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*M-Tea*3_7-卑弥呼考(一)内藤湖南 *2010.9.11 第三巻 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南   一、本文の選択   二、本文の記事に関するわが邦(くに)最旧の見解   三、旧説に対する異論 &image(http://www.dlmarket.jp/images/uploader/620/3_7-1.gif,http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/88165)   [[【週刊ミルクティー*第三巻 第七号】>http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/88165]] (http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/88165) ※ クリックするとダウンロードサイトへジャンプします。 (648KB) &color(red){定価:200円} p.122 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(56項目)p.304 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 *飛び出せ! 週刊ミルクティー*  『&link_wikipedia(後漢書){後漢書}』『&link_wikipedia(三国志){三国志}』『&link_wikipedia(晋書){晋書}』『&link_wikipedia(北史){北史}』などに出でたる&link_wikipedia(倭国){倭国}女王&link_wikipedia(卑弥呼){卑弥呼}のことに関しては、従来、史家の考証はなはだ繁く、あるいはこれをもってわが&link_wikipedia(神功皇后){神功皇后}とし、あるいはもって&link_wikipedia(筑紫){筑紫}の一女酋とし、紛々として帰一するところなきが如くなるも、近時においてはたいてい後説を取る者多きに似たり。(略)  卑弥呼の記事を載せたる支那史書のうち、『晋書』『北史』のごときは、もとより『後漢書』『三国志』に拠りたること疑いなければ、これは論を費やすことをもちいざれども、『後漢書』と『三国志』との間に存する�異(きい)の点に関しては、史家の疑惑をひく者なくばあらず。『三国志』は晋代になりて、今の&link_wikipedia(范曄){范曄}(はんよう)の『後漢書』は、&link_wikipedia(劉宋){劉宋}の代になれる晩出の書なれども、両書が同一事を記するにあたりて、『後漢書』の取れる史料が、『三国志』の所載以外におよぶこと、&link_wikipedia(東夷伝){東夷伝}中にすら一、二にして止(とど)まらざれば、その&link_wikipedia(倭国伝){倭国伝}の記事もしかる者あるにあらずやとは、史家のどうもすれば疑惑をはさみしところなりき。この疑惑を決せんことは、すなわち本文選択の第一要件なり。  次には本文のうち、各本に字句の異同あることを考えざるべからず。『三国志』について言わんに、余はいまだ宋板本を見ざるも、元槧(げんざん)明修本、明南監本、乾隆殿板本、&link_wikipedia(汲古閣){汲古閣}(きゅうこかく)本などを対照し、さらに『北史』『&link_wikipedia(通典){通典}』『&link_wikipedia(太平御覧){太平御覧}』『&link_wikipedia(冊府元亀){冊府元亀}』など、この記事を引用せる諸書を参考してその異同の少なからざるに驚きたり。その�異を決せんことは、すなわち本文選択の第二要件なり。 &link_wikipedia(後漢書){後漢書} ごかんじょ 二十四史の一つ。後漢の事跡を記した史書。本紀10巻、列伝80巻は南朝の宋の范曄(398〜445)の撰。432年頃成立。 &link_wikipedia(三国志){三国志} さんごくし 二十四史の一つ。魏・呉・蜀三国の史書。