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*M-Tea*7_20-あのときの王子くん(一)アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ *2014.12.6 第七巻 第二〇号 あのときの王子くん(一) LE PETIT PRINCE アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ Antoine de Saint-Exupery 大久保ゆう訳  レオン・ウェルトに  一~九 &image(http://www.dlmarket.jp/images/uploader/620/7_20-1.jpg,http://www.dlmarket.jp/products/detail/299678) [[【週刊ミルクティー*第七巻 第二〇号 ダウンロードサイトへジャンプ】>http://www.dlmarket.jp/products/detail/299678]] (2.8MB) &color(red){税込価格:100円(本体税抜93円)} p.133 / *99 出版 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 ※ PDF 形式。Mac OS X 10.4・Acorbat Reader 5.0、Windows 7・Adobe Reader X および SONY Reader(PRS-T2)にて確認済み。 ※ この作品は青空文庫にて公開中です。 ※ この翻訳は「クリエイティブ・コモンズ 表示 2.1 日本 ライセンス」(http://creativecommons.org/licenses/by/2.1/jp/)によって公開されています。上記のライセンスに従って、訳者に断りなく自由に利用・複製・再配布することができます。 (c) Copyright is Creative Commons, 2015. *PDF マガジン 週刊ミルクティー*  ちゃんとしたわけがあって、王子くんおすまいの星は、しょうわくせい B612 だと、ぼくはおもう。前にも、一九〇九年に、ぼうえんきょうをのぞいていたトルコの星はかせが、その星を見つけている。  それで、「せかい星はかせかいぎ」というところで、見つけたことをきちんとはっぴょうしたんだけど、身につけているふくのせいで、しんじてもらえなかった。おとなのひとって、いつもこんなふうだ。  でも、しょうわくせい B612 はうんがよくて、そのときのいちばんえらいひとが、みんなにヨーロッパふうのふくを着ないと死けいだぞ、というおふれを出した。一九二〇年にそのひとは、おじょうひんなめしもので、はっぴょうをやりなおした。するとこんどは、どこものだれもがうんうんとうなずいた。  こうやって、しょうわくせい B612 のことをいちいちいったり、ばんごうのはなしをしたりするのは、おとなのためなんだ。おとなのひとは、すうじが大すきだ。このひとたちに、あたらしい友だちができたよといっても、なかみのあることはなにひとつ聞いてこないだろう。つまり、「その子のこえってどんなこえ? すきなあそびはなんなの? チョウチョはあつめてる?」とはいわずに、「その子いくつ? なんにんきょうだい? たいじゅうは? お父さんはどれだけかせぐの?」とか、聞いてくる。 ※ #ref(7_20.rm) (朗読:RealMedia 形式 xxxKB、x:xx) ※ お休みしまーす。 アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ Antoine de Saint-Exupery 1900.6.29-1944.7.31 フランスの小説家。飛行家生活を題材として人間性の高揚を描く。作「夜間飛行」「人間の土地」「戦う操縦士」のほか、童話「星の王子さま」など。 大久保ゆう おおくぼ ゆう 1982- (昭和57-) 高校1年時よりネット上での翻訳活動を始め、以来、パブリックドメインになった文芸の各種翻訳を共有作品として提供しつづけている。