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*2009.7.4 No.50
徳永直『光をかかぐる人々』(三)
|COLOR(red):定価:200円(税込)| p.337 / *99 出版|
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(231項目)p.1088
活字と船 一/二/三/四/五
開港をめぐって 一/二/三/四
※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。
※ JIS X 0213・ttz 形式。
※ この作品は青空文庫にて入力中です。翻訳・朗読・転載は自由です。
※ テキストおよび底本画像は、
徳永直『光をかかぐる人々』入力中(http://d.hatena.ne.jp/HikariwokakaguruHitobito/)(uakira)にて公開中です。
(c) Copyright is public domain.
まったく下田詰合二人では無理であろう。蘭語に通じた学者や侍は、当時日本全国では少なくなかったろうが、通弁となればまた別で、加えて通詞というのは一種の職人として扱われていたから、前文中にも見えるとおり、長崎奉行の支配を受けねばならず、たとい蘭語がしゃべれる学者や侍でも、進んで通詞になろうとはしなかったろう。おまけに長崎通詞は蘭語が主であるが、条約を結んだ相手は米、露などであって、三月一日に下田奉行が川路あてにうったえた書簡に、「ただいま同所に罷在(まかりおり)候アメリカ人どもは、蘭語を心得候もの無之、当方通詞ども儀も、アメリカ語は昨年来自分心得にてはしばし聖か(いささか?)相覚申候得ども、込み入り候儀に至り候ては何分通じ兼ね——」というしだいであった。(略)
まったく長崎通詞は、「長崎の通詞」であることができなくなったばかりでなく、「オランダ語の通詞」であることさえできなくなりつつあった。日本全国の港々の通詞でなければならず、蘭語はもちろん、英語、露語、仏語の通詞でなければならなくなっていた。そしてもっと重大なことは、いま一つ彼ら通詞が、単に通弁であることだけでとどまっていられなくなったことであろう。異人語に通じて異人の文化を知った以上、そして祖国がそのために困難におちいっている以上、彼らはその人間個性を通じて、それぞれの方面に分化し、それぞれに実践しなければならなかったのである。
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(朗読:RealMedia 形式 340KB、2'45'')
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[[週刊ミルクティー*第50号>http://www.dl-market.com/product_info.php?products_id=33189]] ※ ダウンロードサイトへジャンプします。
(872KB)
徳永 直 とくなが すなお
1899-1958(明治32.1.20-昭和33.2.15)
熊本県飽託郡花園村(現熊本市)生まれ。1922年上京、博文館印刷所(後の共同印刷所)に植字工として勤務。1925年に「無産者の恋」「馬」などを発表。翌年共同印刷争議に敗れ、同僚1700人とともに解雇される。1929年この時の体験を基にした長編「太陽のない街」を『戦旗』に連載。1958年『新日本文学』に長編「一つの歴史」を完結させないまま世田谷の自宅で病没した。享年59。
◇参照:Wikipedia。
*底本
http://d.hatena.ne.jp/HikariwokakaguruHitobito/
底本:『光をかかぐる人々』河出書房
1943(昭和18)年11月20日発行
NDC 分類:210 914
*訂正と正誤
(三)より、以下の訂正をほどこしました。
(一)(二)は、訂正をほどこしていません。
uakira「徳永直『光をかかぐる人々』入力中」より
http://d.hatena.ne.jp/HikariwokakaguruHitobito/
