frame_decoration

MT*2_15-能久親王事跡(五)森 林太郎

ミルクティー*現代表記版

能久親王事跡(五)
森林太郎




 五日、師団の参謀河村秀一、前哨を巡視せしに、水返脚の民たずね来て、敵兵の台北《たいほく》にありて掠奪《りゃくだつ》をほしいままにし、水返脚にも出没して良民をたしなむるをつげ、軍を進められんことを請《こ》いぬ。秀一、返り報じて、まず歩兵第一連隊を台北に派遣することとなしつ。常備艦隊は基隆《キールン》港口にて水雷十四個を発見し、爆破しつ。薩摩丸など港に入りぬ。この日、歩兵第一連隊第六中隊の中尉、田中又三郎ら基隆寺にありて、鹵獲《ろかく》せし弾薬数千箱を護《まも》りたるを、連隊の一軍曹、役夫百余をひきいて受け取りに来ぬ。授受の時、地雷爆発して又三郎以下士卒二十一名即死し、下士卒二十余名、役夫百余名負傷しつ。寺内に潜匿《せんとく》して導火せし支那人混参金ら二人は縛《ばく》につきぬ。人みな、宮のこの寺院に入らせ給《たま》わざりしを喜びぬ。六日、樺山《かばやま》総督上陸しぬれば、宮、往いて訪《と》わせ給《たま》う。師団兵站監部、上陸しはじむ。第一連隊第一大隊は暖暖街を発して水返脚に至り、連隊長は二中隊をひきいて七肚に至りぬ。午後五時ごろ、台北に寄留《きりゅう》せる外人の総代三人〈英商一人、米国 HERALD《ヘラルド》 新聞記者一人、独商一人。〉水返脚の陣に至りて請《こ》うていわく。台北をば今、大尉のひきいたるイギリス水兵三十人、中尉のひきいたるドイツ水兵二十五名、警戒せり。敵兵約五千は淡水《たんすい》に逃れ去り、余は新竹《しんちく》に向かいて奔《はし》りぬ。糧食のごときは、某ら周旋《しゅうせん》して欠乏あらせじ。願わくは速やかに軍を進めさせ給《たま》えという。偶、第一大隊の道路を偵察せしめんとて、錫口に派遣せし士官帰りて、錫口の民、わが軍の至るを待つと告ぐ。連隊長、前進に決す。午後七時、第一大隊〈二中隊闕。〉水返脚を発す。途中、しばしば銃声を聞きしかど、そは土人の敗兵に備《そな》うるにて、わが兵に抗抵《こうてい》するにあらざりき。七日、午前一時半、第一大隊、台北城廓の外に至り、練兵場に露営す。五時、進みて北門に向かう。敵門をとざして射撃す。大隊は一部をして門外を警衛せしめ、主力をもて城壁に攀《よ》じしめんとす。一女子ありて、弾をおかして梯《はしご》を壁に架す。わが兵、壁にのぼりて射撃す。敵、退《ひ》く。大隊、城門を闢《ひら》いて入り、敵を掃蕩《そうとう》して諸|官衙《かんが》を占領し、居留地および停車場を警衛す。敵の数は約百名なりき。死者数人を遺《のこ》して淡水《たんすい》および新竹《しんちく》に向かいて奔《はし》りぬ。宮は給養を顧慮して、師団〈じつは混成旅団。〉を二|梯団《ていだん》に分かち、第一旅団長に第一団を率《い》て台北に入らしめ、第二団をば基隆《キールン》に留め給《たま》う。この日、騎兵大隊、基隆《キールン》に至りて上陸す。八日、第一梯団第一連隊第二大隊を淡水《たんすい》に進む。大隊は江頭に宿せり。あらたに川村《かわむら》旅団長の指揮下に入りし騎兵第二小隊〈長少尉、坊城《ぼうじょう》俊延。〉偵察のために淡水《たんすい》におもむき、砲台を占領して、軍艦浪速と連絡す。基隆《キールン》にいます宮は、病院を訪《と》わせ給《たま》う。九日、第二大隊、淡水《たんすい》滬尾《こび》街に入りぬ。敵、約三十人|降《くだ》る。総督府参謀|福島《ふくしま》安正《やすまさ》、俘を万国、河野浦の両船および英船某号に分かち載せて送還す。この日、洩底および三貂大嶺の東方なる地に留めたりし人馬・材料、おおむね基隆《キールン》に集まりぬ。十日、第二梯団、基隆《キールン》より前進す。