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MT*2_16-能久親王事跡(六)森 林太郎

ミルクティー*現代表記版

能久親王事跡(六)
森 林太郎


 二十九日、左翼隊の編成を解かる。右翼隊に、歩兵第一連隊本部ならびに第三、第四中隊、工兵半小隊を加え、川村支隊と改称し、鹿港《ろくこう》に置きて、西螺《せいら》街方面を警戒せしめらる。歩兵第三連隊第二大隊本部は胡盧�を守備せんがために、同じ連隊の第五、第七中隊は東大�を守備せんがために、ならびに彰化《しょうか》を発しつ。宮はこの日より彰化に淹留《えんりゅう》せさせ給《たま》いぬ。三十日、歩兵第三連隊第一大隊本部および第一、第四中隊に、三塊廟荘付近の敵を撃攘《げきじょう》し、斗六《とろく》に通ずる道を偵察することを命じて、彰化《しょうか》を出発せしめらる。三十一日、追撃隊|北斗《ほくと》に至り、第一連隊第六中隊を留めて守備せしめ、進みて樹仔脚、剌桐港、他里霧、大甫林などを偵察せんとす。歩兵第三連隊第一大隊は雲林《うんりん》に至りて敵を見ざりき。参謀総長|彰仁《あきひと》親王の祝電いたる。九月一日、歩兵第三連隊第一大隊、彰化《しょうか》に返る。彰化の捷をほめさせ給《たま》う勅語および皇后宮の令旨いたる。二日、追撃隊の歩兵第一連隊第八中隊および騎兵大隊は他里霧に至り、同じ連隊の第五、第七中隊〈千田少佐ひきいたり。〉は騎兵第一中隊〈二小隊闕。高橋中尉ひきいたり。〉とともに雲林《うんりん》に至りて、大甫林に会し、打猫方面を偵察す。歩兵第一連隊本部および第三、第四中隊、鹿港《ろくこう》を発し、第三中隊を員林《いんりん》街付近に留めて北斗《ほくと》に向かう。工兵第一大隊は道路を修《おさ》めて、彰化《しょうか》より北斗に向かう。三日、追撃隊、打猫付近を偵察しおわりて大甫林に集合したりしに、午後二時、敵八百ばかり包囲しつ。追撃隊これを撃退す。歩兵第一連隊第四中隊|北斗《ほくと》に至り、第六中隊と交代して守備す。宮はこの日午前七時、鹿港《ろくこう》を観に出で立たせ給《たま》い、九時四十分、鹿港に至らせ給《たま》い、第一旅団司令部などを訪《と》わせ給《たま》い、午後二時、彰化《しょうか》にかえらせ給《たま》う。四日、午後五時四十分、敵ありて他里霧の逓騎哨をおそう。伝騎三人〈一等卒、井手喜一郎および歩兵二人〉急を追撃隊に報ぜんがために大甫林に向かう。これより先、歩兵第一連隊第八中隊は、命令によりて、再び他里霧に至らんと欲し、たまたま伝騎三人の来るにあい、使を北斗《ほくと》の守備隊に遣《つか》わし、剌桐港に向かいて進みしに、途《みち》に同じ連隊の第六中隊の北斗より来るにあい、午後七時、共に剌桐港をへて、他里霧の北門外四百メートルの地に至り、第八中隊は南門にせまり、第六中隊は北門にせまりぬ。五日、午前一時、第六中隊、他里霧の北門を破《やぶ》りて入り、火を放《はな》ちて攻撃し、第八中隊、南門を扼《やく》しつ。敵、四もに散ず。五時、両中隊南門に集合しつ。歩兵第四連隊第一、第四中隊および砲兵第三中隊の一小隊、追撃隊を援《たす》けんがために、北斗方面におもむくことを命ぜらる。川村支隊の歩兵第一連隊本部および連隊の残部を社斗街に進めらる。六日、歩兵第一連隊の残部、社斗街に至る。七日、午前零時四十分、追撃隊の歩騎兵大甫林にありて、宮の訓令に接し、暁《あかつき》を待ちて背進せんとせしに、五時、敵、至りぬ。歩兵第一連隊第五中隊、まずこれにあたり、午前八時、第七中隊の一部とともに敵を撃退し、夜、虎尾《こび》渓〈剌桐港の南にあり。〉に至り、渓水|汎濫《はんらん》して渉《わた》るべからざるをもて、その右岸に露営しつ。歩兵第一連隊の残部、社斗街より、第一中隊を内湾に派す。彰化《しょうか》に瘧《おこり》おこなわれて、在院患者千二百に至り、軽症者入院することあたわず。あらたに四百人を容《い》るる病院を作る。八日、追撃隊、樹仔脚に至る。歩兵第四連隊第一、第四中隊ら、鹿港《ろくこう》渓に阻《はば》まれたりしに、ようよう北斗《ほくと》に達す。九日、歩兵第一連隊第二大隊、樹仔脚を発して北斗《ほくと》に向かう。〈その第七中隊は騎兵大隊とともに樹仔脚に留まる。〉十日、騎兵大隊、樹仔脚を発して永靖《えいせい》街に至る。〈途にて第二中隊の浮田小隊を内湾に派す。〉十一日、騎兵大隊第二中隊。〈一小隊闕。〉を永靖《えいせい》街に留めて彰化《しょうか》に帰る。第四連隊第一大隊は、ともない行きし砲兵一小隊を北斗《ほくと》に留めて彰化《しょうか》に帰りぬ。この頃、彰化《しょうか》以北の師団諸隊、新たに至れる後備諸隊と交代し、後方を守備したりし混成第四旅団、台北《たいほく》、基隆《キールン》間に集合す。十三日、歩兵第三連隊第二、第三中隊、騎兵一小隊、砲兵第四中隊の一小隊をもて、志賀支隊〈隊長、志賀範之。〉