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MT*2_37-右大臣実朝(三)太宰治

2010.4.3 第二巻 第三七号

右大臣実朝(三)
太宰治

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【週刊ミルクティー*第二巻 第三七号】
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※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。
※ JIS X 0213・ttz 形式。
※ この作品は青空文庫にて公開中です。翻訳・朗読・転載は自由です。
(c) Copyright is public domain.

定価:200円(税込)  p.258 / *99 出版
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(87項目)p.392
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飛び出せ! 週刊ミルクティー*

オリジナル版 週刊ミルクティー*現代表記版
右大臣実朝(三) 右大臣実朝(三)
太宰治 太宰治
(略)けれどもその折ちやうど御加持に伺候して居られた葉上僧正さまが、その御容態の御宿酔に過ぎざる事を見てとり、お寺から或る種の名薬を取りよせて一盞献じましたところが、たちまち御悩も薄らぎ、僧正さまは頗る面目をほどこしましたが、その名薬といふのは、ただのお茶でございましたさうで、(略)この葉上僧正栄西さまは、御承知のとほり、天平のころからの二大宗教、すなはち伝教大師このかたの天台宗と弘法大師を御祖師とする真言宗と、この二つが、だんだんと御開祖のお気持から離れて御加持御祈祷専門の俗宗になつてしまつたのにあきたらず思召され、再度の御渡宋より御帰朝以来、達磨宗すなはち禅宗といふ新宗派を御開立しようとなされて諸方を奔走し、一方、黒谷の御上人が念仏宗すなはち浄土宗を称へられたのもその頃の事でございましたが、両宗派ともそれぞれ上下の信仰を得て、たうとう南都北嶺の嫉視を招き、共にさまざまの迫害を受けられたやうでございまして、栄西さまは、鎌倉へのがれてまゐり、寿福寺を御草創なされ、建保三年六月に痢病でおなくなりなさるまで、ほとんどそこに居られまして、往年に新宗派を称へ、新智識を以て片端から論敵を説破なされた御元気は、その御晩年には、片鱗だも見受けられず、さらに大きくお悟りになつたところでもあつたのでございませうか、別段、御宗派にこだはるやうなところも無く、御加持御祈祷もすすんでなさいましたし、おひまの折には、お茶のお徳をほめたたへる御本などと、珍奇なものまでお書きあらはしになるくらゐでございましたから、私たちの眼には、ただおずるいやうな飄逸の僧正さまとしか見えませんでした。 (略)けれどもそのおりちょうどご加持に伺候しておられた葉上僧正さまが、そのご容態のお宿酔に過ぎざることを見てとり、お寺からある種の名薬を取りよせて一盞(いっさん)献じましたところが、たちまち御悩も薄らぎ、僧正さまはすこぶる面目をほどこしましたが、その名薬というのは、ただのお茶でございましたそうで、(略)この葉上僧正栄西さまは、ご承知のとおり、天平のころからの二大宗教、すなわち伝教大師このかたの天台宗と弘法大師をご祖師とする真言宗と、この二つが、だんだんとご開祖のお気持ちから離れてご加持・ご祈祷専門の俗宗になってしまったのにあきたらずおぼしめされ、再度のご渡宋よりご帰朝以来、達磨宗すなわち禅宗という新宗派をご開立しようとなされて諸方を奔走し、一方、黒谷の御上人が念仏宗すなわち浄土宗をとなえられたのもそのころの事でございましたが、両宗派ともそれぞれ上下の信仰を得て、とうとう南都北嶺の嫉視(しっし)をまねき、ともにさまざまの迫害を受けられたようでございまして、栄西さまは、鎌倉へのがれてまいり、寿福寺をご草創なされ、建保三年(一二一五)六月に痢病でおなくなりなさるまで、ほとんどそこにおられまして、往年に新宗派をとなえ、新知識をもって片端から論敵を説破なされたお元気は、そのご晩年には、片鱗だも見受けられず、さらに大きくお悟りになったところでもあったのでございましょうか、別段、ご宗派にこだわるようなところもなく、ご加持・ご祈祷もすすんでなさいましたし、おひまの折には、お茶のお徳をほめたたえる御本などと、珍奇なものまでお書きあらわしになるくらいでございましたから、私たちの眼には、ただおずるいような飄逸の僧正さまとしか見えませんでした。

