MT*No.51-徳永直 光をかかぐる人々(四)

※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

2009.7.11 No.51

徳永直『光をかかぐる人々』(四)
定価:200円(税込)  p.263 / *99 出版
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(245項目)p.1117
 最初の印刷工場 一/二/三/四
 作者言

※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。
※ JIS X 0213・ttz 形式。
※ この作品は青空文庫にて入力中です。翻訳・朗読・転載は自由です。
※ テキストおよび底本画像は、
徳永直『光をかかぐる人々』入力中(http://d.hatena.ne.jp/HikariwokakaguruHitobito/)(uakira)にて公開中です。
(c) Copyright is public domain.

 フランクリンが十三歳で印刷屋の小僧となってから、十七歳の一七二三年フィラデルフィアに移って以来週刊新聞を発行するまで、彼のイギリス渡りの二、三枚の活字ケースがどんな重大なはたらきをしたかは、周知のように彼の『自伝』が彼がアメリカ憲法草案を書いたときのそれにもおとらぬ感動をもって語っているところだ。(略)
 しかし私の考えるところでは、フランクリンが「世界印刷術中興の祖」といわれる所以のもっとも大なるものは、活字や印刷機の多少の改良よりは、活字や印刷術を人々の日常生活のなかにひっぱりだしたこと、たとえばフィラデルフィアの町で、町有志の会合の記録などを、この青年書記がたちまち印刷にして配布し、その翌朝は町有志の人々がもれなく昨夜の激論の推移と成果を知ることができ、さらに次の会合のため各自がいっそうおのれの考えを進めることができるような印刷物を作ったこと、つまり活字のために新しい任務をひらいた点にあるのであろう。フランクリンは図書館をつくり、新聞をつくり、志ある人々をたすけてアメリカじゅうに印刷所ができるよう尽力した。しかし書籍組合創立や印刷所建設やではヴェニスのマヌチウスも、ウエストミンスターのカクストンも、フランクリンに劣りはしなかったのだから、つまりフランクリンの功績の大なる所以は、彼の図書館の建設方法や、同じ著述でもその内容や、新聞という独自の形式と内容や、印刷所建設でもその経営方法と作業規律の内容や、その性質に相違があったのである。

51.rm
(朗読:RealMedia 形式 384KB、3'05'')


週刊ミルクティー*第51号 ※ ダウンロードサイトへジャンプします。
(856KB)

徳永 直 とくなが すなお
1899-1958(明治32.1.20-昭和33.2.15)
熊本県飽託郡花園村(現熊本市)生まれ。1922年上京、博文館印刷所(後の共同印刷所)に植字工として勤務。1925年に「無産者の恋」「馬」などを発表。翌年共同印刷争議に敗れ、同僚1700人とともに解雇される。1929年この時の体験を基にした長編「太陽のない街」を『戦旗』に連載。1958年『新日本文学』に長編「一つの歴史」を完結させないまま世田谷の自宅で病没した。享年59。
◇参照:Wikipedia。


底本

http://d.hatena.ne.jp/HikariwokakaguruHitobito/
底本:『光をかかぐる人々』河出書房
   1943(昭和18)年11月20日発行
NDC 分類:210 914


【*年表】
※ 本文中の和暦表記にはカッコ書きで西暦を付与。本文中の西暦表記はそのままとした。
※ 嘉永は七年一一月二六日まで。一一月二七日(一八五五年一月一五日)をもって安政に改元だから、本文中「安政元年七月」は「嘉永七年七月」が正しいはず。「安政元年」の直後に * 印を加えて注意をうながす。
 (例)安政元年*(一八五四)の七月

一四五五 「流し込み活字」ドイツ、マインツで発明(以下、印刷文明史)。
一四六五 イタリアへ流布。
一四六六 ギリシャへ流布。
一四六八 スイスへ流布。
一四七〇 フランスへ流布。
一四七三 オランダ、ベルギー、オーストリア・ハンガリーへ流布。
一四七四 スペインへ流布。
一四七七 イギリスへ流布。
一四八二 デンマークへ流布。
一四八三 スウェーデン、ノルウェーへ流布。
一四八七 ポルトガルへ流布。
十六世紀初頭 全イタリアで四百三十六の印刷工場があったという。
一五三三 「流し込み活字」ロシアへ流布。