を編成し、これに内湾付近の敵を撃攘《げきじょう》することを命じて彰化《しょうか》を発せしむ。総督、混成第四旅団の戦闘序列を解き、第二師団に復帰せしむ。十五日、志賀支隊内湾守備隊とともに、内湾東方高地の敵を撃退す。この頃、彰化《しょうか》以北にありし諸隊、彰化に集中す。総督、近衛および第二師団をもて南進軍を編成す。十六日、歩兵第二連隊第一大隊、鹿港《ろくこう》に至り、川村支隊に入る。十七日、彰化《しょうか》の瘧《おこり》ますますおこなわれて、師団の健康者、五分の一と称せらる。十九日、歩兵第一連隊、第二連隊、騎兵第二中隊、砲兵第二大隊、工兵第一中隊を歩兵第一旅団長の麾下《きか》に属し、鹿港《ろくこう》渓右岸にありて、嘉義《かぎ》方向を警戒せしめらる。砲兵第一大隊および第一中隊を鹿港《ろくこう》より彰化《しょうか》に呼び返さる。二十日、歩兵第三連隊半部および砲兵第四中隊、社斗街を守備せんがために彰化を発す。二十二日、南進の命令、総督府より至る。二十六日、師団命令出づ。その要領にいわく。敵は台南《たいなん》付近にあり。その一部は鳳山《ほうざん》・嘉義《かぎ》にあるがごとし。師団は嘉義に向かいて進まんとす。右側支隊は西螺《せいら》街方面の敵を掃蕩《そうとう》しつつ進むべし。左側支隊は雲林《うんりん》方面の敵を掃蕩しつつ進むべし。師団本隊は中央の道路を進むべし。歩兵第三連隊第一大隊は北斗、剌桐港、他里霧、打猫に守備兵を留め置くべしとなり。軍隊区分は、歩兵第一連隊、〈第一大隊本部および二中隊闕。〉騎兵大隊、〈第一中隊闕。〉工兵一小隊を前衛とし、川村少将、司令官たり。歩兵第二連隊本部および第一大隊、騎兵一小隊、工兵半小隊を右側支隊とし、阪井《さかい》大佐支隊長たり。歩兵第四連隊、〈第二大隊本部および第二中隊闕。〉騎兵第一中隊、〈二小隊闕。〉砲兵第二大隊、〈第三中隊闕。〉工兵一小隊を左側支隊とし、内藤大佐支隊長たり。〈衛生隊半部を属せらる。〉歩兵第二旅団司令部、歩兵第一連隊第一大隊、〈二中隊闕。〉歩兵第四連隊第二大隊、〈二中隊闕。〉歩兵第三連隊、〈第一大隊闕。〉騎兵一小隊、砲兵連隊本部および第一大隊、〈一小隊闕。〉工兵大隊本部および半小隊、第二、第三機関砲隊および合併第三砲隊を師団本隊とす。〈衛生隊半部を属せらる。〉当時、嘉義《かぎ》方面にある敵は、黒旗兵と新集兵とを合わして、約一万と称す。劉永福《りゅうえいふく》の叔父《おじ》、劉歩高これを統《す》べたりき。二十七日、宮、明日途に就《つ》かせ給《たま》わんとす。二十八日、大雨洪水のために兵を勒《とど》めて発せしめず。この夜、少将|山根《やまね》信成《のぶなり》、瘧《おこり》を病みて没す。瘧《おこり》の流行ようやく衰《おとろ》う。二十九日、進軍を令す。三十日、大雨洪水のために、再び兵を勒《とど》めて発せしめず。この日、ドイツ人某いたりて従軍す。宮の乗馬〈宮城野。〉病《や》みて馬廠に送らる。
 十月三日、南進の行程を計画せさせ給《たま》う。前衛は六日剌桐港に至り、七日他里霧に至り、八日打猫に至り、九日に嘉義《かぎ》に至らんとす。右側支隊は六日|西螺《せいら》街に至り、七日|土庫《とこ》に至り、八日ちんぼうけいに至り、九日|嘉義《かぎ》に至らんとす。左側支隊は六日樹仔脚に至り、七日|雲林《うんりん》に至り、八日火焼庄に至り、九日|嘉義《かぎ》に至らんとす。本隊は六日|社頭《しゃとう》街に至り、七日剌羽港に至り、八日大甫林に至り、九日|嘉義《かぎ》に至らんとす。宮はこの日午前七時、彰化《しょうか》を立たせ給《たま》い、十一時五十分、員林《いんりん》街に憩《いこ》わせ給《たま》い、午後三時四十分、南港西荘に着かせ給《たま》う。従卒中村文蔵、病みて野戦病院に入る。四日、宮、北斗《ほくと》に往《ゆ》いて洪水の状を観、明日の前衛の前進を計画せさせ給《たま》う。五日、前衛|永靖《えいせい》街、北斗より樹仔脚に集合せんとせしに、敵はげしく抗抵《こうてい》せるを、午前十時、撃退して樹仔脚に入り、一部隊を遣《つか》わして剌桐港を占領せしむ。右側支隊は鹿港《ろくこう》渓を渡りて北斗に宿りぬ。六日、前衛、剌桐港に集合して、他里霧を偵察す。右側支隊は払暁|北斗《ほくと》を発し、西螺《せいら》渓を渡り、敵を撃攘《げきじょう》して西螺街に入り、ここに露営す。西螺《せいら》街はいわゆる細目族のいるところにして、その性|獰悪《どうあく》なりといえど、事なかりき。〈前衛は一部隊を出して、右側支隊を援《たす》けしめしが、西螺街のすでに占領せられしを聞いてむなしく帰りぬ。〉左側支隊は樹仔脚に露営し、本隊は社斗街に駐《とど》まりぬ。宮はこの日、午前八時十五分、南港西荘を立たせ給《たま》い、午後二時、北斗《ほくと》に着かせ給《たま》う。