父危篤の報が来たので、彼はいそぎ帰省したが、病やや怠れるを見、東都の形勢を憂えて匆々に帰府。
四月八日 帰府後いくもなく祖父他界。再帰郷。のち再出府。これが八郎にとりて故郷の見納めとなる。
一二月五日 同志として莫逆の間柄となれる薩藩の伊牟田尚平・樋渡八兵衛らが、米国公使館通訳ヒュースケンを麻布古川端に斬る。

文久元(一八六一)三十二歳
※ 五月より翌文久二(一八六二)九月まで『潜中始末』『潜中記事』『潜中記略』三著あり。
※ 土佐勤王党結成。龍馬、加盟。一〇月、武市の密使として長州へ向かう。

文久二年(一八六二)
二月 龍馬、久坂玄瑞と面談。
三月 龍馬、沢村惣之丞とともに脱藩。九州などを放浪した後、江戸へ入り千葉道場に身を寄せる。その後、千葉重太郎の紹介で、幕府政事総裁職の松平春嶽に面会。
一二月 龍馬、春嶽の紹介状を携え、勝海舟に面会して弟子となる 。

文久三(一八六三)
四月一三日 暗殺。

昭和二(一九二七)
一月 大川周明、『清河八郎』序文、記す。


※ Wikipedia「坂本龍馬」「吉田松陰」の項目より、関連事項を追加。


疑問点

旺益 旺溢か?(『周明全集』では「旺盛」)
貧り 貪り、か。(『周明全集』では「貪」)
敦撲 敦樸(とんぼく)か。
頼立齋梶村李北 頼立齋・梶村李北(ナカグロ欠落か)(『周明全集』ではナカグロあり)
形勢己に……風土己に 形勢已に……風土已に、か。(『周明全集』では「已」)
在右 座右か。(『周明全集』では「左右」)
明年後 明後年か。
良恕 諒恕(りょうじょ)か。事情を思いやってゆるすこと。
注き初め 注ぎ初め、か。(『周明全集』では「注ぎ初め」)

※ いずれも底本通り。


難字、求めよ。

高傲 こうごう、か。
倡始 しょうし
委した たくした、か。
館した
唐倭
弄器
揚楼 楊楼?
遵古堂
敞壊 しょうかい?
薀藉 温藉(おんしゃ)か。
従今 いまより、か。
延行


スリーパーズ日記

 奥付後の各号リード文に付けていたカッコ書きルビを削除。Windows 用の本文フォントを「MS 明朝」から「HG丸ゴシック M-PRO」に変更。「表示-縮尺-90%」を100%に変更。「設定-本文サイズ-21」「見出しサイズ-21」をそれぞれ「19」に変更。(2010.4.9)

 九日夜、井上ひさし死去。七十五才。十日、山形では梅が香り、ウグイスの初鳴きを聞く。

 井上ひさしに『藪原(やぶはら)検校(けんぎょう)』(新潮社、1974)という戯曲がある。検校というのは琵琶や按摩・鍼(はり)などを業とした盲人に与えられた役職名で、ピラミッド構造をした盲人の相互扶助組織の頂点にあった。最底辺にいたのが『座頭市』に代表される座頭。幕府公認で幕末まで存続した。検校や座頭のもうひとつの仕事に金貸し業がある。顔を知られないから借りる方は借りやすい。返してもらうほうも“弱者保護”の目をかけられやすい。与える/与えられる、貸与する/取り立てられる。ここに富をめぐるフォークロアが発生する。

 この本を知って読んだのが、一九九二年の学生時代。湾岸戦争、ジュリアナ、尾崎の死、『紅の豚』、山形新幹線開業の頃。翌年に、Jリーグ開幕、Windows 3.1 登場、『パトレイバー 2 the Movie』公開がひかえている。Wikipedia によれば、一九九〇年二月にオウムの衆院選出馬、一九九一年九月『朝まで生テレビ!』出演がある。

 清河八郎、文久三年四月十三日(一八六三年五月三〇日)没。享年三十四。今年はそれから一四七年目にあたる。(2010.4.12)



2010.4.13:公開
2010.4.21:更新
ひとよ、ひと夜に、花見ごろ。出羽三山に王蟲泣く。
月なきみそらの、芽くそ、花くそ。/PoorBook G3'99
翻訳・朗読・転載は自由です。
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  • うう、最新刊が……(泣) -- しだ (2010-04-20 12:04:50)
  • 思い出し。弘化四年(1847)八郎18才、五月、六十里越の関を通って初めて脱藩するが、小山松『清河八郎』によれば、上山の宿で実家からの奉公人に追いつかれる。八郎は彼と二人、山形へおもむき、そこでたしか サツキだったかの苗とじょうろだったか を買って奉公人に持たせて実家へと返らせる。戻った彼の姿を見て、父親・雷山をはじめ家族みな苦笑する。おもえば、5月8・9・10日と山形薬師堂では植木祭が定日だから、八郎はここで土産を購入したものか。若い母親と善光寺・伊勢・厳島など諸国行脚するのが、その八年後。 -- しだ (2010-05-12 05:51:00)
  • ちなみに、森林太郎『能久親王事蹟』によれば、慶応四年(1868)九月八日「日光山東照宮の什寶を會津より羽前國村山郡山形の柏山寺(はくさんじ)に移し」とある。この柏山寺は植木祭の山形薬師堂の門前にある。当時、天台宗の出羽国触頭。什宝はさらに山寺立石寺へ運ばれたと地元の話には残る。長島進『覚王院義観の生涯』によれば寛永寺執当の義観が山寺へ手紙を送っているはずなのだけれども、義観にまつわる話を聞いたことはない。が、白石から二口峠を越えて山寺へ彼が訪れていても、まったくありえなくはない。 -- しだ (2010-05-12 05:51:48)
  • 正確を期して訂正。上山へ八郎を追いかけたのは「斎藤家の小作人差配の惣助」。「五月六日、八郎は惣助とともに山形に行き、楓の苗木と漏斗(じょうご)と矢立(やたて)を買ってみやげとし、町はずれの茶屋でていねいな詫び状を書き、惣助に頼んだ」小山松『清河』p.36より。「戻った彼の姿を見て、家族みな苦笑する」という記述を見かけたような気がするのだけれども、みつけられなかった。 -- しだ (2010-05-22 07:41:25)
  • 見っけ。灯台もと暗し、大川『清河八郎』より。「使者は上ノ山で八郎に追付き、切に歸郷を勸めたけれど固より聽き入れない。彼は使者を伴ひて山形に赴き、楓の苗や矢立などを買求め、之を兩親への土産として使者を立歸らしめた。使者は土産物を持たされて空しく歸つたことが極り惡かつた。その樣子が餘りに可笑しかつたので、心配しながら待つて居た家人も、笑を禁じ得なかつたとのことである」。 -- しだ (2010-05-23 08:46:22)
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