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*MT*2_42-清河八郎(五)大川周明 *2010.5.8 第二巻 第四二号 清河八郎(五) 大川周明  第六章 清河八郎の最期     一 遭難直前の八郎     二 遭難の刹那     三 首級および遺骸のゆくえ     四 八郎は何故に暗殺されしか     五 八郎暗殺と金子与三郎     六 八郎死後の浪士組 &image(http://www.dl-market.com/images/uploader/620/2_42-1.gif,http://www.dl-market.com/product_info.php?products_id=66331) &ref(2_42-2.jpg) &ref(2_42-3.gif) [[【週刊ミルクティー*第二巻 第四二号】>http://www.dl-market.com/product_info.php?products_id=66331]] (http://www.dl-market.com/product_info.php?products_id=66331) ※ クリックするとダウンロードサイトへジャンプします。 (556KB) &color(red){定価:200円(税込)} p.125 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(32項目)p.128 &color(red){※ 傍点や傍線の見えにくい場合は、T-Time の文字品質(アンチエイリアス)を「標準」にしてご覧ください。}  帰府後の清河八郎は、日中はたいがい馬喰町井筒屋に行って石坂らと密議し、本所三笠町屋敷にも部屋をもっていたが、そこにはまれにしか行かなかった。しかして夜は山岡家の四畳半に寝泊まりしていた。山岡の家は伝通院裏、今の小石川竹早町にあって、高橋泥舟の家と隣り合わせていた。高橋の家は二階建ての十二室もある大きい家であったが、山岡の家はきわめて小さく、間数も四つぐらいしかなかった。  鉄舟はもと小野氏で、講武所の師範山岡静山の娘・英(ふさ)の入り婿として山岡家に養子となりしもの。泥舟は静山の弟、英の兄で、高橋家に養子になった人である。英の妹に桂(けい)というそのころ二十歳前後の娘がいて、始終八郎の世話をしていた。あるいは八郎と婚約があったともいうが、八郎非命にたおれて後、石坂周造の夫人となった。この夫人の談話によって、吾らは八郎遭難直前の様子を知ることができる。  その話によれば、八郎は京都から帰って後、とかく沈みがちで何か深く考えこんでいる様子であり、ときどき「しばらく帰省してこようか」などと言っていたそうである。想うに幕府は攘夷の勅諚を奉じたものの、容易に決行しそうにも見えないので、一時、郷里に帰って時機を待とうかと考えたこともあったのであろう。すると四月十一日から八郎は風邪気味で、葛湯などを飲みつつ山岡の四畳半に寝たまま、三笠町にも馬喰町にも出かけなかった。 #ref(2_42.rm) (朗読:RealMedia 形式 360KB、2'55'') 大川周明 おおかわ しゅうめい 1886-1957(明治19.12.6-昭和32.12.24) 国家主義者。山形県生れ。東大卒。満鉄入社後、猶存(ゆうぞん)社・行地社・神武会を結成。軍部に接近、三月事件・五‐一五事件などに関与。第二次大戦後、A級戦犯。著「近世欧羅巴植民史」など。 ◇参照:Wikipedia &link_wikipedia(大川周明){大川周明}、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。 *底本 底本:『清河八郎』行地社出版部    1927(昭和2)年2月11日 発行 NDC 分類:289(伝記:個人伝記) http://yozora.kazumi386.org/2/8/ndc289.html *年表 文久三年(一八六三) 二月二九日 京都において、学習院国事掛から直接、浪士総代に攘夷の勅諚と朝旨とをたまわる。