MT*2_14-能久親王事跡(四)森 林太郎

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MT*2_14-能久親王事跡(四)森 林太郎

ミルクティー*現代表記版

能久親王事跡(四)
森林太郎


 十月二十七日、京都を立たせ給《たま》いて、東京におもむかせ給《たま》う。これより先、聖上《せいじょう》、ふたたび東京に幸せさせ給《たま》いて、皇居と定めさせ給《たま》いぬれば、宮、天機をうかがわせ給《たま》わんため、かくは思《おぼ》し立たせ給《たま》いしなり。閏十月二日、東京に着かせ給《たま》いて、東伏見宮《ひがしふしみのみや》の邸〈浜町にあり。後、小松宮《こまつのみや》邸となりぬ。〉に入らせ給《たま》う。二十五日、東伏見宮、欧州にゆかせ給《たま》うにより、勅によりて有栖川宮《ありすがわのみや》の邸に移らせ給《たま》う。二十八日、書を弁官にいたして、欧州にゆかんことを願わせ給《たま》う。十一月二日、勅によりて名を能久《よしひさ》に復せさせ給《たま》い、伏見|満宮《みつのみや》と称せさせ給《たま》う。七日、プロシア国に留学して、年金五千円を受けさせ給《たま》うこととなりぬ。〈二十五日、参内して告別せさせ給《たま》う。萌葱《もえぎ》地に紫|立涌《たちわき》、鳳凰、唐草の白浮織、水に藻の金糸の縫模様ある直垂《ひたたれ》、純金の縁頭《ふちがしら》、鐺《こじり》、小柄|笄《かんざし》に草花を鐫《ほ》りたる弘光の短刀を賜《たま》い、支度《したく》の料にとて金千円をそえさせ給《たま》いぬ。〉随行員は寺田平之允、井上省三、田阪虎之助、熊沢善庵、丹羽淳一郎、松野※[#「石+間」]の六人なり。〈寺田、井上、田阪は各支度料銀千ドルを拝領す。丹羽、松野は家従にせられ、支度料各銀七百ドルを拝領す。東久世通輝、岡田※[#「金+翁」]助、山崎橘馬は同行を命ぜられぬ。〉
 十二月三日、宮、舟にて横浜を発せさせ給《たま》う。〈森|有礼《ありのり》、池田|謙斎《けんさい》、同乗す。〉二十八日、米国 SAN《サン》 FRANCISCO《フランシスコ》 に着かせ給《たま》う。四年正月二日、汽車にて SAN《サン》 FRANCISCO《フランシスコ》 を立たせ給《たま》う。九日、NEW《ニュー》 YORK《ヨーク》 に着かせ給《たま》う。十一日、NEW《ニュー》 YORK《ヨーク》 を立たせ給《たま》い、WASHINGTON《ワシントン》 に着かせ給《たま》う。十二日、大統領 ULYSSES《ユリシーズ》 SIDNEY《シドニー》 GRANT《グラント》と会見せさせ給《たま》う。〈華頂宮|博経《ひろつね》親王、森|有礼《ありのり》、同行す。〉十四日、NEW《ニュー》 YORK《ヨーク》 に帰らせ給《たま》う。十五日、舟にて NEW《ニュー》 YORK《ヨーク》 を発せさせ給《たま》う。種島某訳官として随いまつる。二十五日、英国 LIVERPOOL《リバプール》 に着かせ給《たま》う。二十六日、LIVERPOOL《リバプール》 を立たせ給《たま》い、LONDON《ロンドン》 に着かせ給《たま》う。二月十五日、LONDON《ロンドン》 を立たせ給《たま》う。十八日、プロシア国 BERLIN《ベルリン》に着かせ給《たま》い、〔HO^TEL《ホテル》〕 DE《ド》 ROME《ロオム》 に投ぜさせ給《たま》う。五年(一八七二)正月六日、三品に叙せられさせ給《たま》う。〈伏見宮|朝彦《あさひこ》王も三品に叙せられさせ給《たま》い、徳川慶喜は従四位に、伊達|慶邦《よしくに》ら十人は従五位に叙せらる。松平|容保《かたもり》、松平|定敬《さだあき》ら十人、手代木勝任、丹羽富敬ら十六人ゆるされ、榎本釜次郎、監禁を解かる。〉三月二十三日、北白川宮を継がせ給《たま》う。こは、この歳《とし》正月二日、智成《さとなり》親王|薨《こう》ぜさせ給《たま》うに臨《のぞ》みて、遺言せさせ給《たま》い、家令《かれい》山本克正、院に稟《もう》ししによりてなり。〈智成《さとなり》親王は、伏見宮|邦家《くにいえ》親王の第十四子におわす。万延元年(一八六〇)孝明天皇に養われて子とならせ給《たま》う。慶応二年(一八六六)聖護院宮雄仁親王の付弟にならせ給《たま》い、信仁と称せさせ給《たま》う。後、照高院宮の法主にならせ給《たま》う。明治元年(一八六八)復飾してまた智成と名のらせ給《たま》う。三年、北白川宮と称せさせ給《たま》う。こは照高院の領地、山城国|愛宕郡《おたぎぐん》白川村にありしによる。この年、東京にうつらせ給《たま》い、西小川町の邸に居らせ給《たま》いぬ。さればこの西小川町の邸、宮の留守邸となりぬ。〉二十四日、廩米三百石を給することを停めらる。こは北白川宮に永世禄四百三十一石三斗あるをもてなり。