七日、前衛は午前六時、剌桐港を発し、八時三十分、他里霧北方一吉米の地に至りて敵にあい、午前十時これを撃退して他里霧を占領す。敵の死傷三百を下らず。われに死者五人、重傷者九人ありき。敵は黄某、王某、粛某らのひきいし二千余の兵なりき。右側支隊は午前七時、西螺《せいら》街を発し、七缺をへて、虎尾《こび》渓をわたり、午後一時、土庫《とこ》の敵を撃退して、部落の南端に露営す。左側支隊は午前六時、樹仔脚の東南端に集合し、六時三十分集合地を発し、虎尾《こび》渓をわたり、斗六《とろく》門付近の敵と戦をまじえ、午後十時三十分に至りて、斗六《とろく》門街を占領し、ここに舎営す。司令部をば雲林《うんりん》県庁に設けつ。敵の死者二百五十ばかり。われに死者五人、傷者十二人ありき。敵は上にあげたる黄某らの他、李某、林某ら率《ひき》いたりき。本隊は社頭《しゃとう》街を発して、剌桐港に宿りぬ。宮はこの日午前六時十五分、北斗《ほくと》を発せさせ給《たま》い、十一時、剌桐港に着かせ給《たま》う。八日、午前八時三十分、前衛他里霧を発し、九時、大甫林の北約一吉米の地に至りて戦闘し、午時、大甫林を占領す。午後三時、敵の残兵、寺院および竹林に拠《よ》れるを撃退し、七時、打猫に至りて宿営す。右側支隊は午前六時三十分、土庫《とこ》を発し、ひとたび興化荘に戦い、ふたたび双渓《そうけい》口の北なる洪家店に戦い、ちんぼうけいに露営す。左側支隊は午前四時三十分、斗六《とろく》街の南端に集合し、十時五十分、内林の西方四百メートルの地に至りて戦闘し、十時五十分内林を占領し、また林仔頭の西北端に至りて戦闘し、打猫の東方なる沙崙仔荘に宿営す。本隊は剌桐港を発し、他里霧をへて、午前十時大甫林に至り、大甫林の南方二吉米半ばかりなる竹林に露営す。宮はこの日午前六時、剌桐港を発せさせ給《たま》い、午後八時十分、露営地に着かせ給《たま》いぬ。九日、天晴れて、暑さ、やや退きぬ。前衛は昧爽《まいそう》打猫を発せしに、道、善《よ》かりければ、午前八時三十分、両側支隊に先だちて、嘉義《かぎ》の北門外一吉米の地に至りぬ。右側の須永支隊は昧爽《まいそう》、ちんぼうけいを発し、午前十時三十分、嘉義《かぎ》の西門外七百メートルの地に至りぬ。左側支隊は昧爽《まいそう》、沙崙仔荘を発し、山仔脚、北勢をへて、牛桐渓をわたり、十時ごろ嘉義《かぎ》の東門外に至りぬ。本隊は南湖西荘を発して、九時三十分すぎ、嘉義《かぎ》の北門外一吉米の地に至りぬ。午前十一時、戦闘は始まりぬ。前衛は砲兵して北門の西方なる敵の砲兵陣地を攻撃せしめ、十一時五十五分、竹|梯《はしご》を架して嘉義《かぎ》の外郭に登り、北門を占領す。右側支隊は第二連隊第一中隊〈有馬中隊。〉を南門に分派して、西門にせまり、十一時四十五分、外郭に竹|梯《はしご》を架して登り、西門を占領す。第二連隊第一中隊は南門より廓壁の上を東門に向かいて進み、東門を攻めたる阪井《さかい》支隊と協力して、午後零時五分、東門を占領す。零時十五分、嘉義《かぎ》はまったく占領せられぬ。宮は午前六時、大甫林南方の露営地を立たせ給《たま》い、十時、嘉義《かぎ》の北方六百メートルの地に至らせ給《たま》いぬ。参謀長、大樹の陰《かげ》に案内しまつり、宮はここにて、民家より借り来たる椅子《いす》にましまして、敵情を聴かせ給《たま》い、嘉義《かぎ》のおちいるにのぞみて、歩兵第三連隊第二大隊、騎兵第二中隊、砲兵第一大隊〈一中隊闕。〉に追撃を命ぜさせ給《たま》い、午後一時三十分、嘉義《かぎ》に入りて、旧県庁に舎営せさせ給《たま》う。この戦に敵の死者四百を超え、生擒《いけどり》せらるるもの五百余人なりき。師団諸隊は嘉義《かぎ》付近に宿営す。追撃隊は午後四時、水屈頭に至りて宿営しつ。この夜、歩兵第三連隊第二大隊、第四連隊第二大隊、〈二中隊闕。〉騎兵第二中隊、砲兵第一大隊、〈第一中隊闕。〉工兵半小隊を前衛とし、あらたに昇進せし阪井少将〈阪井《さかい》重季《しげすえ》は十月三日、少将に進み、第二旅団長に補せられき。〉に指揮せしめて、台南《たいなん》方面を偵察せしめらる。また歩兵第二連隊第一大隊、第一連隊第一大隊〈二中隊闕。〉騎兵一小隊、砲兵一中隊、工兵一小隊を右側支隊とし、須永中佐に指揮せしめて、混成第四旅団の上陸を援護せしめらる。十日、宮は、しばらく嘉義《かぎ》に留まらせ給《たま》う。混成第四旅団は澎湖島《ほうことう》馬公湾に停泊したりしが、この日、布袋嘴に上陸し、第二師団歩兵第四連隊、第十六連隊、騎兵第二大隊、砲兵第二連隊などもまた馬公湾を発しつ。英船、劉永福《りゅうえいふく》が条約二端を立てて台湾を譲与せんとする書をもたらして、澎湖島《ほうことう》錨地にある軍艦浪速に至る。南進軍司令官、台湾副総督|高島《たかしま》鞆之助《とものすけ》これに復してその無礼を責《せ》めつ。