総代これを拝領し、新徳寺に帰って八郎に渡す。山岡、鵜殿にも拝見させようと言って鵜殿に持参。鵜殿、巧みに懐におさめる。八郎・山岡、返却をせまるが請求に応ぜず。 三月二八日 江戸着。鵜殿、三笠町屋敷に出勤せず。八郎、藤本昇を使者とし、勅諚の返却をせまる。 ※ 帰府後の清河八郎は、日中はたいがい馬喰町井筒屋に行って石坂らと密議し、本所三笠町屋敷にも部屋をもっていたが、そこにはまれにしか行かなかった。夜は山岡家の四畳半に寝泊まる。 ※ 英の妹、桂(けい)、始終八郎の世話をする。八郎非命にたおれて後、石坂周造の夫人となる。 四月一日付 金子から八郎あてに手紙。 ※ 小栗上野介、閣老とはかり、市中無頼の徒を雇い、三笠町浪士の名をかたって乱暴狼藉を働かしめこれによって浪士の名を傷つけ、抑圧の口実を造らんと試みる。 ※ 浪士組、浮浪の巨魁神戸六郎をはじめ、朽葉新吉以下三十六名を捕らえ、三笠町屋敷の土蔵内で峻厳なる訊問をおこない、小栗上野介の苦肉策に出たことを知り得る。小栗上野介に使嗾されたむねの血判口上書を取り、山岡と高橋泥舟をして、厳重に幕府に詰問。幕府、至急三十六名の引き渡しを要求。 四月九日 夕方、高橋泥舟、山岡に向かい幕府から三十六名の引き渡し要求があったことを告げる。八郎、ただちに馬喰町にかけつけ、石坂周造・村上俊五郎の両人をともない、三笠町屋敷に急行して、神戸・朽葉を斬首。死体は両国橋から河中に投じ、首は両国広小路にさらす。その他の偽浪士は両刀をうばってみな放還。八郎、高橋を鞭韃し、血判口上書に対する幕府の答弁を要求。 四月一一日 八郎は風邪気味で、葛湯などを飲みつつ山岡の四畳半に寝たまま、三笠町にも馬喰町にも出かけず。 四月一二日 晩、水戸藩士と称する者が二人来て、八郎に面会を申し込む。不在と断わる。二人は客間にあがって山岡の帰るを待つ。夜ふけて山岡が馬喰町の石坂などと飲んできたらしく、非常に酔っぱらって帰る。 四月一二日付 八郎、郷里の父母にあてた書簡。 四月一三日 早朝、八郎、下駄を裏口にまわさせ、手ぬぐいを肩にして湯屋に行く。その帰りに隣家の高橋に寄る。高橋、登城の時刻が来たので八郎を残して出て行く。 ※ 八郎、しばらく高橋の妻やお桂と雑談、数本の白扇に書を記す。その後、山岡の家に帰り、衣服をあらためて山岡と対談中なりし前夜の二士と会い、いっしょに家を出る。八郎、招待を受けていた麻布一ノ橋の上ノ山藩邸に、金子与三郎を訪ねる。 ※ 上ノ山藩主、打球を催して朝から馬場でおこなう。 ※ 午後四時ごろ 八郎、金子の寓居を辞す。帰途につき一ノ橋を渡ったところで、浪士組の佐々木只三郎・速見又四郎・窪田千太郎・中山周助・高久安次郎および家永某により斬殺。柳沢家の人々が八郎の死骸を監視。 ※ 馬喰町井筒屋にいた石坂周造、馬を駆って飛ぶがごとく現場に馳せつけ、首を斬り取って羽織に押し包み、山岡の宅に持ち帰る。山岡、夜半に人知れず床下にうめる。その後、臭気がもれて仕方がないので、山岡・石坂両人がひそかに裏のグミの下五尺ばかり掘り下げてうめかえす。 ※ 当日夜、藤本昇が稲熊力之助以下数名の部下をひきいて、神田駿河台なる小栗上野介邸に夜襲を試み、小栗を生擒りする計画まで立てていたが、その夕、八郎の遭難ありしため万事齟齬。 ※ 杉浦梅潭、本所に住居のころ、佐々木只三郎が突然やってきて、今、清河を暗殺してきたということで、そのとき佐々木から金子の人傑たるを聞く。 ※ 清河八郎の暗殺とともに、浪士組はまったく改造国体としての意義をうしない去る。 四月一三日 夜、鵜殿鳩翁、取り締まり不行き届きの故をかどで浪人奉行を免ぜられる。 四月一四日 山岡・高橋両人は閉居。 ※ 庄内・小田原・中津・白河・相馬・高崎諸藩の兵をもって三笠町屋敷をかこみ、馬喰町の寓より石坂周造・村上俊五郎・和田理一郎・松沢良策・白井庄兵衛・藤本昇の六名を奉行所に引致、それぞれ諸藩にあずけて禁固。 ※ 八郎遭難の二、三日後、斎藤熊三郎、金子に八郎が預けておいた著述物を受け取りに行く。熊三郎、八郎暗殺ののち捕らえられて入牢、明治二年に出獄。