特集 花郎(ファラン)
2009.8.29 第二巻 第六号
新羅人の武士的精神について
池内宏
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(43項目)p.259
※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。
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(略)そうして新羅の地理上の位置は、他の諸国に比してすこぶる遜色がある。半島の東方に偏在して、海岸線が短かく、山岳が多くて肥沃なる大平野がない。のみならず直接に大陸と交通する便宜を欠いていたから、文化の発達もおくれていた。だからこの国が周囲の圧迫にたえてゆくには、是非ともおのずからたのみとする力強い何ものかを持たねばならぬ。そういうものがなければ、国家の存立すら危うくなる。いわんや進んで国力を振張せんとするにおいてをやである。祖国の擁護のためには身命をかえりみない武士的精神、——忠と勇とを基調とする愛国的精神は、かような関係から自然に涵養(かんよう)せられたであろう。のみならずそれがまた奨励せられたであろう。そうしてことに真興王の領域拡張の結果、百済・高句麗二国の共同の圧迫が、いっそう強く加わるようになると、それに正比例して、こういう精神はますます強烈の度を加えたにちがいない。それは上に目(もく)をかかげた忠臣義士の伝が、いずれもこの時代に属するのを見てもあきらかである。かくのごとき国家多難の時代において、特にその衝(しょう)にあたった偉大なる政治家には金春秋があり、抜群なる武将には金?信(ゆしん)があった。これら二人の努力の結果は、ついに新羅をして半島全体の主人たることに成功せしめた。しかも彼らの背後には、彼らを支持する有形無形の民衆的の強い力のはたらいていたことを認めなければならないのである。
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(朗読:RealMedia 形式 360KB、2'54'')
花郎 かろう/ファラン 国仙。新羅の、愛国的な貴族子弟の精神的・肉体的修養団体である花郎徒の指導者。新羅滅亡までに二百人ほどが数えられる。貴人の子弟で美貌なものを選んで、白粉をつけて化粧し、美しく装わせる。これを花郎といい、国人はみなこれを尊び仕えている。農村の青少年集団組織で、村落の防衛・祭祀・生産・教育など各方面に活動した。新羅の国家形成期に、この農村組織を国家的に拡充したのが花郎制度。ただし、各花郎集団の独自性が強固で、貴族連合体制下ではその成果が発揮できたが、王権が確立するとその組織は凋落した。花郎の理念は原始社会の信仰形態を基本に、儒・仏・道の三教を包摂したもの。新羅にかぎらず、朝鮮の思想には、外来思想との積極的に習合する傾向がある(井上訳注)。
真興王 しんこうおう 534-576 新羅第24代の王。国勢を拡大、百済を圧迫し伽耶諸国を併合。(在位540〜576)
金春秋 キム チュンチュ/きん しゅんじゅう → 武烈王
武烈王 ぶれつおう/ムヨルワン 602?-661 新羅の第29代の王(在位:654年 - 661年)。姓は金、諱は春秋。父は第25代真智王の子の伊?(2等官)の金龍春、母は第26代真平王の娘の天明夫人。654年3月に先代の真徳女王が死去し、群臣に推戴されて王位に就く。在位中に百済を滅ぼし、三国統一の基盤を為したことから新羅の太宗の廟号を贈られ、太宗武烈王とも称せられる。
金?信 キム ユシン/きん ゆしん 595-673 父は舒玄、もしくは逍衍。妻は智?婦人。新羅統一期の功臣。金官加羅国の後裔で、年少のとき花郎となり、年と共に武名をあげ、唐の百済・高句麗の遠征には将軍として新羅軍をひきいて大功あり、660年(武烈王7)大角干、つづいて太大角干の最高位にのぼる。対外戦だけでなく、内乱鎮圧にも功があり、新羅統一の大業は彼の武功によるところが大きい。武烈王の推戴も彼の力であった(東洋)。享年七十九。
◇参照:Wikipedia、『広辞苑』『新編東洋史辞典』(東京創元社、1980.3)、『三国史記1・4』金富軾(撰)井上秀雄(訳注)(平凡社、東洋文庫、1988.10)、『まんが朝鮮の歴史2・3・4』安宇植(訳)(ポプラ社、1992.4)。
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池内宏 いけうち ひろし
1878-1952(明治11.9.28-昭和27.11.1)