九月五日、邦家《くにいえ》親王の訃《ふ》至る。〈宮の父君にて、なかごろ禅楽と名告《なの》らせ給《たま》いき。陰暦八月五日、陽暦九月七日薨去。〉十月九日、留守にて山中献を家令に任ぜさせ給《たま》う。二十九日、宮のプロシア国におわする間の学資をば大蔵省支出して彼国にある公使に送ることに定めらる。こは文部省の留学生規則を制定したる後、宮をその制裁の外に置きまつらんがためなり。〈この月、東伏見宮|嘉彰《よしあきら》親王の国に帰らせ給《たま》うをおくりて、LIVERPOOL《リバプール》 に至り、ただちにまた BERLIN《ベルリン》 にかえらせ給《たま》う。〉六年(一八七三)二月、山城国白川村の地を官に返し納《い》れさせ給《たま》う。三月一日、プロシア国の士官二人、下士一人を召して、数学、測地学、兵制、歩、工、砲兵の学術科を受けさせ給《たま》う。これより先、ドイツ語を学ばせ給《たま》いて、おおむね通暁《つうぎょう》せさせ給《たま》いき。七月十六日、午後八時、オーストリア国ウィーンに催《もよお》せる国際博覧会をみそなわさんとて、ベルリンを立たせ給《たま》う。〈随行員は坊城俊章、一人なりき。十七日、午前七時 PRAGUE《プラハ》 にいたる。十八日、午前八時 PRAGUE《プラハ》 を発し、午後四時、ウィーンに着かせ給《たま》う。夜、全権公使、井田《いだ》譲《ゆずる》、旅館にいたる。十九日、博覧会をみそなわす。二十日、旅館より借部屋に移らせ給《たま》う。二十一日より二十六日にいたるまで、日ごとに博覧会におもむかせ給《たま》う。二十三日夜、井田公使、宮に晩餐を饗しまつる。二十七日、ウィーンを立たせ給《たま》う。二十八日、DRESDEN《ドレスデン》 に着かせ給《たま》う。二十九日、午前十一時 DRESDEN《ドレスデン》 を立たせ給《たま》いぬ。〉二十九日、午後四時ウィーンよりベルリンにかえらせ給《たま》う。三十一日、家禄を廃せらるることとなりしによりて、宮はこれより年金四、六五二円を受けさせ給《たま》う。九月五日、家令山中献、職をやめ、岡義亮かわりぬ。十二月二十五日、太政大臣三条|実美《さねとみ》、宮の留学を継続せさせ給《たま》うべき旨を伝う。こは文部省の管轄せる留学生のみな帰朝せしめらるるによりて、特にこの令を伝えしなり。七年(一八七四)三月二十二日、ドイツ帝の誕生日を賀せんために、宮廷におもむかせ給《たま》う。五月一日、はじめて SPANDAU《スパンダウ》 にゆきて、陸軍所管の諸工場 GESCHUETZGIESSEREI, ARTILLERIEWERKSTATT, PULVERFABRIK, GRWEHR-UND MUNITIONSFABRIK を視させ給《たま》う。九月十日、学資金二千円を加えらる。二十七日、歩兵少佐に任ぜられさせ給《たま》う。〈これより先、明治六年(一八七三)十二月九日、皇族の海陸軍に従事すべき制を立てられぬ。〉十一月一日、はじめて兵棋《へいぎ》をプロシア国の士官に学ばせ給《たま》う。十八日、留守にて麻生三郎、山本辰之助、家従にせられぬ。十二月二十二日、ドイツ帝、后妃、皇太子に謁見《えっけん》せさせ給《たま》う。八年(一八七五)三月二十九日、プロシア国陸軍 KAISER《カイゼル》 FRANZ《フランツ》 GARDE《ガルデ》-GRENADIER《グレナヂイル》REGIMENT《レギメント》 NO.2《ヌンメルツワイ》に付かせ給《たま》う。この日、留守にて家令岡義亮やめられ、〈宮内省内庭課の吏となりぬ。〉中村修かわりぬ。九月、連隊とともに大演習におもむかせ給《たま》う。十月、KRIEGS《クリイグス》ACADEMIE《アカデミイ》第一期生にならせ給《たま》う。九年(一八七六)四月二十一日、帰朝せさせ給《たま》うべき期定まりぬ。五月九日、赤坂門内|紀尾井町《きおいちょう》の地〈元の紀州藩邸の跡。〉を賜《たま》う。〈面積八五五七坪あまりにして、その三千坪はいわゆる皇族賜邸地に属す。後なるものは特に添えられしなり。後、明治十四年(一八八一)六月十一日、紀尾井町三番地千百九坪五合一勺を購い加えられぬ。〉七月、 GARDE《ガルデ》-FELDARTILLERIE《フエルドアルチルレリイ》REGIMENT《レギメント》に付かせ給《たま》う。こは学校の制、放学にあたりて部隊勤務に服せしむるを例とすればなり。八月下旬、参謀旅行に加わらせ給《たま》い、ついで砲兵連隊〈第二大隊第四中隊。〉とともに大演習におもむかせ給《たま》う。十月九日、留守にて西小川町より紀尾井町の新第にうつる。この月、学校の第二期生に進ませ給《たま》う。十二月五日、留守にて西小川町の第を返し納める。十年(一八七七)四月九日、学校の業を卒《お》えさせ給《たま》う。
