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*MT*2_22-コロポックル説の誤謬を論ず 河野常吉 *2009.12.19 第二巻 第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉    一 アイヌに三派あり    二 コロポックルに関する諸説    三 三派のアイヌみな竪穴(たてあな)に住せり    四 三派のアイヌみな石器・土器を使用せり    五 コロポックルは実在せる人種にあらず &image(http://www.dl-market.com/images/uploader/620/2_22-1.gif,http://www.dl-market.com/product_info.php?products_id=48546) &ref(2_22-2.gif) &ref(2_22-3.gif) [[【週刊ミルクティー*第二巻 第二二号】>http://www.dl-market.com/product_info.php?products_id=48546]] http://www.dl-market.com/product_info.php?products_id=48546 ※ ダウンロードサイト(http://www.dl-market.com)へジャンプします。 (628KB) |COLOR(red):定価:200円(税込)| p.124 / *99 出版| 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(50項目)p.261 *飛び出せ! 3D電子本 |COLOR(red):オリジナル版|COLOR(blue):ミルクティー*現代表記版| |COLOR(red):本邦人類學上の一大疑問たるコロポックルは、アイヌの口碑に出でたるものなるか、アイヌには蝦夷本島アイヌ、樺太アイヌ、北千島アイヌの三派ありて、此三派はコロポックルに就き語る所一樣ならざるのみならず、其他種々の點に於て本題に少なからざる關係あるを以て、先づ此三派に就きて略述するの必要あり。|COLOR(blue): 本邦人類学上の一大疑問たるコロポックルは、アイヌの口碑に出でたるものなるか、アイヌには蝦夷本島アイヌ、カラフトアイヌ、北千島アイヌの三派ありて、この三派はコロポックルにつき語るところ一様ならざるのみならず、その他種々の点において本題に少なからざる関係あるをもって、まずこの三派につきて略述するの必要あり。| |COLOR(red):本島アイヌは、現今北海道本島及び南千島なる國後、擇捉の二島に住居するものにして、和人に接し其の感化を受けたること、他のアイヌに比すれば最も早きものとす、(略)樺太アイヌは樺太南部に住居するものにして、南は本島アイヌ、北はギリヤーク、オロチョン及び山靼人等と交通し、寛政以後直接和人の支配を受け、明治八年領土交換の後は露國の管轄に歸し、日露戰役の後本邦に復歸したるものとす、(略)北千島アイヌは千島列島中得撫以北に住居せしものにして、南は本島アイヌ、北はカムチャダールと交通せしも、甚だ不便の地にあるを以て、他の感化を受くること最も遲かりしものゝ如く、露人の始めて其地に至りしは正徳年間にして、其後露人の支配を受け、明治八年領土交換の後本邦の民となり、明治十七年南千島なる色丹島に移住せり(略)。|COLOR(blue): 本島アイヌは、現今、北海道本島および南千島なる国後(クナシリ)、択捉(エトロフ)の二島に住居するものにして、和人に接しその感化を受けたること、他のアイヌに比すればもっとも早きものとす。(略)カラフトアイヌはカラフト南部に住居するものにして、南は本島アイヌ、北はギリヤーク、オロチョンおよび山靼人(さんたんじん)らと交通し、寛政(一七八九〜一八〇一)以後、直接和人の支配を受け、明治八年(一八七五)領土交換の後は露国の管轄に帰し、日露戦役の後、本邦に復帰したるものとす。(略)北千島アイヌは千島列島中得撫(ウルップ)以北に住居せしものにして、南は本島アイヌ、北はカムチャダールと交通せしも、はなはだ不便の地にあるをもって、他の感化を受くること最も遅かりしもののごとく、露人のはじめてその地に至りしは正徳年間(一七一一〜一七一六)にして、そののち露人の支配をうけ、明治八年、領土交換ののち本邦の民となり、明治十七年(一八八四)南千島なる色丹島(シコタンとう)に移住せり。