MT*2_35-右大臣実朝(一)太宰治
2010.3.20 第二巻 第三五号
右大臣実朝(一)
太宰治
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◇参照:『改訂総合資料日本史』(浜島書店、1985.2)、『完全制覇・鎌倉幕府』鈴木亨(立風書房、2000.11)。
※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。
※ JIS X 0213・ttz 形式。
※ この作品は青空文庫にて公開中です。翻訳・朗読・転載は仕組まれた自由です。
(c) Copyright is public domain.
定価:200円(税込) |
p.275 / *99 出版 |
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(66項目)p.358
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飛び出せ! 週刊ミミクリ草子*
オリジナル版 |
ミミクリ草子*現代表記版 |
右大臣実朝(一) |
右大臣実朝(一) |
太宰治 |
太宰治 |
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ウソトハ、ドノヤウナ事デス。 |
うそとは、どのような事です? |
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「真似事でございます。たとへば、恋のお歌など。将軍家には、恐れながら未だ、真の恋のこころがおわかりなさらぬ。都の真似をなさらぬやう。これが蓮胤の命にかけても申し上げて置きたいところでござります。世にも優れた歌人にまします故にこそ、あたら惜しさに、居たたまらずこのやうに申し上げるのでござります。雁によする恋、雲によする恋、または、衣によする恋、このやうな題はいまでは、もはや都の冗談に過ぎぬのでござりまして、その洒落の手振りをただ形だけ真似てもつともらしくお作りになつては、とんだあづまの片田舎の、いや、お聞き捨て願ひ上げます。あづまには、あづまの情がある筈でござります。それだけをまつすぐにおよみ下さいませ。ユヒソメテ馴レシタブサノ濃紫オモハズ今ニアサカリキトハ、といふお歌など、これがあの天才将軍のお歌かと蓮胤はいぶかしく存じました。御身辺に、お仲間がいらつしやりませぬから、いいえ、たくさんいらつしやつても、この蓮胤の如く、」と言ひかけた時に、将軍家は笑ひながらお立ちになり、 |
「真似事(まねごと)でございます。たとえば、恋のお歌など。将軍家には、おそれながらいまだ、真の恋のこころがおわかりなさらぬ。都の真似(まね)をなさらぬよう。これが蓮胤(れんいん)の命にかけても申し上げておきたいところでござります。世にも優れた歌人にましますゆえにこそ、あたら惜(お)しさに、いたたまらずこのように申し上げるのでござります。雁によする恋、雲によする恋、または、衣によする恋、このような題はいまでは、もはや都の冗談にすぎぬのでござりまして、その洒落(しゃれ)の手振りをただ形だけ真似(まね)てもっともらしくお作りになっては、とんだあずまの片田舎の、いや、お聞き捨て願い上げます。あずまには、あずまの情があるはずでござります。それだけをまっすぐにおよみくださいませ。“ゆひそめて馴(な)れしたぶさの濃紫(こむらさき)おもはず今にあさかりきとは”というお歌など、これがあの天才将軍のお歌かと蓮胤(れんいん)はいぶかしく存じました。ご身辺に、お仲間がいらっしゃりませぬから、いいえ、たくさんいらっしゃっても、この蓮胤(れんいん)のごとく……、」といいかけた時に、将軍家は笑いながらお立ちになり、 |
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モウヨイ。ソノ深イ慾モ捨テルトヨイノニ。 |
もうよい。その深い欲も捨てるとよいのに。 |
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とおつしやつて、お奥へお引き上げになられました。私もそのお後につき従つてお奥へまゐりましたが、お奥の人たちは口々に、入道さまのぶしつけな御態度を非難なさつて居られました。けれども将軍家はおだやかに、 |
とおっしゃって、お奥へお引き上げになられました。私もそのお後につきしたがってお奥へまいりましたが、お奥の人たちは口々(くちぐち)に、入道さまのぶしつけなご態度を非難なさっておられました。けれども将軍家はおだやかに、 |
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ナカナカ、世捨人デハナイ。 |
