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*MT*2_15-能久親王事跡(五)森 林太郎 *2012.3.15 第二巻 第一五号 能久親王事跡(五) 第五回 明治二十八年(一八九五)六月五日〜八月二十八日 森 林太郎 &image(http://www.dlmarket.jp/images/uploader/620/2_15-1.png,http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/188120)   [[【週刊ミルクティー*第二巻 第一五号】>http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/188120]] (http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/188120) ※ クリックするとダウンロードサイトへジャンプします。 (752KB) &color(red){定価:200円} p.114 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(38項目)p.94 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 (略)〔明治二十八年(一八九五)八月〕二十六日、朝、師団命令もて、第四連隊第一、第二中隊、砲兵中隊を左縦隊に加えらる。左縦隊は午前二時、戦を始め、大隊長、摺沢静夫がひきいたる部隊とともに、四時三十分、敵の拠れりし一家屋を爆破し、六時さらにまた二家屋を爆破しつ。午後一時、第四連隊の敵の左側背に出づるにおよびて、共に敵を撃破し、四時台中に入り、ついで烏日庄付近に進みぬ。東大�をば後�より進みたる坊城大隊、守備す。宮はこの日、午前六時、牛馬頭を発せさせ給い、九時三十分、大肚街なる学林に着かせ給う。十一時、宮、�仔頭付近に出でさせ給い、大肚渓の岸なる歩哨線を観させ給う。このあたりの地、落花生を栽えたる畑多し。当時、衛兵たりし新海竹太郎は、後、宮の騎馬銅像の原型を作りしとき、宮の落花生の畑を騎行せさせ給う状に擬しつ。午時、宮、紐もて領に懸けさせ給える望遠鏡をあげて、敵陣を望みつつ、幕僚と語らせ給うとき、敵の発せし七サンチメートルの榴弾、宮の頭上五メートルばかりの所を飛びすぎて、宮の背後二十メートルの地におちぬ。幸いにして弾は破裂せざりしかど、土砂はほとばしりて宮の袴に濺ぎぬ。されど宮は意に介せさせ給わず、従容として眼鏡を放たせ給い、幕僚をかえりみて、敵の兵数を語りつづけさせ給いぬ。幕僚、危害の宮の御身におよばんことを恐れ、宮を勧めまつりて後方三十メートルの凹地に退きぬ。午後一時、帰路につかせ給いて、ふたたび大肚街なる学林に入らせ給いぬ。   #ref(2_15.rm) (朗読:RealMedia 形式 436KB、3'33'') [[milk_tea_2_15.html>http://www33.atwiki.jp/asterisk99?cmd=upload&act=open&pageid=335&file=milk_tea_2_15.html]] (html ソーステキスト版 140KB) 森 林太郎 もり りんたろう 1862-1922(文久2.1.19-大正11.7.9) 森鴎外。作家。名は林太郎。別号、観潮楼主人など。石見(島根県)津和野生れ。東大医科出身。軍医となり、ヨーロッパ留学。陸軍軍医総監・帝室博物館長。文芸に造詣深く、「しからみ草紙」を創刊。傍ら西欧文学の紹介・翻訳、創作・批評を行い、明治文壇の重鎮。主な作品は「舞姫」「雁」「阿部一族」「渋江抽斎」「高瀬舟」、翻訳は「於母影」「即興詩人」「ファウスト」など。 ◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。 *底本 底本:『鴎外全集 第三巻』岩波書店    1972(昭和47)年1月22日発行 初出:『能久親王事蹟』東京偕行社内棠陰會編纂、春陽堂    編集兼発行人代表者 森林太郎    1908(明治41)6月29日刊行 NDC 分類:288(伝記/系譜.