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京都府立図書館所蔵の徳永直『光をかかぐる人々』第二版に付属する「訂正と正誤」の複写。
5番目は、「プロムホフ」を「ブロムホフ」に変更するのではなく、「プロムホム」を「ブロムホフ」に変更するのだらう。
16番目は、「以下同じ」の扱いとする。
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(以下、画像をテキスト入力)
六頁一行目 「狩能派の繪」—を「狩野派の繪」
一六頁四行目「バビロア國」—を「書ヱ憂」(以下同じ)
七〇頁九行目「杉田玄瑞」—を「杉田玄端」
一〇八頁十行目「年々月々」—を「年々歳々」
一二四頁五行目「プロムホフ」—を「ブロムホフ」
一二八頁一行目「寺崎志齋」を—「寺田志齋」
一六六頁九行目「春波樓日記」—を「春波樓筆記」
一六七頁十一行目「フオンクルーステン」—を「フオン・クルーゼンステルン」(以下同じ)
一八一頁十二行目「一七九八年、わが寛政十年には」—を「一八一一年、わ
が文化八年には」
一八二頁一行目「一八二四年、わが文政七年には」—を「一八一九年、わが
文政二年には」
一八五頁六行目「ヤンキー漁夫たち」—を「アメリカ漁夫たち」
一八六頁六行目及び一八七頁二行目「六七隻」—を「六、七隻」
一八八頁一行目「薩摩海岸でも」—を「薩摩領寳島でも」
一九二頁十行目「パレムバン」—を「バレムバン」(以下同じ)
二一三頁七行目「攝氏三千度」—を「攝氏千三百度」
二二四頁八行目「ピツドル」—を「ビツドル」
二五〇頁十行目「パルラダ」—を「デイヤナ」
二六三頁五行目「満ツ川」—「溝《どぶ》ツ川」(以下同じ)
三〇七頁三行目「『デイヤナ號』以下三隻の軍艦と兵員を捕獲」—を「『デイ
ヤナ號』および乘組の兵員を捕獲」
三四〇頁十二行目「澁谷の土佐藩士傳氏といふ人」—を「土佐藩士澁谷傳氏
といふ人」
三四二頁十一行目「仙臺藩主伊達侯」—を「宇和島藩主伊達侯」
2009.7.11:公開
目くそ鼻くそ/PoorBook G3'99
翻訳・朗読・転載は自由です。
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*2009.7.4 No.50
徳永直『光をかかぐる人々』(三)
|COLOR(red):定価:200円(税込)| p.337 / *99 出版|
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(231項目)p.1088
活字と船 一/二/三/四/五
開港をめぐって 一/二/三/四
※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。
※ JIS X 0213・ttz 形式。
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※ テキストおよび底本画像は、
徳永直『光をかかぐる人々』入力中(http://d.hatena.ne.jp/HikariwokakaguruHitobito/)(uakira)にて公開中です。
(c) Copyright is public domain.
まったく下田詰合二人では無理であろう。蘭語に通じた学者や侍は、当時日本全国では少なくなかったろうが、通弁となればまた別で、加えて通詞というのは一種の職人として扱われていたから、前文中にも見えるとおり、長崎奉行の支配を受けねばならず、たとい蘭語がしゃべれる学者や侍でも、進んで通詞になろうとはしなかったろう。おまけに長崎通詞は蘭語が主であるが、条約を結んだ相手は米、露などであって、三月一日に下田奉行が川路あてにうったえた書簡に、「ただいま同所に罷在(まかりおり)候アメリカ人どもは、蘭語を心得候もの無之、当方通詞ども儀も、アメリカ語は昨年来自分心得にてはしばし聖か(いささか?)相覚申候得ども、込み入り候儀に至り候ては何分通じ兼ね——」というしだいであった。(略)
