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*M-Tea*3_8-卑弥呼考(二)内藤湖南 *2010.9.18 第三巻 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南   四、本文の考証 帯方 / 旧百余国。漢時有&sub(){二}朝見者&sub(){一}。今使訳所&sub(){レ}通三十国。 / 到&sub(){二}其北岸狗邪韓国&sub(){一} / 対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国 / 南至&sub(){二}投馬國&sub(){一}。水行二十日。/ 南至&sub(){二}邪馬壹國&sub(){一}。水行十日。陸行一月。/ 斯馬国 / 已百支国 / 伊邪国 / 郡支国 / 弥奴国 / 好古都国 / 不呼国 / 姐奴国 / 対蘇国 / 蘇奴国 / 呼邑国 / 華奴蘇奴国 / 鬼国 / 為吾国 / 鬼奴国 / 邪馬国 / 躬臣国 / 巴利国 / 支惟国 / 烏奴国 / 奴国 / 此女王境界所&sub(){レ}盡。其南有&sub(){二}狗奴國&sub(){一} / 会稽東治 &image(http://www.dlmarket.jp/images/uploader/620/3_8-1.gif,http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/89632)   #ref(3_8-2.png)    #ref(3_8-3.png)    #ref(3_8-4.png)      [[【週刊ミルクティー*第三巻 第八号】>http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/89632]] (http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/89632) ※ クリックするとダウンロードサイトへジャンプします。 (852KB) &color(red){定価:200円} p.117 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(115項目)p.594 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 *飛び出せ! 週刊ミルクティー* 南至&sub(){二}投馬國&sub(){一}。水行二十日。  これには数説あり、本居氏は日向国&link_wikipedia(児湯郡){児湯郡}(こゆぐん)に都万(つま)神社ありて、『&link_wikipedia(続日本後紀){続日本後紀}』『&link_wikipedia(三代実録){三代実録}』『&link_wikipedia(延喜式){延喜式}』などに見ゆ、此所(ここ)にてもあらんかといえり。鶴峰氏は『&link_wikipedia(和名鈔){和名鈔}』に筑後国&link_wikipedia(上妻郡){上妻郡}、加牟豆万、&link_wikipedia(下妻郡){下妻郡}、准上とある妻なるべしといえり。ただし、その水行二十日を投馬より&link_wikipedia(邪馬台){邪馬台}に至る日程と解したるは著しき誤謬なり。黒川氏は三説をあげ、一つは鶴峰説に同じく、二つは「投」を「殺」の譌りとみて、薩摩国とし、三つは『和名鈔』、薩摩国&link_wikipedia(麑島郡){麑島郡}(かごしまぐん)に&link_wikipedia(都万郷){都万郷}(つまごう)ありて、声近しとし、さらに「投」を「敏(ビン)」の譌りとしてミヌマと訓み、&link_wikipedia(三潴郡){三潴郡}(みずまぐん)とする説をもあげたるが、いずれも穏当ならずといえり。『&link_wikipedia(国史眼){国史眼}』は設馬(セツマ)の譌りとして、すなわち薩摩なりとし、吉田氏はこれを取りて、さらに『和名鈔』の&link_wikipedia(高城郡){高城郡}(たきぐん)托摩郷をもあげ、菅氏は本居氏に従えり。