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*MT*2_39-清河八郎(二)大川周明 *2010.4.17 第二巻 第三九号 清河八郎(二) 大川周明  第三章 東挙蹉跌と潜匿     一 水戸天狗党視察     二 夷人館焼き打ちの計画     三 無礼人斬殺と計画の蹉跌     四 江戸脱走     五 越後路の彷徨と江戸潜入     六 水戸より仙台にはしる     七 奥州潜行     八 西上の決行 &image(http://www.dl-market.com/images/uploader/620/2_39-1.gif,http://www.dl-market.com/product_info.php?products_id=63323) &ref(2_39-2.gif) [[【週刊ミルクティー*第二巻 第三九号】>http://www.dl-market.com/product_info.php?products_id=63323]] (http://www.dl-market.com/product_info.php?products_id=63323) ※ クリックするとダウンロードサイトへジャンプします。 (700KB) ※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。 ※ JIS X 0213・ttz 形式。 ※ この作品は青空文庫にて入力中です。翻訳・朗読・転載は自由です。 (c) Copyright is public domain. |COLOR(red):定価:200円(税込)| p.179 / *99 出版| 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(33項目)p.164 ※ 傍点や傍線の見えにくい場合は、T-Time の文字品質(アンチエイリアス)を「標準」にしてご覧ください。 *飛び出せ! iBad! |COLOR(red):オリジナル版|COLOR(blue):週刊ミルクティー*現代表記版| |COLOR(red):清河八郎(二)|COLOR(blue):清河八郎(二)| |COLOR(red):大川周明|COLOR(blue):大川周明| |COLOR(red): 八月一日仙臺に着いた八郎は、直樣舊知櫻田敬助に頼つた。敬助は仙臺藩の兵具奉行・養賢堂指南役として衆望を集めて居た櫻田良佐の息である。八郎の依頼を受けて快く承知し、仙臺藩の軍馬師匠にして天下に名高かりし戸津宗之進と共に、八郎庇護のために全力を盡した。兩人は仙臺では人目が多いと云ふので、松嶋の酒樓に八郎及び安積を誘ひ、快談酣醉の後、其夜は松嶋を距る二里ばかり、今福村の戸津の乳母の家に一泊せしめ、翌日松嶋の南約五里、松ヶ浦の濱邊なる蒲生村に案内し、戸津の娚[#「娚」は底本のまま]なる小野房五郎の家に、江戸の道具屋と云ふことで當分滯留のことに取計らつた。それから四五日過ぎて、戸津よりの手紙で安積は石卷なる戸津の知合の所に移ることになつた。|COLOR(blue):〔文久元年、一八六一〕八月一日、仙台についた八郎は、すぐさま旧知桜田(さくらだ)敬助にたよった。敬助は仙台藩の兵具奉行・養賢堂(ようけんどう)指南役として衆望を集めていた桜田良佐(りょうさ)の息である。八郎の依頼を受けて快く承知し、仙台藩の軍馬師匠にして天下に名高かりし戸津(とづ)宗之進とともに、八郎庇護のために全力をつくした。両人は仙台では人目が多いというので、松島の酒楼に八郎および安積をいざない、快談酣酔(かんすい)の後、その夜は松島をへだたる二里ばかり、今福村の戸津の乳母の家に一泊せしめ、翌日、松島の南約五里、松ヶ浦の浜辺なる蒲生村(がもうむら)に案内し、戸津の甥(おい)なる小野房五郎の家に、江戸の道具屋ということで当分滞留のことに取りはからった。それから四、五日すぎて、戸津よりの手紙で安積は石巻(いしのまき)なる戸津の知り合いの所に移ることになった。| |COLOR(red): さて蒲生に落付いて見ると、八郎は荐りに國元の樣子が氣にかゝり、八月十五日遂に意を決して潜居を出で、二口越を經て羽前山寺に到り、天童町の旅宿に投じて安積艮齋の同門なる星野彦七を招いた。招ぎに應じて來たのは星野の兄で、彦七は先頃死去したとのことである。のみならず此邊は、八郎が屡々往來した處なれば、宿の主人も顏を見知つて、先年山形で劔術を遣はれた先生に良く似て居るなどゝ云ふ。八郎は大いに閉口し、翌日早々歸仙の途に就き、關山峠を越えて十七日仙臺に出で、十八日また蒲生の田舍に潜居することゝなつた。(略)|COLOR(blue): さて蒲生におちついてみると、八郎はしきりに国もとの様子が気にかかり、八月十五日、ついに意を決して潜居を出で、二口(ふたくち)越をへて羽前山寺にいたり、天童町の旅宿に投じて安積艮斎の同門なる星野彦七を招いた。招(お)ぎに応じてきたのは星野の兄で、彦七は先ごろ死去したとのことである。のみならずこの辺りは、八郎がしばしば往来した所なれば、宿の主人も顔を見知って、先年山形で剣術をつかわれた先生によく似ているなどという。