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*M-Tea*3_21-光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分 四 徳永 直 *2010.12.18 第三巻 第二一号 光をかかぐる人々[続] 『世界文化』連載分(四) 徳永 直     &image(http://www.dlmarket.jp/images/uploader/620/3_21-1.png,http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/108752)   [[【週刊ミルクティー*第三巻 第二一号】>http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/108752]] (http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/108752) ※ クリックするとダウンロードサイトへジャンプします。 (636KB) &color(red){定価:200円} p.140 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(42項目)p.291 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 ※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。 ※ JIS X 0213・ttz 形式。 ※ この作品は 徳永直『光をかかぐる人々』入力中(http://d.hatena.ne.jp/HikariwokakaguruHitobito/)(uakira)にて公開中です。転載・印刷・翻訳は自由です。 (c) Copyright is public domain. *飛び出せ! 週刊ミルクティー*  アジアには十六世紀を前後して銅活字の時代があり、朝鮮でも日本でもおこなわれている。秀吉の朝鮮侵略のみやげものに端を発している家康・家光時代の銅活字印刷があるけれど、それにくらべると、このさし絵に見る康熙帝の印刷局ははるかに大規模で組織的であることがわかる。しかし、日本でも『お湯殿日記』に見るような最初の文選工は「お公卿たち」であったが、支那でもあごひげの長い官人たちであった。明治になって印刷術が近代化されてからでも、印刷工業をおこした人々の多くが、武家など文字になじみのある階級だったように、私の徒弟だったころの先輩の印刷工の多くが、やはり士族くずれだったことを思い出す。(略)  武英殿の銅活字は康熙帝の孫、高宗〔乾隆帝〕の代になるとつぶされて銅貨となった。日本でも家康時代の銅活字は同じ運命をたどっているけれど、支那のばあいは銅貨の不足が原因といわれている。しかし、もっと大きな原因は金属活字にあって、漢字組織ができないならば、またプレス式の印刷機もないとするならば、むしろ手わざの発達による木版の方が容易であり便利であった。ボディが銅であれ鉛であれ、それが彫刻に過ぎないならば、むしろ木版にしくはない。銅活字がほろびて再び木版術が栄え、極彩色の芸術的な印刷物もできるようになった。康熙・乾隆の時代に見られるこの傾向は、十七世紀の終わりから十八世紀のなかほどまでであるが、江戸中期から木版術が再興し、世界にたぐいない木版印刷術を生み出した日本と時間的にもほぼ一致している——ということも、漢字が持つ共通の宿命がするわざであったろう。      康熙帝 こうきてい 1654-1722 清の第4代皇帝。 お湯殿日記 おゆどの にっき 御湯殿の上の日記。清涼殿内の御湯殿の上に侍した女官の日記。 武英殿 ぶえいでん 北京の紫禁城の南西隅にある宮殿。清の乾隆(1736〜1796)年間ここに設けられた刻書処から出版された書籍は殿版と呼ばれ、木活字を用いて印刷された。 乾隆帝 けんりゅうてい 1711-1799 清朝第6代の皇帝高宗。 #ref(3_21.rm) (朗読:RealMedia 形式 432KB、3'31'') 徳永 直 とくなが すなお 1899-1958(明治32.1.20-昭和33.2.15) 熊本県飽託郡(現熊本市)生まれ。1922年上京、博文館印刷所(後の共同印刷所)に植字工として勤務。1925年に「無産者の恋」「馬」などを発表。翌年共同印刷争議に敗れ、同僚1700人とともに解雇。1929年この時の体験を基にした長編「太陽のない街」を『戦旗』に連載。『新日本文学』に長編「一つの歴史」を完結させないまま世田谷の自宅で病没。享年59。 ◇参照:Wikipedia &link_wikipedia(徳永直){徳永直}、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。 *底本 底本:『世界文化』2月号 第4巻第2号、世界文化社    1949(昭和24)年2月1日発行 http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1308.html NDC 分類:022(図書.書誌学/写本.刊本.