なかなか、世捨人(よすてびと)ではない。 |
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とおつしやつただけで、何事もお気にとめて居られない御様子でございました。 |
とおっしゃっただけで、何事(なにごと)もお気にとめておられないご様子でございました。 |
※ 将軍家……源実朝のこと。
※ 蓮胤 ……鴨長明のこと。
2_35.rm
(朗読:RealMedia 形式 352KB、2'50'')
太宰治 だざい おさむ
1909-1948(明治42.6.19-昭和23.6.13)
小説家。本名、津島修治。青森県生れ。東大中退。屈折した罪悪意識を道化と笑いでつつんだ秀作が多い。第二次大戦後は虚無的・頽廃的な社会感覚を作品化。自殺。作「晩年」「虚構の彷徨」「斜陽」「人間失格」など。
◇参照:Wikipedia
太宰治、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。
底本
底本:「太宰治全集第五巻」筑摩書房
1990(平成2)年2月27日初版第1刷発行
主要キャラ一覧
将軍家、右大臣 → 源実朝。幼名、千幡。
故右大将 → 源頼朝
尼御台 → 北条政子
御台所 → 源実朝の室。坊門信清の娘。
相州、執権相模守 → 北条義時
左金吾将軍、二品禅室 → 源頼家。頼朝の長子。実朝の兄。
前大膳大夫 → 大江広元
前権大納言 → 坊門信清
善信 ぜんしん → 三善康信。問注所入道か。
左衛門尉 → 和田義盛。侍所別当。
武蔵守 → 大江親広か。広元の長子。
修理亮 → 北条泰時。義時の長子。
蓮胤 れんいん → 鴨長明
一幡 → 源頼家の長子。
善哉 → 源頼家の次男。法名、公暁。
千寿 → 源頼家の三男。法名、栄実。
上皇 → 後鳥羽上皇か。
登場キャラ一覧
物部守屋 |
もののべの もりや |
?-587 |
敏達・用明天皇朝の大連。尾輿の子。 |
聖徳太子 |
しょうとく たいし |
574-622 |
用明天皇の皇子。厩戸。 |
源義家 |
みなもとの よしいえ |
1039-1106 |
頼義の長男。八幡太郎。 |
藤原基俊 |
ふじわらの もととし |
?-1142 |
歌人・歌学者。 |
平清盛 |
たいらの きよもり |
1118-1181 |
忠盛の長子。平相国・浄海入道・六波羅殿。 |
平知盛 |
たいらの とももり |
1152-1185 |
平清盛の四男。母は平時子。 |
藤原忠清 |
ふじわらの ただきよ |
?-1185 |
父は景綱。 |
伊勢義盛 |
いせ よしもり |
?-1186 |
源義経の郎党。通称、三郎。 |
源義経 |
みなもとの よしつね |
1159-1189 |
義朝の9男。幼名、牛若。 |
源頼朝 |
みなもとの よりとも |
1147-1199 |
初代将軍。義朝の第3子。 |
源一幡 |
みなもとの いちまん |
1198-1203 |
頼家の嫡男。母は若狭局。 |
源頼家 |
みなもとの よりいえ |
1182-1204 |
第2代将軍。頼朝の長子。 |
北条政範 |
ほうじょう まさのり |
1189-1204 |
父は時政。義時の弟。 |
稲毛重成 |
いなげ しげなり |
?-1205 |
御家人。父は小山田有重。 |
畠山重保 |
はたけやま しげやす |
?-1205 |
畠山重忠の子。 |
平賀朝雅 |
ひらが ともまさ |
?-1205 |
信濃源氏義信の子。北条時政の女婿。 |
藤原良経 |
ふじわらの よしつね |
1169-1206 |
九条兼実の次男。摂政・太政大臣。 |
尊暁 |
そんぎょう |
?-1209 |
天台宗の僧。鶴岡八幡宮の第2代別当。 |
和田義盛 |
わだ よしもり |
1147-1213 |
初代の侍所別当。三浦義明の孫。 |
和田常盛 |
わだ つねもり |
1172-1213 |
御家人。左兵衛尉。和田義盛の嫡男、朝比奈義秀の兄。 |
和田胤長 |
わだ たねなが |
1183-1213 |
御家人。和田義長の嫡男。平太。 |
北条時政 |
ほうじょう ときまさ |
1138-1215 |
執権。政子の父。 |
栄実 |
えいじつ |
1201-1215 |
頼家の3男。母は一品房昌寛の娘。 |
鴨長明 |
かもの ちょうめい |
1155?-1216 |
歌人。菊大夫。 |
坊門信清 |
ぼうもん のぶきよ |
1159-1216 |
公卿。坊門信隆の子。 |
丹後局 |
たんごのつぼね |
?-1216 |
女官。高階栄子。 |
源実朝 |
みなもとの さねとも |
1192-1219 |
第3代将軍。頼朝の次子。 |
公暁 |
くぎょう |
1200-1219 |
源頼家の子。 |
源仲章 |
みなもとの なかあきら |
?-1219 |