家史.皇室) http://yozora.kazumi386.org/2/8/ndc288.html *難字、求めよ。 水返脚 基隆寺 暖暖街 七肚 錫口 江頭 洩底 三貂大嶺 大※[#「山/科」]※[#「山/坎」] 大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]川 桃仔園 大姑陥 大湖口 だいこ〓 海山口 かいざん〓 鳳山渓 ほうざん〓 新車 楊梅 崩坡 頭亭渓 察加 龍潭坡 斉頭 三角涌 二甲九庄 打類坑 中櫪 銅羅騫 一に銅羅圏。 牛欄河 亀崙 横渓口 土城村 鹹菜硼村 九�林河 水尾 管府坑 水仙嶺 枕頭山 鶏卵面 香山庄 南勢山 尖筆山 埔仔港 頭㌃ 後� 乱亀山 塩仔頭 新港 苗栗河 びょうりつ〓 打揶叭頭湖庄 銅羅湾 樟樹林正 三叉河 房裡 胡盧� ころ〓 某蕃社 潭子 たんし/タンヅー〓 牛馬頭 東大� 台中。 大肚街 だいと〓 頭家 一に頭家膺。 学林 �仔頭 べんし? 八卦山 嘉義街道 鹿港 茄苳脚 員林街 いんりん/ユェンリン〓 斗六門 万国号 河野浦号 英船某号 混参金 〓 シナ人。 坊城俊延 ぼうじょう 〓 騎兵第二小隊長少尉。 蘇樹林 〓 水返脚。村長。家が宿営となる。 余清勝 〓 清国の将校。 呉光亮 高野盛三郎 〓 宮の家従。 楫取道明 かとり? 高屋宗繁 西郷隆凖 さいごう? 式部官。 中村純九郎 なかむら? 参事官心得。 潘良 〓 敵将。渋谷支隊により頭亭渓で殺害。 胡嘉猷 〓 銅羅騫。 恩地轍 おんち 〓 東京地方裁判所検事で、のち宮内省式部職。四男は装幀家の孝四郎。 李惟義 〓 黒旗新楚軍。 黎景順 〓 敵将。 頼望雲 〓 統領。鹿港。 千田貞幹 せんだ? 千田貞暁(せんだ さだあき)か。/第一連隊第二大隊、隊長。 吉米 キロメートル? �いて 阻げられ さまたげられ? 逓騎哨 ていきしょう? *スリーパーズ日記*  二年半か。時間がかかってしまった……。ようやく人に見てもらえるくらいまで形を整えることができました。  登場人物も台湾の地名もまったくお手上げ。内容理解は二割に満たないと思う。  たしか七、八年ほど前に、幕末の出羽三山のことを知りたいと思って『山形県史』や『羽黒町史』などに目をとおしていたとき、羽黒山最後の別当である官田(かんでん)という人物に行き当たりました。  官田。現、山形県西村山郡船町出身。山寺立石寺で得度、東叡寺で修行、福聚院住職となる。累進して東叡山内陣係にあげられ、公現法親王(のちの北白川宮能久親王)の養育にあたる。(『庄内人名事典』より)  つまり、東叡山寛永寺の主たる輪王寺宮になったばかりの能久親王、そのお世話にあたったのが出羽国出身の官田。その後、官田は羽黒山最後の別当をつとめる。かたや能久親王は、徳川慶喜の助命嘆願役を請われ、薩長軍と彰義隊の上野戦争を脱出、奥羽越列藩同盟の盟主として奉られて、日光、会津、白石、仙台へとおもむくことになる。  関東から奥羽へ。維新倒幕と廃仏毀釈・神仏分離。    芭蕉と曾良の奥の細道をなぞるように進む西郷吉之介・黒田清隆ら薩長新政府軍が対立したのは、旧幕臣や佐幕諸藩であったと同時に、上野寛永寺や日光輪王寺や仙台仙岳院といった徳川・天台ネットワークであったとも見てとれる。   2012.3.15:公開 玲瓏迷人。 目くそ鼻くそ。しだひろし/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ:&counter() ---- #comment
*MT*2_15-能久親王事跡(五)森 林太郎 *2012.3.15 第二巻 第一五号 能久親王事跡(五) 第五回 明治二十八年(一八九五)六月五日〜八月二十八日 森 林太郎 &image(http://www.dlmarket.jp/images/uploader/620/2_15-1.png,http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/188120)   [[【週刊ミルクティー*第二巻 第一五号】>http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/188120]] (http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/188120) ※ クリックするとダウンロードサイトへジャンプします。 (752KB) &color(red){定価:200円} p.114 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(38項目)p.94 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 (略)〔明治二十八年(一八九五)八月〕二十六日、朝、師団命令もて、第四連隊第一、第二中隊、砲兵中隊を左縦隊に加えらる。左縦隊は午前二時、戦を始め、大隊長、&link_wikipedia(摺沢静夫){摺沢静夫}がひきいたる部隊とともに、四時三十分、敵の拠れりし一家屋を爆破し、六時さらにまた二家屋を爆破しつ。午後一時、第四連隊の敵の左側背に出づるにおよびて、共に敵を撃破し、四時台中に入り、ついで&link_wikipedia(烏日庄){烏日庄}付近に進みぬ。東大?をば後?より進みたる坊城大隊、守備す。宮はこの日、午前六時、&link_wikipedia(牛馬頭){牛馬頭}を発せさせ給い、九時三十分、&link_wikipedia(大肚街){大肚街}なる&link_wikipedia(学林){学林}に着かせ給う。十一時、宮、?仔頭付近に出でさせ給い、&link_wikipedia(大肚渓){大肚渓}の岸なる歩哨線を観させ給う。このあたりの地、落花生を栽えたる畑多し。当時、衛兵たりし&link_wikipedia(新海竹太郎){新海竹太郎}は、後、宮の騎馬銅像の原型を作りしとき、宮の落花生の畑を騎行せさせ給う状に擬しつ。午時、宮、紐もて領に懸けさせ給える望遠鏡をあげて、敵陣を望みつつ、幕僚と語らせ給うとき、敵の発せし七サンチメートルの榴弾、宮の頭上五メートルばかりの所を飛びすぎて、宮の背後二十メートルの地におちぬ。幸いにして弾は破裂せざりしかど、土砂はほとばしりて宮の袴に濺ぎぬ。されど宮は意に介せさせ給わず、従容として眼鏡を放たせ給い、幕僚をかえりみて、敵の兵数を語りつづけさせ給いぬ。幕僚、危害の宮の御身におよばんことを恐れ、宮を勧めまつりて後方三十メートルの凹地に退きぬ。午後一時、帰路につかせ給いて、ふたたび大肚街なる学林に入らせ給いぬ。   #ref(2_15.rm) (朗読:RealMedia 形式 436KB、3'33'') [[milk_tea_2_15.html>http://www33.atwiki.jp/asterisk99?cmd=upload&act=open&pageid=335&file=milk_tea_2_15.html]] (html ソーステキスト版 140KB) 森 林太郎 もり りんたろう 1862-1922(文久2.1.19-大正11.7.9) 森鴎外。作家。名は林太郎。別号、観潮楼主人など。石見(島根県)&link_wikipedia(津和野){津和野}生れ。東大医科出身。軍医となり、ヨーロッパ留学。陸軍軍医総監・帝室博物館長。文芸に造詣深く、「&link_wikipedia(しからみ草紙){しからみ草紙}」を創刊。傍ら西欧文学の紹介・翻訳、創作・批評を行い、明治文壇の重鎮。主な作品は「舞姫」「雁」「阿部一族」「渋江抽斎」「高瀬舟」、翻訳は「於母影」「即興詩人」「ファウスト」など。 ◇参照:Wikipedia &link_wikipedia(森鴎外){森 林太郎}、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。 *底本 底本:『鴎外全集 第三巻』岩波書店    1972(昭和47)年1月22日発行 初出:『能久親王事蹟』東京偕行社内棠陰會編纂、春陽堂    編集兼発行人代表者 森林太郎    1908(明治41)6月29日刊行 NDC 分類:288(伝記/系譜.家史.皇室) http://yozora.kazumi386.org/2/8/ndc288.html *難字、求めよ。 