 十二日、BERLIN《ベルリン》 を立たせ給《たま》う。五月十四日、BRINDISI《ブリンディジ》 の港にて舟に乗らせ給《たま》う。これより ALEXANDRIA《アレクサンドリア》にて陸にあがり、CAIRO《カイロ》 にあそばせ給《たま》い、SUEZ《スエズ》 に至りて、また舟に乗らせ給《たま》う。舟はフランス郵便船 WOLGA《ヴォルガ》 号なりき。六月、香港《ホンコン》に着かせ給《たま》う。二十六日、香港《ホンコン》を立たせ給《たま》う。七月二日、横浜に着かせ給《たま》う。ついで東京紀尾井町の御館《みたち》に入らせ給《たま》う。二十一日、天機をうかがいまつらんため、東京を立たせ給《たま》う。こは西南の乱のために、聖上、京都に駐輦《ちゅうれん》せさせ給《たま》えればなり。八月二十二日、参内せさせ給《たま》う。京都に留まらせ給《たま》う間は、梨本宮の御館《みたち》に居させ給《たま》いぬ。三十日、家令中村修やめらる。〈山階宮《やましなのみや》御付に転ぜしなり。〉九月二十日、三吉《みよし》慎蔵《しんぞう》、御付にせらる。十一月六日、東京にかえらせ給《たま》う。
 十一年(一八七八)二月二十五日、宮、陸軍|戸山《とやま》学校に入らせ給《たま》う。八月二十六日、仁孝天皇の猶子にかえらせ給《たま》う。十二月十六日、近衛局《このえきょく》出仕を命ぜらる。十八日、勲一等に叙し、旭日大綬章《きょくじつだいじゅしょう》を授けらる。二十五日、山内|豊範《とよのり》の妹、光子をいれて、御息所《みやすどころ》にせさせ給《たま》う。十二年(一八七九)一月九日、歩兵中佐にすすませ給《たま》う。二月二十二日、東京地学協会長にならせ給《たま》う。〈私立会の皇族を推戴《すいたい》して長となすこと、これに始まる。○四月八日、昔、東叡山の変に随従しまつりし人々をつどえて宴《うたげ》を賜《たま》う。二十日、下総国|習志野《ならしの》の野営におもむかせ給《たま》う。二十五日、習志野よりかえらせ給《たま》う。〉五月二十六日、ドイツ国皇弟 PRINZ《プリンツ》 HEINRICH《ハインリヒ》 を接伴することを命ぜらる。この歳《とし》、金子堅太郎を召して公法、憲法などを聴かせ給《たま》う。〈堅太郎、宮のために政治学を講じまつること四年間なりき。〉十三年(一八八〇)一月十七日、博愛社に入らせ給《たま》う。二月十二日、偕行社《かいこうしゃ》に入らせ給《たま》う。三月二十六日、第二回|内国《ないこく》勧業《かんぎょう》博覧会、事務総裁にならせ給《たま》う。四月九日、近衛局出仕をやめ、参謀本部出仕を命ぜられさせ給《たま》う。この月、イタリア国皇族を接伴することを命ぜられさせ給《たま》う。五月十八日、二品に叙せられさせ給《たま》う。〈六月十四日、参謀本部長に随いて対抗演習におもむくことを命ぜらる。七月四日、参謀本部長に随いて東京を立たせ給《たま》う。これより演習に伊勢国亀山付近に参加せさせ給《たま》い、後、京都、奈良、大阪などを歴遊せさせ給《たま》う。〉七月五日、年金一万八千円を賜《たま》う。〈二十三日、東京に帰らせ給《たま》う。九月三日、軍務をもて下総国佐倉におもむかせ給《たま》う。十日、東京に帰らせ給《たま》う。〉十四年(一八八一)二月十八日、聖上、武蔵国八王子付近に幸せさせ給《たま》う。宮、供奉せさせ給《たま》う。〈二十一日、東京に帰らせ給《たま》う。三月一日、第二回内国勧業博覧会の開場式に※[#「くさかんむり/(さんずい+位)」、第3水準1-91-13]《のぞ》ませ給《たま》う。〉五日、ハワイ国帝に宮中に会見せさせ給《たま》う。四月七日、スウェーデン国 NORDENSKIOELD《ノルデンシヨルト》 の贈れる地学|徽章《きしょう》を受けさせ給《たま》う。二十八日、聖上、近衛春季小演習に相模国厚木付近に幸せさせ給《たま》う。宮、供奉せさせ給《たま》う。〈五月十日、東京に帰らせ給《たま》う。〉十八日、相模国観音崎砲台に幸せさせ給《たま》う。宮、供奉せさせ給《たま》う。二十九日、大日本農会頭にならせ給《たま》う。六月二日、武蔵国多摩郡蓮光寺村付近に幸せさせ給《たま》う。宮、供奉せさせ給《たま》う。〈三日、東京に帰らせ給《たま》う。〉九日、ドイツ国帝の贈れる勲一等王冠章を受けさせ給《たま》う。十五日、議定官に兼任せられさせ給《たま》う。二十五日、下総国印旛郡種畜場に幸せさせ給《たま》う。宮、供奉せさせ給《たま》う。七月七日、秋田県、山形県および北海道の巡幸に供奉することを命ぜられさせ給《たま》う。三十日、駕に随いまつりて東京を発せさせ給《たま》う。八月三十一日、博覧会の事務を整理せさせ給《たま》いし賞として、銀牌《ぎんぱい》ならびに金五百円を賜《たま》う。十月十一日、北国より帰らせ給《たま》う。二十二日、ロシア国地学会員にならせ給《たま》う。三十一日、ドイツ学協会長にならせ給《たま》う。