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*M-Tea*7_1-進化遺伝の科学(一)石川千代松 *2014.7.26 第七巻 第一号 進化遺伝の科学(一) 石川千代松  第一章 進化論小史 &image(http://www.dlmarket.jp/images/uploader/620/7_1-1.png,http://www.dlmarket.jp/products/detail/284704) [[【週刊ミルクティー*第七巻 第一号 ダウンロードサイトへジャンプ】>http://www.dlmarket.jp/products/detail/284704]] (3.0MB) &color(red){月末最終号:無料} p.171 / *99 出版 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 ※ PDF 形式、六インチ判。Mac OS X 10.4・Acorbat Reader 5.0、Windows 7・Adobe Reader X および SONY Reader(PRS-T2)にて確認済み。 ※ この作品は青空文庫にて入力中です。著作権保護期間を経過したパブリック・ドメイン作品につき、転載・印刷・翻訳などの二次利用は自由です。 (c) Copyright this work is public domain, 2014. *パブリックドメインマガジン 週刊ミミクリー*  進化論の歴史で、われわれ日本人がことに知らなくてならぬことは、明治十年(一八七七)に来朝せられた米国の学者エドワード・S・モース先生であります。この先生が来られる前には、本邦では進化論ということは少しも知れていなかったのであります。それは当時、開成学校あたりにおられた外国の教師たちは多くは宣教師であられたので、進化論というようなことは知っておられてもそれを悪魔のように思っておられ、それを口にするのでも悪いことでもいうように思っておられた。わたしどもが明治九年に開成学校へ入りましたとき、マッカーテーという先生がおられて人身生理学という講義をせられましたが、学年の終わりにわたしどもに向かい、近ごろ英国にダーウィンという人がいて、人間はサルから変わってきたものであるというような説を出したが、それは取るにたらない愚説であるから、おまえたちは万一そのようなことを書いた書物を見ても読んではならない、またそのような説を話すものがあっても聴いてはならないといわれたことをわたしは覚えています。ところが、この先生がさようなことを言うてわれわれを戒めてくださってからすぐにモース先生が来られて、さかんに進化論を唱えられたのであります。  当時はマッカーテー先生ばかりでなく、すべての宣教師は進化論を非常に悪い説であると思い、モース先生を目の敵のように思い、大いに反抗したものであります。  けれども、これら無学の宣教師たちは無論、先生には勝つことができなかったものであります。もっとも先生は、大学では動物学を教えておられたが、東京市じゅうの芝居小屋であるとか、その他いろいろのところでその講演を開かれたものでありますが、先生の講演は非常におもしろいので、暫時のあいだにダーウィンの名も進化論も、知識的階級の人にさかんに歓迎せられるようになったものであります。 ※ #ref(6_52.rm) (朗読:RealMedia 形式 xxxKB、x:xx) ※ お休みしまーす。 石川千代松 いしかわ ちよまつ 1860-1935(万延元.6.6-昭和10.1.17) 動物学者。東京の人。ドイツに留学して、日本にワイスマン流の進化論を紹介。東大教授。魚類学・細胞学を研究。/動物学者。東京開成学校予科を経て、東京大学理学部動物学科卒業(1882)。同大学助教授となり(1883)、1886~1889年ドイツに留学し、フライブルク大学で A. Weismann に師事し、無脊椎動物の生殖・発生などを研究。帝国大学理科大学助教授を経て、同農科大学(のち東京帝国大学農学部)教授(1890~1924)。夜光虫・オオサンショウウオ・クジラなどの生殖・発生および細胞学的研究をなし、ホタルイカの発光、アユの養殖など多方面の研究がある。(生) ◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『岩波生物学辞典 第五版』(岩波書店、2013.2)、Wikipedia 日本語・オフライン版(『iP!』2009.4月号、晋遊舎)。 *底本 底本:『最新科學圖鑑(5)・進化遺傳の科學』アルス    1933(昭和8)年6月16日発行 http://www.aozora.gr.jp/index_pages/list_inp1478_1.html NDC 分類:460, 467(生物科学.一般生物学 / 遺伝学) http://yozora.kazumi386.org/4/6/ndc460.html http://yozora.kazumi386.org/4/6/ndc467.html *難字、求めよ *年表 一二〇〇年後 ドイツの皇帝フリードリッヒ、アリストテレスの著書の翻訳を命じる。 一五〇〇年のはじめころ ゲスナー、アルドロバンデーら、動物のことを多く書く。 一七世紀末 レディ、ジョン・レー。 一八世紀 カール・リンネ『システマ・ナチュリィ』を著わして、はじめて動植物を分類。 一七五九 カスペル・フリードリヒ・ヴォルフ、ニワトリの発生を研究して学士論文を書く。 一八〇九 ラマルク、主著を出す(『動物哲学』か)。ダーウィン生まれる。オーケン〔オイケンか〕『自然哲学』。 一八三〇 チャールズ・ライエル、地層というものは最も古いものから最も新しいものに至るまで、少しも間断したことのないものであるということを証明。 一八五八 アルフレッド・ラッセル・ウォレス、淘汰説をダーウィンへ書き送る。 一八五九 ダーウィン『種原論〔種の起源〕』出る。 一八七六(明治九) 石川、開成学校へ入る。マッカーテー、人身生理学を講義。 一八七七(明治一〇) 米国のエドワード・S・モース、来朝。 一八八三(明治一六) 石川『動物進化論』出版。邦語の進化論書では最初のもの。 *むしとりホイホイ 啄《ついば》むに來《く》る → ついばみに来る 【み?】 以上1件、底本は左辺のとおり。 *スリーパーズ日記* 書きかえメモ。 第十八世紀 → 十八世紀 遺《のこ》 → 残 ムタチヨン/ムタチョン → ミューテーション アリストトルス → アリストテレス レウエンホック → レーウェンフック スワムメルダム → スワンメルダム ラマーク → ラマルク チャーレス → チャールズ ワレス → ウォレス リンナ → リンネ ゲスネル → ゲスナー ハーベー → ハーヴェー ブッフォン → ビュフォン フリィドリウヒ → フリードリヒ 「おそらく、信長は法華宗を庇護していた」  前回、そう書いてはみたものの自信がない。 Wikipedia「織田信長」「宗教政策」より。 「宗門は法華宗を公称していたが、一向一揆や延暦寺に対する政策や、安土城の石垣に地蔵仏や墓石を用いたこと、ルイス・フロイスの記載などから唯物論的思考法を身に付け、当時の僧侶についてはその横暴を非難し、キリスト教の宣教師を誉め、神仏の存在や霊魂の不滅を信じることはなかったとも言われている。ただし、織田信長が仏教勢力に対して厳しい姿勢で臨んだとする史料のほとんどは、仏教勢力と対立関係にあったイエズス会のものであることに注意する必要がある。さらに、信長が一向一揆を滅ぼそうとしたとする史観は、江戸時代に本願寺教団によって流布されたものであるとの研究もある。/また一方では安土城天主内の天井、壁画に仏教、道教、儒教を題材とした絵画を使用したり、浄土真宗や延暦寺の宗教活動自体は禁止しなかった。」 Wikipedia「本能寺」より。 「本能寺は、早くから種子島に布教していたことから、鉄砲・火薬の入手につき戦国大名との関係が深かった。織田信長は日承に帰依してこの寺を上洛中の宿所としていた」。 Wikipedia「本能寺の変」より。 「信長が帰依していたとする阿弥陀寺(上立売大宮)縁起によれば、住職清玉が裏の生垣から割入って密かに運び出し、荼毘に付したとされる。この縁で阿弥陀寺(上京区鶴山町に移転)には、「織田信長公本廟」が現存する。しかし本能寺には堀と土居があり、この説は疑問である」。 メモ。 Wikipediaに「日承」に関する記載はない。 織田信長父子の墓所「阿弥陀寺」は浄土宗。(広辞苑)  自信がなくなった大きな理由は、「安土宗論」のことを思い出したから。 『広辞苑』「安土宗論」より。 「1579年(天正7)安土城下の浄厳院で織田信長の命により行われた浄土・日蓮両宗の論争。浄土宗の勝ちとされたが、それは信長の日蓮宗弾圧のためといわれる。安土法論」。  安土宗論に関しては、Wikipedia「安土宗論」にもくわしくまとめてあるし、たしか、松岡正剛「千夜千冊」でも記述してある回があったはず。 2014.7.26 公開 目くそ鼻くそ、しだひろし/PoorBook G3'99 転載・印刷・翻訳は自由です。 カウンタ:&counter() ---- #comment

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