そのとき藩吏の手をへて遺骸のありかを旧幕府の役人にたずねたけれど不明。 四月一七日 浪士組を新徴組と命名し、出羽の公領地二万七千石をこれにあてがい、これを庄内侯に委托して江戸市中巡警の任に当らしめる。 ※ 前後脱走してあるいは大和十津川の義挙に加わり、あるいは生野銀山の一挙に投じ、なかんずく水戸の正義派に加わりて大平山その他に戦える者多かった。 ※ ある夜、山岡の妻、グミの木の下から燐火が出たのでおどろく。八郎の首のことは、その時はじめて妻にも告げる。山岡、伝通院の側寺所静院〔処静院か〕の住職琳瑞和尚と相談し、秘密にこれを同寺に葬る。私費をもって八郎の墓を立て、そのそばに前年獄死した妾蓮の墓を立てる。 明治二年(一八六九) 郷里の菩提寺に移葬。八郎の父母弟妹、相集まって髑髏を洗ってみたら、右頭骨に刀痕があったとのこと。 明治二六(一八九三) 一〇月 正念寺廃寺となり、寺藉は同町長玄寺に合併。柴田吉五郎、檀家総代として無縁の白骨およそ三万を、下渋谷羽根沢の汲江寺に移葬して無縁塚を立てる。 明治四五(一九一二) 四月一四日 浅草伝法院で正四位を追贈された八郎の五十年祭。 四月二〇日 八郎の遺族斎藤治兵衛、汲江寺に至り塚の土を堀りて甕に納め、伝通院境内の墓石の下にほうむる。 *難字、求めよ。 所静院 処静院(しょじょういん)か。 至今 御伝唔 『周明全集』は「御伝語」。 故を廉で ゆえをかどで、か。 *スリーパーズ日記  昨年だったか、フランス政府発行の広報紙で、電子書籍特集をたまたま目にする。日本よりひとあし先に電子書籍が普及。記事によれば、フランス国内でのパソコンユーザーは比較的学歴が高く、かつ、紙の本の読書率も高いという調査結果が得られたという。web や電子書籍で本を読むユーザー層ほど、従来の紙の書籍も利用する。読書をしない層は、電子書籍であろうと紙の書籍であろうと読まない。たしか、こんな結論。ハゲしく納得。  電子書籍 vs 紙の書籍、というおきまりの対立構図よりもすんなりうなずける。この二者対立という論法は、まるで二十年前の電子機器が普及すれば紙の消費量が減少するという幻想の焼き増し記事を見せられているようで全く読む気がしない。新聞や雑誌の購読が減っているのは読者のせいではなくて、過去の妄想記事の「焼き増し」をくり返しているからじゃないだろうか。栗本『パンツ』読了。港千尋『書物の変』(せりか書房、2010.2)読み始める。  九日(日)早朝、徒歩にて山寺へ向かう。さつき晴れ。南からの冷たい風。さくらんぼと林檎の白い花、山すそにはブドウの棚。「まゆはきを おもかげにして べにのはな」……芭蕉と曾良がこのあたりを歩いた元禄のおもかげは、西方に見える朝日連峰から月山・葉山への稜線にも残る。べにばなが咲き始め、山寺のセミが鳴き始めるまで、まだ、ひと月ちょっとかかるだろう。首つりのカラスが数羽、風さらしになって道中を案内する。紅葉川両岸の山腹には桜が咲く。八時半、山寺着。イワツバメ、いちごアイス。休憩後、峯の浦へ向かう。  昨年夏に訪れたときには生物の気配がほとんどなかったが、今回は、まったく違う印象。足元にはカナチョロが出迎え、咲き終えたばかりのカタクリが実をつけている。山道にずっと桜の花びらが落ちる。陽のあたる岩場付近にはヤマツツジが咲き始め。今回の目的のひとつは、草樹が茂る前に石垣や広場を見たかったこと。一帯には杉の木がしげっているものの、幹はさほど太くない。おそらく戦後の植樹。ところどころに石垣が点在する。バレーボールコート一面くらいの広さの修験場跡、阿弥陀屋敷跡は周囲と植生が異なる。前方へ向けて傾斜があり、表土がしっかり固められている。傾斜上に建築物があったとすると、ふもとに現存する根本中堂をほうふつする。ただ、水の便がいいとはいえない。近くの小川の水量では、多人数が常駐するには足りない。  十一時、山寺駅前から、天童市内への土日・祝日運転の無料送迎バスで帰宅。来週には山王祭があるらしい。——もみぢがは ぴいすぴいすと いはつばめ、みねのうらには くさあをみたり。 