| ||| |COLOR(red):(略)又數年前ジョン、バチェラー氏は、十勝國に於てアイヌが石器を使用したることを證すべき一のアイヌ語を發見せり、同氏は同地にて一老婆に逢ひて、共に語りたるに、老婆は入墨を指して、アンチピリと言へり、アンチは黒曜石、ピリは疵の義なれば、アンチピリは黒曜石の疵といふことなり、乃ちアイヌが昔時黒曜石の破片を以て、入墨をなしたるを知るべし、兎に角十勝アイヌは我等の爲には種々貴重なる材料を供給したるが、之に反してコロポックル論者の爲めには、甚だ嫌忌すべきものたるや疑なし。|COLOR(blue):(略)また数年前ジョン・バチェラー氏は、十勝国においてアイヌが石器を使用したることを証すべき一つのアイヌ語を発見せり。同氏は同地にて一老婆にあいて、共に語りたるに、老婆は入れ墨をさして、アンチピリと言えり。アンチは黒曜石、ピリはキズの義なれば、アンチピリは黒曜石のキズということなり。すなわちアイヌが昔時(せきじ)黒曜石の破片をもって、入れ墨をなしたるを知るべし。とにかく十勝アイヌはわれらのためには種々貴重なる材料を供給したるが、これに反してコロポックル論者のためには、はなはだ嫌忌(けんき)すべきものたるや疑いなし。| #ref(2_22.rm) (朗読:RealMedia 形式 512KB、4'08'') 河野常吉 こうの つねきち 1862-1930(文久2.11.22-昭和5.9.) 長野県東筑摩郡島内村(現、松本市島内)生まれ。父は道重。新聞社、長野県庁、東京中央気象台などに勤めたのち、明治27年7月、北海道庁嘱託として勤務するため渡道。北海道史編纂主任をつとめる。『北海道史蹟名勝天然記念物調査報告書』(大正13年〜)120件のうち102件が河野の調査執筆による。享年69。 ◇参照:野村崇「北海道考古学と河野常吉」『考古学の世界 第一巻 北海道・東北』ぎょうせい、1993.4、p.223-。 ※ Wikipedia 未登録。 *底本 底本:『歴史地理』第12巻第5号 日本歴史地理学会    1908(明治41)11月    『歴史地理』第12巻第6号 日本歴史地理学会    1908(明治41)12月 NDC 分類:211(日本史/北海道地方) &nolink(http://yozora.kazumi386.org/2/1/ndc211.html) ※ ページ未登録。 *人物一覧 ホメロス Homeros 前8世紀頃-? 古代ギリシアの詩人。前8世紀頃小アジアに生まれ、吟遊詩人としてギリシア諸国を遍歴したと伝える。英雄叙事詩「イリアス」「オデュッセイア」の作者とされるが、この詩人が実在したか、この2作の作者だったかについては諸説がある。ホーマー。ホメール。 武田信広 たけだ のぶひろ 1431-1494 室町時代の武田氏の一族。 シャクシャイン 沙牟奢允 ?-1669 江日高地方のシブチャリ‐アイヌの首長。 天野信景 あまの さだかげ 1663-1733 江戸中期の和学者。尾張藩士。 羽太正養 はぶと まさやす 1752-1814 安芸守。箱館奉行。江戸後期の幕臣。 間宮林蔵 まみや りんぞう 1775-1844 江戸後期の探検家、幕府隠密。 松浦武四郎 まつうら たけしろう 1818-1888 北方探検家。幼名、竹四郎。 岡本監輔 おかもと かんすけ 1839-1904 カラフトに在勤せし判官。カラフト探検家。阿波美馬郡三谷村生まれ。 ジョン・ミルン John Milne 1850-1913 イギリス、リバプール出身の鉱山技師、地震学者、人類学者、考古学者。 坪井正五郎 つぼい しょうごろう 1863-1913 人類学者。江戸生れ。 河野常吉 こうの つねきち 1862-1930 長野県東筑摩郡島内村(現、松本市島内)生まれ。 ジョン・バチェラー John Batchelor 1854-1944 イギリスの宣教師。 小金井良精 こがねい よしきよ 1858-1944 人類学者。越後長岡生れ。 鳥居龍蔵 とりい りゅうぞう 1870-1953 考古学者、人類学者、民俗学者。 ホメーロス → ホメロス    松浦竹四郎 → 松浦武四郎か。    吉十郎     高橋浅右衛門    町奉行。 井口亢一郎    北海道庁属。今、御料局在勤。 