65巻。晋の陳寿撰。 &link_wikipedia(晋書){晋書} しんじょ 二十四史の一つ。晋代の正史。唐の太宗の時、古くからの晋史諸種を改訂したもの。房玄齢らの奉勅撰。帝紀10巻、志20巻、列伝70巻、載紀30巻。648年成る。 &link_wikipedia(北史){北史} ほくし 二十四史の一つ。北朝の魏・斉・周・隋の歴史を一つにまとめたもの。本紀12巻、列伝88巻。唐の李延寿撰。 &link_wikipedia(汲古閣){汲古閣} きゅうこかく 中国、明末清初の蔵書家、江蘇省常熟の毛晋(1599〜1659)の書庫の名。その蔵書は8万巻にのぼり、また所蔵善本に基づき校勘・出版を行なった「十三経注疏」「十七史」などは汲古閣本として名高い。 &link_wikipedia(通典){通典} つてん (ツデンとも)中国歴代の諸制度の沿革を通観した書。唐の杜佑(735〜812)撰。200巻。801年成る。上古より唐に至り、食貨・礼など9部門から成る。 &link_wikipedia(太平御覧){太平御覧} たいへい ぎょらん 中国の類書。北宋の太宗の勅を奉じて李�(りほう)ら撰。1000巻。古今の事実をひろく古籍佚文・類書からとって、55部門に分類したもの。983年成る。「御覧」と略称。 &link_wikipedia(冊府元亀){冊府元亀} さっぷげんき 中国の類書。1000巻。北宋の王欽若・楊億らが真宗の勅を奉じて撰。1013年ころ成る。中国古来の史実を31部1115門に分けて記したもの。唐代の史実についての貴重な史料。 &link_wikipedia(神功皇后){神功皇后} じんぐう こうごう 仲哀天皇の皇后。名は息長足媛(おきながたらしひめ)。開化天皇第5世の孫、息長宿祢王の女。天皇とともに熊襲征服に向かい、天皇が香椎宮で死去した後、新羅を攻略して凱旋し、誉田別皇子(応神天皇)を筑紫で出産、摂政70年にして没。(記紀伝承による) &link_wikipedia(范曄){范曄} はん よう 398-445 宋の政治家、歴史家にして『後漢書』の作者。字は蔚宗。先祖は順陽(現河南省淅川)の出身であり、山陰(現浙江省紹興)にて生まれる。 #ref(3_7.rm) (朗読:RealMedia 形式 392KB、3'10'') 内藤湖南 ないとう こなん 1866-1934(慶応2.7.18 戸籍上は 5.27-昭和9.6.26) 東洋史学者。名は虎次郎。陸奥毛馬内(秋田県鹿角市)生れ。大阪朝日新聞などの記者を経て京大教授。シナ学の発展に貢献。著「支那絵画史」「支那論」「近世文学史論」「日本文化史研究」「東洋文化史研究」など。 ◇参照:Wikipedia &link_wikipedia(内藤湖南){内藤湖南}、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。 *底本 底本:「内藤湖南全集 第七巻」筑摩書房    1969(昭和44)年8月20日初版第1刷発行    1976(昭和51)年10月10日初版第2刷 底本の親本:「読史叢録」弘文堂    1929(昭和4)年8月初版発行 初出:「藝文」    1910(明治43)年5月第1年第2号、6月第1年第3号、    7月第1年第4号 http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/card4643.html NDC 分類:210(日本史) http://yozora.kazumi386.org/2/1/ndc210.html *難字、求めよ ?異 きい? 晩出 先出 鉤稽 疎謬 疏謬 疏奪 元槧明修本 乾隆殿板 元大徳本 寛永活版本 明の北監本 馮夢禎 手校 訛奪 かだつ? 校改 倣宋活字本 鮑刻本 田中勘兵衛 田中教忠(のりただ)か。 奉貢 『国史眼』 *むしとりホイホイ 而ト → 而卜 【卜か】 所[#レ]ト → 所[#レ]卜 【卜か】 摶 → 搏 【搏か?】 」第4水準2-84-80] → 」、第4水準2-84-80] 【第4水準の直前に読点】 賜遣之物 → 賜遺之物 【遺か?】 所二有無一 → 所[#二]有無[#一] 【[#二]、[#一]か?】 掖耶等約 → 掖耶約等 【約等か?】 