MT*2_23-慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
2009.12.26 第二巻 第二三号
慶長年間の朝日連峰通路について
佐藤栄太
一、序
二、開削年代と当時の状勢
三、朝日山道の経路
四、慶長の役と朝日間道
五、志駄義秀の朝日越考
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付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(64項目)p.417
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羽越國境に聳立する朝日連峯が登山地として開發されたのはまだ近年のことである。其の後營林署や地元で熾んに道路を切開いたので今は登山も非常に樂になつて、朝日礦泉から大朝日までの往復登山は僅か半日の行程に短縮されて了つた。然し連峯の主脈縱走は途中施設の不備や天然の關係等に依り未だ相當の難コースであつて一ケ年の縱走者はまだ/\幾組と數へる程しかない。 |
羽越(うえつ)国境に聳立(しょうりつ)する朝日連峰が登山地として開発されたのはまだ近年のことである。その後、営林署や地元でさかんに道路を切り開いたので今は登山も非常に楽になって、朝日鉱泉から大朝日までの往復登山はわずか半日の行程に短縮されてしまった。しかし連峰の主脈縦走は途中施設の不備や天然の関係などによりいまだ相当の難コースであって一か年の縦走者はまだまだ幾組とかぞえるほどしかない。 |
然るに現在に於てさへ相當の難コースたる連峯主脈の處々に舊い道形が明かに認められるのは縱走者の等しく驚異を感ずる處であつて、西朝日の東面と以東岳の南面最低鞍部の通稱狐穴との間及び以東岳と戸立山との間には不用意にしても尚見逃すことのない程明瞭に刻まれてゐる。殊に狐穴の北偶小丘には遠くより望む時も明瞭に電光形の道形が現在の道の右手に存在して居る。その實、現地は一面の腰邊までの笹籔であるが詳細に調査する時確實に約三尺ばかり斜面を掘下げた跡が明かである。(略) |
しかるに現在においてさえ相当の難コースたる連峰主脈の所々に旧(ふる)い道形(みちなり)があきらかに認められるのは縦走者のひとしく驚異を感ずるところであって、西朝日の東面と以東岳の南面最低鞍部(あんぶ)の通称狐穴(きつねあな)との間および以東岳と戸立山(とだてやま)との間には不用意にしてもなお見逃すことのないほど明瞭に刻まれている。ことに狐穴(きつねあな)の北偶小丘には遠くより望む時も明瞭に電光形の道形(みちなり)が現在の道の右手に存在している。その実、現地は一面の腰あたりまでの笹籔(ささやぶ)であるが詳細に調査するとき確実に約三尺ばかり斜面を掘りさげた跡があきらかである。(略) |
米澤事情を記した『米府鹿の子』に上杉の將直江山城守兼續が米澤から朝日を越えて庄内へ通ずる新道を開いたことが僅かに見えて居る。開鑿の年次や、其の状況等は記されてゐないが、後に記す現存の古文書や當時の状勢に依つて、慶長三年正月上杉景勝が會津に移封され、直江山城守が其の老臣として米澤に在城するようになつた初年の夏の事業なることが推定出來る。扨て何故に斯る嶮難の地を殊更に通路を開かなければならなかつたか。 |
米沢事情を記した『米府(べいふ)鹿( か)の子(こ)』に上杉の将、直江(なおえ)山城守兼続(かねつぐ)が米沢から朝日をこえて庄内へ通ずる新道を開いたことがわずかに見えている。開削の年次や、その状況などは記されていないが、後に記す現存の古文書や当時の状勢によって、慶長三年(一五九八)正月、上杉(うえすぎ)景勝(かげかつ)が会津に移封され、直江(なおえ)山城守がその老臣(ろうしん)として米沢に在城するようになった初年の夏の事業なることが推定できる。さてなにゆえにかかる嶮難(けんなん)の地をことさらに通路を開かなければならなかったか。 |
2_23.rm
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佐藤栄太 さとう えいた
1902-1954(明治35-昭和29.3.19)
山形県西置賜郡白鷹村鮎貝深山生まれ。山形にて新聞記者をつとめる。昭和22年、山形県文化財調査委員になる。山形県文化財保護協会ならびに県文化財調査委員会創立当時の幹事。『羽陽文化』初代編集担当。山形市香澄町南追手前住。共著『高擶郷土史』。病没。享年52。
◇参照:「佐藤栄太氏の思い出」『羽陽文化』第64号(1964年11月)、『高擶郷土史』(1955.6)p.307、NACSIS Webcat。
※ Wikipedia 未登録。
底本
底本:底本:『山岳』第29年2号
1934(昭和9)年12月
NDC 分類:212(日本史/東北地方)
http://yozora.kazumi386.org/2/1/ndc212.html
※ ページ未登録。
年表
大永元(一五二一)七月 小国越の新道を開く。(『米沢里人談』)
天正十一(一五八三)三月 義光、義氏の将・前森蔵人らをさそって反旗をひるがえさしめ、にわかに義氏を居城大浦城に攻めてこれを亡ぼす。
天正十五(一五八七)十月 最上義光、武藤氏の部将・東禅寺筑前守らと共に義興を攻めてこれを殺し、養子義勝はまぬがれて小国城に逃れる。
天正十六(一五八八)八月 本庄繁長、三千の手兵をかかげ葡萄峠をこえて庄内に侵入。反将・東禅寺筑前守、同右馬頭兄弟ならびに最上氏の守将・中山玄蕃光直ら三万の大兵と千安河原に戦ってこれを敗り、東禅寺兄弟は戦死。中山光直は逃れて山形に走る。
慶長三(一五九八)正月 上杉景勝、蒲生氏郷の死後その旧領をうけて越後より会津に移封。会津四郡、仙道七郡および長井・田川・櫛引、遊佐ならびに佐渡三郡をもって百二十万石を領する。直江兼続、米沢および庄内をあわせ三十万石を賜い米沢城に鎮する。