2010.5.10:公開 2010.5.12:更新 ふんふんふん、フンドシよ。 妄想焼き増しは、目くそ鼻くそ、でした。/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ:&counter() ---- - 高橋泥舟や山岡鉄舟が、当時、どのくらい八郎の計画を把握し賛同していたのかについては、藤沢『回天の門』・小山松『清河』と本書とでは微妙に差がある。クライマックスでの八郎の心情もしかり。同郷の情が出たか、藤沢・小山松の結末には無理を感じる。 -- しだ (2010-05-11 03:31:15) - 本書中、高橋の登場は京で浪士取扱を拝命した後から。いっぽう山岡は無礼人斬殺前の、虎尾の会結成当初からのコアメンバー。八郎没して大政奉還・江戸無血開城の後、海舟は孤立無援の慶喜警護に高橋・山岡をあたらせる。慶喜—高橋・山岡—八郎の水戸のホットライン……ができあがっていた可能性は憶測が過ぎるだろうか。 -- しだ (2010-05-11 04:29:03) - 福山龍馬は、橋普請の回と友人の切腹の回とたしかこれまでに二度、三味をひいて歌っている。これから先、何回披露してくれるか。大川『清河』次週最終回です。 -- しだ (2010-05-12 02:53:32) - 検索、関連付け、並べ替え、置き換え、カウント、読み上げ、複製……。T-Time 系電子本で悩みどころが索引の用意。ページ固定の pdf ならいざ知らず、T-Time のような流動テキスト系では用意できても意味をなさない。何が、どのあたりに、どのくらいの頻度で出現するのかしないのか。ほんの数秒、数ページたらずで全体を高速認識できる手だてがないというのは、小作では気にならないが大作では致命的……って思うのは、あたしだけ? 落としどころが思いつかぬ。 -- しだ (2010-05-12 05:03:56) - ちなみに本書では「虎尾の会」という名称は使っていない。 -- しだ (2010-05-23 08:48:53) #comment
*MT*2_42-清河八郎(五)大川周明 *2010.5.8 第二巻 第四二号 清河八郎(五) 大川周明  第六章 清河八郎の最期     一 遭難直前の八郎     二 遭難の刹那     三 首級および遺骸のゆくえ     四 八郎は何故に暗殺されしか     五 八郎暗殺と金子与三郎     六 八郎死後の浪士組 &image(http://www.dl-market.com/images/uploader/620/2_42-1.gif,http://www.dl-market.com/product_info.php?products_id=66331) &ref(2_42-2.jpg) &ref(2_42-3.gif) [[【週刊ミルクティー*第二巻 第四二号】>http://www.dl-market.com/product_info.php?products_id=66331]] (http://www.dl-market.com/product_info.php?products_id=66331) ※ クリックするとダウンロードサイトへジャンプします。 (556KB) &color(red){定価:200円(税込)} p.125 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(32項目)p.128 &color(red){※ 傍点や傍線の見えにくい場合は、T-Time の文字品質(アンチエイリアス)を「標準」にしてご覧ください。}  帰府後の清河八郎は、日中はたいがい馬喰町井筒屋に行って石坂らと密議し、本所三笠町屋敷にも部屋をもっていたが、そこにはまれにしか行かなかった。しかして夜は山岡家の四畳半に寝泊まりしていた。山岡の家は伝通院裏、今の小石川竹早町にあって、高橋泥舟の家と隣り合わせていた。高橋の家は二階建ての十二室もある大きい家であったが、山岡の家はきわめて小さく、間数も四つぐらいしかなかった。  