書記集解 → 書紀集解 【紀か?】 日本国現在書目 → 日本国見在書目録 【見、録か?】 、、 → 、 【、?】 *スリーパーズ日記  剪るを、切るに置きかえた。  前号(第三巻 第六号)の参照地図。 『改訂 総合資料日本史』(浜島書店、1985.2) 『韓国歴史地図』(平凡社、2006.11) 『世界史年表・地図』(吉川弘文館、2008.4) 『図解「邪馬台国」の謎を解く』関裕二(PHP研究所、2006.9) 『ビジュアル版 逆説の日本史(一)古代編』井沢元彦(小学館、2008.12)  川本喜八郎。人形たちの顔と、谷隼人・森本レオ・岡本信人らの声。李學仁・王欣太『蒼天航路』。くぐつと劇画の輪廻転生。  徳川幕臣の大久保くんというと、草創期、三代将軍のご意見番で『三河物語』著者の大久保彦左衛門と、武田家臣から家康に取り立てられ石見・佐渡の開発を監督した大久保長安がいる。ただし長安死後、その子息は全員処刑される。 大久保一翁 おおくぼ いちおう 1817-1888 幕臣。長州征伐(幕長戦争)に反対し、政権を朝廷に返還することを提案。維新後、東京府知事をつとめる。 めも。 (1)「現在の地図で、現在の地形に基づいて考えるのでは、話にならない。三世紀の時代の復元した地形に基づいてやらないと意味がない。/中国では『中国史稿地図集』を刊行。各時代の海岸線を復元」……森浩一(編)『倭人伝を読む』(中公新書、1982.10)より。 (2)「混一疆理歴代国都之図」(十五世紀の朝鮮の古地図)に、日本列島が九州を北にして南北に細長く描かれている。このような地図は、中国の唐の時代までさかのぼる可能性がある……室賀信夫の説(関裕二『図解「邪馬台国」の謎を解く』より)/当時の地理認識は、現在のわれわれと大きく異なると思ったほうがいいということ。   2010.9.16:公開 2010.9.17:更新 がちょ〜ん。 目くそ鼻くそ同盟。PoorBook G3'99 転載・移植・印刷は自由です。 カウンタ:&counter() ---- #comment
*M-Tea*3_7-卑弥呼考(一)内藤湖南 *2010.9.11 第三巻 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南   一、本文の選択   二、本文の記事に関するわが邦(くに)最旧の見解   三、旧説に対する異論 &image(http://www.dlmarket.jp/images/uploader/620/3_7-1.gif,http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/88165)   [[【週刊ミルクティー*第三巻 第七号】>http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/88165]] (http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/88165) ※ クリックするとダウンロードサイトへジャンプします。 (648KB) &color(red){定価:200円} p.122 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(56項目)p.304 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 *飛び出せ! 週刊ミルクティー*  『&link_wikipedia(後漢書){後漢書}』『&link_wikipedia(三国志){三国志}』『&link_wikipedia(晋書){晋書}』『&link_wikipedia(北史){北史}』などに出でたる&link_wikipedia(倭国){倭国}女王&link_wikipedia(卑弥呼){卑弥呼}のことに関しては、従来、史家の考証はなはだ繁く、あるいはこれをもってわが&link_wikipedia(神功皇后){神功皇后}とし、あるいはもって&link_wikipedia(筑紫){筑紫}の一女酋とし、紛々として帰一するところなきが如くなるも、近時においてはたいてい後説を取る者多きに似たり。