八郎はおおいに閉口し、翌日早々、帰仙の途につき、関山峠(せきやまとうげ)を越えて十七日、仙台に出で、十八日また蒲生の田舎に潜居することとなった。(略)| #ref(2_39.rm) (朗読:RealMedia 形式 444KB、3'36'') 清河八郎 きよかわ はちろう 1830-1863 桜田敬助 さくらだ 〓 仙台。桜田良佐の息。 桜田良佐 さくらだ りょうさ 1797-1876 敬助の父。仙台藩の兵具奉行・養賢堂指南役。 戸津宗之進 とづ 〓 仙台藩の軍馬師匠。 安積五郎 あさか ごろう 1828-1864 本姓を飯田。名は武貞。呉服橋の易者安積光徳の男。 小野房五郎 蒲生村。戸津の甥か。 星野彦七 天童。安積艮斎塾の同門。 養賢堂 ようけんどう 仙台藩校。 今福村 松ヶ浦 まつがうら 松ヶ浜か。現、宮城郡七ヶ浜。 蒲生村 がもうむら 現、仙台市蒲生。旧宮城郡地区。 二口越 → 二口峠 二口峠 ふたくちとうげ 標高934m。名取川上流の二口峡谷をさかのぼった、宮城と山形の県境の尾根筋に至る峠。 関山峠 せきやまとうげ 宮城県と山形県とを結ぶ峠。標高650m。現在は国道48号線が通っている。 大川周明 おおかわ しゅうめい 1886-1957(明治19.12.6-昭和32.12.24) 国家主義者。山形県生れ。東大卒。満鉄入社後、猶存(ゆうぞん)社・行地社・神武会を結成。軍部に接近、三月事件・五‐一五事件などに関与。第二次大戦後、A級戦犯。著「近世欧羅巴植民史」など。 ◇参照:Wikipedia &link_wikipedia(大川周明){大川周明}、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。 *底本 底本:『清河八郎』行地社出版部    1927(昭和2)年2月11日 発行 NDC 分類:289(伝記:個人伝記) http://yozora.kazumi386.org/2/8/ndc289.html *年表 万延元(一八六〇) ※ 冬ごろより、潮来を中心として水戸義団または水戸天狗と称する一党が結ばれる。 文久元(一八六一) 一月二七日 佐原付近に村上俊五郎を訪問すると称して、一僕をともないて江戸を出発。 ※ 酒々井・成田をへて飯岡村の富豪・大川平兵衛の家に立ち寄る。面会できず。立ち去る。 ※ 薄暮、神崎村に着き、村上俊五郎が宿っている石坂周造の家を訪う。初対面。 二月一日 三人、連れ立って潮来に向かう。 ※ 佐原の一旅館にあがる。船を利根川に浮かべて潮来にいたり、石坂が一度泊まったという酒楼にあがる。傍若無人に豪飲放歌。天狗が詰問に来る。 ※ 翌朝 天狗の方から、面会するにもおよばずとの申し出。 ※ 潮来をひきあげ、佐原の町で一杯あげ、神崎に三泊。江戸に帰る。 ※ 去冬以来、いくたびか神田お玉ヶ池なる八郎宅の土蔵に会合、密議。同志の主なる者は、 幕臣の山岡鉄舟、 薩藩の伊牟田尚平・樋渡八兵衛・神田橋直助・益満新八郎、 芸州浪人、池田徳太郎、 川越の浪士西川練造、 肥前有馬出身の北有馬太郎、 下総神崎の村上俊五郎・石坂周造、 安積五郎・笠井伊蔵など。 五月中旬 ※ 秋月爽涼の節を期して断然義旗をひるがえすことに決し相約する。 五月二〇日 水戸の有志、両国万八楼にもよおされる書画会を機とし、八郎との会談を切望しているむねを申し込む。八郎、その懇請に応じ同志七人と万八楼におもむき、水戸の有志と快談しながら痛飲。薄暮、帰路、日本橋の甚右衛門町を通りかかり、八郎、無礼者を斬りすてる。 五月二一日 八郎、伊牟田・安積・村上の三人と共にひそかに家を出る。 五月二二日 川越奥富村の広徳寺につく。西川・北有馬の両人もついで来会。 五月二四日 おととい以来入間川の宿に、八州取り締まり三人および捕手の者ども百人余が集会していることを知る。黄昏におよんで蕭々と雨。西川・北有馬両人と別盃をくみ交わして寺を出る。この両人はただちに捕らえられ、江戸の獄中に非命の最期をとげる。 五月二五日 四人、闇にまぎれて江戸に入る。山岡鉄舟、不在。八郎と安積は池田徳太郎の宅をうかがい、村上と伊牟田は八郎の宅を探り、昌平橋ほとりの大阪屋でおちあうことにする。 ※ 大阪屋に忍び寄る。笠井伊蔵の叔母がいあわせて、池田・笠井をはじめ弟熊三郎におよび妾蓮が、みな捕らえられて伝馬町に投獄されたこと、かつ村上・伊牟田の両人も先刻大阪屋に立ち寄ったが、止まりかねて立ち去ったことを告げる。 ※ 八郎、大阪屋を立ち出でる。小石川をさして行く途上に水野行蔵に会う。打ち連れて市ヶ谷八幡に行き境内の茶店にあがる。父母に送る遺書をしたためてこれを水野にたくし、水野が匆々立ち去った後に安積といっしょに山岡の宅に行く。在宅。村上・伊牟田は先刻立ち寄ってただちに水戸に奔ったことを告げる。 ※ 山岡の家を出た八郎は、奉行邸前で自害してはてようと覚悟をさだめ、上野にまわって団子坂にいたり、とある茶店にあがって父母兄弟に送る遺書をしたため、後事の委細を安積にたくし終わり、悠然酒を命じて生別の盃をくみ交わす。 ※ 安積、友人嵩春斎の家を訪うことをすすめる。ふたたび上野の山に入りて午睡。日暮れて嵩の家に行く。ひとまずその家にひそむ。 