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*2009.4.25 No.40 折口信夫 歌の話(三) 一九〜二六 折口信夫 花の話 |COLOR(red):月末最終号:無料| p.232 / *99 出版| 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(154項目)p.673 花の話 (略)桜は暗示のためにおもんぜられた。一年の生産の前触れとしておもんぜられたのである。花が散ると、前兆が悪いものとして、桜の花でも早く散ってくれるのを迷惑とした。その心持ちが、だんだん変化していって、桜の花が散らないことを欲する努力になってゆくのである。桜の花の散るのが惜しまれたのはそのためである。(略)  平安朝の初めから著しくなってくるものに、花鎮めの祭りがある。鎮花祭は、近世の念仏踊り・念仏宗の源となり、田楽にも影響をおよぼしている。  鎮花祭の歌詞は今も残っているが、田歌であって、こういう語で終わっている。  やすらへ。花や。やすらへ。花や。  普通は「やすらひ花や」としている。「やすらへ」は「やすらふ」の命令法であって、グズグズすることである。グズグズして、ちょっと待っていてくれという意味である。だから、この鎮花祭を「やすらい祭り」というのである。(略)  私が、ツツジの花を竿の先につけて外に出す習慣のおこなわれている四月八日の、てんとうばな(天道花)の由来を書いた時に、柳田先生は、この時に女の山ごもりの習慣があって、この女たちが山から帰ってくる際に、ツツジの花を持ってくるが、これと関係があることを指摘された。  女の物忌みとして、田を植える五月処女(さうとめ)を選定する行事は、卯月のなかごろのある一日に「山ごもり」としておこなわれる。そうして、山からおりる時には、ツツジの花をかざしてくる。山ごもりは、処女が一日山にこもって、ある資格を得てくるのが本義である。  この山ごもりの帰りに、処女たちは、山のツツジを、頭にかざしてくる。これが田の神に奉仕する女だという徴である。そしてここからまた厳重な物忌みの生活がはじまるのである。このかざしの花は、家の神棚にそなえることもあり、田に立てることにもなった。これが一種の成り物の前兆になるのである。 #ref(40.rm) (朗読:RealMedia 形式 444KB、3'35'') #ref(http://www.dl-market.com/images/uploader/620/40-1.gif) #ref(40-2.gif) [[週刊ミルクティー*第40号>http://www33.atwiki.jp/asterisk99?cmd=upload&act=open&pageid=110&file=milk_tea_40.zip]] ※ ダウンロードを開始します。 (728KB) *2009.4.18 No.39 折口信夫 歌の話(二) 一〇〜一八 |COLOR(red):定価:200円(税込)| p.129 / *99 出版| 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(62項目)p.354  この頃の先輩に、名高い西行法師という人があります。御存じのとおり、世捨て人として一風変わった、静かな、さびしい歌を作ったといわれています。そしてこの人の歌が、『新古今集』の歌の風に、非常な影響をあたえたとも見られています。(略)    吉野山。櫻の枝に雪散りて、花おそげなる年にもあるかな (略)——吉野山よ。その吉野山の桜の木の枝に、見ていると、雪がちらちら降りかかっていて、これでは、花がいつ咲きそうにも思われない。今年は、花の咲くことの晩くおもわれる年よ、 (略)同じ『新古今集』に、藤原良経という人があって、摂政太政大臣にまでなった人ですが、よほどの歌よみでありました。  うちしめり、あやめぞかをる。ほとゝぎす鳴くやさつきの雨の夕ぐれ (略)——五月の雨の降っている夕ぐれのことです。どこからともなく、あやめの咲いた花のかおりがしてきます。それが、かおりがするというほどでなく、なんとなく感じられるという程度に匂ってくるのです。それを雨のために、匂いがやわらげられて、ほとんど、あるかないかのように、しんみりとしたふうに香ってくる…… #ref(39.rm) (朗読:RealMedia 形式 288KB、2'18'') #ref(http://www.dl-market.com/images/uploader/620/39-1.gif) #ref(39-2.gif) [[週刊ミルクティー*第39号>http://www.dl-market.com/product_info.php?products_id=28745]] ※ ダウンロードサイトへジャンプします。 (524KB) *2009.4.11 No.38 折口信夫 歌の話(一) 一〜九 |COLOR(red):定価:200円(税込)| p.135 / *99 出版| 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(38項目)p.252  神武天皇が、大和の国のたかさじ野というところで、のちに皇后様になられた、いすけより媛というお方に、初めてお会いなされた時、お伴のおおくめの命が、天皇様の代理で、お媛さまのところへ歩み寄って、ものをいいに行くと、いすけより媛は、おおくめの命の目のさいてあるのに気がつかれて、歌をうたいかけられました。目をさくとは、眦(めじり)を、刺のようなもので割いて、墨を入れて、黥(いれずみ)をすることをいう、古い言葉であります。その文句は、昔の大学者たちも、わからないと申している、むつかしいもので、これから先、あなた方のうちから、説明してくださる人が、出てくるかもしれません。 あめつゝちとりましとゝ 何故(など) 黥ける 利目 ——お前の目は、なぜそんなに黥がしてあるのか。 という以上に、確かな説明のできた人がないのです。  これに対して、おおくめの命は答えました。 をとめに たゞにあはむと わが黥ける 利目 ——あなたのような美しい、若いお媛さまに会うために、私が黥をしておいた、この眦の黥です。  なんのために、黥することが、そうした目的にかなうのかわからないが、歌の意味はともかく、そうに違いありません。 #ref(38.rm) (朗読:RealMedia 形式 280KB、2'14'') #ref(http://www.dl-market.com/images/uploader/620/38-1.gif) #ref(38-2.gif) [[週刊ミルクティー*第38号>http://www.dl-market.com/product_info.php?products_id=28331]] ※ ダウンロードサイトへ ジャンプします。 (576KB) *底本 折口信夫 歌の話 底本:『歌・俳句・諺』日本児童文庫 復刻版、名著普及会    1982(昭和57)年10月20日発行 親本:『歌・俳句・諺』日本児童文庫、アルス    1930(昭和5)年1月10日発行 NDC 分類:K911 折口信夫 花の話 底本:「折口信夫全集 2」中央公論社    1995(平成7)年3月10日初版発行 NDC 分類:170 386 472 622 折口信夫 おりくち しのぶ 1887-1953(明治20.2.11-昭和28.9.3) 大阪府西成郡木津村(現在の大阪市浪速区)生まれ。民俗学、国文学、国学の研究者。釈迢空と号して詩歌もよくした。1913年12月、「三郷巷談」を柳田國男主催の『郷土研究』に発表し、以後、柳田の知遇を得る。柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた。 ◇参照:Wikipedia。 *人物一覧 高浜虚子 たかはま きょし 1874-1959  愛媛県松山市生まれ。明治〜昭和期の俳人、小説家。ホトトギスの理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱。伊予尋常中学に入学、河東碧梧桐と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わる。 柳田国男 やなぎた くにお 1875-1962 民俗学者。兵庫県神東郡田原村生まれ。岩手県遠野や宮崎県椎葉への旅の後、郷土会をはじめ、雑誌「郷土研究」を創刊。 皇極天皇 こうぎょく てんのう 594-661 第35代天皇。重祚して第37代 斉明天皇となる。 高市黒人 たけちの くろひと ?-? 万葉歌人。持統・文武両朝の従駕の歌や旅の歌をのこす。格調の高い印象鮮明な自然詠は赤人の先駆をなす。 山部赤人 やまべの あかひと ?-? 奈良時代の歌人。三十六歌仙の一人。姓は宿禰。『古今和歌集』の仮名序において、柿本人麻呂とともに歌聖と呼ばれ称えられている。 柿本人麿 かきのもとの ひとまろ 660頃-720頃 飛鳥時代の歌人。三十六歌仙の一人。後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。また平安時代からは「人丸」と表記されることがおおい。 持統天皇 じとう てんのう 645-703 第41代天皇。女帝。天智天皇の娘。父の同母弟である大海人皇子(のちの天武天皇)の正妃。 スサノオの尊 『日本書紀』では素盞嗚尊、素戔嗚尊、『古事記』では建速須佐之男命、須佐乃袁尊などと表記する。『記』によれば、神産みにおいてイザナギが黄泉の国から戻って禊を行った際、鼻をすすいだ時に産まれたとする。『紀』ではイザナギとイザナミの間に産まれたとしている。 神武天皇 じんむ てんのう 日本の伝説的な初代天皇。実在の人物ではないとするのが一般的。 