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小書き拗促音の組版開始時期について

——事例)『羽陽文化』山形県文化財保護協会(編)——

   しだひろし/PoorBook G3'99


1.はじめに

 7月4日に青空文庫の主催で行われた芝野耕司氏の講演「電子翻刻における「読み」と「見たまま」」の講演資料を読みました。

 青空文庫講演資料
 7月4日に青空文庫の主催で行われた講演会の発表資料
「電子翻刻における「読み」と「見たまま」」
 http://sites.google.com/site/shibano/aozora-bunko-kouen-shiryou

 興味深い内容ではあったものの、いまひとつ腑に落ちない。つねづね疑問に思っていたことがあるので、この機会にサンプル調査してみることにしました。

2.テーマ

 拗促音が、小書き活字で組版され出したのはいつか。

 大書き拗音「あいうえおやゆよわアイウエオヤユヨワ」
 小書き拗音「ぁぃぅぇぉゃゅょゎァィゥェォャュョヮ」
 大書き促音「つツ」
 小書き促音「っッ」

3.目的

 仮説として、「ヵヶ」という小書き活字が組版され出したのは、拗促音の小書き活字が広まったのとほぼ同時期か、あるいはその後のことではないか、という問題を設定する。
 一般に、拗促音の小書きの慣習が始まるのは、ひろく「戦後」といわれている。その時期を、もうすこし細密にしぼってみたい。もちろん「ヵヶ」は拗促音ではなく、「ヶ」にいたってはカタカナでもない(らしい)。にもかかわらず、JIS規定が誤用の好例のように、拗促音のカタカナに準ずる記号/符号であるとの認知がされやすい。
 富田さんは、「ヵヶ」は「個/箇/个」に由来するから、という由来説を展開。芝野さんは、Google から「ヶケ」用例を集計。集計結果の数量を「広く受け入れられている/いない」の判断根拠としている。

4.方法

 一事例として『羽陽文化』山形県文化財保護協会(編)の組版に用いられている拗促音を、ざっくりと目視する。とくに、大書き/小書き混用時期を特定する。

 羽陽文化 うよう ぶんか
 山形県文化財保護協会(編)

※ 創刊1949(昭和24)年1月〜(現在)
※ 年4回発行
※ 一号あたり24〜38ページ A5版
※ 編集担当:1期 佐藤栄太 No.1〜〓
       2期 川崎浩良 〓〜No.57
       3期 鈴木清助 No.58〜〓
※ 印刷担当:1期 石沢印刷所 No.1〜〓
       2期 山形荷札(株) 〓〜No.58
       3期 武田紙工印刷 No.59〜

5.結果


刊行年月 号数 編集担当 印刷担当 結果 例、備考
昭和36.7 No.51 川崎 山形荷札 大のみ
昭和36.10 No.52 川崎 山形荷札 大のみ
昭和37.1 No.53 川崎 山形荷札 大のみ
昭和37.4 No.54 川崎 山形荷札 大のみ
昭和37.7 No.55 川崎 山形荷札 大のみ
昭和37.10 No.56 川崎 山形荷札 大のみ
昭和38.1 No.57 川崎 山形荷札 大のみ カあり
昭和38.4 No.58 鈴木 山形荷札 大のみ ヱ・カあり
昭和38.7 No.59 鈴木 武田紙工 混用(大>小) カット,わかつた,フアイト
昭和38.10 No.60 鈴木 武田紙工 混用 カツト,セット ガあり
昭和39.1 No.61 鈴木 武田紙工 混用(大<小) コレクシヨン,キヤンプ
昭和39.5 No.62 鈴木 武田紙工 大のみ
昭和39.8 No.63 鈴木 武田紙工 混用(大>小) カット
昭和39.11 No.64 鈴木 武田紙工 混用(大<小) フアイト,オリンピック
昭和40.1 No.65 鈴木 武田紙工 混用(大<小) プロスペリテイー
昭和40.5 No.66 鈴木 武田紙工 ほぼ大 例外)カットのみ
昭和40.8 No.67 鈴木 武田紙工 小のみ カあり
昭和40.10 No.68 鈴木 武田紙工 混用
昭和41.1 No.69 鈴木 武田紙工 混用(大<小) ジヤングル,マニュファクチアー
昭和41.4 No.70 鈴木 武田紙工 混用(大<小) フアイト,打切つた
昭和41.7 No.71 鈴木 武田紙工 小のみ
昭和41.10 No.72 鈴木 武田紙工 小のみ
昭和42.1 No.73 鈴木 武田紙工 小のみ
昭和42.5 No.74 鈴木 武田紙工 小のみ
昭和42.8 No.75 鈴木 武田紙工 小のみ ヵ?
昭和42.12 No.76 鈴木 武田紙工
昭和43.3 No.77 鈴木 武田紙工
昭和43.7 No.78 鈴木 武田紙工
昭和43.12 No.79・80合併 鈴木 武田紙工