五月二七日 八郎、書面をもって薩邸の同志を招く。昼ごろに樋渡八兵衛・神田橋直助の両人が同道。 五月二八日 出奔。夜に入りて総髪を半髪となし、安積は職人体に姿を変える。樋渡と相談し、いったん水戸に亡命して七月中に出府のうえ、またまた再会をはかることとする。夜の十時ごろ、嵩の宅を辞し去る。永代橋に着いて人のすくのを見合わせ、例の訴状および大小を橋ほとりの番所の前に差し置き、すぐさま立川通をすぎて行徳行きの船をやとい、明け方に行徳につく。 五月二九日 行徳から神崎村に向かい、石坂周造を訪ねようとするが、すでに捕らわれた様子なので道を転じて府川から牛久にいたる。 五月三〇日 水戸に入ろうと土浦まで行くが警戒厳重。やむなくさらに路を転じて筑波山麓に一泊。 六月一日 間道から水戸に入ろうとしたが、これまた警戒厳重で中止。その夜、羽黒に泊まる。安積の言葉に従って日光から山越しに会津に出で、会津から越後に奔ってしばらく動静を見ることに決する。 六月三日 宇都宮の旅宿で、水戸藩士の東禅寺襲撃を知る。八郎が江戸を脱出した五月二八日の夜半、有賀半弥以下十三名の過激派が、英国公使館にあてられた高輪東禅寺に討ち入り、書記官および領事を負傷させる。 ※ 宇都宮から今市に出で、今市から右なる山路を分け入り滝の湯に一泊。 翌日 高原山で路に迷い、かろうじて木樵のかよう小径を探りあて、それから川路の湯をすぎ、二日路をへてようやく会津若松の城下に出で、野津から津川にいたり、船を雇うて阿賀川を下り、越後の馬下村につき、五泉町をへる。 六月一一日 新潟着。安積の知り合いなる医者を訪ねたが取り合わない。やむなく旅館に泊まる。 ※ 安積を庄内に潜行。新潟に三泊。 ※ 同道して瀬波に出でる。船を雇うて自身もまた庄内領の温海温泉まで同行。 翌日 安積を鶴岡城下につかわす。 翌日 安積、帰り来たりて危険なるよしを報告。また新潟に帰る。 ※ 滞在三日の後に新潟を発し、三条・長岡をへて松の山温泉にいたり、ここに半月あまり滞留。 七月一二日 松の山を発し、信濃川に沿うて信州に出で、渋温泉に泊まる。 七月一三日 七里の山路を越えて草津に出る。 ※ 草津より大戸にいたり、国定忠治の墓に参詣。高崎をすぎて武州本庄に入り、矢斗村の尾高長七郎を訪う。不在。行き先を追うてようやく面会。 翌日 八幡町の旅宿でゆっくり様子を聴く。 ※ ふたたび上州倉賀野に引き返す。ここから船で利根川を下ることとする。 七月一八日 両人、倉賀野から船に投じる。 七月一九日 栗橋につく。利根川筋の固めひとかたならず。栗橋と関宿との間にある観音堂で船をすて、越ヶ谷に一泊。 七月二〇日 江戸、着。越ヶ谷の宿屋でも、町役人に調べられ、後には八州取り締まりの者に調べられたが、まず故なくすむ。 ※ 江戸に着いてすぐさま三田の薩摩の装束屋敷にいたり、安積をして益満新八郎を招かせたが、朝から外出して不在。上屋敷の方に行き、それとなく樋渡および神田橋の様子をさぐるに、両人とも六月中に帰国したことを知る。日暮、神田お玉ヶ池にまわる。夜分になってから、嵩春斎の門前にて張番と遭遇。闇にまぎれ逃げ去る。金杉より千住に出て奥州街道を北にいそぎ、越ヶ谷をすぎて夜が明ける。 七月二一日 わざと迂路を取り、昼すぎに菖蒲町につく。その日はここに宿をとる。水戸に入ることを決心。 七月二二日 いろいろに迂回して古河に出で、野木の宿に泊まる。 七月二三日 奥州街道より結城に出る。ここから烏山にいたり、舟に浮かんで水戸に入るつもりであったが、あまりの迂路なればとて真岡をへて茂木に向かう。茂木の手前で臨時の関所に呼び止められ、不意の糾問に狼狽。辛くもまぬがれる。茂木でも糾問。これまた言いぬけ、茂木から一里半ばかりで那珂川を越えて水戸領に入り野沢に泊まる。 七月二四日 両人、那珂川を舟で下り、無事に水戸に入る。菊池寛三郎を訪う。村上・伊牟田の両同志は、五月二五、六日ごろ磯浜の名主古渡理兵衛方に落ちのび、ときどき菊池にも忍んできて、ひたすら八郎の到着を待っていたが、いっこう姿を見せないので、六月一日ごろ八郎を探すため、また江戸の方へ出立したとのこと。 ※ 止まること三日、ひとまず仙台の方に同志をたずねて行くことに決す。水戸を去る。 ※ 浜街道の村々で潮湯をあび、山海の景色を賞しながら相馬領に入り、中村の宿屋に着いて岡部正蔵を招く。伊牟田のことを問えば、中村には来ないという。 八月一日 仙台、着。旧知桜田敬助にたよる。戸津宗之進とともに八郎を庇護。松島の酒楼に八郎および安積をいざない快談酣酔。その夜は今福村の戸津の乳母の家に一泊。 八月二日 蒲生村に案内し、戸津の甥なる小野房五郎の家に当分滞留のことに取りはからう。 ※ 四、五日すぎて、戸津よりの手紙で安積は石巻なる戸津の知り合いの所に移る。 八月一五日 八郎、潜居を出で、二口越をへて羽前山寺にいたり、天童町の旅宿に投じて安積艮斎の同門なる星野彦七を招く。彦七は先ごろ死去したとのこと。 八月一六日 早々、帰仙の途につき、関山峠を越える。 八月一七日 仙台に出でる。 八月一八日 また蒲生の田舎に潜居。 八月二七日 戸津が蒲生に訪れて、伊牟田尚平が八郎をたずねて仙台に来たり、桜田がこれを塩釜に案内して八郎のいたるを待つむねを告げる。