造本) http://yozora.kazumi386.org/0/2/ndc022.html NDC 分類:210(日本史) http://yozora.kazumi386.org/2/1/ndc210.html NDC 分類:914(日本文学/評論.エッセイ.随筆) http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc914.html *難字、求めよ イラ・トラシー ?-? アメリカ人宣教師。著「アヘン速改文」「シンガポール栽種会社告訴中国倣産之人」「支那語学習法論」。 作?安字印刷法 ステッキ植字法 撫院 省撫院 梁亜発 支那人。 *むしとりホイホイ 製肉室 → 製版室 【版か。】 文選工はよつて → 文選工によつて 【に、か。】 底本は左辺のとおり。 *スリーパーズ日記    二三日(木)小雨。天童教会創立130周年記念クリスマスコンサート・陣内大蔵「いと小さき君の為に」。   「ここの天童という町の名は日本には珍しい字で、なにか聖母様に関係があるのかとも思ったが、Fに何もきかずにうとうとして新庄まで行った」……片山広子「東北の家」より(『[[MT*2_53-二人の女歌人/東北の家 片山広子]]』所収)。  聖母やエンジェル、とはたぶん関係ないかなと思う。んが、「いちばん星」の佐藤千夜子は幼い頃、当地の教会へかよっていたという。米沢や山形、寒河江などには、江戸初期、キリシタンがしのんだといわれる土地が点々とある。  櫛引町(現、庄内町)清川の八郎記念館へ訪れたとき、「八郎が使っていた紙やすずりや筆はどこの産地のものだろうか」と聞いてみたことがある。「生家は裕福だったので、京下りの良いものを選んで使っていただろう」との答えがあった。羽黒山の戸川安章氏は「昭和初期まで村山地方から陸運・舟運された和紙を用いていた」と書き記している。どうやら、庄内地方に紙漉きの里はなかったものらしい。  天童の若松寺(若松観音さま)からは、西に村山盆地と最上川をはさんで月山と葉山が遠望できる。葉山のふもとが寒河江慈恩寺。1182年(養和2)慈恩寺で書写された一切経の一部が宮城県名取市の熊野神宮寺に伝わっている。この寺の周辺、寒河江川の支流をさかのぼったところには、いくつかの紙漉きの里がある。  前日の月蝕はおぼろ月。冬至。夜来、風雨のこえ。近くに雪おこしの雷。楮を刈り取る季節。    2010.12.25:公開 目くそ、鼻くそ。PoorBook G3'99 転載・印刷・翻訳は自由です。 カウンタ:&counter() ---- - 蛇のように賢く、鳩のように素直に。 -- しだ (2010-12-25 03:03:31) #comment
*M-Tea*3_21-光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分 四 徳永 直 *2010.12.18 第三巻 第二一号 光をかかぐる人々[続] 『世界文化』連載分(四) 徳永 直     &image(http://www.dlmarket.jp/images/uploader/620/3_21-1.png,http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/108752)   [[【週刊ミルクティー*第三巻 第二一号】>http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/108752]] (http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/108752) ※ クリックするとダウンロードサイトへジャンプします。 (636KB) &color(red){定価:200円} p.140 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(42項目)p.291 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 ※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。 ※ JIS X 0213・ttz 形式。 ※ この作品は 徳永直『光をかかぐる人々』入力中(http://d.hatena.ne.jp/HikariwokakaguruHitobito/)(uakira)にて公開中です。転載・印刷・翻訳は自由です。 (c) Copyright is public domain. *飛び出せ! 週刊ミルクティー*  アジアには十六世紀を前後して銅活字の時代があり、朝鮮でも日本でもおこなわれている。秀吉の朝鮮侵略のみやげものに端を発している家康・家光時代の銅活字印刷があるけれど、それにくらべると、このさし絵に見る康熙帝の印刷局ははるかに大規模で組織的であることがわかる。しかし、日本でも『お湯殿日記』に見るような最初の文選工は「お公卿たち」であったが、支那でもあごひげの長い官人たちであった。明治になって印刷術が近代化されてからでも、印刷工業をおこした人々の多くが、武家など文字になじみのある階級だったように、私の徒弟だったころの先輩の印刷工の多くが、やはり士族くずれだったことを思い出す。(略)  武英殿の銅活字は康熙帝の孫、高宗〔乾隆帝〕の代になるとつぶされて銅貨となった。日本でも家康時代の銅活字は同じ運命をたどっているけれど、支那のばあいは銅貨の不足が原因といわれている。