十一月三日、歩兵大佐に進ませ給《たま》う。〈九日、巡幸に供奉せし労をなぐさむとて、金七百円を賜《たま》う。〉十一日、あらたに紀尾井町の邸宅《ていたく》をいとなませ給《たま》う。十五年(一八八二)二月十四日、蓮光寺村付近に幸せさせ給《たま》う。宮、供奉せさせ給《たま》う。〈十七日、東京に帰らせ給《たま》う。〉五月一日、千葉県に幸せさせ給《たま》う。宮、供奉せさせ給《たま》う。〈五日、東京にかえらせ給《たま》う。〉七月二十六日、紀尾井町の邸宅《ていたく》の工事のために、東叡山春性院にうつり住ませ給《たま》う。九月十三日、京都にゆかせ給《たま》わんため、東京を発せさせ給《たま》う。禅楽親王の十年祭をおこなわせ給《たま》うなり。京都にては梨本宮の別邸に宿らせ給《たま》い、また次手《ついで》もて有馬温泉におもむかせ給《たま》う。二十二日、第一の御子、恒久王《つねひさおう》、申橋氏幸子の腹に生まれさせ給《たま》う。〈勅して物を賜《たま》う。〉十一月十九日、紀尾井町の邸宅《ていたく》落成して、東叡山よりかえり入らせ給《たま》う。十六年二月、アジア協会名誉会頭にならせ給《たま》う。四月十三日、埼玉県〈飯能。〉に幸せさせ給《たま》う。宮、供奉せさせ給《たま》う。〈二十一日、東京に帰らせ給《たま》う。〉二十三日、武蔵国北多摩郡小金井に幸せさせ給《たま》う。宮、供奉せさせ給《たま》う。二十七日、ハワイ国帝の贈れる勲章を受けさせ給《たま》う。二十八日、参謀本部出仕をやめ、戸山学校次長に補せられさせ給《たま》う。七月六日、紀尾井町《きおいちょう》の地二千余坪を西村捨三にあたえて、大久保利通記念碑を建設する所となさしめさせ給《たま》う。九月十六日、ドイツの PRINZ《プリンツ》 ALBERT《アルベルト》 とともに日光山にゆき、満願寺に宿らせ給《たま》う。二十一日、戸山学校次長を免ぜられさせ給《たま》いて、同じ学校の教頭に補せられさせ給《たま》う。二十三日、日光山にて PRINZ《プリンツ》 ALBERT《アルベルト》 とわかれて筑波山に登らせ給《たま》い、常陸国結城におもむかせ給《たま》う。二十六日、東京に帰らせ給《たま》う。十月二十二日、華族金曜会長にならせ給《たま》う。十七年(一八八四)三月八日、戸山学校の教官および生徒をひきいて習志野におもむかせ給《たま》う。二十九日、習志野を発し、佐倉をへて、上総国武射郡芝山に至らせ給《たま》う。三十一日、芝山を立たせ給《たま》いて、山武郡木戸に至らせ給《たま》う。四月八日、木戸を立たせ給《たま》う。これより田間、長生郡|茂原《もばら》、夷隅郡|長者町《ちょうじゃまち》、大多喜、君津郡|久留里《くるり》、木更津、市原郡|八幡《やわた》、下総国東葛飾郡船橋をへて、十八日、東京に帰らせ給《たま》う。五月七日、倶楽部総裁にならせ給《たま》う。九日、十七年度より年金二千円を加えらる。六月四日、日本講道会の名誉会員にならせ給《たま》う。〈七月二十四日、相模国藤沢付近におもむかせ給《たま》う。陸軍大学校生徒の演習を観させ給《たま》うなり。侍従岡田善良ともにゆきぬ。三十一日、東京に帰らせ給《たま》う。〉十一月三日、陸軍少将に進ませ給《たま》う。十五日、東京鎮台司令官を命ぜられさせ給《たま》う。〈十二月三日、高崎の兵営を観させ給《たま》う。四日、東京に帰らせ給《たま》う。〉十二月六日、常陸国稲敷郡女化原に幸せさせ給《たま》う。宮、供奉せさせ給《たま》う。〈十日、東京に帰らせ給《たま》う。○十九日、砲兵射的演習を女化原に視させ給《たま》う。二十日、東京に帰らせ給《たま》う。〉十八年一月、砲科共同会総長にならせ給《たま》う。東洋絵画会長にならせ給《たま》う。二月十日、ドイツ国 MECKLENBURG《メツクレンブルヒ》SCHWERIN《シュヴェリン》 大公のおくれるGROSSKREUZ《グロオスクロイツ》-GREIFENORDEN《グライフエンオルデン》 を受けさせ給《たま》う。〈十七日、相模国観音崎の工事を視させ給《たま》う。十八日、東京に帰らせ給《たま》う。〉五月二十一日、歩兵第一旅団長に補せられさせ給《たま》う。〈七月十九日、高崎兵営におもむかせ給《たま》う。二十一日、東京にかえらせ給《たま》う。〉二十五日、山口、広島、岡山に幸せさせ給《たま》う。宮、供奉せさせ給《たま》う。〈八月十二日、東京に帰らせ給《たま》う。〉二十八日、延久王《のぶひさおう》生まれさせ給《たま》う。〈母、岩浪氏。〉九月九日、群馬、新潟二県におもむかせ給《たま》う。十月九日、聖上、宮の邸に臨《のぞ》ませ給《たま》う。十日、皇太后宮、皇后宮、行啓《ぎょうけい》せさせ給《たま》う。十九日、満子《みつこ》女王、生まれさせ給《たま》う。〈母は恒久王と同じく申橋氏なり。○この月、鎮将夜叉供養法を上野輪王寺門跡天納暢海に授けさせ給《たま》う。