いすけより媛(ひめ)  おおくめの命 みこと 大久米命。久米氏の祖といわれる伝説上の人物。神武朝の人といい、「古事記」によれば、神武東征の際、大伴氏の祖の道臣命とともに大和の宇陀の兄宇迦斯(えうかし)などを殺す。「紀」では畝傍山の西の川地を賜わったとあり、「記」と相違する。 ヤマトタケルの尊 みこと 景行天皇の皇子で、仲哀天皇の父とされる人物。日本神話では英雄として登場する。4世紀から 6、7世紀頃の複数の大和の英雄を具現化した架空の人物(津田左右吉説)という見方もある。 仁徳天皇 にんとく てんのう 応神天皇の第4皇子。実在の人物かどうかについては諸説ある。 吉備(きび)のくろ媛(ひめ) 醍醐天皇 だいご てんのう 885-930 平安時代の天皇。第60代。宇多天皇の第一皇子。父帝の訓示を受けて藤原時平・菅原道真を左右大臣とし、政務を任せる。その治世は34年の長きにわたり、摂関を置かず形式上の親政を行う。 紀貫之 きの つらゆき 866?-945 三十六歌仙の1人。紀友則は従兄弟にあたる。905年、醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集『古今和歌集』を紀友則、壬生忠岑、凡河内躬恒と共に編纂。著『土佐日記』。 在原業平 ありはらの/ありわらの なりひら 825-880 平安時代初期の貴族。従四位上・蔵人頭・右中将。歌人であり、六歌仙、三十六歌仙のひとり。また伊勢物語の主人公とみなされている。別称の在五中将は在原氏の五男で右近衛権中将であったことによる。 在原元方 ありはらの もとかた ?-? 平安時代の歌人。父は中古三十六歌仙の一人在原棟梁で、六歌仙・三十六歌仙の一人在原業平は祖父にあたる。元方は、平城天皇の孫である在原業平の孫(平城天皇の玄孫)にあたる。 正岡子規 まさおか しき 1867-1902 伊予国温泉郡藤原新町(現・愛媛県松山市)生まれ。俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆など多方面に渡り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした。死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。享年34。 西行 さいぎょう 1118-1190 僧侶・歌人。 父左衛門尉佐藤康清、母源清経女。俗名佐藤義清。新古今集に九十四首(入撰数第一位)、二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』『山家心中集』『聞書集』、その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者に擬せられている。 後鳥羽上皇 ごとば じょうこう 1180-1239 平安末期から鎌倉初期の第82代天皇。高倉天皇の第四皇子、安徳天皇の異母弟。後白河法皇の孫。承久の乱を起こしたが、幕府の大軍に完敗。隠岐島に配流された。 前大納言忠良 さきの だいなごん ただよし 藤原良経 ふじはら よしつね 九条良経か。1169-1206 公卿。後京極 良経とも呼ばれる。父は九条兼実。母は藤原季行女。妻は源頼朝の姪である一条能保の娘。子に九条道家、順徳天皇の中宮九条立子。土御門天皇の摂政、従一位、太政大臣となるが、寝所で何者かによって殺害された。享年38。 蓮月 れんげつ → 太田垣蓮月 太田垣蓮月 おおたがき れんげつ 1791-1875 尼僧、歌人、陶芸家。京都の生まれ。津藩主藤堂家の分家藤堂の庶子。京都知恩院の寺侍大田垣光古の養女。和歌を千種有功・上田秋成に学ぶ。歌集『海人の刈藻』『蓮月歌集』。勤王の士との交遊もある。享年85。(『日本女性』) 伏見天皇 ふしみ てんのう 1265-1317 第92代天皇。後深草天皇の第二皇子。1287年、後宇多天皇の譲位により即位。これ以後、大覚寺統と持明院統が交代で天皇を出す時代がしばらく続くことになる。 永福門院 えいふくもんいん 1271-1342 西園寺 ?子(しょうし)。伏見天皇の中宮。西園寺実兼の長女。伏見院と共に京極為兼に和歌を学んだ。歌風はその根底に貴族性を保ちつつ、為兼から継承した写実的感覚をも備えて昇華させており、京極派最高の歌人の一人。 ◇参照:Wikipedia、『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)、『日本女性人名辞典』(日本図書センター、1993.6.) 公開:2009.4.13 更新:2009.4.28 目くそ鼻くそ/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ:&counter() ---- #comment
