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*M-Tea*3_6-魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝 *2010.9.4 第三巻 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝 &image(http://www.dlmarket.jp/images/uploader/620/3_6-1.png,http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/86964)   #ref(3_6-2.png)    #ref(3_6-3.png)    #ref(3_6-4.png)    [[【週刊ミルクティー*第三巻 第六号】>http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/86964]] (http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/86964) ※ クリックするとダウンロードサイトへジャンプします。 (648KB) &color(red){定価:200円} p.113 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(65項目)p.273 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 *飛び出せ! 週刊ミルクティー* 倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。漢時有朝見者、今使訳所通三十国。従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千余里。始度一海千余里、至対馬国、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島、方可四百余里(略)。又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国〔一支国か〕(略)。又渡一海千余里、至末盧国(略)。東南陸行五百里、到伊都国(略)。東南至奴国百里(略)。東行至不弥国百里(略)。南至投馬国水行二十日、官曰弥弥、副曰弥弥那利、可五万余戸。南至邪馬壱国〔邪馬台国〕、女王之所都、水行十日・陸行一月、官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰奴佳?、可七万余戸。(略)其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟、佐治国、自為王以来、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、伝辞出入居処。宮室・楼観・城柵厳設、常有人持兵守衛。    倭人は帯方(たいほう)の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。旧(もと)百余国。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十国。  郡より倭に至るには、海岸に循(したが)って水行し、韓国を歴て、乍(あるい)は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里。始めて一海を度(わた)る千余里、対馬国に至る。その大官を卑狗といい、副を卑奴母離という。居る所絶島、方四百余里ばかり。(略)また南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)という。一大国〔一支国〕に至る。(略)  また一海を渡る千余里、末廬国に至る。(略)東南陸行五百里にして、伊都国に到る。(略)東南奴国に至る百里。(略)東行不弥国に至る百里。(略)  南、投馬国に至る水行二十日。官を弥弥といい、副を弥弥那利という。五万余戸ばかり。南、邪馬壱国〔邪馬台国〕に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。官に伊支馬あり、次を弥馬升といい、次を弥馬獲支といい、次を奴佳?という。七万余戸ばかり。(略)  その国、本また男子を以て王となし、住(とど)まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫壻なく、男弟あり、佐(たす)けて国を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍(はべら)せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。(略) #ref(3_6.rm) (朗読:RealMedia 形式 456KB、3'41'') 陳寿 ちんじゅ 233-297 西晋の歴史家。字は承祚。四川安漢の人。中国正史の一つである「三国志」のほか、「益都耆旧伝」などの著がある。 范曄 はん よう 398-445 宋の政治家、歴史家にして『後漢書』の作者。字は蔚宗。先祖は順陽(現河南省淅川)の出身であり、山陰(現浙江省紹興)にて生まれる。 沈約 しんやく 441-513 中国、南北朝時代の政治家・学者。