十一日、須永支隊、塩水港汎に至りて敵を撃攘《げきじょう》し、混成第四旅団と連絡す。第二師団の諸隊|枋寮《ほうりょう》に上陸して、その前衛大荘および茄苳脚付近の敵を撃攘《げきじょう》す。十二日、劉永福《りゅうえいふく》、英商に托《たく》して、和を乞《こ》う書を宮のもとに致《いた》しつ。宮、劉が行動の条理なきをせめて、使者を放ちかえさせ給《たま》う。第二師団はほとんど抗抵《こうてい》を被《こうむ》らずして東港を占領しつ。十三日、高島軍司令官、南進軍を部署し、貞愛《さだなる》親王のひきいさせ給《たま》う混成第四旅団を塩水港汎より進ましめ、乃木《のぎ》希典《まれすけ》のひきいる第三旅団を枋寮《ほうりょう》より、鳳山《ほうざん》をへて進ましめ、近衛師団を嘉義《かぎ》より進ましめ、二十三日を期して台南《たいなん》を攻撃せんとす。十六日、第三旅団、鳳山《ほうざん》を占領す。〈宮の従卒中村文蔵、病|癒《い》えて帰る。〉十七日、宮、南進軍司令官の意図をうけて、師団命令を発せさせ給《たま》う。その略にいわく。混成第四旅団は塩水港汎より茅港尾、看西をへて進み、第二師団は鳳山《ほうざん》より進まんとす。近衛師団は左右両縦隊をなして、番仔申および湾裏に通ずる道を進み、本隊は右縦隊の道によるべしとなり。軍隊区分は、歩兵第一連隊、〈第二大隊闕。〉第二連隊、〈第二大隊闕。〉騎兵第一中隊、〈二小隊闕。〉砲兵第一大隊、〈第一中隊闕。〉臨時工兵中隊、小架橋縦列の一部を右縦隊とし、川村《かわむら》景明《かげあき》ひきい、歩兵第三連隊、〈第一大隊闕。〉第四連隊、〈第一大隊の二中隊闕。〉騎兵大隊、〈三小隊闕。〉砲兵第一中隊、工兵大隊本部および第一中隊、〈一小隊闕。〉小架橋縦列の一部を左縦隊とし、阪井《さかい》重季《しげすえ》ひきい、〈衛生隊は両縦隊に半部ずつ分属す。〉歩兵第四連隊、〈第二大隊本部および二中隊闕。〉騎兵一小隊、砲兵連隊本部および第二大隊、工兵一小隊、第一および第二機関砲隊を本隊とせられぬ。混成第四旅団はこの日、塩水港汎を発し、鉄線橋付近の敵を撃退して、一部を茅港尾方面に派遣しつ。南進軍司令官は布袋嘴に上陸して、塩水港汎に至りぬ。宮は明日、嘉義《かぎ》を発せさせ給《たま》うべき準備をせさせ給《たま》うほどに、夜に入りて発熱せさせ給《たま》う。師団軍医部長、木村達、診《しん》しまつるに、舌の白苔を被《こうむ》れるほか、徴候の認むべきなかりき。達は瘧《おこり》と診断しつ。
 十八日、右縦隊は安渓寮に宿営し、左縦隊は内藤大佐ひきいて、估仔内、紅毛寮をへて、店仔口に至り、ここに宿営し、本隊は右縦隊とともに安渓寮に宿営す。宮はこの日、午前三時、悪寒、腰痛をおぼえさせ給《たま》いしかど、七時、病をつとめて嘉義《かぎ》を発せさせ給《たま》い、午後一時二十分、大茄苳に至らせ給《たま》う。この時、達、診《しん》しまつるに、後|頭重《ずじゅう》、口渇、全身|倦怠《けんたい》などおわしましき。一時三十分、体温三十八・四度、脈八十一至おわしき。塩酸キニーネをたてまつりぬ。安渓寮に着かせ給《たま》うに、竹の門ある矮屋《わいおく》にて、宮の居させ給《たま》う室は、畳八枚ばかり敷きつべき所なりしが、壁|湿《うるお》いて小き菌をさえ生じたりき。扉を脱して地に横《よこ》たえ、藁《わら》を敷きて宮を寝させまつりぬ。されど宮はこの夜をば安眠せさせ給《たま》いぬ。十九日、左右縦隊および本隊、みな古旗後に宿営す。宮は朝、安渓寮にいますを、達、診《しん》しまつりぬ。体温三十八・一度、脈八十至、全身|倦怠《けんたい》やや加わらせ給《たま》う。脾《ひ》のすこしく肥大せるを認めつ。午前六時、出で立たせ給《たま》うとき、御馬に乗らせ給《たま》うべくもあらねば、轎《きょう》に宮を載せまいらせつ。この朝、川村《かわむら》景明《かげあき》、阪井《さかい》重季《しげすえ》、皆、瘧《おこり》を病みて、轎《きょう》に乗りて行きぬ。歩兵第三連隊長、伊崎良煕もまた病《や》みて、担架に乗りて進めるを、宮、看行《みそなわ》してなぐさめさせ給《たま》う。午後五時、宮、古旗後に着かせ給《たま》う。御服薬は前方を服せさせ給《たま》う。この日、劉永福《りゅうえいふく》は台南《たいなん》にありて、講和なりぬと称して兵を解散し、英船二隻を雇《やと》い、金九千両をあたえて保険せしめ、おのれ、その一隻〈船名を THALES《タリス》 号という。〉に乗り、随従せる男女千余人を二船に分かち載せて安平《アンピン》港を発し、ベトナムに向かいて奔《はし》りぬ。船、発するにあたりて、わが軍艦|臨検《りんけん》し、木村信というもの刀をさげて船内を捜索せしかど、劉の石炭庫に潜匿《せんとく》したりしを発見することあたわざりき。わが軍はなお劉の奔《はし》りしを知らざりき。二十日、左右縦隊および本隊、皆、湾裡に至りて宿す。