(略)  卑弥呼の記事を載せたる支那史書のうち、『晋書』『北史』のごときは、もとより『後漢書』『三国志』に拠りたること疑いなければ、これは論を費やすことをもちいざれども、『後漢書』と『三国志』との間に存する?異(きい)の点に関しては、史家の疑惑をひく者なくばあらず。『三国志』は晋代になりて、今の&link_wikipedia(范曄){范曄}(はんよう)の『後漢書』は、&link_wikipedia(劉宋){劉宋}の代になれる晩出の書なれども、両書が同一事を記するにあたりて、『後漢書』の取れる史料が、『三国志』の所載以外におよぶこと、&link_wikipedia(東夷伝){東夷伝}中にすら一、二にして止(とど)まらざれば、その&link_wikipedia(倭国伝){倭国伝}の記事もしかる者あるにあらずやとは、史家のどうもすれば疑惑をはさみしところなりき。この疑惑を決せんことは、すなわち本文選択の第一要件なり。  次には本文のうち、各本に字句の異同あることを考えざるべからず。『三国志』について言わんに、余はいまだ宋板本を見ざるも、元槧(げんざん)明修本、明南監本、乾隆殿板本、&link_wikipedia(汲古閣){汲古閣}(きゅうこかく)本などを対照し、さらに『北史』『&link_wikipedia(通典){通典}』『&link_wikipedia(太平御覧){太平御覧}』『&link_wikipedia(冊府元亀){冊府元亀}』など、この記事を引用せる諸書を参考してその異同の少なからざるに驚きたり。その?異を決せんことは、すなわち本文選択の第二要件なり。 &link_wikipedia(後漢書){後漢書} ごかんじょ 二十四史の一つ。後漢の事跡を記した史書。本紀10巻、列伝80巻は南朝の宋の范曄(398〜445)の撰。432年頃成立。 &link_wikipedia(三国志){三国志} さんごくし 二十四史の一つ。魏・呉・蜀三国の史書。65巻。晋の陳寿撰。 &link_wikipedia(晋書){晋書} しんじょ 二十四史の一つ。晋代の正史。唐の太宗の時、古くからの晋史諸種を改訂したもの。房玄齢らの奉勅撰。帝紀10巻、志20巻、列伝70巻、載紀30巻。648年成る。 &link_wikipedia(北史){北史} ほくし 二十四史の一つ。北朝の魏・斉・周・隋の歴史を一つにまとめたもの。本紀12巻、列伝88巻。唐の李延寿撰。 &link_wikipedia(汲古閣){汲古閣} きゅうこかく 中国、明末清初の蔵書家、江蘇省常熟の毛晋(1599〜1659)の書庫の名。その蔵書は8万巻にのぼり、また所蔵善本に基づき校勘・出版を行なった「十三経注疏」「十七史」などは汲古閣本として名高い。 &link_wikipedia(通典){通典} つてん (ツデンとも)中国歴代の諸制度の沿革を通観した書。唐の杜佑(735〜812)撰。200巻。801年成る。上古より唐に至り、食貨・礼など9部門から成る。 &link_wikipedia(太平御覧){太平御覧} たいへい ぎょらん 中国の類書。北宋の太宗の勅を奉じて李?(りほう)ら撰。1000巻。古今の事実をひろく古籍佚文・類書からとって、55部門に分類したもの。983年成る。「御覧」と略称。 &link_wikipedia(冊府元亀){冊府元亀} さっぷげんき 中国の類書。1000巻。北宋の王欽若・楊億らが真宗の勅を奉じて撰。1013年ころ成る。中国古来の史実を31部1115門に分けて記したもの。唐代の史実についての貴重な史料。 &link_wikipedia(神功皇后){神功皇后} じんぐう こうごう 仲哀天皇の皇后。名は息長足媛(おきながたらしひめ)。開化天皇第5世の孫、息長宿祢王の女。天皇とともに熊襲征服に向かい、天皇が香椎宮で死去した後、新羅を攻略して凱旋し、誉田別皇子(応神天皇)を筑紫で出産、摂政70年にして没。(記紀伝承による) &link_wikipedia(范曄){范曄} はん よう 398-445 宋の政治家、歴史家にして『後漢書』の作者。字は蔚宗。先祖は順陽(現河南省淅川)の出身であり、山陰(現浙江省紹興)にて生まれる。 #ref(3_7.rm) (朗読:RealMedia 形式 392KB、3'10'') 内藤湖南 ないとう こなん 1866-1934(慶応2.7.18 戸籍上は 5.27-昭和9.6.26) 東洋史学者。