字は休文。浙江武康の人。宋・斉・梁に歴仕。博学で詩文をよくし、また、音韻学の泰斗で四声研究の開祖。著「晋書」「宋書」「斉紀」「四声譜」など。 魏徴 ぎちょう 580-643 唐初の功臣。字は玄成。曲城(山東莱州)の人。隋末の群雄の一人李密に従い、唐高祖の太子李建成に、次いで太宗に仕えてよく諫める。また、梁・陳・北斉・北周・隋の正史や「群書治要」などの編纂に従事。諡は文貞。 ◇参照:Wikipedia &link_wikipedia(陳寿){陳寿}、&link_wikipedia(范曄){范曄}、&link_wikipedia(沈約){沈約}、&link_wikipedia(魏徴){魏徴}、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。 *底本 魏志倭人伝 陳寿 底本:「魏志倭人伝」岩波文庫、岩波書店    1951(昭和26)年11月5日第1刷発行 底本の親本:「三國志 魏書 卷三〇 東夷傳」武英殿版本 http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1477.html 後漢書倭伝 范曄 底本:「魏志倭人伝」岩波文庫、岩波書店    1951(昭和26)年11月5日第1刷発行 底本の親本:「後漢書 卷一一五 東夷傳」武英殿版本 http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person348.html 宋書倭国伝 沈約 底本:「魏志倭人伝」岩波文庫、岩波書店    1951(昭和26)年11月5日第1刷発行 底本の親本:「宋書 卷九七 夷蠻傳」武英殿版本 http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1485.html 隋書倭国伝 魏徴 底本:「魏志倭人伝」岩波文庫、岩波書店    1951(昭和26)年11月5日第1刷発行 底本の親本:「隋書 卷八一 東夷傳」武英殿版本 http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1484.html NDC 分類:210(日本史) http://yozora.kazumi386.org/2/1/ndc210.html *難字、求めよ 魏志倭人伝 猿 猴(みこう)か。 搏手 はくしゅ、か。 勾珠 こうしゅ? 後漢書倭伝 畏誅 いちゅう? 宋書倭国伝 詔除 しょうじょ? 載忠 さいちゅう? 隋書倭国伝 圧膝 あっしつ? 黥臂 げいひ? 跨火 こか? 重興仏法 戒塗 かいと? 遂絶 すいぜつ? ※[#「ころもへん+巽」]※[#「てへん+孅のつくり」] ちんせん? ひだかざり *スリーパーズ日記  九月一日(水)映画の日、『借りぐらしのアリエッティ』。あれじゃあ「どろぼう小人」というハルさんのほうが正しい。たくましいお父さんを長出しするのもめずらしい。ポニョにもハウルにもいえるが、ひろげたふろしきを閉じたようには思えない。カタストロフィーとエンターテイメントを求めるのがいけないのか。  宮崎作品のモチーフに、ジュエリーや装飾品がある。ナウシカのイヤリング、ラピュタの飛行石、もののけの黒曜石、千と千尋の湯屋、シュナの旅……。おそらく、それらの原点はルパン。『魏志倭人伝』文身・入れ墨、邪馬台国、七万余戸の記述。  薩長同盟の小松宅には中岡慎太郎も同席していたものとばかり思っていた。あるいは少なくとも在京していただろうと。たしか龍馬の手記によれば、直前に龍馬は大阪で大久保一翁に会っている。が、どうやら今回も登場しそうにない。  渡辺淳一『鈍感力』読了。宮崎×渡辺、対談熱望!   2010.9.9:公開 2010.9.10:更新 サレンダーにうってつけの日。 目くそ鼻くそ/キャピタル囚人。PoorBook G3'99 転載・移植・印刷は自由です。 カウンタ:&counter() ---- - 読み下し文は和田・石原(編訳)『新訂 魏志倭人伝 他三篇』(岩波書店、1985.5)を主に参照しました。&color(red){朗読部分のみ読み下し文を引用しましたが、著作権保護期間内ですので収録はしていません。本誌収録は原文に句読点とルビのみです。念のため。} -- しだ (2010-09-10 23:57:34) - 地図の海岸線は現在のものです。九州北部地図の区分線は令制国境(7世紀後半〜)です。 -- しだ (2010-09-11 00:01:34) - また、邪馬壱国〔邪馬台国〕、壱与〔台与〕のように、〔 〕には異表記・異説・異なる読みの代表例をあげました。正否の判断にはふみこんでいません。いつもながらです。 -- しだ (2010-09-11 12:49:10) - めも。(1) 当時の気象(寒暖)。海進・海退、火山噴火。(2) 他地域の戸数・推定人口の比較。(3)「事鬼道、能惑衆」 使者が自国の主のことをこんなふうに表現するだろうかと、ふと気にかかる。筆者の主観表現か。あるいは、使者本人の表現とするならば。(4)「倭の地は温暖、夏冬生菜を食す」「正歳四節を知らず(魏略)」 大陸や半島にくらべて温暖なのはうなずけるが、近畿や奈良盆地で冬に生菜を食せるか疑問。「四節」は春分・秋分・冬至・夏至のことだろうか。それとも、四季がはっきりしない、ということだろうか。 -- しだ (2010-09-11 12:49:29) #comment