宮は午前六時四十分、基隆《キールン》を発せさせ給《たま》い、午後二時、水返脚に着かせ給《たま》う。御宿営をば村長蘇樹林が家に定めさせたまいぬ。この日、基隆《キールン》・台北間の汽車の交通を開始し、午後、運転せしむ。この間、道路|悪《あ》しくして、鉄道ならでは兵を進むべからず。されば兵は午前、鉄道を歩みて進み、午後は汽車もて材料を運搬しつ。十一日、第二梯団および師団司令部、台北に入る。宮は午前七時、水辺脚を発せさせ給《たま》い、午後一時、台北なる巡撫布政使庁に入らせ給《たま》う。師団はこれより新竹《しんちく》に前進せざるべからず。されど運輸の状況はいまだこれを許さず。総督の命令もまた、いまだ発せられず。よりて歩兵第二連隊第四中隊に参謀河村秀一をそえて、新竹《しんちく》方向を偵察せしめ、また騎兵一小隊〈中尉|田中《たなか》国重《くにしげ》、引率す。〉に大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]方向を偵察せしめたまう。これより先、大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]には清国の将校余清勝、駐屯して土蕃《どばん》を鎮圧せりしが、書を総督に上《たてまつ》りて処置を請《こ》いぬ。
 十二日、両偵察隊は桃仔園に至りぬ。十三日、新竹《しんちく》偵察隊、中歴に至る。大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]偵察隊は大姑陥に入り、余清勝を拉《ひし》いて台北に返る。十四日、総督、台北に入る。宮、将校をひきいて停車場に迎えさせ給《たま》う。新竹《しんちく》偵察隊、大湖《ダイコ》口に至る。第一連隊第三中隊、海山《かいざん》口より進みて、偵察隊の後援となる。十五日、新竹《しんちく》偵察隊は将校斥候を派して新竹《しんちく》を偵察し、下士斥候を派して鳳山渓を偵察せしむ。後援隊、中歴に至る。淡水《たんすい》・台北間の水路兵站、開始せらる。十六日、第二連隊第一大隊長に一中隊をひきいて桃仔園に進まんことを令し、第一連隊第三中隊をその指揮下に属せらる。新竹《しんちく》偵察隊、中歴に返りて、後援隊とともに宿営す。当時、新竹《しんちく》に呉光亮および楊某の兵約二千あり。新車付近に土兵《どへい》数百あり。宜蘭《ギラン》付近に敵兵の散じて掠奪《りゃくだつ》を事とせるあり。台南《たいなん》付近には、はじめ台湾大統領と称する唐某ありしが、ひげをそり、姿を変じて厦門《アモイ》に逃れ、台南の道台知県もまた厦門《アモイ》に逃れ、劉永福《りゅうえいふく》、留まりて清兵を指揮せり。この日、宮の家従高野盛三郎、東京より至り、家扶《かふ》心得を命ぜらる。家従心得山本喜勢治、基隆《キールン》より至る。十七日、午後二時、総督閲兵式をおこなう。四時、総督府開庁式をおこなう。宮ならびにこれに?《のぞ》ませ給《たま》う。この日、小松宮|依仁《よりひと》親王、山階宮|菊麿王《きくまろおう》、来訪せさせ給《たま》う。十八日、歩兵第二連隊〈第二大隊本部ならび三中隊欠。〉騎兵一小隊〈隊長中尉、高橋利作。〉山砲兵一中隊、〈砲四門。〉機関砲第四隊〈砲四門○別に衛生隊半部、第一糧食縦列あり。〉をもて新竹《しんちく》支隊となし、歩兵第二連隊長、阪井《さかい》重季《しげすえ》を司令官たらしめ、新竹《しんちく》を占領し、台北・新竹《しんちく》間の鉄道および電信線を保護し、前方道路の状況を偵察すべきことを命ぜさせ給《たま》う。十九日、新竹《しんちく》支隊、台北を発して桃仔園に至る。楫取道明、宮の御許《おんもと》にまいりぬ。二十日、新竹《しんちく》支隊、中歴に至る。