水返脚 基隆寺 暖暖街 七肚 錫口 江頭 洩底 三貂大嶺 大※[#「山/科」]※[#「山/坎」] 大※[#「山/科」]※[#「山/坎」]川 桃仔園 大姑陥 大湖口 だいこ〓 海山口 かいざん〓 鳳山渓 ほうざん〓 新車 楊梅 崩坡 頭亭渓 察加 龍潭坡 斉頭 三角涌 二甲九庄 打類坑 中櫪 銅羅騫 一に銅羅圏。 牛欄河 亀崙 横渓口 土城村 鹹菜硼村 九?林河 水尾 管府坑 水仙嶺 枕頭山 鶏卵面 香山庄 南勢山 尖筆山 埔仔港 頭㌃ 後? 乱亀山 塩仔頭 新港 苗栗河 びょうりつ〓 打揶叭頭湖庄 銅羅湾 樟樹林正 三叉河 房裡 胡盧? ころ〓 某蕃社 潭子 たんし/タンヅー〓 牛馬頭 東大? 台中。 大肚街 だいと〓 頭家 一に頭家膺。 学林 ?仔頭 べんし? 八卦山 嘉義街道 鹿港 茄苳脚 員林街 いんりん/ユェンリン〓 斗六門 万国号 河野浦号 英船某号 混参金 〓 シナ人。 坊城俊延 ぼうじょう 〓 騎兵第二小隊長少尉。 蘇樹林 〓 水返脚。村長。家が宿営となる。 余清勝 〓 清国の将校。 呉光亮 高野盛三郎 〓 宮の家従。 楫取道明 かとり? 高屋宗繁 西郷隆凖 さいごう? 式部官。 中村純九郎 なかむら? 参事官心得。 潘良 〓 敵将。渋谷支隊により頭亭渓で殺害。 胡嘉猷 〓 銅羅騫。 &link_wikipedia(恩地轍){恩地轍} おんち 〓 東京地方裁判所検事で、のち宮内省式部職。四男は装幀家の&link_wikipedia(恩地孝四郎){孝四郎}。 李惟義 〓 黒旗新楚軍。 黎景順 〓 敵将。 頼望雲 〓 統領。鹿港。 千田貞幹 せんだ? &link_wikipedia(千田貞暁){千田貞暁}(せんだ さだあき)か。/第一連隊第二大隊、隊長。 吉米 キロメートル? ?いて 阻げられ さまたげられ? 逓騎哨 ていきしょう? *スリーパーズ日記*  二年半か。時間がかかってしまった……。ようやく人に見てもらえるくらいまで形を整えることができました。  登場人物も台湾の地名もまったくお手上げ。内容理解は二割に満たないと思う。  たしか七、八年ほど前、幕末の&link_wikipedia(出羽三山){出羽三山}のことを知りたいと思って『山形県史』や『羽黒町史』などに目をとおしていたとき、&link_wikipedia(官田){官田}(かんでん)という人物に行き当たりました。  官田。現、山形県西村山郡船町出身。山寺&link_wikipedia(立石寺){立石寺}で得度、東叡寺で修行、福聚院住職となる。累進して&link_wikipedia(東叡山){東叡山}内陣係にあげられ、公現法親王(のちの&link_wikipedia(北白川宮能久親王){北白川宮能久親王})の養育にあたる。(『庄内人名事典』より)  つまり、東叡山寛永寺の主たる&link_wikipedia(輪王寺宮){輪王寺宮}になったばかりの能久親王、そのお世話にあたったのが出羽国出身の官田。その後、官田は&link_wikipedia(羽黒山){羽黒山}最後の別当をつとめる。かたや能久親王は、&link_wikipedia(徳川慶喜){徳川慶喜}の助命嘆願役を請われ、薩長軍と&link_wikipedia(彰義隊){彰義隊}の&link_wikipedia(上野戦争){上野戦争}を脱出、&link_wikipedia(奥羽越列藩同盟){奥羽越列藩同盟}の盟主として奉られて、日光、会津、白石、仙台へとおもむくことになる。  関東から奥羽へ。維新倒幕と&link_wikipedia(廃仏毀釈){廃仏毀釈}・&link_wikipedia(神仏分離){神仏分離}。    芭蕉と曾良の&link_wikipedia(奥の細道){奥の細道}をなぞるように進む西郷吉之介・黒田清隆ら薩長新政府軍が対立したのは、上野寛永寺や日光輪王寺や仙台仙岳院といった徳川・天台ネットワークであったとも見てとれる。   2012.3.15:公開 玲瓏迷人。 2012.3.15:更新 目くそ鼻くそ。しだひろし/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ:&counter() ---- #comment

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