雨を侵して戸津と同道、夜に入りて塩釜に着く。伊牟田はたまたま相馬に岡部正蔵を訪うて八郎のゆくえが判明し、狂喜して飛んできた。 翌朝 舟を松島湾にうかべる。千賀の浦を過ぐる。 翌日 伊牟田、仙台を去る。桜田良佐、伊牟田のために路用を整える。同日、桜田は八郎を高城丹後に頼むため小舟越まで同道。 九月五日 桜田は仙台に帰り、八郎は東北に向かって出立。八郎、清水川・気仙沼をへて大津から山間に入り、南部領の瀬田前〔世田米か〕で、安積といっしょになる。 ※ 相ともないて遠野城下にいたり、江田大之進の家を訪う。江田の家に四泊。 ※ 後、また海浜の方に潜行し、八日目にふたたび遠野に帰り、夜に入りて江田の家にいたる。江田は親切に滞留をすすめたけれど、その夜一泊。 翌朝 遠野を去る。遠野から御輪峠〔五輪峠か〕をこえてまた仙台領に出で、岩井堂〔岩谷堂か〕・水沢をへて高館・衣川の史跡を訪い、ついで一ノ関にいたり、旧知の一剣客をたずねて若干の路用を借りようとするが応じず。 ※ 一ノ関から西に向かい、川口をへて六角峠をこえ、鬼首の轟湯に旅の疲れをやすめた後、新庄領の向町にいたり、すこしく引き返して星ノ湯という温泉にひそむ。安積を郷里近村の別懇の一商人のもとにつかわし、路用を無心させかつ様子を探らせる。 ※ 数日の後に安積は金二十両をもたらして帰る。ただちに星ノ湯を去り、岩手〔岩出山か〕から新町に出でる。 一〇月七日 薄暮、仙台、着。伊牟田尚平、戸津の家に彼を待っている。 ※ 三人あいともないて京都にのぼり、ひそかに封事をたてまつり、東西呼応すれば、かならず回天の偉業を成就するであろうと主張。伊牟田はじめ一同みな、この言に服す。 一〇月八日 夜、濃かに別盃をくみ交わす。 一〇月九日 昧爽、仙台を出立。 ※ 八郎・伊牟田・安積の三人、白石・飯坂に泊まる。 ※ 福島より奥州街道をのぼり、太田原〔栃木県大田原か〕から日光街道に入りて今市に出で、さらに栃木から利根川を越える。 ※ 秩父の山中に入り、三峰山に登りて頂上の宿坊に泊まる。夷狄征伐祈願のため参拝。 翌朝 三峰山を発し、雁坂峠の険をこえて信州に入らんとし、行くこと一里あまりで関所の取り調べに時をついやし、その夜は山中の民家に泊まる。 翌日 甲府、着。土橋鉞四郎を訪問。山岡への手紙をたくす。 ※ 和宮関東下向と途中に出会う。道中の警戒厳重。東海道を取ることに変更。鰍沢から船で富士川を下り、岩淵に上陸して由井〔由比か〕に泊まる。 ※ 間道をとりて大井川を渡り、相良・横須賀・見付をへて三方ヶ原をすぎ、蹴川の関をこえて豊川に出で、稲荷神社に詣でる。 一一月一日 熱田大神宮に参詣して尊王攘夷祈誓の神楽を奏する。 ※ 熱田から舟で桑名に向かう。桑名に上陸、追分から伊勢路に入る。 一一月四日 山田につく。 一一月五日 内宮に参拝。この日からまた前髪をたくわえて総髪となる。この日、山田大路親彦を訪う。二日にわたりの会談。三人、山田からいったん松坂に引き返す。 一一月七日 早朝、月本から伊賀路に入り、上野城下にいたりて荒木又右衛門の仇討ち場の茶店に休む。それから笠置山にのぼって後醍醐天皇の行在所を拝し、山をくだり奈良に近き小村に泊まる。 一一月八日 春日神社を拝して宇治にいたり、川岸の菊屋に泊まる。 一一月*九日 伏見のそばを過ぎ、黄檗寺に立ち寄って京都に入り、三条の河畔なる一逆旅に投じる。 文久二(一八六二) 三月四日付 山岡鉄舟、清河に宛てたる書簡。 ※ 「翌日」「翌朝」など期日不詳の箇所はそのまま。 ※ * 底本では「十月」。 *難字、求めよ。 大平日 愧顔 知已 決心略をもって 総て 弛廃ぜる *スリーパーズ日記 若干、句読点を改めた。 霧顯 → 露顕 爛燦 → 燦爛 二十入日 → 二十八日 栲問 → 拷問 拶挨 → 挨拶 娚 → 甥 耘耨 → 耨耘 志土 → 志士 宵壤 → 霄壌  以上、底本を改めた。若干の地名に編注をつけた。艮齋と艮齊の混用は艮斎とした。(2010.4.20)  ペース配分を誤った。欲張って「第三章・第四章」を計画したものの、大幅に発行が遅れる。さらに、難字・人名・地名の確認に手間取る。結局、分割して第四章を次週にまわすことにする。仙台に遅れること一週間弱、ようやく山形も開花宣言。本日、天童市内で三分咲き。  十四日、アイスランド、火山噴火。中国、青海省大地震。(2010.4.22) *清河八郎の八不思議 1)八郎の二つの肖像の謎。 2)八郎の紋の謎。 3)「幕末の史劇は、清河八郎が幕をあけ、坂本龍馬が閉じた」の謎。 4)八郎の購入した活字版の謎。 5)仙台藩士、桜田敬助の謎。 6)真島雄之助、佐藤与之助、笠井伊蔵、山岡鉄舟、益満休之助の謎。 7)…… 8)…… 2010.4.22:公開 2010.4.23:更新 芽くそ、花くそ、媚びの会。/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ:&counter() ---- #comment