宮、高屋宗繁に帰京を命ぜさせ給《たま》う。二十一日、新竹《しんちく》支隊は楊梅、崩坡、大湖口に戦闘して、大湖口西南高地に露営す。第二次輸送船ようやく基隆《キールン》に至り、指揮官、陸軍少将|山根《やまね》信成《のぶなり》、上陸す。高屋宗繁、帰京の途につく。西郷隆凖〈式部官。〉中村純九郎〈参事官心得。〉伺候《しこう》す。二十二日、新竹《しんちく》支隊は新車および新竹付近に戦闘して、午前十一時五十二分、新竹を占領しつ。山根少将、伺候《しこう》す。二十三日、歩兵第一連隊の三中隊〈第一、第三、第六。〉騎兵一小隊、工兵第一中隊〈一小隊闕。〉をもて台北・新竹間連絡支隊となし、騎兵中佐、渋谷在明をして司令官たらしめさせ給《たま》う。こは沿道の土人、大部隊の過ぐるに会いては抗抵《こうてい》することなく、小部隊を見るごとに襲撃し、新竹《しんちく》支隊の消息、なかごろ絶《た》ゆるに至りしがためなり。二十四日、渋谷支隊、台北を発して桃仔園に至る。宮は第二次輸送船の載せ来たれる歩兵第二旅団、騎、砲、工、輜重兵《しちょうへい》の半部をもて近衛混成旅団となし、山根少将をしてひきいしめ、これに水路、澎湖島《ほうことう》〈澎湖島はこれより先、三月二十三日、わが混成支隊、占領したりき。〉に集合して、台南および鳳山《ほうざん》を占領せんことを謀《はか》るべきよしを命ぜさせ給《たま》い、同時に参謀長|鮫島《さめじま》重雄《しげお》に、この旅団に同伴すべきことを訓令せさせ給《たま》う。これより先、安平《アンピン》にある英国領事はあるいは淡水《たんすい》領事館に電報し、あるいは東京公使館に電報していわく。劉永福《りゅうえいふく》、黒旗兵《こっきへい》五千を擁して安平《アンピン》に拠《よ》り、居留民に退去を命ず。英国水兵百五十名は現に居留地を警衛すといえども、勢、久しきを支え難《がた》し。願わくは速やかに軍を進められよと。総督これを聞きて、十七日、近衛師団に命ずるに、その第二次輸送部隊をして南征せしむることをもてしつ。師団命令はこれにもとづきて混成旅団に下りしなり。この日、台北・新竹間の逓騎《ていき》第三小隊長、吉田宗吾〈特務曹長。〉新車において敵におそわれ、部下一人とともに戦死す。二十五日、渋谷支隊は頭亭渓に戦いて敵将潘良を殺し、大湖口に至る。この日、歩兵第一連隊第一大隊に安平鎮〈中の西南約六吉米。〉を攻撃せんことを命ぜさせ給《たま》う。安平鎮には敵将黄娘盛の家ありて、黄は胡嘉猷らと共にここに拠《よ》れり。二十六日、洗谷支隊、新竹《しんちく》に至りて、新竹支隊と連絡す。二十七日、歩兵第一連隊第一大隊の二中隊〈第二、第三中隊。〉中歴に集合して、安平鎮を攻撃せんとす。鮫島参謀長、基隆《キールン》におもむく。宮、恩地《おんち》轍に帰京を命ぜさせ給《たま》う。轍、台北を発す。二十八日、歩兵第一連隊第一大隊、安平鎮の敵を攻撃して中歴にかえる。二十九日、渋谷支隊、台北に帰る。七月一日、歩兵第一連隊第一大隊の二中隊、砲兵一中隊、工兵一中隊は再び安平鎮を攻撃して中歴にかえる。基隆《キールン》にては部隊の乗船すべきもの乗船し始めしに、夜、総督府、急に第二次輸送部隊の水路南に行くことを止め、これに基隆《キールン》に上陸し、台北に集合すべきことを令しつ。宮、ただちに基隆《キールン》に電報せしめ給《たま》う。総督府のこの命令を発せしは、第二次輸送部隊の来航遅延して、季節ようやく航海によろしからざるに至りしこと、舟中の水を給するにはさらに琉球に回航せざるべからざること、台湾北部、穏《おだ》やかならざることなどにもとづき、まず新竹《しんちく》以北の地域を平定して、後顧《こうこ》の憂《うれい》なからしめ、さておもむろに南征せんとは謀《はか》れるなりき。二日、安平鎮の敵、のがれ去りしをもて、わが兵ただちにこれを占領しつ。