6.わかったこと

 昭和38.7月(No.59)に混用が見え始める。その後、昭和41.4月(No.70)まで、混用時期が続いている。結果を見るかぎり、1963(昭和38)年が混用の上限で、下限は1966(昭和41)年となった。およそ3年の混浴期間(移行期間)があったことがわかる。ちなみに、担当印刷会社は三社とも山形市内。
 混用期間の始まる昭和38.7月(No.59)は、編集担当と印刷担当の両方が交代する時期と重なっている。
 各論文ごとに拗促音の大小を使い分けているとすれば、論文執筆者に応じて植字工が原稿の通りに組版した結果といえるが、そういう印象は(皆無ではないものの)薄かった。ひとつの段落の中で大小の拗促音が混浴している例も見られた。
 また、組版のハウス・ルールが前後の二社で異なっていたとすれば、混用期間は生じずに、きれいに二分したはずだけれども、結果からは、一社内部において3年の移行期間が生じていたことがわかる。(下請け外注の可能性は考えない)
 編集担当2代目の川崎浩良の時期には、小書きの拗促音は見られなかった。混用時期は、3代目・鈴木清助の初期にあたる。一個人の中で、混用がまったくありえないとはいえないものの、混用が編集担当に起因するとすれば、一段落・一ページ内での混用は不自然に思われる。むしろ当時、鈴木清助は編集担当者としての積極的な拗促音の統一を“あえて”おこなわず、論文執筆者の原稿のままに印刷行程へ手わたし、その結果、記事ごとのばらつき、植字段階でのばらつきが発生したものと推測する。
 では、担当印刷・植字工が混用の主要因かといえば、そう断言できない気がする。おそらく、原稿ごとのばらつきに、植字工も困惑していたのではないだろうか。加えて、当時もちろん原稿は手書きだったろうから、原稿の判読、原稿どおりの忠実な組版と拗促音の統一が、矛盾ないしは破綻(つまりは混浴)していたものと推測する。
 現在のデジタル化された印刷工程においても、いまもって拗促音のチェックが校正の主たる作業の一つであるのは、拗促音の組版に悩まされたのが、そう古い過去の記憶ではないということを示しているように思われる。

 なお、(目視でざっくりと)確認した限りでは、「ヶ」の使用は皆無。「个」の使用も皆無。「カ」が3件。「ガ」が1件。「ヵ」(?)が1件。調査対象期間(昭和36.7〜昭和42.8)を通して、ほぼ「ケ」で組んでいると見ていい。
 また、右衛門・左衛門・兵衛の「衛」を右工門・左工門・兵工のように「工」(カタカナのエではなく、漢字の工)で組んでいるものが多数、目についたことを付記しておく。

7.まとめ

「戦後」というと、遅くとも1950年代には小書き拗促音への移行が終了していたような、漠然としたイメージをいだいていたが、サンプルを見るかぎりでは、1960年代という結果が得られた。ちなみに1963(昭和38)年がケネディ大統領暗殺、1964(昭和39)年が東京オリンピック開催の年にあたる。
 今回は、地方印刷出版における活字組版での小書きを対象とした。全国紙など首都圏での出版・メディアとの時差、手書きでの小書き普及との時差なども考えられる。歴史学・考古学を対象とした雑誌であること、執筆者の年齢・教職かどうか・植字工の習練度合いなどの影響も考えられなくもないが、わからない。
 歴史学・考古学のばあいは特に、本文では小書き拗促音であっても、引用部分もそうとは限らない。自己言及するときによく発生するパラドックスの一つ……か。

 ざっくりと目視で得られた印象、であって、精密な数量を測定した結果ではない。それこそ、全文テキスト入力して用例を検索抽出すれば、正確な結果が得られることと思う。

8.今後の課題

 1961(昭和36)年より前と、1968(昭和43)年以降をひきつづき確認してみたい。



公開:2009.7.6
更新:2009.7.7
しだひろし/PoorBook G3'99
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  • ネットをつらつら見ると「「シヤッター」と「ヤ」を大きく表記するのは、商標登録や商業登記に小文字(拗音)が使えなかった名残」「昭和64年からオッケーになったはず」との記述あり。 -- しだ (2009-07-11 03:40:53)
  • 調査中、写植(写真植字機)のことをすっかり失念。Wikipedia を見ると、商用販売の開始が1929年(昭和4)、戦後に開発が再開、普及したとある。 -- しだ (2009-07-11 03:44:46)
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最終更新:2009年07月11日 10:25