後、暢海より宮部亮常、篠原守慶に伝う。○十一月二十二日、高崎兵営におもむかせ給《たま》う。二十七日、東京に帰らせ給《たま》う。二十九日、習志野におもむかせ給《たま》う。〉十一月、山内|豊範《とよのり》の請によりて、妃光子と離婚せさせ給《たま》う。妃、不治の病にかからせ給《たま》えればなり。〈十二月一日、習志野より東京に帰らせ給《たま》う。○十九年(一八八六)二月十八日、武蔵国比企郡松山におもむき、演習地を視させ給《たま》い、十九日、帰らせ給《たま》う。〉十九年三月十一日、別当を置かせ給《たま》い、井田《いだ》譲《ゆずる》を任命せさせ給《たま》う。〈二十七日、常陸国新治郡土浦におもむかせ給《たま》う。近衛隊の春季演習を観させ給《たま》うなり。四月六日、高崎におもむかせ給《たま》う。七日、東京にかえらせ給《たま》う。八日、東京鎮台の演習のために、千葉、茨城二県におもむかせ給《たま》う。二十二日、東京に帰らせ給《たま》う。七月五日、高崎におもむかせ給《たま》う。八日、東京に帰らせ給《たま》う。〉十日、妃|富子《とみこ》をいれさせ給《たま》う。伊達侯|宗徳《むねえ》の女《むすめ》、島津公久光の養女にておわす。〈十月二日、高崎兵営におもむかせ給《たま》う。六日、東京に帰らせ給《たま》う。八日、佐倉兵営におもむかせ給《たま》う。十三日、東京に帰らせ給《たま》う。二十七日、武蔵国府中付近に行軍せさせ給《たま》う。二十九日、東京に帰らせ給《たま》う。十一月二十一日、東京鎮台の演習のために、常陸国筑波郡におもむかせ給《たま》う。二十九日、東京に帰らせ給《たま》う。十二月十六日、東京鎮台の演習のために、千葉県におもむかせ給《たま》う。二十二日、東京に帰らせ給《たま》う。二十六日、埼玉県におもむかせ給《たま》う。歩兵第一旅団の演習を観させ給《たま》うなり。二十八日、東京に帰らせ給《たま》う。〉十二月二十九日、大勲位に叙せられさせ給《たま》い、菊花大綬章《きっかだいじゅしょう》を授けられさせ給《たま》う。〈二十年(一八八七)一月二十二日、京都にゆかせ給《たま》う。孝明天皇二十年式祭にあずからせ給《たま》うなり。京都にては梨本宮別邸に宿らせ給《たま》う。二月二十日、東京に帰り着かせ給《たま》う。〉二十年一月、イタリア国学士会院の名誉会員にならせ給《たま》う。〈三月一日、高崎兵営におもむかせ給《たま》う。六日、東京に帰らせ給《たま》う。十一日、松山付近に行軍せさせ給《たま》う。十五日、東京に帰らせ給《たま》う。三十日、観音崎におもむかせ給《たま》う。〉四月十八日、成久王《なるひさおう》生まれさせ給《たま》う。御息所《みやすどころ》の御腹なり。八月六日、貞子《さだこ》女王生まれさせ給《たま》う。〈延久王《のぶひさおう》と同じく岩浪氏の腹なり。○九月八日、上野国吾妻郡|長野原《ながのはら》(応桑。)なる牧場を視させ給《たま》う。二十二日、八王子付近におもむかせ給《たま》う。二十四日、東京に帰らせ給《たま》う。三十日、高崎兵営におもむかせ給《たま》う。十月三日、東京に帰らせ給《たま》う。八日、群馬、埼玉、神奈川三県に行軍せさせ給《たま》わんとて出で立たせ給《たま》う。二十五日、東京に帰らせ給《たま》う。〉十一月四日、井田《いだ》譲《ゆずる》別当をやめらる。二十一年(一八八八)一月十日、山尾《やまお》庸三《ようぞう》別当に任ぜらる。〈二月七日、参謀旅行におもむかせ給《たま》う。経過せさせ給《たま》いし地方は、長門国赤馬関、豊前国|小倉《こくら》、筑前国芦屋、博多なり。帰途、京都に立ち寄らせ給《たま》う。三月二十一日、東京に帰らせ給《たま》う。四月二十一日、高崎兵営におもむかせ給《たま》う。二十六日、東京に帰らせ給《たま》う。二十九日、習志野におもむかせ給《たま》う。五月五日、東京に帰らせ給《たま》う。六月二十五日、佐倉兵営におもむかせ給《たま》う。三十日、東京に帰らせ給《たま》う。〉八月十二日、輝久王《てるひさおう》生まれさせ給《たま》う。〈母、申橋氏。○九月二日、千葉県におもむかせ給《たま》う。九日、東京に帰らせ給《たま》う。二十二日、高崎兵営におもむかせ給《たま》う。二十三日、東京に帰らせ給《たま》う。九月二十四日、徴兵事務を視させ給《たま》わんとて、第一師管の諸県に出で立たせ給《たま》う。十月十二日、東京に帰らせ給《たま》う。十三日、演習を視させ給《たま》わんため、千葉県におもむかせ給《たま》う。二十九日、東京に帰らせ給《たま》う。〉十一月一日、妃富子、勲一等宝冠章を受けさせ給《たま》う。十二月五日、山尾《やまお》庸三《ようぞう》別当をやめられ、岩倉具経かわりぬ。〈二十二年(一八八九)四月十五日、高崎兵営におもむかせ給《たま》う。十七日、東京に帰らせ給《たま》う。〉