三日、前に基隆《キールン》に遣《つか》わされし参謀長|鮫島《さめじま》重雄《しげお》、帰り来ぬ。八日、第二次に輸送せられし部隊、ほとんど全く台北付近の地に集合しおわりぬ。十日、敵〈主力は尖筆山付近にあり。〉わが新竹支隊を襲《おそ》いしかども、ただちに撃退せられぬ。宮は第二旅団長|山根《やまね》信成《のぶなり》をして、混成旅団をひきいて、本道の南側に沿いて新竹に進ましめ、みずから爾余《じよ》の兵をひきいて、本道を新竹に向かわんとおぼし、山根旅団長に命令せさせ給《たま》う。その要領にいわく。支隊は十二日、台北を発し、三道に分かれ進むべし。その一つは大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]川の南方、察加沿、大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]をへて進み、その二は大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]川の左岸に沿いて進み、その三は兵站線路をへて進み、第三日に龍潭坡に至りて合一し、苗栗《びょうりつ》に通ずる道の、新竹《しんちく》と斉頭なる所に達して後命を待つべしとなり。こは三角涌、大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]付近の民|陽《おもて》に好意を?いて、ひそかに禍心《かしん》をなつける迹ようやく明なるに至りぬれば、そを撃ち平げまさんとてなり。山根支隊は歩兵第三連隊、騎兵一小隊、砲兵一中隊、〈第四。〉工兵一中隊〈衛生隊半部。〉よりなる。別に歩兵第一連隊の一中隊〈第七。〉を大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]守備隊となし、支隊と同行せしめたまう。こは大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]を平定せんとき、兵力を分かちて守備に任ぜしめんことの不利なるをおもんばからせ給《たま》えばなり。十一日、山根支隊の一部にして、大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]をへて進むべき、歩兵第三連隊第二大隊、〈第五、第六、および第八中隊。〉工兵一小隊よりなれる、いわゆる坊城《ぼうじょう》支隊は、台北兵站司令部に謀《はか》りて、一隊の運糧船を編成し、夕に台北を発せしめつ。運糧船はおよそ十八隻に、米百五十俵、〈一に百七十俵に作る。〉梅干《うめぼし》三十|樽《たる》を分かち載《の》せ、歩兵第三連隊第六中隊第一小隊の下士卒三十五人〈一に三十二人に作る。〉をして役夫舟人を護衛せしむ。その指揮官は特務曹長、桜井茂夫なりき。十二日、山根支隊ことごとく台北を発しつ。その本隊は歩兵第三連隊第一大隊、騎兵一小隊〈隊長中尉、牧野正臣。〉砲兵一中隊、〈第四。〉工兵一中隊〈衛生隊半部。〉よりなれるを、少将|山根《やまね》信成《のぶなり》ひきいて、鉄道線路に沿いて進み、事なくして桃仔園に達しつ。大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]を経《へ》べき坊城《ぼうじょう》支隊は、午後一時四十分、事なくして三角涌に至り、運糧船より糧を受け、三角涌付近に露営しつ。中央の道路を進むべき歩兵第三連隊第七中隊は、午後二時、二甲九庄付近に至りて露営したりしに、敵の襲《おそ》い来るにあいて、戦を交《まじ》えつ。