これを要するに、みな邪馬台を&link_wikipedia(筑紫){筑紫}に求むる先入の見に出で、「南至」といえる方向に拘束せられたり。しかれども支那の古書が方向をいう時、東と南と相兼ね、西と北と相兼ぬるは、その常例ともいうべく、またその発程のはじめ、もしくは途中のいちじるしき土地の位置などより、方向の混雑を生ずることも珍しからず。『&link_wikipedia(後魏書){後魏書}』&link_wikipedia(勿吉伝){勿吉伝}(もっきつでん)に&link_wikipedia(太魯水){太魯水}、すなわち今の�児河(とうじか)より勿吉、すなわち今の&link_wikipedia(松花江){松花江}(しょうかこう)上流に至るによろしく東南行すべきを東北行十八日とせるがごとき、陸上におけるすらかくのごとくなれば海上の方向はなおさら誤り易かるべし。ゆえに余はこの南を東と解して投馬国を『和名鈔』の周防国佐婆郡〔&link_wikipedia(佐波郡){佐波郡}(さばぐん)か。〕&link_wikipedia(玉祖郷){玉祖郷}(たまのやごう)〈多萬乃於也〉にあてんとす。この地は&link_wikipedia(玉祖宿祢){玉祖宿祢}の祖たる&link_wikipedia(玉祖命){玉祖命}、またの名、&link_wikipedia(天明玉命){天明玉命}、&link_wikipedia(天櫛明玉命){天櫛明玉命}をまつれるところにして&link_wikipedia(周防){周防}の&link_wikipedia(一宮){一宮}と称せられ、今の&link_wikipedia(三田尻){三田尻}の海港をひかえ、内海の衝要にあたれり。その古代において、&link_wikipedia(玉作){玉作}を職とせる名族に拠有せられて、五万余戸の集落をなせしことも想像し得べし。&link_wikipedia(日向){日向}・&link_wikipedia(薩摩){薩摩}のごとき僻陬(へきすう)とも異なり、また&link_wikipedia(筑後){筑後}のごとく、路程の合いがたき地にもあらず、これ、余がかく定めたる理由なり。 #ref(3_8.rm) (朗読:RealMedia 形式 576KB、4'40'') 内藤湖南 ないとう こなん 1866-1934(慶応2.7.18 戸籍上は 5.27-昭和9.6.26) 東洋史学者。名は虎次郎。陸奥毛馬内(秋田県鹿角市)生れ。大阪朝日新聞などの記者を経て京大教授。シナ学の発展に貢献。著「支那絵画史」「支那論」「近世文学史論」「日本文化史研究」「東洋文化史研究」など。 &link_wikipedia(本居宣長){本居宣長} もとおり のりなが 1730-1801 江戸中期の国学者。国学四大人の一人。号は鈴屋など。小津定利の子。伊勢松坂の人。 &link_wikipedia(鶴峰戊申){鶴峰戊申} つるみね しげのぶ 1788-1859 鶴峯戊申。江戸末期の国学者。豊後の人。博学多才。のちに水戸藩に出仕。著「語学新書」は西洋文典式国文法書の先駆。 &link_wikipedia(黒川春村){黒川春村} くろかわ はるむら 1799-1866 江戸末期の国学者・狂歌作者。号は浅草庵。江戸の人。古学を狩谷?斎に受け、考証に長じた。「音韻考証」など国語学に関する著がある。 &link_wikipedia(吉田東伍){吉田東伍} よしだ とうご 1864-1918 歴史地理学者。越後生れ。筆名、落後生。独学で学者となり、早大教授。編著「大日本地名辞書」「倒叙日本史」「世阿弥十六部集」など。 &link_wikipedia(菅政友){菅政友} すが まさとも 1824-1897 明治時代の宮司、官吏。常陸東茨城郡酒門生まれ。文久2、文庫役に補せられ、国史志表の編纂に従った。明治6年、大和石上神社宮司に任ぜられ、大講義を兼ねる。10年、太政官修史館掌記。のち辞して水戸に還る。享年74。著『菅政友全集』など(人名)。 