東洋史学者。東京生れ。東大教授。朝鮮・満州史を研究。著「満鮮史研究」「元寇の新研究」など。祖父は儒学者の池内大学。朝鮮総督の依頼で満鉄調査部歴史調査部にて実証主義的(考証的)な満蒙・朝鮮の東洋古代史研究の基礎を確立した。朝鮮古代史の乏しい資料の中で花郎の研究、また慶長の役などの全体像を描き出すことに尽力したことでも知られている。
◇参照:Wikipedia、『広辞苑』。
底本
底本:『滿鮮史研究 上世第二册』吉川弘文館
1960(昭和35)年6月15日発行
初出:『史学雑誌』第40編、第8号
1929(昭和4)年6月稿
年表
六世紀はじめ 新羅の智証王、国号をさだめて新羅といい、王と称し、また欝陵島の于山国を征服してこれを半島の属領とした。
五五一(真興王十二) 真興王、半島の中部の広大なる地方を略有。
五五四(真興王十五/聖王三十二) 百済の聖王、みずから大軍をひきいて新羅に攻めこみ、戦死。
五八九(真平王十一) 新羅の円光法師、南朝の陳に入る。十一年間留学。
六〇〇(真平王二十二) 円光法師、帰朝。
六〇二(真平王二十四/建福十九) 百済の大兵が新羅を侵して阿莫城を囲んだ時、貴山の父なる武殷は、将軍の一人として出征し、貴山も箒項とともに従軍。三人とも戦死。
六〇八(真平王三十) 王が兵を隋に請うて高句麗を伐とうとした時、その乞師の表を円光法師に草せしめる。
六一〇(真平王三十二/建福二十七) 讃徳、選ばれて?岑城の県令となる。
六一一(真平王三十三) ?岑城が百済の出だした大兵に囲まれ、内地の諸州から遣わされた新羅の救援軍は、敵の優勢なのを見てそのまま引きかえす。讃徳は孤城を死守、死没。
六一八(真平王四十/建福三十五) 讃徳の子、奚論、?岑城を回復する命を受けて出征。闘死。
六二八(真平王五十/建福四十五) 大飢饉。沙梁官の舎人どもが、官倉の穀をぬすみだす。剣君、穀を受けることをこばみ、宴席にて毒殺。
六四七(真徳王元) 金?信が新羅に攻め入った百済の大兵を防ぎ、味方の旗色の悪かったとき、?信の命を受けた丕寧子、率先して敵陣に突入する。戦死。子挙真および家奴合節も戦死。
六五五(武烈王二/唐高宗永徽六) 助川城が百済に侵され、それを救うために金?信ら出陣。驟徒、従軍して没する。
六五五(太宗王二) 金?運、金?信の裨将として助川城の役におもむき、力闘して死ぬ。
六六〇(太宗七/唐高宗顕慶五) 百済討滅の役、新羅の二将軍品日・欽春は、おのおのその子を戦死せしめ、味方の士気を鼓舞、敗戦を勝戦に転ぜしめる。
六六〇 百済滅亡。
六六八 高句麗滅亡。新羅三国統一。
六七一(文武王十一/唐高宗咸亨二) 驟徒の長兄の夫果、百済の故地——当時唐の占有する——を侵略する軍に参加し、百済人と熊津の南に戦って死没。
六七二(文武王十二/唐高宗咸亨三) 新羅が高句麗の余党の反乱を助けるために、大同江南の地に出兵し、平壌から出動した唐兵と戦って大敗。この戦役のさい、金?信の子元述は将軍暁川・義文らの裨将となって軍中にいたが、二将軍が戦死。元述は戦場から逃れかえり田園に隠遁、翌年父の薨じた時にも、喪に会することを許されず。
六七五(文武王十五/唐高宗上元二) 大伯山にかくれていた元述は、唐兵が新羅の西北境を侵して買蘇川城を攻めた時、力戦して功を立てる。
六八四(神文王四/唐則天武后文明元) 夫果・驟徒の弟逼実は、金馬渚の高句麗の反賊の残党を報徳城に討つ。戦死。
◇参照:『広辞苑』、Wikipedia。
登場キャラ一覧
奈勿尼師今 |
なこつ にしきん |
?-402 |
新羅の第17代の王。 |
長寿王 |
ちょうじゅおう |
394-491 |
高句麗の第20代の国王。広開土王の長子。 |
智証麻立干 |
ちしょう まりつかん |
437-514 |
新羅の第22代の王。 |
文咨明王 |
ぶんしめいおう |
?-519 |
高句麗の第21代の王。 |
法興王 |
ほうこうおう |
?-540 |
新羅第23代の王。 |
聖王 |
せいおう |
?-554 |
百済の第26代の王。先代の武寧王の子。 |
欽明天皇 |
きんめい てんのう |
?-571 |
記紀に記された6世紀中頃の天皇。継体天皇の第4皇子。 |
真興王 |
しんこうおう |
534-576 |
新羅第24代の王。 |
真智王 |
しんちおう |
?-579 |
新羅の第25代の王。真興王の次男。 |
真平王 |
しんぺいおう |
?-632 |
新羅の第26代の王。真興王の太子銅輪の子 。 |
善徳女王 |
ぜんとく じょうおう |
?-647 |
新羅の第27代の王。新羅初の女王。真平王の長女。 |
真徳女王 |
しんとく じょおう |
?-654 |
新羅の第28代の王。父は第26代真平王の母方の叔父である国飯(国芬とも記される)葛文王。 |
武烈王 |
ぶれつおう/ムヨルワン |
602?-661 |
新羅の第29代の。金春秋。百済を滅ぼし、三国統一の基盤を為したことから新羅の太宗の廟号を贈られ、太宗武烈王とも称せられる。 |