しかし、もっと大きな原因は金属活字にあって、漢字組織ができないならば、またプレス式の印刷機もないとするならば、むしろ手わざの発達による木版の方が容易であり便利であった。ボディが銅であれ鉛であれ、それが彫刻に過ぎないならば、むしろ木版にしくはない。銅活字がほろびて再び木版術が栄え、極彩色の芸術的な印刷物もできるようになった。康熙・乾隆の時代に見られるこの傾向は、十七世紀の終わりから十八世紀のなかほどまでであるが、江戸中期から木版術が再興し、世界にたぐいない木版印刷術を生み出した日本と時間的にもほぼ一致している——ということも、漢字が持つ共通の宿命がするわざであったろう。      &link_wikipedia(康熙帝){康熙帝} こうきてい 1654-1722 清の第4代皇帝。 お湯殿日記 おゆどの にっき &link_wikipedia(御湯殿の上の日記){御湯殿の上の日記}。清涼殿内の御湯殿の上に侍した女官の日記。 &link_wikipedia(武英殿){武英殿} ぶえいでん 北京の紫禁城の南西隅にある宮殿。清の乾隆(1736〜1796)年間ここに設けられた刻書処から出版された書籍は殿版と呼ばれ、木活字を用いて印刷された。 &link_wikipedia(乾隆帝){乾隆帝} けんりゅうてい 1711-1799 清朝第6代の皇帝高宗。 #ref(3_21.rm) (朗読:RealMedia 形式 432KB、3'31'') 徳永 直 とくなが すなお 1899-1958(明治32.1.20-昭和33.2.15) 熊本県飽託郡(現熊本市)生まれ。1922年上京、博文館印刷所(後の共同印刷所)に植字工として勤務。1925年に「無産者の恋」「馬」などを発表。翌年共同印刷争議に敗れ、同僚1700人とともに解雇。1929年この時の体験を基にした長編「太陽のない街」を『戦旗』に連載。『新日本文学』に長編「一つの歴史」を完結させないまま世田谷の自宅で病没。享年59。 ◇参照:Wikipedia &link_wikipedia(徳永直){徳永直}、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。 *底本 底本:『世界文化』2月号 第4巻第2号、世界文化社    1949(昭和24)年2月1日発行 http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1308.html NDC 分類:022(図書.書誌学/写本.刊本.造本) http://yozora.kazumi386.org/0/2/ndc022.html NDC 分類:210(日本史) http://yozora.kazumi386.org/2/1/ndc210.html NDC 分類:914(日本文学/評論.エッセイ.随筆) http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc914.html *難字、求めよ イラ・トラシー ?-? アメリカ人宣教師。著「アヘン速改文」「シンガポール栽種会社告訴中国倣産之人」「支那語学習法論」。 作?安字印刷法 ステッキ植字法 撫院 省撫院 梁亜発 支那人。 *むしとりホイホイ 製肉室 → 製版室 【版か。】 文撰工はよつて → 文選工によつて 【に、か。】 底本は左辺のとおり。 *スリーパーズ日記    二三日(木)小雨。天童教会創立130周年記念クリスマスコンサート・陣内大蔵「いと小さき君の為に」。   「ここの天童という町の名は日本には珍しい字で、なにか聖母様に関係があるのかとも思ったが、Fに何もきかずにうとうとして新庄まで行った」……片山広子「東北の家」より(『[[MT*2_53-二人の女歌人/東北の家 片山広子]]』所収)。  聖母やエンジェル、とはたぶん関係ないかなと思う。んが、「いちばん星」の佐藤千夜子は幼い頃、当地の教会へかよっていたという。米沢や山形、寒河江などには、江戸初期、キリシタンがしのんだといわれる土地が点々とある。  立川町(現、庄内町)清川の八郎記念館へ訪れたとき、「八郎が使っていた紙やすずりや筆はどこの産地のものだろうか」と聞いてみたことがある。「生家は裕福だったので、京下りの良いものを選んで使っていただろう」との答えがあった。羽黒山の戸川安章氏は「昭和初期まで村山地方から陸運・舟運された和紙を用いていた」と書き記している。どうやら、庄内地方に紙漉きの里はなかったものらしい。  天童の若松寺(若松観音様)からは、西に村山盆地と最上川をはさんで月山と葉山が遠望できる。葉山のふもとが寒河江慈恩寺になる。1182年(養和2)慈恩寺で書写された一切経の一部が宮城県名取市の熊野神宮寺に伝わっている。この寺の周辺、寒河江川の支流をさかのぼったところには、いくつかの紙漉きの里がある。  前日の月蝕はおぼろ月。冬至。夜来、風雨のこえ。近くに雪おこしの雷。楮を刈り取る季節。    2010.12.25:公開 目くそ、鼻くそ。PoorBook G3'99 転載・印刷・翻訳は自由です。 カウンタ:&counter() ---- - 蛇のように賢く、鳩のように素直に。 -- しだ (2010-12-25 03:03:31) #comment

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