*2009.4.25 No.40 折口信夫 歌の話(三) 一九〜二六 折口信夫 花の話 |COLOR(red):月末最終号:無料| p.232 / *99 出版| 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(154項目)p.673 花の話 (略)桜は暗示のためにおもんぜられた。一年の生産の前触れとしておもんぜられたのである。花が散ると、前兆が悪いものとして、桜の花でも早く散ってくれるのを迷惑とした。その心持ちが、だんだん変化していって、桜の花が散らないことを欲する努力になってゆくのである。桜の花の散るのが惜しまれたのはそのためである。(略)  平安朝の初めから著しくなってくるものに、花鎮めの祭りがある。鎮花祭は、近世の念仏踊り・念仏宗の源となり、田楽にも影響をおよぼしている。  鎮花祭の歌詞は今も残っているが、田歌であって、こういう語で終わっている。  やすらへ。花や。やすらへ。花や。  普通は「やすらひ花や」としている。「やすらへ」は「やすらふ」の命令法であって、グズグズすることである。グズグズして、ちょっと待っていてくれという意味である。だから、この鎮花祭を「やすらい祭り」というのである。(略)  私が、ツツジの花を竿の先につけて外に出す習慣のおこなわれている四月八日の、てんとうばな(天道花)の由来を書いた時に、柳田先生は、この時に女の山ごもりの習慣があって、この女たちが山から帰ってくる際に、ツツジの花を持ってくるが、これと関係があることを指摘された。  女の物忌みとして、田を植える五月処女(さうとめ)を選定する行事は、卯月のなかごろのある一日に「山ごもり」としておこなわれる。そうして、山からおりる時には、ツツジの花をかざしてくる。山ごもりは、処女が一日山にこもって、ある資格を得てくるのが本義である。  この山ごもりの帰りに、処女たちは、山のツツジを、頭にかざしてくる。これが田の神に奉仕する女だという徴である。そしてここからまた厳重な物忌みの生活がはじまるのである。このかざしの花は、家の神棚にそなえることもあり、田に立てることにもなった。これが一種の成り物の前兆になるのである。 #ref(40.rm) (朗読:RealMedia 形式 444KB、3'35'') #ref(http://www.dl-market.com/images/uploader/620/40-1.gif) #ref(40-2.gif) [[週刊ミルクティー*第40号>http://www33.atwiki.jp/asterisk99?cmd=upload&act=open&pageid=110&file=milk_tea_40.zip]] ※ ダウンロードを開始します。 (728KB) *2009.4.18 No.39 折口信夫 歌の話(二) 一〇〜一八 |COLOR(red):定価:200円(税込)| p.129 / *99 出版| 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(62項目)p.354  この頃の先輩に、名高い西行法師という人があります。御存じのとおり、世捨て人として一風変わった、静かな、さびしい歌を作ったといわれています。そしてこの人の歌が、『新古今集』の歌の風に、非常な影響をあたえたとも見られています。(略)    吉野山。櫻の枝に雪散りて、花おそげなる年にもあるかな (略)——吉野山よ。その吉野山の桜の木の枝に、見ていると、雪がちらちら降りかかっていて、これでは、花がいつ咲きそうにも思われない。今年は、花の咲くことの晩くおもわれる年よ、 (略)同じ『新古今集』に、藤原良経という人があって、摂政太政大臣にまでなった人ですが、よほどの歌よみでありました。  うちしめり、あやめぞかをる。ほとゝぎす鳴くやさつきの雨の夕ぐれ (略)——五月の雨の降っている夕ぐれのことです。どこからともなく、あやめの咲いた花のかおりがしてきます。それが、かおりがするというほどでなく、なんとなく感じられるという程度に匂ってくるのです。それを雨のために、匂いがやわらげられて、ほとんど、あるかないかのように、しんみりとしたふうに香ってくる…… #ref(39.rm) (朗読:RealMedia 形式 288KB、2'18'') #ref(http://www.dl-market.com/images/uploader/620/39-1.gif) #ref(39-2.gif) [[週刊ミルクティー*第39号>http://www.dl-market.com/product_info.php?products_id=28745]] ※ ダウンロードサイトへジャンプします。 (524KB) *2009.4.11 No.38 折口信夫 歌の話(一) 一〜九 |COLOR(red):定価:200円(税込)| p.135 / *99 出版| 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(38項目)p.252  神武天皇が、大和の国のたかさじ野というところで、のちに皇后様になられた、いすけより媛というお方に、初めてお会いなされた時、お伴のおおくめの命が、天皇様の代理で、お媛さまのところへ歩み寄って、ものをいいに行くと、いすけより媛は、おおくめの命の目のさいてあるのに気がつかれて、歌をうたいかけられました。目をさくとは、眦(めじり)を、刺のようなもので割いて、墨を入れて、黥(いれずみ)をすることをいう、古い言葉であります。その文句は、昔の大学者たちも、わからないと申している、むつかしいもので、これから先、あなた方のうちから、説明してくださる人が、出てくるかもしれません。 あめつゝちとりましとゝ 何故(など) 黥ける 利目 ——お前の目は、なぜそんなに黥がしてあるのか。 という以上に、確かな説明のできた人がないのです。  これに対して、おおくめの命は答えました。 をとめに たゞにあはむと わが黥ける 利目 ——あなたのような美しい、若いお媛さまに会うために、私が黥をしておいた、この眦の黥です。  なんのために、黥することが、そうした目的にかなうのかわからないが、歌の意味はともかく、そうに違いありません。 #ref(38.rm) (朗読:RealMedia 形式 280KB、2'14'') #ref(http://www.dl-market.com/images/uploader/620/38-1.gif) #ref(38-2.gif) [[週刊ミルクティー*第38号>http://www.dl-market.com/product_info.php?products_id=28331]] ※ ダウンロードサイトへ ジャンプします。 (576KB) *底本 折口信夫 歌の話 底本:『歌・俳句・諺』日本児童文庫 復刻版、名著普及会    1982(昭和57)年10月20日発行 親本:『歌・俳句・諺』日本児童文庫、アルス    1930(昭和5)年1月10日発行 NDC 分類:K911 折口信夫 花の話 底本:「折口信夫全集 2」中央公論社    1995(平成7)年3月10日初版発行 NDC 分類:170 386 472 622 折口信夫 おりくち しのぶ 1887-1953(明治20.2.11-昭和28.9.3) 大阪府西成郡木津村(現在の大阪市浪速区)生まれ。民俗学、国文学、国学の研究者。釈迢空と号して詩歌もよくした。1913年12月、「三郷巷談」を柳田國男主催の『郷土研究』に発表し、以後、柳田の知遇を得る。柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた。 ◇参照:Wikipedia。 *人物一覧 高浜虚子 たかはま きょし 1874-1959  愛媛県松山市生まれ。明治〜昭和期の俳人、小説家。ホトトギスの理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱。伊予尋常中学に入学、河東碧梧桐と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わる。 柳田国男 やなぎた くにお 1875-1962 民俗学者。兵庫県神東郡田原村生まれ。岩手県遠野や宮崎県椎葉への旅の後、郷土会をはじめ、雑誌「郷土研究」を創刊。 皇極天皇 こうぎょく てんのう 594-661 第35代天皇。重祚して第37代 斉明天皇となる。 高市黒人 たけちの くろひと ?-? 万葉歌人。持統・文武両朝の従駕の歌や旅の歌をのこす。格調の高い印象鮮明な自然詠は赤人の先駆をなす。 山部赤人 やまべの あかひと ?-? 奈良時代の歌人。三十六歌仙の一人。姓は宿禰。『古今和歌集』の仮名序において、柿本人麻呂とともに歌聖と呼ばれ称えられている。 柿本人麿 かきのもとの ひとまろ 660頃-720頃 飛鳥時代の歌人。三十六歌仙の一人。後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。また平安時代からは「人丸」と表記されることがおおい。 持統天皇 じとう てんのう 645-703 第41代天皇。女帝。天智天皇の娘。父の同母弟である大海人皇子(のちの天武天皇)の正妃。 スサノオの尊 『日本書紀』では素盞嗚尊、素戔嗚尊、『古事記』では建速須佐之男命、須佐乃袁尊などと表記する。『記』によれば、神産みにおいてイザナギが黄泉の国から戻って禊を行った際、鼻をすすいだ時に産まれたとする。『紀』ではイザナギとイザナミの間に産まれたとしている。 神武天皇 じんむ てんのう 日本の伝説的な初代天皇。実在の人物ではないとするのが一般的。 いすけより媛(ひめ)  おおくめの命 みこと 大久米命。久米氏の祖といわれる伝説上の人物。神武朝の人といい、「古事記」によれば、神武東征の際、大伴氏の祖の道臣命とともに大和の宇陀の兄宇迦斯(えうかし)などを殺す。