蘇定方 |
そ ていほう |
592-667 |
唐の軍人。 |
金?信 |
キム ユシン/きん ゆしん |
595-673 |
父は舒玄、もしくは逍衍。妻は智?婦人。新羅統一期の功臣。金官加羅国の後裔。 |
文武王 |
ぶんぶおう |
?-681 |
新羅の第30代の王。武烈王の長子。高句麗を滅ぼし、また唐の勢力を朝鮮半島から駆逐して、半島の統一を果たした。 |
高宗 |
こうそう |
628-683 |
唐の第3代皇帝。第2代皇帝・太宗の第9子。 |
神文王 |
しんぶんおう |
?-692 |
新羅の第31代の王。文武王の長子。 |
源満仲 |
みなもとの みつなか |
912-997 |
平安中期の武将。経基の長子。鎮守府将軍。 |
源信 |
げんしん |
942-1017 |
平安中期の天台宗の学僧。通称、恵心僧都。大和の人。著「往生要集」。 |
熊谷直実 |
くまがい なおざね |
1141-1208 |
鎌倉初期の武士。武蔵熊谷の人。 |
池内宏 |
いけうち ひろし |
1878-1952 |
東洋史学者。東京生れ。 |
熊谷直家 |
くまがい なおいえ |
1169?-? |
平安時代末期から鎌倉時代初期の武士。熊谷直実の長男。治承8年(1184年)の一ノ谷の戦いに参加。 |
恵心 |
えしん |
|
→ 源信 |
貴山 |
きざん |
|
沙梁部の人。父は武殷阿干。 |
挙真 |
きょしん |
|
丕寧子の子。 |
金?運 |
きん きんうん |
|
奈密(奈勿)王の八代目の子孫。父は達福。文努という花郎の門徒。 |
金令胤 |
きん れいいん |
|
沙梁部の人。盤屈の子。欽春の孫。真平王の時に花郎となる。文武大王は宰相として登用する。 |
暁川 |
ぎょうせん |
|
将軍。 |
奚論 |
けいろん |
|
讃徳の子。父の功をもって大奈麻の位を授けられる。 |
元述 |
げんじゅつ |
|
金?信の第二子。蘇判。副将軍。 |
合節 |
ごうせつ |
|
丕寧子・挙真の家奴。 |
讃徳 |
さんとく |
|
牟梁部の人。奚論の父。真平大王の命により?岑城の県令となる。 |
驟徒 |
しゅうと |
|
沙梁部の人。父は聚福。出家して道玉。実際寺の僧。 |
真徳 |
しんとく |
|
真徳女王か。 |
薛頭 |
せつ けいとう |
|
|
善徳 |
ぜんとく |
|
善徳女王か。 |
箒項 |
そうこう |
|
貴山の友人。 |
太宗 |
たいそう |
|
武烈王か。 |
多田満仲 |
ただの みつなか |
|
→ 源満仲 |
淡凌 |
たんりょう |
|
元述の副官。補佐役。 |
竹竹 |
ちくちく |
|
大耶州の人。父は?熱。 |
智証王 |
ちしょうおう |
|
→ 智証麻立干 |
訥催 |
とつさい |
|
沙梁部の人。大奈麻、都非の子。 |
奈勿王 |
なこつおう |
|
→ 奈勿尼師今 |
丕寧子 |
ひ ねいし |
|
|
匹夫 |
ひっぷ |
|
沙梁部の人。父は尊台。659年、七重城下の県令となる。 |
逼実 |
ひょくじつ |
|
父は聚福。驟徒の弟。 |
武殷 |
ぶいん |
|
阿干。貴山の父。 |
金仁問 |
キム インムン/ きん じんもん |
|
太宗大王(武烈王)の第二子。金?信の外甥。 |
金春秋 |
キム チュンチュ/きん しゅんじゅう |
|
→ 武烈王 |
官昌 |
クワンチャン/かんしょう |
|
品日の子。花郎。 |
階伯 |
ケベク/かいはく |
|
百済の将。 |
欽春 |
フムチュン/きんじゅん |
|
欽純。新羅の将軍。金?信の次弟。 |
品日 |
プムイル/ひんじつ |
|
新羅の将軍。欽春とともに将軍として今突城に郡を進める。文武王代まで活躍。 |
<IMG gaiji src="土+皆.gif">泊 |
|
|
階伯。 |
円光法師 |
|
|
六世紀末から七世紀前半の新羅で活躍した僧。隋・唐に学び、帰国後大乗経典を講じる。 |
義文 |
|
|
将軍。 |
近郎 |
|
|
花郎。 |
剣君 |
|
|
仇文の子。沙梁部の舎人。近郎(花郎)の徒。 |
智? |
|
|
金春秋の第三女。金?信の妻。五男四女をもうける。 |
転密 |
|
|
僧。金?運の仲間。 |
夫果 |
|
|
父は聚福。驟徒の兄。 |
文努 |
|
|
花郎。 |
聚福 |
|
|
沙梁部の人。 |
2009.9.2:公開
2011.8.2:更新
目くそ鼻くそ/PoorBook G3'99
翻訳・朗読・転載は自由です。
カウンタ: -
- NDC 分類の記述をちょっとだけ調整。 -- しだ (2011-08-02 06:02:44)
最終更新:2011年08月02日 06:02