鉄舟はもと小野氏で、講武所の師範山岡静山の娘・英(ふさ)の入り婿として山岡家に養子となりしもの。泥舟は静山の弟、英の兄で、高橋家に養子になった人である。英の妹に桂(けい)というそのころ二十歳前後の娘がいて、始終八郎の世話をしていた。あるいは八郎と婚約があったともいうが、八郎非命にたおれて後、石坂周造の夫人となった。この夫人の談話によって、吾らは八郎遭難直前の様子を知ることができる。  その話によれば、八郎は京都から帰って後、とかく沈みがちで何か深く考えこんでいる様子であり、ときどき「しばらく帰省してこようか」などと言っていたそうである。想うに幕府は攘夷の勅諚を奉じたものの、容易に決行しそうにも見えないので、一時、郷里に帰って時機を待とうかと考えたこともあったのであろう。すると四月十一日から八郎は風邪気味で、葛湯などを飲みつつ山岡の四畳半に寝たまま、三笠町にも馬喰町にも出かけなかった。 #ref(2_42.rm) (朗読:RealMedia 形式 360KB、2'55'') 大川周明 おおかわ しゅうめい 1886-1957(明治19.12.6-昭和32.12.24) 国家主義者。山形県生れ。東大卒。満鉄入社後、猶存(ゆうぞん)社・行地社・神武会を結成。軍部に接近、三月事件・五‐一五事件などに関与。第二次大戦後、A級戦犯。著「近世欧羅巴植民史」など。 ◇参照:Wikipedia &link_wikipedia(大川周明){大川周明}、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。 *底本 底本:『清河八郎』行地社出版部    1927(昭和2)年2月11日 発行 NDC 分類:289(伝記:個人伝記) http://yozora.kazumi386.org/2/8/ndc289.html *年表 文久三年(一八六三) 二月二九日 京都において、学習院国事掛から直接、浪士総代に攘夷の勅諚と朝旨とをたまわる。総代これを拝領し、新徳寺に帰って八郎に渡す。山岡、鵜殿にも拝見させようと言って鵜殿に持参。鵜殿、巧みに懐におさめる。八郎・山岡、返却をせまるが請求に応ぜず。 三月二八日 江戸着。鵜殿、三笠町屋敷に出勤せず。八郎、藤本昇を使者とし、勅諚の返却をせまる。 ※ 帰府後の清河八郎は、日中はたいがい馬喰町井筒屋に行って石坂らと密議し、本所三笠町屋敷にも部屋をもっていたが、そこにはまれにしか行かなかった。夜は山岡家の四畳半に寝泊まる。 ※ 英の妹、桂(けい)、始終八郎の世話をする。八郎非命にたおれて後、石坂周造の夫人となる。 四月一日付 金子から八郎あてに手紙。 ※ 小栗上野介、閣老とはかり、市中無頼の徒を雇い、三笠町浪士の名をかたって乱暴狼藉を働かしめこれによって浪士の名を傷つけ、抑圧の口実を造らんと試みる。 ※ 浪士組、浮浪の巨魁神戸六郎をはじめ、朽葉新吉以下三十六名を捕らえ、三笠町屋敷の土蔵内で峻厳なる訊問をおこない、小栗上野介の苦肉策に出たことを知り得る。小栗上野介に使嗾されたむねの血判口上書を取り、山岡と高橋泥舟をして、厳重に幕府に詰問。幕府、至急三十六名の引き渡しを要求。 四月九日 夕方、高橋泥舟、山岡に向かい幕府から三十六名の引き渡し要求があったことを告げる。八郎、ただちに馬喰町にかけつけ、石坂周造・村上俊五郎の両人をともない、三笠町屋敷に急行して、神戸・朽葉を斬首。死体は両国橋から河中に投じ、首は両国広小路にさらす。その他の偽浪士は両刀をうばってみな放還。八郎、高橋を鞭韃し、血判口上書に対する幕府の答弁を要求。 四月一一日 八郎は風邪気味で、葛湯などを飲みつつ山岡の四畳半に寝たまま、三笠町にも馬喰町にも出かけず。 四月一二日 晩、水戸藩士と称する者が二人来て、八郎に面会を申し込む。不在と断わる。二人は客間にあがって山岡の帰るを待つ。夜ふけて山岡が馬喰町の石坂などと飲んできたらしく、非常に酔っぱらって帰る。 四月一二日付 八郎、郷里の父母にあてた書簡。 四月一三日 早朝、八郎、下駄を裏口にまわさせ、手ぬぐいを肩にして湯屋に行く。その帰りに隣家の高橋に寄る。