二十二年二月十一日、妃とともに憲法発布の式に列せさせ給《たま》う。四月二十七日、妃とともに日本赤十字社の有功章を受けさせ給《たま》う。〈六月四日、群馬、茨城両県の地を踏査《とうさ》せさせ給《たま》う。六日、東京に帰らせ給《たま》う。八月十五日、徴兵事務を視させ給《たま》わんとて出で立たせ給《たま》う。神奈川、長野、群馬、埼玉の四県を巡視せさせ給《たま》いぬ。九月十一日、東京に帰らせ給《たま》う。十七日、高崎兵営におもむかせ給《たま》う。二十日、東京に帰らせ給《たま》う。二十六日、再び徴兵事務を視させ給《たま》わんとて出で立たせ給《たま》う。こたびは山梨県にゆかせ給《たま》いぬ。十月四日、東京に帰らせ給《たま》う。十一月六日、演習に立たせ給《たま》う。経過せさせ給《たま》いし地方は埼玉、群馬、茨城の三県にまたがれり。十八日、東京に帰らせ給《たま》う。〉十月二十五日、ドイツ国赤鷲一等章を受けさせ給《たま》う。二十九日、憲法発布記念章を受けさせ給《たま》う。〈二十三年(一八九〇)三月一日、幹部演習のために、千葉県におもむかせ給《たま》う。十六日、東京に帰らせ給《たま》う。〉二十三年三月一日、岩倉具経別当をやめられ、高崎|正風《まさかぜ》かわりぬ。〈二十三日、高崎兵営におもむかせ給《たま》う。二十六日、東京に帰らせ給《たま》う。〉二十六日、三吉慎蔵、家令をやめられ、小藤孝行かわりぬ。〈二十七日、海陸連合大演習を観させ給《たま》わんために、名古屋地方におもむかせ給《たま》う。四月六日、名古屋を立たせ給《たま》いて、伊勢神宮に詣《もう》でさせ給《たま》う。十一日、東京に帰らせ給《たま》う。二十二日、高崎兵営におもむかせ給《たま》う。二十五日、東京に帰らせ給《たま》う。〉四月二十八日、武子女王生まれさせ給《たま》う。〈恒久王、満子女王、輝久王と同じく、申橋氏の腹なり。○五月七日、徴兵事務のために、長野、山梨二県におもむかせ給《たま》う。十七日、東京に帰らせ給《たま》う。六月八日、高崎兵営におもむかせ給《たま》う。十一日、東京に帰らせ給《たま》う。七月十四日、徴兵事務のために、神奈川県におもむかせ給《たま》う。二十日、東京に帰らせ給《たま》う。二十一日、徴兵事務のために、長野、群馬、埼玉三県におもむかせ給《たま》う。八月九日、東京に帰らせ給《たま》う。十七日、徴兵事務のために、山梨県におもむかせ給《たま》う。二十六日、東京に帰らせ給《たま》う。九月十六日、高崎兵営におもむかせ給《たま》う。十九日、東京に帰らせ給《たま》う。〉九月三十日、東京地学協会の贈れる賞牌《しょうはい》を受けさせ給《たま》う。十月十三日、はじめて貴族院の議席に列せさせ給《たま》う。〈十八日、高崎兵営におもむかせ給《たま》う。二十一日、東京に帰らせ給《たま》う。二十二日、近衛演習を視させ給《たま》わんため、茨城県におもむかせ給《たま》う。〉二十六日、聖上ならびに皇后、水戸に幸せさせ給《たま》う。宮ならびに妃、供奉せさせ給《たま》う。二十九日、東京に帰らせ給《たま》う。〉この月、水難救済会名誉合員にならせ給《たま》う。〈十一月七日、機動演習のために、栃木、埼玉、群馬三県におもむかせ給《たま》う。二十四日、東京に帰らせ給《たま》う。二十四年(一八九一)二月十四日、東宮を熱海《あたみ》に訪《と》わせ給《たま》う。十六日、東京に帰らせ給《たま》う。十八日、幹部演習に埼玉県におもむかせ給《たま》う。十九日、東京に帰らせ給《たま》う。三月二日、幹部演習に神奈川、埼玉、群馬の三県におもむかせ給《たま》う。十六日、東京に帰らせ給《たま》う。四月十八日、高崎兵営におもむかせ給《たま》う。二十一日、東京に帰らせ給《たま》う。五月一日、神奈川、埼玉、山梨三県の地を踏査せさせ給《たま》う。六日、東京に帰らせ給《たま》う。〉二十四年(一八九一)五月十一日、勅によりて急に京都へ出で立たせ給《たま》う。こは露国皇太子 NICOLAS《ニコラス》 の近江国滋賀郡大津にて遭難せさせ給《たま》いし事件に関してなりき。十二日、聖上に供奉して神戸におもむかせ給《たま》う。十九日、露国皇太子を送るとて、八重山艦にて神戸を発せさせ給《たま》う。二十日、六連島付近に至らせ給《たま》う。二十六日、東京に帰らせ給《たま》う。〈この月、露国皇太子遭難のことにつきての労をなぐさむとて、聖上ならびに皇后宮より物を賜《たま》わらせ給《たま》う。○六月二十五日、高崎兵営におもむかせ給《たま》う。二十七日、東京に帰らせ給《たま》う。七月十六日、徴兵事務のために、山梨、神奈川二県におもむかせ給《たま》う。二十八日、東京に帰らせ給《たま》う。八月二日、徴兵事務のために、埼玉、群馬、長野三県におもむかせ給《たま》う。十八日、東京に帰らせ給《たま》う。