*MT*2_39-清河八郎(二)大川周明 *2010.4.17 第二巻 第三九号 清河八郎(二) 大川周明  第三章 東挙蹉跌と潜匿     一 水戸天狗党視察     二 夷人館焼き打ちの計画     三 無礼人斬殺と計画の蹉跌     四 江戸脱走     五 越後路の彷徨と江戸潜入     六 水戸より仙台にはしる     七 奥州潜行     八 西上の決行 &image(http://www.dl-market.com/images/uploader/620/2_39-1.gif,http://www.dl-market.com/product_info.php?products_id=63323) &ref(2_39-2.gif) [[【週刊ミルクティー*第二巻 第三九号】>http://www.dl-market.com/product_info.php?products_id=63323]] (http://www.dl-market.com/product_info.php?products_id=63323) ※ クリックするとダウンロードサイトへジャンプします。 (700KB) ※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。 ※ JIS X 0213・ttz 形式。 ※ この作品は青空文庫にて入力中です。翻訳・朗読・転載は自由です。 (c) Copyright is public domain. |COLOR(red):定価:200円(税込)| p.179 / *99 出版| 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(33項目)p.164 ※ 傍点や傍線の見えにくい場合は、T-Time の文字品質(アンチエイリアス)を「標準」にしてご覧ください。 *飛び出せ! iBad! |COLOR(red):オリジナル版|COLOR(blue):週刊ミルクティー*現代表記版| |COLOR(red):清河八郎(二)|COLOR(blue):清河八郎(二)| |COLOR(red):大川周明|COLOR(blue):大川周明| |COLOR(red): 八月一日仙臺に着いた八郎は、直樣舊知櫻田敬助に頼つた。敬助は仙臺藩の兵具奉行・養賢堂指南役として衆望を集めて居た櫻田良佐の息である。八郎の依頼を受けて快く承知し、仙臺藩の軍馬師匠にして天下に名高かりし戸津宗之進と共に、八郎庇護のために全力を盡した。兩人は仙臺では人目が多いと云ふので、松嶋の酒樓に八郎及び安積を誘ひ、快談酣醉の後、其夜は松嶋を距る二里ばかり、今福村の戸津の乳母の家に一泊せしめ、翌日松嶋の南約五里、松ヶ浦の濱邊なる蒲生村に案内し、戸津の娚[#「娚」は底本のまま]なる小野房五郎の家に、江戸の道具屋と云ふことで當分滯留のことに取計らつた。それから四五日過ぎて、戸津よりの手紙で安積は石卷なる戸津の知合の所に移ることになつた。|COLOR(blue):〔文久元年、一八六一〕八月一日、仙台についた八郎は、すぐさま旧知桜田(さくらだ)敬助にたよった。敬助は仙台藩の兵具奉行・養賢堂(ようけんどう)指南役として衆望を集めていた桜田良佐(りょうさ)の息である。八郎の依頼を受けて快く承知し、仙台藩の軍馬師匠にして天下に名高かりし戸津(とづ)宗之進とともに、八郎庇護のために全力をつくした。両人は仙台では人目が多いというので、松島の酒楼に八郎および安積をいざない、快談酣酔(かんすい)の後、その夜は松島をへだたる二里ばかり、今福村の戸津の乳母の家に一泊せしめ、翌日、松島の南約五里、松ヶ浦の浜辺なる蒲生村(がもうむら)に案内し、戸津の甥(おい)なる小野房五郎の家に、江戸の道具屋ということで当分滞留のことに取りはからった。それから四、五日すぎて、戸津よりの手紙で安積は石巻(いしのまき)なる戸津の知り合いの所に移ることになった。| |COLOR(red): さて蒲生に落付いて見ると、八郎は荐りに國元の樣子が氣にかゝり、八月十五日遂に意を決して潜居を出で、二口越を經て羽前山寺に到り、天童町の旅宿に投じて安積艮齋の同門なる星野彦七を招いた。招ぎに應じて來たのは星野の兄で、彦七は先頃死去したとのことである。のみならず此邊は、八郎が屡々往來した處なれば、宿の主人も顏を見知つて、先年山形で劔術を遣はれた先生に良く似て居るなどゝ云ふ。八郎は大いに閉口し、翌日早々歸仙の途に就き、關山峠を越えて十七日仙臺に出で、十八日また蒲生の田舍に潜居することゝなつた。(略)|COLOR(blue): さて蒲生におちついてみると、八郎はしきりに国もとの様子が気にかかり、八月十五日、ついに意を決して潜居を出で、二口(ふたくち)越をへて羽前山寺にいたり、天童町の旅宿に投じて安積艮斎の同門なる星野彦七を招いた。招(お)ぎに応じてきたのは星野の兄で、彦七は先ごろ死去したとのことである。のみならずこの辺りは、八郎がしばしば往来した所なれば、宿の主人も顔を見知って、先年山形で剣術をつかわれた先生によく似ているなどという。八郎はおおいに閉口し、翌日早々、帰仙の途につき、関山峠(せきやまとうげ)を越えて十七日、仙台に出で、十八日また蒲生の田舎に潜居することとなった。(略)| #ref(2_39.rm) (朗読:RealMedia 形式 444KB、3'36'') 清河八郎 きよかわ はちろう 1830-1863 桜田敬助 さくらだ 〓 仙台。