貴族・儒学者。源光遠(後白河法皇の側近)の子。 |
三善康信 |
みよし やすのぶ |
1140-1221 |
問注所の初代執事。善信。 |
飛鳥井雅経 |
あすかい まさつね |
1170-1221 |
歌人。難波頼経の子。 |
加藤景廉 |
かとう かげかど |
?-1221 |
御家人。 |
藤原秀康 |
ふじわらの ひでやす |
?-1221 |
父は藤原秀宗。 |
北条義時 |
ほうじょう よしとき |
1163-1224 |
執権。時政の次子。 |
大江広元 |
おおえの ひろもと |
1148-1225 |
官人。政所別当。 |
北条政子 |
ほうじょう まさこ |
1157-1225 |
源頼朝の妻。 |
中原季時 |
なかはらの すえとき |
?-1236 |
中原親能(藤原親能)の子。 |
二階堂行村 |
にかいどう ゆきむら |
1155-1238 |
二階堂行政の子。評定衆。 |
三浦義村 |
みうら よしむら |
?-1239 |
義澄の子。元老。 |
藤原定家 |
ふじわらの ていか |
1162-1241 |
歌人。京極中納言。俊成の子。 |
退耕行勇 |
たいこう ぎょうゆう |
1163-1241 |
臨済宗の僧。荘厳房。 |
北条泰時 |
ほうじょう やすとき |
1183-1242 |
執権。義時の長子。 |
大江親広 |
おおえの ちかひろ |
?-1242 |
広元の長男。 |
北条朝時 |
ほうじょう ともとき |
?-1245 |
義時の次男。名越次郎。 |
安達景盛 |
あだち かげもり |
?-1248 |
秋田城介。 |
結城朝光 |
ゆうき ともみつ |
?-1254 |
御家人。父は小山政光。 |
真智房隆宣 |
〓 |
?-? |
法橋。 |
足利義兼 |
あしかが よしかね |
?-? |
御家人。父は足利義康。 |
泉親衡 |
いずみ ちかひら |
?-? |
信濃国の御家人。小次郎。 |
海野幸氏 |
うんの ゆきうじ |
?-? |
御家人。海野幸広の子。 |
清綱 |
きよつな |
?-? |
御台所付きの侍。兵衛尉。 |
定暁 |
じょうぎょう/ていぎょう |
?-? |
鶴岡八幡宮第三代別当。 |
駿河の局 |
するがのつぼね |
?-? |
政子つきの女房。 |
平盛時 |
たいらの もりとき |
?-? |
奉行人。通称、平五。 |
長井時広 |
ながい ときひろ |
?-? |
大江広元の次男。 |
那須与一 |
なすの よいち |
?-? |
下野那須の人。 |
藤原基衡 |
ふじわらの もとひら |
?-? |
清衡の子。陸奥・出羽の押領使。 |
坊門忠清 |
ぼうもん ただきよ |
?-? |
公家。父は坊門信清(内大臣)。 |
牧の方 |
まきのかた |
?-? |
北条時政の後妻。 |
源仲国 |
みなもとの なかくに |
?-? |
官人。父は源光遠。後白河法皇の近臣。 |
源長季 |
みなもとの ながすえ |
?-? |
官僚。源守隆の子。 |
峰王 |
みねおう |
?-? |
流鏑馬の童子。 |
秋田城介景盛 |
→ 安達景盛 |
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伊勢三郎義盛 |
→ 伊勢義盛 |
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重成法師 |
→ 稲毛重成か |
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千寿 |
→ 栄実 |
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大夫尉景廉 |
→ 加藤景廉か |
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幸氏 |
→ 海野幸氏か |
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鴨社の氏人菊大夫長明入道 |
→ 鴨長明 |
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朝光 |
→ 結城朝光か |
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八幡太郎義家 |
→ 源義家 |
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九郎判官 |
→ 源義経 |
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右大臣実朝 |
→ 源実朝 |
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仲国 |