大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]守備隊歩兵第一連隊第七中隊は、坊城《ぼうじょう》支隊に跟随《こんずい》して進み、ともに三角涌付近に露営しつ。十三日、山根支隊の本隊は中櫪に至りて、龍潭坡付近の敵と対峙《たいじ》す。安平鎮より引き退きし黄娘盛・胡嘉猷ら、皆、この方面にあり。坊城支隊および大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]守備隊は、午前四時三十分、三角涌を発し、進むこと約八吉米にして、支隊の前衛大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]の東北方約四吉米なる山腹に達し、その後、衛後方なる山の鞍部にあるとき、敵三千余、四方より起こりて包囲しつ。坊城支隊および守備隊は苦戦して日を終《お》えにき。これにともなえる運糧船は、三角涌付近にて敵におそわれ、糧をばことごとく奪《うば》われぬ。守衛兵は桜井特務曹長以下、みな戦死して、兵卒のまぬがれて桃仔園に至りしもの三人、海山《かいざん》口に向かいしもの一人なりき。中央の道路を進みし歩兵第三連隊第七中隊は、前夜より敵に応戦したりしが、午後、二甲九庄の西方一吉米ばかりの地に集合し、これより潜行して桃仔園に至ることとしつ。この日また、運糧隊ありて、打類坑〈海山《かいざん》口をへだたること六吉米ばかり。〉付近を過《よぎ》りしを、敵約六百人、急に起こりて襲撃し、守衛兵二十九人を殺して糧を奪《うば》いつ。宮、台北におわして聞《きこ》し召《め》し、海山《かいざん》口にある歩兵第四連隊〈内藤正明これに長たり。〉に命じてこれを討ち退《の》けしめ給《たま》う。連隊の第二大隊この敵を攻撃して夜に入りぬ。十四日、山根支隊の本隊は未明に中櫪を発して、龍潭坡付近の敵を攻撃せんとしつ。第三連隊第四中隊をば、右側衛として銅羅騫〈一に銅羅圏に作る。〉に向かわしむ。銅羅騫は胡嘉猷が家のある所なり。午前七時三十分、支隊本隊の前衛〈第三連隊第三中隊。〉龍潭坡に達して敵と衝突し、これより戦闘、午後四時に至る。黄娘盛、胡嘉猷ら、皆これに死す。右側衛は午前、銅羅騫を占領しつ。支隊本隊は夜、龍潭坡付近に露営せり。坊城《ぼうじょう》支隊および大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]守備隊は、この日もまた苦戦して、毎卒平均五十発の弾薬をあますに至り、大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]付近に露営しつ。〈これにともなえる運糧船の守衛兵一人は、この日、海山《かいざん》口に達することを得て、海山口より台北にゆきぬ。〉中央の道路を進みし第三連隊第七中隊は、この日、桃仔園に達することを得つ。打類坑付近の敵に向かえる歩兵第四連隊第二大隊は、この日、攻撃を続けたりき。この日また、台北より偵察に派遣せられし騎兵一小隊〈少尉、浮田家雄ひきいたり。〉ありしに、河水に阻げられ、目的地に達することあたわずして、暮に至りむなしく帰りぬ。この日また、台北に流言あり。敵は夜半大挙して台北を襲《おそ》わんとすといえり。宮は武装して夜を徹《とお》させ給《たま》う。当時、宮の掌握《しょうあく》せさせたまえる兵は、わずかに歩兵第一連隊の三中隊半ありしのみなりき。十五日、山根支隊本隊は、坊城《ぼうじょう》支隊と連絡せんと欲して、偵察隊〈中尉、菊池《きくち》慎之助《しんのすけ》のひきいる一中隊。〉を出ししかど果《はた》さざりき。坊城《ぼうじょう》支隊および大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]守備隊はなお苦戦を続けたるが、この日、携帯|口糧《こうりょう》ほとんどつきて、籾《もみ》三分水七分の粥《かゆ》を食うに至りぬ。