宮は朝、体温三十八・五度、脈九十二至にして、食思《しょくし》振わせ給《たま》わざりき。轎《きょう》に乗りて古旗後を立たせ給《たま》い、午後四時半、湾裡に至らせ給《たま》い、五時半、某の民家に宿りましぬ。夕の体温三十九・八度、脈九十二至なりき。ANTIFEBRIN《アンチフェブリン》 を服せさせ給《たま》う。半夜、下痢のために次硝酸《じしょうさん》蒼鉛《そうえん》をたてまつる。この夜はじめ、宮の宿らせ給《たま》うに定まれりし寺院は、副官室となりたるに、敵のその梁上に潜《ひそ》めるありて、闇に乗じて逃れ去らんとしつるを、人々捕獲しつ。この日、午前九時、第二師団司令部は、英国の宣教師三人の詣で来て、劉永福《りゅうえいふく》の奔《はし》りしことを告ぐるを聞きつ。されど近衛師団はいまだこれを知らざりき。二十一日、近衛師団の諸隊、大目降に至りて宿営す。宮は朝の体温三十九・五度、脈百至おわしき。著しく疲れさせ給《たま》うと見えさせ給《たま》いしかば、轎《きょう》に載せまいらすべきにあらずとて、竹四本を結びて長方形になし、これに竹|蓆《むしろ》をはり、藁《わら》を敷き、毛布を展《の》べ、上に竹を架して浅葱《あさぎ》色の木綿布をおおいて、日をさえぎるように補理《しつら》い、これに載せまつりて土人に舁《か》かせ、午前七時、湾裡を立ちぬ。午後三時、大目降に着かせ給《たま》う。夕の体温四十・一度、脈百零一至。倦怠《けんたい》いよいよはなはだしきを覚えさせ給《たま》う。キニーネ、赤ブドウ酒、里謨那底をたてまつりぬ。夜、下利せさせ給《たま》う。この日、午前八時、第二師団司令部、台南《たいなん》に入りぬ。夕に至りて、劉永福《りゅうえいふく》の奔《はし》りしこと、第二師団司令部の台南《たいなん》に入りしことなど、近衛師団に聞こえぬれど、軍の通報はいまだ至らず。二十二日、近衛師団の諸隊、大目降を発して台南《たいなん》に入りぬ。台南に近づくとき、軍の台南を占領せし通報を得つ。宮は朝の体温三十九・六度、脈八十至おわしき。午前七時三十分、舁《か》かれて大目降を発せさせ給《たま》い、午後五時三十分、台南《たいなん》に着かせ給《たま》う。夕の体温四十・二度、脈百零一至おわしましき。口渇、倦怠《けんたい》、食思《しょくし》また減退せさせ給《たま》い、脾《ひ》の肥大、著しくならせ給《たま》う。下利一行おわしき。赤ブドウ酒、里謨那底をたてまつりぬ。この夜より徹夜して看病せしむ。二十三日、朝の体温三十九・二度、脈百二十至おわしき。午前十一時、新たに選び定めたる家に移らせ給《たま》う。宮の居させ給《たま》うは、なかば床板をはり、なかば直土《ひたつち》のままなる、畳四枚ばかりを敷きつべき室なり。幅三尺の窓に玻っ戸を立つ。籐の臥床《ふしど》一つ求め得て、宮を寝させまつる。午後三時、諸症やや増悪せさせ給《たま》う。総督府軍医部長|石阪《いしざか》惟寛《いかん》、第二師団軍医部長谷口謙、西郷吉義、来診しまつる。夕の体温三十九・九度、脈百二十至おわしき。軟便をくださせ給《たま》うこと三度。次硝酸《じしょうさん》蒼鉛《そうえん》、龍脳《リュウノウ》、赤ブドウ酒、里謨那底をたてまつる。夜、譫語《せんご》せさせ給《たま》う。この日より客に逢《あ》わせ給《たま》わず。貞愛《さだなる》親王に逢《あ》わせ給《たま》いしを終として、ついで至れる高島軍司令官はむなしく帰りぬ。二十四日、朝の体温三十九・零度、脈百十至、呼吸三十、夕の体温三十九・三度、脈百十九至、呼吸三十三。口渇せさせ給《たま》いて、舌に褐色の苔《こけ》あり。右|肩胛《けんこう》下隅の下に濁音ありて、両胸の呼吸音、�雑に、右胸に水泡音を聞く。こは肺炎の徴《しるし》なり。尿量六百立方サンチメートルにして、タンパクの痕跡あり。実岐答利斯、吐根《とこん》の浸剤《しんざい》、龍脳《リュウノウ》、赤ブドウ酒、牛乳をたてまつる。二十五日、朝の体温三十八・五度、脈百零四至、呼吸三十、夕の体温三十八・零度、脈軟細にして百二十至、呼吸三十。便秘せさせ給《たま》う。右|肩胛《けんこう》下隅の下に捻髪音を聞く。ときどき応答不明におわしき。二十六日、朝の体温三十八・二度、脈百十八至、夕の体温三十八・零度、脈百十九至、呼吸二十九。唇乾き、舌うるおい、面、胸、手背に粘汗をおびさせ給《たま》い、四肢|振顫《しんせん》せさせ給《たま》う。龍脳《リュウノウ》、加斯篤里幾尼涅をたてまつる。二十七日、朝の体温三十八・六度、脈百二十至、呼吸三十、夕の体温三十七・六度、脈百二十至、呼吸三十。舌および四肢|振顫《しんせん》せさせ給《たま》う。全身粘汗をおびさせ給《たま》う。ときどき精神|朦朧《もうろう》におわす。濁音および捻髪音、左胸におよびぬ。前方をたてまつり、龍脳《リュウノウ》の皮下注射をなしまいらす。午後九時の体温三十七・五度、脈百三十至、呼吸三十七。この日、樺山《かばやま》総督いたる。