喜田貞吉『六十年の回顧』三〇 個人雑誌の発行

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『六十年の回顧』

三〇 個人雑誌の発行

六十年の回顧
三〇 個人雑誌の発行
喜田貞吉


【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)曩《さき》に

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[#ここから底本凡例より]
 なお今日からすれば使用をつつしむべき差別用語が用いられているが、本著作集においては喜田貞吉の思想、史観を明らかにするうえからあえて改めず、原文のままとした。ただし限定された地名については若干の配慮をほどこした。
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       三〇 個人雑誌の発行

 明治四十一年二月に講師として、始めて京都帝大に関係を持ってから、今年でまさに満二十五年となった。今さらながら歳月の流れの早いのに驚かされる。もっとも文部省在勤当時の三年間は、毎年ただ約一学期ずつ東京から出かけて、講義のお手伝をする程度に過ぎなかったが、文部編修の休職以来はゆっくり京都に滞在して、好きな見学旅行も勝手に出来る。ことに休職満期の大正二年からは、もっぱら京大にのみ勤務するようになる。その時代が約九年。大正九年七月教授に任ぜられてからが四年余り。さらに大正十三年本官を辞して東北帝大の講師となり、次の新学期からもとの京大講師懸け持ちとなってからでも、今年でもはや九年目である。
 南北朝正閏問題の結果として、休職となった後の自分の生活は、実に気楽なるものであった。持って生れたわがままな性質のうえに、この問題のためにあまりに強く打ちのめされて、去勢されてしまったとでもいうものか、何によらず面倒なことがことにいやになった。ただ講義さえしていればよいという責任の少い講師の地位が、自分のためには最も択ばれたものだった。わずかばかりの時間を教壇に立つ以外は全く自由で、実地について各地の古墳墓や、その他の遺物・遺蹟を、盛んに見てまわるようになったのもこれからだ。未熟の研究を臆面もなく起稿して、盛んに学界に迷惑をかけたのもまたこのころからであった。そのうちにわが民族研究に興味を覚えて、ついに大正八年からは、個人雑誌『民族と歴史』を発行することになった。実は自分は同人諸氏とともに、明治三十二年以来雑誌『歴史地理』を経営している。それで身体が閑になった大正元年以来は、ことに盛んに同誌の誌面を塞ぎ、それでも間に合わずしてしばしば他の諸雑誌にも御厄介になったものだった。しかしそれでは同人雑誌なるはずの『歴史地理』が、喜田個人の機関雑誌ででもあるかのごとき世評もあって、熱心に編輯その他のことに尽力せらるる同人諸氏に対して、まことに申訳がない。ことに近ごろ民族研究に熱中して、自然に記事が多くその方面に片よるようになっては、『歴史地理』の本領にとっても不適当であるということから、ついに個人雑誌として、『民族と歴史』を発行することにしたのである。かくて爾後自分の民族・土俗方面の研究は、たいていこの雑誌で発表することとなし、特に歴史地理学的のことのみを『歴史地理』の方に収めることに方針をきめた。そのうちに民族的研究はさらに特殊民の研究に移り、ついには社会組織の史的研究という方面にまで火の手が拡がって行って、この雑誌も後には『社会史研究』と改題し、大正十二年の大震災の影響を受けて、『歴史地理』と合併するまで約五年、通編五十八号まで継続したのであった。その間同誌上に発表した未熟の論文・雑録の数は、大小通じて無慮二百余篇の多きに達している。その他の雑誌や新聞に発表したものを合せたなら、あるいは三百篇近くもあるであろう。これには自分ながらいささか驚いた。実際自分は臆面もなく、粗製濫造品を無暗と発表したものだった。しかしこれについてはいささか自分に主張がある。当時自分は仕合せにも物質上にはそう困っていなかったがために、原稿料稼ぎの起稿は努めてこれを避ける方針のもとに、お義理その他やむを得ぬ場合のほかは、多分の報酬をくれるような雑誌にはなるべく筆を執らぬことにしていた。もちろん単行本としての著書をも絶対に避けて、無暗と学術雑誌上に所見を発表したものだった。大正八年七月、内田銀蔵博士が長逝せられて、その追憶を『民族と歴史』十月号に掲載した中に、自分はこんなことを書いておいた。