托摩郷 → 託万郷か 託万郷 たくまごう 下東郷(現、川内市)の大字中郷に宅満寺があり、古文書にも宅万城がみえるので、高城村(たかきむら、現、川内市)並びに東郷に比定する。高城郡に宅間氏もいる。 勿吉 もっきつ 〔史〕靺鞨の旧称。 靺鞨 まっかつ ツングース族の呼称の一つ。周の粛慎、漢・魏の?婁(ゆうろう)、南北朝の勿吉などはみな旧称で、この名称が起こったのは6世紀後半。 ◇参照:Wikipedia &link_wikipedia(内藤湖南){内藤湖南}、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。 *底本 底本:「内藤湖南全集 第七巻」筑摩書房    1969(昭和44)年8月20日初版第1刷発行    1976(昭和51)年10月10日初版第2刷 底本の親本:「読史叢録」弘文堂    1929(昭和4)年8月初版発行 初出:「藝文」    1910(明治43)年5月第1年第2号、6月第1年第3号、    7月第1年第4号 http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/card4643.html NDC 分類:210(日本史) http://yozora.kazumi386.org/2/1/ndc210.html *難字、求めよ 『経籍訪古誌』 八? 斉王芳 南加羅 涜盧国 多太浦 大良州郡 准上 托摩郷 玉祖宿祢 たまのやの すくね、か。 襲人 意富加羅 伊都都比古 祖闡 僧。 持明天皇 石城 いわき、か。 出雲建子命 天櫛玉命 あめのくしたまのみこと? 天櫛明玉命? 伊蘇国 棒原神社 『神名帳考証』 長谷街道 伊福吉部氏 いふきべし? いふくべし? 佐奈県 櫛田根椋 安閑紀 あんかんき、か。 『続漢書郡国志』 府治 *むしとりホイホイ 續日本後記 → 續日本後紀 【紀か?】 南北伊作二郡 → 南北伊佐二郡 【佐か?】 麻積 → 麻績 【績か。3か所】 *スリーパーズ日記 「伊佐郡(いさぐん)」は現、鹿児島県伊佐市で、明治に南伊佐郡と北伊佐郡に分割。古代「伊作郡(いさくぐん)」と字面が似ているため、しばしば混同されたが、郡域もまったく異なる別の郡、とある。「伊作郡」は薩摩半島の中央西部に位置した古代以来の郡で、郡域はおよそ近世の阿多郡伊作郷に引き継がれ、現在の吹上町にあたる、という。本文「南北伊作二郡」は「伊作」ではなく「伊佐」ではないだろうか。  また「姶羅郡」と「姶良郡」はどちらも「あいらぐん」で大隅国だが、前者は大隅半島のほぼ中央部で現、鹿屋市付近をしめたとみられる古代の郡。後者は近世以降、大隅北西部をしめる(以上『日本歴史地名大系』平凡社より)。「加治木」は現、鹿児島市の北方にあたるので、おそらく本文「姶羅」は「姶良」のまちがいではないだろうか。 『魏志倭人伝』文中に「中国」「韓国」、『後漢書倭伝』に「朝鮮」という呼称がすでに現われていることを今回はじめて知る。  内藤「卑弥呼考」に現われる郡名・地名を地図にプロット(描き落とし)してみるが、欲ばったせいできゅうくつになってしまった。旧国境と郡域と地名をそれぞれ異なる資料からひろって一つにまとめているので、過程でズレたり見落としが生じている可能性が高い。  内藤「卑弥呼考」は邪馬台国大和説を主張しているはずなのに、かんじんの大和近辺の比定がまったくないことに気がつく。  ブナ・ミズナラが凶作、旧朝日村・西川・山寺などでクマ出没。  いっぽう、クラゲの大量発生はなし。   2010.9.22:公開 2010.9.23:更新 クロパイ、くろこま、風雲急。 目くそ鼻くそ。PoorBook G3'99 転載・移植・印刷は自由です。 カウンタ:&counter() ---- #comment