慶長二十年(一六一五) 江戸金地院の崇伝『大蔵一覧集』を銅活字で印刷。校合、寿閑。
一六三八 「流し込み活字」北米合衆国へ流布。
元禄八年(一六九五) 『洋学年表』「十一月長崎オランダ通詞目付の員を設け衆員を監督せしむ、本木庄太夫始て補さる」
一七二三 フランクリン(十七歳)、フィラデルフィアに移って以来週刊新聞を発行。
一七九六 フィラデルフィアのアダム・ラメージが世界ではじめての鉄製のハンドプレスを作る。ロンドンでも数学者スタンホープが「スタンホープ式ハンドプレス」を完成。
一八一三 フィラデルフィアのジョージ・クライマーが「コロムビア・プレス」を作る。
文化十年(一八一三) 圭斎、生まれる。
一八二〇 ボストンのダニエル・トリードウェルが世界最初の足踏印刷機を発明。
一八二一 ニューヨークのラストとスミスが「ワシントン・プレス」を作る。
文政七年(一八二四) 昌造、生まれる。
一八三三 「ファラデーの法則」が確立。
天保年間(一八三〇年代) 平賀源内橋本曇斎、本木道平ら「エレキテル」の実験。
天保五年(一八三四)四月 昌左衛門と後妻クラとの間に、縫、生まれる。
一八四〇年以後 ロシア人ヤコビ、イギリス人ジョルデイン、アメリカ人アダムス、オーストリア人プレッチェら、電気写真版および凸版完成。(西洋印刷文明史)
一八三八 ケーニッヒのシリンダー式以上に世界の印刷界を嵐のなかに捲きこんだニューヨークのデヴィッド・ブルースの「ブルース式カスチング」を発明。
一八四六 ニューヨークで世界最初の輪転機「ホー式回転印刷機」が誕生。