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 君は余が無遠慮にも、未熟の学説を常に雑誌上に公にするのをもって、余のために取らずとなし、「喜田さん、雑誌上の発表もあながち悪いとは申しませんが、なるべく推敲を重ねて、権威ある著書としてお出しになってはいかがです」と。これに対して余は常に、君の好意を謝しながらも、なおこれに従うの意志がなかった。「私に研究的態度を継続する元気の存する間は、私の学説は日進月歩で、逐次に訂正増補を加えて行かねばならぬ。なまじ著書の形をもって発表して、ためにみずから欺き、後進を誤るのは私の忍びないところです。それにはどうしても、漸次改訂を加うるの便宜多き、雑誌上の発表がよいと思います」と。時としてはこんな皮肉なことをもいった。「私がみずから完全だと信ずるほどの著書を発行しようとすれば、例えば百年河清を待つがごときもので、あたかも貴下の『日本近世史』のようになってしまいます」と。余はまたこんな憎まれ口をもきいた。「私は決してみずから完全とは思わぬまても、その当時においてベストと信ずるところを発表するのをもって、学者の任務と信じています。発表をおっくうがるような大家先生は論外だが、発表に臆病な人は、実力以上に世間から買いかぶられているところの箔が落ちるのを恐がるのでしょう」と。実際余といえども、かくまで著書としての発表を重大視した訳ではない。また未熟の学説の発表をもって、そうまで価値あるものとも思っていない。事実は次の研究に忙しくて、前の研究を纏める暇がないのであるが、例の悪い癖から、つい温厚なる君に対して、こんな嫌がらせをもいったのであった。それというのも、余が在学中に、故黒川・小中村両先生の教壇における述懐を拝聴して、痛切に感じたことがあったからである。黒川先生は美術史を講ぜらるるさいに、余らの学生に向って、古物鑑定の眼識を説明せられながら、「自分の研究はそれぞれ筆にとどめてあるから、自分がなくなった後にも諸君に見て貰うことが出来るが、ただこの眼識のみはいかにしてもこれを伝えることが出来ぬ。惜しいものだ」と述べられた。実際先生の研究は、その眼識以外のものはほとんど全くその全集によって伝わり、今日なお余ら後進の者がこれを窺い知ることが出来るのである。しかして及ばないまでも、その上に一歩を進めて見ようと試みることが出来るのである。これに反して小中村先生の述懐は、実にお気の毒千万な、同情に堪えないものであった。「自分は今や余命いくばくもない。これまで公務の忙しさに取り紛れて、いっこう研究を纏めておらぬ。せめては大宝令の分だけをでも世に遺したいと思って、曩《さき》に大学教授の職をも辞し、今では僅かに講師として少時間を諸君の前に立つだけで、自宅に書生を頼んで、日夜これに従事しておるのである」と。しかも先生のこの著手は時すでに晩《おそ》く、先生の深遠なる研究は、直接その講義を拝聴したもの以外には、多くこれを伝えることが出来ないで終られたのである。先生の高齢をもってしてなおかつしかりであった。しかも余らは必ずしも先生の齢を予期することを得ないのである。ここにおいてか余は、なるべく速かにその研究を筆にして、漸次これを訂正増補するの方針を執った。
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というのであった。実際自分は研究の発表に急であったがために、駄作世を誤るもの少からぬことを自認して、研究の進歩とともに順次改訂増補の便多き雑誌上の発表を選んだのであった。しかして臆面もなく駄作を濫発した結果として、ともかくもいくらか自分の研究を纏めることが出来たと自信しているのである。しかしまだそのほかに、蒐集した史料、つつき散らした研究の、そのままに「長持の下積み」となり、自分自身にもこれを利用し得ずに蠧魚になったり、黴が生えたりしつつあるもの、あるいは未定稿のままに筐底に蔵せられて、自分でも忘れてしまい、そのまま腐朽しつつあるものは、さらにその幾倍あるかも知れないのである。これはぜひなんとかして、生命あるうちに整理しておきたいと思うている。
 自分が『民族と歴史』を発行するに至った動機は、実に右にいうごとく民族研究に興味を覚えて来たためであったが、しかしそれは単に自分の研究発表機関たらしめるというばかりでなく、同時にこれをもって各地の同好者と連絡を保ち、研究資料の提供を得て、これを蒐集するの機関たらしめたいということにもあった。また特に当時のいわゆる特殊部落の起原・沿革を調査して、社会の啓蒙運動の資料を供給せんとするためでもあった。この点において自分の『民族と歴史』は相当の成績を挙げ得たと信じている。なおこのことについては章を改めて別に言う。『民族と歴史』改め『社会史研究』を廃刊し、『歴史地理』に合併してから後は、しばらく同誌にたて籠って、これを自分の研究発表機関に供してみたが、やはり前に経験したと同じような故障の発生を免れ得ぬ。