名は虎次郎。陸奥毛馬内(秋田県鹿角市)生れ。大阪朝日新聞などの記者を経て京大教授。シナ学の発展に貢献。著「支那絵画史」「支那論」「近世文学史論」「日本文化史研究」「東洋文化史研究」など。 ◇参照:Wikipedia &link_wikipedia(内藤湖南){内藤湖南}、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。 *底本 底本:「内藤湖南全集 第七巻」筑摩書房    1969(昭和44)年8月20日初版第1刷発行    1976(昭和51)年10月10日初版第2刷 底本の親本:「読史叢録」弘文堂    1929(昭和4)年8月初版発行 初出:「藝文」    1910(明治43)年5月第1年第2号、6月第1年第3号、    7月第1年第4号 http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/card4643.html NDC 分類:210(日本史) http://yozora.kazumi386.org/2/1/ndc210.html *難字、求めよ ?異 きい? 晩出 先出 鉤稽 疎謬 疏謬 疏奪 元槧明修本 乾隆殿板 元大徳本 寛永活版本 明の北監本 馮夢禎 手校 訛奪 かだつ? 校改 倣宋活字本 鮑刻本 田中勘兵衛 田中教忠(のりただ)か。 奉貢 『国史眼』 *むしとりホイホイ 而ト → 而卜 【卜か】 所[#レ]ト → 所[#レ]卜 【卜か】 摶 → 搏 【搏か?】 」第4水準2-84-80] → 」、第4水準2-84-80] 【第4水準の直前に読点】 賜遣之物 → 賜遺之物 【遺か?】 所二有無一 → 所[#二]有無[#一] 【[#二]、[#一]か?】 掖耶等約 → 掖耶約等 【約等か?】 書記集解 → 書紀集解 【紀か?】 日本国現在書目 → 日本国見在書目録 【見、録か?】 、、 → 、 【、?】 *スリーパーズ日記  剪るを、切るに置きかえた。  前号(第三巻 第六号)の参照地図。 『改訂 総合資料日本史』(浜島書店、1985.2) 『韓国歴史地図』(平凡社、2006.11) 『世界史年表・地図』(吉川弘文館、2008.4) 『図解「邪馬台国」の謎を解く』関裕二(PHP研究所、2006.9) 『ビジュアル版 逆説の日本史(一)古代編』井沢元彦(小学館、2008.12)  川本喜八郎。人形たちの顔と、谷隼人・森本レオ・岡本信人らの声。李學仁・王欣太『蒼天航路』。くぐつと劇画の輪廻転生。  徳川幕臣の大久保くんというと、草創期、三代将軍のご意見番で『三河物語』著者の大久保彦左衛門と、武田家臣から家康に取り立てられ石見・佐渡の開発を監督した大久保長安がいる。ただし長安死後、その子息は全員処刑される。 &link_wikipedia(大久保一翁){大久保一翁} おおくぼ いちおう 1817-1888 幕臣。長州征伐(幕長戦争)に反対し、政権を朝廷に返還することを提案。維新後、東京府知事をつとめる。 めも。 (1)「現在の地図で、現在の地形に基づいて考えるのでは、話にならない。三世紀の時代の復元した地形に基づいてやらないと意味がない。/中国では『中国史稿地図集』を刊行。各時代の海岸線を復元」……森浩一(編)『倭人伝を読む』(中公新書、1982.10)より。 (2)「&link_wikipedia(混一疆理歴代国都之図){混一疆理歴代国都之図}」(十五世紀の朝鮮の古地図)に、日本列島が九州を北にして南北に細長く描かれている。このような地図は、中国の唐の時代までさかのぼる可能性がある……&link_wikipedia(室賀信夫){室賀信夫}の説(関裕二『図解「邪馬台国」の謎を解く』より)/当時の地理認識は、現在のわれわれと大きく異なると思ったほうがいいということ。   2010.9.16:公開 2010.9.18:更新 がちょ〜ん。 目くそ鼻くそ同盟。PoorBook G3'99 転載・移植・印刷は自由です。 カウンタ:&counter() ---- #comment

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