現在は翻訳研究の博士論文執筆を進めるとともに、フリーランスの翻訳家・執筆家としても活躍中。(作家別作品リスト)/シャーロック・ホームズの短編を翻訳。「京都大学電子テクスト研究会」を立ち上げる。サイト「The Complete 半七捕物帳」「音声化された青空文庫リンク集」を開設。(青空文庫ものがたり) ◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、Wikipedia 日本語・オフライン版(『iP!』2009.4月号、晋遊舎)、「青空文庫ものがたり」『インターネット図書館 青空文庫』(はる書房、2005.11)、青空文庫「作家別作品リスト:No.10」。 *底本 翻訳の底本:Antoine de Saint-Exupery (1943) "Le Petit Prince"    上記の翻訳底本は、著作権が失効しています。    2006(平成18)年5月3日~10月8日まで aozora blog に連載    2006(平成18)年10月24日加筆修正    2008(平成20)年3月5日微修正 http://www.aozora.gr.jp/cards/001265/card46817.html NDC 分類:K953(フランス文学 / 小説.物語) http://yozora.kazumi386.org/9/5/ndck953.html *難字、求めよ レオン・ウェルト 『ぜんぶほんとのはなし』 *むしとりホイホイ どこもだれもが → どこものだれもが 【の?】 以上1件。 *スリーパーズ日記* 書きかえメモ。 アラビア数字を漢数字に変更。 ルビを若干追加。 傍点を追加。 カギかっこを追加。 クエスチョン、句読点を若干追加。 擬音語・擬態語の一部をカタカナに変更。 ----------------------------------- 山形県埋蔵文化財センター 第49集 後田・大道下遺跡 (鶴岡市) うしろだ・おおみちした 第2次発掘調査報告書 県埋文センター、平成9年(1997)10月 Y210.0:ヤ:49(天) (現場主任)佐々木洋治、野尻〓、佐藤庄一 p.7 III 後田遺跡  1 遺跡の概要 「 表土から検出面までの深さはA区で50cm、B区で40cmを測る。A区は暗灰黄色微砂の地山の上に10cm程の炭化物を含む包含層が堆積する(第26図)。B区は表土のある部分とない部分があり、20cm程の包含層が堆積し、地山には白色の火山灰が粒上に混入する(第19図)。また、遺構の覆土は、平安~中世は黒褐色から黄灰色等を基調とするシルトからなり、地山との識別が容易であるが、古墳時代は地山の上に炭化物が分布するという識別が非常に困難な土である。これは、この辺り一体の古墳時代の遺跡に共通するもので、度重なる河川の氾濫による堆積のためと考えられている。」  2 遺構と遺物の分布 「(略)SK359土坑のように火山灰が含まれる覆土中に良好な赤焼土器の杯が出土している例も若干認められる。」 p.15 (4)土坑 「 SK61・264・359からは2次堆積ではあるが火山灰が検出され、理化学分析の結果、十和田a(915年)と推定された。これらの火山灰は、比較的上層で確認されていることから、遺構は915年以前の所産と考えられる。」 「 SK264(第18図)38-18グリッド、B区の北側、東壁際に位置する。直径1.2mのほぼ円形を呈し、丸底に掘られている。検出面からの深さは40cmを測り、覆土には火山灰が多量に含まれることから、SK61とほぼ同じ時期に堆積したものと推定される。6層からは直径15cm程の曲物(腐植が著しく遺物としての実測は不可能)と、8層からは「亨」と書かれた墨書土器が出土している。」 「SK359(第18図)21-11グリッド、B区の中央よりやや南側の西壁際に位置する。今回の調査でもっとも保存状態の良い土坑であり、土器も多数出土している。直径2.2mのほぼ円形を呈し、検出面からの深さは40cmを測る。底面は、ほぼ水平に掘られている。土師器・赤焼土器・木製品が出土している。覆土の上層には火山灰が含まれており、土師器杯が良好な状態で多数出土している。」 