*M-Tea*3_8-卑弥呼考(二)内藤湖南 *2010.9.18 第三巻 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南   四、本文の考証 帯方 / 旧百余国。漢時有&sub(){二}朝見者&sub(){一}。今使訳所&sub(){レ}通三十国。 / 到&sub(){二}其北岸狗邪韓国&sub(){一} / 対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国 / 南至&sub(){二}投馬國&sub(){一}。水行二十日。/ 南至&sub(){二}邪馬壹國&sub(){一}。水行十日。陸行一月。/ 斯馬国 / 已百支国 / 伊邪国 / 郡支国 / 弥奴国 / 好古都国 / 不呼国 / 姐奴国 / 対蘇国 / 蘇奴国 / 呼邑国 / 華奴蘇奴国 / 鬼国 / 為吾国 / 鬼奴国 / 邪馬国 / 躬臣国 / 巴利国 / 支惟国 / 烏奴国 / 奴国 / 此女王境界所&sub(){レ}盡。其南有&sub(){二}狗奴國&sub(){一} / 会稽東治 &image(http://www.dlmarket.jp/images/uploader/620/3_8-1.gif,http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/89632)   #ref(3_8-2.png)    #ref(3_8-3.png)    #ref(3_8-4.png)      [[【週刊ミルクティー*第三巻 第八号】>http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/89632]] (http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/89632) ※ クリックするとダウンロードサイトへジャンプします。 (852KB) &color(red){定価:200円} p.117 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(115項目)p.594 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 *飛び出せ! 週刊ミルクティー* 南至&sub(){二}投馬國&sub(){一}。水行二十日。  これには数説あり、本居氏は日向国&link_wikipedia(児湯郡){児湯郡}(こゆぐん)に都万(つま)神社ありて、『&link_wikipedia(続日本後紀){続日本後紀}』『&link_wikipedia(三代実録){三代実録}』『&link_wikipedia(延喜式){延喜式}』などに見ゆ、此所(ここ)にてもあらんかといえり。鶴峰氏は『&link_wikipedia(和名鈔){和名鈔}』に筑後国&link_wikipedia(上妻郡){上妻郡}、加牟豆万、&link_wikipedia(下妻郡){下妻郡}、准上とある妻なるべしといえり。ただし、その水行二十日を投馬より&link_wikipedia(邪馬台){邪馬台}に至る日程と解したるは著しき誤謬なり。黒川氏は三説をあげ、一つは鶴峰説に同じく、二つは「投」を「殺」の譌りとみて、薩摩国とし、三つは『和名鈔』、薩摩国&link_wikipedia(麑島郡){麑島郡}(かごしまぐん)に&link_wikipedia(都万郷){都万郷}(つまごう)ありて、声近しとし、さらに「投」を「敏(ビン)」の譌りとしてミヌマと訓み、&link_wikipedia(三潴郡){三潴郡}(みずまぐん)とする説をもあげたるが、いずれも穏当ならずといえり。『&link_wikipedia(国史眼){国史眼}』は設馬(セツマ)の譌りとして、すなわち薩摩なりとし、吉田氏はこれを取りて、さらに『和名鈔』の&link_wikipedia(高城郡){高城郡}(たきぐん)托摩郷をもあげ、菅氏は本居氏に従えり。これを要するに、みな邪馬台を&link_wikipedia(筑紫){筑紫}に求むる先入の見に出で、「南至」といえる方向に拘束せられたり。しかれども支那の古書が方向をいう時、東と南と相兼ね、西と北と相兼ぬるは、その常例ともいうべく、またその発程のはじめ、もしくは途中のいちじるしき土地の位置などより、方向の混雑を生ずることも珍しからず。