MT*2_13-能久親王事跡(三)森 林太郎
2009.10.17 第二巻 第一三号
能久親王事跡(三)
森 林太郎
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定価:200円(税込) |
p.197 / *99 出版 |
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(129項目)p.526
(略、慶応四年九月)二十日(略)この日、円覚院義観、米沢より帰る。ただちに執当の職を免じて、尭忍とともに謹慎せんことを命ぜさせ給う。二人は仙岳院の末寺に閉居しつ。義観、人に語りていわく。宮のこの行あるに至らせ給いしは、東叡山の戦にさきだちて、我がほしいままに大総督府の使をこばみしによる。我、いかでか宮の陳謝状に自署せさせ給うを傍看して恬然(てんぜん)たることを得べきと。これより自証院亮栄、かわりて執当の職をおこなう。
(略、十月)五日、(略)義観・尭忍の職を免じ、その弟子をして覚王院、龍王院の後住たらしめんことを約せさせ給う。(略)六日、功徳院慈亮、東照宮の神体・什物を護り、別当大楽院、安居院、信行房、社家二人、神職十七人を伴いて、羽前柏山寺(はくさんじ)より帰る。
(略)八日、慶邦(よしくに)に書を与えて、伊達家の借りたる東叡山府庫(ふこ)の金をかえすことを要せずと告げ、かねて義観、尭忍の仙台にあらんかぎり、扶持せんことを頼み聞こえさせ給う。(略)
(十月)十二日、辰半刻、宮は輿に乗りて仙岳院を立たせ給う。伊州藩士藤堂仁右衛門、兵六十人ばかりをひきいて、菊御紋を染めさせたる旗をたて、輿の前後を護れり。藩主慶邦、後藤孫兵衛を遣わして送りまいらす。東照宮の神体および什宝は、別当ら護りて一行の後に随いぬ。さて陸前国名取郡中田、増田、岩沼をへて、火ともし頃に柴田郡槻木(つきのき)に着かせ給う。この日、義観、尭忍、檻にて東京に送られぬ。
2_13.rm
(朗読:RealMedia 形式 440KB、3'34'')
森 林太郎 もり りんたろう
1862-1922(文久2.1.19-大正11.7.9)
森鴎外。作家。名は林太郎。別号、観潮楼主人など。石見(島根県)津和野生れ。東大医科出身。軍医となり、ヨーロッパ留学。陸軍軍医総監・帝室博物館長。文芸に造詣深く、「しからみ草紙」を創刊。傍ら西欧文学の紹介・翻訳、創作・批評を行い、明治文壇の重鎮。主な作品は「舞姫」「雁」「阿部一族」「渋江抽斎」「高瀬舟」、翻訳は「於母影」「即興詩人」「ファウスト」など。
◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。
底本
2009.10.24:公開
国家戦略担当工作員目くそ鼻くそ/PoorBook G3'99
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最終更新:2009年10月24日 19:17