天保十三年(一八四二) 異国船打ち払い令改正。
弘化元年(一八四四) オランダ軍艦「バレムバン」来航。
弘化年間(一八四四〜一八四八) 幕府はオランダに注文して、小型の蒸汽機関を注文。
弘化三年(一八四六) オランダのライデンにおいて『オランダ文典文章編』出版。のちに昌造、翻刻。
嘉永二年(一八四九) 「近来蘭医増加いたし世上これを信用するもの多くある由、相聞え候、右は風土も違候ことにつき、御医師中は蘭方相用候儀、御禁制仰出され」る。
嘉永二年(一八四九) 吉雄圭斎、日本で最も早く、自分の三児に種痘を試みる(日本科学史年表)。
嘉永三年(一八五〇) 全鉄製ハンドプレス「スタンホープ・プレス」いわゆる「ダルマ型」が、オランダから幕府へ献納。
嘉永三年(一八五〇) 中浜万次郎、漂民として日本へ帰着、後二年間は自由の身ではなかったが、安政の開港以後、幕府の軍艦操練所教授となる。
嘉永五年(一八五二) 土屋喬雄『封建社会崩壊過程の研究』によれば、薩摩藩、蘭書にもとづいて蒸汽船雛型を作る。
嘉永六年(一八五三) 川本幸民『遠西奇器述』で電胎法のことを祖述。
嘉永六年(一八五三) 第三回めのロシア使節が長崎へ来る。昌造三十歳。この年はじめて父となる。妻女縫はこのとき十五歳。長男昌太郎生まれる。
嘉永六年(一八五三) ペリー、プーチャチンの来航。
嘉永六年(一八五三)末 「長崎談判」のおり森山栄之助が訳述して公用に役立った英書を、同じ応接係役人の箕作阮甫でさえが読むことができなかった。
嘉永七/安政元年(一八五四*)正月 吉雄圭斎、長崎出島の蘭館において電気分解の実験。
嘉永七年(一八五四)正月十三日付 阮甫の文中「後に三宝寺に来たり」。三宝寺は「長崎談判」のため筒井、川路に随従してきた彼の宿舎。プーチャチンらの軍艦が退帆したあと「川路君」左衛門尉らとともに出島蘭館を巡見。
嘉永七年(一八五四)正月十三日付「これはエレキテルとジシャクを合したる法なり」(川路日記)
嘉永七年(一八五四)十五日 阮甫、川路らとともに、当時日本では数少ない鉄精錬所をもっている佐賀藩の洋式新台場をみて「鎖国の弊はいたらざる所なし」と叱�。
安政年間(一八五四〜一八六〇) このころ昌造作の鋼鉄製日本文字字母が帝室博物館に所蔵。
安政年間(一八五四〜一八六〇) 「ワシントン・プレス」が上海を経て長崎奉行所の印刷工場に使用(川田久長)。
嘉永七/安政元年(一八五四*) 「神奈川」「下田」二条約の成立。
嘉永七/安政元年(一八五四*)六月 神奈川条約成立後、ペリー退帆。
嘉永七/安政元年(一八五四*)〜二年 箕作阮甫、川路左衛門尉にしたがって「下田談判」へ参加。清水卯三郎、阮甫が下田にいる所へ行って弟子入りを頼む(呉秀三)。
嘉永七/安政元年(一八五四*) 「当時病用相省き、もっぱら書生を教導いたし、当今必要の西洋学者を育て候つもりに覚悟し」(緒方洪庵伝)
嘉永七/安政元年(一八五四*) 福沢諭吉、二十一歳で長崎へ遊学。
嘉永七/安政元年(一八五四*)七月 昌造、土佐侯の築地の造船場にいる。『吉田東洋伝』に見える引用文では九月初旬まで昌造の名が出てくる。おそらく九月中旬まで江戸にいて幕府天文方の仕事。
嘉永七/安政元年(一八五四*)七月 長崎の通訳本木昌造、公用をおびて下田に来るの途次、転じて江戸に入る。(東洋伝)
嘉永七/安政元年(一八五四*)七月朔日 遠江守樣御出に付、八つ頃再び出動、直ちに退く。長崎鹽田氏幸八と云者、蒸汽船雛形持出し、御馬場に於て御覽あり。(寺田志斎日記)
嘉永七/安政元年(一八五四*)七月四日 昌造自身で蒸汽船を運転してみせる。(寺田志斎日記)
嘉永七/安政元年(一八五四*)七月十六日 寺田志斎、渋谷へ行って蒸汽船注文のことを昌造と相談。
嘉永七/安政元年(一八五四*)七月二十四日 寺田志斎、築地の造船場を他の藩士たちと共に下検分。