桜田良佐の息。 桜田良佐 さくらだ りょうさ 1797-1876 敬助の父。仙台藩の兵具奉行・養賢堂指南役。 戸津宗之進 とづ 〓 仙台藩の軍馬師匠。 安積五郎 あさか ごろう 1828-1864 本姓を飯田。名は武貞。呉服橋の易者安積光徳の男。 小野房五郎 蒲生村。戸津の甥か。 星野彦七 天童。安積艮斎塾の同門。 養賢堂 ようけんどう 仙台藩校。 今福村 松ヶ浦 まつがうら 松ヶ浜か。現、宮城郡七ヶ浜。 蒲生村 がもうむら 現、仙台市蒲生。旧宮城郡地区。 二口越 → 二口峠 二口峠 ふたくちとうげ 標高934m。名取川上流の二口峡谷をさかのぼった、宮城と山形の県境の尾根筋に至る峠。 関山峠 せきやまとうげ 宮城県と山形県とを結ぶ峠。標高650m。現在は国道48号線が通っている。 大川周明 おおかわ しゅうめい 1886-1957(明治19.12.6-昭和32.12.24) 国家主義者。山形県生れ。東大卒。満鉄入社後、猶存(ゆうぞん)社・行地社・神武会を結成。軍部に接近、三月事件・五‐一五事件などに関与。第二次大戦後、A級戦犯。著「近世欧羅巴植民史」など。 ◇参照:Wikipedia &link_wikipedia(大川周明){大川周明}、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。 *底本 底本:『清河八郎』行地社出版部    1927(昭和2)年2月11日 発行 NDC 分類:289(伝記:個人伝記) http://yozora.kazumi386.org/2/8/ndc289.html *年表 万延元(一八六〇) ※ 冬ごろより、潮来を中心として水戸義団または水戸天狗と称する一党が結ばれる。 文久元(一八六一) 一月二七日 佐原付近に村上俊五郎を訪問すると称して、一僕をともないて江戸を出発。 ※ 酒々井・成田をへて飯岡村の富豪・大川平兵衛の家に立ち寄る。面会できず。立ち去る。 ※ 薄暮、神崎村に着き、村上俊五郎が宿っている石坂周造の家を訪う。初対面。 二月一日 三人、連れ立って潮来に向かう。 ※ 佐原の一旅館にあがる。船を利根川に浮かべて潮来にいたり、石坂が一度泊まったという酒楼にあがる。傍若無人に豪飲放歌。天狗が詰問に来る。 ※ 翌朝 天狗の方から、面会するにもおよばずとの申し出。 ※ 潮来をひきあげ、佐原の町で一杯あげ、神崎に三泊。江戸に帰る。 ※ 去冬以来、いくたびか神田お玉ヶ池なる八郎宅の土蔵に会合、密議。同志の主なる者は、 幕臣の山岡鉄舟、 薩藩の伊牟田尚平・樋渡八兵衛・神田橋直助・益満新八郎、 芸州浪人、池田徳太郎、 川越の浪士西川練造、 肥前有馬出身の北有馬太郎、 下総神崎の村上俊五郎・石坂周造、 安積五郎・笠井伊蔵など。 五月中旬 ※ 秋月爽涼の節を期して断然義旗をひるがえすことに決し相約する。 五月二〇日 水戸の有志、両国万八楼にもよおされる書画会を機とし、八郎との会談を切望しているむねを申し込む。八郎、その懇請に応じ同志七人と万八楼におもむき、水戸の有志と快談しながら痛飲。薄暮、帰路、日本橋の甚右衛門町を通りかかり、八郎、無礼者を斬りすてる。 五月二一日 八郎、伊牟田・安積・村上の三人と共にひそかに家を出る。 五月二二日 川越奥富村の広徳寺につく。西川・北有馬の両人もついで来会。 五月二四日 おととい以来入間川の宿に、八州取り締まり三人および捕手の者ども百人余が集会していることを知る。黄昏におよんで蕭々と雨。西川・北有馬両人と別盃をくみ交わして寺を出る。この両人はただちに捕らえられ、江戸の獄中に非命の最期をとげる。 五月二五日 四人、闇にまぎれて江戸に入る。山岡鉄舟、不在。八郎と安積は池田徳太郎の宅をうかがい、村上と伊牟田は八郎の宅を探り、昌平橋ほとりの大阪屋でおちあうことにする。 ※ 大阪屋に忍び寄る。笠井伊蔵の叔母がいあわせて、池田・笠井をはじめ弟熊三郎におよび妾蓮が、みな捕らえられて伝馬町に投獄されたこと、かつ村上・伊牟田の両人も先刻大阪屋に立ち寄ったが、止まりかねて立ち去ったことを告げる。 ※ 八郎、大阪屋を立ち出でる。小石川をさして行く途上に水野行蔵に会う。打ち連れて市ヶ谷八幡に行き境内の茶店にあがる。父母に送る遺書をしたためてこれを水野にたくし、水野が匆々立ち去った後に安積といっしょに山岡の宅に行く。在宅。村上・伊牟田は先刻立ち寄ってただちに水戸に奔ったことを告げる。 ※ 山岡の家を出た八郎は、奉行邸前で自害してはてようと覚悟をさだめ、上野にまわって団子坂にいたり、とある茶店にあがって父母兄弟に送る遺書をしたため、後事の委細を安積にたくし終わり、悠然酒を命じて生別の盃をくみ交わす。 ※ 安積、友人嵩春斎の家を訪うことをすすめる。ふたたび上野の山に入りて午睡。日暮れて嵩の家に行く。ひとまずその家にひそむ。 五月二七日 八郎、書面をもって薩邸の同志を招く。昼ごろに樋渡八兵衛・神田橋直助の両人が同道。 五月二八日 出奔。夜に入りて総髪を半髪となし、安積は職人体に姿を変える。樋渡と相談し、いったん水戸に亡命して七月中に出府のうえ、またまた再会をはかることとする。夜の十時ごろ、嵩の宅を辞し去る。