※ 将軍家  ……源実朝 1192-1219 第3代将軍。頼朝の次子。
※ 葉上僧正 ……栄西 1141-1215 日本臨済宗の祖。備中の人。
※ 黒谷の上人……法然 1133-1212 浄土宗の開祖。美作の人。

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太宰治 だざい おさむ
1909-1948(明治42.6.19-昭和23.6.13)
小説家。本名、津島修治。青森県生れ。東大中退。屈折した罪悪意識を道化と笑いでつつんだ秀作が多い。第二次大戦後は虚無的・頽廃的な社会感覚を作品化。自殺。作「晩年」「虚構の彷徨」「斜陽」「人間失格」など。

◇参照:Wikipedia 太宰治、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。


底本

底本:「太宰治全集第五巻」筑摩書房
   1990(平成2)年2月27日初版第1刷発行

NDC 分類:913(日本文学:小説.物語)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc913.html


主要キャラ一覧

将軍家、右大臣 → 源実朝。
故右大将 → 源頼朝。
尼御台 → 北条政子。
御台所、西八条禅尼 → 源実朝の正室。坊門信清の娘。
相州、執権相模守 → 北条義時。
武州 → 北条時房。相州(義時)の弟。
左金吾将軍、二品禅室 → 源頼家。頼朝の長子。実朝の兄。
前大膳大夫、大官令、陸奥守 → 大江広元。覚阿入道。
前権大納言 → 坊門信清。
善信 ぜんしん → 三善康信。問注所入道か。
左衛門尉 → 和田義盛。侍所別当。
武蔵守 → 大江親広か。広元の長子。
修理亮、匠作 → 北条泰時。義時の長子。
一幡 → 源頼家の長子。
善哉 ぜんざい → 源頼家の次男。法名、公暁。(『完全制覇』は「ぜんや」p.121)
千寿 → 源頼家の三男。法名、栄実。
千幡 せんまん → のちの源実朝。
上皇 → 後鳥羽上皇か。


年表

建久六(一一九五)
三月 頼朝、上洛のおり、東大寺の大仏殿に参詣。

建仁三(一二〇三)
九月七日 叙従五位下、任征夷大将軍。
一〇月二四日 任右兵衛佐。

元久元(一二〇四)
一月七日 叙従五位上。
三月六日 任右近少将。

元久二(一二〇五)
一月五日 正五下。
一月二九日 任右中将、兼加賀介。

建永元(一二〇六)
二月二二日 叙従四下。

承元元(一二〇七)
一月五日 従四上。

承元二(一二〇八)
実朝十七歳の御時、清綱から相伝の『古今和歌集』献上。
一二月九日 正四下。

承元三(一二〇九)
四月一〇日 叙従三位。
五月二六日 更任右中将。

建暦元(一二一一)
一月五日 正三位。
六月三日 実朝、御寝のさい、高僧一人夢の中にあらわれて、宋朝医王山の長老たりとのお告げ。

建暦二(一二一二)
八月、十一月 和歌の文書をかずかず献上。
九月 筑後前司頼時に託して消息ならびに和歌の文書を実朝に送る。
一二月一〇日 従二位。

建暦三(一二一三)
二月二七日 正二位。このころから実朝、官位の昇進を京都へ催促。
六月二六日 御所新造のこと群議。去る五月合戦の時、焼失するによりてなり。
七月七日 御所において和歌御会。
七月九日 御所の造営、重ねて沙汰あり。
七月二〇日 故和田義盛の妻、厚免をこうむる。
七月二三日 新造の御所のこと沙汰あり。
八月三日 御所の上棟。相州以下諸人群参。
八月六日 新造の御所の障子の画図の風情のこと、先々の絵御意に相かなわず。
八月一七日 京極三位、二条中将雅経に付し、和歌・文書などを実朝に献ず。
八月一八日 子剋、実朝、南面に出御。歌数首、独吟。丑剋におよびて、夢のごとくして青女一人前庭をはしり通る。
八月二〇日 実朝、広元の邸より新御所に入御。
八月二二日 鶴岳上宮の宝殿に、黄蝶大小群集。
九月二二日 実朝、火取沢辺に逍遥。
九月二六日 長沼宗政、御ところにおいて大声をはりあげ、実朝の悪口。
一〇月三日 今日御書をもって、大宮大納言殿の方におおせらるることあり。公家より西国の御領などの臨時の公事を課せらるるなり、一切ご沙汰におよぶべからざるの由。広元朝臣のごとき、これを申すといえども、おおせていわく、一向停止の儀においては、しかるべからず。
一〇月一三日 夜に入って雷鳴。御所の南庭に、狐鳴くことたびたびにおよぶ。
一一月二三日 京極三位、相伝の私本『万葉集』一部を実朝に献ず。
一二月三日 実朝、寿福寺に御参。左衛門尉義盛以下の亡卒得脱のため。
一二月七日 鷹狩りを停止すべきの旨、諸国の守護人らにおおせらる。