支隊は勇士四人を選びて密使となし、支隊本隊と師団司令部とに消息を通ぜんことを謀《はか》りぬ。支隊本隊のあるべき龍潭坡に向かいしは、第三連隊第八中隊の上等兵白井安蔵〈一作、安吉。〉と同じ連隊の第五中隊の一等卒、三宅保太郎となりき。中櫪をへて、台北なる師団司令部にゆかんとせしは、第三連隊第六中隊の軍曹小賀友左衛門と、大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]守備隊たる第一連隊第七中隊の上等兵、横田安治となりき。四人はみな土人に装《よそお》いて、夜、わが陣を抜《ぬ》け出でぬ。この日また、近衛騎兵大隊第二中隊第三小隊の准士官以下二十二名〈指揮官特務曹長、山本好道。〉は、三角涌付近を偵察せんことを命ぜられ、正午、台北を発して板橋頭をへて進みしに、敵に包囲せられて、ほとんどみな戦死しつ。その逃れて海山《かいざん》口に入りしものは、わずかに三人なりき。十六日、山根支隊は午前二時、龍潭坡を発し、銅羅騫をへて、牛欄河の敵を攻撃し、その地を占領して、九時、龍潭坡に帰りぬ。時に坊城《ぼうじょう》支隊の派遣せし使者、白井安蔵至りてつぶさに窮迫《きゅうはく》の状を告ぐ。白井とともに出でし三宅保太郎は途に殪《たお》れぬ。山根支隊は午前十一時、また龍潭坡を発し、午後一時三十分、大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]河岸に至り、五時、突撃して、大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]を占領しつ。夜、坊城《ぼうじょう》支隊の出しし歩兵第三連隊第七中隊の士卒二、三十人、槍《やり》を把《と》り河を渡りて至りぬ。山根少将すなわち歩兵第三連隊第一中隊の士卒を派して、坊城支隊と連絡せしめき。山根少将はこの日、わずかに歩兵第四連隊を亀崙に応援すべき師団命令を受けつ。坊城支隊の台北に派せし小賀友左衛門ら、この日午前二時、中櫪に至りて、歩兵第一連隊第二中隊に会し、横田安治はさらに台北に向かいぬ。この日、三角涌付近の囲を脱せし騎兵三人、台北に至る。また桃仔園・海山《かいざん》口の間の逓騎哨に、騎兵一小隊〈浮田少尉ひきいたり。〉を派せらる。十七日、坊城支隊は午前二時、露営地を発して、大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]に至り、山根支隊と会し、午後零時三十分、共に大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]を発して、亀崙に向かい、桃仔園をへだたること六吉米の地に至りて露営しつ。この日、総督、近衛師団に訓令して、台北・新竹《しんちく》間鉄道の南方なる地帯に土着せる敵を掃蕩《そうとう》せしめんとす。十八日、山根および坊城支隊、桃仔園に至りぬ。この夜、宮、三角涌付近の敵を掃蕩《そうとう》せんことを計画せさせ給《たま》う。十九日、いわゆる三角涌付近大|掃蕩《そうとう》の師団命令、出でぬ。これに任ずべき部隊は山根支隊、内藤支隊および沢崎支隊なり。山根支隊は歩兵第三連隊本部ならびに第一大隊、歩兵第四連隊第四中隊、騎兵第二中隊の一小隊、砲兵第四中隊、臨時工兵中隊よりなる。内藤支隊は歩兵第四連隊本部ならびに第二大隊、騎兵第二中隊〈二小隊闕。隊長、松浦藤三郎。〉砲兵第二大隊本部および第三中隊、工兵第一中隊の一小隊よりなる。沢崎支隊はのち松原支隊と称す。歩兵第二連隊第二大隊本部ならびに二中隊よりなる。