まったく長崎通詞は、「長崎の通詞」であることができなくなったばかりでなく、「オランダ語の通詞」であることさえできなくなりつつあった。日本全国の港々の通詞でなければならず、蘭語はもちろん、英語、露語、仏語の通詞でなければならなくなっていた。そしてもっと重大なことは、いま一つ彼ら通詞が、単に通弁であることだけでとどまっていられなくなったことであろう。異人語に通じて異人の文化を知った以上、そして祖国がそのために困難におちいっている以上、彼らはその人間個性を通じて、それぞれの方面に分化し、それぞれに実践しなければならなかったのである。
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(朗読:RealMedia 形式 340KB、2'45'')
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[[週刊ミルクティー*第50号>http://www.dl-market.com/product_info.php?products_id=33189]] ※ ダウンロードサイトへジャンプします。
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徳永 直 とくなが すなお
1899-1958(明治32.1.20-昭和33.2.15)
熊本県飽託郡花園村(現熊本市)生まれ。1922年上京、博文館印刷所(後の共同印刷所)に植字工として勤務。1925年に「無産者の恋」「馬」などを発表。翌年共同印刷争議に敗れ、同僚1700人とともに解雇される。1929年この時の体験を基にした長編「太陽のない街」を『戦旗』に連載。1958年『新日本文学』に長編「一つの歴史」を完結させないまま世田谷の自宅で病没した。享年59。
◇参照:Wikipedia。
*底本
http://d.hatena.ne.jp/HikariwokakaguruHitobito/
底本:『光をかかぐる人々』河出書房
1943(昭和18)年11月20日発行
NDC 分類:210 914
*登場キャラ一覧
|マルコ・ポーロ|Marco Polo|1254-|1324|イタリアの商人・旅行家。ヴェネツィアの人。|
|グウテンベルグ|Johannes Gutenberg|1400頃-|1468|グーテンベルク。ドイツ。|
|レンブラント|Rembrandt Harmenszoon van Rijn|1606-|1669|銅版術。オランダの画家。|
|エンゲベルト・ケムペル|Engelbert Kaempfer|1651-|1716|エンゲルベルト・ケンペルか。出島の商館長。外科医・博物学者。|
|ピョートル大帝|Petr Alekseevich|1672-|1725|(1世)ロシア皇帝。1682年即位。|
|アダム・ラクスマン||1766-|1806?|ロシアの遣日使節。|
|レザノフ|Nikolai Petrovich Rezanov|1764-|1807|江戸後期に来日したロシア使節。|
|司馬江漢|しば こうかん|1747-|1818|洋風画家。|
|高田屋嘉兵衛|たかたや かへえ|1769-|1827|江戸後期の海運業者。淡路の人。|
|松平定信|まつだいら さだのぶ|1758-|1829|幕府老中。三卿の田安宗武の子。奥州白河の藩主。|
|水野忠邦|みずの ただくに|1794-|1851|幕府老中。唐津藩主忠光の子。|
|将軍家慶|いえよし|1793-|1853|徳川第12代将軍(在職1837-1853)。家斉の次男。|
|江川太郎左衛門|えがわ たろうざえもん|1801-|1855|伊豆韮山。砲術家・民政家。|
|藤田東湖|ふじた とうこ|1806-|1855|幕末の儒学者。幽谷の子。水戸藩士。|
|遠山金四郎|とおやま きんしろう|?-|1855|目付。江戸町奉行。|
|阿部正弘|あべ まさひろ|1819-|1857|備後福山藩第7代藩主。江戸幕府老中首座。|
|ペリー||1794-|1858|アメリカ海軍の軍人。|
|戸田氏栄|とだ うじよし|1799-|1858|幕臣。旗本。浦賀奉行|