建保二(一二一四)
一月 二所詣に進発。
二月三日 一行、無事に鎌倉へ帰着。
二月一日 亥刻地震。
二月四日 実朝、病悩。葉上、茶一盞と一巻の書を献ぜしむ。
二月七日 寅剋大地震。
二月一四日 実朝、烟霞の興をもよおされ、杜戸浦に出でしめ給う。由比浜より還御。
三月九日 実朝にわかに永福寺に御出、桜花をご覧ぜんがためなり。
四月三日 亥剋大地震。
五月から六月にかけて大旱魃。
六月三日 諸国炎旱。実朝、祈雨のために八戒を保ち、法花経を転読。
六月五日 甘雨降る。
六月一三日 関東の諸御領の乃貢のこと、来秋より三分の二を免ぜらるべし。
八月七日 甚雨洪水。
八月二九日 去る十六日、仙洞秋十首の歌合わせ。二条中将雅経、写し進ず。
九月二二日 丑剋大地震。
一〇月六日 亥剋大地震。
一〇月一〇日 申刻甚雨雷鳴。
一一月二五日 六波羅の飛脚到着。和田義盛、大学助義清らの余類洛陽に住し、故金吾将軍家の御息をもって大将軍となし、反逆を巧らむの由、その聞こえあるによりて、去る十三日、前大膳大夫の在京の家人ら、くだんの旅亭を襲うのところ、禅師たちまち自殺す、伴党また逃亡すと云々。
一二月四日 亥剋、由比浜辺焼亡。
建保二(一二一四)から三年にかけて、ほとんど連日の大地震、それに火事やら、大風やら、あるいは旱魃に悩むかと思うと、こんどは大雨洪水、またじつにものすごい雷鳴もしばしばございまして、天体においてさえ日食・月食の異変があり、関東の人心恟々たるもの。

建保三(一二一五)
一月六日 時政、北条郡において卒去。
一月八日 伊豆国の飛御参ず。
一月一一日 若宮辻の人家焼亡。
二月二四日 戌刻、雷電数声。
三月五日 実朝、花を覧んがため、三浦の横須賀に御出。
三月二〇日 京進の貢馬のことは、その役人面々に、逸物三疋をもって、兼日用意せしめ、見参に入るべし、選び定むることは、お計らいあるべきなりと云々。
六月二〇日 子剋、霊社鳴動。両三度におよぶ。
七月六日 坊門、さる六月二日仙洞歌合わせの一巻を実朝に進ぜらる、これ内々の勅諚によりてなり。
六月 栄西、没。
七月 仙洞御所より勅諚、『仙洞歌合』一巻が実朝に下し送られる。
八月一八日 甚雨、午剋大風、鶴岳八幡宮の鳥居転倒。
八月一九日 地震。
八月二一日 巳剋、鷺、御所の西侍の上に集まる、未剋地震。
八月二二日 地震、鷺の怪のこと、お占いをおこなわるるのところ、重変の由これを申す、よって御所を去って、相州の御亭に入御。
九月六日 丑刻大地震。
九月八日 寅刻大地震。
九月一一日 寅刻大地震、未剋またすこし動ず。
九月一三日 未剋地震。
九月一四日 酉剋地震、戌剋地震、同時に雷鳴。
九月一六日 卯剋地震。
九月一七日 戌剋三度地震。
九月二一日 連々の地震によりて、御祈をおこなわる。
九月二六日 雷鳴数声、降雹の大なること李子のごとし。
一〇月二日 寅刻地震。
一一月八日 実朝、相州御亭より御所に還御。鷺の怪によりて、ご旅宿すでに七十五日を経おわんぬ。
一一月二五日 幕府において、にわかに仏事。導師は行勇律師。実朝、去夜夢想あり、義盛已下の亡卒御前に群参。
一二月一五日 亥刻地震。
一二月一六日 終日風はげし、連々の天変などのこと、実朝ことにご謹慎あるべきの変なりと云々。