この諸隊は二十一日集合して、二十二日より二十三日にいたる間に、まず三角涌を中心とせる、半径二十ないし二十四吉米の圏を画し、しだいに敵を討ち家を焼き、外より内に向かいて圏の半径を縮め、相対せる部隊の交互に連絡するに至るべしとなり。三角涌方面には敵二、三千あるごとくなりき。二十一日、勅使、歩兵中佐|中村《なかむら》覚《さとる》、総督府に至る。宮、往いて迎えさせ給《たま》う。二十二日、山根支隊は大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]を発し、その本隊たる歩兵第三連隊第一大隊〈二中隊闕。〉砲兵中隊、工兵中隊、河の右岸を行き、歩兵第三連隊第一、第四中隊、騎兵一小隊、工兵半小隊のいわゆる林〈第一中隊長。〉隊は河の左岸を行きぬ。本隊は三角涌の西南方約八吉米の地に至りて敵にあい、これを撃破し、三角涌の西南方約三吉米半の地に露営しつ。林隊は途《みち》に当《あ》たれる敵を撃破し、二甲九庄に至りて露営しつ。内藤支隊は海山《かいざん》口を発し、左側隊〈隊長、蔵田砲兵第二大隊長。〉たる歩兵第四連隊第七中隊、騎兵第二中隊、砲兵第三中隊〈砲二門。〉に河の右岸を行かしめ、本隊たる歩兵第四連隊第五、第六および第八中隊、砲兵および工兵は右方なる山麓を行き、ならびに敵前に露営しつ。松原支隊は鮫島参謀長のひきいたる砲兵第一中隊とともに、台北を発し、板橋頭の西南方約一吉米半の山上に至りて露営しつ。台北にありし騎兵全部は枋寮《ほうりょう》街付近におもむき、三角涌付近を警戒しつ。宮は午前八時五十分、台北西門の廓壁の上に登らせ給《たま》いて、観戦せさせ給《たま》いぬ。二十三日、山根支隊本隊は当面の敵を撃破して、三角涌に至り、午後二時すぎ、一中隊を横渓口方面に派して、松原支隊に連絡せしめき。林隊は二甲九庄北方高地の敵を撃破し、午後二時、本隊に連絡し、夕に内藤支隊に連絡しつ。松原支隊は土城《どじょう》村付近の敵を撃破して、ここに露営したりしに、午後八時、山根支隊の連絡中隊の至るに会いぬ。三支隊は三角涌付近に夜を徹しつ。二十四日、山根支隊三角涌を焼夷《しょうい》し、三支隊各前の陣地に帰りぬ。この掃蕩《そうとう》の間、道路みな狭隘《きょうあい》険阻《けんそ》にして、糧食を運ぶによろしからざりしかば、諸隊多く甘藷《サツマイモ》を掘りて糧《かて》に充《あ》ててき。敵は多くいわゆる喀家族にして、性質もっとも獰悪《どうあく》なりき。二日間に遺棄せられたりし敵の屍《しかばね》は四百を下らざりき。二十五日、午前零時三十分、敵、新竹《しんちく》の西門を襲《おそ》う。歩兵第二連隊第三中隊これに応戦し、天、明《あ》くるにおよびて、大佐|阪井《さかい》重季《しげすえ》みずから戦を指揮し、午前八時三十分、敵を撃退しつ。この日、勅使、台北を発す。宮、往いて送らせ給《たま》う。二十七日、師団は新竹《しんちく》方面に向かいて発せんとし、川村少将は阪井《さかい》支隊を指揮することを命ぜられぬ。龍潭坡付近の地は、山根支隊の去りてより、また敵に拠《よ》られたり。その主なるものは、簡玉和、林木生、王尖頭らのひきいたるいわゆる管帯忠字正中営義民、約五、六百なりき。山根支隊はまず再びこれを撃《う》たんとす。夕に総督、宴《うたげ》を設けて宮の南行を送りまつりぬ。この日、宮は兵站監部および野戦病院を訪《と》わせ給《たま》いぬ。