小笠原鍵    カラフト庁員 松前広長    著『松前志』。 立松東作    著『東遊記』。 鈴木重尚     太郎吉    カラフトに勤務越年せし番人。 卯右衛行    カラフトに勤務越年せし番人。 朝比奈三郎     *年表 文明十七(一四八五) カラフトアイヌの一酋長、今の渡島国上ノ国村に来る。松前氏の始祖武田信広に支那の瓦硯を献じる。 天文(一五三二〜一五五五)以後 タバコ、本邦に入る。 慶長十(一六〇五) このころまでに、タバコが奥州まで流布。 寛永(一六二四〜一六四五)の頃 松前氏、家臣をカラフト島につかわす。 寛文九(一六六九) 日高国染退の酋長シャグシャインの乱。『津軽一統志』にチャシの砦なることを記せり。 正徳年間(一七一一〜一七一六) 露人、はじめて北千島アイヌの地に至り支配。 亨保六(一七二一)五月二十日 天野信景、十勝漂着の模様を『翁草』に記す。 享保六(一七二一) 北海道本道の一部には、なお穴居人が住居。 延享四(一七四七) 北千島アイヌ、占守・幌筵島に二五三名。 宝暦元(一七五一) 松前氏、家臣をカラフト島につかわす。 天明元(一七八一) 松前広長、著『松前志』。 天明四(一七八四*) 立松東作、著『東遊記』。 寛政(一七八九〜一八〇一)以後 カラフトアイヌ、直接和人の支配を受ける。 寛政十一(一七九九)まで 羽太正養『休明光記』「付録」に、カラフトに勤務越年せし番人太郎吉、卯右衛行両人に唐太・山丹・オロッコのことを尋問せし書き留めを載せたり。 文化(一八〇四〜一八一八) 本島アイヌの人口、二万四〇〇〇余。カラフトアイヌは約二八〇〇余。 文化五、六(一八〇八、一八〇九) 間宮林蔵の調査。著『北蝦夷図説』。 安政元(一八五五) 鈴木重尚『唐太日記』。松浦竹四郎、加筆。 安政年間(一八五五〜一八六〇) 松浦竹四郎『東蝦夷日誌』。本島アイヌとカラフトアイヌ、石製キセルを使用。 安政年間(一八五五〜一八六〇) 松浦竹四郎『十勝日誌』、このころまで祖先の石器・土器を使用せしことを言い伝える者あり。 明治八(一八七五) 領土交換の後 カラフトアイヌは露国の管轄。 明治八(一八七五) カラフトアイヌの八四〇余名が宗谷に移り、翌九年石狩国に移住。その後病死するものおびただしく、また私にカラフトに渡航せるものありて、現今、石狩地方に残るものわずかに数十名にすぎず。 明治八(一八七五) 北千島アイヌ、領土交換ののち本邦の民となる。 明治十七(一八八四) 北千島アイヌ、南千島なる色丹島に移住。 明治二十一(一八八八) 坪井博士、北海道を巡回調査し、帰京の後『東京人類学会雑誌』第三一号に記す。 明治三十二(一八九九) 井口亢一郎、北見国常呂郡常呂村下常呂原野において、一個の竪穴を掘りて石製紡錘車とともにこれを得る。 明治三十二(一八九九) 鳥居龍蔵、千島方面を巡回調査。 明治三十三(一九〇〇) 河野常吉、千島方面を巡回調査。 明治三十七〜三十八(一九〇四〜一九〇五) 日露戦役の後、カラフトアイヌは本邦に復帰。 明治四十(一九〇七) 坪井博士、カラフトを巡回調査。帰京の後「カラフトにおける石器時代人民に関する研究」といえる題にて講演。大要は『史学雑誌』第十九編、第一号にあり。『人類学講話』出版。 明治四十一(一九〇八) 現在、本島アイヌの人口、一万七二〇〇余。カラフトアイヌは一四〇〇余。北千島アイヌは六七名。 ※ 天明四(一七八四*)……底本では「天明四年(西暦一七七四年)」とあるが、天明四年は一七八四年にあたる。 2009.12.20:公開 2009.12.23:更新 21世紀タヌキ。バッタもん、町に出る。 目くそ鼻くそ/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ:&counter() ---- - iCab で @wiki を見ると、かわいそうなことに。 -- しだ (2009-12-20 23:31:16) - T-Time に画像を組みこむと、アンチエイリアスが効きすぎるためか OS X では画像がボケボケになる。強制的に版ヅラサイズになるのも×。むしろ組みこまずにバラにしたほうが、テキストと画像を並列ウィンドウで参照することができる。 -- しだ (2009-12-20 23:32:18) - (スリーパーズ日記)三内丸山で発掘された6本の太柱は、表面が炭化していて腐蝕をまぬがれたという。伐採後に表面を焼いたのか。それとも、“伐採のために”火を用いたのか。 -- しだ (2009-12-20 23:33:58) #comment