建保四(一二一六)
一月一七日 将軍家の持仏堂の本尊、運慶造りたてまつり、京都より渡したてまつらる。開眼供養、信濃守行光奉行としてその沙汰あり。
一月二八日 はじめて本尊を持仏堂に安置。供養の儀。
三月七日 海水色を変ず、赤きこと紅を浸せるがごとし。
三月二五日 御台所厳閤の薨去によりて、信濃守行光の山庄に渡御、密儀。
四月九日 常の御所の南面において、終日諸人の愁訴を聴断。
五月二四日 実朝、山内辺を歴覧。期せざるの間、諸人追って馳せ参る。
六月八日 陳和卿、鎌倉へ参着。筑後朝重の宅を旅宿となす。
六月一五日 和卿を御所に召して、対面。
六月二〇日 御二十五歳のお若さをもって権中納言に任ぜられる。
閏六月一四日 広元、今月一日大江姓にうつりおわんぬ。
七月二十日 左近中将を兼ねる。
九月二〇日 広元、御所に参じ、相州の中使と称して、ご昇進の間のこと、諷諌し申す。
一〇月五日 実朝、諸人の庭中に言上することを聞かしめ給う。
一一月二四日 実朝、唐船を修造すべきの由、宋人和卿に仰す。また扈従の人六十余輩を定めらる、朝光これを奉行。
一二月一日 諸人の愁訴相積るの由、聞食すによりて、年内に是非せしむべきの旨、奉行人らにおおせらる。

建保五(一二一七)
三月一〇日 実朝、永福寺に御出。そののち行村の宅に入御、和歌の御会。
四月一七日 和卿、唐船を造りおわんぬ。浮かべ出すことあたわず、よって還御。彼船はいたずらに砂頭に朽ち損ず。
五月一一日 鶴岳八幡宮の別当定暁、腫物をわずらいて入滅。
五月二七日 去る元年(一二一三)五月亡卒せる義盛以下の所領、神社仏寺のこと、本主の例にまかせて興行せしむべきの由、今日彼の跡拝領の輩におおせらると云々。
六月二〇日 公暁、園城寺より下着。政子のはからいによって鶴岳宮の別当に任ぜられる。
七月二四日 京都の使者参着。去る十日より上皇ご瘧病、毎日発らしめ給う、内外のご祈祷さらにその験見えずと云々。
七月二六日 山城行村、使節として上洛。院、御悩のことによりてなり。
七月から八月にかけて、仙洞御所の御悩。見舞いの使節を上洛せしめ、荒駒三百三十頭を献上。修法を仰せ出され院の御悩平癒を祈念。
九月一三日 実朝、三浦に渡御。
九月三〇日 永福寺にはじめて舎利会。政子、実朝ならびに御台所御出。
一〇月一一日 公暁、鶴岳別当職に補せらるるの後、はじめて神拝。宿願によりて、今日以後一千日、宮寺に参籠。

建保六(一二一八)
一月一三日 任権大納言。
政子、二度目の熊野詣。ついでに京都にも立ち寄る。
二月四日 政子、上洛。
三月六日 左近大将。
四月二九日 申剋、政子、還向。さる十四日、従三位に叙せしむるべきの由宣下。三条清範をもって、くだんの位記を三品の御亭にくださる。同十五日、仙洞よりご対面あるべきの由仰せくださるといえども、しかるべからざるの旨これを申され、即時下向。
六月二〇日 内蔵頭忠綱、勅使として下向、参着。
六月二一日 午剋、忠綱朝臣くだんのご調度などを御所に運ばしむ。実朝、忠綱を簾中に召して対面。
六月二七日 将軍家、大将に任ぜられ給う。拝賀の式。鶴岳宮に参詣。
七月八日 左大将家、直衣始。鶴岳宮に御参、午剋出御。
八月一五日 鶴岳放生会、実朝、参宮。
八月一六日 実朝、御出。流鏑馬。
九月一三日 御所にて和歌の御会。
一〇月九日 内大臣。
一〇月二六日 京都の使者参ず。去る十三日、政子従二位に叙せしめ給う。
一二月二日 実朝、右大臣に任ぜられる。
一二月五日 鶴岳の別当公暁、宮寺に参籠。さらに退出せられず、数ヶの祈請。除髪の儀なし。白河義典をもって、大神宮に奉幣せんがため、進発せしむ。そのほか諸社に使節を立てらるるの由、今日御所中に披露。
一二月二〇日 実朝、政所始の儀式。
一二月二一日 実朝、大臣拝賀のために、明年正月鶴岳宮に御参あるべきによって、ご装束・御車已下の調度など、また仙洞よりこれをくだされ、今日到着。扈従の上達部坊門亜相已下参向せらるべしと云々。