 二十九日、午前五時、宮、台北を発せさせ給《たま》い、午後三時十五分、桃仔園に至らせ給《たま》い、林某の家に宿らせ給《たま》う。この夜、軽き下利症にかからせ給《たま》う。三十日、午前七時四十分、宮、桃仔園を発せさせ給《たま》い、午時、中櫪に至らせ給《たま》い、寺院に宿らせ給《たま》う。山根支隊は大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]河の左岸に集合しつ。あらたに歩兵二中隊、砲兵一中隊、騎兵一分隊もて松原支隊を編成し、山根支隊をたすけしめらる。内藤支隊は抗抵《こうてい》にあうことなく、桃仔園より中櫪に至り、松原支隊の編成せらるると同時に解散せられぬ。三十一日、午後二時三十分、宮、中櫪を発せさせ給《たま》い、三時二十分、汽車に乗らせ給《たま》う。五時三十分、汽車大湖口をへて、六時十分、新竹《しんちく》に至る。宮は轎《きょう》に乗りて兵站司令部に入らせ給《たま》いぬ。山根支隊は午前四時三十分、大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]を発し、松原支隊と策応して、龍潭坡の西北方なる高地の一部を占領し、午後三時、銅羅騫付近に至り、牛欄河高地の敵に対して露営しつ。八月一日、山根支隊は午前四時、戦をまじえて、牛欄河高地の敵を撃破し、鹹菜硼村の東北なる高地に進み、ふたたび敵を撃退し、午後五時ごろ、新埔《シンプ》の東三吉米の地に至りて露営す。その偵察隊〈歩兵中尉、中村道明ひきいたり。〉新埔《シンプ》において敵に衝突す。師団司令部は大湖口にありき。二日、山根支隊は午前六時、露営地に集合し、ただちに新埔《シンプ》の敵を攻撃し、伊崎のひきいたる歩兵第四連隊第二大隊本部および二中隊の援を得て、午時、新埔《シンプ》に入りぬ。師団司令部は新埔《シンプ》街の西北なる寺院に置かれぬ。六日、山根支隊は午前五時四十五分、新埔《シンプ》を発し、九?林河をさかのぼりて水尾に至り、敵にあいて撃退しつ。敵は林某〈林学林また林老師と称す。〉のひきいし棟字副営の兵なりき。後、その遺棄せし屍《しかばね》を検して、年少き女子の男装して戦死したるを見き。支隊は九?林に宿りぬ。伊崎が隊はこの日、管府坑を占領しつ。七日、明日、枕頭山鶏卵面の前なる敵を攻撃すべき師団命令出でぬ。右翼隊は歩兵第二連隊〈二中隊闕。〉騎兵一小隊、砲兵連隊本部ならびに第二中隊、機関砲一隊、工兵一中隊〈二小隊闕。〉よりなり、川村少将ひきいたり。左翼隊は歩兵第四連隊〈第一大隊闕。〉騎兵半小隊、砲兵第一大隊本部ならびに第一中隊、機関砲一隊、工兵一小隊〈二分隊闕。〉よりなり、内藤大佐ひきいたり。山根支隊は故《もと》のごとし。予備隊は歩兵第四連隊第一大隊の二中隊、歩兵第二連隊の一中隊、騎兵大隊、〈四小半隊闕。〉工兵大隊本部および二分隊、新竹《しんちく》守備隊は歩兵第二連隊第五中隊、機関砲一隊なりき。山根支隊はこの日、小戦闘をまじえつつ進みて北埔《ほくふ》に至り、午後四時二十三分、水仙嶺を占領しつ。宮はこの日に至るまで新竹《しんちく》に留まらせ給《たま》いぬ。(つづく)


底本

底本:『鴎外全集 第三巻』岩波書店
   1972(昭和47)年1月22日発行
初出:『能久親王事蹟』東京偕行社内棠陰會編纂、春陽堂
   編集兼発行人代表者 森林太郎
   1908(明治41)6月29日刊行
NDC 分類:288(伝記/系譜.家史.皇室)
http://yozora.kazumi386.org/2/8/ndc288.html


2009.11.9:公開
2009.11.13:更新
知床の、1000万円、20年。
目くそ鼻くそ/PoorBook G3'99
翻訳・朗読・転載は自由です。
カウンタ: -

  • (メモ)用意したテキストの66%。 -- しだ (2009-11-09 02:06:30)
名前:
コメント:

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2009年11月13日 01:57