二十八日、午前三時三十分、脈不正にして百三十五至。五時、体温三十九・六度、脈百三十六至、呼吸四十五。四肢|厥冷《けつれい》して冷や汗を流させ給《たま》う。人事を省せさせ給《たま》わず。龍脳《リュウノウ》の皮下注射、COGNAC《コニャック》 酒の灌腸《かんちょう》をなしまいらす。七時十五分、病、すみやかになりて、幾ならぬに薨《こう》ぜさせ給《たま》う。貞愛《さだなる》親王、樺山《かばやま》資紀《すけのり》、高島《たかしま》鞆之助《とものすけ》、乃木《のぎ》希典《まれすけ》の諸将、別を御遺骸に告げまいらせ、秘して喪を発せず。午後七時、高野盛三郎、〈家扶心得。〉山本喜勢治〈家従心得。〉御衣を更《か》えまいらせ、同じ二人、佐本寿人、岩尾惇正〈ならびに将校なり。〉および中村文蔵〈従卒。〉御柩におさめまいらす。この時、軍医監|石阪《いしざか》惟寛《いかん》は松本三郎とともに介助す。貞愛《さだなる》親王も立ち会わせ給《たま》う。御衣は素絹の単衣《ひとえ》、白き麻の襦袢《じゅばん》、白き紋|縮緬《ちりめん》の帯、白足袋にて、紋|縮緬《ちりめん》の敷布団《しきぶとん》をしき、同じ地質の掛布団《かけぶとん》を掛《か》けまいらせ、夏軍衣袴を添えまつりぬ。御柩は厚さ一寸五分の樟《クスノキ》板もて、縦七尺、幅四尺、深さ二尺に作らせ、裏面に亜鉛《なまり》板をはり、御遺骸の周匝《めぐり》には朱と石灰とを填《うず》む。御柩の覆《おおい》は紺地紋|緞子《どんす》もて縫《ぬ》わせ、上覆《うわおおい》は紺|繻子《しゅす》もて縫《ぬ》わせつ。御柩の台をも樟《クスノキ》もて作らせつ。宮の薨《こう》ぜさせ給《たま》いし家の一室をば、一切の什具《じゅうぐ》を移動せしめず、行軍の間、宮を載せまつりし竹の担架をもあわせて安置し、室の周匝《めぐり》には注連縄《しめなわ》を張《は》りぬ。この日より川村《かわむら》景明《かげあき》、近衛師団長の職務を代理す。
 二十九日、午前六時、歩兵少佐佐本寿人のひきいる一行、宮の御柩を奉じて台南《たいなん》を発す。表《おもて》には宮、御病のために帰らせ給《たま》うと沙汰《さた》せしめき。御柩に随従しまつるは、近衛師団軍医部長木村達、歩兵少佐佐本寿人、師団副官|久松《ひさまつ》定謨《さだこと》〈歩兵中尉。〉同伊達紀隆、〈歩兵少尉。〉特務曹長菱田栄和、家扶心得高野盛三郎、家従心得山本喜勢治、従卒中村文蔵および兵卒九人、看護人二人、力士数人なりき。〈はじめ、宮の台湾に渡らせ給《たま》いしとき随従しまつりし家令心得|恩地《おんち》轍、家扶心得高屋宗繁の二人は先に帰りぬ。馬丁は松本政吉、田村喜一郎、田中倉吉の三人なりき。〉安平《アンピン》にて御柩を西京丸に載せまつり、軍艦吉野もて護衛しまつる。十時三十分、抜錨《ばつびょう》す。貞愛《さだなる》親王を始めとし、樺山《かばやま》資紀《すけのり》、高島《たかしま》鞆之助《とものすけ》、乃木《のぎ》希典《まれすけ》らの諸将、埠頭に送りまつる。十一月一日、宮に菊花頸飾章を賜《たま》い、また功三級に叙して、金鵄勲章を賜《たま》う。〈年金七百円。〉御留守別当、高崎《たかさき》五六《ごろく》かわりて拝受しつ。二日、台南《たいなん》を平定せしをほめさせ給《たま》う勅語および皇后宮令旨、近衛師団に至りぬ。川村少将かわりて拝受しつ。三日、御柩を載せたる舟、土佐国須崎に泊《と》まりぬ。四日、午前七時四十分、舟、横須賀の港に入りぬ。勅使、土方《ひじかた》久元《ひさもと》いたる。御息所、御子三人、彰仁《あきひと》親王、同妃、依仁《よりひと》親王をはじめとし、御柩を迎えまつるもの数百人なりき。夜、御柩を汽車に移しまつりて、横須賀を発しつ。この日、宮は陸軍大将に任ぜられさせ給《たま》い、金一万円を賜《たま》わらせ給《たま》う。五日、午前零時四十五分、御柩を載せたる汽車、新橋に至る。迎えまつるもの、はなはだ衆《おお》し。留守、近衛師団司令部は兵卒五十人ばかりを派して御柩を舁《か》かしむ。二時、御柩を霞関《かすみがせき》〈二丁目角。〉なる御館に舁《か》き入れまつりぬ。〈別当高崎五六、ただちに宮内大臣|土方《ひじかた》久元《ひさもと》、陸軍大臣|大山《おおやま》巌《いわお》に、宮の着かせ給《たま》うを報ず。〉七時十分、喪を発す。〈届書は内閣総理大臣伊藤博文、宮内大臣、陸軍大臣、枢密院議長|黒田《くろだ》清隆《きよたか》、賞勲局総裁|大給《おぎゅう》恒《ゆずる》、貴族院議長|蜂須賀《はちすか》茂韶《もちあき》に発せられ、通知書は在外諸公使および在京外国諸公使に発せられぬ。○宮内省告示第十五号は宮の薨去《こうきょ》を公布しつ。〉宮中、喪五日間。〈同上告示。〉全国に歌舞音曲を停止せらるること三日間。〈閣令第五号。停止は五日より算す。東京はさらに葬送の日に停止す。〉国葬を令せられぬ。〈勅令第百五十六号。