|島津斉彬|しまづ なりあきら|1809-|1858|薩摩藩主。斉興の子。|
|井戸覚弘|いど さとひろ|?-|1858|幕臣。ペリーと応接、神奈川条約の調印・批准にあたった。(幕末維新人名)|
|筒井政憲|つつい まさのり|1778-|1859|旗本、行政官。長崎奉行、南町奉行、大目付。|
|林復斎|はやし ふくさい|1801-|1859|儒学者、外交官。幕府朱子学者林家当主。|
|吉田松陰|よしだ しょういん|1830-|1859|幕末の志士。長州藩士。|
|徳川斉昭|とくがわ なりあき|1800-|1860|常陸水戸藩の第9代藩主。慶喜の実父。|
|吉田東洋|よしだ とうよう|1816-|1862|幕末の高知藩士。勤王党員に暗殺される。|
|箕作阮甫|みつくり げんぽ|1799-|1863|蘭学者。津山藩医。幕府天文方の翻訳掛(蕃書和解御用)。蕃書調所教授。|
|シーボルト|Philipp Franz von Siebold|1796-|1866|ドイツの医学者・博物学者。|
|高島秋帆|たかしま しゅうはん|1798-|1866|兵学者。日本近代砲術の祖。長崎の町年寄兼鉄砲方。|
|ファラデー|Michael Faraday|1791-|1867|イギリスの化学者・物理学者。主著「電気学の実験的研究」。|
|川路聖謨|かわじ としあきら|1801-|1868|旗本。豊後。佐渡奉行・勘定奉行・外国奉行。|
|本木昌造|もとき しょうぞう|1824-|1875|長崎生まれ。|
|木戸孝允|きど たかよし|1833-|1877|政治家。長州藩士。初め桂小五郎。|
|村垣範正|むらがき のりまさ|1813-|1880|幕末の幕府外国奉行。淡路守。1860年(万延1)遣米使節の副使。|
|プーチャチン|Evfimii Vasil'evich Putyatin|1804-|1883|プチャーチン。遣日使節。ロシアの提督。|
|五代友厚|ごだい ともあつ|1835-|1885|明治初期の実業家。薩摩藩士。|
|ゴンチャロフ|Ivan A. Goncharov|1812-|1891|ゴンチャローフ。ロシア遣日使節の秘書。著『日本渡航記』。|
|堀達之助|ほり たつのすけ|1823-|1894|蕃書調所教授。オランダ通詞のち英学者。長崎生まれ。|
|勝海舟|かつ かいしゅう|1823-|1899|江戸生れ。|
|福地源一郎|ふくち げんいちろう|1841-|1906|幕臣、明治時代のジャーナリスト、作家。は桜痴。|
|ポンペ・ファン・メルデルフォールト|Pompe van Meerdervoort|1829-|1908|オランダの軍医。|
|大槻如電|おおつき にょでん|1845-|1931|学者。江戸生まれ。弟は文彦。|
|呉秀三|くれ しゅうぞう|1865-|1932|精神病学者。広島出身。東大教授。|
|徳富蘇峰|とくとみ そほう|1863-|1957|ジャーナリスト・著作家。名は猪一郎。肥後生れ。蘆花の兄。|
|井上満|いのうえ みつる|1900-|1959|ロシア文学者、翻訳家。福岡県久留米市生まれ。|
|木村嘉平||1823-|?|江戸神田小柳町に住む。代々彫刻師。|
||||||
|阿部伊勢守|→ 阿部正弘。||||
|吉田寅次郎|→ 吉田松陰||||
|龍太|→ 志筑龍太か||||
|勝麟太郎|→ 勝海舟||||
|水野越前守|→ 水野忠邦|||閣老。|
|村垣|→ 村垣範正か。||||
|水戸斉昭|→ 徳川斉昭||||
|桂小五郎|かつら こごろう|||木戸孝允。|
|志筑龍太|しつき|||大通詞。|
|本木縫|ぬい、か?|||昌造の妻。昌左衛門の実子。|
|松平楽翁|まつだいら らくおう|||松平定信か。|
|S子爵||||麻布二之橋のちかく。S文庫。|
|アーダムス||||アメリカ軍艦参謀。|
|インデルモウル||||オランダ人。活版技師。|
|カスタルジー||||イタリアの木活字の創造者。|
|スパンベルグ||||ロシア海軍中佐。|
|ビツドル||||海軍代将。アメリカ東インド艦隊司令長官。|
|フラウレンス・ヤンコ・コステル||||オランダの活字発明者。|
|ポートマン||||ペリーの通訳官。|