その頻繁なる発表も自然遠慮がちになって来る。ことに大正十三年東北大学の講師として、年中の大半を東北地方に送るようになってからは、主として奥羽・北海道方面の諸研究、特にその民族的方面のことに没頭して、さしあたり別に資料の蒐集機関が必要になった。調査し研究した事柄も、発表機関がなくてはいつかは「長持の下積み」になってしまう。そこで昭和三年九月から、年寄の冷水の譏りを覚悟しつつ、新たに『東北文化研究』という個人雑誌を始めてみた。しかし寄る年波は争い難く、とても『民族と歴史』時代のように敏活には物が運ばぬ。ことに東北文化と範囲を限ったがためにか、『民族と歴史』のようには売行きがうまく行かぬ。発行者の方で算盤が取れぬのみでなく、編輯の方も後れがちになって、月一回の予定が実行されなくなる。そのうちに発行引受書肆の破綻があり、また昭和五年の半年に渉る自分の大患のために、一時休刊のやむなきこととなり、次の発行引受者もまた当時の不景気が生む蹉跌から、ついに発刊不可能となってしまった。継続わずかに十号、第十一号目はすでに昭和五年末に印刷を終り、仮製本に附したまま、今に印刷所に保存してあるが、発行者がそれを引き取らず、また読者名薄をも引き渡さぬままに消えてしまったので、自分ではなんとも致し方がなく、ために継続の方法も立たずして今日に及んでいる。これはまことに読者諸氏に対しても申訳なく、自分にとっても遺憾限りなき次第である。
『東北文化研究』が中止になって、発表機関を失った後は、新しい研究もついこれを学界に紹介するの方法を得ずして、そのままになっているものが多い。近ごろの新発見としては、青森県三戸郡是川村における石器時代の遺蹟から、図らずも多数の植物性遺物が、地主の泉山氏によって発掘せられたことである。従来石器時代の遺物としては、石器・土器・骨角器等、主として容易に腐朽しない材料の物品のみに限られていたのであったが、ここに始めて多数の木製品、繊維製品などが発見せられて、従来ほとんど知るを得なかった当時の文化の他の一面が、始めて窺い知らるるに至ったのである。ことにその新発見遺物の中には、思いのほかに進歩した漆器工芸品が多く、かつ往々その実年代の、案外若いものなることを想像せしむべき資料もあって、その発見は確かにわが考古学上の研究に、一新時期を劃すべきものといってよいのである。少くも自分の民族研究の立場からこれを観れば、これを遺したものは確かにわが歴史上に著しい蝦夷の族であり、しかも彼らはなおわが日本民族の奥羽拓殖当時において、青森県のごとき僻遠の奥地にあっては、依然石器時代の状態に住していたことが知られて、ただにわが考古学研究のうえにのみならず、歴史研究のうえにもまた一の新しい見方を与えてくれたものである。ここにおいて自分は杉山寿栄男君の協力を得て、これを図録に調製して学界に紹介し、兼ねてこれを造した石器時代人の研究、ならびにその文化の状態を論述して、図録の解説とともにこれを別冊となし、研究者に新しい資料を供給するとともに、これに関する管見を学界に問おうと試みた。かくてその図録は『日本石器時代植物性遺物図録』の名のもとに、昨年一月中にようやく完成を見るに至ったが、その後また続々新発見の資料があり、これを増補し研究を新たにすべき事実の発生が続々相踵ぐという状態であるとともに、一方には種々の個人的障礙もあって、今もってこれが完成を見るに至らず、学界の期待に背くことの大なるは慚愧の至りである。これというも自分に発表機関を持たぬがためで、正直なところ自分のごとき意志薄弱なものにあっては、なんらかそこに期日を限って督促さるるある物の存在せぬ限り、つい他の雑務に追われて延び延びになってしまうのである。しかしこれもほぼ準備が整ったがために、今現に執筆中のこの『六十年の回顧』の完成次第、遠からず発表し得べき順序になっていることをここに告白しておく。



※ 底本の編注は省略しました。

底本:『喜田貞吉著作集 第一四巻 六十年の回顧・日誌』平凡社
   1982(昭和57)年11月25日発行
初出:『還暦記念 六十年の回顧』
   1933(昭和8)年4月発行
入力:しだひろし
校正:未登録・校正待ち(2008年6月11日現在)
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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【メモ】なるほど。ページ編集が「そのままテキストモード」のため、カウンターもコメントも無効になってる。(しだ)
【メモ】編集モードの途中変更はできないとすれば、再度新規にページをつくってアップする……か。(しだ)