→ 源仲国か |
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仲章朝臣 |
→ 源仲章か |
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長季 |
→ 源長季か |
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三浦兵衛尉 |
→ 三浦義村か |
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泉小次郎親平 |
→ 泉親衡 |
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荘厳房行勇 |
→ 退耕行勇 |
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前大膳大夫広元朝臣 |
→ 大江広元 |
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武蔵守親広 |
→ 大江親広か |
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前駿河守季時 |
→ 中原季時か |
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左衛門大夫時広 |
→ 長井時広か |
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基衡 |
→ 藤原基衡 |
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左金吾基俊 |
→ 藤原基俊か |
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秀康 |
→ 藤原秀康か |
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少将忠清 |
→ 藤原忠清か・坊門忠清か |
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従三位定家卿 |
→ 藤原定家か |
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摂政左大臣良経 |
→ 藤原良経 |
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隠岐守行村 |
→ 二階堂行村か |
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雅経朝臣 |
→ 飛鳥井雅経 |
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守屋 |
→ 物部守屋か |
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清盛 |
→ 平清盛 |
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盛時 |
→ 平盛時か |
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知盛新中納言 |
→ 平知盛 |
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相州、執権相模守 |
→ 北条義時 |
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時政 |
→ 北条時政 |
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左馬の介政範 |
→ 北条政範 |
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修理亮泰時 |
→ 北条泰時 |
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相模次郎朝時主 |
→ 北条朝時か |
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胤長 |
→ 和田胤長 |
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明日香井雅経 |
あすかい まさつね → 飛鳥井雅経 |
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千幡 |