*M-Tea*3_6-魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝 *2010.9.4 第三巻 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝 &image(http://www.dlmarket.jp/images/uploader/620/3_6-1.png,http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/86964)   #ref(3_6-2.png)    #ref(3_6-3.png)    #ref(3_6-4.png)    [[【週刊ミルクティー*第三巻 第六号】>http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/86964]] (http://www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/86964) ※ クリックするとダウンロードサイトへジャンプします。 (648KB) &color(red){定価:200円} p.113 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(65項目)p.273 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 *飛び出せ! 週刊ミルクティー* 倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。漢時有朝見者、今使訳所通三十国。従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千余里。始度一海千余里、至対馬国、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島、方可四百余里(略)。又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国〔一支国か〕(略)。又渡一海千余里、至末盧国(略)。東南陸行五百里、到伊都国(略)。東南至奴国百里(略)。東行至不弥国百里(略)。南至投馬国水行二十日、官曰弥弥、副曰弥弥那利、可五万余戸。南至邪馬壱国〔邪馬台国〕、女王之所都、水行十日・陸行一月、官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰奴佳?、可七万余戸。(略)其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟、佐治国、自為王以来、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、伝辞出入居処。宮室・楼観・城柵厳設、常有人持兵守衛。    倭人は帯方(たいほう)の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。旧(もと)百余国。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十国。  郡より倭に至るには、海岸に循(したが)って水行し、韓国を歴て、乍(あるい)は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里。始めて一海を度(わた)る千余里、対馬国に至る。その大官を卑狗といい、副を卑奴母離という。居る所絶島、方四百余里ばかり。(略)また南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)という。一大国〔一支国〕に至る。(略)  また一海を渡る千余里、末廬国に至る。(略)東南陸行五百里にして、伊都国に到る。(略)東南奴国に至る百里。(略)東行不弥国に至る百里。(略)  南、投馬国に至る水行二十日。官を弥弥といい、副を弥弥那利という。五万余戸ばかり。南、邪馬壱国〔邪馬台国〕に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。官に伊支馬あり、次を弥馬升といい、次を弥馬獲支といい、次を奴佳?という。七万余戸ばかり。(略)  その国、本また男子を以て王となし、住(とど)まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫壻なく、男弟あり、佐(たす)けて国を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍(はべら)せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。(略) #ref(3_6.rm) (朗読:RealMedia 形式 456KB、3'41'') 陳寿 ちんじゅ 233-297 西晋の歴史家。字は承祚。四川安漢の人。中国正史の一つである「三国志」のほか、「益都耆旧伝」などの著がある。 范曄 はん よう 398-445 宋の政治家、歴史家にして『後漢書』の作者。字は蔚宗。先祖は順陽(現河南省淅川)の出身であり、山陰(現浙江省紹興)にて生まれる。 沈約 しんやく 441-513 中国、南北朝時代の政治家・学者。字は休文。浙江武康の人。宋・斉・梁に歴仕。博学で詩文をよくし、また、音韻学の泰斗で四声研究の開祖。