高橋、登城の時刻が来たので八郎を残して出て行く。 ※ 八郎、しばらく高橋の妻やお桂と雑談、数本の白扇に書を記す。その後、山岡の家に帰り、衣服をあらためて山岡と対談中なりし前夜の二士と会い、いっしょに家を出る。八郎、招待を受けていた麻布一ノ橋の上ノ山藩邸に、金子与三郎を訪ねる。 ※ 上ノ山藩主、打球を催して朝から馬場でおこなう。 ※ 午後四時ごろ 八郎、金子の寓居を辞す。帰途につき一ノ橋を渡ったところで、浪士組の佐々木只三郎・速見又四郎・窪田千太郎・中山周助・高久安次郎および家永某により斬殺。柳沢家の人々が八郎の死骸を監視。 ※ 馬喰町井筒屋にいた石坂周造、馬を駆って飛ぶがごとく現場に馳せつけ、首を斬り取って羽織に押し包み、山岡の宅に持ち帰る。山岡、夜半に人知れず床下にうめる。その後、臭気がもれて仕方がないので、山岡・石坂両人がひそかに裏のグミの下五尺ばかり掘り下げてうめかえす。 ※ 当日夜、藤本昇が稲熊力之助以下数名の部下をひきいて、神田駿河台なる小栗上野介邸に夜襲を試み、小栗を生擒りする計画まで立てていたが、その夕、八郎の遭難ありしため万事齟齬。 ※ 杉浦梅潭、本所に住居のころ、佐々木只三郎が突然やってきて、今、清河を暗殺してきたということで、そのとき佐々木から金子の人傑たるを聞く。 ※ 清河八郎の暗殺とともに、浪士組はまったく改造国体としての意義をうしない去る。 四月一三日 夜、鵜殿鳩翁、取り締まり不行き届きの故をかどで浪人奉行を免ぜられる。 四月一四日 山岡・高橋両人は閉居。 ※ 庄内・小田原・中津・白河・相馬・高崎諸藩の兵をもって三笠町屋敷をかこみ、馬喰町の寓より石坂周造・村上俊五郎・和田理一郎・松沢良策・白井庄兵衛・藤本昇の六名を奉行所に引致、それぞれ諸藩にあずけて禁固。 ※ 八郎遭難の二、三日後、斎藤熊三郎、金子に八郎が預けておいた著述物を受け取りに行く。熊三郎、八郎暗殺ののち捕らえられて入牢、明治二年に出獄。そのとき藩吏の手をへて遺骸のありかを旧幕府の役人にたずねたけれど不明。 四月一七日 浪士組を新徴組と命名し、出羽の公領地二万七千石をこれにあてがい、これを庄内侯に委托して江戸市中巡警の任に当らしめる。 ※ 前後脱走してあるいは大和十津川の義挙に加わり、あるいは生野銀山の一挙に投じ、なかんずく水戸の正義派に加わりて大平山その他に戦える者多かった。 ※ ある夜、山岡の妻、グミの木の下から燐火が出たのでおどろく。八郎の首のことは、その時はじめて妻にも告げる。山岡、伝通院の側寺所静院〔処静院か〕の住職琳瑞和尚と相談し、秘密にこれを同寺に葬る。私費をもって八郎の墓を立て、そのそばに前年獄死した妾蓮の墓を立てる。 明治二年(一八六九) 郷里の菩提寺に移葬。八郎の父母弟妹、相集まって髑髏を洗ってみたら、右頭骨に刀痕があったとのこと。 明治二六(一八九三) 一〇月 正念寺廃寺となり、寺藉は同町長玄寺に合併。柴田吉五郎、檀家総代として無縁の白骨およそ三万を、下渋谷羽根沢の汲江寺に移葬して無縁塚を立てる。 明治四五(一九一二) 四月一四日 浅草伝法院で正四位を追贈された八郎の五十年祭。 四月二〇日 八郎の遺族斎藤治兵衛、汲江寺に至り塚の土を堀りて甕に納め、伝通院境内の墓石の下にほうむる。 *難字、求めよ。 所静院 処静院(しょじょういん)か。 至今 御伝唔 『周明全集』は「御伝語」。 故を廉で ゆえをかどで、か。 *スリーパーズ日記  昨年だったか、フランス政府発行の広報紙で、電子書籍特集をたまたま目にする。日本よりひとあし先に電子書籍が普及。記事によれば、フランス国内でのパソコンユーザーは比較的学歴が高く、かつ、紙の本の読書率も高いという調査結果が得られたという。web や電子書籍で本を読むユーザー層ほど、従来の紙の書籍も利用する。読書をしない層は、電子書籍であろうと紙の書籍であろうと読まない。たしか、こんな結論。ハゲしく納得。  電子書籍 vs 紙の書籍、というおきまりの対立構図よりもすんなりうなずける。この二者対立という論法は、まるで二十年前の電子機器が普及すれば紙の消費量が減少するという幻想の焼き増し記事を見せられているようで全く読む気がしない。