○葬儀係を置かる。係長を式部長三宮義胤おおせつけられ、係には内匠頭堤正誼、内閣書記官多田好問、式部官木戸孝正、宮内大臣秘書官斎藤桃太郎、内閣書記官田口乾三、式部官兼掌典万里小路正秀、命ぜられ、下に属官、技手ら二十人を添えらる。葬儀事務所は衆議院議長官舎をもてあてらる。葬儀係の選びて内閣に稟《もう》し、允許《いんきょ》せられし斎主以下の職員は、斎主大社教管長千家尊愛、副斎主大教正千家尊弘、地鎮祭ならび出棺後清祓奉仕権大教正平田盛胤なりき。宮内大臣は半旗|弔砲《ちょうほう》の事を陸海軍大臣に牒じ、神奈川、兵庫、長崎、新潟、北海道の五港の知事に報じつ。別当は宮内大臣にうかがいて、成久王を喪主となしまつりぬ。〉貴族院の弔詞いたる。〈議長|蜂須賀《はちすか》茂韶《もちあき》もたらし至りぬ。〉
 六日、午前十時、麻布なる出雲大社分祠において、帰幽奏上式をおこなう。午後五時、入棺式をおこなう。〈祭官は斎主任命す。権大教正戸田忠幸、中教正佐佐木幸見、同竹崎嘉通、権中教正木村信嗣、大講義西村清太郎、権大講義桜井敬正の六人なりき。同時に地鎮祭ならび清祓奉仕を任命す。少教正鶴田豊雄、大講義竹下正衛の二人なりき。中講義千葉洪胤は準備員なり。〉御柩は檜《ヒノキ》の白木をもて作り、左右両面に金色御紋章を画《えが》く。豊島岡の墓地を交付せらる。〈墓地第九号四百二十九坪にして、諸陵寮交付しつ。〉内旨もて上野・日光両輪王寺に法会をおこなうことを命ぜらる。輪王寺は宮に法諡《ほうし》をたてまつりて、鎮護王院という。この日、南進軍の編制を解きて、第二師団に台湾南部を守備することを命ぜられぬ。七日、午後一時、霊遷式をおこなう。勅して儀仗兵《ぎじょうへい》を賜《たま》う。第一師団の歩兵二連隊、騎兵一大隊、砲兵一連隊、輜重兵《しちょうへい》一大隊、工兵一大隊、近衛師団の歩兵二大隊、騎兵一中隊、砲兵一中隊、工兵一中隊これなり。〈聖上および皇后妃に果子《かし》を賜《たま》う。〉八日、午前十時、霊祭をおこなう。〈送葬の日に、聖上および皇后、代拝に人を遣《つか》わさせ給《たま》うべきよし告知せられぬ。〉九日、霊祭をおこなうこと前日のごとし。儀仗諸兵、指揮官らを任命せらる。〈諸兵指揮官は第一師団長・陸軍中将|山地《やまぢ》元治《もとはる》、参謀長は第一師団参謀長心得・砲兵中佐|内山《うちやま》小二郎《こじろう》、参謀は留守近衛師団参謀・歩兵少佐西川政成、第一師団副官・歩兵少佐亀岡泰辰、副官は第一師団副官・騎兵中尉稲垣三郎なりき。〉十日、霊祭をおこなうこと前日のごとし。午後一時、勅使西四辻公業いたりて賻弔す。〈供物料金五百円、白地錦一巻、榊《さかき》一対、神饌《しんせん》七台。〉皇太后、皇后、皇太子、各使を遣《つか》わして賻弔せしめらる。〈皇太后の使は掌侍《ないしのじょう》吉田滝子、賻《ふ》は榊《さかき》一対、絹五種、金千五百円。皇后の使は掌侍《ないしのじょう》姉小路良子、賻《ふ》は上に同じ。皇太子の使は東宮侍従稲葉正縄、賻《ふ》は上に同じ。〉三時、豊島岡において地鎮祭《じちんさい》をおこなう。十一日、午前七時、棺前祭をおこなう。聖上、皇太后、皇后、皇太子、使を遣《つか》わして代拝せしめらる。〈勅使は西四辻公業、皇太后の使は吉田滝子、皇后の使は姉小路良子、皇太子の使は前田青莎なりき。〉棺《ひつぎ》を輦《れん》に上す。九時、御柩を出す。〈送葬の道路は内幸町、龍口、大手町、神田橋、錦町、小川町、水道橋、砲兵工廠前、江戸川端、小日向水道町、音羽町なりき。行列の概略は、騎馬の憲兵一伍を先頭とし、騎馬の警視一人、警部四人これに次ぐ。その次は軍楽隊、次は儀仗兵なりき。諸兵指揮官、参謀長、士官三人、近衛師団の歩、騎、砲、工兵これなり。次は真榊《まさかき》一対、紅白旗十旒なりき。皇宮警手二人両側を行く。次は神饌|辛櫃《からびつ》なりき。直垂《ひたたれ》着たる祭官二人、両側を行く。次は呉床《くれどこ》、雨皮《あまかわ》なりき。直垂《ひたたれ》着たる祭官二人、騎馬にて両側を行く。次は副斎主の馬車、次は斎主の馬車にて、直垂《ひたたれ》着たる祭官二人、騎馬にて従えり。次は錦旗なりき。中村文蔵、直垂《ひたたれ》着て捧持《ほうじ》す。次は直垂《ひたたれ》着たる伶人《れいじん》六人なりき。次は掘《ねこじ》真榊《まさかき》および生花二十八対、鉾《ほこ》三対、造花二対なりき。次は勲章十個にて、陸軍砲兵少佐馬淵正文、海軍少佐岩崎達人以下十九人|捧持《ほうじ》す。次は直垂《ひたたれ》着たる家従二人、両側を行く。次は陸軍将校総代・陸軍大将|野津《のづ》道貫《どうがん》以下五人なりき。次は御柩なりき。次は宮に台湾に随従しまつりし陸海軍将校・海軍中将|有地《ありち》品之允《しなのじょう》以下十人および近衛兵、若干人なりき。次は家扶二人、家従六人にて、家扶は皆、直垂《ひたたれ》なり。