せんまん → 源実朝 |
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善哉 |
ぜんざい → 公暁 |
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善信 |
ぜんしん → 三善康信 |
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比企氏 |
ひきし |
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蓮胤 |
れんいん → 鴨長明 |
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京極侍従三位 |
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親定朝臣 |
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佐原太郎兵衛尉 |
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内大臣通雅 |
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仁田氏 |
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佐渡守親康 |
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年表
寿永元(一一八二) 頼朝、重だった家来たちに神馬・砂金を伊勢の大廟に奉献を指示。伊勢別宮の甘縄神社に政子と共に参詣。
建久九(一一九八)
一二月 稲毛重成、相模河の橋を新造して供養を遂ぐる。結縁のために頼朝渡御、供養帰りの途中で落馬。それがもとで病床につく。
正治元(一一九九)
一月一三日 頼朝、年五十三をもって他界。十八歳の頼家が遺跡をつぐ。
建仁三(一二〇三)
八月 二代将軍頼家、危篤におちいり、家督を長子一幡と定め総守護職および関東二十八か国の地頭職をゆずる。頼家の弟千幡に関西三十八か国の地頭職をゆずる。/千幡、征夷大将軍の宣旨をたまわり、実朝という諱を朝廷から受ける。
元久元(一二〇四)
七月一八日 頼家、年二十三歳でなくなる。
一二月一〇日 実朝の室、年十三にして輿入。京を進発。
元久二(一二〇五)
一二月 善哉、六歳の暮に、祖母政子の指図により鶴岳八幡宮寺別当尊暁の門弟として僧院に入る。
建永元(一二〇六) 善哉、政子の計らいにより、実朝の猶子になる。
承元二(一二〇八)
二月三日 鶴岳宮の御神楽。実朝、疱瘡によりて御出なし、広元、御使として神拝。御台所、参宮。
二月一〇日 実朝、疱瘡、すこぶる心神を悩ます。近国の御家人ら群参。
二月二九日 実朝、平癒の間、沐浴。
五月二九日 清綱、昨日京都より下着。実朝、対面。『古今和歌集』一部を進ぜる。
承元三(一二〇九)
五月一二日 和田義盛、上総の国司に挙任せらるべきの由、内々これを望む。
一一月四日 小御所東面の小庭において、和田常盛以下の壮士ら切的を射る。
一一月五日 大庭御厨の大日堂、近年破壊の由聞し食しおよばるるについて、雑色を召し、修造を加うべきのむね北条義時に指示。
一一月七日 さる四日の弓の勝負のこと、負方の衆所課物を献ず、よって営中酒宴・乱舞。もってその次、武芸を事となし、朝廷を警衛せしめ給わば、関東長久の基たるべきの由、北条義時・大官令ら諷詞をつくす。
一一月一四日 北条義時、郎従の中、有功の者を侍に准ずべきむねを望むが、実朝、許容せず。
一一月二七日 和田義盛、上総の国司所望のこと、内々お計らいの事あり、しばらく左右を待ちたてまつるべきの由仰せをこうむり、ことに抃悦す。
承元四(一二一〇)
五月六日 実朝、広元の家に渡御、北条義時・大江親広らまいる。和歌以下の興宴におよぶ。亭主『三代集』をもって贈り物となす。
五月二一日 実朝、三浦三崎に渡御、船中において管弦などあり、毎事興をもよおす。小笠懸をみる。常盛・胤長・幸氏以下その射手。
五月二五日 陸奥国平泉保の伽藍など興隆のこと、故右幕下の御時、本願基衡らの例にまかせて、沙汰いたすべきのむね、御置文を残さるるのところ、寺塔年を追いて破壊し、供物・灯明以下のこと、すでに断絶するの由、寺僧おのおの愁え申す。広元、奉行として、故のごとく懈緩の儀あるべからざるの趣き、今日寺領の地頭の中に指示。
六月 御台所つきの女房丹後局、京都へまいり鎌倉への帰途、駿河国宇都山において群盗にあう。
一〇月一五日 聖徳太子の十七か条の憲法、ならびに守屋逆臣の跡の収公の田の員数在所、および天王寺・法隆寺に納め置かる重宝などの記、実朝、日来たずねる。広元相ふれてこれをたずね進覧。