九月十四日、一実根本秘印を日光山輪王寺門跡彦坂※[#「言+甚」、第3水準1-92-13]厚に授けさせ給《たま》う。二十三日、高崎兵営におもむかせ給《たま》う。二十七日、東京に帰らせ給《たま》う。〉十月二十四日、近衛の演習のために、相模国藤沢に幸せさせ給《たま》う。宮、供奉せさせ給《たま》う。〈二十五日、東京に帰らせ給《たま》う。○十一月九日、機動演習のために、武蔵国入間郡所沢におもむかせ給《たま》う。〉十二月二十日、信子《ことこ》女王生まれさせ給《たま》う。〈母、申橋氏。〉二十五年(一八九二)一月二十二日、信子女王、薨《こう》ぜさせ給《たま》う。〈二十五日、皇太子を熱海《あたみ》に訪《と》わせ給《たま》う。二月一日、東京に帰らせ給《たま》う。三月、神奈川県にゆきて幹部演習地を視させ給《たま》う。七日、東京に帰らせ給《たま》う。十一日、高崎兵営におもむかせ給《たま》う。十五日、東京に帰らせ給《たま》う。〉四月十一日、ロシア帝の贈れる ALEXANDER《アレクサンデル》-NEWSKIJ《ネフスキイ》 勲章を受けさせ給《たま》う。〈十九日、高崎兵営におもむかせ給《たま》う。二十二日、東京に帰らせ給《たま》う。二十八日、幹部演習に鎌倉、藤沢、浦賀地方におもむかせ給《たま》う。五月九日、東京に帰らせ給《たま》う。この月、栃木、茨城両県にゆきて大演習地を視させ給《たま》う。六月十四日、高崎兵営におもむかせ給《たま》う。十九日、東京に帰らせ給《たま》う。〉七月七日、軍艦秋津洲の進水式を横須賀におこないて、聖上みずから臨《のぞ》ませ給《たま》う。宮、供奉せさせ給《たま》う。〈十五日、習志野に行軍せさせ給《たま》う。十六日、東京に帰らせ給《たま》う。八月四日、徴兵事務のために、埼玉、群馬二県におもむかせ給《たま》う。八日、東京に帰らせ給《たま》う。〉八月八日、御母景子、薨《こう》ぜさせ給《たま》う。十二日、景子の葬を送りに、京都にゆかせ給《たま》う。〈十九日、東京に帰らせ給《たま》う。十月二日、慈眼大師二百五十回忌法会に、日光山輪王寺におもむかせ給《たま》い、追悼の歌を披講《ひこう》せさせ給《たま》う。十日、大演習のために茨城、栃木二県におもむかせ給《たま》う。二十七日、東京に帰らせ給《たま》う。〉十一月十三日、景子百日祭のために、京都にゆかせ給《たま》う。十八日、東京に帰らせ給《たま》う。〈二十日、皇太后に相模国三浦郡|葉山《はやま》に伺候《しこう》せさせ給《たま》う。〉十二月八日、陸軍中将に進ませ給《たま》い、第六師団長にならせ給《たま》う。〈二十二日、鎮将夜叉供養法を日光山輪王寺門跡彦坂※[#「言+甚」、第3水準1-92-13]厚に授けさせ給《たま》う。〉二十三日、熊本へ立たせ給《たま》う。二十八日、熊本に着かせ給《たま》う。〈二十六年(一八九三)一月三日、叔母君徳川氏徳信院、かくれさせ給《たま》う。十五日、福岡、小倉《こくら》、赤間関《あかまがせき》などを巡視せさせ給《たま》う。二十三日、熊本に帰らせ給《たま》う。二月二日、演習のために、肥後国菊池郡|大津《おおづ》におもむかせ給《たま》う。四日、熊本に帰らせ給《たま》う。三月一日、福岡、佐賀、長崎三県を巡視せさせ給《たま》う。八日、熊本に帰らせ給《たま》う。十六日、福岡、小倉《こくら》、赤間関《あかまがせき》などの部隊を※[#「てへん+僉」、第3水準1-84-94]閲せさせ給《たま》う。二十二日、熊本に帰らせ給《たま》う。〉二十六年(一八九三)五月八日、高崎|正風《まさかぜ》別当をやめられ、高崎五六かわりぬ。〈十七日、対馬国を巡視せさせ給《たま》う。三十一日、熊本に帰らせ給《たま》う。六月十三日、鹿児島、沖縄、宮崎三県を巡視せさせ給《たま》う。この時、宮、沖縄の民の蕃藷《ばんしょ》を常食とすることを聞かせ給《たま》うをもて、王城にて蕃藷《ばんしょ》を午饌にのぼらしめ給《たま》いき。七月十日、熊本に帰らせ給《たま》う。〉八月四日、オーストリアの皇族を飽託郡春日の停車場にむかえさせ給《たま》い、ともないて熊本なる西洋料理店静養軒に至らせ給《たま》い、饗応せさせ給《たま》う。五日、オーストリア皇族に師団司令部、騎兵営、水前寺などを見せさせ給《たま》い、春日の停車場に送らせ給《たま》う。〈十二日、飽託郡川尻に遊泳演習を観させ給《たま》う。十三日、熊本に帰らせ給《たま》う。九月十日、福岡の部隊を※[#「てへん+僉」、第3水準1-84-94]閲せさせ給《たま》う。十九日、熊本に帰らせ給《たま》う。二十一日、演習のために、阿蘇郡馬見原におもむかせ給《たま》う。二十五日、熊本に帰らせ給《たま》う。十月十一日、機動演習のために、福岡、佐賀二県におもむかせ給《たま》う。二十四日、熊本に帰らせ給《たま》う。○宮は熊本におわしまししとき、谷口藍田、内田遠湖を召し寄せて書を講ぜしめ給《たま》いき。