「紀」では畝傍山の西の川地を賜わったとあり、「記」と相違する。 ヤマトタケルの尊 みこと 景行天皇の皇子で、仲哀天皇の父とされる人物。日本神話では英雄として登場する。4世紀から 6、7世紀頃の複数の大和の英雄を具現化した架空の人物(津田左右吉説)という見方もある。 仁徳天皇 にんとく てんのう 応神天皇の第4皇子。実在の人物かどうかについては諸説ある。 吉備(きび)のくろ媛(ひめ) 醍醐天皇 だいご てんのう 885-930 平安時代の天皇。第60代。宇多天皇の第一皇子。父帝の訓示を受けて藤原時平・菅原道真を左右大臣とし、政務を任せる。その治世は34年の長きにわたり、摂関を置かず形式上の親政を行う。 紀貫之 きの つらゆき 866?-945 三十六歌仙の1人。紀友則は従兄弟にあたる。905年、醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集『古今和歌集』を紀友則、壬生忠岑、凡河内躬恒と共に編纂。著『土佐日記』。 在原業平 ありはらの/ありわらの なりひら 825-880 平安時代初期の貴族。従四位上・蔵人頭・右中将。歌人であり、六歌仙、三十六歌仙のひとり。また伊勢物語の主人公とみなされている。別称の在五中将は在原氏の五男で右近衛権中将であったことによる。 在原元方 ありはらの もとかた ?-? 平安時代の歌人。父は中古三十六歌仙の一人在原棟梁で、六歌仙・三十六歌仙の一人在原業平は祖父にあたる。元方は、平城天皇の孫である在原業平の孫(平城天皇の玄孫)にあたる。 正岡子規 まさおか しき 1867-1902 伊予国温泉郡藤原新町(現・愛媛県松山市)生まれ。俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆など多方面に渡り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした。死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。享年34。 西行 さいぎょう 1118-1190 僧侶・歌人。 父左衛門尉佐藤康清、母源清経女。俗名佐藤義清。新古今集に九十四首(入撰数第一位)、二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』『山家心中集』『聞書集』、その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者に擬せられている。 後鳥羽上皇 ごとば じょうこう 1180-1239 平安末期から鎌倉初期の第82代天皇。高倉天皇の第四皇子、安徳天皇の異母弟。後白河法皇の孫。承久の乱を起こしたが、幕府の大軍に完敗。隠岐島に配流された。 前大納言忠良 さきの だいなごん ただよし 藤原良経 ふじはら よしつね 九条良経か。1169-1206 公卿。後京極 良経とも呼ばれる。父は九条兼実。母は藤原季行女。妻は源頼朝の姪である一条能保の娘。子に九条道家、順徳天皇の中宮九条立子。土御門天皇の摂政、従一位、太政大臣となるが、寝所で何者かによって殺害された。享年38。 蓮月 れんげつ → 太田垣蓮月 太田垣蓮月 おおたがき れんげつ 1791-1875 尼僧、歌人、陶芸家。京都の生まれ。津藩主藤堂家の分家藤堂の庶子。京都知恩院の寺侍大田垣光古の養女。和歌を千種有功・上田秋成に学ぶ。歌集『海人の刈藻』『蓮月歌集』。勤王の士との交遊もある。享年85。(『日本女性』) 伏見天皇 ふしみ てんのう 1265-1317 第92代天皇。後深草天皇の第二皇子。1287年、後宇多天皇の譲位により即位。これ以後、大覚寺統と持明院統が交代で天皇を出す時代がしばらく続くことになる。 永福門院 えいふくもんいん 1271-1342 西園寺 ?子(しょうし)。伏見天皇の中宮。西園寺実兼の長女。伏見院と共に京極為兼に和歌を学んだ。歌風はその根底に貴族性を保ちつつ、為兼から継承した写実的感覚をも備えて昇華させており、京極派最高の歌人の一人。 ◇参照:Wikipedia、『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)、『日本女性人名辞典』(日本図書センター、1993.6.) 公開:2009.4.13 更新:2009.4.28 目くそ鼻くそ/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ:&counter() ---- - No.40 の朗読中、「田歌《たうた》であって」のところを「田楽《でんがく》であって」と誤って読んでいたので、40.rm を訂正・再アップします。 -- しだ (2009-05-06 10:40:33) #comment

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