著「晋書」「宋書」「斉紀」「四声譜」など。 魏徴 ぎちょう 580-643 唐初の功臣。字は玄成。曲城(山東莱州)の人。隋末の群雄の一人李密に従い、唐高祖の太子李建成に、次いで太宗に仕えてよく諫める。また、梁・陳・北斉・北周・隋の正史や「群書治要」などの編纂に従事。諡は文貞。 ◇参照:Wikipedia &link_wikipedia(陳寿){陳寿}、&link_wikipedia(范曄){范曄}、&link_wikipedia(沈約){沈約}、&link_wikipedia(魏徴){魏徴}、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。 *底本 魏志倭人伝 陳寿 底本:「魏志倭人伝」岩波文庫、岩波書店    1951(昭和26)年11月5日第1刷発行 底本の親本:「三國志 魏書 卷三〇 東夷傳」武英殿版本 http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1477.html 後漢書倭伝 范曄 底本:「魏志倭人伝」岩波文庫、岩波書店    1951(昭和26)年11月5日第1刷発行 底本の親本:「後漢書 卷一一五 東夷傳」武英殿版本 http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person348.html 宋書倭国伝 沈約 底本:「魏志倭人伝」岩波文庫、岩波書店    1951(昭和26)年11月5日第1刷発行 底本の親本:「宋書 卷九七 夷蠻傳」武英殿版本 http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1485.html 隋書倭国伝 魏徴 底本:「魏志倭人伝」岩波文庫、岩波書店    1951(昭和26)年11月5日第1刷発行 底本の親本:「隋書 卷八一 東夷傳」武英殿版本 http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1484.html NDC 分類:210(日本史) http://yozora.kazumi386.org/2/1/ndc210.html *難字、求めよ 魏志倭人伝 猿 猴(みこう)か。 搏手 はくしゅ、か。 勾珠 こうしゅ? 後漢書倭伝 畏誅 いちゅう? 宋書倭国伝 詔除 しょうじょ? 載忠 さいちゅう? 隋書倭国伝 圧膝 あっしつ? 黥臂 げいひ? 跨火 こか? 重興仏法 戒塗 かいと? 遂絶 すいぜつ? ※[#「ころもへん+巽」]※[#「てへん+孅のつくり」] ちんせん? ひだかざり *スリーパーズ日記  九月一日(水)映画の日、『借りぐらしのアリエッティ』。あれじゃあ「どろぼう小人」というハルさんのほうが正しい。たくましいお父さんを長出しするのもめずらしい。ポニョにもハウルにもいえるが、ひろげたふろしきを閉じたようには思えない。カタストロフィーとエンターテイメントを求めるのがいけないのか。  宮崎作品のモチーフに、ジュエリーや装飾品がある。ナウシカのイヤリング、ラピュタの飛行石、もののけの黒曜石、千と千尋の湯屋、シュナの旅の人買い……。おそらく、それらの原点はルパン。『魏志倭人伝』文身・入れ墨、邪馬台国、七万余戸の記述。  薩長同盟の小松邸には中岡慎太郎も同席していたものとばかり思っていた。あるいは少なくとも在京していただろうと。たしか龍馬の手記によれば、直前に龍馬は大阪で大久保一翁に会っている。が、どうやら今回も登場しそうにない。  渡辺淳一『鈍感力』読了。宮崎×渡辺、対談熱望!   2010.9.9:公開 2010.9.14:更新 サレンダーにうってつけの日。 目くそ鼻くそ/キャピタル囚人。PoorBook G3'99 転載・移植・印刷は自由です。 カウンタ:&counter() ---- - 読み下し文は和田・石原(編訳)『新訂 魏志倭人伝 他三篇』(岩波書店、1985.5)を主に参照しました。&color(red){朗読部分のみ読み下し文を引用しましたが、著作権保護期間内ですので収録はしていません。本誌収録は原文に句読点とルビのみです。念のため。} -- しだ (2010-09-10 23:57:34) - 地図の海岸線は現在のものです。九州北部地図の区分線は令制国境(7世紀後半〜)です。 -- しだ (2010-09-11 00:01:34) - また、邪馬壱国〔邪馬台国〕、壱与〔台与〕のように、〔 〕には異表記・異説・異なる読みの代表例をあげました。正否の判断にはふみこんでいません。いつもながらです。 -- しだ (2010-09-11 12:49:10) - めも。(1) 当時の気象(寒暖)。海進・海退、火山噴火。(2) 他地域の戸数・推定人口の比較。(3)「事鬼道、能惑衆」 使者が自国の主のことをこんなふうに表現するだろうかと、ふと気にかかる。筆者の主観表現か。あるいは、使者本人の表現とするならば。(4)「倭の地は温暖、冬夏生菜を食す」「正歳四節を知らず(魏略)」 大陸や半島にくらべて温暖なのはうなずけるが、近畿や奈良盆地で冬に生菜を食せるか疑問。「四節」は春分・秋分・冬至・夏至のことだろうか。それとも、四季がはっきりしない、ということだろうか。 -- しだ (2010-09-11 12:49:29) #comment

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