定価:200円(税込) | p.172 / *99 出版 |
オリジナル版 | ミルクティー*現代表記版 |
払田柵址について二、三の考察 | 払田柵跡について二、三の考察 |
(略)由来わが国には大陸にいわゆる城郭は発達しなかった。シナの古代史籍にも、国城郭なしと書いてあるのが普通である。いわゆる城郭とは村落都邑全体を擁護すべく設けられたもので、わが国にいわゆる城砦とは違う。わが国の城砦は太古の夷砦《チャシ》式のものから、近く戦国時代の大小名の城池に至るまで、たいていは豪族の居館に防禦工事を加えたものなるに過ぎない。斉明天皇の御代に飛鳥帝都の背後の山なる多武峯に石をもって周垣を築くのことが『日本紀』にあるのは、おそらくわが国における朝鮮式山城の最初のものであろう。天智天皇の御代には外寇に備うべく所々に大陸風の城郭が出来た。かくて「大宝令」には、東辺・北辺・西辺における諸郡の民居は城堡の中に安置せよとの規定が法文に示されている。蝦夷・隼人に対して、大陸風の村落保護の設備なのだ。西辺のことは措く。東辺・北辺すなわち陸奥の蝦夷・越蝦夷の地方にもだんだん内地の農民が進出する。それが蝦夷の襲撃を防ぐために集落を繞って防禦工事を施す。これが「大宝令」にいわゆる城堡なのだ。かくて平素はその中に安住し、農時には臨時に田屋住居をする。後に蝦夷襲来の虞れがなくなって、田屋が発達して各地に農村が散在するようになった。この払田の地は仙北平野の中央にあって、そこには真山・長森の丘陵があり、この平野に進出した内地農民の根拠地としてはきわめて適当の地だ。今の柵址はそこに設けられた集落擁護のために、取り敢えず造られたものと解するのが最も妥当であろう。 | (略)由来わが国には大陸にいわゆる城郭は発達しなかった。シナの古代史籍にも、国城郭なしと書いてあるのが普通である。いわゆる城郭とは村落都邑(とゆう)全体を擁護(ようご)すべく設けられたもので、わが国にいわゆる城砦(じょうさい)とは違う。わが国の城砦(じょうさい)は太古の夷砦(チャシ)式のものから、近く戦国時代の大小名の城池にいたるまで、たいていは豪族の居館(きょかん)に防御工事を加えたものなるにすぎない。斉明(さいめい)天皇の御代(みよ)に飛鳥帝都の背後の山なる多武峰(とうのみね)に石をもって周垣(しゅうえん)を築くのことが『日本紀(にほんぎ)』にあるのは、おそらくわが国における朝鮮式山城(やまじろ)の最初のものであろう。天智(てんじ)天皇の御代には外寇(がいこう)に備うべく所々に大陸風の城郭ができた。かくて「大宝令(たいほうりょう)」には、東辺・北辺・西辺における諸郡の民居は城堡(じょうほう)の中に安置せよとの規定が法文に示されている。蝦夷(えみし)・隼人(はやと)に対して、大陸風の村落保護の設備なのだ。西辺のことは措(お)く。東辺・北辺すなわち陸奥の蝦夷・越蝦夷の地方にもだんだん内地の農民が進出する。それが蝦夷の襲撃を防ぐために集落をめぐって防御工事をほどこす。これが「大宝令」にいわゆる城堡(じょうほう)なのだ。かくて平素はその中に安住し、農時には臨時に田屋(たや)住居をする。後に蝦夷襲来のおそれがなくなって、田屋(たや)が発達して各地に農村が散在するようになった。この払田(ほった)の地は仙北(せんぼく)平野の中央にあって、そこには真山(しんざん)・長森(ながもり)の丘陵があり、この平野に進出した内地農民の根拠地としてはきわめて適当の地だ。今の柵跡はそこに設けられた集落擁護のために、とりあえず造られたものと解するのが最も妥当であろう。 |