*MT*2_22-コロポックル説の誤謬を論ず 河野常吉 *2009.12.19 第二巻 第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉    一 アイヌに三派あり    二 コロポックルに関する諸説    三 三派のアイヌみな竪穴(たてあな)に住せり    四 三派のアイヌみな石器・土器を使用せり    五 コロポックルは実在せる人種にあらず &image(http://www.dl-market.com/images/uploader/620/2_22-1.gif,http://www.dl-market.com/product_info.php?products_id=48546) &ref(2_22-2.gif) &ref(2_22-3.gif) [[【週刊ミルクティー*第二巻 第二二号】>http://www.dl-market.com/product_info.php?products_id=48546]] http://www.dl-market.com/product_info.php?products_id=48546 ※ ダウンロードサイト(http://www.dl-market.com)へジャンプします。 (628KB) |COLOR(red):定価:200円(税込)| p.124 / *99 出版| 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(50項目)p.261 *飛び出せ! 3D電子本 |COLOR(red):オリジナル版|COLOR(blue):ミルクティー*現代表記版| |COLOR(red):本邦人類學上の一大疑問たるコロポックルは、アイヌの口碑に出でたるものなるか、アイヌには蝦夷本島アイヌ、樺太アイヌ、北千島アイヌの三派ありて、此三派はコロポックルに就き語る所一樣ならざるのみならず、其他種々の點に於て本題に少なからざる關係あるを以て、先づ此三派に就きて略述するの必要あり。|COLOR(blue): 本邦人類学上の一大疑問たるコロポックルは、アイヌの口碑に出でたるものなるか、アイヌには蝦夷本島アイヌ、カラフトアイヌ、北千島アイヌの三派ありて、この三派はコロポックルにつき語るところ一様ならざるのみならず、その他種々の点において本題に少なからざる関係あるをもって、まずこの三派につきて略述するの必要あり。| |COLOR(red):本島アイヌは、現今北海道本島及び南千島なる國後、擇捉の二島に住居するものにして、和人に接し其の感化を受けたること、他のアイヌに比すれば最も早きものとす、(略)樺太アイヌは樺太南部に住居するものにして、南は本島アイヌ、北はギリヤーク、オロチョン及び山靼人等と交通し、寛政以後直接和人の支配を受け、明治八年領土交換の後は露國の管轄に歸し、日露戰役の後本邦に復歸したるものとす、(略)北千島アイヌは千島列島中得撫以北に住居せしものにして、南は本島アイヌ、北はカムチャダールと交通せしも、甚だ不便の地にあるを以て、他の感化を受くること最も遲かりしものゝ如く、露人の始めて其地に至りしは正徳年間にして、其後露人の支配を受け、明治八年領土交換の後本邦の民となり、明治十七年南千島なる色丹島に移住せり(略)。|COLOR(blue): 本島アイヌは、現今、北海道本島および南千島なる国後(クナシリ)、択捉(エトロフ)の二島に住居するものにして、和人に接しその感化を受けたること、他のアイヌに比すればもっとも早きものとす。(略)カラフトアイヌはカラフト南部に住居するものにして、南は本島アイヌ、北はギリヤーク、オロチョンおよび山靼人(さんたんじん)らと交通し、寛政(一七八九〜一八〇一)以後、直接和人の支配を受け、明治八年(一八七五)領土交換の後は露国の管轄に帰し、日露戦役の後、本邦に復帰したるものとす。(略)北千島アイヌは千島列島中得撫(ウルップ)以北に住居せしものにして、南は本島アイヌ、北はカムチャダールと交通せしも、はなはだ不便の地にあるをもって、他の感化を受くること最も遅かりしもののごとく、露人のはじめてその地に至りしは正徳年間(一七一一〜一七一六)にして、そののち露人の支配をうけ、明治八年、領土交換ののち本邦の民となり、明治十七年(一八八四)南千島なる色丹島(シコタンとう)に移住せり。