『&link_wikipedia(後魏書){後魏書}』&link_wikipedia(勿吉伝){勿吉伝}(もっきつでん)に&link_wikipedia(太魯水){太魯水}、すなわち今の�児河(とうじか)より勿吉、すなわち今の&link_wikipedia(松花江){松花江}(しょうかこう)上流に至るによろしく東南行すべきを東北行十八日とせるがごとき、陸上におけるすらかくのごとくなれば海上の方向はなおさら誤り易かるべし。ゆえに余はこの南を東と解して投馬国を『和名鈔』の周防国佐婆郡〔&link_wikipedia(佐波郡){佐波郡}(さばぐん)か。〕&link_wikipedia(玉祖郷){玉祖郷}(たまのやごう)〈多萬乃於也〉にあてんとす。この地は&link_wikipedia(玉祖宿祢){玉祖宿祢}の祖たる&link_wikipedia(玉祖命){玉祖命}、またの名、&link_wikipedia(天明玉命){天明玉命}、&link_wikipedia(天櫛明玉命){天櫛明玉命}をまつれるところにして&link_wikipedia(周防){周防}の&link_wikipedia(一宮){一宮}と称せられ、今の&link_wikipedia(三田尻){三田尻}の海港をひかえ、内海の衝要にあたれり。その古代において、&link_wikipedia(玉作){玉作}を職とせる名族に拠有せられて、五万余戸の集落をなせしことも想像し得べし。&link_wikipedia(日向){日向}・&link_wikipedia(薩摩){薩摩}のごとき僻陬(へきすう)とも異なり、また&link_wikipedia(筑後){筑後}のごとく、路程の合いがたき地にもあらず、これ、余がかく定めたる理由なり。 #ref(3_8.rm) (朗読:RealMedia 形式 576KB、4'40'') 内藤湖南 ないとう こなん 1866-1934(慶応2.7.18 戸籍上は 5.27-昭和9.6.26) 東洋史学者。名は虎次郎。陸奥毛馬内(秋田県鹿角市)生れ。大阪朝日新聞などの記者を経て京大教授。シナ学の発展に貢献。著「支那絵画史」「支那論」「近世文学史論」「日本文化史研究」「東洋文化史研究」など。 &link_wikipedia(本居宣長){本居宣長} もとおり のりなが 1730-1801 江戸中期の国学者。国学四大人の一人。号は鈴屋など。小津定利の子。伊勢松坂の人。 &link_wikipedia(鶴峰戊申){鶴峰戊申} つるみね しげのぶ 1788-1859 鶴峯戊申。江戸末期の国学者。豊後の人。博学多才。のちに水戸藩に出仕。著「語学新書」は西洋文典式国文法書の先駆。 &link_wikipedia(黒川春村){黒川春村} くろかわ はるむら 1799-1866 江戸末期の国学者・狂歌作者。号は浅草庵。江戸の人。古学を狩谷?斎に受け、考証に長じた。「音韻考証」など国語学に関する著がある。 &link_wikipedia(吉田東伍){吉田東伍} よしだ とうご 1864-1918 歴史地理学者。越後生れ。筆名、落後生。独学で学者となり、早大教授。編著「大日本地名辞書」「倒叙日本史」「世阿弥十六部集」など。 &link_wikipedia(菅政友){菅政友} すが まさとも 1824-1897 明治時代の宮司、官吏。常陸東茨城郡酒門生まれ。文久2、文庫役に補せられ、国史志表の編纂に従った。明治6年、大和石上神社宮司に任ぜられ、大講義を兼ねる。10年、太政官修史館掌記。のち辞して水戸に還る。享年74。著『菅政友全集』など(人名)。 托摩郷 → 託万郷か 託万郷 たくまごう 下東郷(現、川内市)の大字中郷に宅満寺があり、古文書にも宅万城がみえるので、高城村(たかきむら、現、川内市)並びに東郷に比定する。高城郡に宅間氏もいる。 勿吉 もっきつ 〔史〕靺鞨の旧称。 靺鞨 まっかつ ツングース族の呼称の一つ。周の粛慎、漢・魏の?婁(ゆうろう)、南北朝の勿吉などはみな旧称で、この名称が起こったのは6世紀後半。 ◇参照:Wikipedia &link_wikipedia(内藤湖南){内藤湖南}、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。 *底本 底本:「内藤湖南全集 第七巻」筑摩書房    1969(昭和44)年8月20日初版第1刷発行    1976(昭和51)年10月10日初版第2刷 底本の親本:「読史叢録」弘文堂    1929(昭和4)年8月初版発行 初出:「藝文」    1910(明治43)年5月第1年第2号、6月第1年第3号、    7月第1年第4号 http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/card4643.html NDC 分類:210(日本史) http://yozora.kazumi386.org/2/1/ndc210.html *難字、求めよ 『経籍訪古誌』 八? 斉王芳 南加羅 涜盧国 多太浦 大良州郡 准上 托摩郷 玉祖宿祢 たまのやの すくね、か。 襲人 意富加羅 伊都都比古 祖闡 僧。 持明天皇 石城 いわき、か。 出雲建子命 天櫛玉命 あめのくしたまのみこと? 天櫛明玉命? 伊蘇国 棒原神社 『神名帳考証』 長谷街道 伊福吉部氏 いふきべし? いふくべし? 佐奈県 櫛田根椋 安閑紀 あんかんき、か。 『続漢書郡国志』 府治 *むしとりホイホイ 續日本後記 → 續日本後紀 【紀か?】 南北伊作二郡 → 南北伊佐二郡 【佐か?】 麻積 → 麻績 【績か。3か所】 *スリーパーズ日記 「伊佐郡(いさぐん)」は現、鹿児島県伊佐市で、明治に南伊佐郡と北伊佐郡に分割。古代「伊作郡(いさくぐん)」と字面が似ているため、しばしば混同されたが、郡域もまったく異なる別の郡、とある。「伊作郡」は薩摩半島の中央西部に位置した古代以来の郡で、郡域はおよそ近世の阿多郡伊作郷に引き継がれ、現在の吹上町にあたる、という。本文「南北伊作二郡」は「伊作」ではなく「伊佐」ではないだろうか。  また「姶羅郡」と「姶良郡」はどちらも「あいらぐん」で大隅国だが、前者は大隅半島のほぼ中央部で現、鹿屋市付近をしめたとみられる古代の郡。後者は近世以降、大隅北西部をしめる(以上『日本歴史地名大系』平凡社より)。「加治木」は現、鹿児島市の北方にあたるので、おそらく本文「姶羅」は「姶良」のまちがいではないだろうか。 『魏志倭人伝』文中に「中国」「韓国」、『後漢書倭伝』に「朝鮮」という呼称がすでに現われていることを今回はじめて知る。  内藤「卑弥呼考」に現われる郡名・地名を地図にプロット(描き落とし)してみるが、欲ばったせいできゅうくつになってしまった。旧国境と郡域と地名をそれぞれ異なる資料からひろって一つにまとめているので、過程でズレたり見落としが生じている可能性が高い。  内藤「卑弥呼考」は邪馬台国大和説を主張しているはずなのに、かんじんの大和近辺の比定がまったくないことに気がつく。  ブナ・ミズナラが凶作、旧朝日村・西川・山寺などでクマ出没。  いっぽう、クラゲの大量発生はなし。   2010.9.22:公開 2010.9.23:更新 クロパイ、くろこま、風雲急。 目くそ鼻くそ。PoorBook G3'99 転載・移植・印刷は自由です。 カウンタ:&counter() ---- - Wikipedia(&link_wikipedia(武市正恒){武市正恒})によれば、武市半平太の叔母は鹿持雅澄にとついでいる。鹿持雅澄(かもち まさずみ、1791-1858)国学者。歌人。号は古義軒・山斎など。土佐藩士。宮地仲枝に師事。「万葉集古義」など万葉集を中心に著書多数。また、「山斎集」がある。武市半平太・吉村寅太郎らはその門人。1858年(安政5年)没ということは、龍馬22才、二度目の江戸修行を終えて帰国した頃。歌う龍馬……。こんにちは。ボク、フクえもんです。 -- しだ (2010-09-25 03:47:31) #comment

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