p.48 4 出土した遺物  (2)平安時代の土器(第29図~第36図)  SK359の土器組成(第33図70~77) 「 赤焼土器の杯が5点、皿が2点、甕の体部が1点出土している。殆どが上層からの出土ではあるが、土がある程度堆積した後、火山灰の堆積と共に一括廃棄された可能性が考えられる。杯と皿の底部切離しは全て回転糸切りを行っており、70と76は底径が小さく、体部が内湾しながら立ち上がる。71~73は体部が直線的に立ち上がるが、71と72は若干内湾ぎみである。74・75施釉陶器模倣タイプで底部を厚くつくり、体部を大きく開く。ロクロ痕を明瞭に残し、75は口縁部をつまんで丸く仕上げている。77はロクロ痕を明瞭に残し、内側にはハケメが数状認められる。これらの遺物を十和田aの降灰時期に廃棄されたものとすると10世紀前半に相当すると考えられる。」 V まとめと考察  1 後田遺跡のまとめ 「 土坑は遺物の出土は少量であるが、B区の土坑から十和田aテフラが検出されたことにより時期解明に大きな役割を果たしている。特にSK359からは二次堆積のテフラとともに、多量の赤焼土器杯が検出されたことにより、10世紀初頭の時期が考えられる。A区においては、SK61・68等平安時代に属する土坑が若干は認められるもののSK45の周辺に密集する土坑群をはじめ、中世以降のものが主体を占めている。」 「 SD3溝跡については、SD3aが出土遺物・規模共に主体を成し、最も長い時間機能していたものと考えられる。古墳時代からの遺物が認められるが、十和田aテフラが混入していない事や中世陶磁器等の出土、及び笹塔婆をはじめとする多量の木製品、草履状木製品・下駄・漆器などの出土を考え合わせると12世紀末~14世紀を中心に機能していたものと考えられる。また、前述したとおり明治26年の字切り図にSD3に相当すると思われる溝が認められるが、これは、覆土の状態等からSD3cに相当すると考え大過ないと思われる。」 付編 後田遺跡 自然科学分析  パリノ・サーヴェイ株式会社 平成7年3月24日 ・骨(人骨、動物骨) リンとカルシウム含量分析  ・リン酸……土壌中を比較的流亡しにくい。  ・カルシウム……骨の主成分 p.1 II テフラの同定  1.試料の選択 「試料番号7.8.9の3点について分析を行う。これらは、いずれも土層断面における観察からテフラからなる堆積物であると考えられている(表1)。」  表1 分析試料一覧 7.B区 火山灰 SK264 940811 シルト質砂  十和田a純層か? 8.B区 SD278F2 火山灰 940906 砂質土壌  十和田a2次堆積か? 9.SK29 940715 砂質土壌 軽石? 混在 p.2 2.分析方法  試料に水を加え、小型超音波洗浄装置により分散、上澄みを流し去る。この操作を繰り返すことにより泥物を除去する。得られた砂分を実体顕微鏡および偏光顕微鏡下で観察し、テフラの本質物質である軽石、スコリア、火山ガラスの産状を調べる。さらに、必要ならば火山ガラスの屈折率の測定を行う。なお、屈折率の測定は、新井(1972)に示された浸液法に従って行う。  3.結果  各[試]料の分析結果を表2に示す。3点の試料のうちB区SK264F(試料番号7)には多量の細砂~極細砂径の火山ガラスが含まれる。火山ガラスは、薄手平板状のいわゆるバブル型と気泡の長く伸びたものが集まった繊維束型およびスポンジ状に発泡した軽石型の3形態が混在する。この中では、繊維束型と軽石型が非常に多く、バブル型は少量であった。また、どの形態の火山ガラスもほとんどは無色透明であるが、微量の褐色のものも含まれる。火山ガラスの屈折率は、n1.500~1.505であった。  B区SD278F2(試料番号8)は火山ガラスが微量認められたのみで、SK29(試料番号9)にはスコリア、火山ガラス、軽石のいずれも全く認められない。どちらも黒雲母の細片を多く含み砂分のほとんどは長石や石英粒である。また、SK29(試料番号9)で軽石と指摘されたものは、軽石ではなく、かなり風化の進んだ貝殻片あるいはサンゴのようなものである。  表2 テフラ分析結果   スコリア(量), 軽石(量) 7.  -       - 8.  -       - 9.  -       -   火山ガラス(量), 色調   形態 7. ++++     cl>>br  pm>>br 8. +        cl    pm, br 9.  - ++++:多量 +++ :中量 ++  :小量 +   :微量 ー   :なし cl:無色透明 br:褐色 pm:軽石型 bw:バブル型 w:白色 g:良好 4.考察  B区SK264F(試料番号7)に認められた火山ガラスは、町田ほか(1981)、Arai et.al.(1986)、町田・新井(1992)等の記載から、十和田カルデラ(To-a:町田ほか、1981;町田・新井、1992)に由来すると考えられる。To-a はA.D.915年に十和田カルデラから噴出したテフラで、東北地方一帯で認められている(町田・新井、1992)。B区SK264F(試料番号7)が採取された堆積物は、土坑の覆土中であることと火山ガラスの多さから、降灰時に土坑覆土上に堆積したものが、ある程度の撹乱は受けたにしても、そのまま覆土中に保存されたものと考えられる。したがって、SK264土坑は、To-a 降灰以前に構築された可能性が高い。  B区SD278F2(試料番号8)に認められた火山ガラスは、形態的な特徴からTo-a に由来すると考えられる。しかし、試料の採取された堆積物は、溝の覆土であることとテフラとは由来の異なる砕屑物(黒雲母の細片や石英粒など)が多いことから、To-a の一次降下堆積物ではない。おそらく、降灰後にある時間間隙をもって周囲より取り込まれて溝内に堆積したものと考えられる。ただし、その場合でも、溝はTo-a 降灰以前に構築されてうた[ママ]と考えられる。  試料番号9の採取されたSK29土坑については、テフラが検出されなかったことから、本分析では時期の推定はできない。  III.古植生の推定  IV.リン・カルシウム分析  V.骨の同定  図版1 試料中の砂分の状況および火山ガラス   1.0mm ≒ 30mm (砂分)    30倍   0.5mm ≒ 30mm (火山ガラス) 60倍 ----------------------------------- 山形県埋蔵文化財センター 第50集 塔の腰遺跡 (鶴岡市)大字井岡(いのおか) とうのこし 県埋文センター、平成9年(1997)10月 Y210.0:ヤ:50(天) 本文執筆:水戸弘美 監修:佐藤庄一 資料の理科学[ママ]分析 パリノ・サーヴェイ(株) p.6 2 基本層序  塔の腰遺跡の基本層序は、下記のIからVで示すことができる。 I 2.5Y4/4 オリーブ褐色砂質シルト II 10YR3/3 暗褐色砂質シルト III 5Y6/2 灰オリーブ色シルト(10YR4/6褐色シルト混入)地山1 IV 2.5Y4/2 暗灰黄色粘土質シルト(一部褐色の変化がみられる)地山2 V 2.5Y3/3 暗オリーブ褐色砂 地山3  I層は耕作土・客土、II~V層は安定した堆積層である。遺構の検出面はII層下部である。地山と判断されるIII~V層は、便宜的に各地山1~3と呼び、土層注記の中で記している。土層断面図では、地山1を縦縞、地山2を細砂目、地山3を粗砂目のスクリントーンで示している(第4図)。調査区の概ねは、地山1を掘り込むかたちで遺構が検出されている。粘性の強い地山2は、地山1を約50cm以上掘り込む遺構(SK74・310等)の壁に認められる。調査区中央を、東西に縦走するように砂層の堆積が認められた。河川跡と考えられるが、これを掘り込む遺構が存在することや河川跡覆土に遺物を含まないことから集落形成以前のものと判断される。河川跡覆土とほぼ同質の地山3が調査区の東側で地山1・2の下層や遺構検出面に吹き出した状態で見られる。河川跡が何度も流路を変えながら、粘土~砂層を堆積させて行ったものと推定される。江戸時代に改修された青龍寺川が調査区の東を西流しており、河川跡はその支流と思われる。  遺構の検出面は、標高17.60m~18.20mを測り南東側が小高くなっている。 Y YR p.7 III 検出された遺構  1 平安時代 (略) 明瞭に検出されたのは、SK175・316~318・623土坑と調査区北西半の畝状遺構等である。