建保七(一二一九)
一月七日 御所の近辺、入道覚阿の亭以下四十余宇焼亡。
一月一五日 大倉辺焼亡す、数十宇災。
一月二三日 晩頭雪降る、夜に入って尺に満つ。
一月二四日 白雪山に満ち地に積もる。
一月二七日 夜に入って雪降る、積もること二尺余、今日将軍家右大臣拝賀のため、鶴岳八幡宮に御参。戌の時、実朝、最期をとげる。
一月二八日 実朝、葬礼。
二月二日 加藤判官六波羅に馳せつき、右府将軍ご他界のよし申す。
四月一二日 承久元年と改元。


疑問点

姶めて → 始めて 【始、か】
勿諭 → 勿論 【論、か】
打ち拾て → 打ち捨て 【捨、か】

以上、3件。


難字、求めよ。

杜戸浦
北条郡 伊豆国。
医王山 宋。
乃貢
重変
三反
臨江王


スリーパーズ日記

 花咲きまえの花冷えの二週間。ちらほらと梅が咲き始め。ようやく湯タンポなしでも過ごせる。山折哲雄『天皇の宮中祭祀と日本人』(日本文芸社、2010.1)読了。チベット仏教の解説部分が参考になる。一神教としての明治神道・国家神道という主張は感覚的には理解できるものの、明治とそれ以前の神道の対比が弱い。皇族間の紛争にも触れていない。

 弥太郎の家の中にぶらさがっているのは、コウゾだろうか、ビロウだろうか。武市さんにうばわれちゃったぜよ。

 贈与、贈り物、贈物、土産、みやげ、ギフト、プレゼント……。

 モース『贈与論〈Essai sur le don〉』。ドン。Wikipedia の「贈与」の項は、法概念の記述にかたよっている。経済人類学、カール・ポランニー……。最寄りの図書館には『贈与論』がない。かわりに、栗本慎一郎ものを数冊確認。『パンツをはいた』栗ちゃんを読み始める。

「経済」とか「貨幣」とか「金融」といった共同勘違いが生じる以前から、贈与・送り物の交換の長い歴史があって、動物の広くに求愛給餌や遠吠え・クジラの歌といったコミュニケーションの交換があることを考えると、言葉や文字の発明・一般化に先だって、ことばにならない歌のおくりあい、ふしまわしのついた記憶の交換、意味のない(もしくは意味を超越した)エモーショナルなサウンドの贈与がかわされていた時期のほうが圧倒的に長かったことが想像される。

 ペットと飼い主のあいだには利得の関係というよりも、しばりのゆるい贈与・交感による関係がなりたっているように見えるし、幼児と成人、児童と老人のあいだにも、理的な損得勘定では説明のつかないインターアクション(相互作用)が見られる。太陽や月や気象現象や地殻変動を天や神からの一方的な贈与とみれば、いえにえや人柱という行為もまた交信・贈与のための手段であったことがうかがえるし、自爆テロルやマルチ商法・振込め詐欺にも与える/与えられるの贈与関係が組みこまれている。(2010.4.4)


2010.4.3:公開
国家公案医院チュー。
パンティーをかぶったサルー/PoorBook G3'99
翻訳・朗読・転載は自由です。
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  • 一匹見つけたら十匹いると思え、とはよく言ったもの。姶め……岡本綺堂「青蛙堂鬼談」、森鴎外「伊沢蘭軒」以上2作品に各1件ずつ。/勿諭……岡本綺堂「綺堂むかし語り」に2件、久坂葉子「幾度目かの最期」に1件。拾て……佐々木味津三「右門捕物帖 七化け役者」に1件。「衙門」の誤用は太宰治「右大臣実朝」の1件のみ。 -- しだ (2010-04-08 02:41:13)
  • ところで、「右大臣実朝」は校正者の記録がない。校正を経ていないのか、それとも何らかの段階で記録を誤削除したものか、不明。初期の登録作品に校正を経ていないものがあると聞いた記憶はない、……ような気がする。 -- しだ (2010-04-08 02:41:52)
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最終更新:2010年04月08日 02:41