慶長三(一五九八)八月 豊臣秀吉、薨ずる。
慶長四(一五九九)正月二十六日 春日印(「朝日古文書その一」)
慶長四(一五九九)八月十三日 春日印(「朝日古文書その二」)
慶長五(一六〇〇)三月 上杉景勝、石田三成と結んで兵を集むるにあたり、直江の軍使は朝日山中を通ってしきりにその所領たる庄内の東禅寺(酒田)、大浦(大山)の諸城と往来。
慶長五(一六〇〇)八月一日 義光花押。
慶長五(一六〇〇) 関ヶ原合戦おこる。
慶長五(一六〇〇)九月五日 直江兼続、兵を三手に分け中央軍をひきい米沢を発して、長井、荒砥を進軍、最上義光の属城たる畑谷城に向かい、右翼軍は本村親盛、横田旨俊、篠井泰信らを将として中山口より上ノ山城に向かい、左翼軍は中条三盛の兵をもって宮宿・左沢方面に進発。
慶長五(一六〇〇)九月十三日 直江兼続の中央軍は、畑谷城を攻め、城将・江口光尭たたかってこれに死し、兼続は進んで長谷堂城を攻囲。
慶長五(一六〇〇)九月二十九日 義光、伊達の援兵と合わして兼続の兵と長谷堂城外に戦い直江の部将・上泉泰綱を打ち取る。
慶長五(一六〇〇)十月朔日 関ヶ原において西軍大敗の飛報が兼続の陣営に到達。兼続、長谷堂城の囲みを解いて軍をおさめて米沢にひきあげる。このとき庄内より進撃した志駄義秀はいち早く逃れて東禅寺に帰ったが、谷地城を守備していた下吉忠は飛報の到来したるを知らず、最上軍に捕虜となり後、義光の旗下に属す。
慶長五(一六〇〇)閏十月四日 志駄義秀、朝日をこえて東禅寺へ帰城。
慶長六(一六〇一)三月四日(あるいは四月二十四日) 下吉忠の勧誘によってついに和をむすび、城をあけわたして河村は父彦左衛門の領地佐渡へ、志駄義秀は米沢におもむく。
慶長六(一六〇一)三月四日条 これより前、志駄義秀、酒田城を守りあえて屈撓せず、最上義光、男義康、志村高治らをしてこれを攻めしむ。秋田実季由利の諸将と来たり会し四面攻撃す。降将下吉忠、義秀にさとし開城退却せしむ、この日義秀、城を開き朝日山中を過き米沢にめぐる。義光すなわち高治をして酒田城を守らしむ。義光また小野寺義道を横手城に攻めてこれをくだす、ここにおいて東国まったく定まる。(『山形県史』)
慶長十四(一六〇九)四月 庄内遊佐郷の郷士・菅原政次、山之仕書一通を自記してその子次右衛門にあたえる。
寛永九(一六三二)八月十六日 修理義秀卒す。(志田系図)
慶安四(一六五一)十月十二日 朝岡判(寄合帳)
慶安四(一六五一) 草岡村とこれらの人の後継者との間に従来の諸権利について紛糾を生じたる結果、米沢藩にては“役儀前々のごとし”と裁定し双方に下付。
人物一覧
大宝寺義氏 |
だいほうじ よしうじ |
1551-1583 |
出羽大宝寺氏の当主。大宝寺義増の長男。俗に悪屋形。 |
大宝寺義興 |
だいほうじ よしおき |
1554-1587 |
出羽の大宝寺氏の当主。大宝寺義増の次男。大宝寺義氏の弟。武藤義興。 |
佐々成政 |
さっさ なりまさ |
1539-1588 |
尾張の人。織田信長に仕える。 |
東禅寺義長 |
とうぜんじ よしなが |
1544-1588 |
大宝寺義氏の家臣。一説には前森蔵人。 |
東禅寺右馬頭 |
とうぜんじ うまのかみ |
?-1588 |
筑前守の兄弟。東禅寺勝正。 |
東禅寺筑前守 |
とうぜんじ ちくぜんのかみ |
?-1588 |
武藤氏の部将。前森蔵人。東禅寺義長。別人説もある。 |
豊臣秀吉 |
とよとみ ひでよし |
1537-1598(一説に1536-1598) |
|
蒲生氏郷 |
がもう うじさと |
1556-1595 |
近江蒲生。織田信長・豊臣秀吉に仕える。 |
上泉泰綱 |
かみいずみ やすつな |
1552?-1600 |
上泉主水。直江の部将。 |
石田三成 |
いしだ みつなり |
1560-1600 |
佐吉。治部少輔。近江の人。 |
最上義康 |
もがみ よしやす |
1575-1603 |
最上氏の後継者候補で、最上義光の長男。母は大崎氏。修理大夫。義光の嫡子。 |
留守政景 |
るす まさかげ |
1549-1607 |
伊達政景 。伊達晴宗の実子(三男)。留守顕宗の養子。政宗の叔父。 |
中条三盛 |
なかじょう みつもり |
1573-1607 |
中条景泰の子。北越後の揚北衆と言われる一族で上杉家家臣。 |
春日元忠 |
かすが もとただ |
1559?-1608 |
武田氏、次いで上杉氏の家臣。直江兼続の側近となる。 |
志村光安 |
しむら あきやす |
?-1609 |
最上氏の家臣。通称は伊豆守。名は高治とも。長谷堂城主。父・志村光清は最上家譜代の家臣。 |
下吉忠 |
しも よしただ |
?-1609 |
次右衛門。出自諸説あり。大浦城主。谷地城を攻略するが義光に降伏。義光に降る。のち尾浦城代として在任。 |
本庄繁長 |
ほんじょう しげなが |
1539-1613 |
上杉氏の重臣。父は本庄房長。村上城主。 |
最上義光 |
もがみ よしあき |
1546-1614 |
山形。出羽守。 |
清水義親 |
しみず よしちか |
1582-1614 |
最上義光の三男。最上家親の弟。清水義継の父。 |
直江兼続 |
なおえ かねつぐ |
1560-1619 |
もと樋口氏。山城守。 |
上杉景勝 |
うえすぎ かげかつ |
1555-1623 |
越後。長尾政景の子。 |
本庄義勝 |
ほんじょう よしかつ |
1573-1623 |
本庄繁長の二男。のち武藤義興の養子となり田川郡清水城に移る。 |
志駄義秀 |
しだ よしひで |
1560-1632 |
修理亮。庄内東禅寺城主。志田義秀。上杉家家臣志田氏当主。志田義時の子。生母が直江景綱の娘なので、直江兼続・直江信綱とは義理の従兄弟に当たる。 |