一一月二二日 持仏堂において、聖徳太子の御影を供養。真智房隆宣導師。
一一月二四日 駿河国建福寺の鎮守馬鳴大明神の別当神主らから注進。
承元五/建暦元(一二一一)
一月二七日 寅剋大地震。今朝日に光陰なし、その色赤黄なり。
二月二二日 実朝、鶴岳宮に御参。朝光、御剣を役す。さる承元二(一二〇八)已来御出なし、今日はじめてこの儀あり。
三月九日 建暦元年と改元。
五月一五日 未剋地震。
五月一九日 小笠原御牧の牧士と、奉行人三浦義村の代官とケンカ。今日沙汰。
六月二日 申剋、実朝にわかに不例、すこぶる火急の気あり。戌剋、御所の南庭において、属星祭をおこなう。
六月三日 寅剋、不例・御減・夢想の告厳重と云々。
六月七日 越後国三味庄の領家雑掌、訴訟によって参向し、大倉辺の民屋に寄宿のところ、今暁盗人のために殺害。曙の後、義盛これをたずね沙汰し、地頭代を召し取る。その親類ら、内々政子に訴える。
七月三日 酉剋、大地震。
七月 関東一帯大洪水。
八月一五日 鶴岳宮放生会。実朝、不例によりて御出なし。
八月二七日 実朝、不例の後、はじめて鶴岳八幡宮に詣でる。
九月一五日 故頼家の遺子善哉(十二歳)、定暁僧都の室において落飾。法名公暁。
九月二二日 公暁、禅師公登壇受戒のために、定暁僧都を伴いて上洛。
一〇月一三日 鴨長明、雅経の挙によりて下向、実朝に謁す。幕下将軍の忌日にあたり法花堂に参拝。
一一月二〇日 実朝、『貞観政要』の談議、今日その編を終える。さる七月四日これを始める。
一二月一〇日 和漢の間、武将の名誉あるの分おたずねあるについて、仲章これをさし出して献覧。善信・広元ら、御前において読む。
建暦二(一二一二)
二月三日 辰刻、実朝・政子、二所に進発。北条義時・大江親広・北条泰時以下扈従。
二月八日 実朝以下、二所より帰着。
二月一九日 京都の大番、懈緩の国々のこと、これをたずね聞き召さるるの後について、今日その沙汰あり、向後においては、一か月も故なくして不参せしめば、三か月懃め加うべきの由、諸国の守護人らにおおせらる、義盛・義村・盛時これを奉行。
二月二八日 相模国相模河の橋数か間朽ち損ず、修理を加えらるべきの由北条義時・広元・善信ら群議。実朝、二所参詣の要路として早く修復を加うべきのむね指示。
五月七日 北条朝時(義時の次男)、女事によりて気色をこうむる、厳閤また義絶するの間、駿河国富士郡に下向。
建保元(一二一三) 和田合戦が鎌倉におこり御ところも炎上。
建保二(一二一四)
一月と九月 実朝、二所詣。
疑問点
謂ばば → 謂はば 【は、か?】
坊門清信 → 坊門信清 【信清、か】
大波羅 → 六波羅 【六、か】
相漠河 → 相模河 【模、か】
前夫膳 → 前大膳 【大、か】
以上、5件。
難字、求めよ。
扇の要ぎ
御減
傾公
スリーパーズ日記
頼家の遺子善哉が十二才で出家して公暁となり、また、五十六才の鴨長明が鎌倉へおとずれ十九才の実朝と面会したのは、いずれも建暦元年の秋のことであり、西暦にすると一二一一年になる。今年はそれから、ちょうど七九九年目にあたることに気がつく。この年、鎌倉は一月・五月・七月と大きな地震に見まわれたらしい。
二〇日(土)晴れ。山形へゆく。花咲きまえの花曇り。福寿草、クロッカス。来週には、梅やスイセンが見頃か。(2010.3.22)
2010.3.22:公開
2010.3.25:更新
死に神がかり、ナマズねこ。
ゲゲゲのレレレ。サモ・ハン・キンポー!/PoorBook G3'99
翻訳・朗読・転載は仕組まれた自由です。
カウンタ: -
- 本文中「とし」を「年(とし)」とした。現代表記へ変換の際にこれまで仮名を漢字に変更することは一切なかった(……はずだ)が、この件にかぎり例外処理をこころみた。前後の仮名にうもれてしまうことを避けるための処置。(※ 現代表記版の作成にあたっては、読点の追加、ルビの追加、漢字のかなへの開き、西暦の追加などなど可読性アップの処置を積極的におこなっている。ただし、仮名を漢字に変更することは著しいオリジナル逸脱行為につながるので、今後も例外中の例外となる見込み。) -- しだ (2010-03-25 11:36:46)
- 「清河八郎」よりもカウントの伸びがにぶいのは、とうに実朝をご存じということか。あるいは関心がうすいのか。ちょっとだけ実朝をプッシュ。太宰は正直なところ苦手だったのだけれども「右大臣実朝」はうまいなあとおもった。太田光が絶賛していたのもうなずける。鴨長明の場面、それに公暁とわたしの海辺のシーンに脱毛。 -- しだ (2010-05-15 06:53:31)
- 何を求められているんだろう……などと色気づいたことを考えるのが、そもそも勘違いのはじまりかもしれん。 -- しだ (2010-05-15 06:56:21)
最終更新:2010年05月15日 06:56