永代橋に着いて人のすくのを見合わせ、例の訴状および大小を橋ほとりの番所の前に差し置き、すぐさま立川通をすぎて行徳行きの船をやとい、明け方に行徳につく。 五月二九日 行徳から神崎村に向かい、石坂周造を訪ねようとするが、すでに捕らわれた様子なので道を転じて府川から牛久にいたる。 五月三〇日 水戸に入ろうと土浦まで行くが警戒厳重。やむなくさらに路を転じて筑波山麓に一泊。 六月一日 間道から水戸に入ろうとしたが、これまた警戒厳重で中止。その夜、羽黒に泊まる。安積の言葉に従って日光から山越しに会津に出で、会津から越後に奔ってしばらく動静を見ることに決する。 六月三日 宇都宮の旅宿で、水戸藩士の東禅寺襲撃を知る。八郎が江戸を脱出した五月二八日の夜半、有賀半弥以下十三名の過激派が、英国公使館にあてられた高輪東禅寺に討ち入り、書記官および領事を負傷させる。 ※ 宇都宮から今市に出で、今市から右なる山路を分け入り滝の湯に一泊。 翌日 高原山で路に迷い、かろうじて木樵のかよう小径を探りあて、それから川路の湯をすぎ、二日路をへてようやく会津若松の城下に出で、野津から津川にいたり、船を雇うて阿賀川を下り、越後の馬下村につき、五泉町をへる。 六月一一日 新潟着。安積の知り合いなる医者を訪ねたが取り合わない。やむなく旅館に泊まる。 ※ 安積を庄内に潜行。新潟に三泊。 ※ 同道して瀬波に出でる。船を雇うて自身もまた庄内領の温海温泉まで同行。 翌日 安積を鶴岡城下につかわす。 翌日 安積、帰り来たりて危険なるよしを報告。また新潟に帰る。 ※ 滞在三日の後に新潟を発し、三条・長岡をへて松の山温泉にいたり、ここに半月あまり滞留。 七月一二日 松の山を発し、信濃川に沿うて信州に出で、渋温泉に泊まる。 七月一三日 七里の山路を越えて草津に出る。 ※ 草津より大戸にいたり、国定忠治の墓に参詣。高崎をすぎて武州本庄に入り、矢斗村の尾高長七郎を訪う。不在。行き先を追うてようやく面会。 翌日 八幡町の旅宿でゆっくり様子を聴く。 ※ ふたたび上州倉賀野に引き返す。ここから船で利根川を下ることとする。 七月一八日 両人、倉賀野から船に投じる。 七月一九日 栗橋につく。利根川筋の固めひとかたならず。栗橋と関宿との間にある観音堂で船をすて、越ヶ谷に一泊。 七月二〇日 江戸、着。越ヶ谷の宿屋でも、町役人に調べられ、後には八州取り締まりの者に調べられたが、まず故なくすむ。 ※ 江戸に着いてすぐさま三田の薩摩の装束屋敷にいたり、安積をして益満新八郎を招かせたが、朝から外出して不在。上屋敷の方に行き、それとなく樋渡および神田橋の様子をさぐるに、両人とも六月中に帰国したことを知る。日暮、神田お玉ヶ池にまわる。夜分になってから、嵩春斎の門前にて張番と遭遇。闇にまぎれ逃げ去る。金杉より千住に出て奥州街道を北にいそぎ、越ヶ谷をすぎて夜が明ける。 七月二一日 わざと迂路を取り、昼すぎに菖蒲町につく。その日はここに宿をとる。水戸に入ることを決心。 七月二二日 いろいろに迂回して古河に出で、野木の宿に泊まる。 七月二三日 奥州街道より結城に出る。ここから烏山にいたり、舟に浮かんで水戸に入るつもりであったが、あまりの迂路なればとて真岡をへて茂木に向かう。茂木の手前で臨時の関所に呼び止められ、不意の糾問に狼狽。辛くもまぬがれる。茂木でも糾問。これまた言いぬけ、茂木から一里半ばかりで那珂川を越えて水戸領に入り野沢に泊まる。 七月二四日 両人、那珂川を舟で下り、無事に水戸に入る。菊池寛三郎を訪う。村上・伊牟田の両同志は、五月二五、六日ごろ磯浜の名主古渡理兵衛方に落ちのび、ときどき菊池にも忍んできて、ひたすら八郎の到着を待っていたが、いっこう姿を見せないので、六月一日ごろ八郎を探すため、また江戸の方へ出立したとのこと。 ※ 止まること三日、ひとまず仙台の方に同志をたずねて行くことに決す。水戸を去る。 ※ 浜街道の村々で潮湯をあび、山海の景色を賞しながら相馬領に入り、中村の宿屋に着いて岡部正蔵を招く。伊牟田のことを問えば、中村には来ないという。 八月一日 仙台、着。旧知桜田敬助にたよる。戸津宗之進とともに八郎を庇護。松島の酒楼に八郎および安積をいざない快談酣酔。その夜は今福村の戸津の乳母の家に一泊。 八月二日 蒲生村に案内し、戸津の甥なる小野房五郎の家に当分滞留のことに取りはからう。 ※ 四、五日すぎて、戸津よりの手紙で安積は石巻なる戸津の知り合いの所に移る。 八月一五日 八郎、潜居を出で、二口越をへて羽前山寺にいたり、天童町の旅宿に投じて安積艮斎の同門なる星野彦七を招く。彦七は先ごろ死去したとのこと。 八月一六日 早々、帰仙の途につき、関山峠を越える。 八月一七日 仙台に出でる。 八月一八日 また蒲生の田舎に潜居。 八月二七日 戸津が蒲生に訪れて、伊牟田尚平が八郎をたずねて仙台に来たり、桜田がこれを塩釜に案内して八郎のいたるを待つむねを告げる。雨を侵して戸津と同道、夜に入りて塩釜に着く。伊牟田はたまたま相馬に岡部正蔵を訪うて八郎のゆくえが判明し、狂喜して飛んできた。 翌朝 舟を松島湾にうかべる。千賀の浦を過ぐる。 翌日 伊牟田、仙台を去る。桜田良佐、伊牟田のために路用を整える。同日、桜田は八郎を高城丹後に頼むため小舟越まで同道。 九月五日 桜田は仙台に帰り、八郎は東北に向かって出立。