新聞や雑誌の購読が減っているのは読者のせいではなくて、過去の妄想記事の「焼き増し」をくり返しているからじゃないだろうか。栗本『パンツ』読了。港千尋『書物の変』(せりか書房、2010.2)読み始める。  九日(日)早朝、徒歩にて山寺へ向かう。さつき晴れ。南からの冷たい風。さくらんぼと林檎の白い花、山すそにはブドウの棚。「まゆはきを おもかげにして べにのはな」……芭蕉と曾良がこのあたりを歩いた元禄のおもかげは、西方に見える朝日連峰から月山・葉山への稜線にも残る。べにばなが咲き始め、山寺のセミが鳴き始めるまで、まだ、ひと月ちょっとかかるだろう。首つりのカラスが数羽、風さらしになって道中を案内する。紅葉川両岸の山腹には桜が咲く。八時半、山寺着。イワツバメ、いちごアイス。休憩後、峯の浦へ向かう。  昨年夏に訪れたときには生物の気配がほとんどなかったが、今回は、まったく違う印象。足元にはカナチョロが出迎え、咲き終えたばかりのカタクリが実をつけている。山道にずっと桜の花びらが落ちる。陽のあたる岩場付近にはヤマツツジが咲き始め。今回の目的のひとつは、草樹が茂る前に石垣や広場を見たかったこと。一帯には杉の木がしげっているものの、幹はさほど太くない。おそらく戦後の植樹。ところどころに石垣が点在する。バレーボールコート一面くらいの広さの修験場跡、阿弥陀屋敷跡は周囲と植生が異なる。前方へ向けて傾斜があり、表土がしっかり固められている。傾斜上に建築物があったとすると、ふもとに現存する根本中堂をほうふつする。ただ、水の便がいいとはいえない。近くの小川の水量では、多人数が常駐するには足りない。  十一時、山寺駅前から、天童市内への土日・祝日運転の無料送迎バスで帰宅。来週には山王祭があるらしい。——もみぢがは ぴいすぴいすと いはつばめ、みねのうらには くさあをみたり。 2010.5.10:公開 2010.5.12:更新 ふんふんふん、フンドシよ。 妄想焼き増しは、目くそ鼻くそ、でした。/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ:&counter() ---- - 高橋泥舟や山岡鉄舟が、当時、どのくらい八郎の計画を把握し賛同していたのかについては、藤沢『回天の門』・小山松『清河』と本書とでは微妙に差がある。クライマックスでの八郎の心情もしかり。同郷の情が出たか、藤沢・小山松の結末には無理を感じる。 -- しだ (2010-05-11 03:31:15) - 本書中、高橋の登場は京で浪士取扱を拝命した後から。いっぽう山岡は無礼人斬殺前の、虎尾の会結成当初からのコアメンバー。八郎没して大政奉還・江戸無血開城の後、海舟は孤立無援の慶喜警護に高橋・山岡をあたらせる。慶喜—高橋・山岡—八郎の水戸のホットライン……ができあがっていた可能性は憶測が過ぎるだろうか。 -- しだ (2010-05-11 04:29:03) - 福山龍馬は、橋普請の回と友人の切腹の回とたしかこれまでに二度、三味をひいて歌っている。これから先、何回披露してくれるか。大川『清河』次週最終回です。 -- しだ (2010-05-12 02:53:32) - 検索、関連付け、並べ替え、置き換え、カウント、読み上げ、複製……。T-Time 系電子本で悩みどころが索引の用意。ページ固定の pdf ならいざ知らず、T-Time のような流動テキスト系では用意できても意味をなさない。何が、どのあたりに、どのくらいの頻度で出現するのかしないのか。ほんの数秒、数ページたらずで全体を高速認識できる手だてがないというのは、小作では気にならないが大作では致命的……って思うのは、あたしだけ? 落としどころが思いつかぬ。 -- しだ (2010-05-12 05:03:56) - ちなみに本書では「虎尾の会」という名称は出てこない。 -- しだ (2010-05-23 08:48:53) #comment

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