次は呉床《くれどこ》、雨皮《あまかわ》。次は直垂《ひたたれ》着たる家従二人にて、右なるは刀、左なるは剣を錦の袋《ふくろ》に入れ台にのせ捧持《ほうじ》す。次は直垂《ひたたれ》着たる家従、沓《くつ》を捧持《ほうじ》す。次は乗馬四頭、宮家の章服着たる馭者《ぎょしゃ》これをひく。次は直垂《ひたたれ》着たる家従二人ならび行く。次は喪主、成久王《なるひさおう》なりき。喪服に素衣を加えさせ給《たま》い、藺《い》もて織れる沓《くつ》を穿《は》かせ給《たま》い、竹の杖を突かせ給《たま》いて、徒歩せさせ給《たま》う。次は恒久王《つねひさおう》、輝久王《てるひさおう》、ならびに喪服にて徒歩せさせ給《たま》う。直垂《ひたたれ》着たる家扶六人、同じ装《よそお》いしたる家従二人、両側を行く。次は別当高崎五六、家令恩地轍にて、ならびに布衣なり。次は喪主以下若宮三人の馬車なりき。次は近親の皇族および華族なりき。能久《よしひさ》親王妃の馬車には吉田貞子|陪乗《ばいじょう》す。満子《みつこ》女王、貞子《さだこ》女王、武子《たけこ》女王、拡子《ひろこ》女王、彰仁《あきひと》親王、彰仁親王妃の馬車つづきぬ。博経《ひろつね》親王妃の馬車には竹内絢子陪乗す。載仁《ことひと》親王、依仁《よりひと》親王、邦芳王《くにかおう》、博恭王《ひろやすおう》、菊麿王《きくまろおう》および妃、邦彦王《くによしおう》、守正王《もりまさおう》、鳩彦王《やすひこおう》、稔彦王《なるひこおう》の馬車、近親華族七人の馬車、禎子女王代拝者の馬車つづきぬ。次は常の親戚華族十三人にして、皆、馬車なりき。次は葬儀係の馬車なりき。次は騎馬の家従二人なりき。次は内閣総理大臣伊藤博文以下大臣九人、枢密顧問官六人、文武諸官、貴族院および衆議院議員若干人、馬車もしくは騎馬にて続きぬ。次は儀仗兵なりき。第一師団の歩、騎、砲、工、輜重兵《しちょうへい》なり。次は常の会葬者なりき。後衛は警視一人、警部二人、騎馬にて勤《つと》めき。〉十一時三十分、御柩、豊島岡に至りぬ。葬場祭をおこなう。〈勅使以下の代拝など棺前祭の時に同じ。〉御柩を埋《うず》みまつる。墓穴は石もてたたみなせり。深さ一丈余、幅八尺、長さ二間なり。御柩をば児を塗りたる上箱に納め、川田剛が撰び、西尾為忠が書きし墓誌銘を、長さ三尺、幅二尺、厚さ三分の銅板に鐫《ほ》らせたるを添えて卸《おろ》しまつり、周匝《めぐり》をば木炭をもて填《うず》みまつりぬ。さて土を盛り墓標を立てつ。〈申橋融次、下村弥一郎、墓所勤仕を命ぜられ、これより百日間、幄舎《あくしゃ》の中に宿直す。〉午後三時、御館において宮殿解除式をおこなう。十二日、午前九時、霊祭をおこない、十一時、墓祭をおこなう。〈これより後、十一月十四日、十日祭をおこない、二十四日、二十日祭をおこない、十二月四日、三十日祭をおこない、十四日、四十日祭をおこない、二十四日、五十日祭をおこなう。この日の例のごとし。五十日祭をおこない畢《おわ》りて、葬儀係を解《と》かれぬ。〉二十八日、近衛師団|凱旋《がいせん》しおわりぬ。〈これより先、十一月十三日、近衛師団の諸隊はじめて打狗《だぐ》より舟に乗り、十八日、師団司令部|宇品《うじな》に至り、二十一日、東京に入りぬ。諸隊は舟十七隻に載せられにき。師団司令部は薩摩丸に乗りぬ。〉十二月十日、近衛師団、諸隊復員し畢《おわ》りぬ。〈師団の将卒、台湾に死せし者、千四百余人なりき。〉


底本

底本:『鴎外全集 第三巻』岩波書店
   1972(昭和47)年1月22日発行
初出:『能久親王事蹟』東京偕行社内棠陰會編纂、春陽堂
   編集兼発行人代表者 森林太郎
   1908(明治41)6月29日刊行
NDC 分類:288(伝記/系譜.家史.皇室)
http://yozora.kazumi386.org/2/8/ndc288.html



2009.11.14:公開
しだひろし/PoorBook G3'99
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  • メモ、78% -- しだ (2009-11-14 20:01:39)
  • スリーパーズ日記:能久親王(1847年生まれ)がリヴァー・フェニックス、明治天皇(1852年生まれ)がキアヌ・リーヴス、熾仁親王(1835年生まれ)がブラッド・ピット……と脳内配役したものの、明治天皇と熾仁親王は17才ちがいだから無理がある。キアヌには徳川慶喜(1837年生まれ)あたりを。すると、明治天皇はレオナルド・ディカプリオか。問題は覚王院義観を誰にするか。 -- しだ (2009-11-16 01:04:59)
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最終更新:2009年11月16日 01:04