SK316~318は、調査区北側の、遺構が希薄なところで検出されている。直径約1.5~2.0mの不整形を呈し、SK317・318は深さ約15cmと浅い。SK316は深さ118cmを測り、床面がロート状に落ち込む。深さ20~40cmのところに堆積する覆土4~6層に火山灰が流れ込むように認められ、その下層に黒色砂質シルトが帯状に堆積する。SK175・623は長軸約100cm、短軸約60cmの楕円形を呈する。確認面からの深さはSK175が20cm、SK623が30cmを測る。覆土はともに単層で、今回の調査の中では遺存状態のよい遺物が含まれている。  27~33ー16~23Gに、畝状遺構が確認された。各畝のプランを明確に検出することが難しく、雨上がりにラインとして把握するという状況であった。深さは10~20cmを測り、床面は凸凹がある。SD378・388等の覆土にレンズ状・ブロック状に堆積する火山灰が認められる。火山灰は堆積状況が少量であり一様でないため、流れ込みと判断したい。火山灰同定の自然科学分析の結果は「十和田aテフラに由来する。To-aは、A.D.915年に十和田カルデラで、東北地方一帯で認められている。」となっている。畝の主軸はおおよそN-25°-Wを測る。この傾きが、平安時代の軸線であると理解される。42~45ー23・24Gにも、この軸線と等しい浅い溝が認められ、畝状遺構の広がりが推定される。遺物の出土状況から、平安時代の建物も存在したと考えられるが、今回の調査では確認することができなかった。 p.81 V fまとめ  1 塔の腰遺跡の性格と年代観  平安時代 (略) 出土している遺物は、99%が赤焼土器で、須恵器は1%にも満たない。赤焼土器の特徴として、無台坏に底部が突き出し、体部下半にやや膨らみを持つものが認められた。この特徴を示す土器(第31図13)が、SD378にレンズ状堆積を示す火山灰層と、ほぼ同レベルで斜位に出土している。この火山灰は自然科学分析で十和田aとの結果を得ている。十和田aは現段階では、A.D.915年に十和田カルデラで東北地方一帯で認められるとの説が有力である。第31図13はその時期と変わらない年代観を想定したい。鶴岡市周辺の様相を見ると、この時期の調査はほとんど行われていない。庄内地方北半の飽海郡では、浮橋遺跡・小深田遺跡・下長橋遺跡等の調査成果があるが、様相を異にする。平成5~7年度に調査された鶴岡市西谷地遺跡では、8世紀代中葉・9世紀後半の良好な資料が出土している。(略) 付編 塔の腰遺跡 自然科学分析 パリノ・サーヴェイ(株) 分析方法 (略、後田遺跡に同じ) 火山ガラスの屈折率は、n1.499~1.504 4.考察 (略) 試料番号1が採取されたレンズ状堆積物は、土坑の覆土中であることと火山ガラスの多さから、降灰時に土坑覆土上に堆積したものが、ある程度の撹乱は受けたにしても、そのまま覆土中に保存されたものと考えられる。したがって、SK316土坑は、To-a 降灰以前に構築された可能性が高い。  試料番号2および3の採取された堆積物は、溝の覆土であることとテフラとは由来の異なる砕屑物(黒雲母の細片や石英粒など)が比較的多く含まれることから、To-a の一次降下堆積物である可能性は低い。おそらく、降灰後にある時間間隙をもって周囲より取り込まれて溝内に堆積したものと考えられる。ただし、その場合でも、溝は To-a 降灰以前に構築されていた可能性が高い。  以上のことより、本遺跡では To-a 降灰以前すなわち10世紀初頭よりも古いと考えられる遺構が存在する可能性がある。このことは、これまで遺物から推定されてきた年代よりも200年以上遡ることになる。今後、周辺の遺跡の年代ともあわせて検討する必要があろう。 ----------------------------------- 2014.12.6 公開 目くそ鼻くそ、しだひろし/PoorBook G3'99 転載・印刷・翻訳は自由です。 カウンタ:&counter() ---- #comment

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