|ポシェット君|||||
|亜欧堂田善|||||
|井戸対馬||||井戸覚弘か。町奉行。|
|塩田幸八|||||
|岩瀬弥七郎||||伝習係通訳。|
|古賀十二郎||||著『長崎と海外文化』。|
|戸田伊豆守||||戸田氏栄か。浦賀奉行。|
|荒尾岩見守||||長崎奉行。|
|黒川嘉兵衛||||浦賀奉行組頭。|
|三谷幸吉|||||
|志筑辰一郎|||||
|寺田志斎||||土佐藩家来。|
|小西清七郎||||東京菊坂町書店主。|
|松平美作守|||||
|森山栄之助||||多吉郎。大通詞。外国通弁頭取。次席大通詞過人。|
|西吉兵衛||||通詞。西家十一世。|
|川路左衛門尉||||川路聖謨か。|
|早稲田米次郎||||長崎古道具店主。|
|増永文治|||||
|大井三郎助||||海防係の一人で、幕府直参。|
|中村為弥||||ロシア応接係の一人、勘定組頭。|
|田保橋潔||||著『幕末外国関係史』。|
|筒井肥前守||||海防係。筒井政憲か。|
|楢林栄七郎||||小通詞助。|
|楢林定一郎|||||
|楢林量一郎||||小通詞。|
|品川藤兵衛|||||
|福島恵次郎||||長崎共益館書店主。|
|平山謙次郎||||下田取締り配下。|
|北村此助|||||
|本木小太郎||||昌造と縫の長男。|
|本木庄太夫||||初代。長崎に移住。諱を栄久。のち良意|
|本木昌左衛門||||本木家五世。庄左衛門の実子。昌造の養父。|
|名村五八郎|||||
|立石得十郎|||||
|林大学頭||||主席。林復斎か|
*訂正と正誤
(三)より、以下の訂正をほどこしました。
(一)(二)は、訂正をほどこしていません。
uakira「徳永直『光をかかぐる人々』入力中」より
http://d.hatena.ne.jp/HikariwokakaguruHitobito/
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京都府立図書館所蔵の徳永直『光をかかぐる人々』第二版に付属する「訂正と正誤」の複写。
5番目は、「プロムホフ」を「ブロムホフ」に変更するのではなく、「プロムホム」を「ブロムホフ」に変更するのだらう。
16番目は、「以下同じ」の扱いとする。
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(以下、画像をテキスト入力)
六頁一行目 「狩能派の繪」—を「狩野派の繪」
一六頁四行目「バビロア國」—を「書ヱ憂」(以下同じ)
七〇頁九行目「杉田玄瑞」—を「杉田玄端」
一〇八頁十行目「年々月々」—を「年々歳々」
一二四頁五行目「プロムホフ」—を「ブロムホフ」
一二八頁一行目「寺崎志齋」を—「寺田志齋」
一六六頁九行目「春波樓日記」—を「春波樓筆記」
一六七頁十一行目「フオンクルーステン」—を「フオン・クルーゼンステルン」(以下同じ)
一八一頁十二行目「一七九八年、わが寛政十年には」—を「一八一一年、わ
が文化八年には」
一八二頁一行目「一八二四年、わが文政七年には」—を「一八一九年、わが
文政二年には」
一八五頁六行目「ヤンキー漁夫たち」—を「アメリカ漁夫たち」
一八六頁六行目及び一八七頁二行目「六七隻」—を「六、七隻」
一八八頁一行目「薩摩海岸でも」—を「薩摩領寳島でも」
一九二頁十行目「パレムバン」—を「バレムバン」(以下同じ)
二一三頁七行目「攝氏三千度」—を「攝氏千三百度」
二二四頁八行目「ピツドル」—を「ビツドル」
二五〇頁十行目「パルラダ」—を「デイヤナ」
二六三頁五行目「満ツ川」—「溝《どぶ》ツ川」(以下同じ)
三〇七頁三行目「『デイヤナ號』以下三隻の軍艦と兵員を捕獲」—を「『デイ
ヤナ號』および乘組の兵員を捕獲」
三四〇頁十二行目「澁谷の土佐藩士傳氏といふ人」—を「土佐藩士澁谷傳氏
といふ人」
三四二頁十一行目「仙臺藩主伊達侯」—を「宇和島藩主伊達侯」
2009.7.11:公開
2009.7.14:更新
目くそ鼻くそ/PoorBook G3'99
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