| ||| |COLOR(red):(略)又數年前ジョン、バチェラー氏は、十勝國に於てアイヌが石器を使用したることを證すべき一のアイヌ語を發見せり、同氏は同地にて一老婆に逢ひて、共に語りたるに、老婆は入墨を指して、アンチピリと言へり、アンチは黒曜石、ピリは疵の義なれば、アンチピリは黒曜石の疵といふことなり、乃ちアイヌが昔時黒曜石の破片を以て、入墨をなしたるを知るべし、兎に角十勝アイヌは我等の爲には種々貴重なる材料を供給したるが、之に反してコロポックル論者の爲めには、甚だ嫌忌すべきものたるや疑なし。|COLOR(blue):(略)また数年前ジョン・バチェラー氏は、十勝国においてアイヌが石器を使用したることを証すべき一つのアイヌ語を発見せり。同氏は同地にて一老婆にあいて、共に語りたるに、老婆は入れ墨をさして、アンチピリと言えり。アンチは黒曜石、ピリはキズの義なれば、アンチピリは黒曜石のキズということなり。すなわちアイヌが昔時(せきじ)黒曜石の破片をもって、入れ墨をなしたるを知るべし。とにかく十勝アイヌはわれらのためには種々貴重なる材料を供給したるが、これに反してコロポックル論者のためには、はなはだ嫌忌(けんき)すべきものたるや疑いなし。| #ref(2_22.rm) (朗読:RealMedia 形式 512KB、4'08'') 河野常吉 こうの つねきち 1862-1930(文久2.11.22-昭和5.9.) 長野県東筑摩郡島内村(現、松本市島内)生まれ。父は道重。新聞社、長野県庁、東京中央気象台などに勤めたのち、明治27年7月、北海道庁嘱託として勤務するため渡道。北海道史編纂主任をつとめる。『北海道史蹟名勝天然記念物調査報告書』(大正13年〜)120件のうち102件が河野の調査執筆による。享年69。 ◇参照:野村崇「北海道考古学と河野常吉」『考古学の世界 第一巻 北海道・東北』ぎょうせい、1993.4、p.223-。 ※ Wikipedia 未登録。 *底本 底本:『歴史地理』第12巻第5号 日本歴史地理学会    1908(明治41)11月    『歴史地理』第12巻第6号 日本歴史地理学会    1908(明治41)12月 NDC 分類:211(日本史/北海道地方) &nolink(http://yozora.kazumi386.org/2/1/ndc211.html) ※ ページ未登録。 *人物一覧 ホメロス Homeros 前8世紀頃-? 古代ギリシアの詩人。 武田信広 たけだ のぶひろ 1431-1494 室町時代の武田氏の一族。 シャクシャイン 沙牟奢允 ?-1669 江日高地方のシブチャリ‐アイヌの首長。 天野信景 あまの さだかげ 1663-1733 江戸中期の和学者。尾張藩士。 羽太正養 はぶと まさやす 1752-1814 安芸守。箱館奉行。江戸後期の幕臣。 間宮林蔵 まみや りんぞう 1775-1844 江戸後期の探検家、幕府隠密。 松浦武四郎 まつうら たけしろう 1818-1888 北方探検家。幼名、竹四郎。 岡本監輔 おかもと かんすけ 1839-1904 判官。カラフト探検家。阿波美馬郡三谷村生まれ。 ジョン・ミルン John Milne 1850-1913 イギリス、リバプール出身の鉱山技師、地震学者、人類学者、考古学者。 坪井正五郎 つぼい しょうごろう 1863-1913 人類学者。江戸生れ。 河野常吉 こうの つねきち 1862-1930 長野県東筑摩郡島内村(現、松本市島内)生まれ。 ジョン・バチェラー John Batchelor 1854-1944 イギリスの宣教師。 小金井良精 こがねい よしきよ 1858-1944 人類学者。越後長岡生れ。 鳥居龍蔵 とりい りゅうぞう 1870-1953 考古学者、人類学者、民俗学者。 ホメーロス → ホメロス    松浦竹四郎 → 松浦武四郎。    吉十郎     高橋浅右衛門    町奉行。 井口亢一郎    北海道庁属。今、御料局在勤。 小笠原鍵    カラフト庁員 松前広長    著『松前志』。 立松東作    著『東遊記』。 鈴木重尚     太郎吉    カラフトに勤務越年せし番人。 卯右衛行    カラフトに勤務越年せし番人。 