伊達政宗 |
だて まさむね |
1567-1636 |
輝宗の子。 |
鮭延秀綱 |
さけのべ ひでつな |
1562-1646 |
小野寺氏・最上氏・土井氏の家臣。佐々木貞綱の子。典膳、越前守を称する。 |
小野寺義道 |
おのでら よしみち |
1566-1646 |
小野寺景道(輝道?)の次男。 |
佐藤栄太 |
さとう えいた |
1902-1954 |
山形県西置賜郡白鷹村生まれ。 |
菅原次右衛門 |
すがわら じえもん |
?-? |
政広。菅原政次の子。荒瀬郷・遊佐郷の大肝煎。 |
菅原政次 |
すがわら まさつぐ |
?-? |
左馬介。庄内遊佐郷の郷士。 |
楯岡光直 |
たておか みつなお |
?-? |
父は最上義守、兄は最上義光、中野義時、長瀞義保。 |
中山光直 |
なかやま げんば |
?-? |
玄蕃。最上氏の守将。村山郡長崎の楯主、中山朝政の子。 |
秋田実季 |
あきた さねすえ |
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安東愛季の長男。 |
上杉氏 |
うえすぎし/うえすぎうじ |
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鮭延典前 |
さけのべ 〓 |
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→ 鮭延秀綱 |
鮭延典膳 |
さけのべ 〓 |
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→ 鮭延秀綱か。貞綱か? |
志村高治 |
しむら 〓 |
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→ 志村光安 |
楯岡甲斐 |
たておか 〓 |
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楯岡豊蔵 |
たておか 〓 |
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伊達政景 |
だて まさかげ |
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→ 留守政景 |
本村親盛 |
ほむら 〓 |
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丸岡義興 |
まるおか よしおき |
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→ 大宝寺義興 |
武藤義氏 |
むとう よしうじ |
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→ 大宝寺義氏 |
武藤氏 |
むとうし |
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庄内。藤原氏の一族(藤原北家)。 |
最上氏 |
もがみし |
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清和源氏の足利氏の一族である管領の斯波氏の分家。 |
大沼 |
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朝日岳神社の別当。 |
河村長蔵 |
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父は彦左衛門。 |
江口光尭 |
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五兵衛。城将。畑谷城にて戦死。 |
横田旨俊 |
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河村彦左衛門 |
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河村長蔵の父。 |
源右衛門 |
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草岡村。 |
山本 |
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志村伊豆 |
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→ 志村光安 |
氏家将監 |
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左近。 |
篠井泰信 |
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信田 |
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千勝丸 |
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→ 本庄義勝 |
前森蔵人 |
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→ 東禅寺義長 |
里見越後 |
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2009.12.28:公開
2009.12.31:更新
目くそ鼻くそ/PoorBook G3'99
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最終更新:2009年12月31日 23:19