○二十七日、師団長会議に東京におもむかせ給《たま》う。〉十一月十一日、第四師団長に転補せられさせ給《たま》う。十六日、大阪なる泉布観《せんぷかん》を御館に定めさせ給《たま》う。二十二日、議定官に補せられさせ給《たま》う。二十六日、東京より赴任せさせ給《たま》う。〈十二月二日、姫路の兵営を巡視せさせ給《たま》う。三日、大阪に帰らせ給《たま》う。四日、伏見、大津の兵営を巡視せさせ給《たま》う。五日、大阪に帰らせ給《たま》う。〉十二月六日、家令小藤孝行やめられ、〈久邇宮《くにのみや》家令に転任せられしなり。〉恩地《おんち》轍かわりぬ。〈二十七年(一八九四)一月十六日、幹部演習に山城国綴喜郡田辺におもむかせ給《たま》う。二十二日、大阪に帰らせ給《たま》う。〉二十七年三月六日、大婚二十五年祝典に参列せさせ給《たま》わんとて、大阪を立たせ給《たま》う。十五日、大阪に帰らせ給《たま》う。〈この日、大津の部隊を※[#「てへん+僉」、第3水準1-84-94]閲せさせ給《たま》う。○十六日、大阪に帰らせ給《たま》う。二十二日、姫路の部隊を※[#「てへん+僉」、第3水準1-84-94]閲せさせ給《たま》う。二十五日、大阪に帰らせ給《たま》う。四月六日より五月四日まで、兵庫、岡山、鳥取三県を巡視し、姫路および神戸付近の地を踏査せさせ給《たま》う。五月四日より十八日まで、幹部演習に奈良県におもむかせ給《たま》う。〉五月、韓国に東学党の乱、起こる。八月一日、清国の兵を韓国に出すを見て、征清の詔を発せさせ給《たま》う。〈九月十四日、聖上を神戸に迎えまつり、十五日また送りまつらせ給《たま》う。これより先、六月五日、大本営を東京に置き、九月十三日これを広島に移すとて、聖上、東京を発せさせ給《たま》い、十五日、広島に至らせ給《たま》いぬ。十月九日、天保山、北島新田、布屋新田の諸砲台を巡視せさせ給《たま》う。十一日、演習のために、摂津国三島郡|茨木《いばらき》におもむかせ給《たま》う。三十日、歩兵第四旅団長|貞愛《さだなる》親王(伏見宮。)の清国に打ち立たせ給《たま》うを送らんと、神戸におもむかせ給《たま》う。三十一日、大阪に帰らせ給《たま》う。十一月十六日、皇太子の大本営に行啓《ぎょうけい》せさせ給《たま》うを送りまつらんため、神戸におもむかせ給《たま》う。十七日、大阪に帰らせ給《たま》う。十九日、御息所《みやすどころ》を大本営にやりて、天機をうかがいまつらしめ給《たま》う。二十五日、皇太子の大本営より帰らせ給《たま》うを、大阪にむかえ、大津まで送りまつらせ給《たま》い、帰途、村雲日栄尼を訪《と》わせ給《たま》う。御息所《みやすどころ》、大本営より帰らせ給《たま》う。二十八年(一八九五)一月二十五日、熾仁《たるひと》親王(有栖川宮。)の病《や》ませ給《たま》うを摂津国|舞子《まいこ》の別邸に訪《と》わせ給《たま》う。彰仁《あきひと》親王(小松宮。)の大本営にゆかせ給《たま》うを送らんため、神戸におもむかせ給《たま》う。〉(つづく)


底本

底本:『鴎外全集 第三巻』岩波書店
   1972(昭和47)年1月22日発行
初出:『能久親王事蹟』東京偕行社内棠陰會編纂、春陽堂
   編集兼発行人代表者 森林太郎
   1908(明治41)6月29日刊行
NDC 分類:288(伝記/系譜.家史.皇室)
http://yozora.kazumi386.org/2/8/ndc288.html



2009.11.1:公開
2009.11.8:更新
目くそ鼻くそに言われたくないソーリー/PoorBook G3'99
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  • 現代表記への変換と、広辞苑・Wikipedia での下調べは終了。ほんとうならば、このあと図書館へ行って、小学館の『日本国語大辞典』と平凡社の『日本歴史地名大系』『日本人名大事典』などで可能なかぎり語彙や読み・基本事項などを確認、そのうえで、T-Time 版を仕立てる。最終的に、底本をスキャンした pdf 版と T-Time 版を再度、読み合わせする。オリジナル版の入力や現代表記への変換の際には気づかなかった誤入力や誤植とおぼしき部分がここで見つかることもよくある。今回は体調不良につき、後半の作業すべてを断念。回復したらつづきをやります! -- しだ (2009-11-02 23:37:26)
  • あやまって削除したコメントを復活させました。/atwiki には一ページにアップできる字数に限界があるようで、アップできたのは字数換算 58%分です。 -- しだ (2009-11-08 10:45:44)
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