八郎、清水川・気仙沼をへて大津から山間に入り、南部領の瀬田前〔世田米か〕で、安積といっしょになる。 ※ 相ともないて遠野城下にいたり、江田大之進の家を訪う。江田の家に四泊。 ※ 後、また海浜の方に潜行し、八日目にふたたび遠野に帰り、夜に入りて江田の家にいたる。江田は親切に滞留をすすめたけれど、その夜一泊。 翌朝 遠野を去る。遠野から御輪峠〔五輪峠か〕をこえてまた仙台領に出で、岩井堂〔岩谷堂か〕・水沢をへて高館・衣川の史跡を訪い、ついで一ノ関にいたり、旧知の一剣客をたずねて若干の路用を借りようとするが応じず。 ※ 一ノ関から西に向かい、川口をへて六角峠をこえ、鬼首の轟湯に旅の疲れをやすめた後、新庄領の向町にいたり、すこしく引き返して星ノ湯という温泉にひそむ。安積を郷里近村の別懇の一商人のもとにつかわし、路用を無心させかつ様子を探らせる。 ※ 数日の後に安積は金二十両をもたらして帰る。ただちに星ノ湯を去り、岩手〔岩出山か〕から新町に出でる。 一〇月七日 薄暮、仙台、着。伊牟田尚平、戸津の家に彼を待っている。 ※ 三人あいともないて京都にのぼり、ひそかに封事をたてまつり、東西呼応すれば、かならず回天の偉業を成就するであろうと主張。伊牟田はじめ一同みな、この言に服す。 一〇月八日 夜、濃かに別盃をくみ交わす。 一〇月九日 昧爽、仙台を出立。 ※ 八郎・伊牟田・安積の三人、白石・飯坂に泊まる。 ※ 福島より奥州街道をのぼり、太田原〔栃木県大田原か〕から日光街道に入りて今市に出で、さらに栃木から利根川を越える。 ※ 秩父の山中に入り、三峰山に登りて頂上の宿坊に泊まる。夷狄征伐祈願のため参拝。 翌朝 三峰山を発し、雁坂峠の険をこえて信州に入らんとし、行くこと一里あまりで関所の取り調べに時をついやし、その夜は山中の民家に泊まる。 翌日 甲府、着。土橋鉞四郎を訪問。山岡への手紙をたくす。 ※ 和宮関東下向と途中に出会う。道中の警戒厳重。東海道を取ることに変更。鰍沢から船で富士川を下り、岩淵に上陸して由井〔由比か〕に泊まる。 ※ 間道をとりて大井川を渡り、相良・横須賀・見付をへて三方ヶ原をすぎ、蹴川の関をこえて豊川に出で、稲荷神社に詣でる。 一一月一日 熱田大神宮に参詣して尊王攘夷祈誓の神楽を奏する。 ※ 熱田から舟で桑名に向かう。桑名に上陸、追分から伊勢路に入る。 一一月四日 山田につく。 一一月五日 内宮に参拝。この日からまた前髪をたくわえて総髪となる。この日、山田大路親彦を訪う。二日にわたりの会談。三人、山田からいったん松坂に引き返す。 一一月七日 早朝、月本から伊賀路に入り、上野城下にいたりて荒木又右衛門の仇討ち場の茶店に休む。それから笠置山にのぼって後醍醐天皇の行在所を拝し、山をくだり奈良に近き小村に泊まる。 一一月八日 春日神社を拝して宇治にいたり、川岸の菊屋に泊まる。 一一月*九日 伏見のそばを過ぎ、黄檗寺に立ち寄って京都に入り、三条の河畔なる一逆旅に投じる。 文久二(一八六二) 三月四日付 山岡鉄舟、清河に宛てたる書簡。 ※ 「翌日」「翌朝」など期日不詳の箇所はそのまま。 ※ * 底本では「十月」。 *難字、求めよ。 大平日 愧顔 知已 決心略をもって 総て 弛廃ぜる *スリーパーズ日記 若干、句読点を改めた。 霧顯 → 露顕 爛燦 → 燦爛 二十入日 → 二十八日 栲問 → 拷問 拶挨 → 挨拶 娚 → 甥 耘耨 → 耨耘 志土 → 志士 宵壤 → 霄壌  以上、底本を改めた。若干の地名に編注をつけた。艮齋と艮齊の混用は艮斎とした。(2010.4.20)  ペース配分を誤った。欲張って「第三章・第四章」を計画したものの、大幅に発行が遅れる。さらに、難字・人名・地名の確認に手間取る。結局、分割して第四章を次週にまわすことにする。仙台に遅れること一週間弱、ようやく山形も開花宣言。本日、天童市内で三分咲き。  十四日、アイスランド、火山噴火。中国、青海省大地震。(2010.4.22) *清河八郎の八不思議 1)八郎の二つの肖像の謎。 2)八郎の紋の謎。 3)「幕末の史劇は、清河八郎が幕をあけ、坂本龍馬が閉じた」の謎。 4)八郎の購入した活字版の謎。 5)仙台藩士、桜田敬助の謎。 6)真島雄之助、佐藤与之助、笠井伊蔵、山岡鉄舟、益満休之助の謎。 7)…… 8)…… 2010.4.22:公開 2010.4.23:更新 芽くそ、花くそ、媚びの会。/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ:&counter() ---- - 追記。星野有山 1806-1851 天童久野本村出身。酒造業を営む。国井権四郎の長男。江戸に遊学、安積艮斎に学ぶ。帰郷後、名主で塾を開いていた星野彦兵衛の養嗣子となる。彦兵衛の没後、家塾を引き継ぎ、後には名主役も勤める。享年46。村の熊野神社境内に墓碑銘がある。星野彦七は有山の次男。有山の墓碑を建てる。『天童市史 中巻 近世編』(1987.3)p.618 より。 -- しだ (2010-05-22 07:45:38) #comment

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