嘉永七/安政元年(一八五四*)閏七月二十四日 「御用番久世大和守殿に左之伺書留守居共持參差出候處、被請取置、同八月廿三日、同所え留守居共被呼出、右伺書え付紙を以て被差返上、則左之通」「今度大船製造御免(被仰出候ニ付、為試」(土佐藩記録)。
嘉永七/安政元年(一八五四*)閏七月二十四日 「右之通雛形、築地於屋舖内、手職人え申付爲造立度、尤長崎住居大工幸八と申者、此節致出府居候に付、屋舖え呼寄、爲見繕申度、出來之上於内海致爲乘樣、其上彌以可也乘方出來候時は、海路國許え差遣し、船手之もの共爲習練、江戸大阪共爲致往還度、彼是相伺候、可然御差圖被成可被下候、以上、閏七月廿四日、松平土佐守」
嘉永七/安政元年(一八五四*)八月朔日 「本木昌造より約束の品をし來る」(寺田志斎日記)
嘉永七/安政元年(一八五四*)八月四日 「供揃にて、供りの面々も馬乘に申付、砂村屋舖に相越し、長崎之通辭召連れ、蒸汽船一覽せらる」(容堂日記)
嘉永七/安政元年(一八五四*)八月五日 寺田志斎、建造中の船のことで昌造と談。
嘉永七/安政元年(一八五四*)八月八日 宇和島藩主伊達侯を招待して「夕方本木庄藏と申す通辭、蒸汽船持參致し候に付、馬場に於て伊達遠江守殿と一所に一覽せらる、その節中濱萬次郎も呼寄せ——」(容堂日記)
嘉永七/安政元年(一八五四*)九月七日 「雨、出て蒸汽船製造場に過たる、船の形、頗る成る」(寺田志斎日記)
嘉永七/安政元年(一八五四*)八月二十九日 豊信(容堂侯)昌造を召して海外の事情を聞き、携うるところの蒸汽船の模型を見、随従の工夫幸八に命じて、さらに模型を作らしめ、幕府に請うて試運転をなす。(東洋伝)
嘉永七/安政元年(一八五四*)九月下旬 昌造、大阪の安治川尻、プーチャチンの船へ幕府の諭書を持参。箱館奉行経由のプーチャチンの書簡を森山(当時栄之助)と連名で翻訳。
嘉永七/安政元年(一八五四*) 『和英対訳商用便覧』。イギリス船へも開港した長崎の商取引のため、もしくは蘭語から英語にうつりつつあった時代にさきがけたもの。
安政二年(一八五五) 活字板摺立所。
安政二年(一八五五) 福沢諭吉、大阪の洪庵塾へ入る。
安政二年(一八五五) 戸田村の「スクーネル船」、洋式船舶建造の最初。
安政二年(一八五五)四月 薩摩藩の昇平丸が江戸へ回航。
安政二年(一八五五)三月二十三日 プーチャチンの下田退帆。乗組員の一部は残る。
安政二年(一八五五) 昌造、下田から長崎へもどる。
安政二年(一八五五)七月 長崎に永井玄蕃頭、勝麟太郎らを主とする海軍伝習所できる。昌造、伝習係通訳となる。森山栄之助(改め多吉郎)外国通弁方頭取となり、堀達之助は蕃書取調所教授となる。
安政二年(一八五五) 昌造、「蘭書取次」あるいは「購入」で幕府に罪を問われて「入牢」。「時の長崎奉行・水野筑後守は幕府の命によりて、氏に突然揚屋入りを申し付けた」安政二年(一八五五)から安政五年(一八五八)十一月まで。(印刷文明史)。昌造を訊問した水野筑後守は「下田談判」当時の次席応接係で、昌造はその配下。昌造の養父昌左衛門は通詞目付で現存。長崎奉行所の「入牢帳および犯科帳」には記録がない。(本木、平野詳伝)
安政二年(一八五五) 蘭書の輸入が間にあわなくて、長崎奉行西役所内に印刷所をつくって「日本製洋書」をこしらえる。
安政二年(一八五五)〜三年 昌造、出島の蘭館で活版技師インデル・モウルを監督して『蘭話字典』を印刷。(本木、平野詳伝)
安政二年(一八五五) 昌造、活字板摺立係を命ぜられる。(本木、平野詳伝)
安政二年(一八五五) 昌造、造船海運についての「由緒書」を奉行荒尾岩見守を経て永井玄蕃頭に提出。(本木、平野詳伝)
安政二年(一八五五) 豊信、参勤交代の期に際し、帰国の後これを高知に回漕し、浦戸港内にうかべ、豊資その他連枝および諸士に縦覧せしめて西洋事情の新奇進歩せる実物標本を紹介。(東洋伝)