朝比奈三郎     *年表 文明十七(一四八五) カラフトアイヌの一酋長、今の渡島国上ノ国村に来る。松前氏の始祖武田信広に支那の瓦硯を献じる。 天文(一五三二〜一五五五)以後 タバコ、本邦に入る。 慶長十(一六〇五) このころまでに、タバコが奥州まで流布。 寛永(一六二四〜一六四五)の頃 松前氏、家臣をカラフト島につかわす。 寛文九(一六六九) 日高国染退の酋長シャグシャインの乱。『津軽一統志』にチャシの砦なることを記せり。 正徳年間(一七一一〜一七一六) 露人、はじめて北千島アイヌの地に至り支配。 亨保六(一七二一)五月二十日 天野信景、十勝漂着の模様を『翁草』に記す。 享保六(一七二一) 北海道本道の一部には、なお穴居人が住居。 延享四(一七四七) 北千島アイヌ、占守・幌筵島に二五三名。 宝暦元(一七五一) 松前氏、家臣をカラフト島につかわす。 天明元(一七八一) 松前広長、著『松前志』。 天明四(一七八四*) 立松東作、著『東遊記』。 寛政(一七八九〜一八〇一)以後 カラフトアイヌ、直接和人の支配を受ける。 寛政十一(一七九九)まで 羽太正養『休明光記』「付録」に、カラフトに勤務越年せし番人太郎吉、卯右衛行両人に唐太・山丹・オロッコのことを尋問せし書き留めを載せたり。 文化(一八〇四〜一八一八) 本島アイヌの人口、二万四〇〇〇余。カラフトアイヌは約二八〇〇余。 文化五、六(一八〇八、一八〇九) 間宮林蔵の調査。著『北蝦夷図説』。 安政元(一八五五) 鈴木重尚『唐太日記』。松浦竹四郎、加筆。 安政年間(一八五五〜一八六〇) 松浦竹四郎『東蝦夷日誌』。本島アイヌとカラフトアイヌ、石製キセルを使用。 安政年間(一八五五〜一八六〇) 松浦竹四郎『十勝日誌』、このころまで祖先の石器・土器を使用せしことを言い伝える者あり。 明治八(一八七五) 領土交換の後 カラフトアイヌは露国の管轄。 明治八(一八七五) カラフトアイヌの八四〇余名が宗谷に移り、翌九年石狩国に移住。その後病死するものおびただしく、また私にカラフトに渡航せるものありて、現今、石狩地方に残るものわずかに数十名にすぎず。 明治八(一八七五) 北千島アイヌ、領土交換ののち本邦の民となる。 明治十七(一八八四) 北千島アイヌ、南千島なる色丹島に移住。 明治二十一(一八八八) 坪井博士、北海道を巡回調査し、帰京の後『東京人類学会雑誌』第三一号に記す。 明治三十二(一八九九) 井口亢一郎、北見国常呂郡常呂村下常呂原野において、一個の竪穴を掘りて石製紡錘車とともにこれを得る。 明治三十二(一八九九) 鳥居龍蔵、千島方面を巡回調査。 明治三十三(一九〇〇) 河野常吉、千島方面を巡回調査。 明治三十七〜三十八(一九〇四〜一九〇五) 日露戦役の後、カラフトアイヌは本邦に復帰。 明治四十(一九〇七) 坪井博士、カラフトを巡回調査。帰京の後「カラフトにおける石器時代人民に関する研究」といえる題にて講演。大要は『史学雑誌』第十九編、第一号にあり。『人類学講話』出版。 明治四十一(一九〇八) 現在、本島アイヌの人口、一万七二〇〇余。カラフトアイヌは一四〇〇余。北千島アイヌは六七名。 ※ 天明四(一七八四*)……底本では「天明四年(西暦一七七四年)」とあるが、天明四年は一七八四年にあたる。 2009.12.20:公開 2009.12.23:更新 21世紀タヌキ。バッタもん、町に出る。 目くそ鼻くそ/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ:&counter() ---- - iCab で @wiki を見ると、かわいそうなことに。 -- しだ (2009-12-20 23:31:16) - T-Time に画像を組みこむと、アンチエイリアスが効きすぎるためか OS X では画像がボケボケになる。強制的に版ヅラサイズになるのも×。むしろ組みこまずにバラにしたほうが、テキストと画像を並列ウィンドウで参照することができる。 -- しだ (2009-12-20 23:32:18) - (スリーパーズ日記)三内丸山で発掘された6本の太柱は、表面が炭化していて腐蝕をまぬがれたという。伐採後に表面を焼いたのか。それとも、“伐採のために”火を用いたのか。 -- しだ (2009-12-20 23:33:58) #comment

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