安政二年(一八五五)八月 土佐藩の船が築地でできあがって、土佐の港で運転。
安政二年(一八五五)八月四日 「由比猪内へ過く。夫より出勤。今日は早仕舞九つ時退く。——蒸汽船江戸より着す」(寺田志斎日記)
安政二年(一八五五)八月二十三日 「今日雅樂助君(容堂弟)蒸汽船御見物に御出」(寺田志斎日記)
安政二年(一八五五)以後 昌造の消息、万延元年(一八六〇)末飽ノ浦製鉄所御用係となるまで、ほとんど絶える。(徳永)
安政二年(一八五五)ごろ 蘭書の輸入なり勉強なりの取締りはゆるやかになりつつある。(徳永)
一八五五 世界最初の印刷雑誌の編集者トーマス・マッケラー「活字の歌」を歌う。
安政三年(一八五六)か四年 福沢諭吉、黒田侯から一冊の原書を借りて、エレキトルの部分を書生らと写本(福翁自伝)。
安政三年(一八五六)六月 昌造、『オランダ文典文章編』を著述。(本木、平野詳伝)=『文法書シンタクシス』(印刷文明史)=『文法書セイタンキシス』(川田久長)
安政三年(一八五六)九月 『スプラークキュンスト』発行。
安政四年(一八五七) 昌造、オランダで出版した『日本文典』の日本活字の種書を送る。(本木、平野詳伝)
安政四年(一八五七) 昌造、『和英対訳商用便覧』を出版。(本木、平野詳伝) 三年?
安政四年(一八五七) 縫、小太郎を産む。
安政五年(一八五八) 昌造、『物理の本』を出版(本木、平野詳伝)。原名『フォルクス・ナチュールクンデ』、和訳『理学訓蒙』(川田)。
安政五年(一八五八)七月 縫、死亡。四か月前、長男昌太郎没。
安政五年(一八五八)八月十五日 夜、当時紀州侯の御用達をつとめていた青木休七郎、ひそかに新任の奉行岡部駿河守の役宅を訪れ、昌造の保釈を願い出る。
安政五年(一八五八)十一月二十一日 夜、岡部駿河守、用人小林某を休七郎宅へつかわし、本月二十八日に昌造を保釈するむねを伝える。(印刷文明史)
安政五年(一八五八) 昌造、三十五歳。
万延元年(一八六〇) 昌造、飽ノ浦製鉄所御用係に登用。
万延元年(一八六〇)か文久一、二年(一八六一、一八六二)ごろ 昌造三十七、八歳のころのめずらしい写真。(印刷文明史第四巻)
万延、文久(一八六〇〜一八六四)ごろ 神奈川および下田条約。五か国条約実施問題をめぐる攘夷論沸騰時代。
一八六〇 ニューヨーク・トリビューン紙がもちいた輪転機、時速二万枚を記録。
文久二年(一八六二) 土佐藩の吉田東洋、攘夷派の志士に暗殺される。
文久二年(一八六二) 緒方洪庵、西洋医学所頭取となる。
元治元年(一八六四) 昌造、八丈島に漂流。折にできた妾某、娘松を産む。
元治元年(一八六四) 後妻タネ、清次郎を生む。
慶応三年(一八六七) タネ、昌三郎を生む。
慶応年間(一八六五〜一八六八) 昌造、薩摩の島津屋舗からハンドプレスをゆずりうける。
明治初年(一八六八) 平野富二、銀座の古道具屋から某大名からの流れものという形状不明のハンドプレスを発見。
明治二年(一八六九) 昌造、長崎でガムプルから電胎法を学ぶ。
一八七〇年代 マリノン式輪転機、完成。

明治十年(一八七七) ドイツ人ケーニッヒの「シリンダー式印刷機」を東京朝日新聞社で使用。
明治三十年 フランスで発明された「マリノン式輪転機」新聞印刷機として日本へ最初に入る。
明治四十五年(一九一二) 昌造へ贈位の沙汰。『印刷文明史』の著者は、当時在世中であった昌造の友人諏訪神社宮司・立花照夫氏、門人境賢次氏などを長崎に訪ねる。御贈位の内申書には『蘭話通弁』の他に『海軍機関学稿本』などあり。
昭和十七年(一九四二) 川田久長「蘭書翻刻の長崎活字版」『学鐙』九月号所載。



2009.7.18:公開
目くそ鼻くそ/PoorBook G3'99
翻訳・朗読・転載は自由です。
カウンタ: -

名前:
コメント: